――――――――――――『……ハルケギニアに幽霊が出る、平民主義という幽霊が』
『ハルケギニアの全ての貴族達がこの幽霊を祓う為に神聖な同盟を結んできた――教皇と三王家、封建貴族と聖職者、アルビオン貴族派とトリステイン銃士隊……』
トリスタニアの王宮に血染めを思わせる旗が翻る中、何日も前に旧王城前広場で行われたコミン・テルン議長であるスカロンによって行われた演説。
数万人の平民達を熱狂の渦に包みこんだその演説の内容が記された粗末な新聞――当然その言葉は文語体に直されている――はトリスタニアだけでなくトリステイン全土に、そしてその一部は国境を越えてハルケギニアのあちこちにまで広がっていた。
キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーは彼女の実家であるゲルマニアのツェルプストー伯爵領で手にしたそんな新聞に踊る文字をただ茫然と見つめていた。
日当たりの良いように南向きに作られた彼女の部屋から見えるのは暦の上で春を迎えつつあるにも関わらずどこまでも深い雪に覆われたゲルマニアの大地。
そんな凍りついた風景と手元の“真実”と題された粗末な新聞を見比べながら彼女はどこか遠くを思い返すかのようにゆっくりと深く息を吐いた。
目立ちたがり屋でいつも気障な仕草で薔薇を模した杖を掲げていたギーシュ。
浮気性のあるそんな彼にいつも嫉妬の炎を燃やしていたモンモランシー。
彼女の誘いにいつも簡単に応じてきたギムリを初めとした恋人達。
いつも無口で暇さえあれば本ばかり読んでいた蒼髪の小さな親友、タバサ。
そして誇り高く、自分の考えを決して譲ることの無かった桃色がかったブロンドを持つ少女――ルイズ。
去年の今頃には極当たり前のように存在していたそんな日常がここまで崩れ去るなんて夢に思いもしなかった。
しかし、現にその日常は遠い過去のものとなっている。
そしてたった今思い返したその友人達の大半が既にこの世のものでないことも。
――あの召喚の儀から僅か一年も経たないうちにこれほど世界が変わってしまったなんて。
そんな思いを抱いた彼女の視線はもはや失われた過去を幻視するかのように遥か南に存在するはずのトリスタニアに向けられていた。
トリステインの王都トリスタニアで勃発した騒乱は王国全域へと騒乱を拡大させ、ついにはコミン・テルンを中心とした貴族制度を否定するハルケギニア初の平民主義革命としてその幕を閉じた。
しかし、革命に伴う混乱が完全に解決したわけではない。
いや、むしろその混乱はますます混迷の度を増していく一方だった。
陥落した旧王都トリスタニアの貴族達のおよそ半数が騒乱の過程で死亡し、残りの半数はゲルマニアを初めとしたハルケギニア各地や崩壊を免れたいくつかの諸侯領に脱出することとなったが、トリステイン各地に辛うじて残された貴族領もまた革命の波に飲み込まれつつある。
彼らの多くはアルビオンとの戦争で自領の防衛に使用すべき兵員の多くを西の空の彼方へと送ってしまっていた。
無論、ある程度の未招集兵員人口は存在しているがアルビオン継承戦争の為に既に大量の出費を強いられていた彼らは兵員に装備させるべき武器が――そしてその為に必要な金銭が不足していた。
そんな状況では数に圧倒的に勝る革命勢力に押し潰されざるを得ない。
中には押し寄せる革命勢力と戦うために領民達に武器を配布したが、革命の動きに伴う平民との対立から逆に領地を追われ、あるいは滅ぼされた貴族すらいる。
付け加えるならば、たとえ軍を編成出来たとしてもその部隊を指揮する中下級指揮官の不足が深刻な問題となった――戦場で兵を直に統率し叱咤する者がいなければいかに数が多かろうとも単なる烏合の勢でしかない(特にそれが戦意の低い徴収兵ならなおさらだった)。
