――――――――――――リッシュモンは焦り、そして怯えていた。
彼のその感情は先日、アルビオンで起こった変事に起因している。
レコン・キスタの崩壊後、事実上無数の諸侯領に分裂したアルビオン。
その報がようやく彼の耳に届いたのだ。
あれほど強大なガリア両用艦隊を殲滅した一方でレコン・キスタが崩壊するなど夢にも思っていなかった彼はその事実を知った時、彼は心から恐怖した。
実際のレコン・キスタの崩壊はガリア両用艦隊壊滅とほぼ同時であったのだが、明確にレコン・キスタが崩壊したことが確認されたのはガリア両用艦隊壊滅の数週間後――ヨーク公とランカスター伯の独立と対立が明確になってからだった。
彼の恐怖の源泉はその無数に分裂した諸侯達のうち、誰が彼の裏切り――レコン・キスタに組していたか――を知っているかがわからない、という点にあった。
もし、アルビオンで内戦が発生し、所領を失った者が庇護を求めてロサイス近辺で陣を構えているトリステイン軍に逃げ込みでもしたら――そして手土産代わりに彼の内通を告白でもしたのなら。
(……終わりだ)
そこに残るのは失脚などという生易しいものではない――ほぼ確実に反逆者として処刑されることになるだろう。
だからこそ、彼は先日の廟議でマザリーニと前財務卿達の示したアルビオン撤退に賛成したのだった。
そんな彼の恐怖はさらに高めていたのは、崩壊したレコン・キスタの中で重要な役割を果たしていたと思われるヴァリエール公爵の末娘の消息がわからないことだった。
領地持ちの諸侯ならその居場所と現状はおおむね把握することが出来る――しかし、アルビオンで領地を持たないヴァリエール公爵の末娘とその婚約者の行方を知ることは困難だったのだ。
トリステイン王国にとって純軍事的には彼女の存在は無視して構わない(未だにトリステインでは「魔法」の使えないルイズがどんな役割を果たしたかを知らなかった)ものだった。
しかし、彼にとっては違った。
ヴァリエール公爵の三女。
もし彼女がリッシュモンの内通を知っていれば――あるいは知る事となったなら――その事実をトリステインに伝え、彼を破滅の道に追いやるかもしれない。
なにしろ、彼は彼女の父であるヴァリエール公爵自身を失脚に追いやった張本人の一人でもあるからだ。
彼は決断した。
彼がこのトリステインで生き残るためには、この国で一番の権力者にならねばならない――少なくとも彼の家を潰す程の戦力を彼以外の諸侯閥に与えてはいけない。
彼が政治的に他者を圧倒出来る地位を手に入れたならば、たとえこの事実が明るみになったとしても少なくとも時間を稼ぐことは出来る。
リッシュモンは彼と彼に味方する諸侯の手勢が他の政治的ライバルよりも大きいのならば、最悪の場合軍事力でもみ潰してしまうことすら彼は考慮に入れていた――それは事実上の国家転覆に近いものであるが、政治的正統性さえ手に入れてしまえば不可能ではない。
何しろ、彼は一度国を売ったのだ。
もし権力を握ったのなら、彼が成り上がり者共の国と蔑むゲルマニアにこのトリステインを売りつけても良い。
たとえゲルマニアがそれに応じなかったとしても、あの拝金主義者どもがこのトリステインを貪っている間に逃げるための時間が稼げればそれで良い。
彼にとっては自らの暮らしと家系の維持と興隆こそが最も重要だった。
故に、まずは彼に比肩する政治的能力を持つ者達を潰す必要がある――彼が生き残るために。
まさに最悪の貴族的思考そのものだった。
そして、彼はその貴族的思考に沿って動き始めることにした。
―――ヴィリエ・ド・ロレーヌはトリスタニア郊外から貴族街に至る間の民家の傍らで寒さに震えていた。
雪がしとしとと降り積もる中、彼は廃屋の影に身を隠すようにしてただその時を待っている。
彼の周囲には誰もいない――いや、彼と同じくその時を待つ者たちは彼と同様に近くの廃屋の影に隠れ、この寒さを一人呪っている。
しかし、そんな寒さに凍える体とは対照的に彼の心は内心から湧き上がる怒りによってふつふつと煮えたぎっていた。
彼の怒りの元凶はマザリーニ枢機卿が取りまとめようとしている貴族制度の改定案だった。
改定案と言えば聞こえは良いが、実態はゲルマニア流の位階制度をそのままコピーしたようなものだ。
すなわち、『自由』という権利を求め始めた平民を慰撫するために、それまで禁じられていた平民の土地所有を解禁し、また一代限りとはいえ実際の政策立案・執行を行なう貴族への登用を可能にするという改定案であった。
いや、平民を永代貴族として取り入れるのでは無いあたり、制度立案者の苦悩が伺える(当初はさらに急進的な平民議会を作るという案もあった)ものであったと言える。
……伝統あるトリステイン貴族に平民風情を取り入れるだと!?
