「……」 熊野にはやる事がない。と一言で言ってしまえば、実に身もふたもなかった。装備や設備の運び入れはだいたいスケジュール通りに進んでおり、すでに終わっている。運べる程度の傷病者は壊滅した陸の設備ではなく、指揮統制艦「エルドリッジ」で面倒が見られていた。関わっていた部署では、破棄すべき書類もすでにない。そのため、サーバに装填されていたHDDカートリッジにゼロフィルを3回かけた後、磁気消去器でもう一度飛ばして、ドリルで穴を開ける、という手間のかかることをやっている鎮守府通電隊の手伝いをしていた。ネットワーク機器に関してはデータを破棄し、NVRAMの初期化とハードウェアの物理的破壊を行っている。ああ、もったいない、と思わず口に出しそうになるほど、徹底的なそれを見て、熊野はふう、とため息をついた。 そして、手つかずのサーバ本体はどうするのか、というとレンタル品なのでそのまま、というみもふたもない答えが返ってきた。深海棲艦に情報を手に入れる能があるとは思わないが、と言って、サーバラックのフロントドアにつけられた「NOF」と浮彫りが為されているガラスの銘板を整備員が抜き取るのを見ていた。 歳をとった一人の曹長が機械に向かって敬礼しているのを見て、同じように敬礼をする。私も、こんなふうに見送られることがあるのか、とふと熊野は考えて、やめた。道具として生まれ、道具として死にたいわけではない。ことに、私は人間なのだから。 そのようなことをつらつらと考えながら、消灯の時間を迎える。一応は無事な部屋はもともと暗い。電気が来ていないから当然と言えば当然だった。窓からは、暗い海が見える。本来は建物に阻まれて見えないはずのそれを見て、熊野は思わず泣き出しそうになる。が、涙は出てこなかった。心が動いても、体がうまく反応してくれない。 窓から見える人の営為が破壊しつくされても、海だけは変わらなかった。昼は宝石のように輝き、そして夜はその奥底から人を引き寄せるなにかを感じさせるほど暗い。月明かりが有ろうと、夜光虫が航跡に惹かれて輝こうと、その妖しさだけは不変だった。 ぞくり、と震え、拳を握りしめる。何か不気味なものが腹の底から、こみあげてきたのだ。沖縄撤退戦の護衛を行っていた時以後の記憶があいまいで、イ号集団の進撃阻止に失敗して、決定的敗北を喫してから助けられた彼女にとっては、何か嫌な感触がある。「……考えすぎかしら」 そういって、拳を反対側の指で無理やりにほどき、目をそむけ、布団にくるまる。現実が悪夢よりひどい今は、せめて、悪夢だけは見たくはない。 呼び声がした。水底から喜悦の声がした。全身が痛い。浮かび上がってきた敵に殴打された後、砲弾が直撃して、体がずたずたに引き裂かれたから当然だ、という冷えた声が、脳の片隅から発される。痛みをマスクする艤装の機能も死に、猫の悲鳴とも称される、重巡洋艦のタービンの音も意識できない。いや、タービンの音はした。だが、それがすでに聞こえない。爆発と激痛によって、完全に破壊されたことを理解したのみ。 呼び声がする。あまりにも透き通った声。上下がわからない。どこも黒で塗りつぶされている。おかしいな、沖縄の海はこんなに汚いなんて話は聞いたことがありませんわ。とつぶやこうとして、理解した。 水底から響く喜悦の声は、自分の喉から発されていたのだ。ああ、と理解して、そして海上に体を浮かびあげ、叫んだ。深海棲艦のウォークライを。 蛮声を振り上げてしまえば、あとは体中が喜びに満たされる。活力が満ち満ちている。痛みは無い。ただ、そこには喜びと怒りがある。殺せる。殺さなければならない。殺してやる。そう考えが遷移し、そして塗りつぶされた。 海は真っ黒。重油で真っ黒。汚くしている奴がいる。うめき声が上がる。絶望の叫びが聞こえる。それらすべてが、彼女には喜ばしかった。機関砲が唸りをあげ、肉を引き裂き、ぐじゃぐじゃの塊になって意識があるままフカにかじられ、声すらあげられない「それ」を見て、熊野は喜んだ。 