そして貴族達にとって信用できる血縁の者達の多くは遥かアルビオンにいた。
今や単に革命勢力が未だ押し寄せていないだけ、というものを除けばトリステインでかつての封建貴族領を維持することが出来ているのはこの戦争で出兵を拒否した――結果的に戦争に伴う疲弊が最も軽い――ヴァリエール公爵領くらいのものであろう。
それもいつまで維持出来るかは誰にもわからない。
彼らもまた革命の騒乱に伴い小規模であるが頻発する平民達の対応に手一杯な状況で、津波の如く押し寄せる数万もの平民達を押し留められるかは全く未知数であるからだ。
言うまでもなく、そんな状況では軍を組織して王都トリスタニアに進軍することは全く不可能でもある。
十分な兵もない状況ではメイジの火力による突破は可能でも奪回――制圧と維持が不可能である事。
そして突破を行うには既に機を逸している――もはや王都には彼らが守るべき価値ある人がいないというのも理由の一つであった。
一方、アルビオンに侵攻していた派遣軍は本国での革命に伴って辛うじて行われていた補給が完全に途絶え、日を追うにつれて軍としての形を失いつつある。
食料の不足や給金の未払いに伴う士気の急速な低下。
そんな状況下でも何時もながらに高圧的な態度をとる貴族に対する反感。
そして騒乱の続く本国に残した家族に対する不安と冬季宿営に伴う厭戦感情の急速な増大によって宿営地からは毎日のように兵士達が次々と姿を消していた。
一部では食料の配給の少なさに怒った傭兵達が残り少ない食料を溜め込んだ貴族に叛旗を翻す光景すら見られる。
他方でそんなアルビオンに残された貴族達にも帰る手段が圧倒的に不足していた。
高給でかき集められた輸送船舶の大多数は本国で起こった革命によって賃料の支払いが途絶えると同時に接収を恐れ逃げ散っていたし、艦隊に至っては叛旗を翻したために彼ら自身が焼き払っていたのだから。
彼らに残されたのは逃げ遅れたものを半ば脅迫するように徴用した数隻の輸送船舶と、同じく焼かれなかった数隻の軍用艦だけ――それらを合計しても10隻に満たない――だった。
それらに加えてトリステインがアルビオンに派遣した竜騎兵の残存戦力――およそ100騎(竜騎兵一個連隊相当)と長距離飛行可能な使い魔を持つ極少数の貴族は辛うじて自力で大陸まで帰り着くことが出来たが、数の圧倒的に少ない彼らに出来ることはそこまで大きなものではないだろう。
軍事的な常識からすれば、確かに膨大な破壊を振り撒くことが可能だが兵站も支援も存在しない彼らは最終的にその大部分が押しつぶされるようにして圧殺され、生き残った貴族領に逃げ込むことがせいぜいでしかない。
ハルケギニアの戦争形態を見れば明らかなように、少数の貴族達の持つ武力は個人としては圧倒的なものがあるが、大勢のぶつかり合う“戦争”では擬似的な壁となる多数の平民達がいなければ結局は数に蹂躙されてしまうのだ。
――それはまるで伝説にある“虚無の担い手”が楯となるべきガンダールヴを失った様に。
そして、そんな彼らの“敵”となった平民達。
彼らはどこにでも――ハルケギニアのすべてに存在しているし、同時にどこにも存在していなかった。
普段は彼らが支配すべき平民達の中に溶け込み、そして時が来ればその姿を現す。
さながらその現象はスカロンが演説で表現したように、まさに“幽霊”という言葉が相応しい。
そんな“幽霊”達に支配されたトリスタニアではおおむね平和な日々が続いている。
トリステイン王政が倒れ、寒さが徐々に緩み始めたトリスタニアが平民達の手に収まってからひと月が経とうとしている中、この地では革命に伴う騒乱、その最終段階とでもいうべき戦い――自らの領地で生き残りを図った封建貴族達との戦いが本格的に始まろうとしている。
