――――――――――――シエスタは暗闇の中を必死に走っていた。
暗闇の中を既に数時間もの間走り続けた彼女の足の裏には、石や小枝を踏みつけたために出来た無数の傷が出来ていた――そう、彼女は裸足だったのだ。
履いていないのは靴だけではない。
少女は申し訳なさげに体を覆う露出度の高い下着姿だった。
一応、体を覆うようにぼろぼろになりつつある大きな布――シーツだったもの――を体に巻きつけてはいたが、それが一層彼女の逃走を阻害していた。
ならば捨ててしまえば良いと思われるかもしれないが、いかな夜の闇の中とは言え思春期の少女にはそんなことをする気は全くない。
ある意味で体に巻きつけられたその布切れこそが彼女を精神的に守る最後の一線でもあったのだから。
時折、少女はそのシーツの残骸に足を取られて転倒するが、すぐに立ち上がる。
――そして彼女はただひたすらに「王都」に繋がる道を走り続けた。
才人はトリスタニアのある大通りを歩いていた。
彼が“この世界”に召喚されてからちょうど一週間。
根がマジメな彼の『魅惑の妖精』亭での生活はすこぶる安定していた。
店長は……ちょっとアレだが、娘さんであるジェシカには良くして貰っていたし、お店で働く少女達とのコミュニケーションにも慣れた。
そんな中、今朝はちょっとした買い物――洗い物に不慣れな才人が割った代わりの皿の購入――を頼まれて、とある通りにある店に向かっていた。
と、才人は通りの先に人だかりが出来ているのに気付いた。
取り囲む人々から漏れ聞こえる「……行き倒れだって?」「どこかの屋敷から逃げ出してきたんだろう――」といった声。
――当然、好奇心の旺盛な才人は人だかりの中に潜り込んでいく。
そこで見たのは彼の見知った少女の変わり果てた姿だった。
「シエスタ――!」
思わず才人は飛び出して、シエスタの体を起こす。
その拍子に、彼女の体を申し訳なさげに覆ってたボロボロになった布が滑り落ちかけ、少女の体の傷があらわになった。
「――サ……サイ、トさ…ん」
自らを抱き起こした才人に気付いたのか、少女はかすれかけた声で少年の名を呼んだ。
「一体どうしたんだよ――! 何があった?」
才人は自らのパーカーを手早く脱ぎ、少女にかけてやりながら、何がなんだか分からない、と言った様子で尋ねる。
「わた…し――」
そう何かを伝えようとするシエスタ。
しかし、同時に体を起こされた少女の目に、こちらに向かってやってくる馬車の姿が映った。
それを見た少女は怯えるように体を震わせ、そう尋ねる才人の声に対して、言った。
「――助…け……て」
そう、か細い声で懇願した直後、彼女は再び意識を失う。
そんな彼女に才人がさらに声をかけた直後、人だかりの背後で二頭立ての馬車のいななきが響いた――
人だかりを突っ切るように現れた馬車から降り立ったのは、豪奢な衣装をまとった中年のメイジだった。
周囲の群衆は男が降り立つと、まるで怯えるように左右に分かれて道を形成していく。
男は周囲の人々の存在を無視したかのように悠然とした態度で、気を失ったシエスタを一瞥して、こう言い放った。
「こんなところに居たか――全く平民風情が手をかけさせおって!」
その声色には不機嫌と侮蔑、そして諧謔の色があった。
――その男の声を聴いた瞬間、才人はこの男こそが自身の腕の中の少女を追い詰めたものだと直感的に理解した。
「テメェ! シエスタに何をしやがった――!」
才人は目の前に居る豪奢な男に問いただす。
男はその声を聞いて、初めて才人の存在に気付いたようにして、言った。
「小僧ッ――言葉遣いに気を付けよ! ワシを誰だと思っている、『王宮勅使』ジュール・ド・モットであるぞ!」
「そんなの知るかよ! メットだかポットだか知らねーけど、テメェ、シエスタに何しやがったんだよ!」
「答えやがれ! 返答次第ではただじゃおかねぇ――」という勢いの才人に対して、モットは困惑する。
