「……」 作戦終了後、帰投し、泥のように眠った後の翌日のささやかな宴席。勝利した、という喜びと、疲労感が横溢するそこで、提督は強い酒を飲み、いつの間にか寝入ってしまっていた。意識を取り戻すと、おう、と声がした。「……なんだ、起きたのか」 摩耶の顔が、目に入った。うめき声を提督は上げる。アルコールの靄がまだ濃密にかかっており、さほど時間はかかっていないことが分かる。「ここは……」「お前の部屋だよ。まったく。アタシに運ばせやがって」 そう摩耶は毒づくと、奇妙な視線を提督に向けてくる。同情とも、なんともとれない色を孕んだ視線。銃を向けた時の純粋な怒りとは違う、別の何かを感じる。「……そうか、すまん、ありがとう」 そう言って、提督は突き出されたコップの水を飲み、どうした、と言う。「……仰向けで寝るなよ。まったく」 舌打ちをした摩耶は、そのまま部屋から出ていく。だが、ふとこちらを向き、小声で何かを彼女は言った。アンタだったのか、などと聞こえたような気がしたが、提督はすぐに倒れ込み、寝入る。 次の朝に痛む頭をさすりながら、何か昨日はあったのか、と摩耶に聞いてはみたが、何もなかった。と返され、それでこの話はそれで終いであった。 宴会の余韻が抜けきらない、要約すればアセトアルデヒドの臭いが汗と息からする水兵たちの間をすり抜け、一人の少女が呉鎮守府地下の提督の執務室までの道のりを歩いている。リスのような、とよく言われるその少女、雪風は、困った顔をしていた。艤装側の規約を時間通り更新したデータリンカに、横須賀からの命令が届いていたからである。細いラインとはいえ、中央との連接ができる唯一の機材である。帰還命令。四文字だけであるが、実に厄介な四文字である。何がどう厄介なのか、といえば、海戦で勝ったは勝ったのである。のであるが、勝ったからと言って航路の安全が確保されているかと言うと別の話である。いまだに周防大島沖から逃げた深海棲艦は出没しているし、命令されたからと言って帰ることができるわけではないのだ。何より、連絡員として代替が居ない現状では、実に厄介なのだ。提督たちからしてみれば、中央との、細いとはいえ綱がまたちぎれることになってしまう。 そして、提督は、その話を聞いて、乾いた笑いを上げる。「……本気で言っているのか? それは」「わかりません」 さすがの雪風も困惑しきりである。いくらなんでも無茶苦茶というべきか。とはいえ、命令とあれば従わなければならないのも彼女達艦娘の、というより軍に属している者の悲哀である。「提督」 加賀の声がする。そちらに顔を向け、提督は言葉を待った。「いかに言ってもおかしな話です。なんらかの追加命令が発行されるでしょうから、1500まで待ってはいかがでしょうか。文書の発簡が間に合っていないだけかもしれません」 それもそうか、と提督はいい、退出してよろしい、と返す。雪風は体を若干傾けるようにしながら、独特の癖で敬礼を返し、回れ右して出ていく。あれは個癖の修正で治らなかったタイプだな、とひとり得心した。 追加命令は案の定発簡され、5日後に護衛艦隊とともに淡路島を発つので、岡山近海で補給物資を積んだ船団の護衛任務を引き継ぎたい、その地点で雪風をこちらに返してくれ、との要請であった。正式なデータリンクと、交代人員を派出する、という但し書きもむろん、あった。リストも合わせて送付され、食糧、物資、さらには市民に提供する仮設住宅用の建材を満載している船が動いている、とのことだった。 戦勝から5日後、つまりに雪風が帰り、補給物資と交代要員がやってくる日。護衛艦隊の編成を終え、雪風と共に出発させた後、加賀の報告を聞き、問い返す。「……呉市民の状況は?」「現状、暴動の兆候はない、との警察からの報告を受けています。周防大島を攻略したことによって広島との鉄道の復旧工事に取り掛かれているのも大きいです。食料のほうも海路が制限付きとはいえ使えるようになったことから、手当がつきましたかので」「敵の再集結の兆候は?」「丸亀市沖の塩飽諸島、なかでも広島に再集結しつつあるが、陸軍第十一師団の報告によれば、組織だった動きはなし……とのことです。