――――――――――――ギーシュ・ド・グラモンは浮かれていた。
使い魔召喚の翌日に香水を取り落としたことによって発生した二股騒ぎの後、初めて当事者の一方である少女――ケティ・ド・ラ・ロッタが話に応じてくれたのだ。
ようやく二週間ぶりに口を利いてくれたことに、元々お調子者であるギーシュの気分は最高潮に達したのだった。
ここぞ、とばかりにギーシュはこの一つ年下の少女と遠乗りに出かけることを提案した―――歯の浮くような美辞麗句と共に。
その目論見は見事に成功し、ケティは顔を赤らめながらその誘いに応じたのだった。
当初、学院から少しはなれた湖畔で二人の愛について語らう予定であったのだが……
その湖畔では浮かれに浮かれていたギーシュによる独演会が開催されていた。
もちろん、聴衆は彼の隣にいる少女のみ。
そんな状況で薔薇をあしらった杖を掲げるキザな金髪少年の話は続く。
「――だからね、僕は彼にこう言ってやったのさ! 『君は貴族として恥ずかしくないのかい?』ってね」
滔々とギーシュは彼の持論である貴族についてを語り続ける。
そんな自慢話に当初はきらきらと目を輝かせていた少女であったが、さすがにそれが二時間も続けば、内心で正直うんざりし始めていた。
だからこそ彼女はギーシュが次の自慢話を始めようとする一瞬の隙を狙って言葉を挟んだ。
「ねぇ、ギーシュ様、お聞きになりました?」
彼女が持ち出したのは最近のトリスタニアでの話題だった。
「――なんでも最近、王都で貴族が平民の剣士に負けたそうなのです」
モット伯爵が負傷した事件――平民に負けて命からがら逃げ帰った――は、モット自身による懸命な隠蔽工作にも関わらず、数日のうちにトリスタニア中はおろか、王都近隣の地域にまで広まっていた。
人の噂が広まるのは予想以上に早い。
それがたとえ中世的な情報伝達システム――例外的に飛龍による官用郵便があるが――であってもだ。
特に、『平民が貴族に正面から打ち勝った』といった平民の鬱憤を晴らすような話題ならなおさらだった。
「はっはっは、冗談はよしてくれたまえ。そんなことがある訳ないじゃないか――」
そんなケティの振った話題をギーシュは一笑した。
彼にとっては貴族がただの平民――平民に落ちぶれたメイジなら別だが――に敗れることなど存在する筈が無い、そう考えていた。
「ギーシュ様、それが本当にあったそうなのです――トリスタニアのティー・ハウスでもその話で持ちきりだったのです」
そうは言いながらも「私も怖いのですぅ」とギーシュに枝垂れかかるケティ。
彼女の二つ名は『燠火』。
その言葉通り、表面はなんでもないように見えるが、彼女としてはこの機会にギーシュのもう一方の恋愛相手であるモンモランシー――先日の「事件」で発覚した彼女の競争相手――を出し抜くことをふつふつと熾る炭のようにじっと待っていたのだ。
彼女のそうした行動の背景には、貴族の子弟の集う魔法学院の別の事情も作用していた。
トリステイン――ハルケギニア全体で魔法学院はただ単に貴族に対する魔法や教養、作法を学ばせる場所ではない。
それは貴族の子弟が唯一自由恋愛を楽しめる場所であると同時に、家柄の低い貴族が高位の貴族と結婚する唯一の機会を提供する場所でもあったのだ。
通常、ハルケギニアでは遅くとも20歳までに結婚するのが普通であり、その頃には親族の手で結婚相手が決まっているのが常であった。
当然、その結婚の多くは“家柄に応じた政略結婚”であり、自身の家柄に見合った相手との結婚を余儀なくされる。
しかし、その一方で恋愛結婚による婚約も認められていた。
その場合は当事者間の合意があれば、よほどのことが無い限りそのまま婚姻関係が認められる。
ならば、家柄の低い貴族は考える。
……この慣習を逆手に取って、自らの家柄よりも高位の貴族との間に婚姻を結べないか?