そんな改定案の内容を初めて聞かされた彼は激高した。
そんなことは彼のプライドが許せるものではない。
今まで自身よりも遥かに劣ると信じてきたあの連中が自分達と同等、もしくはそれ以上の地位に並ぶとでも言うのか?
トリステインでは貴族と平民との間には決して越えられない壁がある。
しかし、その改定案では永代貴族と一代貴族の差があるとはいえ、その壁を取り払うという。
彼の脳裏にかつて魔法学院で出会った蒼い髪の庶子の姿が蘇る。
――あの小娘は偽名で出自を隠さなくてはならない身でありながら、それまでトリステイン魔法学院一との評を受けていた自分に恥をかかせたのだ!
そんなことがブリミル以来の伝統を守り続けてきたこのトリステインで許されて良い筈もない。
ましてやそれよりも劣る平民風情が!
彼はそう信じていた――その“義憤”が単なる自身の“私憤”に過ぎないことに気付かずに。
「ふッ――!」
その怒りを原動力に、寒さに耐えるド・ロレーヌは息を吐いた。
彼の心に恐れはない。
そう、彼がこれから行うべき行為は“正しい”と信じていたから。
さらに付け加えるならば、彼は一人ではない――そのことを思い出して彼は自分の心を落ち着かせた。
ヴァリエール公爵領からの帰路にあの「鳥の骨」がこの道を使うと、直々に彼に教えてくれたのはトリステインの司法の長であるリッシュモン高等法院長だ。
つまり、自身の“義挙”は王国上層部にも支持されている。
成功の暁には大いに賞賛されることは間違いないだろう。
彼の唇の端が自然と吊り上がる。
そう、この“義挙”は6000年の長きに渡って維持されてきたトリステインの伝統を守る為であるのだ!
そう彼は自身の行動を結論付け、改めて納得したのだった。
――殿下にも困ったものだ。
そうマザリーニは一人ため息を吐いた。
その息に曇る車窓のガラスには真っ白な頭髪と顔に複数の深い皺を貼り付けた彼の顔が映っていた。
先王逝去以来、実質的な宰相としてトリステインの政治を担ってきたその激務が彼の姿を他人よりは20歳も老けさせてしまったと言われていた。
しかし、ここ半年で彼はそれまでの老け込みようをさらに倍するかのように老け込んでいた。
戦争、そして騒乱という王国で起こった様々な事件のストレスが今急速な勢いで彼の体を蝕んでいたのだ。
再び、ため息が車窓を曇らせる。
『王族たるものは、お心の平穏より、国の平穏を考えるものですぞ―――』
半年程前に王女に進言したことを思い出す。
その時、姫様は「わかっております」と答えた。
しかし、現状はどうだろうか?
