「司令、司令!」 かちゃり、と閉じたドアの音を聞いた瞬間に、ごく軽い発砲音がした。 もうろうとした頭に、発砲音と、その悲鳴が聞こえた時、熊野はぐう、と目を閉じて、開いた。目の前の現実は変わってはいない。拳銃の発砲音が聞こえた程度でなんだというのだ。そういう捨て鉢な気分になる。 コンクリートのなかから、鉄骨が見える。引きちぎれた断面の光沢ある部分からは、光が反射している。目に、痛い。 アスファルトはひび割れ、土が見えている。刈り整えられていた芝生は影も形もない。そして、すべてが終わった佐世保鎮守府の司令部の1階からは、本来見えない海が見えていた。 司令が何をしたかは、わかる。最後の一撃が、対馬攻略が失敗に終わった以上、自決以外にやれることはない。この鉄骨を首に刺して死んだなら、痛いのかしら。そう、熊野は考えて、笑った。 来た、見た、勝った。それならばよかった。彼女たちは、佐世保鎮守府に集まった海の淑女たちは来た、見た、負けたのだ。 ドアが乱暴に開く音。そこには、ひび割れた眼鏡をかけた少女が混乱の色も隠さず立っていた。それに、無感動に意識を向けた。「熊野、司令が!」「自決なさったのでしょう? ……それで、どうなさいます? 霧島さん」 熊野の口からは、自分でも驚くほど、平板な声が出た。艦隊これくしょん 余計者艦隊 佐世保鎮守府失陥編 第一話「underdogs」 別に、負け続けているわけではなかった。そう霧島は振り返る。五島列島解放は成功した。住民たちはいずれも避難していたが、橋頭堡は築けた。西方からの圧迫を気にせずに、大目標に挑みかかれる。そういう目算もあった。大目標とは何か。それは対馬の奪還である。 なぜ、対馬の奪還が必要なのか。それは論を俟たないだろう。軍事上の要衝でもあり、通信が途絶している瀬戸内海の呉鎮守府と連絡しようとすればどうしても妨害を受ける。南回り、すなわち鹿児島方面を回っての迂回も検討したが、深海棲艦の拠点が多い。あきらめざるを得なかった。陸路もまた同様で、高速道路や鉄道路は破壊され、陸に上がった連中が牙を磨いているのである。陸軍や空軍は福岡県、鹿児島県を放棄し、熊本県や宮崎県の沿岸で必死の防戦を行っていて、内陸部に手を出すどころではない。福岡失陥以前に築城基地司令が機転を利かせ、航空機を避難させていたため、新田原の航空戦力は充実している。いるが、それでもかなり厳しいという話である。 その新田原基地とどうにか連絡し、航空機多数による猛爆を加え、戦術核攻撃を行い、それでも。それでも、対馬は落ちなかった。虎の子の武蔵を投入し、今の佐世保鎮守府の全兵力と言ってもいい三個艦隊をつぎ込んでも。それでも、対馬は奪還できなかった。 目の前に居る疲れ切った少女、いや、重巡洋艦「熊野」が一人帰還し、霧島、そして負傷者が多数に、駆逐艦がいくたりか。それに、彼女が見ていない隙に、拳銃でしろい脳漿をぶちまけた「司令」がつい先ほどまで居た。それだけが、現状の佐世保鎮守府の残存兵力である。厳密に言えば通常型舟艇であり、指揮統制艦たる、アメリカからの供与艦の「エルドリッジ」は残っている。問題は、それを前に出すにはあまりに危険という事だけだった。だからこそ、沈みもせずに残っていた。 今回、霧島が出撃させてもらえなかったのは、何も破損したとかそういうわけではない。住民の避難は既に完了しているのだが、鎮守府の放棄に備え、エルドリッジを南周りの危険な航路で脱出させる護衛艦隊を編成することを命じられていたからだ。高速戦艦にそんなことをやらせるくらいなら、と抗議はしてみたものの、命令だ。という短いひとことが返ってきたのみである。 その霧島に、熊野はうつろな目を向けてくる。何の感情も籠っていない目。