初夏を迎えたトリスタニアは巨大な嵐に見舞われていた。
黒々とした雲の中で無数の雷が鳴り響き、大粒の雨が叩き付けるように降り注ぐ。
大地にはとめどなく水が流れ、決して止まない風の音が叫ぶように響き渡る。
しかし、それはハルケギニアの自然が生み出したものではない。
それらは人為的に作り出された嵐であった。
無数に鳴り響くのは雷にも似た大砲の砲声。
その閃光が無数の硝煙によって形作られた黒雲の中に光る。
鉛で出来た雨粒は地面に垂直ではなく水平に降り注ぎ、トリスタニアの大地に流れる水の色はどす黒いほどに赤く、粘ついている。
そしてそれらを覆い尽く暴風のように吹き荒び続ける無数の興奮や恐怖、苦悶――そして断末魔の叫び声。
第二次総攻撃が行われているトリスタニア西岸は今まさに激戦地となっていた。
ゲルマニアに向かう様に優先的に工事の進められた東岸部とは異なり、脅威度の低いと目されていた西岸部の防備は薄い。
それは東岸部が全て三重の複郭式稜堡によって構築されているのに対して西岸部はせいぜい二重の稜堡が構築されているに過ぎないことを見ればわかる。
主攻正面とみられていた東岸部の陣地構築が優先された結果、堀は浅く、据えられた砲の数も少ない。
陣地前方に作られた障害物に至っては語るまでもない。
と言っても、トリスタニアに立て篭もる平民達もまたこの現状を甘んじてみているわけではなかった。
ゲルマニア軍主力の西岸部への転進を確認して以来、彼らは有り余る人的資源を動員して出来る限りの陣地の強化を行い、砲を運び込んでいる。
防御陣地自体の狭さという収容量の限界はあるものの、彼らは彼らなりの努力を積み重ねていたと言えるだろう。
「全体ィ――前へッ!」
その言葉を受けて、号令を示す喇叭が鳴り響く。
歩調を取るために一定のペースで太鼓が打ち鳴らされる中、そんな防御陣地へ向かってゲルマニア兵達はゆっくりと前進を続けている。。
その数は攻撃に参加している部隊合計で約3万2000。
先の東岸部での第一次総攻撃に投入された兵力が2万8000であるから、ゲルマニア軍にとって不退転の決意を示した事実上の全力投入に他ならない。
それは最高指揮官たるエステルハージ公爵の態度にも現れている――3万を超える戦力が展開すれば、その展開幅は5リーグにも達する。
事実、今回の総攻撃に際してはトリスタニア西岸部全域で攻撃をかけているのだ。
それだけの戦力を(陣地攻撃という)局所的な一度の戦闘に投入するということは、敵味方を見渡して指揮を執るというこの当時の軍事原則から言えば限界に近い。
そんな最高司令官の意気を知ってか知らずか、各級指揮官の命令に従って兵達は横隊前進を続ける。
たちどころにこれまでの総攻撃と同様に、無数の損害が積みあげられていく。
いや、敵陣地に対する突撃開始線まで行進する、というこの段階ではむしろ前回の総攻撃よりも損害が大きい。
ゲルマニア軍は主攻方面の変更といった利点を生かすために、突撃壕を掘ることなく攻撃に移ったのだ。
密集した隊列が降り注ぐ砲弾によって吹き飛ばされ、投げつけられる銃弾に薙ぎ倒される。
これまでのハルケギニアの常識とは異なって、各歩兵横列は可能な限りの早足で進んでいるが、銃砲弾の嵐に生身を曝していることには変わりがない。
飛来する銃弾や砲弾の破片は相手を区別することなどない。
士官である貴族だろうと兵である平民であろうと構わず襲い掛かり、メイジ・非メイジの区別なく、そして重装甲槍兵と軽歩兵すら認識することすら無いまま平等に砕き、貫き、打ち倒した。
しかし、敵稜堡の防御火力は先日、総攻撃をかけた東岸の7割程でしかない。
防御の為の稜堡の厚みが薄いということは、防御の為の砲火を放つ堡塁や銃兵用の壕の数が少ないということでもあるのだ。
