「熊本駐屯地と新田原基地とは連絡が取れませんの?」 人家の光りが消え、豪雨のような星空が覗いた夜。その熊野の一言を聞いて、霧島は我に返る。地図を広げて南回りか北回りか、ということで堂々巡りを繰り返していたのだ。北回りは敵根拠地たる対馬がある玄界灘を通らねばならず、危険度は段違いである。といって南回りは今度は鹿児島、沖縄間の危険海域を通らねばらならない上、熊本駐屯地、新田原基地といった人類側の抵抗拠点がある。ために、敵戦力が常時動いており、こちらも危険度が高い。敵は陸軍、空軍、海軍を識別しないのだから、当然とはいえる。「それもあるけれど……エルドリッジの巡航用ディーゼルが壊れていることの方が問題なのよ」 エルドリッジは呉鎮守府で使用しているブルーリッジの同型艦であるが、アメリカ側からの供与の時期の関係でCODLOGを採用しているため、巡航時はディーゼル・エレクトリックで推進を行う。ところが、念のために、ということで、これを動かしたところ、うち数基が破損していたことが判明したのだ。間に合わせの部品をでっち上げていこうにも、陸上設備をあらかた引き上げてしまった後である。 実際のところ、巡航そのものには問題が無い。ただし、1基も破損しなければ、の話で、南回りで移動した場合は「破損のリスク」が上がる。動かす期間が長ければ、当然破損のリスクも上がるのである。「それはそうですけれど、北回りで襲撃を受けた場合、一気に殲滅されますわよ。わたくし、自分一人ならともかく、その状況でエルドリッジを守りきれる自信はありませんわ」「……そうね、その通りなのよ」 エルドリッジを見捨てて良いのであれば、おそらくはどちらでも突破はできる。積める限りの物資と人員、つまり『助かる見込みがある』と判定された人々を積載した船を見捨てるのであれば、だ。 熊野の目を見る。真っ青なガラス玉。そういう感じを、霧島は受けた。目の下には隈が出来ており、疲労の色をにじませている。「……偵察を出します」「偵察?」「ええ。軽快な水雷戦隊で南北の敵情を偵察し、そこから行動を開始します」「そんな暇はありませんわ」「あります。というより、今更決断が後ろにズレても、敵の襲撃を警戒するだけ無駄なの。何もないんだから」 手を広げ、お手上げ、というしぐさを霧島がする。熊野ははあ、とため息をつき、続けた。「佐世保から離岸させ、五島列島の陰にエルドリッジを隠すことを提案しますわ。離岸してもしなくても、今のところ佐世保では船をどうこうしようもないのですもの」 その熊野の提案に対して、霧島は頷き、口を開いた。「エルドリッジの護衛は熊野さんと私の2交代。その間に那珂さんを中心とした水雷戦隊を偵察に向かわせる。状況を見て北進か南進かを決定し、しかる後に合流する。それでいいわね?」「……まあ、そんなものでしょう」 そう言って、二人はほとんど同時に目をこする。しっかり寝ているはずなのに、疲労感だけは、体に染みついていた。余計者艦隊 第三部「対馬失陥編」第三話 「青空」 腹の奥底に、振動を覚える。船に乗ると、いつもとは言わないまでも、こういう感触がある。足が不定期な波のリズムに揺られ、エンジンの振動が、腹に伝わる。エルドリッジは大型船だから余計にすごいなあ、と呟きながら、クレーンで釣った艤装をてきぱきと身に着けながら、那珂は霧島から渡された電子指令書を見て、うへえ、とうめいた。要約すると、対馬の様子を見た後に熊本近海の様子を見て来い、ということである。襲撃を受けたらどうするの、と聞いたところ、エルドリッジに近づけないように逃げて来い、と言われてしまい、思わず天を仰いだものだ。 手甲をはめ、手持ち式の二〇・三センチ連装砲に弾を込めながら、周りを見渡すと、深雪にも、朝潮にも、荒潮にも疲労感がにじんでいる。