朝、目を覚まして、点呼を終えて少ししてから、トラックが艦娘の寮に横付けされ、そこから箱詰めされた缶飯のセットを受領し、部屋に帰ろうとすると、なにか音がした気が、した。「なあん」 猫が、鳴いている。その声を聞いて、曙はふ、と横をみた。「なあん」 すこし痩せた、首輪をした三毛の猫が、こちらを見ている。手には、牛缶と鳥飯の缶詰を握っているため、それを目当てに鳴いているのだろう。市街地砲撃を食らっているのだから、猫や犬だって焼け出されたのだ。人間の理屈に付き合わされているこの子を見ると、妙な罪悪感がわいてくる。「あのね……」 そういって、近寄ってくる猫に語りかけるようにしゃがみこんだ曙は、じっと目を見た。「なあん」 うっとうめいた。足にすり寄ってくる、妙に人懐こい猫には、どこかかわいらしいところがあった。だが、手に持っている牛缶に限らず、塩分の濃い人間用の食事は猫にはよくない、と聞いたことがあるため、ごめんね、と言ってそうっと頭を撫でてみる。 しかし、誰に聞いたのだろうか、と記憶を掘り返してみたところ、潮がそう言っていたのだ。曙は、なによ、こんなところで餌なんか売ってるわけないじゃない、と返した記憶があった。しかし、それは本当に「自分の記憶なのか」と言われると、ひどく困った。おずおず、と手を伸ばす。耳の後ろに手を触れた。温かい。初めて触った猫は、温かかった。「うーん……」 あ、と声を上げると、びくり、と一瞬猫は震えた。ちがうのよー、と言うと、安心したように指をぺろり、となめてきた。ざらり、とした触感に少し驚いたが、ある考えがその触感のおかげで浮かんできた。 鎮守府の酒保では、外注業者としてコンビニが入っていたためか、なぜか『猫缶』が売られていたのだ。猫を飼う奴なんて居ないのに、と笑っていた記憶があるが、多分、と思いながら、腰を上げた。「ちょっとまっててね」 そういって、曙は歩き出した。後ろに小さな影がついてきていることには気づいていなかったが。「んー、やっぱり閉まってるか……」 酒保が入っていた建物の扉をがちゃがちゃとやる。はあ、とため息をつくうちに、後ろからにゃあん、という声がした。「ついてきちゃったのね……もう、どうしようかな」 そう言いながら、再びしゃがんでいるうちに、影が差す。上を見ると、そこには加賀の姿があった。「どうしたの」 短く問われるうちに、厄介な奴に会ったなあ、と舌打ちをしかけ、あわてて口を押えた。「……あの……」「酒保の商品が欲しいの?」 猫を見て、ははあ、といった様子で加賀がそう言うのを聞くと、あれ、こんな人だったかな、と疑問が首をもたげてくる。どこか冷たい人で、提督にいつもくっついている印象があった。「……そう、です。猫がかわいそうで……」「そう。酒保の商品は業者さんから買い取ってあるから、そこから出すわ」 そういって、加賀は薄く笑い、唇に指を当てて、しーっとやって見せた。「提督とかには内緒よ?」「は……はい。内緒ね!」 よかったわね、あんた。と猫に言うと、なあん、と再び鳴いた。それをみて、曙はふっとわらい、髪飾りにつけていた鈴を、猫の首輪にひょい、とつける。「これであんたを見間違えることはないわね。ミケって名前でいいかしら」 なあん、と猫は、ミケは鳴く。曙と加賀は、再び笑った。 さらに一日が経過する。司令部、つまり提督と加賀はあちこちをあわただしく駆け回っているが、潮と、三隈にはそうした騒ぎはあまり、というよりもほぼ関係がなかった。哨戒任務のスケジュールからも外れているため、起きて、食べて、寝ることくらいしかやることがないのだ。書類仕事を手伝おうにも、必要ない、と加賀に突っぱねられてしまった。潮だけならばわかるが、三隈も、というあたりに、何かを感じさせる。「……んっ……」 松葉づえをつきながら、戦局の厳しさとは関係のない初夏の日差しと、香る新緑のもと、潮は歩く。その隣では、律儀に三隈ゆっくりと、潮に合わせて歩いてくれていた。彼女も、自分は部屋でおとなしくしていた方がいいのは、わかっている。艦娘に対する『視線』の厳しさを自覚していないわけではない。第一、艦娘はその気になれば足を切って、クローニングした『完全な』足を再接合すれば、多少の問題はむろんあるが『復旧』するのだ。そうしたことを知っている人間から見れば、潮はなぜ『そうしないのか』と言われるだろう。事実、正規空母で、同じくそうした手術をしていない『加賀』はそういわれている。潮は加賀と違い子供のように見える、というより、実際子供なために風当りは弱いが、そうでないあの人はいろいろ言われているのだろうな、と潮には想像できた。 潮は艤装がなく、加賀は艦載機がない。たとえ本体が、つまりは艦娘の人間部分が『復旧』したところで何も意味がない。