平民が貴族に対して公然と反抗する――初めての経験とも言える出来事に困惑したモットは、いつもなら相手すらしない筈の平民に対して言い放った。
「その小娘は、使用人の分際で貴族であるワシの頭に傷を負わせたのだ! 相応の代償を支払わせるのは当然であろう! それにワシの名前は――」
――そう高らかに言い放つ言葉に対して、周囲の群衆の誰かが野次を飛ばす。
「どうせこの娘に目を付けて、手篭めにしようとしたんだろう――!」
それはトリステイン――敷いてはハルケギニア全域――の貴族の間で昔から行なわれていた悪習であった。
貴族がその地位を利用して、平民の少女を使用人として雇い入れ、手篭めにする。
――当然、そこには平民である少女には拒否権は存在しない。
もし万が一、問題になっても僅かな手切れ金と共に放り出せば良い――自身の領地での不介入権、裁判権を持つ封建貴族にはそれが出来る。
しかも、このモット伯爵は『王宮勅使』の地位を利用して、魔法学院のメイドを幾度と無く手篭めにしてきていたのだった。
真実を衝かれて顔を真っ赤にしたモットの姿を見て周囲の群衆からはさらに辛辣な言葉が投げつけられる。
「――その頭の傷も手篭めにしようとしたときに反抗されて出来たんだろう!」
――図星だった。
事実、この男はシエスタを手篭めにしようとして彼女に覆いかぶさった瞬簡に、抵抗した彼女が偶然手にした壷で頭を殴られたのだった。
「えぇい! 黙――」
モットが様々な野次を飛ばす周囲の群衆を黙らせようとして魔法の詠唱を行なおうとした瞬間。
「ふざけんじゃねぇ――!」
――その声とともに強烈な右ストレートがモットの顎を捉え、男はそのまま地面に崩れ落ちた。
さきほどまで様々な野次が乱れ飛び、批判の熱狂すら飛び交い始めていた周囲の群衆は一転して沈黙していた。
誰もが呆然とし、そして徐々に平静を取り戻すに従って中心から遠ざかるようにして距離を取りはじめる。
――彼らの視線はトリステインでは珍しい黒髪の少年と、地面に伏している貴族に注がれていた。
「貴っ様ぁ――!」
その沈黙を破ったのは、地面に殴り倒された貴族だった。
地面に叩きつけられたため、埃塗れになりながらもゆっくりと立ち上がる。
――しかし、その体は今まで経験したことの無い屈辱と怒りの為に小刻みに震えていた。
文字通り、真っ赤になった顔には一部だけ青くなった部分。
それがまたユーモラスなのだが、周囲の誰も笑うことは――否、笑える筈も――無い。
直後、強烈な水弾が才人の腹に直撃し、彼の体を道に面した店舗まで吹き飛ばした。
――才人を攻撃したのは言うまでも無く、モットの魔法である。
「言い忘れたが、ワシの二つ名は『波濤』! トリステインに名高きトライアングル・メイジである!」
才人を弾き飛ばしたことによって平静を取り戻したのか、そう高らかに宣言する。
「小僧――! 今、伏して謝罪すれば命だけは助けてやろう!」
モットが「――無論、五体満足では返してやらぬが」と言いかけたとき、巻き込んだ商品の山が崩れて才人の姿が現れた。
頭から血を流しながらも、才人は「――今のが魔法ってやつか」と呟きながらなんとか立ち上がり、男に向かって叫んだ。
「誰がテメェみたいなクソ野郎に頭下げるかよ――!」
――その数分後、幾度と無く魔法によってなぎ倒された才人の体はボロボロだった。
相手が水系統のメイジである為、致命的な傷を負わすに済んでいた――これが攻撃力の強い火系統のメイジや風系統のメイジだったりすればとっくに彼の命は無かっただろう……が、何時倒れこんでもおかしくない、そんな状況だった。
何度目だろう……再び魔法の直撃を喰らい、才人は地面に叩きつけられる。
それでも才人は立ち上がる。
――立ち上がり、目の前の男を殴り倒そうとするが、すでにその足取りもおぼつかなくなっている。
ふらつきながらも数歩前進し――男の魔法によって再び先程までと同じような位置まで吹き飛ばされる。
(絶対に許さねぇ――!)
