朝の目覚めは睡眠時間は十分とはいえないのに相変わらず調子が良い。単純にレベルアップの影響なのだろうか? それとも意識があちらの世界に行っている事が、俺の身体にも何か影響があるのか?
前者ならまだ良いのだが、後者だとすると何か怖い。
「おはよう」
リビングから流し台の前に立つ母さんに声を掛ける。
「おはよう」
包丁仕事をしている母さんは、こちらを振り返ることなく返事をした。
『タカシおはよう』
マルは寝床の中でお腹にユキを抱いた状態なため動けず、こちらに顔だけを向けて挨拶してきた。
『マルおはよう……ユキはまだおはようじゃないな』
『ユキちゃんはまだお休みだよ』
完全にお姉ちゃん気取りでユキの面倒を見ているつもりだ。涼にもお姉ちゃん気取りなのだから何とか躾けて貰えないだろうか? ……無理だなというよりも、これでマルが涼を躾けてしまったら人間としてのプライドがズタズタだな。
リビングの床の上に父さんと兄貴を転がす。
『あっ、マサル泥だらけ! いけないんだ。お母さんに叱られる』
あちらの世界で指一本動かせなくなるまで俺にしごかれ、幸いにも俺には男の服を脱がす趣味は無いので、そのまま収納してきた結果だ。
しかし散歩が終わって家に入る時は足や身体の汚れを落としてからと、きちんと躾けられているマルとしては許せないのだろう。
「どうしたの? ……まあ!」
マルの訴えに、朝食の準備の手を休めてリビングに入って来た母さんが眉をひそめる。
「隆。こういうのはお風呂場に転がして頂戴」
今兄貴のことを汚物を見るような目で『こういうの』扱いしたよ。
一旦兄貴を収納してから、風呂場に向かい床に転がして顔に水をかける。
「ぶっふぁっ! ……また水!」
飛び起きた兄貴に「おはよう」と声を掛ける。
「隆! もう少し起こし方を何とかしろ!」
「はいはい、さっさと服を脱いでシャワーを浴びろよ。次は父さんが浴びるだろうからさ」
そう言い残して立ち去ろうとする俺の背中に「なあ、俺って少しは強くなれたか?」と兄貴が投げかけてきた。
「全くセンスは無いけど、身体に教え込んだ分は消化して身に付いてると思うよ……まだ、ホンのさわり程度だけど」
それが消化出来たのはレベルアップのおかげだけど。
「そうか、だったら今日も向こうに連れて行ってくれ……ハイクラーケンの件については考えておいてやるからさ」
「……分かったよ。そういわれたら断れないじゃないか」
それにしても兄貴にも強くなりたいという欲求があったとは思わなかった……余りにも意外すぎるので何か裏がある事を疑うべきかも知れない。
『マル。今日は散歩は止めておくか?』
ユキがいるために身動きが取れないみたいなので、今日は1人でランニングに出かけようかと考える。
『マルをおいていったら駄目! お母さん! タカシが、タカシがマルをおいて散歩行くって意地悪を言うの!』
意地悪じゃないだろ。大体母さんに告げ口とはいらん知恵ばかりつけやがって。
「どうしたの隆?」
『お母さん! お母さぁん!』
駄々っ子状態で母さんを呼んでいる。
「マルの上でユキが寝てるから起こすのも可哀想だし、今日はマルの散歩は休みで良いかって聞いただけだよ」
「あらあら……」
『マルガリータちゃん。マルガリータちゃんは寝ているユキちゃんを起こしてまで隆とお散歩に行きたいの? ユキちゃんは小さいから寝るのが仕事なのよ』
『でも……でも……マルもお散歩が仕事なの』
確かにマルはシベリアンハスキーだから走るのが仕事だし、走らないとストレスで体調を崩すほどだ。
『マルガリータちゃんはお姉ちゃんじゃなかったの? ユキちゃんはマルガリータちゃんをお姉ちゃんだと思って安心してこうして身を任せているのよ』
その言葉に、マルは自分のお腹に半ば埋もれるようにして眠るユキへと目を向けると、溜まらずに尻尾をパタパタと振り始める……ストレスと書かれたゲージが凄い勢いで減っていくイメージが頭の中に浮かんだよ。
『うぅぅっ、マル……マル、我慢するよ! だからタカシもお兄ちゃんなんだからお散歩我慢して!』
とんだとばっちりだよ!
結局、朝のランニングをサボる事になってしまい、マルや目覚めたユキと遊んでから朝食をとり、母さんとマルとユキに見送られて学校へと向かった。
「高城。高城君。例の件なんだけど……」
2時間目の理科の答案が返って来て、俺のグランドスラム達成が確定した直後、背後から小さく声を掛けてくる。
「来週の月曜日から日曜日までみっちり仕込んでやる……安心しろ1年生と同じメニューだから大した事は無い」
空手部の基準ではな。
「そうか?」
「毎日20㎞程度走ってから、ちょっと型や組手をして貰うくらいだ」
大島が居なくなって下級生達が手を抜いていた事が判明したので、再び基礎体力重視の訓練メニューに戻っている。
「……終わった」
昼休み、またもや図書室に集まって知識の詰め込みを行っている空手部3年生+香籐の面々。
『呼び出しが掛からないぞ!』
櫛木田からの【伝心】による突込みが入る。
『高城どういう事だ?』
『俺が知りたいくらいだ!』
田村へそう吐き捨てる。
全くどういう事だ? 大島に頭が上がらない腹いせに、教え子でも有る空手部部員に嫌がらせをしてクラスでハブらせるように誘導する事も厭わない様な理性と思慮と恥に欠けたアダルトチルドレンどもが、何故今回に限って賢明な選択を行えたというのだ?
『北條先生が止めてくれたんじゃないかな?』
『なら仕方が無い!』
紫村の意見に全員で応えた。
『君達ね……僕に準備をさせておいて』
『北條先生が教師たちの中で発言力を発揮したとするなら、良い事だと思います』
『そうだな粛清だけが全てではない。集団の空気を少しずつ変えていく事で、集団をより良い方向へと導く事が出来るならそれに越した事は無いな』
香籐の意見に櫛木田がそう応える。この男は下級生達を大事にするように空手部の中でバランサーとして動くので、穏便に済むならそれでよしとする傾向が有る。
尤も教師達に対しては「死ねば良いのに」と恨みは持っているのは間違いないが、学校という集団に関しては、既に教頭の退職が迫って居る中、鈴中と大島が対外的に失踪した事になっており、先日から校長と3年の学年主任が不祥事による自宅待機状態という中、これ以上の教職員の減少は望んでいないのかもしれない。
この辺は甘いという考えもあるが俺は嫌いではない。だが──
『北條先生が止めたとするなら、多分今日が明日にずれ込む程度だ……残念だがそれ以上の影響力は発揮出来ないな』
『そうだね。僕もそう思うよ』
俺の意見に紫村も同意する。すると『そうか紫村が言うのなら』と皆が納得する驚きの説得力……おい! 俺の言葉がそんなに信用出来ないのか? と言っても、どうせ肯定されるので思ってても言わない。
『それにしても北條先生には面倒をかけた上に心配までかけてしまった事になるのか……』
『だが、北條先生が俺のためにと思うだけで、ぐっとこみ上げて来る感情を抑えきれない高城であった……』
そう北條先生が俺のためにと思うだけで、ぐっとこみ上げてくるものが……おいっ!
『分かるぞ高城!』
『俺にも分かる!』
『うっせー俺が言ったんじゃない! 紫村勝手な事を抜かすな!』
『そんなに照れなくても良いじゃない?』
『照れるんだよ! お前と違ってこちとら思春期のガラスのように繊細な少年なんだからな』
『まあ、照れる高城君もまた良いんだけどね』
紫村を除く全員のページをめくる指の動きが止まった。
『……解散!』
櫛木田がそう宣言すると同時に、我々は紫村を残して図書室から撤退した。
「高城君。ちょっと話があるので数学準備室の方に来て下さい」
帰りのHRが終わる前に北條先生に呼ばれる。理由は察しが突くが、クラスの連中達がざわめき、その中に気に入らない単語が混じっていた……橋本の奴だ。
この優等生君はクラスでトップの座を俺に奪われた事が我慢なら無いようだった。チートな能力を手に入れてテストで全教科満点を取るのは卑怯かもしれないが、少なくとも俺はチート能力を手に入れるために死にそうになるという代償を払っている。しかも何度もだ。
もしシステムメニューを手に入れて夢世界に飛ばされたのが橋本で、俺と同じ目に遭ったなら死んでるはずだと断言出来る。
それどころか俺だって、生き残れたのはかなりの運に恵まれた結果だと思う。狼に出会う前にシステムメニューに気付いてなかったら確実に死んでいただろう。
だから良いだろう。俺だけは許して欲しい。恨むなら俺以外のパーティーメンバーを恨んでくれ……パーティーに入れたのは俺だけど。
そう自己正当化した事で、橋本の刺さってくるような刺々しい視線や言葉は無視する。これから北條先生と2人っきりでお話するんだからそんな些細な事で気に病んでいる場合じゃない。
『北條先生に呼び出されて、一緒に数学準備室まで移動なう』
『うぜぇ~』
『何がなうだよ。古いんだよ、お前は江戸時代の人間か?』
浮かれて言ってしまったとはいえ、お前等俺の事嫌いだろ?
『それはともかく実況よろ~』
『リアルタイム中継キボンヌ』
よろ~はまだしも、どう考えてもキボンヌの方が酷いのに誰も突っ込まない。このアウェイ感……だが全ては連中の嫉妬だと思うと心地好い。
『前を歩く先生の一歩ごとに揺れるお尻に時々視線が流れるのを止める方法を教えて欲しいなう』
優越感から来る余裕の発言で煽る……本当の事なんだけどさ。
『お前死ねよ』
『自分で目を抉れ』
『さすがに正直すぎます』
『庇いようが無いね』
『映像で送れよ』
そんな馬鹿をやっていると、すぐに数学準備室の前に着いた。
「どうぞ入って」
「失礼します」
頭を下げて、中に入ると先生はコーヒーを淹れながら俺に席を勧める。
俺は席に着くと同時にセーブを実行した。ここは慎重に行くべきだろう。
「……それで高城君。今回の貴方のというより空手部員達の試験結果についてのことなのだけど……」
躊躇いがちに、言い辛そうにしながら切り出してきた。まあ、立場的に俺達の疑いを晴らす必要があって、そのためには第一に疑う必要があるからだろう。
こんな場合に私は信じてるとか言うのは偽善者だ。本当に疑って疑って全ての疑いが晴れて初めて信じられるのであって、最初から口先だけで信じてるなんて言うのはただの無責任であり何の意味も無い。
「自分達の実力でテストに臨んで相応しい結果を取っただけですよ」
「今回、いきなり3年生全員と2年生の香籐君が全教科満点を取ったのも実力に相応しい結果だったという事?」
北條先生はメモを取りながら尋ねてくる。
「……これは、今日私が高城君と面談した内容を、他の先生達に説明する必要があるの」
「構いません。どうぞ……それで満点を取った事ですね。それには理由があります」
「理由とは?」
「大島先生の失踪です。その為に我々は時間的な余裕が得られるようになったので、その時間を勉強に割く事が出来ました。ご存知だと思いますが我々の成績は決して悪くはありません。ほとんど家庭での学習に割く時間が無い状況で成績を維持するために効率良く勉強した結果ですが、今回は時間も十分に取れたので今回の結果に繋がったのでしょう……と説明しておいてください」
「説明しておいてって……」
「勿論、本当は先生が我々の事を心配して時間と場所まで提供して貰い、しかも親切丁寧に教えていただいた恩に報いるために奮起したのです。全て先生のおかげですね。ありがとうございました」
『自分だけ良い子ぶりやがって! 高城ずる──』
折角リアルタイムで中継してやってたのに田村が文句をつけてきたので【伝心】を切った。
丁度、俺の言葉に照れる北條先生というレアな場面だったのでザマアミロだ。
「そんな風に言ってくれるのは高城君くらいね」
照れながらの笑顔でのその台詞……ふぅ、危なかった。思わず理性が弾けとんでどうなるか分からなくなるところだった。セーブしておいて正解だった。
有頂天になる事無く冷静に対処する。この世の何処に誉められて調子に乗るような馬鹿な男に好感を抱く女性が居るだろうか?
