「……うまく笑えたかしら」 そういって、艦娘の寮の一階を改装した司令室から出てきた三隈はため息をつく。自分が疑われている。そう思うと、気が気ではなかったのだ。 別に、理由のない疑いでもないのだろう。そう、三隈は感じていた。心当たりも、あったのだから。 大きな、心当たりが。 彼女には大きな記憶の断絶がある。台湾の金門島沖で戦ったのは3月なのだ。沖縄以南であっても冷たい水の感触はよく覚えている。中国の南海海軍に所属していた艦娘たちとの共同戦線、そして。最上や、熊野、鈴谷、多数の駆逐艦と就いていた邦人と難民の台湾放棄に際しての護衛を行っていたところまでは覚えている。そして、その作戦が失敗に終わり、多数の死者が出た事も。それ以降の記憶のことごとくが霧散してしまっている。突然の断絶だった。 調べれば、わかったことは多数ある。コンピュータシステムはダウンしていても、紙媒体の資料などは律儀にみな印刷していたのだ。戦死公報など隠すことでもなかったし、隠したところでマスコミに騒がれるだけだ。かつ、親愛なる友邦、と呼ぶのは三隈にとって心理的な抵抗感のある『アメリカ合衆国』が作ったインターネット上の素人の分析家でも、公開情報をもとに何が沈んだか、も割り出せるのだから、隠したところで無駄な情報でもある。 彼女は、戦死したことになっていた。鈴谷も戦死している。最上と熊野、そして介助することになっている潮は生き残っていた。長良はどうなのだろうか、と考え、調べてみれば、沖縄撤退戦で戦死していた。いや、戦死したことになっていた。調べれば、わかる事である。そして、自分がどのような疑いをかけられているのか、を理解できないほど、三隈は頭が悪いわけではない。つまり、自分は深海棲艦の擬態ではないか、と疑われているのだ。三隈は、そう考えてみて、笑いの発作が起きかける。 馬鹿馬鹿しいことだ。 だが、そう笑ってもいられない事情は、ある。「……」 彼女に、記憶がないことだ。そう、まったくもって。 馬鹿馬鹿しい。 そう考えていると、かつん、かつん、という音が聞こえてきた。荒い息遣いと、うめき声。顔を上げると、そこには綾波型駆逐艦『潮』が松葉づえをつき、悪戦苦闘しながら前に進んでいる。健康的に日焼けした足に、足を固定するための留め具が巻かれていた。女になりかけの少女につく肉が、ベルトに圧迫されてゆるく盛り上がっている。煤がついた窓から差す日はけぶっているが、それでもその下にかよう血の色を、肌に見せていた。「潮ちゃん?」 そういうと、びくっと少女は体を震わせた。この子は、どっちなのだろうか、と考える。正直なところ、元からおどおどとした態度をとっている子のため、私が、すなわち沈んだはずの三隈が恐ろしいのか、単純にこの年頃の特有の年長者に対する恐怖心なのか、どちらか判別できないのだ。「あ、え……三隈さん」「くまりんこでいいわよ?」 にこやかに笑って見せる。大丈夫、笑えているはず、と考えていたら、潮はしばらく難しい顔をした後、ひきつった笑いを見せた。「あの、遠慮して良いでしょうか……」 しかし、どうしてこういうあだ名を自分でつけると遠慮されるのだろう。ほかの、たとえば球磨などは特に何も言われていないのに。と三隈は考えていた。そういうのが似合う『たち』の人間ではなかったのだが。「くそ……」 4月。鹿児島の与論島があと少しで見える、というこの海域は、この季節でもすでに気温が高い。潮風に含まれる塩分と、自分の汗でおでこにはりついた髪を、最上ははらった。 後ろでは、貨客船『日本丸』をはじめ、多数の民間船が黄色い救命ボートを海に落としている。救助は、と最上は考えたが、首を振った。ほかに誰がいる。この海域の敵を掃討しない限り、救助など来ないのだ。いや、来られないのだ。彼女がデータリンクで艦隊の残弾を確認すると、十分に戦えるだけのそれはある。金門島沖で負けに負けた結果がこの無残な光景だったが、弾薬だけは売るほどあった。若干、三隈のそれが少ないが、敵を誤認して無駄撃ちしてしまったからである。 沖縄を超え、本土である九州に向かおうと進路を取った矢先、深海棲艦、それも潜水艦の群狼船団に襲われたのである。浮かんでいる人々はこちらに批難の視線を向けていた。それを、背中にひしひしと感じる。「連合艦隊の栄光は今いずこ、ってところかな……」 自嘲しながら、後ろを振り返る。護衛船団の先頭で指揮をとっていたが、ことここに至ってはその任務を放棄せざるを得なかった。右舷の護衛を担当していた鈴谷と、駆逐艦娘である潮と曙が敵潜水艦を沈めたものの、最上の搭載機が三時の方向、すなわち日本本土からの敵艦隊の接近を検知したのだ。