血統を重んじる彼らにとって、そうした関係は利益こそあれ、不利益になるようなことは殆ど無い。
そうした考えに基づき、魔法学院は家柄の低い家の子女にとっての「狩場」となっていたのだった。
今まさにギーシュに甘える少女の行動もそれに習ったものだった。
ギーシュの家はあまり裕福で無いとはいえ、トリステインにも数人しか居ない元帥を務めるほどの軍人の家柄であった。
ならば、ロッタ家にとってそう“悪い”話ではない――ギーシュ自身は四男坊とはいえ、間違いなくグラモン家の一員だったのだから。
そうした考えに基づいた行動を取る彼女が見せた「怯え」に対して、軍人一家の出であるギーシュは言った。
「そんな顔をしないでくれたまえ、君の美しい顔が台無しじゃないか――仕方がない、この僕が君の不安を取り除いてあげよう!」
そう大げさに振舞う少年の言葉に従って、二人は人気の無い湖畔から王都へと馬を走らせた。
「ぎゃッ!」
轟音とともに薄い扉を破るようにして人間が宙を舞う。
続けて、柔らかいものが地面に叩きつけられるような音が響く。
その音が響くと入れ替わりに店の内側から現れたのは、華美な装飾を施された金属のゴーレムだった。
「――おやめ下さい、貴族様!」
そう叫んだのはこの店の店主の妻だった。
店主の妻は青銅のゴーレムを操る金髪の少年の裾に縋りつき、なんとか止めて欲しいと懇願する。
しかし、その行動が少年の癪に障ったらしく、少年は声を荒げた。
「うるさいな――! 汚い手で僕に触れるんじゃない、服が汚れるだろう!」
「そうなのです! 平民の分際でギーシュ様に触るのなんて許せないのです!」
そんな行動を彼の傍らにいたケティの声が支援する。
「退きたまえ!」
そう言って「青銅」のギーシュは縋りつく店主の妻を振り払った。
始まりは些細なことだった。
『貴族を打ち倒した平民の剣士』を探し出して、ケティの前で打ち倒して見せれば彼女の気を引ける、そういうつもりだった。
彼にとって見れば、“平民の剣士”は噂の人物でなくても良かった。
そう、本気で噂を信じていない彼にとっては、彼が倒すべき者は平民の剣士であれば誰でも良かったのだ。
……しかし、彼が聞きに訪れた店の店主にとっては違った。
トリスタニアに店を構え、情報の行き交う飲食店を経営する彼は「噂」ではなく「真実」を知っていたのだった。
彼はその行動がいかに危険で無謀であるかを説明しようとした。
しかし、軍人一家の出身であり、気位の高いギーシュにとって――いや、平民に対して圧倒的な力を持つ貴族全体にとってそれは侮辱以外の何者でもなかったのだ。
そして、そんなギーシュの傍らには「怯えた」様子で寄り添うケティ。
しかも、彼は彼女に“不安の元凶を取り除く”と約束してしまったのだ。
――そんな状況でギーシュが引ける筈もない。
故にギーシュの行動を止めようとした店主は彼の逆鱗に触れてしまったのだ。
血のあぶくを吐きながら路上で身動きすら出来ない状態の店主に青銅のゴーレム――ワルキューレが近づく。
他人に殴られたことさえロクにない彼は人間というものが如何にもろいものかということを理解していない。
ワルキューレはギーシュの意志に従って、その哀れな店主の腹を蹴飛ばす。
そして、実際に金属製ゴーレムで人を傷つけた経験を持たない(魔法学院ではあくまで模擬戦ということで実際に相手を殴ることは無い)ギーシュは自身の持つ「力」がいかに他人を傷つけるか、ということを知らなかった。
そんな考え無しに放たれたその手加減無しの人間離れした力――ゴーレムは通常人間の数倍以上の力を持つ――によって店主は向かいの店の壁に叩きつけられ、ピクリとも動かなくなる。
――その光景を目の当たりにした店主の妻の絶叫が響く。
「どうだ! なんとか言ったらどうなんだい?――『申し訳ありませんでした』ってね」