負けたという「現実」だけは理解している目。「……だから、どうしますの?」「……どうもこうもありません。事前計画通り、南回りでの脱出を企図します」 そういうと、一瞬熊野は目を伏せた。そして、目を上げて言う。「わかりました」 気の乗る仕事ではない。だが、ここで座していても結局はすりつぶされるのみ。それならば、瀬戸内海の呉鎮守府が制海権を奪還していることに賭けるべきだ。そう、彼女は考えたのだろう。 彼女たちは、負けたのだ。だからと言って、負けっぱなしでいていいはずがない。勝つために、引くのだ。それが詭弁に過ぎないという事は、百も承知でもある。 動かせるけが人をエルドリッジに移設する手続きが終わり、黒い髪を肩口のあたりで切りそろえた、巫女装束によく似た服を着ている霧島はある書類に目を通す。司令の死体は死体袋にくるまれて運び出されたが、床に作った染みは消えていない。艦娘が人間の部隊の指揮をとれるのか、という手続き上の問題はあるが、概ねの部署では司令官代理としては承認されていた。承認していない部署も、どうしていいのかわからないために、指示に従うほかはない、という様子である。「……」 その書類の内容は、想像通りの内容だった。動かせないけが人をどうするのか。答えは一つ。残していけばのたうちまわって死ぬ。ならば、眠るように死なせてやった方がまだしも人道的だ、という内容だった。そういえば、昔東京市が空爆された時に、役人が象を薬殺しろ、と喚いて、戦後軍に責任を押し付けたんだったな、という内容が、不謹慎にも霧島の脳裏によみがえってきて、吹き出しそうになる。全く、象と違って言葉のわかる人間を置いていけないから死なせてやろう、とは。笑いの発作はパニックの兆候だ、という事を思い出し、霧島は黄緑色の眼鏡を外し、顔をこする。どうしても笑いをこらえきれない。その通りなのだ。言っていることは。残して行って、苦しんで死んでいくくらいならば、せめて楽に死なせてやる、というのは人情なのだ。だが、こんな状況でなければ助かった人々を、作戦が不味かったがために『死なせる』という言いつくろいをせねばならなくなる。それが、あまりにもおかしい。「どうしましたの?」 はっと霧島は顔を上げる。そこには、熊野が立っていた。茶色の学生服のような服と、その色と同じ髪を持っている。彼女の青い目の下には隈が出来ているが、まだ意識ははっきりしているように見える。「……いえ、何でもないわ」「そう、それなら問題はありませんわ」「……それで、何の用かしら?」「現状の確認をするべきだと思いましたの」 そういって、熊野は手描きの書類をばさり、と置く。プリンターを動かす電力はあるが、そうしたものは佐世保鎮守府のサーバ群の火を落とし、機密情報等を完全に消去する作業に優先的に回されているためでもある。「現状残っている艦娘のリスト……?」「ええ。霧島さんが指揮を執る子たちのリストですわ。負傷者は一応除いてあります。負傷者はもうエルドリッジに移送したのでしょう?」「え、ええ……」「……とはいっても、まともな状態で残っているのはわたくし達を含めて6人でしたけれど。負傷者の艤装を共食いして何とか装備をまともな状態に出来るよう手配はいたしましたわ」 ちょうど廃棄処分予定でしたから、と続ける熊野を見た後、視界がぼやけていることに気付いて目をごしごしとこすり、ひびの入った眼鏡をかけ直す。リストには以下の名前が記されていた。リスト、と言っても、巡洋戦艦「霧島」と重巡洋艦「熊野」を除けば、4名しか記されては居ないのであるが。軽巡洋艦「那珂」に吹雪級駆逐艦「深雪」が続き、朝潮型駆逐艦「荒潮」に「朝潮」と来ている。天を仰ぎ、もう一度紙を見て、ため息をついた。