トリステインは半年以上に及ぶ国力を超えた戦争と今も続く革命の騒乱によって確かに疲弊していた。
かつて王都と呼ばれていたこのトリスタニアでも戦争、そして革命の騒乱で多くの親を失った多くの子供たちが残され、そんな彼らの多くは未だ日々の十分な食事すら手に入らない。
昼時にもなれば革命前と同様にコミン・テルンの手によって街のあちこちで行われる炊き出しに長い列ができる。
騒乱によって日々暮らす家すら失った彼らは廃材を寄せ集めて作られたバラックの下で未だ厳しい日々の寒さと降りそそぐ雨露をしのいでいることを見るだけでもその事実は明らかだった。
しかし、そんな状況にありながらも人々の顔はどこか明るい。
平民主義革命に伴う旧身分秩序の崩壊。
今まで彼らの上に常に重く圧し掛かってきたそんな身分制度という枷が取り払われた結果、生み出された物質的・精神的な解放感という明るい気分がトリステイン各地であらゆる活動を活発化させてもいたのだ。
その証拠として、春の訪れを感じさせる日々の変化に見合うように食料や物資の流れは徐々にその流量を増やし、トリステインのあちこちへと人や物資を行き交わせつつある。
その光景を例えるならば、まるで早春の雪解け水で増水した大きな川の様でもある。
そう、確かにその流れは戦争に伴う流通機能の低下によって乾ききったトリステインの国土をゆっくりと潤し始めていたのだ。
勿論、未だ供給される物資は十分とは言えない。
しかし、確かに今まで流通機能の低下により周辺地域に留めざるを得なくなっていた数々の物産が運び込まれ、まるで火の消えたようになっていたトリスタニアで日々消費されつつある。
さらにそれらの物資購入の原資としての都市の各種産業が原材料の搬入と共にその息を吹き返し、様々な製品が元々持っていた規模に相応しい勢いで生産が再開される。
誰もがこれまで課せられてきた枷に邪魔されず、自らの利益を求めるために動き始め、解放された農村でもこれまでの封建貴族による支配を脱した平民達が自らの生活を向上させるために増産に努力を傾注し始めていた。
そんな彼らは自らが得た“権利”――そして彼らの将来的な利益――を守るために、その権利を保障したコミン・テルンへとより強く傾倒していくと共にコミン・テルンの持つ地区細胞ネットワークの一部として組織化され、新たな統治機構に急速に組み込まれていく。
同時に王国各地を無数に分割していた分国とも言うべき各地の封建貴族領の崩壊や“解放”はそれまで半ば独立した経済を営んできた地域をトリステインという一つの巨大な市場に統合させる効果をもたらし、王・諸侯軍への兵站の停止に伴う流通機能の回復と各地の貴族の館に死蔵されていた貨幣や食料などの市場へ放出が再びゆっくりと回転を始めたトリステイン経済を徐々に、しかし力強く動かし始めていた。
そんな活気を取り戻し始めたトリスタニアではこれまでのハルケギニアでは決して見られなかった光景が現出していた。
日々、無数の志願者たちが旧王城前広場に終結し、革命軍へと志願しているのだ。
彼らは傭兵のように金を目当てとしたものでもなく、農村出身の徴収兵のように半ば強制的に集められたわけでもない。
槌の音の途絶えることの無い街中があるにも関わらず彼らが志願した理由は単純だ。
なぜならば、この“革命政府”は彼らが初めて手に入れた自分達の政府であるから。
トリスタニアの平民達は自分達の「権利」――それを保障する彼らの打ち立てた新たな政府を守ろうとしている。
無論、彼らの中にはこれまで虐げられた貴族に復讐したいという気持ちも少なからずある。