おそらく、本土に対する攻撃を行ったのだろう。指揮統制艦であり、強襲揚陸艦である『おおすみ』を船団護衛に出し渋った結果がこれか、と思わなくもない。 船団の先頭を行く最上の指揮下には、先ほど述べた鈴谷、潮、曙が右舷側、左舷には熊野、漣、吹雪がいる。最後尾には、三隈と長良がついていた。指揮統制艦『おおすみ』がいれば、少なくとも敵潜水艦を検知できない、などということはなかっただろう。そのための大型ソナーが多数あり、AN/SPY-3レーダーが搭載されているのだ。とまれ、避難民を守るために誰を残すか。重巡洋艦たる自分や三隈、鈴谷そして熊野、を引き抜いて、駆逐艦娘だけを残した方がいいか、と考える。敵潜水艦が『撃滅できた』とは限らないのだ。戦力全てを引き抜いて敵艦隊に挑みかかったところで、潜水艦に避難民による愁嘆場を演じさせていたのではお話にもならない。 通信機をオンにし、スケルチをオフにする。マイクに息を吹きかけ、送信する。ザッという音が、切れた瞬間にした。ほかのノイズが混ざっているが、それでもスケルチテールが聞き取れるということは、まだ深海棲艦のECM領域に突入していない、ということだ。ECM領域に突入した場合、スケルチテールのような単純な雑音とは違う、何らかの符丁めいた雑音が聞こえるのだ。そして、仮想トークスイッチを長良のみに切り替え、声を張る。「長良! 聞こえる?!」「こちら長良、聞こえます!」 よし。と最上は考える。長良と三隈を最後尾につけていたのは、いざというときに指揮が取れるだけの経験があるからだ。この際は、三隈を引き抜いて、同型の重巡洋艦で戦隊を組むことを決めた。対潜という観点で見れば、長良は極めて優秀である。重巡洋艦がくっついて、現場の指揮を混乱させることもあるまい、と判断したためもある。長良の方が階級は少尉待遇で、重巡洋艦は中尉待遇であり、階級上は上だからだ。むろん、現在の帝国海軍も階級社会でもあるのだが、隠然たる『経験の差』つまりは『メンコの数』という部分はやはりある。長良の方が『メンコの数』は多いし、対潜ということにかけては経験豊富だ。「駆逐艦を残す! 船団護衛を継続して!」 しばらくの間があった。長良のノイズ交じりの声が、響く。「了解。データリンクに上がっていた敵が接近しているということか?!」「そのとおり!」 そして、仮想トークスイッチを船団内に切り替えた。これで、全ての艦に指示がいきわたる。合わせて、量子データリンクに確認タグを添付した命令文を即席でアップロード。「こちら最上! データリンクにある通り、敵艦隊が本土より接近している! 鈴谷、熊野、三隈は我に続け! 単縦陣をとる。長良、そして駆逐艦は船団護衛を継続せよ!」 若干の間はあったが、データリンクで了解、とそろって送信してくる。肉声で伝達する意義は本来的にはないが、この方が心理的な応諾は得られやすいため、最上がよくやる『手』である。「よし、僕に続いて!」 声を張る。敵は戦艦1隻と重巡4隻だ。さんざんに内地を砲撃してきたことだろう。そのお返しもある。だから、やってやらねばならない。 そう考えたその時、最上ははた、と気づいた。ああ、これは。夢だ、と。それも、経験したことを夢に見ている。たしか、このとき。そう意識した瞬間、目の前の光景が一瞬、溶けた。 ああ、畜生。そういうことか。最上の疑問が、この夢を見させているのだ。そう感じて、夢の中だというのに、吐き気がした。何度も何度も夢を見て、なんとか折り合いをつけた問題を、もう一度突き付けるというのか。三隈の、妹の轟沈という問題を。 夢の中の自分は、口の中の肉をかみ切って、口から血を流しながら戦っている。確かに、敵は倒したのだ。では、誰と、か。「鈴谷……鈴谷?!」 熊野の悲鳴が、通信機に響く。ああ、畜生。鈴谷がやられたのか、とその時は淡々と考えていた。余裕がなかったのだ。彼女には。考えることが多すぎた。見たもの、そして見たくないもの。聞いたもの、そして聞きたくないものがあったのだ。それは。沈んでいく三隈と。歓迎するかのように響く、水中からの絶叫めいた賛歌。透明度の高い南国の海だから見えた、呪わしい光景。 よく、最上は覚えている。瘧のように体中が膨れ上がり、弾け、赤い血をぶちまけていく。魚が群がり、そして、消える。血煙の只中から、かいなが突き出された。人間的な血の色を感じさせない、真っ白な腕。呪わしい賛歌が、最高潮に達したその時。青い焔を目からほとばしらせる、重巡『チ』級が妹の血の只中からあらわれ。咆哮した。深海棲艦のウォークライ。