おまけに前回の総攻撃にも劣らない規模で集中された事前砲撃によって、造りの甘かったいくつかの防御構造物が崩壊してもいた。
それでも、未だこれまでのハルケギニアでは考えられない程の防御効果を発揮していることは間違いない。
ゲルマニア兵達はそんな熾烈な砲火の中、数百名もの損害を出しながら駆け続ける。
その光景をゲルマニア軍トリステイン侵攻軍総司令官、エステルハージ公爵は4リーグ離れた総司令部天幕の傍で眺めていた。
エステルハージが手にした望遠鏡のレンズには今まさに死地に飛び込む兵達の姿――そして文字通り壕の埋め草となった無数の兵達の遺体が映っている。
それら生み出しているのはやはり途絶えることなく閃光を発し続ける敵防御陣地群からの防御砲火であり、彼らが落とすべき、“要塞”だった。
「やはり損害が多いな――」
エステルハージの言葉に傍らに立つ参謀長、ハルデンベルグ侯爵が答える。
「はい閣下。前回の総攻撃で突入した先鋒部隊からは、敵の防御陣地群はきわめて巧妙なものだとの報告も入っています。中央後方の敵防御陣地を突破するためには、その左右前方の防御陣地を無力化しなければなりません。そして、その間も敵の防御砲火が降り注ぎ続けるという訳です」
先端が尖ったように突き出された防御陣地は、必然的に突入する敵兵をその懐奥深くに誘うかのように構築されている。
さらにその防御陣地は稜堡の間に次の防衛線の稜堡が突き出す構造のため、第三防御線の稜堡を確実に奪取するためには第一防御線の3つの稜堡を占領なり、あるいは制圧なりしなければならない。
当然、その間も防御砲火は絶えることなく降り注ぎ続ける。
一方で、進めば進むほど左右から迫る稜堡の外郭によって戦闘可能面積は低くなり、敵の防御砲火の密度と命中率が増し、一度に大量の兵で押しかけた攻撃側は防御用の堀や逆茂木、そして土堤に阻まれて勢いを失う。
突撃の勢いのままに密集した彼らは左右、そして前方上部から撃ちかけられる十字砲火に身動きを封じられ、ただひたすらに損害を積み重ねるのだ。
「厄介だな」
エステルハージはぽつりと呟く様に感想を漏らした。
ハルデンベルグもまたそんな呟きに「はい、閣下」と応じた後で自信に満ちた明るい声で続けた。
「しかし、やれますな。敵の防御砲火は相変わらず熾烈なものの、東岸部程のものではありません。防御陣地そのものの狭さも相まって、敵がこの方面に投入できる火力と戦力は限定されたものと言えます」
その答えにエステルハージもまた頷いた。
確かに最初の損害は大きいものの、敵の火力は前回の総攻撃程ではない。
このまま行けば確実に防御陣地を突き破り、日が残るうちに後方の平民街に突入することが出来る。
――そんなエステルハージの予想を肯定するかのように伝令が駆け込み、報告した。
「報告します、モンベリアル伯爵旗下のルートヴィヒ連隊が外周部の敵防御陣地内への突入に成功しました。現在、部隊は防御陣地内の敵と交戦中であります」
その報告を受けてハルデンベルグが即座に進言する。
「突破口が開けましたな、ただちに増援を送りましょう!」
そうすれば現在戦闘中の部隊の一部が敵の後方防御陣地に取り付けます、と口にしようとした時、敵防御陣地内に30メイル近い巨大なゴーレムが現れ、ようやく出来かかった橋頭堡を文字通り踏みつぶした。
「ああっ……!」
そう悲痛な声を上げたのは将校伝令として駆け込んできた若い貴族だった。
攻略拠点となるべき橋頭堡を潰されてはどうしようもない。
後続の増援の無いルートヴィヒ連隊の兵達は、たちまち雲霞の如く湧き出る敵の兵に押されて殲滅されていく。
当然のことながら、トリスタニアに立て篭もる平民達がそう簡単に諦める筈もなかったのだ。
街中から防御陣地へとつながる道には粗末な武器しか手にしていないとは言え、無数の兵達が次々と吐き出され、続々と戦闘に投入されていく。