後に明らかになった姫様の恋文の奪還失敗――あろうことか任を託した相手が裏切り者だったのだ――をはじめとして、あの激情に流されたとしか思えないアルビオン侵攻命令。
そして王都での『赤い虚無の日』とチェルノボーク監獄の襲撃。
特にチェルノボークの襲撃はもはや騒乱という段階を超えている――もはや革命と呼ぶべき出来事であった。
トリステインは貴族と平民という階級の間で完全なる対立状態に陥っていると見ていい。
それなのに姫様はどこか他人事のように聞き流している。
――トリステイン王国の存亡の危機だというのに!
あの御方は判っておられない。
そう彼が思うここ数日の間にも各地での平民達の不服従運動や一揆の知らせが入ってきていた。
それまで王都や地方都市を中心としていたそうした活動がついに農村――すなわちトリステイン全域――にまで拡大しつつあるのだ。
中には食料をごっそり溜め込んだ領主の館を占拠したり、警備の手薄な軍の補給所や輸送隊を襲って食料を奪い返すといった過激な事件の報告も数件含まれている。
言うまでも無く、そのきっかけはチェルノボーク監獄の襲撃であり、平民が貴族に「勝利した」という「事実」がそれまで不満はあっても躊躇していた平民達を動かせる原動力となったのだ。
だからこそマザリーニ自身は急きょ立案した貴族制度の改定案を、娘の不祥事を受けて隠居することになった――さらに王家に対する忠誠を示すために、という名目で領地の大幅縮減を強いられた――とはいえ、血縁というトリステインでは最も重視される資産を持つが故に、依然としてトリステインでは大きな政治力を誇るヴァリエール公爵の同意をしぶしぶながら取り付けたのだ。
マザリーニは彼がこの改定案についての賛同を得るために訪れたヴァリエール公爵邸で公爵の示した顔が忘れられない。
彼がチェルノボーク襲撃についての顛末を語った(謹慎隠居であるため、公爵は外界の情報と接することが困難であった)時、ヴァリエール公爵は思わず彼にこう尋ね返した。
「枢機卿――これは暴動ですか?」
その声には縋るような色がありありと浮かんでいた。
そんな公爵にマザリーニはこう答えた。
「いいえ公爵殿、これは暴動ではありません――『革命』です」
そう突きつけられたヴァリエール公爵は意気消沈したかのようにマザリーニの改定案について消極的ながら賛同することを約したのだった。
ヴァリエール公爵との会談の光景を思い出したマザリーニは再び現実へと意識を引き戻した。
この改革案が実施されれば、平民の反抗心をある程度抑えることが出来る。
しかし、逆を言えばトリステインが平民にしてやれることはその程度でしかないということでもあった。
戦争によって大量の出費を強いられたトリステインでは飢えた平民に施しをすることや、税を減免することすら侭ならないのだ。
平民に王政府が与えられるものは無形の名誉のみ――伝統的権威から発せられるそうしたモノの付与こそがトリステインに残された最後の政治的資源だったのだ。
……勿論、新しく貴族に登用された平民は常に他の貴族からのやっかみを受けるだろう。
それでも実際に実施されればトリステインの大きな壁が打ち破られる――平民の土地所有を初めとする各種権利の承認は反体制へと傾いた平民達にとって、王国に対する姿勢を再考させるものとしてくれるだろう。
いや、この方策は反体制の動きの下に結集しつつある平民達に対する切り崩しでもあった。
平民達の体制に対する不満を煽動する一部の者達とそれに乗せられている平民達――両者の間をこの改革によって切り離すことが目的だった。
マザリーニは信じていた。
そうすれば残った過激派を取り締まるだけで、きっと現在の混迷した情勢からは脱却できる筈だと。
あらゆる時代の偉大な政治家がそうであるように、彼は敗北が決定されるまで決して諦める気は無かった。