言うまでもないが、交代要員のいる船とは違い、彼らにそれは居ないからだ。一昼夜自力で航行をする、となると、身体を艤装側の制御に回して「仮眠」をとったとして、脳はともかく、体の疲労はまるで抜けないためだ。当然ながら、体を動かしているのには変わりがないのである。 彼女たちは人間の体を持っている。それがゆえに、指揮統制艦という名目で母艦を必要とするのである。ただ、それでも回復のしようがないもの、というものは当然ある。それは通俗的な言い方をすれば「士気」であった。モラールという言い方もあるが、負けて意気消沈していれば疲労感も色濃い。本来、兵たる駆逐艦たちを激励し、ハッパをかける軍曹役を引き受けるべきは那珂なのだが、当人もひどく疲れており、いつものようにアイドルがどうこう、という態度をとれないのである。というよりも、取った場合激発しかねない二人が居るから、ともいえる。「はーい、こっち向いて! 那珂ちゃんの方ね!」 ぱん、と手を叩き、なるべく明るい声を出して、那珂は言う。装備を身に着け終わった深雪、朝潮、荒潮が視線を彼女に向けた。「じゃあ、作戦を説明するね。量子リンカの規約、通した?」 一様に首が縦に振られる。普段なら声は、とか元気ないなあ、とか言うべきところなのだろうが、どうにもタイミングを逸してしまった。そう考えながら、ファイルのアクセスログを流していると、各人のアカウントからのアクセスがある。よし、とファイルを開いて、作戦というには場当たりにもほどがあるそれを開く。「ん……まあ、作戦っていうにはちょっとなんだけど、やる事はわかったよね?」「那珂ちゃん、那珂ちゃん、どっちが先なんだ?」 そういつもの調子で言うのは深雪である。どっち、とは南北どっちか、ということである。危険度が割合はっきりしていて、状況が読める北か、状況が読めない南か、ということだろう。「那珂ちゃんって……」 そう荒潮が顔をしかめる。んだよ、と噛みつくような調子で深雪が声を出すが、朝潮が彼女に視線を注いでいる中、毒気をそがれたのか、ちえっ、と呟いて、やめにしたようだった。「そうね、北の方を優先しようと思うの」 す、と朝潮の手が上がる、はい、朝潮ちゃん、と那珂は言って、こんなふうだったことがあったな、と、ふと懐かしさを覚えた。みな殺気立っておらず、疲れても居なかったし、もっと色々な艦娘がいた。ほかの艦娘は、死んだか、うめき声を同じ船の中で立て、鎮痛剤と言う慈悲の神にすがっている。「朝潮です。発言の許可、ありがとうございます。……私たちがなぜを問うのは良くない、と思うのですが、なぜ情報がはっきりしている北の方を優先するのでしょうか? 敵の根拠地であり、誘引してしまった場合エルドリッジに対して危害が及ぶ可能性があると考えます」「そうねぇ……私もそう思うわぁ。……あ、ええと、荒潮です。不正規発言、ごめんなさい」 そう二人が言うのに対し、まあそうだよな、と深雪は言う。素直に同調するのも癪だ、という感がある。当然の疑問であり、那珂からすればおそらく間違いなく問われる事でもあった。「はい、当然の疑問、ありがとう。まずね、那珂ちゃんは北ルートの偵察を優先する理由があるの。単純なお話だけど、呉鎮守府の活動があるなら、なんらか徴候は見えると思うから、そっちを優先したいの。それに、仮に北ルートが安全なら良くわかっていない南を省けるの。それが理由。わかってくれたかな? 朝潮ちゃん」 その答えに納得したのか、していないのか、朝潮はありがとうございます、とのみ答える。多少なりとも作戦前の緊張感が部屋に漂ってきた。倦怠感は当然体にはまだ残っているが、気にはならなくなりつつある。「さて、時計、持ってるかな?」 そう言って、艤装の隠しに入れてある懐中時計を那珂は取り出す。