万一、そんなのに引っかかる女性が居たとしても、北條先生はそうではない……という絶対的な思い込み、恋するというファンタジーな状況には大切な要素だと思います。
……セーブまで済ませて「YOU告白しちゃいなYO」状態を確保したにも関わらず、俺はヘタレて当たり障りの無い話に終始してしまった。
どうせ俺は将来「愛される事よりも愛する事が大事なんだ」とか戯言を抜かしながら童貞をこじらせて魔法使いになるんだ。
既に魔法を使えるようになった童貞が、30過ぎまで童貞を抱え込んでしまったら神になるんじゃないだろうか?
俺が神になったらモテる男は全員、死後永遠に自分の趣味の正反対にいる女に言い寄られ続ける地獄に落としてやる……決まってるの? 童貞をこじらせるのは俺の中では既定事項なの? 何で童貞をこじらせる事を前提にして、訳の分からない復讐劇を企んでるの?
今日も道場を借りるために北條邸に辿り着くと、門の前に北條先生のお母さん──雰囲気は母上って感じ──である芳香(よしか)さんが立っていた。
「今日もお世話になります。よろしくお願いします」
「こちらこそ。練習頑張ってくださいね」
柔らかな上品な微笑と口調。その顔立ちは妹の方が僅かに似ていると思うがアレと一緒にしてはいけないという思いを強く感じさせる。多分将来的には北條先生の方がお母さんに似ると思う。妹の方はどこかで軌道をそれて変な方向へ飛んで行って管制室から自爆コードを入力され汚い花火となるのだろう。
それにしても、北條先生が歳を重ねてこのような上品なご婦人になるとするなら20年後でも十分行ける! と思った。
つまり11歳違いなど、俺にとっては何の障害にもならないという事だ……違う。そもそも俺にとっては障害なんて最初から無かったよ。問題は北條先生にとって俺が11歳も歳下の子供であるということだ。
先ずは生徒と付き合うという体面の悪さ。そして俺が経済的に独立していないという問題……ハードルが高過ぎる。そういうのを無視して強引に突っ走れるタイプなら良かったのだが、ヘタレな俺には無理だ。
「どうかしましたか?」
考え込んでしまった俺に、怪訝そうに尋ねてくる。
まさか、北條先生もお母さんのように美しく歳を重ねるのかと思うと胸熱からのちょっと鬱とは正直に答えられず「……いえ、少し見惚れてしまいました」と答えてしまった。
ああ! 幾ら嘘には真実を混ぜるとそれは混ぜたらアカン奴だ。
直後、後ろからケツを蹴り飛ばされる。
「イテェッ!」
「何をナチュラルに人妻を口説いてるんだ!」
「いや、あのな、ほら……先生もこんな風に素敵に歳を取るのかと思うと……ちょっと色々と考えて──」
「何を色々考えてるんだ恥しら──」
「まあ待て」
いきり立つ伴尾の肩を掴んで田村が止める。
「何だよ?」
「俺にも高城の気持がわかる!」
直後、伴尾の踵落しを頭頂部に受けた田村はキリッとした真剣な表情を変化させる間もなく地面に沈んだ。
「伴尾! お前には分からんと言うのか?」
「分かるのと認めるのは違う!」
櫛木田と伴尾が互いに至近距離で放った上段の回し蹴りが激しくぶつかり合う。
強靭な体感とバランス感覚、そして柔軟な股関節によって成し遂げられる視界の外から跳んでくる足技は互角ではない。
伴尾の蹴りを櫛木田が読んで迎撃したのだ。
これは櫛木田を誉めるより伴尾を責めるべき結果だった。櫛木田には異能と呼ぶべき感覚が存在する。それは周囲の人間の歩調を察知し把握する事で、相手の未来位置を正確に読み取る事だ。相手が意図的に歩調を変えない限り、周囲にいる人間の3歩後の左右の親指先の位置を半径1cm以内の円の中に捉える事が出来る。
勿論、空手部に半年以上在籍していれば、似たような事は嫌でも覚える事になる。だがそれは対象は1人で誤差は5cm程度はある。
大島さえも「これだけは櫛木田には勝てない」と認める異能だ。
伴尾は技を放つ前に技を出す距離を合わせる為に途中で微妙に歩幅を短く変えていた。これは普通は問題無いが櫛木田相手には致命的であり、度のタイミングで蹴りを放つかまでも読まれたのだ。
ちなみに俺が櫛木田を相手にする時は、歩幅は一切調整せずにその間合いで使える技を繰り出して倒すだけだ。
「認めろ! 北條先生が20年後にも母君の様に美しい姿である可能性が高いという希望を抱ける奇跡を!」
また変な言い回しが始まったよ。
「それと人妻に懸想するのとは話が別だろう! ましてや北條先生のお母さんだぞ、お前等恥ずかしくないの?」
「美しいもの美しいと認めるのは人間の正しき心だ。昔のインドの偉い人も『美しいものが嫌いな人がいて?』と言っているだろう」
「それはアニメの話だ馬鹿野郎!」
もう意味が分からない。
「こんなおばさんを相手に美しいとかお世辞を言ってないで、学校で気になる女の子に言ってあげなさい」
そう言って、櫛木田と伴尾の呼吸の間に絶妙なタイミングで割って入る……流石は北條流に嫁ぐだけの事はある。
後、機嫌を損なうどころか、むしろ嬉しそうなので良かったのですが、我々が学校で気になってるのは女の子ではなく、女性で貴女の娘さんだって事は空気を読んで理解して貰いたい。
「せめて貴方達が二十歳くらいだった娘達を勧める野だけど……」
空気を読んでた! でも次女の方は結構です。
「娘達は上も下も問題があって……」
深く溜息を吐く。
「皐月さんの問題は分かりますが、先生に何の問題があるんですか?」
「弥生は、きっとお義父様の血が濃かったのね、魂の奥底に鬼を飼っているの……」
「鬼ですか……先生に?」
いまいちピンと来ない。確かに女子剣道部では厳しい指導から鬼と呼ばれていると自分で言っていたけど。
「弥生は、面を付けるとちょっと人が変わるというか、戦闘モードにスイッチが入ってしまうというか……色々と加減が出来なくなってしまうの」
言葉の上では別に気になるような話ではない。俺達だって本気になるとスイッチが入ってしまうのは普通に起こる。だが芳香さんの表情と「色々」
という言葉が妙に引っかかる。
「そんなに凄いんですか?」
「容赦なく人を斬る事が出来るとお義父様は言っていました」
「……でも、斬ると言っても竹刀ですよね」
面を被ると人が変わるというのだから剣道の枠からは離れることは無いだろう。
「竹刀でも何人も病院送りにしていますから」
……鈴中は手加減されていたのだろうか、それとも単に鬼を起こすには力不足だったのか。
「武術には怪我はつきものですし」
単なる怪我と病院送りでは意味が全く異なる事を分かっているが苦しいフォローをする。
「娘を庇ってくれるのは嬉しいのですが、私は練習や試合で相手を病院送りになどした事はありませんよ」
どうやら芳香さんも剣道か何かの武術は修めている様だ。
「気をつけなさい。貴方達の中にも鬼は潜んでいるようです」
貴方達にもと言いながら、その目は真っ直ぐ俺を射抜いている……
「僕にもですか? まさか──」
「お義父様にあって、夫と私にはなく弥生にあり、貴方の仲間にある……特に貴方は随分と強い鬼を秘めていそうですね」
心の奥を覗き込んでくるような眼差しに、焦燥感がじりじりと胸底を焼く。
「僕は極普通の中学生ですよ」
背後からダウトのコールが掛かる……お前等な、覚えてろ!
「芳香さんのお義父さんと旦那さんなら、圧倒的に旦那さんに親近感を覚えていますし……そこはかとない小市民感覚?」
「貴方は自分の中の鬼に気付き怖れているからこそ、普通でありたいと願っているのではありませんか?」
「……それは」
痛いところを突かれた。絶対に認めたくない核心を一発で撃ち抜かれてしまった。
確かにその通りだ。自分の中にある大島への奇妙な親和性に怖れて自分に言い聞かせるように小心者と思い続けてきた。
更にレベルアップによる精神変化に驚き、あえて大島的に振舞った結果、後戻りが聞かないほど大島に近づいている自分に気付くたびに自分が小心な小市民だと強く言い聞かせてきたのが、自分を騙し続けるにもそろそろ限界が来ていた。
「夫は自らの気質が小市民的で良かったなんて安心などしていません。安心するという事はそうではない事を自分で理解しているから、そう振舞う事が出来る自分に安心しているだけです……自らの中に棲む鬼を否定するのではなく、受け入れてあげなさい。そして積極的に御する努力をするべきよ」
「……はい」
反論の余地が無かった。
芳香さんの言葉に色々とこれからのことを考えさせられてしまった。
別の意味で頭が痛い存在である爺が、鈴中の代役として我が校の男子剣道部の指導に出向いているのが救いだった。お陰で普通に練習を終わらせる事が出来た。
『ところで高城、香籐以外の2年生達はどうする?』
『流石に紫村の家が大きくても、客が11人もいると狭いというか変だよな?』
田村の問いに俺は少し迷った。何せ俺達にはまだ護衛兼見張りがついている身だから、余り不審に思われるような行動は控えるべきだろう。
不審に思われる行動を取った場合のデメリットとかを予想するだけの情報は持ち合わせていないけど、余計なリスクは犯したくない。
『……先ずは大島と早乙女さんの復活を急いだ方が良い』
つまりハイクラーケンの経験値で自分のレベルを上げたいという正直者な櫛木田。
大島が復活すれば、差し迫って1年生まで慌てて強くする必要も無くなるのも事実だ。そうなれば香籐以外の2年生達をパーティーに入れてレベルアップさせるのも夏休みまで待つのありだと思う。
はっきり言って、それくらいまで俺達の2年生部員達への信頼感は低下している。
人間の身体は3日厳しく練習してもそれほど目立った効果が現れないように、3日練習をサボってもそれほど目立った体力の衰えは現れないものだ。つまり連中は大島失踪後からほぼずっとサボっていたのだ。
1年生達にはまだ同情の余地がある。突如として理不尽な状況におかれてそれが日常となる前に開放されたのだから自由を謳歌したとしても当然ともいえる。
それに対して2年生達への俺達の目は冷めている。特にこの件に関しては香籐から何時もの様な気遣いに基づく弁護の声が出てこない。彼にしてみれば仲間に裏切られたという気持があるのだろう。
『それなら今日は俺達だけ、紫村の家に集まるという事で問題ないか……紫村?』
『問題は無いよ』
ホモの家にノンケの男達が集まるという、ある意味凄く世間体的に問題はあるが、それは仕方ないと割り切るしかなかった。
『今回は俺の父と兄が参加するから、俺は一旦家に戻って2人を回収してから戻ってくる事になるから』
ちなみに俺が家族をパーティーに入れた事は皆にも話してある。
香籐は「マルちゃんと話が出来るようになったんですね!」と眩しい位に目を輝かせている。
『ここのところマルはユキにベッタリで多分お前の相手をする気は無いぞ』
『ユキって何ですか?』
『ああ、話してなかったか。向こうの世界で拾った雪猫という猫に似た種類の赤ちゃんで、白くてフワッフワで可愛いが主成分という素敵な存在だ』
ついでに画像イメージも送りつけてやる……可愛い家の子を自慢したいんです。
『何故……?』
『いや、何故って言われてもむしろ何?』
『どうして主将のところばかりに可愛い子が集まって、僕の家にはいないんですか?』
『知らんがな! お前の母さんが嫌いなのは犬なんだろ。猫なら問題ないんじゃないか?』
『父さんが圧倒的な犬派です。多分、犬が飼えないのにどうして猫を飼うと怒りますね』
『本当に知らんがな!』
『……では主将。お父さんとお兄さんを連れてくる時に、一緒にマルちゃんとユキちゃんを連れてきて下さい。良いですね?』
『良いですねってお前……』
俺は続く言葉を飲み込んだ。話して通じるような目をしていなかった。
『だけど、マルは自分にユキを懐かせるために必死で、知らない人どころか父さんや兄貴がユキに構うのも嫌がるくらいだぞ』
実力行使には出ないが、悲しそう表情でずっと見られるので精神的にきついらしい。ちなみに俺に対しては自分よりも俺にユキが懐いているので嫉妬を込めているのだろう、とても犬とは思えないような微妙な目付きでこっちを睨んでくる。
『……話し合えるようになったのですから、きっと分かり合えます』
復活した大島を前にその寝後を口に出来るのか……試すまでも無いな。
紫村家のお手伝いさんの小母さんに、今回は袖の下代わりにオーク肉を渡すと「今度は豚肉なの? 前回の鶏肉も凄く美味しいから楽しみね」と言いながら受け取り「汚れた食器とかは明日の午前中に来て片付けるのでそのママにしておいてください」と実に良い笑顔で帰って行ったそうだ。
その気持はとても良く分かる人間美味いものには勝てないのだ。来週ミノタウロス肉をプレゼントしたら大抵の無理は利くようになりそうだ。
今晩のメニューも庭でバーべキュースタイルと思ったのだが、生憎夕方から天気が崩れたのでキッチンで料理する事になった。
「じゃあ俺はから揚げを作るわ」
「俺はオーク肉で生姜焼きにしよう」
「圧力鍋があるなら角煮も良いな」
「ローストビーフは時間が掛かるから、シンプルにミノタウロスはステーキにするよ」
……何故だ? こいつら普通に料理のレパートリーを増やしている?
