――――――――――――見渡す限りの人、人、人。
あの悪夢のような平民街の戦闘から2週間。
彼女の眼下には、遥かトリスタニア平民街から半ば廃墟となった貴族街までまるで埋め尽くすかの様に人が溢れている。
いや、目の前のブルドンネ通りだけではない。
このトリステイン王宮を取り囲むようにして無数の人々がそこに居た。
その光景から目を逸らし、アニエス・シュヴァリエ・ド・ミランは王城前広場に整列した銃士隊員の数を目算した。
彼女の目の前に整列した隊員の数はざっと50名程――今も歩哨に当たっているものも含めるとおよそ70名程度だろう。
合計しても2個小隊とちょっとと言ったところが現在の彼女の手持ちの全戦力だった。
数ヶ月前、初めて銃士隊が編制されたときに編制簿に載せられた隊員の数は200名を越えていた。
そして目の前の現状は彼女の率いる銃士隊が先の平民街侵攻で受けた大損害を未だ回復できていないことに対する顕れだったのだ。
そんな現状を見つめつつ、アニエスは思った。
あの平民街侵攻さえなければ、今もこの倍の戦力は彼女の目の前にあった筈だった。
果たしてあの平民街侵攻になんの意味があったのか、と彼女は思わずには居られない。
いや、軍務卿の考えていたことは彼女にも大体想像は付く――彼らはこの平民達の『叛乱』に対してこれまでと同様の手法で対処しようとしただけなのだ。
彼らは平民達に対し、今まで通り“力”を以って自分達貴族に従わせようと考え、実行した。
武器を持って集まった平民達の前に何人をも打ち砕く“力”を示せばこれまでのように平民達は逃げ散り、バラバラとなった平民達をあとは個別に処罰してしまえばいい――一度平民達の結束を崩してしまえばあとは個別に対処することが可能だからだ。
事実、彼らはその「常識」に従ってあの計画を立てたのだ。
しかし現実はどうだ?
彼女はつい2週間前の出来事を思い出した。
貴族達が『懲罰』しようと送り込んだ“力”に対して平民達は逃げ散るどころかより一層団結して抗戦したのだ。
総計で2000名以上もの――王軍一個連隊を超える戦力に。
結果として、その戦闘で生じた被害はあまりにも大きなものとなっている。
当初貴族側の圧倒的な“力”を示せばたちどころに平民達は逃げ散ると思われていたが、実際にはその逆だった。
誰もが武器を持って立ち上がり、まるで蜂の巣をつついたように次々と彼女達の前に立ちはだかったのだ。
そしてその戦闘の中で彼女達銃士隊を含めた貴族側は大きな損害を受けた。
不期遭遇戦――互いに相手の状況を察知できないままぶつかり合う(すなわち出会い頭に出合った敵とひたすら殺しあうしかないという状況)――しかも市街戦闘に伴う近接戦によって貴族側はその目論見が外れたことの代償を支払わされた。
まず彼らの最大の利点であった魔法という(個人戦闘の分類の中では)遠距離大火力がその近接不期遭遇戦によって利点を失い、さらに平民達の心を打ち砕く為に平民街の奥地へ侵攻する、いう戦略が彼らに敵中での孤立を強要したのだ。
それでも彼らは闘い続けた。
周囲を取り囲むようにして向けられる無数の敵意の中で一つ一つバリケードを突破し、襲い来る銃弾や投石の雨に耐え、一歩一歩前に向かって前進し続ける。
前線指揮官たる下級貴族達は平民相手に退くことなど決してあってはならないと考えていたし、そうしたプライドが彼らに通常なら後退しても何ら批難を受けない状況にあってさえその場に踏みとどまり、そして前進することを選択させた。
侵攻開始から数時間後には当初2000名以上を数えた貴族側の戦力は4分の3程度にまで減少していた。
僅かそれだけの時間の間に500名近い兵士や士官達が斃れ、あるいは負傷によって後方へと搬送されていたのだ。
それでも彼らには成果があった――中央を突き進む先鋒集団のアニエス率いる銃士隊が目標とされた平民街中枢部にまであと少し、というところに到達していた(彼女達は近接防衛戦闘の経験が高く、その損害も最小限――それでも20名以上の損害を受けていた――で済んでいた)。
しかし、本当の悲劇はここから始まった。
彼らがまるで城砦のようなトリスタニア平民街で戦闘を繰り広げている中、突如として飛来した中型船が貴族街上空で大爆発を起こしたことをきっかけに作戦が中止を余儀なくされたのだ。
貴族街の西半分を吹き飛ばすような爆発によって崩壊した屋敷の中で死亡した軍務卿(この作戦の立案者でもある)――その彼の後を引き継いだ代理指揮官は作戦中止、撤退命令を下した。