――そう、それがたとえ、それが僅かな希望に縋るようなものであったとしても。
そして、同時に彼は気付いていた――これ以外にトリステインの王政と伝統を守る方策がない、と。
皮肉なものだ、と彼は内心でひっそりと呟いた。
平民との混血であると噂された彼が、ハルケギニアで最も貴族の血統を重んじると言っても過言ではないトリステインの貴族制度に手をつける。
それは高名な貴族が“上から”発表するよりも、より平民達に受け入れやすいであろうし、貴族達の間でも内紛を招き辛いであろうと考えていた――それはつまり彼が貴族すべての敵になるということでもあるが。
まさか、「鳥の骨」と揶揄された渾名がこんなところで生きるとは。
彼は皮肉げな笑みを浮かべて自嘲する。
――勿論、彼は代々ロマリア宗教庁の要職を務める由緒正しき神官の家柄の出身だった。
「ゴホ、ゴホッ……!」
唐突にマザリーニは咳き込んだ。
慌てて口元を抑えた服の袖には赤黒い染みが残る。
――もう永くはない。
お付の水メイジの治療も最近は余り効果が無い。
おそらくあと1年も持たないだろう。
たった1年。
しかし、このトリステイン王国を守る為に絶対に必要な1年。
なればこそ、遣り甲斐があると言うものだ――私一人の命でこの国が救えるのなら。
そう思い直し、彼はうっすらと雪の積もる王都の見える車窓へと視線を向けた。
「――来た!」
ド・ロレーヌはそう小声で一人呟いた。
雪の中、馬車のガタゴトという振動音と馬のいななきが聞こえたのだ。
時間はリッシュモン高等法院長から告げられた刻限に近い。
……やって来る馬車の姿は――マザリーニの馬車なのか?
彼は反対側に潜むスティックスに合図を送り、視線を交わして目標が近づいていることを確認した。
雪の中をやってくる馬車の姿を彼は改めて確認する。
アンリエッタ王女の馬車と並ぶ、トリステインでは他に二つと無い立派な馬車。
――王女の馬車と違うところは、その大きな車体のあちこちが磨り減り、使い古されていることだけ。
(……間違いない、あれは枢機卿の馬車だ!)
そう確認した彼は改めて馬車が至近を通るまで身を潜め続ける。
同時に魔法の詠唱を行なって、いつでも放てるようにしておく。
あとは……あの売国奴を始祖から与えられた神聖なる風の刃で切り裂く、ただそれだけだった。
(まだか!?)
たった十数秒の時間がその何倍にも感じられる。
再び自らが潜む廃屋の片隅から馬車のやってくる方を覗いて確認する。
そんなことを数度も繰り返しただろうか――馬車がようやく自らの潜む廃屋の直傍に迫ったことを確認した彼は詠唱を完了していた魔法を放った。
放たれた魔法は『ウィンド・ブレイク』。
あらゆるものを吹き飛ばすとされるその魔法は彼の狙い通り、枢機卿のものと思われる馬車を直撃し、大きな馬車を横倒しに吹き飛ばした。
「ハッ――! やったぞ!」
眼前で横転し、大破した枢機卿の馬車を目にしたド・ロレーヌは思わずそう叫んだ。
感情の命ずるままにそれまでの待ち伏せで凍えきった体の血流が増し、赤くなった顔で彼はその光景を眺める。
暫くの間、その光景を満足そうに眺めていた彼は未だ自分が枢機卿の死を確認していないことに気付いていなかった――そんな彼の精神を現実に引き戻したのはもう一人の仲間であるペリッソンの声だった。
「……お、おい!? 本当に死んだのか? 確認したほうが良いんじゃないか?」
その声にド・ロレーヌは一瞬醒めた目をした後でゆっくりと頷いた。
彼の内心では馬車を破壊した達成感と万が一相手が生きていた場合の恐怖が混ざり合っていた。
いつでも魔法を放てるようにしたペリッソンと共にゆっくりと彼は横転した馬車に近づく。
最初に目に付いたのはやはり負傷して暴れる牽馬の姿だった。
足を折った馬は勿論、横転した馬車に索具がつながれたままのために幸運にも負傷していない馬までもが暴れている。