その強い意志だけが才人の行動を支えていた。
一方で、モットの側にも問題が生じていた。
貴族である自分が殴り倒された、という屈辱は当事者である小僧を嬲る、ということによって多少なりとも解消されていた。
このまま、小僧が泣きながら命乞いをすれば、ある程度モットの名目も立ち、全てを収める事が出来る。
……そういう筈だった。
しかし、目の前の小僧は何度も魔法によってなぎ倒されながらも、そのたびに立ち上がってくる。
依然として結末の見えない状況にモットは困っていた。
時を増すごとに騒ぎを聞きつけた周囲の群集の数は増える一方であり、このまま騒ぎが大きくなれば王都警備隊が駆けつけてくるのも時間の問題だろう。
そうなれば、「王都の平穏を乱した」として政治問題となるのは間違いない。
――しかも、それが「平民を手篭めにしようとした末の騒動」となればなおさらだった。
しかし、理由無く手打ちにすることも出来ない。
このまま小僧を殺してしまえば、問題は表沙汰にならざるを得ないし、これだけの群集が居る状況ではその隠匿もまた不可能に近い。
彼自身の名誉の為にも、この事態を収めるには「小僧が過ちを認め、謝罪する」ということが絶対に必要であったのだ。
――しかし、こうしている間にも衛士がやってくるかもしれない。
モットの焦りは秒針が時を刻むごとに濃くなっていく。
追い詰められた彼は、“最終手段”を使うことにした。
「そこの武器屋――! この小僧に武器を貸してやれ!」
何度目になるかわからない魔法を放った後、モットは通りに面した武器屋の店主に言い放った。
――平民が貴族に武器を向ける。
それは紛れも無い敵対行為であり、貴族は自衛の為に平民を殺しても罪には問われない。
それならば、メイジの側も「理不尽な暴力ではない」とされ、ある程度の言い訳を得られる。
そう考えての行動だった。
当然、そんな狙いは指名された店主にも手に取るようにわかった。
おまけに「武器を貸してやれ」ということは金を払う気もないのだろう。
あからさまに渋る様子の店主に対して、仕方なくモットは言葉を継いだ。
「何をしている! 金なら払ってやる――それとも客であるワシの言うことが聞けんとでもいうのか!」
貴族であり、かつ客であることを強調した言葉。
その命令に対して、苦々しげに状況を眺めていた店主は仕方なく剣の選定にとりかかろうとする――とはいっても、一番安い剣を刺していた樽の中の一本を引っつかもうとした。
――その時、その樽の中から声が聞こえた。
「おもしれーじゃねーか! おい親父、俺をもってけ!」
その声はボロボロに錆びた片刃剣から発せられていた。
インテリジェンスソード。
製法は未だに分かっていないが、ハルケギニアの各地に散在する「知性を持った剣」である。
大部分の人々には何処かの魔法使いが偶然作ったもの、と信じられているが、実際に系統魔法でインテリジェンスソードを作ったメイジは確認されていない。
さりとて、貴重品――という訳でもない。
その存在自体は貴重かもしれないが、自力で動くことの出来ない武器に知性を持たせたところで性能が上がるわけでもない――というか、ぶっちゃけあんまり役に立たないし、鬱陶しい。
すなわち、この世界の住人にとっては「珍しいけれども、とりたて貴重というわけでもない」というレベルの代物だったのだ。
「小僧――! 未だ楯突く気ならその剣を取るが良い!」
――モットの挑発に対して、才人は店主から差し出されたインテリジェンスソードを握った。
その瞬間、左手に浮かんでいた文様が輝くと同時に才人の体から痛みが消える。