トリスタニア西岸部外郭防衛陣地で繰り広げられる戦いは、まさに力比べの様相を呈しはじめていた。
侵攻側のゲルマニア軍には貴族士官のもたらす高い指揮能力と武器の優位性があり、一方で防御側のトリステイン革命軍には郷土防衛戦に伴う高い士気と無尽蔵にも思える数の優位があった。
「敵の増援を防がねばならん」
その光景を眺めていたエステルハージは呟いた。
続けて彼は地上兵力以外に投入可能な戦力について口を開いた。
「オーフェルヴェーク(特設砲兵連隊指揮官)に敵第2防御陣地周辺への砲撃を再開するよう伝えてくれ」
「しかし、それでは味方を巻き込みかねません!」
ハルデンベルグの反論が響く。
砲身も短く、腔線も施されていないこの時代の砲では精密な砲撃は困難であった――よほど至近距離のものを直射弾道で狙うものでもない限り、まず直撃が期待できない。
それが曲射弾道であるものならば尚更、数を投入して公算射撃を行うしかないのだ。
無論、確率論に依存する公算射撃ではよほど敵味方の距離が開いていなければ敵陣だけでなく、味方に砲弾が降り注ぐことを覚悟せねばならない。
「多少の犠牲は覚悟の上だ。今敵の増援を防がねば戦っておる者達は全滅する――そうなっては何の犠牲か!」
エステルハージのその言葉にそれでもなおハルデンベルグは食い下がった。
「砲兵は既に弾薬をあらかた撃ち尽くしております。現在の砲弾は一門あたり10発に満たない状況です」
「ならば竜騎兵だ、砲兵には攻勢に参加していない部隊の砲弾をかき集めて回せ!」
エステルハージは簡潔に、そして言い訳の余地を全く与えない口調でそう答えた。
彼にはこの攻撃で竜騎兵部隊が大損害を負うことが判っていた。
しかし、竜騎兵をたとえ温存したところでこのトリスタニアを陥落させられなければ何の意味もない。
そう考えるエステルハージの目に自らの領地で編成した部隊の姿が映った。
自身の部隊温存との批判を受けない為に、彼の手持ちの連隊の一つは甥っ子の指揮を受けて、最も危険の高い戦場に投入されていた。
彼らは無数の砲弾や銃弾の嵐の中でその任務を達成していた――その引き換えとして連隊の兵の多くが命を差し出すことを必要としたが。
しかし、それだけの犠牲を出しながらも陣地突破の成算は未だ確実とは言い難い。
敵はまるで無尽蔵のようにあふれ出てくるのに対し、味方は敵の弾の嵐の中を抜けてゆかねばならないのだ。
ならば、こちらもまた敵に火力を叩き付けてその増援を防がねばならない。
「ヴァルデック侯爵の部隊再編は完了したのか?」
そう判断したエステルハージは敵防衛線に複数の突破口を開くべく、新たに投入可能な戦力について尋ねた。
ただちに参謀長たるハルデンベルグが再編中だった部隊についての詳細を述べ上げる。
「は、先程再編を完了したとの報告が入りました。二個連隊強――およそ4200名の投入が可能です」
「すぐに投入しろ、予備に指定したヴィッテンベルク、ブラウンシュヴァイクの両連隊も出す」
エステルハージはそう端的に、非情な色を込めて言った。
そんなエステルハージの言葉にハルデンベルグが気圧されたようにおずおずと口を挟んだ。
「しかし、そうしますと手持ちの予備兵力が不足することになりますが……」
ハルデンベルグのその答えにエステルハージはしばらく黙考した。
東岸部に展開した部隊は引き抜くことは出来ない。
彼が東岸部に残した兵の主力は要塞攻略に不向きな騎兵が主であったし、これ以上東岸部の兵を減らすことは兵力数で優位に立つ敵が万が一押し寄せた時に防ぎきれない可能性がある。
東岸部に置いた部隊が撃破されれば彼の率いるトリステイン侵攻軍主力は川を挟んで孤立することになるのだ。
そうなればもはやトリスタニア攻略どころではない。