しかし、自身の「力」に酔ったギーシュは、その声もまるで聞こえない様なそぶりで高々と言い放った。
初めての“実戦”で興奮した彼は店主が既に声を挙げることすら出来ないということに気付かなかったのだ。
「ほら! 何か言いたまえ!」
そして、全く反応しなくなった店主の様子を探るべく、彼がワルキューレを近づけた、次の瞬間。
――何かが彼の自慢のワルキューレを直撃し、側方に弾き倒した。
ガン! という衝突音と共にギーシュのワルキューレを弾き倒したのは、少々大きめの拳大の石だった。
その恐るべき速度を持った石を投擲した方向にいたのは―――剣を背負った黒い髪の少年と少女だった。
黒い髪の少年――才人の怪我がようやく癒えたと判断したシエスタが、才人を外に出したがらないと渋るジェシカを強引に説き伏せたのだ。
さらに「おもしれー、俺も連れてけ!」というデルフリンガーの声もその行動を後押ししていた。
最もジェシカが許可を出した背景には、才人に対するシエスタの気持ちを後押ししたいという感情以上の理由――先日の事件があまり問題となっていないという事実があった。
そうして半時間に渡るシエスタとジェシカの問答の末、久方ぶりに外の空気を吸おうと飛び出した街路で二人と一本は“事件”に遭遇した。
扉を蹴破るような破壊音が街中に響く――
そして、音の発生源の方を見ると、壁に叩き付けられ、血のあぶくを吐きながら横たわる男の姿。
そんな無抵抗な男に迫るように立つ無機質な金属製のゴーレム。
その光景を目にした才人は、傍らに居たシエスタが反応する前に、とっさにゴーレムを阻止する為の行動――傍に転がっていた石を手に取り、投げた――を起こしたのだった。
――ガンダールヴのルーンは「武器」に対して反応し、ルーンの保持者の身体能力と技量を強化するという性質を持つ。
しかし、事態を目撃した才人が手にしたのは傍に落ちていた大き目の石だった。
別に投擲用に加工された石、というわけでもない唯の石。
それでも、「武器」として使用する、という意志にガンダールヴのルーンは発動した。
思えば、人類が始めて手にした武器は石であったのかもしれない。
そして、ルーンの恩恵により、才人は拳大の石をメジャーリーガー級の速度とフォームで目標に投擲し、見事に命中させたのだった。
「何ッ――!」
自身のゴーレムが示す圧倒的な暴力によって愉悦の笑いを漏らしていたギーシュの顔に驚愕が浮かぶ。
――彼の自慢の種だった青銅のワルキューレが打ち倒されたのだ。
さらに、その美しい装飾を施されたゴーレムの頭部側面に大きな凹みと亀裂が生じていたことによって、彼の整った顔に憎悪の念が浮かび上がる。
彼にとっては自身の魔法によって作られた美意識の塊であるワルキューレを傷つけられたということはプライドを直に傷つけられたのと同じことだった。
彼はすぐさま自身のゴーレムを傷つけた犯人を捜し、言った。
「き、君は自分のしたことが分かっているのかい?」
表向きは薔薇の形をした杖を優雅に口元に寄せながら平静を装うギーシュ。
しかし、その言葉の端々から押さえきれない怒りと困惑がにじみ出ていた。
それに対して、才人はそれには答えずに店主に駆け寄り、安否を確かめる。
しかし、店主の首はありえない角度に折れ曲がり、理不尽な暴力を理解できないという形で見開かれた目からは既に輝きが失われていたのだった。
「――どうやら、君は貴族に対する礼儀というものを知らないらしい」
幾度もの問いかけを全て無視されたギーシュの言葉が変化する。
唯の平民に侮辱された上、彼の自慢の種を傷つけられたのだ。
ここで引けば、彼の貴族としてのプライドが許さない――たとえ人を殺してしまったとしても。
彼にとって、貴族としてのプライドは平民一人の命よりも遥かに重いものだった。
故にギーシュは貴族としての誇りをかけて引くわけには行かない。