「田村。何時からから揚げなんて作れるようになったんだ?」
「そりゃあ、余り大っぴらに出来ない美味い肉が手に入るなら自分で料理出来るようになった方が得だろ。夢世界の方でも此方から調味料とかを持ち込んで料理出来る方が良いしな」
「それなら俺も──」
「だがお前は駄目だ!」
田村だけでなく全員で一斉に否定しやがった。
「主将はおいしい料理を食べる役で良いじゃないですか?」
何の慰めにもならない。
畜生! どうしてシステムメニューはスキル制じゃないんだ? レベルアップでスキルポイント貰って、料理スキルにポイントを振ってチート料理人になりたい。
ちなみに【良くある質問】先生に尋ねたら、スキルは練習や実際に行う事で磨かれるもので、魔物を倒して戦闘とは全く関係ないスキルが磨かれる訳ないじゃないですかプップクプーと返ってきた……ふざけやがって!
「嗚呼美味しい美味しい。自分で仕留めた獲物の肉は美味しいな。これで自分で料理したならもっと美味しいだろうな」
今日も下ごしらえ以外は火を使ったり味をつけたりなどの料理の核心部分の作業には全く関わらせて貰えなかった事に関して嫌味を漏らす。
「お前に限ってそれは無い」
一言でばっさりと心を真っ二つに切り裂かれてしまった。
「……俺の何がいけないんだろう?」
弱気になった俺がそう愚痴る。
「はっきりって高城の料理下手は全く意味が分からない」
「どういう理由か分からないけど、ちゃんと料理しているように見えて最終的に食べてはいけないモノが出来上がってしまうからな」
「アレはオカルトの類だろ」
「だったら御祓いして貰うのも良いかもしれないね」
「そこまで? 神の力が必要なレベル?」
「主将の料理は神か悪魔かというなら間違いなく後者ですし」
何処にも俺の味方は居ない。香籐だって実際に俺の料理を食べるまでは擁護してくれたのに、一口食べた瞬間に否定派へと鞍替えした。何と人の心の移ろい易さよ……だが認めない。絶対に認めないよ。俺が俺だけが信じてあげないと、誰が俺の料理の腕を信じるというんだ? 俺が信じなかったら俺の料理はゲロマズでファイナルアンサーだよ!」
「お前の料理はそもそも料理ですらないでファイナルアンサーだよ」
「何で俺の心が……エスパー?」
俺の心を読むとは、現状では俺の手に余る精神系の魔法の糸口を見つけたとでも言うのか?
「お前は、考えが口から駄々漏れだ!」
なんだ何時もの事か。
「納得してないでその癖はなおせよ!」
「なおらないから癖なんだ!」
開き直る。相手を怒らせる時にも使うが3回に2回は素だから……
『タカシお帰り!』
「なぁ~!」
玄関まで出迎えて待ってるマルの後ろからユキが一生懸命走ってくるのが見える。未だしっかり走ることは出来ないのでヒョコヒョコと足取りは覚束ないが、その必死さがラブリーである。
だが次の瞬間よろけてマルの前足に身体をぶつけると転倒し、コロコロと言う表現がまさにぴったりな転がり方で三和土(たたき)へと落ちる所を左手で救い上げた。
俺の手の中で何が起きたのか分からないといった様子で怯えた様子で身を低くして全身で緊張し腹這いになる形で周囲を見渡すが、俺と目が合うと安心したかのように身体中の力を抜いて「なぅ~」と小さく鳴いた。
……マル。そんな恨めしそうな目で俺を見るのは止めてくれ。
『タカシずるい』
『タカシずるくない』
『ずるい!』
『だったら、ユキが落ちるのを放っておけば良かったんだ。マルひどい』
『マルひどくないもん!』
『隆! まだ1歳にもなってないマルちゃん相手にむきになって恥ずかしいと思いなさい』
台所で晩飯の後片付けをしているだろう母さんの雷が落ちた。
同時に何故か昔に「小学生にもなってお兄ちゃんを苛めて恥ずかしいと思いなさい!』と涼が兄貴に暴力を振るって叱られた事を思い出してしまった。アレは実に悲しい出来事である。兄貴のプライド大崩落だった。
『今日はマルも一緒に向こうの世界に行かないか? 最近ユキと一緒で散歩もしてないだろから、向こうで思いっきり身体を動かした方が良いんじゃないか?』
『ユキちゃんも一緒?』
『ユキを連れて行って、何かあったら大変だから置いて行こうと思うんだけど』
『……どうしよう?』
思いっきり身体を動かした欲求もあるのだが、ユキと離れたくないという気持も強いといったところだろう。
『マルちゃんも行くならお母さんも行こうかな? 向こうでもっと色んな面白い食材を探してみたいし』
ここ数日は、食卓に異世界の野菜や果物を使った料理が載るようになって、これがまた美味い。
食材としては全般的に味が濃厚で旨みや甘みが強く、普通の野菜などと同じように料理に使うと自己主張が強すぎてまとまりが無い味になってしまうだろうが、母さんはそれを上手く使いこなしてくれている。
なので母さんが新しい食材探しの目的で夢世界に行くことに反対する理由は無い。レベルアップによって人間離れした能力を得た母さんをどうこう出来る様な人間はほぼいない筈なので、街さえ出なければ脅威となる存在とは遭遇する可能性は低いし、しっかり運動をさせた後でマルを母さんに預けておけば万一の事が起こっても十分に対応出来る筈だ。
それでも何とかならない場合は、マルとユキを抱きかかえて、浮遊/飛行魔法で全速力で逃げれば風龍だろうが追いつく事は出来ない。
そして最悪の事態が起こったとしてもロードすればやり直しが利く。何か心配するのが無駄なような気がしてきた。
『お母さんも行くならマルも行くよ!』
椅子に座る母さんの膝の上に頭を乗せて、上目遣いに「撫でて、撫でて」と訴えかける。
『それじゃあ、今日は家族皆であちらの世界にお出かけね』
『お出かけ!』
「なぁう」
母さん……お忘れでしょうが家にはもう1人家族がいるんですよ。離れていても家族が。
「……そ、そういえば明日、涼とリーアちゃんが泊りがけでこっちに来るんだけど」
咄嗟に父さんが、家族からの戦力外通告を受けた涼の事を話題に出す。
「それを早く言え!」
俺と兄貴の口から出たのは批難の言葉だった。
「やばい……俺は明日はネットカフェにでも泊まるわ」
速攻で逃げをうつ事に決めたようだ。
「何も逃げなくても、レベルアップのお陰で多少殴られても痛くないんじゃない?」
「痛い、痛くないの問題じゃなく、俺は暴力を振るわれる事が自体が嫌なんだ。人間が人間を殴る。そこにある相手を傷つけようとする感情が嫌だ。それに殴られて気持良い変態じゃないんだよ」
「…………」
「何不思議そうな顔をしてるんだよ! 俺っておかしな事言ったか?」
「そうか、普通の人ってそうだよな。俺って空手部だから普通に殴られ慣れしてて……」
特に大島から。
「な、殴られ慣れ……その件に関しては俺の方こそすまない」
「それは良いんだけど、今回の件は兄貴が涼と向かい合ういい機会じゃないのか?」
「機会?」
「涼を怖れて避けるのではなく向かい合って話し合う事が出来る状況が整っていると思うんだけど」
「そうだな……そうかもしれない…………それで隆。お前はどうするんだ?」
「それは当然、兄貴が涼と和解する。そこで良い感じにほぐれた空気に俺が乗っかって、ついでに俺も涼と和解する」
「死ね!」
その後、母さんの介入により結局は、俺も兄貴も明日は家にいる事になった……困った、予定が狂うじゃないか。
「明日は向こうにいけないとすると、ハイクラーケンを今日倒すことになるんだけど。兄貴、何か良い方法思いついた?」
「最も簡単な方法は、自分の身長より長い電気伝導性の高い金属の棒を自分から1m以上離して浮かせておく事だ。お前の頭のてっぺんよりも数cm、余裕を持って10cm程度高い位置に棒の先端が出るようにして垂直状態を維持出来たら、雷自体がお前の身体を撃つ事は無い……ああ、間違っても頭より上に手を伸ばすなよ。頭も足もどちらも棒の両端の間に入るように動け。それから衝撃波には頑張って耐えろ。軽く吹き飛ばされるかもしれないが直撃以外なら大丈夫だろ」
「ちょっと待て、衝撃波はともかく避雷針の保護範囲は頂角45-60度の円錐状の範囲じゃなかったのか?」
「それはお前が、地面の上にたっている場合だ。上空の積乱雲下部に集まったマイナス電荷に対して、積乱雲直下の地面にはプラス電荷が集まる。その地面の上に立つお前の身体はプラス電荷を帯びて雷を呼び込みやすい状態になっている」
「だとすると自分の身体にマイナス電荷を帯びさせれば雷を受けづらい状況が作れるのか?」
「そうだな、生物由来の有機物には静電気でプラス電荷を帯びやすいから、全身の毛を剃って全裸になって、塩化ビニルなどの静電気でマイナス電荷を帯びやすい素材をヒラヒラの絡みやすい状態にして身につけておけば良い」
「それは嫌だな」
想像するだけで辛い。
「まあ、どうせ気休め程度だけどな」
気休めで全身の毛を剃れと言ったのかよ。
「そうしておけば雲よりも下の位置で動くのに雷を気にする必要は無いって事か……」
根本的解決策ではないが、当るとは限らないが意識して避けるのは不可能な雷撃に対する防御手段が出来たのはありがたい。
「流石に昨日の今日であれを何とかする方法を考えるのは……核兵器とか?」
「おい止めろ。絶対に止めろよ。振りじゃないからな!」
「核といっても純粋水爆の方──」
「頼むから止めろ。むしろ頼んでる内に止めろ!」
「首! 首! 絞まってるから!」
兄貴の首を軽く絞めながら、無言で睨みつける。
こいつは本気でやりかねない。三重水素の入手は困難だが重水素なら魔法という手段がある兄貴にとっては入手は難しくは無い。重水素だけでの水爆の作成は不可能ではないようなので、実験感覚で作ってしまわないとも限らない。
それだけならまだ良いが実験の失敗に巻き込まれるなんて絶対に嫌だ。
「分かった。分かった作らないから……」
俺は頷くと手を離す。
「冗談なのに──」
「今後は冗談でも言うなよ。洒落にならないから」
将来は科学者か技術者かは知らんがどちらにしてもマッドが頭につくような男の冗談など冗談で済むかどうか分からない。
皆が寝静まった後、一度家を出てホームセンターで避雷針代わりの鉄筋を購入する。そして再び家に戻り11時過ぎまで待ってから収納を済ませると家を出て、紫村邸で紫村達5人も収納してから寝た。
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朝起きて、機能一緒にこの部屋に泊まった父さんと兄貴を【所持アイテム】内からそれぞれのベッドの上に取り出した。
母さんは父さんと同じベッドに、櫛木田達は床の上に、そして紫村は少し考えてから兄貴と同じベッドに、
フローリングと呼べば聞こえだけは良いだろう床の上の4人はすぐに目を覚ました。
「実の兄にそこまでするか?」
兄貴のベッドの上を見た伴尾が俺を詰る……でもその表情には嫌ではない何かの感情が見え隠れ、いや見え見えだ。
「きゃゃぁぁぁぁぁっ!」
数分後兄貴の絹を裂くような悲鳴が響いた。
「そこでニヤリと笑うお前が怖い。本気で怖い。キン玉キュッとなるくらい怖い」
「それより、紫村……ケツを揉んでるぞ。良いのかおい!」
「寝ぼけながらも人肌を感じて速攻でケツを揉みに行くとは、紫村はやはり恐ろしい男だ」
「……起きてるんじゃないですか?」
香籐君が正解だろう。あの悲鳴で目を覚まさないとは思えない。そうあの悲鳴でおきない人間は居ない……だとするなら──
「俺の息子に何をする!」
一呼吸で弓固めへと持っていった。50ほどのレベル差的に父さんが力技で紫村に弓固めを極めるのは不可能。しかし紫村相手に技量でプロレス技を極めるのも常人には不可能なはず。
つまり父さんのプロレス技は紫村にさえ通じるレベルという事だ……本当に意味が分からないよ。
プロレスの技は魅せる技であって相手を破壊する技ではない。故に実用的とはいえない技が多く、弓固めを使うくらいならもっと素早く簡単に相手の動きを封じる技は、関節技が本分ではない俺でも幾つか使えるのがある。
それに自分達で使うのではなく、相手が仕掛けてくる関節技に対する備えはしっかりと身につけている我々空手部部員の中でも、一番の床上手……もとい寝業師……これも間違いではないが違う。そう業師である紫村を相手に流れるような動きで絡め取る様に極める。
それは単なるプロレス好きのオッサンに出来る難易度ではない……我が親ながら何者なんだろう?