そして、赤く染まった視界に気付き、ふと止まって考えた。熊野とは誰だ、と。「……あ」 目が、覚めた。口元がぴくぴくと痙攣しているのを意識する。手を暗闇にさまよわせ、空をつかみ、ごろり、と転がり落ちる。激痛とともに、床のひんやりした感触が、布越しに体に広がる。 激痛。生きたまま背中をタービンに削り取られた時はこんな痛みではなかった。と、考えて、熊野は明かりを探す。マッチを指が探り当てた。擦って火をつける。深海棲艦のそれとは違う、赤。人類が獣から脱却して知性を獲得した証を見て、混濁した意識が戻ってきた。マッチをふり、火を消す。何を考えていたのだろうか、と頭を押さえるが、判然としない。 死んでいたら、今ここに居はしない。当然のことだ。そう考えて、顔を上げると、ドアを激しく叩く音がする。「何ですの? あわてるようなことはこの世には無くってよ」 そういって扉を開くと、セーラー服を身にまとった少女、深雪がうわあ、と声を上げながら飛び込んでくる。「……慌ててくれよう!敵襲!敵襲だってば!」 数瞬ののち、脳髄に言葉が染み渡る。「……それを早く言いなさいな!」「最初から言ってるってば……!」 走り出す。格納庫に駆け込み、息がはずんだまま艤装を背につけ、データリンクに接続。エルドリッジ敵影は二十キロメートルの洋上に居る。撃ってこないということは、戦艦、ないしは重巡洋艦クラスは存在しない、と見ていいだろうか。と判断すると、情報が更新された。那珂の撃ち出した観測機の量子データリンカから寄せられた熱源反応の動画分析がクラスタリングされた各艦で行われ、統合されたためだ。 駆逐イ級が10隻ほど確認されており、速力はほぼ最大の36ノットを叩きだしている。何かに追い立てられ、逃げている時のような速力だった。こんな化け物どもでも一丁前に恐怖を感じるのか。そう考えて、海に飛び込む。一瞬足が沈み込み、背中のマイクロタービンが猫を絞め殺すような声を上げ、浮力をひねり出す。浮上。砲システム異常なし。魚雷制御異常なし。霧島は陸上におり、指示書をデータリンクで送付してくる。網膜上に内容が投影された。「すでに洋上に展開している那珂、朝潮、荒潮と合流し、敵を撃滅せよ……。単純な話ですわね」「言ってる場合かよ。早く合流しようぜ」 そう呟きながら、深雪はカバーを開け、弾丸を装填装置に押し込んでいく。それを見て、観測機を熊野は撃ち出した。「那珂の赤外線ストロボを確認。合流、急ぎますわよ」「へいへい」進路を進める。会敵予測地点の中間でいったん合流、隊形を整え、熊野が先導する形で単縦陣をとる、という方向で合意したが、どうにも反応が遅い。「那珂ちゃんになにかありましたの?」「ん……まあ、色々かな」 そういって、深雪は一瞬抱えるようにして持っている砲の横を触っている。なるほど、色々か。そう考えて、熊野は前を向いた。確かに、霧島や私にも『色々』とある。 那珂は、熊野の背中を見、そして後ろの二人から立ち上る異様な戦意に充てられて、気分が悪くなりそうになる。落ち着きなさい、と言っても、朝潮、荒潮の二人ともが眉間にしわを寄せているのだから、始末に負えない。その点で言えば、最後尾についている深雪の肩の力の抜け方はありがたい。なにより、接しやすいのだ。「来ますわよ!」 先導し、データリンクの親機となっている熊野から、回避運動の指示が来る。自動的に体が動き、ぐい、と大振りに蛇行するのを意識し、敵の発砲炎を視認する。魚雷対策で大きく蛇行しているのだが、どうにも心臓によくない。こんな距離で当たるものではないのは理解しているが、いつやっても胃が裏返りそうになる。 砲のロックはなされていない。理性的に考えれば撃つはずはない、というのが、おそらくは熊野の考えなのだろう。だが。不味い。どう考えてもまずい。モニタしている荒潮のテレメトリはアドレナリンの過剰分泌を検出している。至近弾が来れば、いつぶっ放すかわからない状態にある。