「見たところ、君は剣士のようだね。ならばかかってきたまえ」
決闘で教育してあげよう!――そうギーシュは言い放つ。
彼女を「怖がらせる要因」である平民の剣士を何人か叩きのめせればそれで良い筈だった。
――それならば、目の前で貴族たる自分に公然と反抗する剣士の存在はちょうどいい。
彼のゴーレムを傷つけたことと併せて、討ち果たしてしまえばいい。
怒りと貴族としての見栄、そして殺人という人生で初めての経験で混乱し、周囲の見えなくなっている彼の思考は既に道徳を捨て去り、いかにこの場での保身を考えるか、という段階に到達していたのだ。
そして、彼がその選択をとった背景には傍で自身を思慕の眼差しで見ているケティの姿があったことも原因だった。
その言葉に反応したのか、才人は店主の遺骸をゆっくりと横たえると、背中に背負ったデルフリンガーを抜いた。
彼の脳裏には先日のモットの傲慢な姿が思い浮かぶ。
他人を平気で傷つけ、その命までをも奪って恥じない存在。
そんな連中の一端として、彼と同世代の少年が存在していることが彼には理解できなかった。
そうした思いを抱きながら才人は剣を正眼に構えると、静かに、しかし決然とした口調で言った。
「――貴族だか知んねぇけど、テメェはそんなに偉いのかよ!」
その質問に対して、さも面白そうにギーシュは笑いながら返す――否、返さざるを得なかった。
貴族である彼からすれば、それは当然のことであり――そこを否定することは貴族たる彼のプライドが許さなかった。
と、同時にそんな質問を受けたのは初めてだった。
“貴族が偉い”――というハルケギニアでのごく当たり前の常識。
その常識に疑問を持つものがいるとは――
だからこそ彼は怒りながらも笑みを作り、自身が信じる貴族という存在を誇張するようにあえて芝居がかった口調で言ってのけた。
「あぁ、当然だね。君のような平民は僕のような貴族の為の存在に過ぎない。僕は君のような無能な平民を統治するために始祖ブリミルから魔法という力を与えられた高貴な存在なんだよ――」
だが、それがいけなかったのかもしれない。
「――てめ、ふざけてんじゃねー!」
その言葉に反論したのは才人ではなかった。
才人の手に握られたデルフリンガーが吼えたのだ。
デルフリンガーもまた憤りを感じていたのだろう。
――平民だけでなく、錆びたボロ剣にまで食って掛かられる。
その言葉を聞いたギーシュはもはや付き合っていられないとばかりに、やれやれと言った感じで、「さて、おしゃべりはここまでだ――はじめよう」と告げ、薔薇を模した青銅の杖を掲げた。
その行動を受けて、才人はデルフリンガーを握り締める。
同時に握り締められた剣に反応して左手のルーンが輝きを放ち、才人の体が軽くなった。
体に震えは無い。
「相棒、あんなやつやっちめぇ!」
そう手の中のデルフリンガーが告げる。
才人の心の震えはすでに頂点に達していた――「他人の存在そのものが自身の為のもの」「他人を家畜の様に扱うことがさも当然」と言ってのける者達に対する怒りという感情によって。
その言葉に答えずに才人は目の前に立つ頭部の凹んだワルキューレを見据える。
その青銅の篭手に握られているのは先程まで使用しなかった青銅の剣。
一瞬しか現れない魔法の刃と違って、目に見える形での凶器。
しかし、その凶器を前にしても才人は引かなかった。
自らの目の前に立ちはだかるワルキューレの先には自らを絶対安全と考える「倒すべき敵」がいる。
ワルキューレが剣を振り上げ、彼を狙う動きを示した瞬間、才人は駆け出す。
ゴーレムを操作することは出来ても、それを動かすのは剣術を知らない素人のギーシュ。
その隙だらけの胴体にデルフリンガーの一撃を打ち込んだ――
青銅とはいえ、一応は鎧を模した胴体をバターの様にデルフリンガーの刀身が切り裂いていく。