おそらくそれは被災者の救護と言った差し迫った一般的な理由はもちろん、半ば政治的な安全策――貴族はなによりも王家を守らねばならないという自然的な発想――に基づく考えから発せられたのだが、その決断は平民街で戦う貴族将兵の置かれた状況というものを全く無視していた。
一般に攻勢作戦から撤退戦闘への切り替えは困難である。
地の利は敵の側にあり、かつ攻め込むためには敵の待ち構える中へ突っ込まねばならない。
逆に言えば突っ込むということは敵の懐奥深くに向かって進むということでもある。
敵の懐深くでは通常の戦闘が正面だけであるのに対して侵攻側は概ね三方から敵の“圧迫”を受ける。
逆に防御側は常に敵を正面に捕らえている為、損害が少ない。
そして、その効率は敵が後退を余儀なくされた時に最大化される。
敵の内懐から後退する中で部隊は単純に互いにぶつかり合うよりも多くの敵の“圧迫”を受け、その損害を大きくする。
と同時に何よりも古今東西の戦闘で最も重要であると言われてきたもの――士気が大きく損なわれる(それまで自らの血を流して得て来た地歩を失う上、“後退”という言葉は兵士達にとって事実上の敗北と捉えられ易い)。
結果として指揮統制の効率も下がり、部隊はさらに損害を受け、再び士気が低下するという悪循環に陥ってしまうのだ。
それでも彼らは命令に従わなければならない。
困難な撤退戦が開始され、部隊の損害は瞬く間にそれまでの数倍に膨れ上がった。
あちこちで本隊からはぐれ、孤立する部隊が生まれた。
それでも、彼らは多重包囲の中でもはや純粋に自らの生存の為のものとなった悲惨な戦闘を継続した。
貴族士官にとっては平民相手に「降伏」するなど断じてありえないことだったし、仮に降伏したとて生存できる確率は低いものに思われたのが理由だった。
そして彼らに付き従う平民の衛士達もまた同様の運命が待ち構えていると確信していたため、戦闘は凄惨なものとなった。
それはもはや相手の士気を打ち砕くといった従来型の戦闘ではなく、如何にして生き残るか――すなわち生き残るために如何にして相手に止めを刺すのか、といった戦闘が行なわれたことを意味する。
撤退戦に伴う混乱の中で無数の悲劇――精神力の尽きた貴族が平民達に嬲り殺され、あるいは自決を選ぶといったような事態――が発生し、降伏しようとした小部隊がそのまま虐殺される光景があちこちで繰り返された。
無論平民達の側にも損害が続出している。
侵攻当初の不期遭遇戦では火力と組織力に勝る貴族側戦力に各個撃破され無数の損害を出していた。
特に平民側の大半は胸当てや鎧といった防御手段を持たないが故にその損害を大きくしていた。
数時間にも及ぶ戦闘。
生み出された膨大な犠牲。
そうしたものの中で生み出された熱気と狂気が入り混じり、誰もが“敵”――貴族・平民側双方にとって最早相手はそうした分類となっていた――に対して情けを加える余裕が失われていた。
そこには容赦も慈悲もない。
彼らはたとえ相手がもはや戦うことすら出来ない状況であっても決してその手を緩めることは無かった。
貴族側の主要部隊の撤退が完了したのはその日が暮れた頃のことだった。
いや、実際には未だ多くの部隊が平民街に取り残されていたのだが、明かりのない暗闇に不気味に沈んだ平民街に立ち入ろうとする者は悲惨な戦闘を経験した貴族派達の中には誰も居なかったのだ。
日が暮れても平民街に取り残された部隊の多くは暗闇と迷路のような平民街の中で道に迷い、その多くが帰らなかった。
生き残り、貴族街に帰りついたのはわずか623名。
そのうち戦闘可能な者は400名に満たなかった。
そして今、アニエスと彼女の率いる銃士隊は王城前広場に集結していた。
ここを守るのは彼女の率いる銃士隊約70名と壊乱した王都警備隊に辛うじて残った(そして逃げ出す機会を逃した)残存戦力の約50名――計124名だった。
あの悲惨な撤退戦、その最先鋒として平民街に進んだ銃士隊はその隊員のおよそ半分を失うという大損害を受けたため、同じく幸運にも逃げ戻った衛士隊の残存戦力の一部が彼女の指揮下に組み込まれたのだ。
しかし、銃士隊の損害のみが一概に大きかった訳ではない。
彼女達の後方を同じく先鋒部隊として進んでいた部隊のいくつかは平均して損害率が8割以上に及び、中には文字通り全滅――誰一人として平民街から生きて帰ってこなかったという部隊すら存在していたのだから。