そのすぐ後ろ――馬車の最前部に乗っていた御者は彼の放った『ウィンド・ブレイク』の直撃を受けて投げ出されていた。
当然、彼は無傷で済む筈もなく、頸をあらぬ方向に折り曲げた形で倒れていた。
「――大丈夫だ、死んでる」
そうペリッソンが御者だった男の様子を確認して答える。
しかし、ド・ロレーヌは気が気ではなかった。
一歩、横転した馬車に近づくたびにあの時の恐怖が蘇る。
――それはかつて、魔法学院であの蒼い髪の庶子との決闘で覚えたあの感覚。
今まさに彼の下腹部についた器官は体にめり込まんとするほどに縮みあがっていた。
そんな彼の耳に横転した馬車の中から声が聞こえた。
「う――、ぁ――」
そのうめき声に傍らにいたペリッソン共々思わず背筋に電撃が走る。
彼らは横転した馬車の上に上り、砕けた扉の隙間から中を覗き込んだ。
そこには白い神官服に身を包んだ老人にしか見えない男が頭から血を流して倒れている――そう、トリステインでは知らぬものの無いマザリーニ枢機卿だった。
「――マ、マザリーニ枢機卿だな?」
彼は思わず確かめるように尋ねた。
そんな彼の言葉には内心の怯えが表れるかのように一種の震えが含まれている。
「ト、トリステインの伝統を壊そうとする奸賊め! 汚らわしき平民の血の混じった『鳥の骨』に始祖に代わってこのぼくが裁断を下そう!」
そう震えながら高らかに宣言するド・ロレーヌの声をマザリーニは遠のく意識と共に聞いていた。
ともすれば持っていかれそうになるその意識の中でマザリーニは彼を断罪する若い襲撃者の声を聞いた。
曰く、始祖以来6000年も続くトリステインの伝統を破壊しようとする罪。
曰く、平民の血の混じった存在でありながら『貴族』を僭称した罪。
そうした言葉を聞きながらマザリーニは目の前の少年貴族を哀れに思った。
愚かなことだ――目の前の少年は貴族の地位を守ることこそがこの国を守ることだと信じている。
確かに彼にとって血統による『貴族制』こそが彼の暮してきた世界であって、その世界を変えようとする存在である自分は世界の破壊者であるのだろう。
哀れな少年。
自分の経験からしか物事を判断できない存在。
彼は安逸に暮してきた社会の中で自身の矮小な自尊心を満たすためにこうした行動に走ったのだろう――彼の信じるあるべき姿の世界という幻想を守る為に。
そう、おそらく彼はこの無自覚な愚挙についてトリステインにとっての“義挙”であるとでも考えているのだろう。
愛国者というわけか。
マザリーニはそう意識の片隅で思った。
そう、彼は愛国者なのだろう――彼にとっての「国」とはマザリーニ自身が信じる「国」というものとは大きく異なっているとしても。
そして、自身が愛国者だと信じている愚者ほどやっかいなものは無い。
一方的な断罪を終え、今まさに処断するために魔法を唱えようとする少年の姿をただ見つめながら、マザリーニは聖職者として最後に始祖に願った。
願わくば、この愚かな若い愛国者をお救い下さいますよう――
しかし、その願いが言い切られる前に風の刃が彼のやせ細った体を切り裂いた。
数日後。
昨日行なわれたヒポグリフ隊アルビオン出征式典の華やかさとは対照的に、マザリーニ枢機卿の葬列が貴族街の中央を通るブルドンネ通りの石畳の上を静かに進んでいた。
天候も昨日の式典とは対照的に冬のトリステインでは珍しく、何物をも白く覆いつくす雪ではなくて冷たい雨がしとしとと降りすさび、街路の裏に残った雪を消し去っていく。
道の両側に人の姿はない。
平民は勿論、雨の為に道の両側に屋敷を構える貴族すら見送るものの無い寂しい光景の中、棺を載せた馬車がゆっくりと進んでいく。
本来なら王国主要諸侯が勢ぞろいした中で行なわれるべき――事実上の宰相と言ってもいい地位にあった人物なのだから――葬儀としては恐ろしく慎ましやかなものとなっている。