ちょうど横須賀鎮守府の制圧した淡路島と、呉の中間あたりですね」「拠点を作り出す恐れはあるか」 それを提督が聞くと、加賀はいいえ、と言う。その兆候は見られず、淡路島と周防大島での敗戦で物資が欠乏しているのではないか、というあたりである。それに、善通寺市にある陸軍第十一師団の駐屯地にも近く、繰り返しになるが、淡路島と周防大島から遠いことがある。早期の島民の避難が成功したことも大きい、と加賀は続けた。 島民。それを聞いて、提督は思わず息を吐いた。深海棲艦の「素材」になっていたのは何か、を思えば、避難してくれるのがいちばんだ、と言える。そして、続けた。「島民と言えば……周防大島は……」「安下庄地区以外では生存者はいる、とのことです。広島県の広島にもそれなりの島民が避難している、という情報が第五師団から寄せられています」 そうか。と言い、提督は会話を切った。この後には、陸軍から派遣されてきた工兵隊と、海軍の工兵、あとは民間の建設会社との復旧の会議が入っているためである。話し合いそのものは、時間こそかかったものの、ごく事務的に終わった。事前に目録を渡し、現場担当者同士で話し合っていたためか、すでにやるべきことのリストもできている。結論から言ってしまえば、使えそうな建物は応急処置し、ダメなら発破をかけて解体して、プレハブを持ってくる、という担当者が決めた案に頷き、加賀とともに、外の太陽の光と同じく、灯が落とされた会議室から出た。 その時、金剛が目覚めた、という報が、山城より寄せられた。「金剛が目を覚ました、というのは本当か?」「はい。……その通りです。提督」 声が、聞こえる。外からの声。扉ごしのくぐもった声。聞き間違えようのない声。その声を聞いて、胸が痛むのを、金剛は感じた。痛む、などという言葉が、生易しく感じられるものが胃の奥底から吹き出すような感覚。舌の奥から、酸味がした。戦艦タ級。殺意をみなぎらせてこちらを青い焔をたなびかせた目でにらみ据え、射殺さんとする何者か。それに歯をがちがちと鳴らすほどの恐怖と喜悦を、金剛は感じていた。感じていたが、しかし。何のことはない。恩師に教官に銃を、殺意を向けていたのは戦艦タ級である「金剛」だったのだ。「……大丈夫なの?」 加賀の声がする。加賀。空母ヲ級に見えていた彼女は砲を放ち、こちらを「殺した」のだ。殺した。どうして死なせたままにしてくれなかったのか。そう叫びだしたくなるのを、金剛はこらえ。唇を噛んだ。「大丈夫です。私の教え子ですから」 山城教官の、独特なとげのある声。信頼が、痛い。教官、私は教官を殺そうとしたとき、心底から「喜んで」いたのです。そう、懺悔して「死んで」しまいたい。肩を、抱く。 息を吐く。大丈夫。大丈夫だ。私は金剛だ。そう言い聞かせ、顔を上げる。「君が金剛か」 扉の向こう側から、声がする。光を背にしているため、顔がよくわからない。それが故に、金剛は目をすがめ、目元を手で覆う。「……はい」 いつもなら、私はどんなふうに応じていたのだろうか。そんなことを、金剛は考えていた。明るく、金剛デース、とでも言っていたのだろうか。とても、そんな気分にはなれない。なれるわけがない。「君に贈り物がある」 そう言って、わざわざ持ってきたのか、裏返しにしたコートを、男は放った。 ばさり、と目の前にコートが落ちる。裏返しにされたコート。彼女は英国にいたことがある。だから、その意味は分かった。「裏切り者」 そう、目の前の男から投げつけられたそのコートは、雄弁に意図を語っている。彼は、提督は、彼女を面罵しているのだ。口には出さず。「そう呼ばれたくなければ、すぐに出てきたまえ。状況を説明する」 やわらかい顔のつくりに似合わない硬質な声が、その男の喉から出てきているのを、金剛は茫然と聞いた。提督の行為に、山城は思い切り顔をしかめ、加賀に目をやっているが、その加賀は、というと、表情を動かさず、この人は、というような色を目の奥に見せていた。 扉が、閉まる。金剛は、立って、歩き。扉を開けた。「提督」 山城は、提督に声をかける。そして、衝動のままに平手をお見舞いしそうになり、やめた。