腕時計は艤装が邪魔をしてつけられないため、彼女は懐中時計を持っている。少し黒ずんだ銀の鎖は、落としそうで心配だ、という姉妹にプレゼントされたものだ。特型駆逐艦である深雪や、朝潮型駆逐艦である朝潮、荒潮は右の腕には何も装備していないため、腕時計をまいている。「さて、あとちょっとで〇五〇〇です。時刻合わせ……今!」 かちり、という音が一斉にする。ぱん、と深雪が顔を叩き、よっしゃ、と声を上げた。偵察作戦、開始。「五島列島を通過。いやー、なんもないね」 そうノイズ交じりの深雪の声が、那珂の耳朶を叩く。ホントにね、と返したいのをこらえながら、実際には注意を返す。「もー、ワッチサボってて奇襲をもらいました、なんてあったら怒るよー?」 波しぶきの音。カモメの声。胸元のスカーフを揺らす風が心地よい。初夏の朝の陽ざしが波しぶきにあたり、瑠璃のような艶やかな色をつくり、消えて、再び姿を現す。奪還した島々の豊かな緑と併せて、まるで一幅の絵のような美しさだった。 しかし、その美しさを堪能する余裕は、彼女たちには無い。すぐに最大船速に移ることができるように備えながら、打ち上げた水偵からの情報に神経をとがらせ、神経質にぎょろぎょろと、と形容するのがふさわしい目運びをしている。既にここは敵地なのだ。ソナーに潜水艦の兆候はないか、敵の船影は無いか、航空機が飛んでいるならそれは敵か味方か。深雪もふざけているように思えて、目は油断なく動いている。「……?」 何か、遠雷のような音が聞こえる。そう考えた瞬間、那珂は艤装側に回避運動と最大船速を指示。わっ、という荒潮の声とともに、肉体のコントロールが奪われる感覚。ぐにん、と足がしなやかに動き、ジグザグの航跡を海に描く。「敵砲撃!2時の方向!音響観測データ、知らせ!」 那珂はそうどなった瞬間、はるか遠くに水柱が立つ。しめた、まだこちらをうまくとらえられていない。今なら逃げられる。そう考えたが、しかし。「敵航空機多数! 水偵が落とされました!」 データリンクからの情報を朝潮が怒鳴る。くそっ、なんてこと。と、那珂は毒づいた。水偵がとらえた敵の艦影は、戦艦レ級1、艦型不明の重巡洋艦2と、同じく艦型不明の駆逐艦3である。よりにもよってこんな時に、と唇を噛み、那珂は言った。「逃げる……わけにはいかないよね」 そう、逃げるわけにはいかない。撒くにしても、あまりにもエルドリッジに近すぎる。そこにレ級を誘引してしまえば、霧島や熊野が応戦する間もなく、完全に沈没してしまう。「さあ、行っちゃうよ!」「おっしゃあ! みなぎってきたぜ!」 その深雪の声に対し、答えるかのように那珂は前進する。砲撃は激しさを増し、水柱がどんどん近づいていく。まだだ、砲撃距離には近いが、彼女達の砲では有効打とはならない。彼我の距離は10キロメートルほどにまで縮まった。 今だ、と那珂の中で声がして、そして。「……テェ!」 声とともに、量子リンカで統制射撃。航空機の機銃が那珂の桜色の装甲を舐め、はじく。砲口から煙とともに吐き出された弾丸が、敵の駆逐イ級に命中する。血を吹き上げ、超音波に届こうかと思えるほどに、耳に刺さる喘鳴の声を上げる。いける、まだいける。2キロまで詰めて魚雷攻撃をするまで、くそったれの敵どもめ、生きていろ。そう常にない呪詛が、聞こえた。誰のものか、と思った瞬間。 至近弾。波を桜色の装甲がはじき、ちらつき、そして。 爆炎。何の爆炎か。那珂は自分の手足を見て、ついていることを確認した。そして、混乱した頭を向け、後方を見る。黒いアームカバー。白い指、緑色の艤装。爆発でぐちゃぐちゃになり、ぷかぷかと赤い血をぶちまけながら泳いでいるそれが、目に入った。量子リンカのバイタルデータには、意識喪失という表示がなされている。