そう思えば、この放置に近い扱いにも納得はできた。 私だって。と下を向き、はあ、はあ、と呼吸を整える。「大丈夫……?」 そう、三隈が心配そうに問うてくる。顔を上げると、どうしようかしら、と微笑みながら、しかし目は優しい色をしている彼女が目に入る。この人は、しかしなんなのだろうか。と、おとといのやり取りを思い返す。最上さんは、多分この人を深海棲艦だと思っているんだ。そう考えて、多分、私もかな、と下を向いて笑う。そうしているうち、なにか声が耳に入る。人の声にしては、高いその声をたどり、かつん、かつん。と松葉づえの音をさせながら行くと、猫がすり寄ってきた。りりん、という鈴の音がして、はっとした。 どこかで聞いた鈴の音だ。と思って、いたが、これは。「曙ちゃん……?」 確か、と記憶をたどると、こんな猫を曙が、いや、今この鎮守府にいる曙ではなく、オリジナルの曙がかわいがっていたことを思い出す。髪飾りの鈴をつけて、よし、と笑っていたことを、思い出した。あの時と同じ色の首輪をつけている。野良の猫に首輪はよくないよ、と言っていたことも、思い出した。緩い首輪をつけていたが、今ではちょうどぴったりになっていた。確か、名前は。「どうしたの? ミケ」 そうだ、確か、ミケという名前を付けていたはずだ。安直な名前だなあ、と笑っていたが、そういわれるとひどく気色ばんでいたことも、また思い出す。あの子はそういうところがあった。あの子は、猫によく似ていたのだ。「なあん」 再び、ミケが鳴く。この鳴き方は腹が減った、という鳴き方だった。人懐こい猫だったから、出撃してからも基本的にエサには不自由していなかったのだろうが、戦局の極端な悪化に伴って餌を貰っていた人が死んだのだろう。昨日、最上に三隈とともに寮の屋上に案内され、壊滅した呉の市街地と、へばりつくように鎮守府の金網の周囲に林立する避難民キャンプを見せられた。今は、こういう状態なのだ、と。 ただ、正直言って、あまりのすさまじさに現実感がなかったことを、潮は覚えている。煉瓦をしいた歩道と、灰色のがれきだらけの市街地と、見通しがよくなったせいで見えた「れんが通り」アーケードの崩れかけた屋根は、現実感がなかった。しかし、この人懐こい、痩せたこの猫をみて、余裕の無さは、現実なのだ、と受け取れた。「……ごめんね、ミケ……ごはんね、あげられないんだよ」「にゃおうう」 そういうと、首をひねって、潮の足にすり寄ってくる。餌を上げるのは曙ちゃんなのに、私にすり寄ってきて、曙ちゃんを不機嫌にさせていたものだ、と思いだし、しかし、困ってしまう。顔を上げると、三隈がにこにこと笑って、口を開いた。「加賀さんに相談してみましょう」「加賀さんに?」 あの人に相談してどうするのだろうか、と目で問うと、ああ、と笑う。「補給とか、そういうのには員数外ってつきものでしょう? 鎮守府の仕事を取り仕切ってる加賀さんなら、そういうことってできるもの。多分、酒保の契約上、何かあったら商品を買い取る契約になってたはずだから、猫ちゃんの缶詰だってあると思うわ」「……提督にバレたら怒られませんか。忙しいみたいだし……」「怒られるかしら?」 あー、とあいまいな言い方を、潮はする。なんというか、いわく言い難い。正直、見た目についてはさほど悪くもないが、あまり有能という印象は受けなかった。パリッとした服を着ている加賀の隣で無精髭を生やし、目の下にクマを作っていることが悪印象の主要な原因だろう、とも思うが。炯炯とした剣呑な雰囲気の目が、なんとなく恐かったというのもある。「人数分無いと配らないですし……猫缶なんて配ったらトラブルになりますから、大丈夫だとは思います」 それどころじゃない、というところを除けば。と、言外に目で伝えた。そうね、と三隈は言うが、まとわりついている猫と、潮の目とを往復させていた。「……あっ」 そんな声が、背中の方から聞こえた。ててて、と音をさせながら、猫が離れていく。なあん、なあん、と甘えた声をさせたその先には。「……潮」 曙の、クローンが立っていた。潮のよく見知った顔で、良く見知った困ったときのしかめつらをして、きゅっと唇を引き結びながら。潮は、勤めて平静な声を出した。「……飼ってるの?」 曙は目を揺らす。一瞬の逡巡の後、口を開いた。「あんたに関係あるの」 曙は吐き捨て、屈みこみながらぱきょっ、と音をさせて、猫缶のプルタブを引っ張り、猫に餌をやる。うれしそうに、猫はそれに顔を沈めて食べていた。いつも曙が猫にあげていた、あまり高くない猫缶。量だけはたっぷりと入ったやつだ。「……ねえ……」 潮は、じわ、と涙がこみ上げてくる。