このトリスタニア攻略戦が始まって以来、出戦する傾向を全く見せていない平民達だが戦意不足ということは決して無いはずだ。
それは目の前で怒涛の如く攻撃部隊に押し寄せる敵の姿を見れば明らかだった。
「……チェルノボーク守備部隊からどれほど引き抜ける?」
沈黙から一転してエステルハージが口にしたのはこのトリスタニア攻囲軍の最前線物資集積所となっていたチェルノボークの守備部隊のことだった。
「はっ、およそ3000名程度かと。迅速に行動すれば夜半までには到着するかと思われます」
その言葉にハルデンベルグはエステルハージの意思を確かめるように、本当に宜しいのですか?と付け加えて尋ねた。
そんな参謀長の言葉に司令官であるエステルハージは頷きを返す。
今日中に西岸部の主要稜堡を落とすために、手持ちの主力をすりつぶしても構わない――今や彼らにはその方法しか残されていないのだ。
とにかく手持ちの戦力を投入し続け、その勢いだけで敵の増援を戦闘正面の狭い平民街に押し込む。
敵を平民街に押し込んでさえしまえば、戦闘正面が限定されることにより敵の最大の利点である数の暴力が失われ、個々の戦闘能力に勝るゲルマニア軍が優位に立つことが出来る。
そして、明日以降にかき集めた予備部隊を使用して東岸部への突破を図る。
未だ戦闘に参加せずに体力を余している部隊ならば、迅速に行動が可能な筈だった。
尤も、これまでのハルケギニアの軍事常識から言えば、それ以前に敵が主防御線喪失と士気低下によって降伏することすら期待出来る筈である――が、それでも次の攻撃の準備は行っておかねばならない。
エステルハージ自身はチェルノボークから呼び寄せた無傷のその部隊を、明日以降に発生するかもしれない市街突破戦に投入するつもりだった。
「――命令、チェルノボーク守備部隊指揮官は最低限必要な守備戦力を残し、可及的速やかにトリスタニア西岸部へ展開せよ。展開完了後、同部隊は総司令部予備に指定する」
そうはっきりと命令を下したエステルハージは睨み付けるかのような形相で、激戦の繰り広げられるトリスタニアを見つめ直した――そんな彼の眼に映ったのは、無数の火薬の燃焼が生み出した黒煙に包まれた“要塞”の姿。
まるで悪魔の城のようにその“要塞”は敵味方を問わず、今もまた無数の人命を生贄に求め続けていた。
激戦の繰り広げられる戦場からやや離れたトリスタニア東岸部。
遠雷のように砲声が響き渡るその場所は、ある意味でハルケギニアの常識を超越した場所だった。
元装飾職人の男が炉を使って鉛を溶かす傍らで、10歳前後と思しき子供たちが粘土を捏ね上げて銃弾の型を作る。
子供たちが作り上げた型に溶けた鉛を注ぎ込んでいるのは20~40代の女性達。
街のあちこちに急増された小さな炉の燃料は、驚くべきことに砲撃で崩れ落ちた家の廃材だった。
もともと備蓄されていた木炭はそのほぼ全量が火薬の製造用に回された為、彼らは砲撃で崩れ落ちた廃材を使って無数の銃弾を製造していたのだ。
その奥では同じく急造の溶鉱炉で鉄の砲弾を製造すべく、原料となる鉄鉱石やコークスが次々と放り込まれていた。
こちらも同様に、多くの女性や子供達が職人達の指示を受けながら一斉に巨大なふいごを踏み、コークスや鉱石を運び込んでいる。
「コークスが足りねぇぞ! 鉱石もだ! 昼までにあと最低100発、いや150発は納入してみせてやらなにゃあ、戦っとる連中に申し訳がたたねぇぞ! じゃんじゃん持って来い!」
溶鉱炉を中心とした作業場を駆けまわるようして作業を見つめる親方が怒鳴る。
かつてのように自ら槌を振うのではなく、不慣れな作業を行う女子供に指示を下すのが親方の今の仕事だった。
出来上がるのは彼の目から見て納得などいく筈もない粗悪な急造品ばかり。