しかし、その光景はトリステインの貴族達にとって、彼がどういう人物だったのかということを明確に示してもいた。
基本的に血族集団であるトリステイン貴族の中で宰相として辣腕を振るってきた彼は、ロマリア出身だった。
当然、他の諸侯の血族集団のような派閥を形成することは困難であり、そんな状況で彼が政治を担ってきたということは、その指導力が並々ならぬことを意味する。
『杖を握るは枢機卿』
そう町唄に謳われた彼は家柄や財産などによってトリステインでの権力を握ったわけではない――彼の才能そのものが彼の政治基盤であったのだ。
そしてマザリーニが死んだ今、この葬列の姿が現在のトリステインのおかれた政治状況を明確に示している。
彼の死後、当然の如くそれまで対立していた軍務卿を中心とした一派やリッシュモンの一派などが廟議における主導権を握ることとなった。
逆にそれまで枢機卿に組していた諸侯達はその拠り所を失い、彼らは一転して廟議で隅に追いやられる。
そんな状況で枢機卿の葬列を見送る勇気のある者――これ以上リッシュモンや軍務卿に睨まれることを望む者などいるはずも無かった……のだが。
一人の貴族が雨の中、その葬列を見送っていた。
あえて従者も付けずに一人その葬列を眺めていたのは前財務卿――デムリ侯爵だった。
「枢機卿――」
デムリ侯爵はそこまで口にすると伏し目がちに黙り込んだ。
彼の内心には盟友とも言うべき存在であったマザリーニに対する思いが浮かんでいる。
その余りにも寂しげな情景を眺めながらデムリ侯爵はこの国の将来を不安に思った。
(……一体このトリステインはどうなるのか?)
しかし、たとえそう思った所で彼には打つべき手段が無い。
既に病を理由に財務卿の座を退き、そのうえ軍務卿の一派との対立によって彼が中央政界に復帰するのは不可能ではないにしろかなり困難な状況でもあったのだ。
そして、マザリーニ亡き後の中央政界――廟議の場では軍務卿とリッシュモン高等法院長の派閥が双璧をなしている。
先頃起こったチェルノボークでの騒乱に対する対処を議論する場では、軍人であり強硬策に傾く傾向のある軍務卿は勿論、それ以上に強硬な対処――弾圧を主張するリッシュモンの一派が廟議を支配していると言っても良い。
トリステインは平民との関係を修復しようとするどころか、全く逆の方向に向かって突っ走っているのだ。
それは長年、王国の財務を預かり、トリステイン――いやハルケギニアの経済というものを誰よりも理解している彼にとって最悪の手であるようにしか思えない。
しかし、ヴァリエール公爵の一派が失脚し、そしてマザリーニの一派が崩壊した今、そんな彼に出来るのはただ事態を眺めることだけだった。
そんな周囲にはただ雨の降りしきる音と棺を乗せた馬車を引く音だけが響き渡る。
その光景はまさにこれから起こる悲劇を予感させるような光景でもあり、彼のそんな予感は直に的中することとなる。
二週間後、王都トリスタニアに近い寒村、オラドゥール。
そこは今、地獄と化していた。
「そっちに行った――ペリッソン! 逃がすなよ!」
財務卿失脚後、過激化する貴族至上主義に対する唯一の歯止めとなっていたマザリーニの死によって、もはやトリステイン貴族派とも言うべき派閥に属する彼らの行動は誰も止められないものとなっていったのだ。
特に、ワルドがレコン・キスタに転じたことが発覚して急遽解隊されたグリフォン隊に代わる魔法衛士隊としてマザリーニ死後の廟議を取り仕切るようになったリッシュモンの主導で結成された水精霊騎士隊の傍若無人ぶりは時に貴族主義者ですら眉をひそめるものだった。
「はははッ、逃げるやつは叛乱分子だ! 逃げないやつは良く訓練された叛乱分子だ!」
そう叫びながら、ド・ロレーヌは『エア・ハンマー』を唱え、逃げ惑う人々に叩き付けた。