顔も、やっていることも、そしてその動作一つ一つが、死んで、居なくなったはずの姉に生き写しだった。それを見て、曙もバツの悪そうな顔をするが、しかし。「なんで、そんなに似てるのよ……」 思わず、言った。三隈はダメ、と言ったが、しかし。「わたしは……」 猫が、曙の指をいたわるようになめている。しゃがみこんだまま、顔を上げない。はあ、と深く息を吸って、顔を上げた。「あんたたちが、あんたたちが情けないから私たちが作られたんじゃない!」 びくり、と猫は震え、走っていく曙を見ている。そして、潮は下をむき、ぽたり、とコンクリートに水の染みができるのを見た。「避難民に不穏な動きがある?」 そういって、加賀とともに立っている提督は、疲れ切った表情の呉警察署署長と、呉市役所の職員と会議室で話す。すわり心地の悪いパイプいすでも、意識が落ちてしまいそうになるあたり、おそらくは、俺も同じ顔色なのだろうな、と考えた。「……その通りです。どうも……何かを計画しているようで」 警察官は頭を押さえ、一瞬失礼、と言った後、市役所の職員に目配せをし、資料をよこす。「市役所の職員が見回りをしている際に見つけました。これは押収しましたが……」 そこに写っていたのは、手ごろな長さに切られた角材と柱に使うような太い木材に鉄の太い釘をうちつけたものに、そして。「……小銃?!」 加賀が、声を上げる。軍用小銃。つまり、本来民間に流れるはずのない『アサルトライフル』が流れているのだ。それも、陸軍の歩兵部隊が使う89式小銃と、パワードスーツ部隊用のピストルグリップつきのブローニングM2 HMGが転がっていたのだ。「……どこから入手したか、という情報はありますか?」「不明です。てっきり海軍さんの武器庫から流れたのかと……」 うーん、と口ごもり、加賀を見ると、首を振っている。正直に言うのはまずい、ということか、と解釈する。「……こちらの武器庫については員数を確認しています。再確認させますので……」 そういって、疲れ以外の意味で血の気が引いた自分の顔を意識する。とんでもないことになっている。なぜならば、仮にこれが戦場から入手したものであるとするならば、こんなところに流れてくるほど、激しく深海棲艦と陸軍が戦闘を行っている、ということで、そうでないなら。つまり。「……ともかく、我々も調査します。ですが……この件は内密に」 とんでもないことになっている。つまり、これは避難民が鎮守府になだれ込む算段をしている、ということだ。二人が出て行ったあと、加賀と顔を合わせる。「どう思う」「どう思うも何も……」 そういって、加賀は言葉を切った。「……陸軍の横流しなどという線はありえません。それどころではないのは、鳳翔さんの航空偵察で判明しています。……それと、準備をなさるべきです」 言っている言葉の意味は分かる、だが。「何を言っているかわかっているのか、加賀」「十分に理解しています。……警察と共同して、暴動の鎮圧部隊を組織することを、私は提案しています」 そういって、書類を差し出す。苦く笑い、そして、作戦計画案を見る。ゴム弾と催涙ガスを使った作戦計画を見て、こういった事態を、前々から加賀は想定していたのだ、と悟った。わかっていたはずだ。と提督は苦いものが口の中に広がるのを意識した。軍隊上がりの連中だってごまんといる。食糧の欠乏があるなら、こういう事態になる事も。 口の中が乾いている。ぐ、と唾をのみこみ、言葉を発した。「……作戦計画を承認する」 ほかにどうしようがあるというのだ。そう、提督は自分を欺いた。「敵襲か。上陸地点と規模は」 そう第5師団師団長馬淵中佐、提督には『馬糞』と呼ばれていた男は、ベッドから跳ね起き、隣に立つ女の顔を見て聞く。その白粉の臭いのする女、つまり『あきつ丸』は、海田市に駆逐ロ級10隻が上陸してきている、と述べた。 時刻は0430を刺していた。なるほど、日の出の直前に仕掛けてきたということだろう。「状況はどうなっている」「は、第11歩兵連隊隷下、第2歩兵大隊が対応しております。定期便というところでしょうな」 あきつ丸は肩をそびやかした。この女は、搭載している『カ号』で居ながらにして戦況をとらえているのだ。そう、馬淵はその能力をうらやましく思う。戦場の靄を払うのに一番いい能力だ。まあ、もっといいのは、この女の靴下だ。たぶんいい匂いがするのだろうな、と馬淵は考えた。その視線を受けて、あきつ丸がセクハラで訴えられたくないならその眼を別のところに向けるべきであります。とゴミを見る目をした。こういう視線がばれる、というのは、あの海軍少佐に比べて修行が足りん、ということか、と思わず笑った。 それにしても、と思考を区切り、定期便ならいいが。と馬淵は考えた。むろん、そうではなかったのだが。