自分達が打ち立てたという自負のある革命政府に対する愛着や日々の炊き出しなどに対する恩情もある。
――しかし、その中でも彼らを動かす最大の動機は恐怖だった。
王国に叛旗を翻し、王都を奪取した彼らへの貴族たちの報復という恐怖。
ようやく手に入れた「権利」を失うことに対する恐怖。
そうした恐怖から逃れるために、そして自分達の獲得した権利を守るために彼らは徒党を組み、自らの意思で戦地へ向かおうとしていた。
そんな彼らを率いるのは平民達にとっての英雄。
とある御伽話の“勇者”を思わせる黒髪の少年剣士――平賀才人がそこにいた。
誰もの為に自らの危険を顧みない、そんな英雄に続けとばかりに彼らは“勇者”の如き決意と共に自らを戦地へ向かって突き進める。
革命の熱狂に絆されつつ、英雄に憧れた彼らは長きに渡る戦争と騒乱に疲弊しながらもさらなる戦い――革命内戦に続々と赴こうとしている。
――そう、彼らは“戦いを終わらせる為の戦い”に臨もうとしていた。
暖炉から燃える薪がはぜる音が響いた。
その音をきっかけにキュルケは遠くトリスタニアでの思い出に身を寄せていた自らの心を取り戻した。
しかし、相変わらずその視線は窓の外の凍りついた世界に注がれている。
動くものもなく、まるで時の止まったかのような世界。
そんな世界をただ眺めながら、彼女はふと時が巻戻ってくれれば良いのに、と今度は僅か数か月の間に自らを含めたハルケギニアの各地で起こったこの巨大な変化に思いを馳せた。
トリステインの革命と共にハルケギニアは大きく変わろうとしていた。
まるで崩壊の道を転げ落ち始めたかの様な、そんな世界の急激な変化に彼女は驚愕せざるを得なかった――たとえ彼女が一連の対貴族襲撃事件の中でも最悪なもののひとつ、あの『魔法学院爆破事件』の数少ない生き残りであったとしても、だ。
しかし、このハルケギニアの混乱の中で彼女が最も驚き、悲しんだことはそんなハルケギニアで起こり始めた巨大な騒乱ではなかった。
彼女が最も驚き、悲しんだこと。
それは崩壊した魔法学院という凄惨な現場から彼女を安全な場所にまで運び出してくれた親友が既にこの世のものでないと発表されたことだった。
ガリアによる正式なオルレアン家の断絶宣言。
アルビオンに続き、トリステインまでもが崩壊しつつある中、まるで時を計ったかのようにガリア王政府によって発表されたその報せは彼女を驚きと悲しみのどん底にまで追い込んだ。
嘘だろう――。
そう慌てて家人に情報の真偽を確かめさせた彼女には次々と新たな情報がもたらされたが、そのどれもすべてがガリア王家――ジョゼフ派によるオルレアン家断絶が事実であることを伝えるものだった。
公式発表の数日前、彼女の親友は既に何年も前から心を失っていた母と共にひっそりと処刑されたと言うのだ。
処刑の現場を見たものは誰もいないが、その発表以後誰もその母と子を見たものがいないという事実もそのガリア王政府発表の確度を高めていた。
そしてオルレアン家断絶の事実をはっきりと示す為か、公式発表の翌日には荒れ放題だった親友の実家もまるで必要なくなったと言わんばかりに王命によって焼き払われている。
彼女がその事実を知った数日後、ガリアでは報復するかの様に立ち上がったオルレアン公派貴族達の手によってクーデターが行なわれた。
オルレアン公派の筆頭貴族、バッソ・カステルモール東薔薇騎士団団長を中心として行われたらしいそのクーデターによって王の住まいであるグラン・トロワは全壊、オルレアン家の系譜に続いてガリア統合の象徴である王もまたその姿を歴史の舞台から消した。