「う、動けない。まさかこうも簡単に動きを封じられるなんて……クッ!」
極まった状態から脱出しようと試みるが、既に反り返ってしまった背骨は元の位置に戻すだけの力を振り絞れる体勢には無い。
父さんが単純な力の差を越えて技を極める事が出来たのは先ずは意識の分散の賜物だった。最初は首を捻りにいくと見せかけて、それに抗うために紫村が首に意識や力を集中させた状態を維持させながら、紫村が抵抗する動作の中で上体を大きく反らした瞬間に弓固めを完成させた。
しかも紫村が上体を大きく反らしたのは偶然ではない。明らかに父さんは自らのアクションで紫村のリアクションを操作していた。これが一番の理由だろう……本当に何者だ?
ここまで来ると、気軽に尋ねる事が出来ないほどの恐怖を覚える。触らぬ神に祟りなしという言葉が胸に去来する。
「こうまで良いようにされて……何だか自分が掌の中で転がされるようで、これはこれで……」
頬を僅かに赤らめながら妖しい事を口にし始めた紫村に、父さんは技を解いて距離を取る。
「隆、史緒さん以外にこれほどの恐怖を与えるなどお前の友達は何者だ?」
「…………」
俺にはそれに答える言葉が無かった。
「……誰が恐怖を与えるんですか?」
だって母さんが父さんの後ろに立っているのだから。
「お前の家族は何者だ?」
「父さんは極ありふれた公務員で、大学時代はプロレス同好会に所属していたらしい。得意技は弓固め。はっきり言って弓固め職人。母さんは登場人物のほとんどが死ぬような殺人事件が起こるミステリーが大好きな普通の専業主婦」
俺は質問に正直に答えたのに、櫛木田は「全然ありふれてねえし、普通じゃねえ! 大体何で弓固め推しなんだよ無理あるわ!」と否定した。
「そこは否定するな。俺の中の普通の家庭に育った小市民という設定が崩れてしまうだろ」
「知らんわ!」
「だけど本当にどういう人なんですか? レベルがかなり上の紫村先輩にプロレス技をかけるなんて普通は絶対に無理ですよ」
「俺にも分からないんだ。俺だって最近までは自分の親の事をプロレス好きのオッサンだとしか認識してなかったよ」
「最近って何かあったんですか?」
「パワーレベリングをした後で、オーガと戦って貰ったんだが普通に倒すし、屠るにも何の迷いも無かったんで、もしかして堅気の人間じゃなかったのだろうかと不安に駆られた」
「それって絶対に普通じゃないですよ。あんなのでも人型ですよ。それを迷いも無く屠れるなんてまともな神経じゃないですよ」
それは自分を含めて俺達がまともじゃないと言っている事に気付いてるのだろうか?
「それよりお前の母さん若すぎないか?」
目ざとく伴尾が気付いた。
「そうだ! 若すぎるアラフォーとか言うよりも、円熟した20代って感じだろ」
友達の母親に関して生臭いことを言うなよ。
「いや待て、前に見た時よりも若返ってる……化粧でどうにかなるレベルじゃなく整形?」
そう思うだろうな。おれも未だに違和感を覚える。昼間はあえてファンデーションなどを厚めに塗って化粧で皺などを誤魔化しているように見せかけているが、今は寝起きですっぴん状態だから誤魔化しようが無い。
「レベルアップの効果で若返った」
「若返った?」
「そうだ。父さんも後退した生え際に抜け始めて分かる長い友達が帰ってきたと大喜びだ」
「マジか!」
そう叫ぶ田村の顔には喜色が浮かんでいる。
「だが言っておくが良い事ばかりじゃないぞ。若返るだけなら良いけど寿命も伸びてるぞ」
「伸びて悪いのか?」
何言ってるの? という目で見るな。想像力のない奴め。
「100歳くらいで普通に死ねるなら良いけど、もし200歳くらいまで寿命が延びていたらどうする?」
「………………ちょっと……いや、かなり拙いな。幸せな老後が全く想像出来ない!」
事の深刻さに気付いてくれてありがとう。
「何故黙っていた!」
伴尾が噛み付いてくる。
「話してどうにかなる問題じゃないだろ。それともお前が将来、人類の寿命を200歳くらいまで延ばす薬でも開発してくれるのか? マジお願いします!」
「……それにしても話せよ」
スルーしやがった。
「別にお前等なんてどうだって良いだろ。年取って現実世界で暮らしにくくなったらこっちで暮らせば良いんだし。だけど俺はこっちに逃げるという方法が取れないんだよ!」
「……なるほど。歳をとってこちらで過ごすのも悪くは無いかもな」
自分の問題さえ解決すれば、後は知った事じゃないという伴尾の態度に、こいつが此方の世界に移り住みたいと言い出したら暫く放置しようと決めた。
放置と言えば──
「……ホモに兄を襲わせておいて……謝罪の一言も無いのか?」
ベッドの上で枕を涙で濡らしながら兄貴が訴えてくるが無視した。
「無視するなぁ……」
無視した。
俺と父さんと兄貴は部屋を出て階段を使って降りて正面から宿を出る。そして母さんと空手部の連中は路地でそれぞれ合流していく。
こういう場合は仲間の位置が確認出来るマップ機能の便利さがありがたい。
市場に集まるとそれぞれが買い物を始める。勿論金は俺が出す、既に数える必要性を感じないほど金持ちになってしまったのでお金がただの記号のようにしか感じられない。
これが現実世界でも使えるなら良いのだが現代社会のしがらみは全く面倒であり、此方の世界で使うにして継続的に必要なのは宿代と飯代だけで後は、パーティーメンバーの衣服装備品で、それも驚くほど高いというわけでもない。伝説の武器装備やとんでもない力を秘めた魔法の物品ならば、今の俺の財布を軽くするほどの価値があるのだろうが、少し考えれば分かる事だが、その辺の武器屋に伝説の武器とまではいかないものの家が建つような値段の商品が転がっているなんて事はありえない。
一流レストランで数千万円もするワインがメニューに載ってるのは、単に看板効果を期待するだけではなく、ワイン自体が投資の対象であり購入して保存しておく事で価格の高騰を期待出来るという意味合いも大きい。
ミーアの『道具屋 グラストの店』にでさえ、龍の角に価する商品はそうそう無いそうだ……つまりあるって事だが、「それほどの商品を扱っているって事はとても凄い事なんです。常識として受け入れて下さい」とたしなめられる位に、そのクラスの高価な品を扱うというのは大変な事で、本来は王都の大店(おおだな)を営むような大商人にのみ(経済的に)許されるステータスであるとの事だ。
「どれも美味しくて何を買ったら良いのか困るわね」
俺が貸した1t収納可能の大型の『魔法の収納袋』へと入れている振りをして【所持アイテム】内に収納しているので容量的に困る事も、勿論懐事情で困ることも無い。
母さんが困っているのは、露店に並ぶ食材の全てが地球には存在しないものばかりで、前種類コンプリートするには沢山ありすぎて、ぱっと目に付くも物だけを購入しても、それらの特性を生かした調理を行い食べる段階に到るまで数ヶ月単位の期間がかかるという時間の問題で困っているのだ。
ここで飛びぬけた美味しい食材を外してしまえば、最低でも数ヶ月間はそれを食べる事が出来ないという悩み……正直どうでも良いがな。
市場での買い物を済ませると一度街を出て、人気の無い場所で【迷彩】で姿を消すと浮遊/飛行魔法で飛ぶと森の奥の開けた場所へと移動する。
周囲の草木を払ってスペースを作るとマルとユキを取り出す。
「おおおぉぉぉぉぉっ!」
生ユキを目にした香籐が雄叫びを上げる……オタケビと言うと、何故かアイドルオタクがコンサートで叫んでるイメージが頭に浮かんでしまう。
「うるせぇっ!」
櫛木田が鉄拳制裁で香籐を黙らせる。
「びっくりしまちたか? 大丈夫でちゅよ」
「気持悪いわ!」
いきなり赤ちゃん言葉でユキに話しかける櫛木田を田村が蹴り飛ばす。
「それにしても本当に雪みたいに真っ白でフワッフワな毛並みだな」
そう呟きながらユキへと伸ばす田村の右手を、マルの手が上から押し下げる。
田村がマルへと目を向けると、マルは正面からその視線を受け止め、そしてゆっくりと首を横に振る。
そのまま田村は左手を伸ばすが、今度は強く手を叩き落される。
「…………」
暫し見詰め合う両者の間に緊張が走るが、田村はふぅと小さく溜息を吐くと同時に肩の力を抜いてからマルに手を伸ばして、頭や首、背中と撫で始めるとマルもそれを受け入れて嬉しそうに尻尾を振る。
「よ~し、よし、よし」
「クゥ~ン」
一分ほどじっくりとマルを撫で回すとマルもリラックスした様子でお腹を上に向けた。
「よしそれじゃあ──」
再びユキを撫でようとした田村の右手にマルがバクッと噛み付いた。
「痛なんでぇぇぇぇぇっ!」
マルは加減をしていたとはいえ、田村の手には牙の痕が残っている。
「どうしてあのタイミングで俺は噛まれたんだ? 撫でられて喜んでたし、俺が子猫に危害を加えないって事くらい通じてるよな?」
田村としては痛みよりも人懐っこい犬にいきなり噛まれたというのがショックだったらしく涙目だ。
その疑問も、もっともとはいえるが、他に理由がある。
「マルはユキを自分に懐かせたくて必死なんだよ。だから俺達家族といえどもユキに構うと不満そうにしているくらいだから、家族でもないお前如きがユキを撫でようとするのは100年早いというのがマルの考えだ」
「それじゃあ触れないのか?」
「マルの目が黒いうちはな」
「黒くないだろ!」
「……青いうちは」
結局、香籐や田村、櫛木田は【伝心】でマルと話し合った結果、なんとかユキを撫でる事が許された。
「先輩! 僕がマルちゃんを撫でて気を惹いているので、その内にどうぞ!」
「すまない香籐!」
「後は任せた!」
……全然話し合いの結果じゃない気がするが、マルを含めて全員楽しそうなので放っておく。
マルの散歩代わりの運動。そして市場で購入したもの(毎日食う分以上の量を購入しているために、在庫が増大している)で朝飯を取るとハイクラーケンの棲む北の海へと向かった。
クラーケンから5㎞ほど離れた場所に一度降りた。母さんとマル。そしてユキはここで留守番となる。
『マルはここで母さんとユキを守るんだよ』
『うん! お母さんとユキちゃん守る!』
『あらあら、じゃあマルガリータちゃんよろしくね』
『喜んでぇ!』
誰だ余計な事をマルに教えたのは?