「ありがとう。さあ、どうしたものかしら」 そのつぶやきに、熊野の答えは無かった。彼女とて、答えを持っているわけではないからだ。 空気がひどく重い。普段、アイドルだとかなんとか言っている自分のことを鑑み、那珂はため息をつきそうになって、やめた。ため息をついたところで別に状況がよくなるわけでもないからだ。 熊野に呼び集められ、集まった面子を見て、ああ、これは普段通りに接したらひどいことになるな、と思ってごく真面目にやったのがいけなかった。実戦経験がそれほどなかった深雪も、今では百戦錬磨とまでは言わないまでも、それなり以上に戦果は挙げている。そのセーラー服を着て、常に何かいたずらをしてやろう、と言わんばかりの目をした深雪が、敏感に空気を感じ取ったのだ。ああ、那珂さんもあのノリはできなくなったんだな、という表情を作って、下を向いてしまう。黒く、長い髪に釣りスカートの朝潮はというと我関せず。自分の装備の点検を行い、わからないことがあれば那珂に聞きに来る、という調子だった。朝潮と同じく長いが、色は栗色の荒潮も同様だったが、精神的に参っているようで、時折眉間にしわを寄せていた。 本当に空気が悪い。ここでいつものように那珂ちゃんスマイル、だとか言えればいいのだが、それをやった場合、真っ先に荒潮が破裂するだろう。破裂だけならいいが、売り言葉に買い言葉で深雪と掴み合いになるのが目に見えている。 那珂ちゃんは空気の読める子だもんね。と自分に自分で言い聞かせ、魚雷発射管の点検をし、上を見る。頼む、本当に誰か来て。無理、那珂ちゃんのキャラじゃ無理。そう考えて、空気を読まない夜戦バカの姉の顔を思い浮かべる。あの空気の読まなさは本当によかった。那珂はアイドルがどうのこうのと言いながらも、そこまで貫徹が出来なかった。時折素に戻ってしまう。何が有ろうと夜戦がどうこう言いながら現れて、簀巻きにされて出ていく。あのバカバカしさが何より恋しかった。 外から風が吹く。その海風に乗って、腐臭が漂ってきた。避難時に逃げきれなかった人々や、佐世保の陸戦隊が上がってきた深海棲艦を撃退したのだが、それらの死体の始末までは手が回らなかったがために、佐世保鎮守府には潮の臭いと、海苔を腐らせて放置したような悪臭が漂っている。空調は回っておらず、暑いよりはマシだ、と開けているがために、そのかぐわしい香りが入ってきてうっ、とうなりそうになるのだった。「うはー。臭いなあ。すみません、那珂ちゃ……さん、窓、閉めて良いですか?」 そう深雪が言い、立ち上がって窓を閉めようとする。それを見て、荒潮が口を開いた。「あらぁ? 暑くて仕方ないじゃない。我慢できないわけじゃあないでしょう?」「えー……。くさいじゃんか……」「臭い?」 あ、これは不味い。那珂は立ち上がり、荒潮に駆け寄って精一杯明るい声でこう言う。「そうね、我慢できるよねー。深雪ちゃん、ダメだよ、閉めたら」「え……? いや、だって相当臭うじゃ……臭うじゃないですか」「我慢できるよね?」 目でメッセージを送る。臭いって単語はダメ。特に荒潮の前では。と必死に目で深雪に教える。そうすると、はい、と深雪が言い、その場はこれで収まった。何故駄目なのか。答えは言うまでもない。荒潮と朝潮は佐世保に親族が居て、運悪く逃げ遅れて死んだことまでわかっているのだ。たとえ、それがわかったとしても葬ることもできなかったがゆえに、彼らは腐臭を立てているのである。ここにいる。私たちを眠らせてくれ、と。二人とも、眉間にしわを寄せている。深雪は、なんとなくバツが悪そうな顔を作っているが、時折臭いでうえ、という声を出していた。そのたびに、荒潮がピクリと動くのが那珂の目に入る。 本当に、本当に空気が悪い。