王であるジョゼフの――そしてクーデター発生時にグラン・トロワを訪れていた筈の王女イザベラも――遺体は最後まで見つからなかったが、まるで巨大な爆発が起こったように完全に崩壊した王宮の瓦礫の下深くに埋もれたのだろうと誰もが推測した。
それを補完する様に、押し寄せた筈のオルレアン派貴族の遺体もまた原型をとどめないほどに無残な形で押し潰されていたのだから。
そして、クーデターによる王の暗殺という政治的衝撃に見舞われた貴族達は誰もが王を失ったこの国で必死に自分の生き残りを図り始めた――あえて書き加えるならば、そんな彼らの内に王の傍に侍らっていた黒髪の一女官の行く末を気にする者など誰もいない。
生み出された巨大な混乱の中で、結集する旗を失ったガリアは貴族同士が互いに争いあう内乱状態へと急速に陥り、かねてから播かれていた無数の騒乱の種――王家とオルレアン公派の対立や新旧貴族の対立――がまるで整えられていたかのように一斉に火を噴きだした。
さらに旧教と新教という宗教対立にトリステインで発生した革命に影響を受けた平民主義といういわば疑似宗教の対立までもが加わり、混迷に拍車をかける。
誰もが自らの生存と利益の為に争いあう中でガリアがこれまで長きに渡って築き上げてきた成果のほとんどが失われ、かつてのハルケギニア最強国はオルレアン家断絶の発表からひと月も経たないうちに完全に崩壊し――かつて始祖ブリミルが歴史にその姿を現す以前の世界の様な原初の混沌とでも呼ぶしかない状況の中に転げ落ちた。
そして遥か西の大洋の空に浮かぶ浮遊大陸アルビオン。
かつて隣室の住人だったあの少女が支配するアルビオン新政権は急速にアルビオンの全土を併呑しつつあった。
トリステインのものとはまた違った考えを持つ反貴族主義政権。
トリステインよりも遥かに長く内戦を続けてきたアルビオンでは内戦に伴う騒乱で国内の流通は壊滅状態にあり、トリステインとの戦争やレコン・キスタ崩壊後の貴族達の戦いに伴う無計画で手あたりしだいの収奪と兵員の招集により国内経済は壊滅状態に置かれている。
そんなアルビオンは完全に疲弊しきっていたこともあってしばらくは動きが取れないであろうが、彼らもまたトリステインに成立した革命政権と同様にハルケギニアに対して何等かの影響を及ぼさずにはいられないだろう――彼女個人としてはそんなアルビオンを制することになった一人の少女の運命を気にせずにはいられなかったけれども。
そこまで考えた時、彼女はふとトリステインを去る時に出会った金髪のトリステイン貴族との会話を思い出した。
そんな貴族のことを思い出したのはその女性がその少女に良く似ていたからだろう。
路肩に脱輪し、車軸の折れた馬車の傍らに一人佇んでいた貴族の女性。
御者にも見捨てられたらしく、その顔にはどこかあきらめの様なものを浮かべていたその女性を彼女は所領――偶然にもその女性の所領は彼女の実家の隣にあった――まで送り届けていた。
そして、別れに際して彼女が混乱の度を極めるトリステインの貴族であるその女性に慰めの言葉を投げかけた時、トリステインのアカデミーで土魔法の研究をしていたという女性貴族は気の強そうな整った顔に心底不思議そうな表情を浮かべ、次いで真理を語るかの様な真剣な表情で別れの際にこう言葉を残していた。
『――お気遣いはありがたく頂くけれど、この問題は私たちトリステインだけの問題じゃないわ。いずれ……いいえ、きっとすぐにあなたたちも当事者にならざるを得なくなるのよ』
その時、彼女はその女性の言葉に含まれていた真意を理解することが出来なかった。
しかし、今になってみればその真意が判る――そう、トリステインで起こったこの問題は単なる平民達による騒乱や蜂起という枠に収まるものではなかったのだ。