「あ、朝潮ッ!」「バカッ、今はダメだ!」 北に先に行くべきだ。と主張した場面を、思い出す。あの白い指が、上がった時の事を考える。判断ミスだった。小規模とはいえ、艦隊を補足すれば奴らの事だから、死ぬまで追いかけてくるだろうことは、わかる。だったら、南の方を先に偵察するべきだったろう、そう、赤い血の跡を残して沈んでいく腕が、語っている。「深雪ちゃん、荒潮ちゃん」 そう、思いのほか静かな声が、喉から出た。「撤退を命じます。しんがりは私が勤めるね」 そう言って、リンクを解除。那珂は腰のハーネスを引き出し、回避運動のカーブに差し掛かったところで、朝潮の艤装にがちゃり、と金具を取り付けて、言う。引き摺られ、うめき声が聞こえる。ロープをたぐり、桜色の「装甲」の展開面の内側に引き寄せた。「で、でも」 ノイズが激しく混ざった深雪の声。「北は危険だった、って言う人が居なきゃダメでしょ」 そう言って、那珂は20・3cm砲を発砲。大気が震え、水柱が周囲に立つ。「やだ、いや……」 涙交じりの荒潮の声。艤装が身体内部から締め上げているとはいえ、血管からは鼓動のたびに真っ赤な血が噴き出しているのだ。それを見て、平静で居られようはずはない。「行きなさいッ!それでもあなたたちは艦娘なの!? 行けッ! 特型駆逐艦深雪! 朝潮型駆逐艦荒潮! あんたたちじゃこの子をけん引してたら追いつかれるでしょ!」 怒鳴り声を上げる。常にない声を上げる。量子リンカから伝わるINSのデータから、遠ざかって行くのがわかる。自分の吐息が嫌と言うほど耳につく。「もう、アイドルキャラが壊れちゃったじゃない」 そう言って、那珂は笑う。力ない笑いだったが、しかし。「さあ、来なさいクソッたれ。艦隊のアイドルの那珂ちゃんがお相手してあげる」 まったく、アイドルキャラだったのに。そう、那珂は笑った。「プリフライトチェック完了。いつでもいけます」 そう英語で答えた男は、いつもと同じように屈辱感を覚えた。ロシア語が書かれていたコンソールパネルにはすべて英語が貼り付けられ、まるで汚されたように思える。彼の乗っている航空機は、ミグ25と呼ばれていた。男と同じくロシアの地で生まれ、男と同じくロシアの地で鍛えられ、そして、男と同じく、祖国を失った。 深海棲艦の侵攻の結果なら、まだよかった。だが、彼の地はまだ深海棲艦禍には見舞われてはいない。いや、別の意味で見舞われた、ともいえる。なぜならば、ヨーロッパからの難民を多数受け入れた結果、大きな混乱、と呼ぶには生易しい内戦が生じ、ソヴィエトは崩壊したのだ。 彼はアメリカに亡命し、亡命者部隊に一時所属し、今は撃ち落とすべき標的だったB-70ヴァルキリーの護衛戦闘機として使われているミグ25を駆っている。 翼にはアメリカ空軍のラウンデルではなく、赤い星が刻まれている。男の誇りだった印だ。アメリカ本国との連絡が途絶した後、亡命者達が塗り直した、ささやかな誇り。今はなき祖国への、惜別の情。 タキシングし、滑走路を駈け、ビーム上昇。合流予定の空域に到達。「こちらアレクサンドル。あー、いや、アクィラ1、現在高度1万メートルに到達」「こちら管制、アクィラ、フィートで言え」 ヤンキーどもは相変わらず。と考えながら、高度をフィートで送る。護衛戦闘機隊として同僚のミグ25が9機と、一機、巨大な白亜の機体が上がってきた。 カナード翼のついた細長い機首に、デルタ翼。核爆弾を投下して死を振りまく戦乙女にもかかわらず、真っ白に染め抜かれた優美なその機体を見て、嘆息する。あまりにも美しい。 しかし、その美しさは、死の美しさかもしれない。そうアレクサンデルは思い直し、首を振った。爆撃先も因果なものだ、とアレクサンデルは考えた。なにしろ、帝政ロシア時代に戦場となった島なのだから。