やせ細った人々が『エア・ハンマー』の直撃を受け、常識では想像できないほど軽々と弾き飛ばされる。
彼は今、数百年ぶりに再建された魔法衛士隊である水精霊騎士隊の隊長となっていた。
当然、彼が実力で勝ちとったものではない――リッシュモンからのマザリーニ暗殺に対しての褒賞を兼ねた口止め料として与えられたものだった。
無論、彼はそんな事実に気付いてすらいない。
唯ひたすら自分自身の能力が認められたのだと思っていた。
そもそもこの水精霊騎士隊自身をリッシュモンが復活させた目的は、“叛乱”した平民を鎮圧するためという名目で自身の所領以外で使える軍事力をリッシュモン自身が欲したからに他ならない――そのために彼は軍務卿の主張した魔法衛士隊の一隊であるヒポグリフ隊のアルビオン派遣まで承認した(抜けたヒポグリフ隊の穴埋めとして水精霊騎士隊の創設を認めさせた)のだ。
そんな水精霊騎士隊を構成するのはトリステイン本土に配属されていた学生士官達だった。
彼らが選ばれた理由は勿論、様々な既得権益や政治・血縁関係の絡む既存の魔法衛士隊とのつながりが薄い、という点だった――他の魔法衛士隊から士官を引き抜けば、当然そこには元部隊の影響が現れてしまうのだから。
リッシュモンがそうしたつながりを求めない以上、彼が新設を望んだ部隊は必然的に経験と教育の不足した若者を中心とすることとなったのだ。
その結果、今この場所では無数の悲劇が繰り返されている。
「はッ! 平民の分際で――」
現在の水精霊騎士隊に与えられた任務は『先に起こった食料庫強奪の犯人の捕縛、もしくは処罰』。
当然そこで求められる行動は犯人を捕まえることであって、犯人を殺すことではない――現地の司法に関してはその土地の領主に付与されている領主裁判権に基づいて裁かれるはずなのだ。
しかし、ド・ロレーヌはそんなことに思いを馳せることすらない。
無抵抗な平民達を相手に、ひたすらに自らの“力”――魔法のもたらす暴力に酔い、高ぶった血の命じるままに哀れな犠牲者達に向けて振り撒いた。
まるで、その“力”を確認するかのように。
「おい、本当に良いのか? 俺たちの受けていた命令は――」
そんな彼に恐る恐る声をかけたのは同じく魔法学院出身のスティックスだった。
しかし、そんな正論も興奮状態の極みにあったド・ロレーヌには届かない。
ド・ロレーヌは何を言うか、と言わんばかりにスティックスを睨みつけながら「どうでもいい」とでも言いたげな素振りで答える。
「構うものか!――平民どもに自分達の身分と立場というものを教育してやるのも貴族としての努めじゃないか!」
さらにド・ロレーヌは「この薄汚い村ごと全部焼いてしまえば少しは平民どもも自分達の立場というものが判るだろうさ!」と続ける。
そんな言葉にスティックスも言葉が出ない。
そこにド・ロレーヌの言葉が響く。
それは隊長として、拒絶を許さない意味を込めた言葉だった。
「さぁ、さっさと君の火の魔法で焼き払ってくれ給え!……まさか君は平民どもに味方でもするつもりなのかい?」
そうまで言われてはスティックスも引くことは出来ない。
ド・ロレーヌの命に従ってスティックスは傍らの小屋――彼からすれば単なる小屋にしか見えなかったのだ――に魔法を放った。
火は直に小さな家を燃やしつくし、隣家に燃え移る。
赤々と燃え上がる村を眺めながらド・ロレーヌは満足げに呻く。
彼の脳裏にあったのは、やはりかつて魔法学院で彼に屈辱を与えた青髪の庶子の姿であり――彼はその姿を逃げ惑った平民や燃える村の姿に重ね合わせていた。
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今回もトリ革をお読み頂いてありがとうございます。
作者のさとーです。
10/08/07
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