彼女の祖国であるこのゲルマニアはハルケギニアの他の諸国と大きく異なる特徴を数多く持っている。
その代表例としてまず挙げられるのが“平民が領地を買い取って貴族になることが出来る”という制度だった。
トリステインを初めとして伝統を重視するハルケギニアの各国から「野蛮」との顰蹙を買うこの制度は当初雪に包まれた未開の地でしかなかったゲルマニア全体の活力を増進させ、北方開拓と国家の発展に大きく寄与した。
しかし、同時に彼女はこのゲルマニアの身分制度とトリステインでの革命がもたらす影響の問題点に気付いた――いや、ハルケギニアの情勢がここまで急速に変化した状況では確かにその影響は彼女の住まうこの帝政ゲルマニアにも深刻な影響を及ぼすことにようやく気付かされたのだ。
“平民が領地を買い取って貴族になることが出来る”
一見進歩的に見えるこの制度であるが、別段ハルケギニアの“常識”から離れたところで生まれたものではない。
それは統治体制の基本に彼女の実家であるツェルプストー家の様な封建貴族を配しているという点でもわかる。
しかし、彼女の気付いた最大の問題はその基本たる「領地」を買い取ることが出来る、という点であった。
貴族とは単なる大規模土地所有者ではない。
彼らはその所領から利益を得なければ生活が成り立たないし、封建貴族としての義務である軍役を果たせない。
土地を耕し、単なる土地から日々“生産物”という利益を生み出す者。
領民として有事には徴収されて兵となり貴族の責務である軍役に動員される者。
そんな平民達がいなければ彼らは「貴族」足り得ることが出来ない。
つまり、これの意味するところ――彼らは貴族となるために土地と共にそこに住まう平民を売買するのだ。
当然、購入された彼ら平民には移動の自由はない――彼らは土地と共に購入されたいわば「資産」なのだ(トリステインを初めとした他国がゲルマニアを「野蛮」と呼ぶ理由の一つに平民に落ちぶれたとは言え始祖の血を引いた“メイジ”を貴族候補の非メイジが売買出来るという点が挙げられる)。
彼らの多くはその土地で生まれ、外の世界を見ることもなくそこで一生を終える。
いわば“農奴”とでも呼ぶべき彼らに隣国であるトリステインで起こった平民達による“革命”がどのような影響を及ぼすのか――言うまでもなく、無関係でなどいられる筈もない。
ある意味でトリステインよりも開放的であると同時に峻厳な身分制度を持つゲルマニア。
今まで彼女の“常識”として一顧だにされなかったその事実を認識したとき、彼女は祖国の持つ構造的な問題点に気付かざるを得なかった。
そして――その問題点が顕在化するのを防ぐために皇帝アルプレヒト三世が何か新たな行動に出るという予測と共に。
彼女の予測は当たっていた。
彼女がそう考えた翌月、遥か北のヴィンドボナでは皇帝が南方への出師準備――動員準備令――を下令した。
もちろん、彼女も全く無関係ではいられない。
皇帝アルプレヒトの下すことになる動員準備令――そこにはゲルマニア諸侯の一員たるツェルプストー家の名も含まれていたのだから。
杖は既に振り下ろされ、撃鉄は火皿に打ち付けられた。
これまでの“常識”とされてきた既存秩序の下での“平和”はその形を失い、新たにハルケギニアに広まった“平和”とは必要あらば自らの血を流すことで維持されるものへと変容した。
平民達は武器を取って立ち上がり、貴族達はこれまで脅しとして空に向けて使っていた杖の先を平民達へと向けた。
『赤い虚無の日』『オラドゥール虐殺』を初めとする幾多の惨劇。
その中で生み出された数えきれない程の犠牲。
そんな無数の流血の中で、多くの平民達の胸にはハルケギニアで最も知られた物語が再び思い起こされつつある。