彼としては不本意なのだが、一発でも多くの砲弾を初めとした武器が必要な状況とあっては文句を言う余裕などない――いかに高品質な武器を作り出したとしても、このトリスタニアが陥落しては何の意味もないからだ。
一本の名剣よりも10本の粗悪な剣。
10本のトライデントよりも100本のパイクが求められるのだ。
それは材料にも当てはまり、包囲前に運び込まれていた各種原材料が後先なく、そして惜しげもないままに注ぎ込まれる。
そして、質はともかく作業に従事する人間の数が膨大なだけあって、昼夜兼行で行われるその生産量は通常の数倍に達し、それらの武器は次々と集まる平民軍の兵士達の手に渡っていく。
そこから少し離れた場所では“空飛ぶヘビくん”用に薄い板金で作った鉄の筒の中に、燃焼速度を遅めに調合した火薬を装填する作業が同じく若い女性達の手で行われていた。
これまではコルベールを初めとしたメイジや熟練した職人の手によって材料調達から発射機への装填まで細々と行われてきた作業だが、今や戦場と化し、一発でも多くの“空飛ぶヘビくん”が必要とされる状況ではそんな贅沢は言っていられない。
働ける非戦闘員の平民達が弾頭・推進剤の装填、部品の製造と組み立てに動員され、メイジ達は誘導装置である探索魔法発信機の生産に専念することになったのだ。
結果として不発率が上昇することは避けられないが、その決断を下したトリスタニア防衛最高責任者であるシエスタはそれを上回る生産量を実現することによって補うつもりだった。
まるで巨大な露天兵器工場と化した旧貴族街跡地からは、続々と西岸部への増援部隊が送り出されていた。
革命の騒乱で焼け焦げ、崩れ落ちた旧貴族街はあちこちに屋敷の面影を残す廃墟と瓦礫の散乱した広々とした広場に代わっている。
そんな広場に無数の兵達が作り出す足音が響き渡り、砂塵が舞う。
肩に槍を抱え、腰に剣を差した彼らの姿は押し寄せるゲルマニア軍の攻撃を受け続けるトリスタニアの中では言葉で表現できない程の頼もしさを醸し出している。
予備兵力として後置されていた彼らは、今まさに激戦地となっているトリスタニア西岸部の防衛へ赴こうとしているのだ。
死地に向かう彼らを鼓舞するかのように吹き渡るのは既におなじみになった『ラ・ローシェルス』。
“我らに向かって暴君の血塗られし軍旗は掲げられたり”
“すべての者が汝らと戦う兵士――もし我らが倒れれば、再び土が生み出さん!”
誰もに現在が危機の最中であることを思い起こさせる旋律と歌詞が響き渡る。
それに続いて吹奏されるのは革命軍軍歌『我らが剣』。
『ラ・ローシェルス』の心に深く何かを刻み込む長調の響きとは異なり、誰もの心を高揚させる短調で勇壮な曲だった。
“戦乱の6242年、トリスタニアに現れ――あらゆる敵に常に勝利し、貴族の圧政者を打ち破った”
“決して屈さぬ伝説の我らの剣は――幾多の戦いで勝利の喜びを得た”
『我らが剣』――革命の最中の黒髪の少年剣士の姿を謳った歌詞と響きが士気を急速に高める。
革命の象徴となった少年、そんな英雄に続けとばかりに進む彼らに向かってトリスタニア住民達から大きな歓声が沸きあがる。
誰もが彼らこそが敵を押し留め、粉砕してくれることを願い、祈り、信じていた。
しかし、彼らが向かおうとしているトリスタニア西岸部は今まさに大混乱の極致にあった。
街路には防衛の為に東岸部から西岸部の前線へ赴こうとして先発した増援部隊と、西岸部から東岸部へと避難する人の群れが入り交じり、あちこちで大渋滞を招いている。
そもそも本来、こういった事は想定されていなかった――トリスタニアを取り囲む外郭防衛陣地こそが絶対防衛戦であり、彼らはそこで最後の一兵まで戦うつもりだったのだ。
その利点は前回の総攻撃時に遺憾なく発揮され、トリステイン平民軍は充分に(といっても陣地自体は未完成だったが)構築された縦深のある稜堡群によって、3万近いゲルマニア軍の突撃を防ぎ切った。