男達は岸壁から眺める白波の立つ海の向こうを見つめている。
「ついにクラーケンとの戦いか──」
「違う」
感慨深げに何か言い出す様子の櫛木田の言葉を俺は遮った。
「違うって何がだ?」
「クラーケンじゃない。ハイクラーケンだ」
「ハイクラーケン?」
喧騒に、そして若干嫌な予感を感じているのだろう不安そうに尋ねてくる。
「クラーケンの中でも全長212mオーバーの化け物を、ハイクラーケンと呼称するそうだ」
「にひゃくじゅうにメートル?」
そのスケールの前に、櫛木田の顔のデッサンが崩壊した。
「しかも標的は400mクラスの大型のハイクラーケンだ」
「よんひゃくメートル!」
膝がカクカクと震えている。
「ビビるな櫛木田。でかいといってもタコだぞ。軟体生物如きに人間様が──」
「タコの寿命が50年あったら、人類の変わりに地球の覇者となっていたとも言われてるけれどね」
「……」
「この世界の海において人類とクラーケンのどちらが覇者かは明らかじゃないですか?」
「いや、現実世界だってクラーケンやハイクラーケンが海に居たら、大航海時代も太平洋戦争も起きてないだろ」
伴尾は心が折れそうな櫛木田を奮起させようとしたのに、紫村と香籐、そして俺から集中砲火を浴びて撃沈した……空手部は心が折れてから勝負だから良いんだよ。
『これは想像以上だな』
上空800m。ハイクラーケンを見下ろす位置に到達した一同だが、平行世界でもっと大きな化け物に遭遇した紫村と香籐、そして広域マップ内に表示されるハイクラーケンのシルエットのサイズに改めて驚きの声を上げる。
『こいつは大物だ。例えるなら高倉健さんクラスだな』
櫛木田がまた妙な事を言い出して、皆が「はぁ?」と声を上げる。
『ハイクラーケン。ハイを高に変えて高クラーケン、高クラケン、高倉健!』
櫛木田はドヤ顔を決めたまま、その場に居た全員。兄貴からも攻撃を受けて気絶して落ちて行き、海面に墜落する前に触腕の一撃を食らって弾け飛んだ。
「余計な手間掛けさせやがって!」
「思いついた冗談は口にする前に口に出すべきかどうか判断しろと言ってるだろ!」
ロードにより母さん達の居るベースキャンプを出る前の状況に戻った我々は一斉に櫛木田に罵声を浴びせた。
良く考えれば殺された挙句に、自分を殺した犯人達から罵声を浴びせられるって凄い状況だな。
再びハイクラーケンを見下ろす上空800m地点に到達する。
『まずはこの高度を維持した状態で一撃を加える。そして奴の気候操作が始まったらすぐに高度1000mで、発生する積乱雲から距離をとれ』
指示を出す俺に紫村が割って入ってきた。
『高城君。実際に闘って見る前に、我々の攻撃でハイクラーケンを倒せるか試してみた方が良くはないかい?』
『どういうことだ?』
『はっきり言って、あのサイズの化け物になるとどれほどの攻撃を行えば倒しきれるのか想像がつかないんだよ。だから最初に君の例の攻撃で、どれくらいで倒せるのか確認したいんだよ……というか、例の攻撃以外で倒せるとは思えなくて』
例の攻撃……【所持アイテム】の拡張機能である【射出】の事か。
『だが、この高度から岩の投下でも重さ1tの物体が、音速の1/3の速度で突っ込むんだぞ』
『戦艦大和の主砲から撃ち出される弾頭は重量1.5tの徹甲弾が音速の2.3倍だけれど、大和の装甲は設計上それに耐え得るんだよ』
『…………マジ?』
つまり、俺が上空から足場岩を落としてハイクラーケンを怒らせたのは、大きなダメージを与えたからでは無く、単に沸点が低かっただけの可能性があると言う事か?
『マジ』
サイズだけに限って言えば大和の数倍の排水量を持つだろうハイクラーケン相手では、俺達の肉体が持つ物理的破壊力と知恵と勇気と友情だけで挑むのは確かに無謀に思えてきた。
『今のところ使える魔術や魔法でハイクラーケンの生命活動を止める方法は僕には思い浮かばない。あの水晶体の巨大な集合体を貫通させた例の方法でも使わなければ無理だよ』
やっぱり核兵器? いや、それならば【射出】を使うのとなんら変わりは無い。
今後の展開も含めて、システムメニューによるレベルアップではない俺達自身の能力の向上を計るためにも、楽をせずにクラーケンを倒すという目標を立てていたのだが、ハイクラーケンだった段階で計画を見直すべきだったのだろうか?
だけど、俺はもっとレベルが低い段階から【射出】も無しに格上の龍達と戦って勝利してきたのだから、空手部の連中が共同するなら何とかなると思ってきたのだが、正直自信がなくなってきた。
『それなら俺が手本を示す。俺が【射出】と核兵器を使わずにハイクラーケンを倒せたら、今日一日は皆で力を合わせてハイクラーケンに挑んで貰うというのはどうだ?』
『それはリスクはどれくらいあるのかな? というか核兵器ってどういう事かな?』
『多分、俺の推測が正しかったとしても一度で成功するのは難しい。何度かロードをしなおすことになるだろう。それから核兵器を作ろうと考えた馬鹿がいたんだよ』
そう言って兄貴の方を見た。
『……そういうギリギリの戦いは、僕達を連れて来てない状況で挑戦して欲しいんだけど』
紫村、華麗にスルー。
『一蓮托生?』
『途中で岸辺によって下してくれ!』
櫛木田が突っ込む。
『友達じゃないか?』
『こんな時だけ友達扱いはやめてくれ!』
なんて友達甲斐の無い……いかん舌がもう一枚生えてきそうだ。
結局父さんをはじめとする全員に止められて俺と折角買っておいた鉄筋の出番は無くなった。
メンバーは俺を除く空手部の5人と、父さんと兄貴を加えた7名で、俺の考えた単独でやる作戦を元に7人での作戦に変更したものを実行する。
上空からハイクラーケンを牽制するのはαチームで櫛木田と伴尾と香籐。
上空1300mに待機して積乱雲とハイクラーケンを監視するのはβチームでボッチの兄貴。
そして作戦の要であるアタッカーがγチームの紫村と田村と父さん。
この編成でハイクラーケンに挑む。α・βチームはγチームの突入を成功させるためのサポート役である。
作戦の根幹とは、【巨坑】や【大坑】は土以外にも岩にも通用する。そして地面では無く壁にも通用する。使う人間が足元にあるものが地面目の前にあるのを壁と認識していれば横穴も作ることが出来る。つまりハイクラーケンの身体を地面もしくは壁と認識する事が出来るなら、穴を掘る事が出来るのではないだろうかという発想である。
出来るかどうかははっきりいって分からない。それにハイクラーケンの身体に穴を掘る事が出来ない場合に、地面や壁だと思うイメージが弱かったのか、それともそもそも生き物の身体に【坑】シリーズの魔術が通用しないのかの判断がつかないという問題もある。
俺ならイメージ力の不足による失敗はありえないので、失敗は自動的に後者だと判断する事が出来る。
何故、イメージ力の不足による失敗はありえないのかと言えば……俺は妄想力によって物理的刺激無しにイケる絶技を持つ男だと言っておこう。
作戦中は全員【伝心】によるイメージ伝達で各自の視覚情報をリアルタイムで共有している。
αチームは上空10000mを維持してハイクラーケンの真上に到達する。3人は、背中を天に向けて腰を曲げ股関節と膝を曲げて足を折りたたむと、まずは背中に足場岩を出現させて、次いで足元にもう1つの足場岩を取り出して、両脚で押し出すように足場岩を真下へと向けて落す。同時に3人は背中の足場岩を収納すると、落下する足場岩を追って降下する。そして追いつくと浮遊/飛行魔法を出力全開にして足場岩と共に重力加速度を越えて加速しながら降下し、限界まで降下速度を上げつつ、軌道をハイクラーケン直撃コースに乗せると高度1000mで足場岩から離れて両手を広げて空気抵抗を増やしつつ浮遊/飛行魔法を全開にして減速を開始する。
3つの足場岩はほぼ同時に目測で260m/sの速度でハイクラーケンの胴体へと直撃する。
およそ8秒後にドーンと言うには少し高い音が、身体を震わせるような空気の波と共に飛び込んできた瞬間、これで死なない生き物が居るはずが無いと確信するも。その3秒後には高度600mに留まっている櫛木田、伴尾、香籐の3人へと触腕で攻撃を仕掛けて俺を唖然とさせた。
しかも触腕の数はタコと同じ2本と思っていたが、3人への攻撃に使われる触腕の数は4本だった。
しかし3人は兄貴から送られる上空1300mからの俯瞰視界と、俺から送られる真横からの視界、そして自分以外の2人の視界を利用して見えない位置からの攻撃を巧みに回避しながら、高度600mを維持してハイクラーケンの意識を自分達に向けさせ続ける。
『強い上昇気流確認。積乱雲を作り始めるぞ!』
櫛木田の叫びにも似た【伝心】を合図として、γチームの志村と田村と父さんの3人が【迷彩】で姿を消した状態で斜め上方からハイクラーケンへの接近を開始する。
同時にβチームの兄貴が、上空1300mから足場岩の連続投下を開始する。
αチームの3人は、上空から落ちてくる足場岩を見上げて視認することも無く回避しつつ、触腕の攻撃も回避していく。
合計100個。100t岩の直撃に攻撃を続行する余裕も無いハイクラーケンに接近する事に成功したγチームは胴体に取り付いて──
『無理!』
一斉にそう叫ぶと全速力で上空へと逃げた。
『ロード処理が終了しました』
「次は俺がγチームに参加する」
俺はそう断言した。これは「僕が一番上手く妄想出来るんだ。一番、一番上手く妄想出来るんだ」という自負の現れである……何を自負しているのか自分でも分からない。
「今回のように事が進むようなら、確かにγチームの負担は少ないから俺は構わないと思う」
田村が俺の言葉に賛成した。
「【巨坑】と【大坑】が失敗したらすぐにロードするなら俺も賛成だ」
「良いんじゃないか」
櫛木田と伴尾も賛成に回ると、渋い顔をしていた父さんも賛成に回った。
『ロード処理が終了しました』
「よし。次だ次」
「おい、こいつ……今までの事を無かった事にするつもりだぞ!」
「恐ろしいまでの図太さ」
仕方が無いだろう。俺の妄想力を持ってしても、ハイクラーケンに【巨坑】も【大坑】も通用しなかったんだから!
「隆には昔からそういうところがあるよな。良く言えば切り替えが早いっていうか……良く言えば、それ以外に兄として口に出来ない」
「小言は後にしてくれ。それで最初の足場岩の攻撃は、ハイクラーケンにどの程度のダメージを与えたと思う?」
強引に俺への批判が高まりそうな空気を変える。
「ほとんど無かったと思うぞ。胴体を包む外套膜が厄介だ。衝撃を受けた瞬間に表面に大きな波を作って、衝撃を全身に流すだけじゃなく外套膜や足などから海水へと衝撃を逃がしていた。これが証拠だ」
兄貴から【伝心】で1枚の画像が送られて来た。そこには細かい波紋がハイクラーケンの全身から海面に広がっているのが見える。
「これならほとんどの衝撃は内部に伝わることなく海水に流されてしまったと考えるべきだろう」
さすが戦闘以外は役に立つ男である兄貴は、ちゃんと仕事をしてくれいたようだ。
「この外套膜は筋肉で出来ていて最大で厚みが10mを越えいるんじゃないか? 打撃力でどうにかなるとは思えない……やっぱりたんぱく質には熱かな」
その熱量は何処から得るんだよ? どうせまた核兵器とか言い出すんだろ? 戦闘以外でもこういう場合は全く信用出来ない兄貴である。
「第二案がある。それには準備が必要だ」
これが最後だ。これが駄目ならもう【射出】による攻撃でタコにある9箇所の脳を破壊してやるしかない。
「どうするんだ隆?」
「巨大な銛を作る。出来るだけ大きな針葉樹を切り倒して、枝を根元の30cm程度を残して切り払う。そして根元側を削って先端を尖らせれば良い」
「巨大な銛ね……外套膜だけでも10mを越えるような化け物相手にな」
そう呟いて父さんは周囲を見渡す。20mを越える巨木はあるが流石に30mクラスの巨木は数えるほどしかない。
「それは心配ないよ。俺が一番最初にこの世界に来た時に出現した森の話を憶えてる?」
「……まさかあの高さ100mを越える木々の森?」
「えっ? あれって本気で言ってたのかよ」
「俺はてっきりファンタジーの導入部の張ったりだと思ってたよ」
「はったりにしては話が大きすぎると思ったけどな」
「お前等が俺をどう思っているのか良く分かった!」
俺がこの手段をとりたくなかった。はっきり言ってあの森に対する苦手意識というか恐怖感が先立つからだ。
あの森は異質だ。異なる世界である、この世界を知れば知るほど、あの地がこの世界においてさえも異質だという事が浮き彫りになっていく。
「目的地は、ワールドマップに表示されている南へ400㎞東へ150㎞の地点にある森林地帯。母さんとマルとユキはエスロッレコートインで、俺たちが戻るまで買い物や食事をしていて欲しいんだけど」
「あら、私は邪魔?」
「前にも話したけど、あの森は侵入者を発見次第、魔物達が襲い掛かってくるような場所だから、母さんやマルなら大丈夫かもしれないけどユキに何かあるかもしれないから……」
言葉とは偉大だ。使い方次第で多くの問題を解決へと導く事もより良い方向へと導く事も出来る。ストレートに「そう邪魔」と答えるのとはまるで違うのだ。
「そうね。ユキちゃんに何かあったら心配よね」
母さんはにっこり笑って答えた。
これは母さんが俺の言葉による心理的な誘導に引っかかったのではない。母さんは俺の配慮を理解した上で、快く受け入れられる気持になったというだけの話しだ。
相手の少しの心遣いを感じ取り、胸の中に生まれるほっとするような優しい気持。これが大事、試験に出るから。
飛ばすこと約1時間で目的地の森が見えてくる。
『ま、マジかよ話半分だと思ってた……』
『遠近感が狂う』
『これは確かに、一目で異世界と納得するしかない光景ですね』
『もしくは自分の正気を疑うかどちらかだ』
『だがどうしてこの森だけが、植生がこんなにも他と違っているんだ?』
『そうは言っても、隆君以外はこの世界の事はほとんど知りませんからね……お父さん』
『お父さんと言わないで貰おう!』
『そういうかたい所も隆君に、いえ隆君も似たんですね』
今の「かたい」が何か別の意味に聞こえた。多分俺が感じた通りの卑猥な意味が入っているのだろうが、一々突っ込まない。突っ込まないぞ!