その点を考慮すれば銃士隊は彼女の的確な指揮によってその被害を最小限に抑えたとすら言えるだろう。
そんな彼女が率いる部隊と同じく同様に壊乱した部隊を集成した部隊がそれぞれ王城の3つの門を守っている。
正確には水堀に囲まれた城壁の門――その堀にかかる橋の先に広がる広場だ。
式典や儀礼用に広く平坦に作られた広場のあちこちを土メイジの魔法や人海戦術で掘り返し、即席の防御陣地と呼べる趣になっている。
一部には王城の城壁と同じ石材をレビテーションによって運び込んだ為に急造ながらも大砲の直撃でもない限り耐えられる程の防御設備が出来上がっていた。
しかし、今は果たしてそれだけで耐えられるかどうかすら不安だった。
王城を遠巻きに取り囲む様に展開した無数の平民達。
その眼前の光景はそれほどの衝撃を彼女達に与えていた。
そんな貴族側にとって残された最大の戦力はマンティコア隊を筆頭とした魔法衛士隊の存在である。
しかし、彼らもまた深刻な損害を受けていた。
先日のフネによる自爆攻撃――それに気付いたのは自爆後だったが――を阻止するために出撃した彼らはその爆発に至近距離で巻き込まれたことにより隊長であるド・ゼッサールを初めとして多くの人員・幻獣を失っている。
そして、単純に被害は数の問題に留まらない。
彼の後任として残存した魔法衛士隊を指揮する代理指揮官は経験の浅い人物だった。
それは先日の出撃に際して伝統あるトリステイン貴族の習いとして魔法衛士隊は指揮官先頭で出撃したことが原因となっている。
皮肉なことに「質」を一番の誇りとしていた魔法衛士隊は現在、結果として「数」だけでなくその「質」の低下にも直面しているのだ。
彼女は数日前に行なわれたそんな経験の浅い代理指揮官との事前調整会議の場の光景を思い出した。
いかにも若く、突然の栄達に(指揮官戦死に伴う臨時昇進だが)喜びを抑えきれない彼は自信に満ちた顔で防御戦闘方針について語ったのだ。
“フン、王女殿下の近衛だというのに結構な身だしなみだな……所詮は下賎な平民か。
お前たちは陣地に篭っていればよろしい、叛乱者共への攻撃は我々が担当する。
――攻撃方法? 上空からの降下襲撃だ。奴らには空を飛ぶ手段すらないのだからな”
そう答えると他に言うことは無いとばかりに颯爽とマントを翻して代理指揮官はその場を後にしたのだった。
かつての魔法衛士隊の隊長(ワルドの爵位剥奪後はグリフォン隊も彼の指揮下にあった)であったド・ゼッサールは生真面目すぎるが誰からの話も真摯に聞き届ける人格者として通っており、銃士隊-魔法衛士隊間の連携も比較的スムーズに動いていたが、その彼が居なくなるとこの有様だった。
そんな連携についての不安というものだけでなく、彼女はその代理指揮官が提示した“空からの攻撃によって平民達の出鼻を挫く”という防御方針にも疑問を持っていた。
確かに上空からの攻撃は有効だろう。
しかし、それは相手に損害を与える事によって一時的に混乱を生み出させる――すなわち時間を稼ぐだけで相手を制圧することは出来ない。
そんな手段では貴族に対して恨みの不足することはない数万人の平民達を前にして、その問題の根本的解決を図ることが出来ない――いや、それはたとえどんな人材だろうと不可能だろう。
数万人の人間は数万人の論理で動く。
目の前の光景はその数万人の目的が無数の要因によってただ一つの方向に収束したからこそ生み出されているのだ。
それでもアニエスは守らねばならなかった。
かつて自分自身の居場所を貴族の陰謀によって焼かれた少女は再び自分の居場所を失う訳にはいかなかった。
銃士隊の部下達――そしてそれを与えてくれた愚かしくも愛おしい王女アンリエッタ。
かつてチェルノボークで彼女の下から去っていったミシェル達という存在も居たが、それでも尚――いや、だからこそ彼女の下に残った銃士隊員達、そして自らの主人を彼女は守ろうと決意していたのだ。
そんな彼女の前方でとうとう平民達が動き出した。
そう、彼らは遂にその目的を決するために行動を開始したのだ。
王城を包囲している平民達の最前線に展開していたのは、本来ならば貴族達の指揮下――トリステイン海空軍に所属している筈の艦隊水兵達だった。
しかし、艦隊水兵とは名ばかりで彼らは自らが操るべきフネを持っては居ない。
そんな名ばかりの存在となった水兵達が何故王国に対して叛旗を翻すことになったのか?