ところが今は当初想定されていなかった状況に陥っていた――彼らは最後まで戦うべきとされたその場所にたどり着くことが出来ないのだ。
文字通り空から降ってきた災厄のごとく、増援部隊阻止のための砲撃がトリスタニア平民街に降り注ぎ、竜騎兵が街中の動くもの全てに襲い掛かる。
あまりの数故に統一された軍装を持たない(そして防具の不足故に、着の身着のままに槍状の木の棒を担いだものさえいる)増援部隊に対して、ゲルマニア兵には戦闘員と非戦闘員を見分ける区別がつかない。
結果として非戦闘員たるトリスタニア住民を無数の悲劇が襲い――悲劇の連鎖が東岸部に向かって逃げ延びようとする平民達の巨大な流れを生み出し、さらに巨大な悲劇を生み出した。
本来ならばこうした混乱を事前に回避する為に事前の調整や避難を実施するべきであったのだろうが、誰もが目の前のことに追われる中でそうした必要性について誰も気づかなかった――いや、たとえ気付いていたとしても半ば包囲されたこの都市の中にそれだけの人間を安全に受け入れられる場所もない。
「竜騎兵だ! 逃げろぉ!」
誰かがそう大声で叫ぶ。
その声に誰もが上空を見上げる中、身動きの取れない平民達に急降下した竜騎兵が襲い掛かった。
無論、平民側もただ逃げ惑うだけではない。
即座に何発もの“空飛ぶヘビくん”が迫りくる竜騎兵に向けて撃ち出される。
同時発射された10発近い“空飛ぶヘビくん”の前に、7騎の竜騎兵が攻撃前に撃墜されるか回避機動を余儀なくされる。
しかし、残りの竜騎兵はそのまま平民街の上空に侵入して火炎ブレスや魔法攻撃を開始する。
降下時の独特の風切り音と共に吐き出された火竜の火炎ブレスがたった一撃で数十人の平民達を兵や住民の区別なく吹き飛ばし、燃やし尽くし――そして逃げ惑う平民達の間にその数倍の圧死者を生み出した。
言うまでもなくこれまで竜騎兵を阻み続けてきた“空飛ぶヘビくん”は効果を発揮しつつあるものの、偵察の様な単騎襲来ならばともかく、損害を顧みず一度に100騎近い大量の竜騎兵が投入された状況では、即座に制圧しきることは出来ない。
降下襲撃を終えた竜騎兵達は一斉に竜の頭を上空に向けて上昇・離脱していく。
そんな竜騎兵達を追う様に、再び何発もの“空飛ぶヘビくん”が発射される。
後にその攻撃対象とされた竜騎兵達から恐怖を込めて“ガラガラヘビ”と呼ばれた“空飛ぶヘビくん”はその名に相応しく、のた打ち回るような噴射煙を曳きながら中空に向かって昇って行く。
そんな“空飛ぶヘビくん”の一発が命中し、トリスタニア上空に轟音を響かせた。
爆発によって千切れ飛んだ火竜と人間との混成物が無数に平民街の屋根に降り注ぎ、地上からその光景を目にした平民達の歓声が響く……が落下物の真下にいる者達にとってはたまったものではない。
落下した巨大な竜の死体が粗末な民家を押しつぶし、高空から降り注ぐ大きな砕片は人一人を殺すのに十分な威力を持っている。
一つの混乱がさらなる大混乱を招き、そしてその混乱を解決する過程でさらに大きな混乱が発生する。
そして、一度発生した混乱はそう簡単に収まることはない――ましてや他の場所でも同様に上空からの襲撃が行われているのだ。
結果、西岸部の防御陣地に向かう増援部隊の行動は遅滞を余儀なくされていた。
まさにゲルマニア軍竜騎兵は自らの身を削ることによって、地上軍主力が外郭防御陣地線を突破するための時間を生み出しているのだ。
そして彼らの死がもたらす事実は――トリスタニアは今や身を覆う堅固な鎧を失いつつあるということだった。
「まったく、何度も何度もキリがないったらありゃしないよ!」
マチルダ・オブ・サウスゴーダは荒い息を吐きながらそう毒づいた。