森の手前の草原に降りる。
「ここから先は、マップ上の魔物は全て俺達を見つけ次第襲い掛かって来るから、森の奥には入らないで手前の木から倒していく」
「そう言えば斧とか木を倒す道具なんて持ってたのか?」
「道具はこれがあれば十分だろ」
そう言って槍を取り出す。
「いやいや、おかしいからそれは槍だろ。漫画じゃないんだから木は切れないって」
「伴尾、お前にも見せただろ」
そう言って槍を木の幹に森の手前側の方から押し付けるようにして当てると、素早く収納と装備を素早く繰り返す。
剣を収納している間に腕を少し幹の方へと移動させると、装備した瞬間に皿深い位置で剣が出現して木に食い込む。
直径3m以上はある杉に似た針葉樹の幹の半ばまで水平に切れ目が入るまでに1分も掛からなかった。
「本当にチートだよ……」
兄貴が呆然と切れ目を見つめながら呟いた。そういえば兄貴や父さんに収納と装備を利用する攻撃方法は教えてなかったな。
更に作業を進める。斜め上から同様に切れ目を入れていき、水平方向の切れ目と交わった所で、引っ張ると1/8にカットされたスイカの様な破片が取れて木の幹には三角の切れ目が入った。
「多分、こっち方向に倒れるから避けてくれ」
そう告げると、切れ目の反対方向から最初の水平の切れ目より少し上の高さで追い口と呼ばれる水平に切れ目を入れて行く。
木は太陽の方向ではなく光のある方向へと成長する。つまり陽が余り差し込まない森の中では少しでも開けた方向に向かって幹や枝を伸ばす。
つまり、森の縁に立つ木は森とは反対側に僅かだが重心を傾けている──このサイズまで成長した巨木が大きく重心を傾けると倒れる──ので、追い口が深く入る前に、木は軋みを立て始め倒れ始めた。
「倒れるぞ!」
既に全員倒れる方向には居ないが、そう叫ぶ……一度言ってみたい台詞だったから。
木を倒すのは結構簡単だったが、面倒なのは枝を払う作業だった。
想像以上に枝が太く、そして何より数が多い。1本仕上げるのに8人がかりで実際の作業時間は30分掛かった。
更に面倒だったのは実際の作業時間外。襲ってくる魔物との戦いだった。
2本目以降は、切り倒したのを収納して別の場所で加工する事にして、現在兄貴が1人で作業を進めて、他は襲ってくる魔物に対処している……そうしなければなら無いくらいに魔物達が集まってしまった。
「おい、もうレベルが上がったぞ」
「高城。俺達ってそろそろ龍より弱い奴と戦ってもレベル上がらなくなるとか言ってなかったか?」
「塵も積もれば山となるって言うだろ!」
「それより、どうしてこいつらは逃げずに襲ってくるんです? 僕達の方が強いことくらい分かるはずですよね?」
「おかしいんだよ。この森も、この森に棲む奴らも全部!」
「うぇぇぇぇっぇぇぇっうぅぅぅぅ」
周囲に充満する濃厚な血の匂いに兄貴がやられた。
「もう止めて! 吐いてる子がいるんですよ!」
その後、兄貴が死力を尽くして4本目の木を切り倒すと俺と櫛木田と伴尾と香籐がそれぞれ1本ずつ収納し、父さんが兄貴を担ぐと撤退した。
エスロッレコートインで母さん達と合流してから、再び海岸線を北へと向かいハイクラーケンの狩場近くに辿り着く。
【所持アイテム】から取り出された巨木を目にして、流石の母さんも声を無くす。
マルは『何これ凄いね大きいね!』と大はしゃぎだが、これが地面から生える木だとは分かってないようだ……少しほのぼのとしてしまった。
その後作業を行い完成した銛は、細くなった先端部分をカットして、全て100mの長さで揃えたのに対して、ハイークラーケンの胴体は幅が1番広いところで150m。縦が1番長い所で200m程度と兄貴の観測から導き出された。
俺が大まかに判断したサイズより大きかったようだが、銛で胴体を貫通するのは無理だが重要器官を破壊する程度のことは出来そうだ。
作戦は、銛を上空から落下させて突き刺すのではなく、前回のγチームと同様に突入役が【巨坑】【大坑】の代わりに銛をハイクラーケンの胴体に突き刺す。
1人はタコの脳がある目と目の間を正面から突き刺す。
タコとクラーケン種を一緒だとは思わない。ぱっと見の姿的には数あるタコ種類の範疇からは逸脱していないが、よく見れば6本の脚と4本の触腕で手足は10本あるし、そもそもイカと違ってタコは全ての足が触椀だが、ハイクラーケンの場合はイカと同様に触腕に比べると他の足が極端に短い。
結局は似て異なる生き物だという事で、だから目と目の間の位置に脳があってくれればラッキー程度だ。
何故ならタコにはメインとなる脳以外にも、各腕に副脳というべき発達した運動中枢を持っていて、脳を破壊されただけでは生命活動を止める事は無い。
完全に生命活動をとめない限り、海底深くに逃げられたら経験値も入らず、ハイクラーケンを倒す最大の目的である俺がレベルアップが達成されないので、絶対に止めを刺す必要がある。
今回も上空からハイクラーケンを牽制するのはαチームで櫛木田と伴尾と香籐。
上空1300mに待機して積乱雲とハイクラーケンを監視するのはβチームでボッチの兄貴。
そして作戦の要であるアタッカーがγチームの紫村と田村と父さんという、1番最初と同じ布陣で挑む。
これが3度目なので作戦は順調に進む。
特に兄貴は慣れもあって、取捨選択を行い必要な情報を素早く皆に伝達しサポートしている。
戦いの中で、どんな情報が何時必要かを判断出来るという事は戦いというものが理解出来てきているという事だ……あの兄貴が、しかもこんな短時間に、俺は兄貴を見誤っていたのかもしれない。
更なる的確な足場岩の連続投下。1300mの高さから落とした初弾から正確にハイクラーケンの胴体を捉えているのが地味に凄い。
その隙に紫村と田村と父さんが接近し、丁度良いタイミングで投石が終了する。
全てが流れ落ちる水のように留まることなく進んだために、γチームの奇襲は予定ではそれぞれが2撃、6回の攻撃を加えた後は触腕の攻撃を回避しつつ追い討ちをかける予定だったが、時間的余裕から2撃では無く、滅多刺し状態で脳への攻撃を担った紫村は右の眼球から左の眼球までを数珠繋ぎ状態で穴を開けまくり、そこに脳があったなら確実にテーブルから落としたカップ入りのプリンの中身と化しているだろう。
田村は、胴体の中央部から様々な角度に向けて十数回の攻撃を加えて確実に重要器官を破壊した。
そして父さんはあえて外套膜に沿うように銛を何度も少しずつずらしながら撃ち込んで、80mほどの長さで外套膜を引き裂いてハイクラーケンの臓物を海へとぶちまけさせた。
『後は10本の脚を根元から少し先の位置で切断して完全に無力化する!』
胴体の中身はともかく、多くの足を自在に動かすためにはタコと同様に足の付け根に神経中枢を持っている可能性は高い。
それほど動物の身体とは合理的に出来ている。一見して非合理的な構造に見えたとしても、環境に適合するための特殊な構造になっているだけで、本当に説明がつかないような非合理的な身体構造をもつ生き物は多くは無い。しかもそれさえも現在は研究が進んでいないために不明なのであり、やがて理由が判明するものが多いと思う。
俺も加わり4人で暴れる足を切り落としては収納していく……どんな味か知りたいから。
そして残り2本となったところで兄貴から警告が飛ぶ。
『積乱雲が急速に発達中。退避しろ!』
『了解!』
俺たちは一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
上空1500mの位置まで退避した。
『脳を破壊する事が出来なかったみたいだ……』
珍しく紫村が落ち込んだ様子で話しかけてきた。
『そうだな、足の根元に神経中枢があったとしても、それでは魔法関連の操作は不可能だろうから、脳本体が残っているので間違いないだろう』
『そうだね』
『気にするな俺の予想が甘かっただけだ』
『でもこのままでは止めを刺す事が出来ないよ……』
『それより広域マップを見てみろ。敵対的シンボルが見えるはずだ』
『これは……』
『見たまんまだよ。父さんがぶち破った外套膜から脳が飛び出して海面を彷徨っているって事だ……くっくく』
こみ上げて来る笑いが止まらない。
『凄いじゃないか、脳だけになっても死なないだけでなく、雲を呼びまだ戦おうとしてるんだ』
その姿勢だけは評価せざるを得ない……笑いは止まらないけど。
高度1500mから投下された足場岩がハイクラーケンの脳を破壊すると皆のレベルが上昇した。紫村、香籐でもレベルが2つ上昇し、櫛木田達や父さん達はそれぞれレベル80-82まで上昇し、そして俺はついにレベル177に達した。
『高城君。どうだい蘇生とか死者復活なんて魔術は?』
『……レベルⅦに【反魂】ってのがあって、確かに死んだ者の魂を肉体に呼び戻すという効果があるんだけど……闇属性なんだよ』
『よし諦めよう!』
『止めよう。闇属性による死者復活は不吉だ』
『これからも頑張れば、光属性で死者復活の魔術が憶えられるかもしれないぞ』
櫛木田、田村、伴尾の3人は速攻で反対に回った。
『FAQで調べて見た限りでは問題はなさそうですよ』
『復活させて問題があれば、もう一度生命活動を休止して貰えば良いんじゃないかな?』
師を師とも思わない弟子達の中でも、一際非情な意見が紫村から飛び出す……それ採用! 採用させた大島に問題があるんだよ。
ハイクラーケンの身体の砕け散った脳と、海に沈んでしまった内臓の一部を除く全てを皆で収納する。
予想外だが、試しにやって貰ったらハイクラーケンの胴体を分割することなく兄貴が1人で収納してしまったという事だ……
『はいっちゃったよ100万m3弱位はあったと思うんだけど……あれ? 隆、1mx1mx1mが1m3で、100mx100mx100mが100万m3だったよな? それで100万m3を水で満たすと100万t……俺間違ってないよな?』
『何か間違っているような気がしてきたんだけど……ほら100万tとかおかしくない?』
『何だ、それじゃあ俺が間違ってたんだ……なるほどだったら分かるわ』
『高城君。気持ちは分かるけど現実逃避しないで欲しい……するなら僕も連れて行ってよ』
『俺も俺も!』
全員混乱していた。
母さん達の待つ場所に戻ると、一度ハイクラーケンを取り出す。
場所に対して胴体部分は大きすぎて森の木々を押し倒す事になったが、仕方が無いとしか言いようが無い。
このサイズになるとミーアの店の解体場にですら取り出すことは出来ない。つまり売ることが出来ないとなるとただのデッドストックと化してしまうだけだった。