かねてから貴族出身の艦長や高級士官を除いた平民出身の下級士官と水兵の間では戦争勃発以後、革命の機運に関係して貴族に対する消極的な反抗が起こっていた。
無論、その影に存在していたのはスカロンに率いられたコミン・テルン潜入工作員の暗躍があったのは言うまでもない。
しかし、それらの反抗は実際に武装した水兵達が立ち上がるというほどのものではなかった。
せいぜいが横柄な貴族に対する“ちょっとした”抵抗、と言うべきレベルのものでしかなかったのだ。
そんなサボタージュが叛乱蜂起という事態まで変化したきっかけはロサイス沖の空戦で撃墜された艦船乗り組みの平民兵に対する扱いが原因だった。
主力艦だけでも敵味方を合わせれば30隻以上が激突したロサイス沖海戦。
規模においてハルケギニア戦史でも有数のその大海戦の中でトリステイン王国は20隻近い大型戦列艦や輸送艦を失った。
そして、その戦闘の渦中、その事件は起こった。
戦闘でフネが損傷し艦が墜落し始めると、貴族士官のその大半が“飛行”の魔法によって早々と友軍艦に逃げ延びたのだ。
無論、それ自体は批難されることは無い――むしろ当然の行動とさえ言える。
しかし、その場ではっきりと示されたのは貴族と平民との明らかな命の価値の違いだった。
トリステインでは貴族であることが任官条件とされる閉鎖的な陸軍とは異なり、艦を操るという高度で専門的な技能が必要とされる海空軍では狭き道とはいえ平民にも士官への道が開かれている。
しかし、士官と言えども平民出身である彼らには当然魔法が使えない。
故に乗艦が墜落すれば魔法の使えない彼らには逃げる方法すらなかったのだ――そして、その多くの平民士官が墜落し始めた艦を救うためにあらゆる努力を尽くしている最中に艦長を初めとする貴族士官が次々と艦に見切りをつけて“飛行”の魔法で逃げ出したという光景が見られたのだ。
その明らかな対比が彼ら叛乱水兵達に大きな影響を与えた。
『……アルビオン沖での空戦で墜落した輸送船に乗っていた平民達は全て見殺しにされた。その一方で魔法を使える貴族は全員が無事友軍の艦に収容されたという。二度と帰ってこない数千人もの我ら平民の命とはなんだったのだろうか?私達は貴族の為の道具ではない、人間である筈なのに……』
かつてトリステイン中に配られたコミン・テルン機関紙――『真実』に掲載されたその記事はある一面では真実を伝えていた。
その言葉――そしてその元となった光景は彼ら艦隊水兵や乗員たちの家族に自らの置かれた地位と立場について決して忘れることの出来ない何かを刻み付けたのだ。
そして、先日のミシェル達によるマリー・ガラント号を利用した襲撃計画が最終的に火をつけた。
フネによる重要拠点襲撃という戦術に怯えた貴族達は、彼らから見て政治的に「信用できない」平民達をフネから降ろすことを決定したのだ――軍艦には元々大量の火薬が備えられているため、そのまま今回と同様のテロ攻撃が実施可能であるという点も大きな要因になっていた。
無論、そうした短絡的とも思える行動に反対する貴族も居た――そしてその多くが実際にフネの運用に関わる下級貴族士官達だった――が、あるいはそれ故に彼らの意見は受け入れられなかった。
無理も無いことかもしれない。
トリスタニアを襲ったあの惨劇。
それを見た貴族達――無論、戦時中にも関わらず王都に留まっているのは専ら高位貴族である――の誰もが同じ惨劇が繰り返されることを心から恐れたのだ。
彼らの多くは平民達からの信頼よりも身近な精神的安定を望んだ。
そして、皮肉なことにそのことがより大きな崩壊をもたらすことになったのだ。
まず、この決定に対し艦隊水兵――そして平民出身士官達が猛烈な反発を起した。