進言したほうが、と考えたが、無線機は深海棲艦の発する、強烈な妨害電波の影響下にある。声を張ったほうがまだ通じるだろう。そして、その声は後ろでアドレナリンに酔った荒潮にも聞こえる。 そう考えているうちに、しぶきが立ち、頭から水をかぶり、そして。「よくも……!」 強烈な発砲音。喚き声。有効射程外。「ば……!」 馬鹿、と言う暇もあらばこそ。狙いがどんどん正確になってくる。観測射が二発。そして。ごん、と頭を殴られたような衝撃が、那珂を保護するフィールドに走る。命中打。くそ、と那珂は悪態をついた。「きゃあ!顔はやめてったら!」 そう、声をわざとあげる。それを聞いた朝潮がデータリンクをいったん切断し、後ろを向き、荒潮の頬を張って止めさせた。停止命令を送られないように荒潮はデータリンクを切断していたのである。「無駄よ」 一言。そう言って、落伍しないように追随してくるのが横目に入る。一瞬全体の速力は緩むが、かえって予測位置に到達しないためか、命中弾は続かない。 呆けたようになった荒潮も、データリンクに復帰し、再度速力を上げて追随。そして、熊野は言う。「さあ、あなたたち。淑女らしく振舞いなさい! 招かれざる客にも微笑んで、丁重に海の底にお帰り願うのよ!」 有効射程内に到達。熊野の二〇・三センチ連装砲が、荒潮のそれ、十センチ連装高角砲よりもはるかに長大な発砲炎と、黒煙を吐き出した。 戦闘は終わった。まだ死んでいない敵に機銃を叩き込み、その哀願するような悲鳴を耳に受け、熊野は思わず顔をしかめる。どうして、こいつらの声は人に似ているのだろうか。もう少し獣らしい声をしていれば、嫌な思いもしなくなるのだが。浮かんでくる赤い血に、さらに熊野は顔をしかめる。どうして、こいつらの血は赤いのだ。人間と同じように。罪悪感が湧く。まるで、私が深海棲艦だったかのような罪悪感が、と考えた瞬間、荒潮と深雪の声が聞こえる。怒鳴り声が。「馬鹿じゃねえのか! 有効射程外で撃ったってこっちの正確な位置を暴露するだけだぞ!」 掴み掛らんばかりの勢いで、荒潮に指をむけ、深雪は言う。後尾についていたということは、無謀な行動をした栗色の髪の少女の巻き添えを食らう恐れもあったので、当然と言えば当然だろう。「なんですって……」 そう、地の底から響くような声が荒潮からする。それに対して、那珂はもう、喧嘩はやめなさい、と言うものの、聞こえていない。「傾注!」 そう熊野は大声を張り、じろり、と周りを見る。「作戦中ですわ! 帰投後にいくらでも話は聞いて差し上げます。ここは女学校ではなくってよ!」 そう言って、強制的に全員の航法を奪い、帰投ルートを設定。考えることは山ほどある。なぜ、あんなふうに敵はほぼ最大船速とも言えるすさまじい速度でこちらに向かってきていたのか、という最大の疑問がある今、揉め事にかかずらっている暇はない。何かがある。「瀬戸内海から深海棲艦が流出している?」 春日DCから移設された新田原臨時SOCのコンソールで報告を受けていた新田原基地司令は、スクリーンの表示を見て、にや、と笑った。「……諸君、忙しくなるぞ」 そう言って、笑う。呉鎮守府か、それとも広島駐屯地か、どちらかはわからないが、瀬戸内海の制海権を奪取したのだ。その余波として、他地域に深海棲艦が逃げ出している。あと少し。あと少し、これに抗甚すればよい。そうすれば、各地の連絡が再びつながる。彼らの決死の努力が勝利という形で報われるときが来たのだ。「……そうだ、熊本の陸軍と、佐世保の海軍にこの情報を共有しろ。良いニュースだぞ」 しかし、運命の女神は皮肉であった。陸軍には連絡がつながったが、海軍には連絡がつながらなかった。なぜか。海軍のNOFに接続する連接システムは既に海軍側の撤退作業で破壊されており、かつ、深海棲艦の電波妨害下に有ったため、無線が機能しなかったのである。しかも、これは呉鎮守府、広島の第五師団、岩国の海兵隊によって追い立てられた敵によって招来された事態であった。underdogs -了-