さらに、体を動かすのもやっとだった筈の体が羽毛のように軽くなった。
「おでれーた。てめ、『使い手』じゃねーか!」
才人が自身の体に起こった変化に驚きを表す暇も無く、彼の手の中に納まった剣はそう語りだす。
しかし、当然というべきか才人自身には『使い手』云々の意味以前に剣がしゃべることの方が問題だった。
「しゃべる…剣?」
「おうよ! 俺様はデルフリンガー。ま、古びちゃいるがこれでも6000年ばかり生きてる伝説の剣ってやつさ!」
――そう誇らしげに語る声とは裏腹に、刀身はおろか声の出所である付け根の金具まで錆びついている。
しかし、才人はそんなことは気にしなかった。
それまで全身にあった痛みが消え、おまけに体が軽い。
これならば、やれる!そう感じたのだ。
「じゃぁ、デルなんとか――」
「デルフでいいぜ! 相棒!」
才人の言葉に反応したデルフリンガーが答える。
――その直後、少年は駆け出すと共に叫んだ。
「――いくぜっ!」
軽い――
まるで羽でも生えたかのように才人は地を駆ける。
驚いた顔をしたモットが慌てて魔法を唱えるが、生み出された水の刃の速度はさきほどまでの水弾とは比べ物にならないくらい遅い――実際は水弾よりも早いのだが――少なくとも才人にはそう感じられた。
才人は襲い来る水の刃を側方へのステップでかわしながら、モットへと突き進む。
その行動に恐怖を感じたのか、先の魔法によって稼がれた僅かな時間を利用してモットはさらなる詠唱を行った。
「ならば! これならどうだ!」
――その直後、目の前には巨大な波が出現する。
モットの最大魔法――二つ名である「波濤」の由来ともなった――が才人に向かって襲い掛かった。
それは、それまでの水弾の点、水刃の線とは異なる面としての攻撃。
近距離ならば回避不能のその攻撃を前にして、モットは自らの勝利を確信し――
「相棒! 俺を前に構えな!」
――波濤の向こうから響いたその声の直後、モットの確信は驚愕へと変わった。
巨大な波の中心を割るように、剣の先端が姿を現す。
同時に、剣を中心に波自体がまるでそもそもそこに存在しなかったように雲消し――いや、刀身に吸い込まれていく。
そして、消滅した波の向こうには先程までと同じように剣を構える少年の姿。
――その剣もまた、先程までの錆び付いたものではなく、鈍い鋼色に輝いていた。
「相棒! 今だ!」
何が起きたのか理解できず、呆然とする両者の沈黙を破ったのは才人が手にした剣自身だった。
その声に反応したのか、自分を取り戻した才人は再び駆ける。
「うおぉぉぉぉ!」
その吶喊の叫びと共に才人は手にした剣を下段に構え、突き進む。
――その目的はただ一つ、目前の卑劣な男を倒すことのみ。
才人に遅れること数瞬、モットもまた、新たな魔法の詠唱に取り掛かろうとし――
――杖を掲げたモットの腕を、杖ごとデルフリンガーが斬り裂いた。
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今回もトリ革をお読み頂いてありがとうございます。
作者のさとーです。
改訂版の2~4話をお届けします。
第1話のあとがきにも書きましたが、今回の改訂は加筆訂正と誤字修正をメインにしたものです。
よって再構成とかではありません。誤解を招いたのでしたらお詫び申し上げます。
個人的にはさっさと改訂前の旧29話まで進めて、そこからまた進めて行きたいと考えております。
改訂したとは言え、今後ともつたない部分など多いかとは存じますが、どうか生暖かくご支援いただければと考えます。
10/08/07
二回目の改定を実施