彼らの大半は高度な技能を必要とする艦隊の為にその人生そのものを費やしてきたような人々であり、その忠誠心はある意味で並みの貴族士官よりも高かった(無論、その忠誠心は国家に対するものではなく、自らが寝起き、働くフネというものに対する愛着であったが)。
彼らはロサイス沖の空戦で示したように、最後まで乗艦を救おうと努力し続けることを心に刻まれたような存在であり、自らの乗るフネによる自爆攻撃という自宅に火をつけるような行為に使おうなどと思う輩は誰もいなかった。
しかし、現に彼らは空について何も知らない貴族達からそうした疑いの目を向けられ、実際に抗弁した一部の平民出身士官が拘禁されたことをきっかけに対立は頂点に達した。
そして、貴族達が強制しようとした平民士官等の強制退去に対して二等戦列艦『アウローラ』でついに平民士官と水兵による叛乱が発生したのだった。
同艦は退去を拒否した彼らによって事実上占拠され、それをきっかけにラ・ローシェルに停泊していた他のフネにも伝染病が広がるかのように同様の叛乱が次々と発生した。
その叛乱の嵐は艦隊だけには留まらず、連鎖反応でも引き起こしたかのように瞬く間にラ・ローシェル市内を覆いつくし、さらにラ・ローシェル市内から同様に不満の高まっていたタルブを初めとした周辺の農村地域や周辺都市へと急速に広まったのだ。
彼らの一部が今、アニエス達の目の前に居る。
当初ラ・ローシェルを出発したのは約3000人の水兵や住民の志願者達だったが、トリスタニアに到着するまでに周辺地域から合流した者達によってその数は10倍近くにまで増大していた。
乗艦は艦が叛乱兵たちの手に渡ることを嫌った貴族達によって破壊されてしまったが、高度な訓練を受け、集団行動に慣れた艦隊水兵達、それに指揮官としての心得のある平民士官達の存在は基本的に軍事に素人でしかない平民達――そしてコミン・テルンにとってはどんな宝石よりも貴重であり、故に計り知れない効果をもたらした。
彼ら艦隊水兵達の大半は接舷切り込みという古典的な戦闘に対する訓練を積んでいるために地上戦が全く不得手だというわけではないし、言うまでも無く彼らは水兵であるから、銃砲の扱いにも長けている。
数少ない平民士官達(彼らは全員が例外なく水兵からの叩き上げだった)に至ってはその統率力と判断力によって烏合の衆に近かった平民達にある程度の方向性と規律を与えてさえいる。
そんな彼らに指揮され、トリスタニア王宮を目指す平民達の最前線に立った水兵たちは一斉に歌を口ずさみ始めた。
誰もを奮い起こさずには居られないその曲の名は『ラ・ローシェルス』。
『ラ・ローシェルス』という名称は今も前進を続ける叛乱水兵達が最初に広めたために付けられた名称だった。
元々はアルビオン遠征軍の兵達を鼓舞するために作られた進軍歌であったらしいのだが、初めにその歌に付けられた名称は誰も知らない。
しかし、彼らのトリスタニア進軍と共にトリステイン全土に知られるようになったその曲は、今やトリステインの革命を目指す人々の間の共通歌として使われている。
彼らに並び――そして後に続くのは先のトリスタニア平民街の攻防戦に勝利した(と信じていた)数万人のトリスタニア市民達と周辺地域から集まってきた無数の人々。
最前線の艦隊水兵に続く人々もまたそんな経緯を持つ曲を歌いながら前進を開始する。
“震えるがよい! 汝らの暴虐は遂にその酬いを受けるだろう”
皮肉と言うべきだろうか。
かつてテューダー朝を滅ぼしたアルビオン貴族派に向けられる筈だったその台詞が今はトリステインの支配者達に向けられている。
“進もう! 進もう!”