ゲルマニア軍主力の西岸部転進を受けて、東岸部防備指揮官から西岸部防備指揮官に転じた彼女は、無数の兵士達が互いに死力を尽くしあう中、今や最終防衛線にして最前線となった第2防衛線のとある稜堡の一角で敵の突撃を阻止したばかりだった。
今の彼女が守る第2防衛線に対する敵の突撃は既に4度目を数え、それ以前の外周部、第1防衛線で放った大規模魔法の数は今日だけで10を超える。
おまけにその薄い防御線にゲルマニア軍は、前回の東岸部総攻撃を上回る戦力を絶え間なくぶつけてきているのだ。
さすがの彼女も戦闘指揮と何度もの大規模魔法の行使によって、肉体的・精神的に限界に近い。
「そうね、だけどアタシたちはこんなところで負けられないわ!」
そう、彼女の背後から声が聞こえた。
思わず振り向いた先に見えたのは、頑丈そうな長剣を抱えた逞しい男達の姿だった。
張りつめた筋肉を包むぴっちりとしたレザースーツ。
胸には、かなり重い筈の胸甲が素肌に張り付くように鈍く輝いている。
その奇妙でガチムチな姿をした男達の先頭に立っていたのは、名目上とは言え、今やこのトリステインの象徴であるコミン・テルン議長のスカロンだった。
「ミ・マドモアゼル!“魅惑の妖精”隊、全員そろいましたぁ。落伍者はありませんっ!」
スカロンと同じく、半ば素肌の上に胸甲を付けた髭面の逞しい男が甲高い裏返った声で報告する。
報告する内容とは異なって、口調はどこか女性っぽい。
マチルダにとって普段ならあまり直視したくない集団だが、戦力の補充がほとんど途絶えている現状ではこの300人程の部隊が何よりも頼もしく見える。
今や混乱の最中で、手に殆ど武器を持たない伝令でさえ到達することが困難な西岸部へ急遽移動してきたその部隊。
“魅せる”ために鍛え抜かれ、培われた彼らの筋肉は、日々体を鍛えている軍人でさえ5分と走り続けるのが困難な重量を持つ装備を抱えたまま混乱の極致に達した表通りを避け、裏道を幾度も迂回しながらここまで駆け付けてきたのだ。
その事実だけで今、彼女の目の前にいる部隊の精強さは明らかだ。
ましてや彼らは重く、動きの遅い胸甲を付けた重装歩兵に分類される部隊であるならばなおさらである。
「トレビアン」
そんなスカロン率いる部隊のやりとりに、マチルダはこれまで心に重く圧し掛かってきた現実からいったん引き離されていた。
しかし、同時に彼女はその一瞬のやりとりのうちに普段の冷静な心を取り戻してもいた。
……あるいはそれがスカロンの目論見だったのかもしれない。
今、素肌の上に密着する様なレザースーツを着込み、その上に胸甲を付けているという異様な恰好で傍らに佇む男は、人生の半ばを費やしてコミン・テルンという秘密革命組織を率いてきた男なのだから。
スカロンの意図に気付いたマチルダは、やられたね、と言わんばかりの笑みを浮かべざるを得ない。
そのまま一息に大きく息を吸い込むと、誰もに聞こえる様な大きな声で告げた。
「――行くよ!」
その言葉と同時に彼女はもう何度目になるか判らないほどになった杖を振るう。
この戦闘の間、彼女は指揮官と言うよりも専ら人間火力砲台として敵の橋頭堡を潰すことに専念していた。
無論、防衛戦闘だから出来ることで、通常の攻勢戦闘ならば指揮に忙殺されてそうはいかない。
彼女に付き従う兵達もまたその損害が酷く、彼女の周囲を警戒すべき人員すら陣地から敵を駆逐する部隊に引き抜かれているため、彼女の周囲には数えるほどの護衛しかいない。
その護衛すら半ば傷を負い、彼女の魔法攻撃と連動して行われる反攻に参加させられないと判断された者達がついている始末だった。
それは総兵力で勝るトリスタニア平民軍が一転して局所的な兵力不足に陥っている証拠に他ならない。
誰も想定したことの無かった避難民という存在。