戦いの前の、叫び声。女や子供を思わせる高音と、男や老爺を思わせる低音がカクテルされた、蛮声。それを、かつて三隈だったものが上げていた。そうして、最上はなぜ恐怖したのか。蛮声を聴いたときに理解した。 彼女は、三隈だったものは。歓喜していたのだ。皆殺しの声を上げながら。続々と海中より這い上がる異形たちは、いずれも歓喜の叫びをあげていた。それらはすべて、かつては艦娘だった者たちだった。どこかで見た、どこかで死んだ、その怨念を返せるのだと、喜んでいたのだ。三隈、いや、雷巡『チ』級と、目が、あった。憎悪とも、憐憫とも取れない、あいまいな色を青い焔の只中に揺らしている。「みく、ま」 ボクは、何をいっているんだ。あれが、あんなものが。三隈であるはずはない。それなのに、のどは勝手に声を発する。やめろ。そんなひどい声を上げるのは、やめろ。そう言わんばかりに。 体が、動かない。敵の艦隊は、彼女の横を素通りしていく。脅威ではない、と判定した。そう、感じられた。 熊野と、鈴谷が彼女を我に返らせた。船団を、いや、かつて船団だった救命ボートを、艦娘であった者たちが襲っているのだ。「あ、ああ」 のどが、震える。声が肺腑のさらに奥から発されているのを意識した。「ああああああ!」 叫び声とともに、発砲。殺してやる。殺さねばならない。あれはいけないものだ。許してはならない。 叫び声とともに、最上は目を覚ます。張り付いた髪が不快で、それを払う。胸を抑え、寝間着代わりのTシャツをつかみ、うめいた。目から、涙が零れ落ちる。「……」 最上は、ベッドから立ち上がった。艦娘たちが起居していた四人部屋には、最上しかいない。真っ暗な部屋のドアの前に立ち、振り返って、寝ていたはずの娘たちの姿を思い浮かべた。いつもふざけていた鈴谷は冥符に行き、それをにらんではたしなめていた熊野は佐世保へ転属した。死んでは、居ないはずだった。そして、三隈は。と考えた瞬間、ふたたび右手でシャツをつかみ、左手で扉を開けた。消灯後のくらい、非常灯のオレンジ色だけが照らしている廊下を、幽鬼のように歩く。自分でも、その足が震えているのがわかった。「……」 あれが、もし。そう思いながら、非常灯の光で黄色味を帯びた白いネームプレートを見る。そこには『潮』と印刷されており、その下には乱雑に書かれた鉛筆書きの紙が押し込まれている。そこには、三隈と書かれていた。「ボクは……」 何がしたかったのか。そして、何をすべきなのか。 ノブを、回す。扉に、カギはかかっていなかった。部屋の中に入って、見渡す。潮は、丸まって、布団をかぶって寝ている。好都合だった。何に、などとは、問わずともわかろう。つまり、あの海で最上は果たせなかったことをやるつもりだった。 三隈のベッドの前に立つ。規則的に、胸が上下していた。ごくり、と唾をのみこんだ。手を、見つめる。手の皺を、じっと見、そして、三隈の首筋とを見比べた。 再び、唾をのみこんだ。手を当てがい、そして。「……最上さん?」 手を、止める。三隈は、微笑んでいた。「やっぱり、そうするのね」 声が、震えている。そして。自分の、手も。「できない……」 できない、と最上はうめいた。のどの奥底から、絞り出されるような声だった。たとえ、たとえ深海棲艦であったとしても、彼女が『曙』の上半身を吹き飛ばし『吹雪』の頭をトマトのようにひしゃげさせ『漣』を半ば足を引きちぎるようにしながら沈めて見せた、深海棲艦であったとしても、だ。そういうことを、やった存在でありながら、彼女はそれを覚えていない。いや、仮に深海棲艦であれば、それを覚えていないように見せている。許すことなどできない。 だが、それでも『血は水よりも濃い』のだ。仮に深海棲艦がこんな手段を取ったのなら、人間というものをよくわかっている。忌まわしい殺人を平然と犯す左目を持ちながら、地球の裏側の死せる孤児に涙を流せる右目を持つのだ。そして、最上の右目が、勝った。涙をぼたぼたとこぼしながら、うめく。うずくまりながら、顔を隠した。「殺して、くださらないのね。やっぱり……モガミンは、優しいもの」 三隈は、涙を流している。その声には、悲しみが混ざっていた。そっと最上を抱き、ささやくように、そう言った。 ここで、三隈が自殺するようなタマであったらば、提督は頭を抱えるようなことはなかったのだが、実際上はそうはいかなかった。最上も、曙を殺したのはお前だ、と妹に告げる勇気を持たなかった。 そのツケを払うのは、もう少し先のこととなる。そして、払うのは彼女たちだけではなかった。余計者艦隊 第四話 Die Verwandlung -了-