数万人が一斉に唱和し、前進する。
マーチ風の曲調に合わせてまるで地鳴りのような足音が響き渡る。
同時にトリスタニアの全てを覆うその声は聞く者達の心を揺さぶり、励まし、そして打ち砕く。
数万人が一斉に合唱しながらまるで津波のように前進するその光景。
そんな異様で圧倒的な光景を前に踏みとどまることを決意出来る人間はごく少数だろう。
現に配置についたアニエスの指揮下にある王都警備隊の残存部隊の衛士達がその光景と歌声に怯えて隊列を乱す。
「隊列を崩すなッ!――逃げる者は……」
そこまで言いかけてアニエスは口を噤んだ。
たとえ逃げ出したとして何処へ行こうというのだ――既に王城のある貴族街は無数の平民達によって包囲されているのだから。
一見矛盾するようだが、この場で生き残りたければこれから襲い来るであろう攻撃を食い止めるしかない。
食い止め、“敵”を撃破するか突破するしか生き残る方法はない。
その為には隊列を維持し、少しでも集団の戦闘力を高めることこそが彼らの生存の可能性を高めるのだ。
“――進もう! 進もう! 進もう! 進もう!”
数万の群集の唱和が大きくなり、熱狂が頂点を迎える。
その大音声の中でアニエスは隊列を乱して逃げ出そうとする王都警備隊の衛士達に向かって叫んだ。
「死にたくなければその場に留まれ!」
直後、彼女達の上空を十数頭の幻獣が押し寄せる人間の津波に向かって飛んでいった。
王城内部に駐屯する魔法衛士隊の全力が一斉に幻獣に跨って押し寄せる平民達を制圧するためにその姿を現したのだ。
とは言っても先日の自爆攻撃によって大損害を蒙った為にその数は40騎にも満たない。
それでも厳しい訓練で知られた魔法衛士隊らしく、それぞれのマンティコア・ヒポグリフと言った彼らの跨る幻獣ごとにきっちりとした密集隊形を取って平民達の上空へ向かっていく。
無論、その先頭を飛ぶグリフォンに跨っていたのはあの横柄な魔法衛士隊の臨時指揮官だった。
最初の急降下の直後、平民達の最前列の中で無数の悲劇が誕生した――幻獣に跨った魔法衛士の放った魔法が密集して進んでくる人々をなぎ倒したのだ。
魔法の一撃で着弾地点に居た10数人の平民が血飛沫を撒き散らす肉塊へと変わり、あるいは黒焦げた人形へと変わった。
何とか反撃を試みようとでもした者が居たのだろう――地上から数発の銃声が響く中、一転して急上昇に転じる魔法衛士隊員の思いは様々だった。
あるものは自らの絶対優位にほくそ笑み、またあるものは自らの引き起こした破壊と被害に悔恨の念を抱いた。
しかし、そんな彼らもまた自らの所業の報いを受けることとなった。
シュポン、というワインボトルの栓を抜いたような音がこちらに向かってくる平民達のあちこちから響き渡る。
その音が発された場所からは幾本もの白い煙を曳きながら上昇する鉄の火矢のようなものが見えた。
発射された火矢はオレンジ色の炎と白い煙を尾部から吐き出しながら上空にたむろする魔法衛士に向かって突き進む。
当然、それに気付いた魔法衛士達も回避を開始した――空中をおそらく無誘導で飛行する物体など大した脅威ではないと思われていたが、それでも自分が狙われているというのは良い気分ではいられない。
彼らの一部は十分に離れたと確信したところでその鉄の火矢を放った連中に向かって再度の突撃を敢行しようと試みた。
しかし、そんな彼らの背後では先ほど回避したと確信した筈の鉄の火矢がまるで獲物を狙うヘビのような動きと共に彼らの動きに追随していたのだった。
――試作呼称“空飛ぶヘビくん”。
発明者によってそう名付けられたこの地対空兵器は頭部に収められた炸薬の危害半径に標的が入ったことを探索魔法の込められた魔法装置によって確認すると次々と爆発し、大空を硝煙の白く――そして赤いものが入り混じった血煙で彩った。
上空で上昇に転じた魔法衛士隊の幻獣達が次々と打ち落とされていく光景が描き出される中、アニエスはじっと前方を見つめていた。
無数の爆発音が鳴り響く上空とは異なり、より切迫している筈の地上は逆に静謐を保っている。
無論、トリスタニアには数万人の歌声が満ちているが、両者は互いに武器を手にしているにも関わらず、誰も敵に向かって撃ち掛けない。