通常の剣ならいくら青銅相手とはいえ、折れてしまうであろう胴体を軽々と切断する――デルフリンガーの魔力吸収能力がワルキューレを構成する魔力そのものを吸収しているのだ。
そして、返す刀で今度は袈裟斬りをかける。
四分割されたゴーレムを尻目に真なる目標をめがけて旋風のように才人は駆けた。
「ふん、やるじゃないか!」
しかし、その光景を見てもギーシュは慌てなかった。
素早く杖を振ると、才人の前に6体のワルキューレが現れる。
ドットとはいえ魔法戦闘の上位者であるギーシュは知っていた――彼の誇るワルキューレの優位性は複数ゴーレムの同時使役にあることを。
ワルキューレを1体倒したことには驚いたが、それでも複数の同時攻撃を受けては目の前の剣士に勝利は無い。
しかも、ゴーレムであるがゆえに牽制の攻撃は通じない――1体を犠牲としても、他のゴーレムが目標を討ち果たすのだ。
そんな彼の魔法戦闘の真髄を示すかのように彼のワルキューレ達は青銅の槍を構えて目の前の剣士に突撃していく。
――しかし、それが失敗だった。
才人に向かっていくワルキューレの武装は槍――しかも華美に装飾を施した先端が細まっていく刺突専用のもの。
故に、その攻撃は点。
しかし、先程のゴーレムの剣術と同様に魔法に依存した結果、武芸に秀でるとは言えないギーシュの腕ではその攻撃を担うには余りに稚拙過ぎた。
突き出されるワルキューレ達の槍を才人は斜に構えてかわし、その隙に1体目のがら空きとなった胴をデルフリンガーで切り裂く。
そのまま崩れゆくワルキューレを盾にするようにしながら、才人は突き出された槍をかわすためにしゃがみこむ。
そして、しゃがんだ勢いを生かすように、今度は大きく飛び上がりながら2体目のワルキューレを下から切り裂いた。
3体目と4体目は簡単だった。
2体目をしとめた才人を囲むように挟撃しようと左右から突撃したワルキューレ達の攻撃を才人は難なくかわした――結果、2体のワルキューレは突撃の勢いのままに互いの体に激突したのだ。
その隙に5体目を切り裂いた才人に、ただ1体、ギーシュを庇うかのように守っていた最後の1体が襲い掛かる。
しかし、それまでに複数体の襲撃を難なく回避した才人にとってはそんな直線的な攻撃は簡単に回避できるものだった。
突き出された槍そのものを無視するかのようにして、正面から才人はデルフリンガーをその6体目のワルキューレの腹に突き刺した。
そうして6体のワルキューレを無力化した才人がギーシュに迫る。
その光景とこれまで経験したことの無い、自身に迫る明確な殺意に初めてギーシュは怯えた。
「うわぁぁぁ――ぁ! ま、まいっ――」
しかし、その言葉が最後まで紡ぎ出されることはなかった。
才人はここ最近の自身を襲った不条理に怒っていた。
突如として自身を奴隷にしようとした存在。
他人の人生を狂わせることになんの躊躇も感じない存在。
そして、他人の命までも奪って恥じない存在。
そんな怒りに満ちて心を震わせる彼の耳に、目の前の貴族少年の叫ぶ言葉は入らなかった。
そして、彼はその怒りをその一撃に叩きつけたのだ。
才人は冷静に怒ったまま、下段から目の前の少年を切り上げた。
以前にも感じたことのある刃が肉を斬る感触。
同時に、むせ返るような血の臭いが嗅ぎ分けられた。
――しかし、不思議と前回の様に吐き気は襲ってこなかった。
そして、一つだけ理解したことがあった。
才人の世界には存在しなかった「貴族」という存在。
正確には在ったかも知れないが、他人を力と恐怖で支配し、傷つける存在は彼の住んでいた世界(と言っても才人は外国に行ったことなんて無い――つまり日本では)では過去の遺物であり、歴史の苦手な彼が、制度としての名称はともかく、当時の実情なんて知るはずもなかった。
しかし、今は違う。
魔法使いの居る「ファンタジー」の世界。
そこは彼の想像していた空想世界――誰もが幸せに暮らす世界――とは似ても似つかない世界だった。