まずはタコの体の中で1番貴重だと教わっているか嘴を解体して取り出す。タコのトンビカラス(タコのトンビと呼ばれるが、正解はトンビカラス。一対の嘴の片方の形がトンビに似ていて、もう一方の形がカラスに似ていることから付いた名称)の特大版というレベルではなく、嘴自体が龍の角と同様に強い魔力を秘めた魔石として扱われる。
だがタコの嘴の周りの筋肉部分もコリコリとして俺は大好物なので、直径5m程の球体である筋肉の強い筋肉の塊である口ごと嘴を収納する。
次いでタコの足は解体場に収まる50m弱になるように切り分ける。ここで母さんのハイクラーケンを調理したいという要望を受け入れて、足の付け根の部分と先端の部分を両手で抱える程度の大きさを切り取って収納する。
問題は口の部分を取り除いた胴体と少しの頭部だが、タコの頭部はいわゆるタコ軟骨と呼ばれる部分がある。ここも大好物なのだが、はっきり言ってハイクラーケンのそれは軟骨と呼べるほど柔らかくない。かたい小さな骨が寄り集まっている感じになっているので、食べづらそうで食指が進まない。
胴体部分は混乱が収まってから一度取り出して内臓を除く外套膜だけを改めて収納する事で減量に成功していたが、それでも厚さが10mもある外套膜を解体場に収まる大きさに切り分けるのは大変だ。
北海道ではタコの頭と称して水ダコの外套膜が食べられているので、俺もイーシャの実家で何度か食べる機会はあった。
味は他の部位と変わることの無いタコの旨みを持つ身だが、食感が柔らかくはっきり言って俺の好みでは無かった。
逆に強い歯ごたえが好きではない母さんなんかはタコの身で1番好きと絶賛していたので、母さんが食べる分だけ1tでも10tでも切り取って収納し、後は捨ててしまえば良いんじゃないかと言う気分だが、これが結構人気のある食材だと言うのだから分からないモノだ。
クラーケン種が狩られる事などは神話の英雄譚以外には無い話だが、死体自体が打ち上げられることは珍しいが無い事ではなく、更にその何分の一かは食べられほど新鮮な場合があり、そうなると国レベルで1年はクラーケン祭り状態で、クラーケンの肉が食されることになる。
主に食されるのは燻製や干物となるが、干物を灰汁で戻して焼いたクラーケンステーキは、クラーケン祭りを経験した事のある世代にはたまらなく懐かしい味だそうだ……ミーアはエルフだから何度クラーケン祭りを体験したかは知らないし知りたくも無い。
外套膜の始末を終えたところで大島の復活を行う事にした。
「田村。例のクローゼットを取り出してくれ」
「……何故そんなものをいきなり?」
そう尋ねてくる田村の顔には、早くも嫌な予感に油っぽい汗が浮かんでいるようだった。
「お前の想像通りだよ」
「ま、まさかお前は、そんなものを俺に?」
「これは紫村や香籐も知ってる事だからな」
速攻で仲間を売った。
「主将!」
香籐は焦って突っ込んでくるが、紫村はこうなる事を初めからわかっていたかのように涼しい顔だ。
「お前等憶えておけよ!」
田村が涙目でクローゼットを取り出して、扉を開くとその場で膝から崩れ落ちる。
「鈴中までもかよ……」
「隆。鈴中って学校の先生の?」
「そうだよ」
「どうして先生の死体が?」
「こいつは女子生徒をレイプして、それを録画して脅した上に覚醒剤漬けにしてたんだよ。しかも13人もね」
「そんな……それで隆が?」
「……そうだよ。俺が始末したんだ」
「……嘘ね。隆が嘘を吐く時に顔に出る癖くらい母さんお見通しよ」
『嘘を吐く時の癖?」
そんなものがあったのか? 今まで全く気付かなかった。そこに痕跡がある事を確かめるように無意識の内に自分の顔に触れてしまう。
「そう、それが嘘を吐いていた証拠ね」
してやったりといった顔をする母さん。つまりカマをかけられて引っかかったって言う訳だ。
「じゃあ、本当は主将は鈴中を殺していなかったんですね!」
喜ぶ香籐だが、これは喜べる事ではない。
「香籐。俺が殺していなかったのなら、誰が鈴中を殺したのか想像してみろ?」
「覚醒剤の売買のトラブルで──」
俺は首を横に振った。
「主将でも、それじゃあ、まさか……?」
「こいつの餌食になっていた女子生徒の1人が呼び出されたこいつの部屋で、トイレで用を足している所を背後からガツンと殴られてあの世行きだよ……後1日早かったら俺の手で殺してやれたのに」
「その事は警察には?」
「知られてないはずだよ。奴の死体を含めて部屋の一切合切を全部収納し、血痕や指紋などを全て消し去ったよ。死体が無いなら殺人事件も無い。ミステリーのネタにもならないでしょ? 警察も単に失踪。今はそれこそ覚醒剤取引のトラブルの線で捜査してるかもね」
「彼女達のアフターケアはどうしたの?」
「【中解毒】を使って薬物だけは完全に取り除いたけど、精神的依存については不明だけど、でも薬からの離脱を【中解毒】で済ませたから、離脱時に感じるはずの強い苦しみが無かったから、精神的依存も最低限に済んでいるはずだよ……所詮、ネットや本からの知識だけど。それから鈴中を殺してしまった女子生徒には俺が発見した段階では鈴中は生きていて、その後処分したので、この件は絶対に明るみにならないと説明しておいたよ」
「そう。それなら問題はなさそうね……それで彼のことはどうするつもりなの?」
「こいつを蘇らせる気は無いよ。例えこの世界に島流し状態にしたとしても、こいつはこの世界でも周囲に不幸をばら撒く。このまま海にでも投げ込んで魚のエサにするのが1番だよ」
「生きて償うなんてタイプじゃないわよね」
「自分を省みる事の出来る性格なら、教え子をレイプして脅迫して薬漬けなんて事を13人も繰り返すはずが無いよ。それにあいつはサディストだよ彼女達を支配し、傷つける事に喜びすら感じていたよ」
「この件に警察を介入させるメリットは、犠牲者達の身体と心のケアを受けさせる事が出来るということだけね。それに心のケアどころか警察で聴取を受けて更に傷つく可能性もある……隆、彼女達のケアをもう少し高い段階で出来ない?」
「例えば?」
「記憶の操作。もしくは選択的記憶の消去」
「……出来るよ。闇属性Ⅵに【忘却】という魔術があるから、だけどどんなに上手く記憶を消しても、彼女達はその欠落した記憶の穴に悩み苦しむと思うんだけど?」
「それじゃあ、何か別の記憶で上書きするような方法はないの?」
「無茶言わないでよ。もし記憶を上書きするような魔術や魔法があっても、彼女達の視点で破綻なく進行するような記憶をイメージする事が不可能だよ」
「それなら消した記憶を思い出そうとすると可愛い犬や猫の映像が再生されてほっこりするとかは?」
「そんな現象、記憶の欠落があるより怖いわ!」
「冗談はさておき、彼女達の中にある覚醒剤使用の時の快感の記憶だけを消せば精神的依存は消えると思わない?」
「それだよ母さん!」
そうすれば、彼女達は記憶の欠落を自覚する事も無く、覚醒剤=快感の記憶を失うので精神的依存の根幹を消し去る事が出来る。
鈴中の死体を海に投棄して処理した後、残った2つの死体もクローゼットから取り出す。
「どちらから先に復活させる?」
「早乙女さんだろ」
櫛木田は断言する。
「そうだな、早乙女の旦那を先に復活させて事情を話して協力を頼めば良いだろ」
俺達の中で1番早乙女さんと親しい伴尾がそう提案する。
「まあ、話が通じる相手だしな」
「お前等勘違いしてるけど、根本的な部分で早乙女さんは大島の同類だぞ」
「……分かってる。分かってるけど言うな! 俺にとっては唯一の癒し系なんだから」
伴尾、お前ぇ……
「何を悪人面の髭のオッサンに癒しを感じてるんだ?」
「だって、合宿で俺が限界に達して……それでも大島は……そんな時に早乙女の旦那は『大島。お前が焦りすぎているのと違うか? 部員の子等はみんなちゃんとやってるぞ』って言ってくれたんだ。だから俺はそれまで以上に頑張る事が出来たんだ」
お前、それって──
「伴尾君。それは大島先生が鞭役で、早乙女さんが飴役を上手い事演じているようにしか思えないんだけど」
「え゛っ?」
「だって、それで少しでも練習が緩くなったりした訳じゃないよね?」
「……いや、それは、俺が奮起したから……むしろきつくなった様な……」
結局、大島を先に復活させる事にした。早乙女さんを先に復活させて、その後大島復活後に、大島に同調されると敵が2人になるためだ。
先に大島を復活させて敵対した場合は、各個撃破が可能となる。
戦いやすい足場のしっかりした場所に大島の死体を置き、その周りを空手部の6人で取り囲む。
「隆。どうして命懸けで教え子を守った先生や、その友人を復活させるのにこんな物々しい態勢を整えるんだ?」
流石男親。こどもの学校事情には疎い疎い。
「危険人物だから」
「そもそも人物と呼んで良いのか分かりません」
「何かあったら我々の命が危険だからです」
「良く言って、多少は無しの通じる悪魔だから」
「色んなスイッチが他人とは違う所に付いていると言いますか……」
「必要だからとしか言いようがありませんね」
誰一人として大島を擁護するような事は口にしない。兄貴ですら無言で頷いている。
「そ、そうか……そうなのか」
大島を知る者達の総意の前に、父さんもそれ以上言う事は無かったようだ。
正面に俺が立ち、そこから正六角形の形に右から田村、香籐、櫛木田、紫村、伴尾の順番に並ぶ。何かがあれば俺が大島の注意を惹きつけ、残りで一斉に攻撃を仕掛ける。これならば大島であっても確実に仕留める事が出来るはずだ。
『セーブ処理が終了しました』
一度大きく深呼吸してから【反魂】を大島にかける。
『対象の魂の復活のために、対象を一時的にパーティーに編入します』
「あ゛っ!」
『対象の肉体と魂の治療効果を上げるために、対象の持つ経験値をレベルに変換します』
「え゛っ!」
『対象のレベルが30上昇しました』
「い゛っ!」
レベル30の大島だと? 今の俺で勝てるのか?
『処置終了まで残り30秒…29…』
いかん!
「ロード!」
『現在の処理終了までシステムメニューの一部の機能をロックしています』
ふざけるなこん畜生!
「全員退避だ! 復活後に即ロードを行うが、一瞬の間を突かれないように距離を取れ」
『9…8…7…6…』
「構えろ、集中しろ、髪の毛一筋の隙も見せるな!
『1……対象をパーティーから排除します。全ての処理が終了しました』
その瞬間、禍々しいまでの何が周囲に渦巻いた。魔力でもない……これが気とか気合とかいう奴なのか?
「ロード!」
『システムメニューの機能ロック解除まで5秒…』
5秒もだと? これは先制攻撃をして時間を稼ぐか、それとも無事に時が流れる事を期待するか?