それは専ら手にした武器の射程が原因だったが、同時にそれは彼女にとって非常に不気味に思えた。
その事実は軍事的に素人である筈の平民達が自らの武器の射程を知っている――あるいは熟知した者達に率いられているという証拠だったからだ。
『ラ・ローシェルス』の歌声と共に進んでくる平民達までの距離はおよそ200メイル。
あと100メイルも進めば数度の準備射撃の上で彼らは犠牲を省みずに突っ込んでくるだろう――彼女はそう考えた。
ハルケギニアでの一般的な歩兵突撃の突撃開始線は50メイルとされている。
その数値は一般的に歩兵の戦場で最も高い火力を持つメイジの平均的な射程――精神力を比較的消費せず、メイジの大多数を占めるドットやラインの使用可能な魔法――を基にしたものだ。
そして、そのメイジの魔法を上回る“銃”の有効射程はおおむね100メイル。
故に彼女はその突撃開始線を約80メイル程度と見積もった。
平民達の進む速度が徐々に増し、それと反比例して距離がどんどん縮まる。
200メイル、150メイル、100メイル。
そして遂に距離が80メイルに達した。
向かってくる平民達の最前列が一斉に地面に膝を付け、発砲する。
雪崩の様な音が響き渡り、無数の銃弾が飛び過ぎる音や彼女達が遮蔽物にしている胸壁――胸の高さまで積み上げられた石や材木などの遮蔽物――の表面が砕かれ、抉られる音が聞こえる。
同時に、数人の人間の悲鳴やうなり声が上がった。
不運にも胸壁を貫通した銃弾によって傷ついたのだろう。
アニエスは自らもそんな悲劇の一部分となりつつ、その銃弾の嵐が過ぎ去るのを待った。
時間にしてたった10数秒に満たない筈なのにその時間がとても長く感じられる。
その永遠にも思える数秒が経過した後、彼女は身をかがめることで死の暴風を耐え忍んだ銃士隊員達に号令をかけた。
「構え――放てッ!」
その声と共に素早く胸壁の上に身を晒した銃士隊員達が一斉に引き金を引く。
打石機が火皿を叩く音が響き、ほぼ同時に先程彼女達に向かって発せられたのと同様の雪崩のような音が発生する。
しかし、その数は相手と比ぶべくもない。
それでも遮蔽物の無い広場入り口付近で射撃の隊列を組んでいた何名もの艦隊水兵や平民が赤黒いものを撒き散らしながら崩れ落ちる。
幾度かの銃弾のやりとり。
自らを狙って銃弾が打ち込まれる間、彼らは互いに次に放つための銃弾と火薬を込める作業を黙々と続ける。
勿論、繰り返される銃撃戦による損害はやはり遮蔽物の無い平民達の方が多い。
既に数十人の水兵や平民達が死亡・負傷を問わず仲間たちの手によって後方に引きずられていく。
そして、さらなる銃弾のやりとりが繰り返され続ける。
その光景を前にアニエスは確信するとともに覚悟した。
もうすぐ射撃戦の不利を知った平民達は突撃に移るであろうことを。
そして、数において圧倒的に劣る彼女達の苦難が始まるのだと。
突撃態勢を採りつつある平民達を前に、彼女はこの場の指揮官として彼女の指揮下にある全員に向かって叫ぶように命令を下した。
「来るぞ、白兵戦用意!」
彼女がそう叫んだ直後、損害に耐え切れなくなった平民達は剣や槍を手に自然発生的な突撃に移った。
銃士隊もまた手に鋭剣を手に近接戦闘の準備を整え、陣地に向かって平民達が押し寄せるのを待ち構える。
――そうして、トリステイン王国における革命の最後の幕が切って落とされた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今回もトリ革をお読み頂いてありがとうございます。
作者のさとーです。
SSの筈なのにセリフが殆ど無い……良いのかな?
一応手抜きじゃないです。手抜きだと思った方は罵倒して下さい。
10/07/10追記。
歌の名前についてなのですが、一応仏語っぽくすると『ラ・ローシェラリース』みたいになっちゃうので語呂が悪いかな?と思い『ラ・ローシェルス』にしてみました。特に深く考え訳ではないので笑って流して頂ければ有難いなと考えます。もちろんダメと言われれば直します。(独語なら『リート』なんだよなーということに気付いた今日この頃)
10/08/07追記。
二回目の改定を実施