彼が想像だにしていなかった差別と貧困、そして暴力に満ちた世界。
そして、「この世界」の人々は嫌々ながらも――時には命までも奪われるかもしれないのに――貴族に従っている。
貴族は自らの持つ「魔法」という力で人々を従わせている。
才人はそう理解して、こう思った。
―――気に入らねぇ。
そこにあったのは、純粋な怒り。
何故、こんな連中に皆は従わなければならないのか。
―――気に食わねぇ。
そこに、この「ファンタジー」に対する純粋な憤りが加わる。
彼の知っているファンタジーの世界では魔法使いはその魔法によって人々を助け、守っていくはずだった。
嫌なこと、筋の通らないことの嫌いな才人の思考は一つの方向に向かって収束してゆく。
―――なら、ぶっ壊そう。
彼をこの世界に呼び出したのが貴族なら。
彼に優しくしてくれる人々を苦しめるのが貴族なら。
彼が元の世界に戻る方法がないのなら。
そうして才人は一つの結論に到達し、決意する。
―――この理不尽な連中を許しておけるもんか。
「……嘘ですよね?」
ケティには目の前で起こった状況が理解できなかった。
“錬金”で作られたワルキューレが軽々と黒髪の少年によって切断され、破壊されていく。
その予想外の行動にギーシュが急遽6体のゴーレムを形成するが、それもまた一瞬の間に無力化されていく。
ギーシュの「彼女」である彼女にはその異常さが理解できた。
――ギーシュのワルキューレは単純だが、極めて厄介な魔法戦闘法である。
青銅という柔らかい金属素材で出来たゴーレムは平民の剣撃に対して、たいがいの攻撃をはじき返し、あるいはその柔軟性によって食い込んだ剣自体を折るほどの防御力を持つのだ。
そして、彼の最大のアドバンテージであるそのワルキューレによる同時攻撃。
死を恐れないゴーレムによる同時攻撃を防ぐことは遠距離から撃破しない限りほとんど不可能な筈なのだ。
平民では1体倒すのも困難なそのゴーレムを一瞬の間に、たった一本の剣を頼りに次々と打ち倒していくその少年の姿はまさに「異常」だった。
そして、その異常な存在は今まさに全てのワルキューレを破壊して、彼女の恋人たるギーシュの下へ向かっていく。
「ギーシュ様!」
そう叫んだ直後、彼女の目に映ったのは、彼女の“恋人”が“モノ”へと変化していく光景だった。
――倒れ伏したモノは彼女にとって既にそれは一人の人間でなく、赤いナニカに塗れた唯の物体としか認識できなかったのだ。
そして、そのモノの先に在ったのは彼女のギーシュをそんな存在に変えた少年の姿。
そんな光景が目に飛び込んできたにも関わらず、彼女は声を上げなかった。
――いや、正確には声が出なかったのだ。
ケティは呆然として立ちすくんでいた。
その直後、彼女は「とんっ」という軽い衝撃を背中に感じた。
「えっ……?」
突如として自分に引き戻された彼女はようやく声を上げた。
しかし、それは彼女の「彼」だったモノに対してではなく、彼女自身の体に起こった感覚に対しての疑問であった。
衝撃と共に、彼女の腹部から熱い鉄の棒が突き刺さったような感覚が生まれたのだ。
何事かと視線を自らの腹部にやった彼女の見たものは――自身の腹部から突き出た長包丁の刀身だった。
「あっ、ぁ――」
声にならないうめき声を上げながら、彼女は自らの背後を振り返えろうとした。
――しかし、彼女が最後に見たものは振りかざされる骨切り包丁とそれを振り上げる鬼気迫った顔をした店主の妻の姿だった。
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今回もトリ革をお読み頂いてありがとうございます。
作者のさとーです。
10/08/07
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