『イーヴァルディの勇者』
剣と槍を持って悪に立ち向かった勇者の物語。
その物語に記された“勇者”という衝動。
『わからない。なぜなのか、ぼくにもわからない。でも怖さに負けたら、ぼくはぼくじゃなくなる。そのほうが何倍も怖いのさ』
『なんの関係もない。ただ立ち寄った村でパンを食べさせてくれただけだ』
『いいかイーヴァルディ――力があるのに、逃げ出すのは卑怯なことなんだ』
自分自身の在り方――自由を守れ。
誰かの為に自分の持てる“力”を出し惜しむな――誰にも自分の出来る“力”を貸し与えよ。
そして、“敵”には互いが持てる力全てを持って立ち向かえ――誰かの為に、そして自分自身の為に。
いまや平民達は『自由』と『平等』、そして『友愛』に突き動かされ、それぞれの“正義”の戦いへと驀進しつつある。
そんな彼らの“敵”となった貴族達もまた伝統主義という自分達の“正義”を守る為に杖を取ろうとしている。
誰もその戦いを止めることは出来ない。
たとえこのハルケギニアの大地が崩壊しようともその戦いは決して終わることはないだろう。
彼らの胸に自らの信じる“正義”がある限り。
そして互いの信じる“正義”に優劣や正誤をつける術を誰も知らないが故に。
今やハルケギニアでは誰もが遥かな昔にこれまでの秩序を作り上げたブリミルの存在を忘れ去ろうとし、誰もが新たな秩序を打ち立てる始祖たろうとしている。
そう、彼らはかつてハルケギニアに秩序を築き上げた男の様に――ついに自らの手で未来を切り開こうとしている。
もはや誰にも止めることの出来ない巨大な歴史の流れ。
――そのきっかけを生み出したのはとある運命に翻弄された一組の少年と少女だった。
ひとりの少年によって全てを失った少女と、ひとりの少女によって全てを奪われた少年。
何も持たなくなった彼らはそれ故に自らの“力”で己が未来を切り開く必要に迫られた。
異世界の価値観を受け入れることの出来なかった少年は自らの“常識”に従って立ち上がり、同じく追い詰められた少女は新たな“常識”を作り出した。
彼らは世界が与えようとした地位を拒み、自分自身であることを守ろうと決意し行動した。
そんな彼らの存在がハルケギニアに存在した何も持たない無数の人々を突き動かし、ついには世界そのものの構造を変革するに至ったのだ。
何も持たない者達の何も持たない者達による何も持たない者達の革命。
地位も名誉も血縁も蓄財も持たない彼らの決意と行動――それこそが“ゼロ”からの革命を生み出したのだ。
ここでひとまずひとりの少年と少女の話は終わる。
しかし、そんな二人――そして彼らと共に立ち上がった人々にはハルケギニア史上空前の同族間戦争が待ち受けている。
それまでのエルフ達に対する聖地奪回の戦いとはその規模においてもその悲惨さにおいても比べものにならない程の巨大な戦争が。
暖炉にくべた薪がパチパチと音をたてる部屋の中で一人、そんな来たるべき巨大な悲劇と恐怖を予感したキュルケは言葉に出来ない恐怖を感じた。
無意識のうちに背筋が震えるのが判る。
そして彼女は再び手元の粗悪な紙切れを覗き込んだ。
彼女の手の中にある一枚の紙切れの最後はこう結ばれていた。
『――トリステイン平民はこれまでの一切の社会秩序を転覆し、自己の目的を達成したことを公然と宣言する。
支配階級よ、平民主義革命の前におののくがいい。
虐げられた平民達は革命において軛の他に失うものを持たない。
我らが獲得するものは自由である。
全ハルケギニアの平民達よ、団結せよ!』
Revolution of the zero ~トリステイン革命記~ 了
10/09/13追記。
感想等でご指摘のあった部分を一部修正。
ご指摘ありがとうございました。