その奔流に巻き込まれて身動きの出来ない増援部隊に、味方撃ちを恐れない敵の阻止砲撃と竜騎兵による阻止攻撃が襲いかかっている。
それらの結果として生まれた大混乱の中で局所的とは言え、ゲルマニア軍は一時的な戦力の優位を実現したのだ。
彼らゲルマニア軍とて増援を受け取るためには、今もなお降り注ぐ鉄の雨の中を掻い潜って進まねばならないが、勢いに勝る彼らの怒涛の様な攻撃を凌ぐことは決して易しい事ではない。
彼女の精神力によって防御陣地に空いた穴の付近に巨大なゴーレムが姿を現す。
攻防戦の続くトリスタニアでは既に見慣れた光景だが、間近で見るゲルマニア兵達にとっては恐怖以外の何物でもない。
常人では対抗する術の無い巨大なゴーレムが、ゲルマニア軍の確保していた防衛線の穴を踏みつぶすようにして塞ぐ。
その光景を確認したスカロンが振り上げた手を下し、甲高い裏声で叫ぶ。
「いくわよ、妖精さんたち!」
そして、その命令に従って、孤立した敵部隊に女装…もとい重装歩兵たちが高所から転がり落ちる岩のような勢いで突撃を開始した。
「おんどりゃぁあああああ!」
誰もが(生理的にも)身を竦めずにはいられないであろう、その吶喊の声がトリスタニア西岸部に響き渡った直後、隊列を組んで構えようとしたゲルマニア軍歩兵横列にスカロン率いる重装歩兵達が接触した。
衝突の瞬間、鈍く、重い金属の衝突音と何かがへし折れる音が響き、同時にゲルマニア軍最前列の兵が文字通り撥ね飛ばされて宙を舞う。
巨大な衝撃にゲルマニア軍の隊列が凹まされるように歪み、乱れる。
そして、生じた亀裂に後続の重装歩兵達が凄まじい勢いのまま、次々と突入していく。
一度穴をあけられた隊列は弱い。
隊列の乱れたゲルマニア軍に向かって、当初よりもだいぶ目減りした他の逆襲部隊が敵を稜堡の下へ押し戻そうと武器を抱えて突撃を開始する。
彼らは動揺する敵の中へと飛び込んだ。
乱戦。
しかし、敵は増援を受け取れないまま混乱しているのに対して、味方はその勢いに勝る。
このまま彼女が防衛線の穴を塞ぎ続けることが出来れば、確実に侵入した敵を駆逐できるだろう――そう思った瞬間、背後に敵砲兵の放った砲弾が落下した。
爆風が彼女を薙ぎ倒すと同時に脇腹に熱い鉄が差し込まれたような痛みを感じさせる。
「マチルダさん!」
悲痛な叫びが上がり、彼女の異変に気付いた周囲の味方が慌てて彼女の救援に駆けつける。
しかし彼女の口から洩れるのは苦痛の呻きだけ。
さらに悪いことに、防衛線の穴を塞いでいた彼女のゴーレムが崩れ、逆襲部隊を上回る数の敵兵が続々と押し寄せ始めた。
スカロンの率いる部隊の戦闘力はさすがに凄まじいが、倒す敵を上回るペースで増援を送られてはさすがにどうしようもない。
突撃の勢いが失われ、徐々に後方に押し返され始める。
こうなっては誰も敵を押し留めることは出来ない。
トリスタニア西岸部の最終防衛戦たる第2防御線の稜堡が蹂躙される。
彼らの前にはもはや剥き出しとなったトリスタニア西岸部の平民街が広がっていた。
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今回もトリ革の外伝をお読み頂いてありがとうございます。
麦のんSSのために女性心理描写を学ぶべく『とらどら!』を読むことに日々を費やしている作者のさとーです。
この外伝は本来、本編の44話くらい~相当の部分だったものを編集した上で短編としたものです。後編は全く書いてなかったので遅くなりますが、ある意味革命後の第二部と言い換えてもいいかもしれません。
ちなみにこれはタバサと対比になる予定のシエスタ編と言った感じでした。(第一部の才人:ルイズという主人公格に対して第二部ではタバサ:シエスタがメインの予定でした)
でも、もうゼロ魔でも魔法でもないので却下したものです(笑)
追記。
10/12/07加筆修正。