加賀を青い顔をした金剛とともに先に退出させ、山城だけを残した意図を聞くまでは、やめよう、と考えたためだ。「……君には深海棲艦だという疑いがかかっている。そうはっきりおっしゃいましたね。なぜです」「隠し立てをしたところでいずれはっきりすることだ」 そう言い切った提督の顔に、迷いはない。山城も、その通りである、とは考えている。なぜなら、戦死した、という報告が明確に上がっている「金剛型1番艦金剛」の「クローン元」たる「オリジナル」がうろついている、などと騙りでもなければありえない。クローンにも精神の安定化のために「記憶」が焼き付けられることはあるが、それはもっとあいまいなものだ。あそこまで「はっきり」とした記憶が焼き付けられることは通常ありえない。「それはわかります」「ああ。……これからもお前を監視しているし、不審な動きがあれば始末されると思え。とも言った」「……趣味にしても、もう少しマシな現し方があると思います」「……お互いの為だよ」 山城は、ため息をついた。監視している、ということで、仮に「本物」であったとしても、うかつな行動は慎むだろうし、そうでなければ言った意味がない。彼女は、目の前の男を張り飛ばすのは、別の機会にすることにした。 ところで、と提督が話を変えた。「我が艦隊には戦艦が晴れて3隻いることになった」「3隻?」 確かに「あれ」を数に含めれば3隻だ。そうは思うが、山城は怪訝な顔をする。いくらなんでも、常に運用するには「難しい」兵力だ。火砲も大きすぎるし、何より燃料をやたらに食う。確かに「監視役」としては適当ではあるのだが。「46cm砲は君が使うというのは変わらん」「……話が見えません。そうなると、あれが使うものがありませんが」「あれ、という言い方はよせ。大和と呼ぼう」 大和、と言う時に、提督が少し表情を変えたように思う。果断な処置ではあったとは思うし、工廠に対してはいくらか思うところのある山城でもある。とはいえ、彼女とても教え子なのだ。「大和だが……実戦投入を考えている」 実戦投入。その言葉を聞いて、燃料消費を考え、そして。「正気ですか」 思わず、そういった。提督は、まあ、そうだな、と言葉を切り。「大和型の艤装そのものは未完成だ。現在も使えはするが、開発中だしな」「それなら……」「完成しているが、宙に浮いている艤装はある」 天を仰ぎ、そして。山城は口を開いた。「……伊勢型向けのあれを装備させる、ということですか」「各種コネクタの規格そのものは変わっていないし、実際「使えた」そうだ」 厳密には、伊勢型と、破損した扶桑型、つまり山城が使っていた艤装のつぎはぎに、大和型のベースを組み合わせる、という、現地改修にしてもやりすぎな代物である。工廠があるからこそできる芸当だし、各種の制御用プログラムが戦艦は扶桑型以降から、専用の作りこみハードウェアとOSではなく、COTS品であるARMプロセッサアレイと、UNIX上で動いているからこそでもあった。むろん、工廠にいるプログラマは血尿か吐血か、どちらか、あるいは両方を患う羽目になっただろうが。「……上に知られたら『事』ですよ」「あるものは何でも使うさ。……それに、大和以外に金剛を海の上で始末できるのはいないだろう」 山城は、思わず唇を噛んだ。無理だろう。お前には。と冷静に提督の目は語っていた。提督のやわらかい顔。その顔に似合わない人を何人も殺してきた冷たさが、その瞳の奥には宿っていた。それを、山城は直視し、はい、と答えてしまった。 山城には、できない。教え子を殺すことはできない。巣立った教え子たちが死んで、死んで、その悲しみを抱え、自分が戦場に行くことができない無力感を友としてきた、山城には。教え子に手を汚させる。その卑怯さ。卑劣さを思わないわけではない。それでも、それでも。彼女には無理だったのだ。「大丈夫? 金剛」 金剛は、勤めて明るい声を出そうとする。「大丈夫、大丈夫デース!」 大丈夫、笑えている。笑えているに違いない。それなのに、どうして加賀は、こんなにも悲しい目をしているのだろう。そう、金剛は考え、手のひらを思わず見た。 爪が食い込み、血が、にじみ出ていた。