『4…』
大島が目を開ける。眼球が左右に走り素早く状況を確認しているようだ。
『3…』
身を捻りながら身体を起こす。身を低く四つん這いの状態で周囲を警戒する姿はまさに野獣。
『2…』
大島と目が合うと、奴は唇の両端をニィっと吊り上げる。人間として笑っているんじゃない野獣の威嚇行動の1つだ
『1…』
大島は立ち上がると「よう!」と──
『0』
「ロード!」
『ロード処理が終了しました』
「どうするんだよ?」
本当にどうしたら良いんだろう? 誰も田村の問いには応えない応えられない。
「……あれは拙いだろ。レベル30というのは大型の龍を倒すのに匹敵する経験値が要る」
「じゃあ、あいつって現実世界でそれに匹敵する何かを倒してきたのか?」
「熊何匹分だよ?」
「熊だけじゃないと思うよ」
櫛木田と伴尾の言葉に紫村は形の良い眉を顰めながらゆっくりと首を横に振った。
「虎とかか?」
「象だろ?」
「カバ?」
その何れの答えにも紫村は首を振った。
「人間だろ」
「主将!」
そう答えた俺を香籐は諌めようとするが、紫村はゆっくりと首を縦に振り肯定する。
「そんな!」
「幾ら大島でも……」
香籐は受け入れられていないが、伴尾が飲み込んだ言葉は「ありえる」だろう。
「考えてもみろ。ヒグマでさえもオーガに比べたら雑魚もいい所だ。ツキノワグマなんて精々オーク程度。そんな状況下でレベル30分の経験値をためるのに1番適した生き物は何だ?」
夢世界のように魔物や野生動物が豊富にいるわけではない。現代の日本においては倒す倒さない以前に、倒す相手が沢山いるわけではない。
「そうだ魚釣り!」
「香籐、現実をみろ」
確かに魚釣りでも経験値は入るようだが端数の域だ。俺達のレベルは大島と違って皆1から始まったが、レベルアップ前に溜め込まれていた経験値でレベル3に価するほど溜め込んでいた奴は父さん以外にはいない。ちなみに父さんでもレベル8程度にすぎない。
何より、魔物とそれ以外の生き物では経験値が全く違っている。森林狼は巨体と高い戦闘能力を持ち合わせていながら経験値はゴブリンよりも少なかった。
つまり現実世界でレベル30分の経験値を稼いだ大島の異常性が浮き彫りとなるのだ。
「大島先生が英語以外にも幾つも言葉を使えることは知ってるよね。つまり若い頃に海外での生活が長かったと考えるべきだよ」
大島が使う当ても無い言語を必死に習得する姿は想像出来ない。必要があるから身に付いたのだろう。だとするなら紫村の言葉には説得力が出る。
「その海外の生活で何をしていたのかが問題だよね」
「傭兵……つまりPMSC(private military and security company)民間軍事会社ってところか?」
「僕はそう思うよ。戦場以外ではあの経験値はありえないから」
「其れで改めて聞くけど、どうするんだよ?」
「田村! どうするどうするとうるさい。少しは自分で考えろ!」
櫛木田が一喝する。
「だけど本当にどうしたら良いのやら」
「まさから復活のせいでレベルが上がってしまうとは……」
「高城、お前なら勝てるのでは?」
「普通に考えたなら勝てる。負ける要素が見当たらない。それなのに勝てるという確信が抱けない……これは刷り込まれた恐怖とかトラウマの問題じゃない。本当に読めないんだ」
「俺もレベル77になった今でもレベルアップ前の大島と戦えと言われたら困るな。身体能力、反射神経、視力等の五感全てで勝っているにも関わらず、それらをひっくり返しかねない何かを大島に感じる」
「隆、大島と言う教師はそこまで凄いというか、酷いのか?」
「父さん。隆たちが言ってる事は何一つ誇張は無いよ」
「大……あの中学校は本当に大丈夫なのか? この前は隆から校長と学年主任の問題行為について聞かされたばかりだし」
そう俺は校長達の件を父さんを通して教育委員会へと話を持っていって貰った。
余り知られてない事だと思うのだが、教育委員会は各市町村の自治体下の組織でもあり、委員は知事、市町村長によって指名され議会の承認を経て任命される。
その為に委員の内一定数は役所の職員が通常の職務に就きながら一緒に兼任している。
父さんの同期の友人も教育委員会の委員を務めているため、その友人へと例の件は証拠の動画などと一緒に送られている。
「それだけではなく、教頭も早期退職を希望していて今は必死に留任を促しているところだそうだ」
やはりそうなるか。後任が決まらぬまま校長と教頭、さらには3年生の学年主任という重要な立場の人間が消えるのは問題だよな。
「はっはっは……大変だね我が母校も」
兄貴は乾いた声で笑った。
「学校がおかしくなった原因の1つが大島だよ。奴が他の教師達にも強いプレッシャーを与え続けたせいで教師達も捻じ曲がったんだよ。そのストレスを生徒にぶつけるのだから元々誉められた連中じゃないけどね」
「だが隆はそれで良いのか?」
「3年になって今更、学校に何かを期待する気は無いけど、後輩達のために少しはいい学校にしたいな」
「そんな学校に、再び野獣を解き放とうとする鬼の様な俺の弟だった……」
やっぱり復活させない方が良いのだろうか? 心が揺れる。
大島を復活させたくないという思い。大島を絶対に復活させてはいけないという思い。そして大島を決して復活させ無いという決意の間で……復活させなくて良くない?
いや違う。俺達が今此処で大島を止めておけば良いのだ。キャンと言わせてやれば良いのだ。
大体、俺達以外の誰に大島を止める事が出来るというのだ? やるべき事をやらずに後輩に押し付けるつもりか? 良くも恥ずかしくもなく先輩面出来たものだ。
「いや、大島とは決着をつける! お前等覚悟を決めろ!」
「高城!」
田村の顔に先ず浮かんだのは驚き。そして驚きは怖れに、そして怯えに、だがやがて田村は笑みを浮かべる。覚悟を決めた男の顔で。
「……やろうじゃないか!」
「そうだな。何れの時にか決着はつけなければならないんだ。やろう……今!」
櫛木田も覚悟を決めた。
「後輩に荷物背負わせる訳にはいかないだろう。この拳で大島の鼻っ面をへし折ってやるさ」
そして伴尾も覚悟を決める。
「紫村……頼む」
「水臭いな……まかせてよ」
紫村は気負うものもなく、ただ笑って応えた。
「主将。僕も──」
「お前も俺達が守るべき後輩なんだぞ」
「それでも僕は主将達と肩を並べて戦いたいです」
「莫迦だな……」
「……大。隆達は何でこれから命を捨てに行く男のロマン的な雰囲気を出しているんだ?」
「父さん。触らないであげて、そういう年頃なんだよ」
「それにしても、そこまで雰囲気を出すほどか…………たしかに大島という男は只者じゃないようだけど」
父さんはまだ納得が出来ていないようだ。俺だってまだあいつの存在を納得出来ていないよ。
「良いか? 行くぞ」
「了解」
気持ち良い返事が返ってきたところで大島に向けて【反魂】をかける。
『1……対象をパーティーから排除します。全ての処理が終了しました』
禍々しいまでの気当りにはもう怯む事は無い。
「よう、久しぶりじゃないか高城。生きてたとはな驚いたぜ」
何時だって無駄に不敵な男だ。
「お久しぶりです。ですがむしろ自分が生きている事を驚いてください」
「はっ、こうして生きてるんだ驚いたって仕方が無いんだろ。お前と紫村、それに香籐までも生き延びたって方が驚きだ」
「それは──」
「それで1年や2年共はどうなった?」
さすがに教師としての良心はわずかに残っていたらしく教え子を心配するなんて以外だが……いや、何かあったら面倒だからかもしれない。
「全員無事ですよ。後遺症も無くすべて回復しました」
「後遺症……アレからどれだけ時間が経った?」
後遺症が無いという言葉から、彼らは治療を施され、更にある程度の時間が経過した事を察したようだ。
「大島先生が死んでからという意味でしたら3週間ほど経ってますよ」
「死んでからだと? 3週間?」
「はい、死んでましたよ。現実のあの島に戻った時にはね。そこで死んでる早乙女さんと一緒に」
「早乙女……おい!」
俺の指差す方向を振り返り早乙女さんに気付くと、駆け寄って早乙女さんを抱き起こす。
「おい! 目を覚ませ!」
心臓マッサージを行いながら叫ぶ。
「無理ですよ。死んでますから……少し前までの先生と同じように」
「俺と同じようにだと?」
「ええ、言ったじゃないですか死んでから3週間経ったと」
「……話を聞こう」
教えてもらうのに、聞いてやるという態度。しかもその事に何らおかしな事を感じていない……恐ろしいほどの上からの態度だが、命令じゃなかっただけ死を経験して人間として成長したのだろう。
「なあ大島君」
だが俺は思いっきり見下した風に話しかける。
「大島君だぁ?!」
「大島君。そろそろその様な子供じみた態度は慎むべきじゃないかな」
俺の目的は、慎ませる事なので本題を切り出す。
「良い歳して、恥ずかしいと感じるところは無いのかな」
「お前、死ぬ気か?」
「何ならもう一度死体に戻してやろうか?」
最初から話し合いでどうにかなるなんて思っていない。
「おもしれぇな。6人がかりで強気になったのか?」
「6人がかりじゃあ、大島君が納得しないだろ。本当は僕ちゃんの方が強いのに、あいつ等6人がかりでなんて卑怯だ。僕ちゃんは負けてないなんて泣き喚かれても迷惑だ。俺1人でやってやるよ」
善し! 今日も煽りは絶好調だ……お前等そんな心配そうというか、遺影を見るような目で俺を見るな。
冷静になって考えれば勝算はある。そもそも大島は自分がレベルアップによって驚異的に身体能力等が向上している事に気付いてない。
故に今まで以上の力を使う事が出来なくても良いが、怒らせたので確実に今までの限界以上の力を出すだろう。だがその力に奴は驚き隙を見せる。
隙は一度だけ二度はいらない。そして一瞬だけで十分だ。
「大した度胸だ。その度胸に免じて先手をくれてやる。掛かって来い」
相変わらずのメロン熊面に笑みを湛えての威嚇。これだけ常人ならば尻餅をついて座り小便を漏らすほどの恐怖を覚えるだろう。実際にヤクザがそうなった場面を見たことがある。
「それではお言葉に甘えて……」
回り込むなどの小細工無しに正面からゆっくりと距離を詰める俺に、大島の瞳孔が軽く開く。それから読み取れる感情は喜びと興奮。
大島の間合いがデッドラインとして目に見えなくても、俺の身体に染み付いた経験則が視覚情報以上にはっきりと教えてくれる。
だがそのデッドラインを俺は信用していない。大島が自分の手の内を教え子とはいえ俺達に明かすはずが無い。つまり本当のデッドラインは俺の身体に染みこんだそれよりもこちら側にある筈だ。
それは5cmか10cm? それを探りながらゆっくりと距離を詰めるデッドラインの手前で体感時間が無限に引き伸ばされていくような感覚──!
研ぎ澄まされた五感の中の皮膚にピリリと電流が流れたような感じがし、次の瞬間、どういう理由かは分からないが、速く鋭い大島の左貫手が空気を切り裂く音も立てずに飛んでくる。
拳を貫手にする事で俺の中のデッドラインより20cmも伸ばしてきた。
俺はそれを受け止め斜め上へと押し上げる。大島の攻撃は避けてはいけない。避ければ大島の手を自分の近くでフリーにしてしまう。そうなれば奴は絡みつくような動きでこちらの動きを封じてくる。だから受け止める。勿論そこから間接を取りに来るなどの手段を講じてくるが、視界の範囲外でフリーにするよりはマシだ。
「必死だな大島君。先手はくれるんじゃなかったのか?」
俺の右手首の内側に差し入れようとしてくる親指に対して、自分の右手の親指を付け根から反らせる事で外側へと流し、逆に大島の左手首を握り込──
「甘ぇんだよ!」
手首を縦方向から完全に掴む寸前に大島は肘から先を90度内側に捻り、横方向に手首を握らせると、再び肘から先を90度捻って元に戻しながら引き抜いた。
「甘いも何も、大島君の新鮮味の無い姑息なやり方は厭き厭きしてるよ」
その時点で俺達は互いの間合いで向かいあっていた。
「何処でそれほどの力を身につけた?」
「大島。お前をボッコボコにした後で教えてやるよ!」
「上等だ! 死ね!」
引き絞られた力の解放。大島が繰り出した正拳突きは驚くことに目測で200㎞/hを遥かに越える速さで飛んで来る。
だが俺以上に驚いたのは大島自身だろう。俺が左腕で受けて肘から先の回転で捻り落としても、大島は反応出来ず、踏み込んで手加減をかなり加減した俺の拳を腹にもらって、漫画のように地面に水平に吹っ飛んでいった。
……うん、これじゃあやっぱり大島は納得しないだろうな。絶対に再戦を要求してくるだろう。しかも今度はレベル30の身体能力をフルに使ってだ。
自分の身体でへし折った20mはある大木の下敷きになっている大島。木をどけて気絶している大島に光属性レベルⅥの【真傷癒】をかけると破損部位が提示される。胃と肝臓が破裂していたので治療する……魔術凄げぇな。
「くっ……俺は負けたのか?」
「負けてないと思うのはそちらの勝手だ。治療でちょっと麻酔無しで腹に穴あけるから我慢しろ」
幾ら傷は塞がっても、破裂した胃の内容物が腹腔内に溜まっていれば大島でも死ぬだろう。
「……勝手にしろ」
大島の腹に治療用のアルコールを撒いて消毒する。
本来腹部を切開するなら皮膚、脂肪、筋肉、腹膜と層ごとに術具を変えながら切り開いていくのだがなにぶん素人なので一発勝負で失敗したらロードという方法を取らせて貰う。
適当に距離を測って手を構えると、ナイフを装備する。大島は一瞬ピクリと身体を小さく震わせた以外に反応を示さないが傷口からは血があふれ出す。
多分、他の臓器を傷つけたのだろうが気にする事無く【真傷癒】で治療すると、掌サイズのLEDマグライトを取り出して、ヘッドとエンドのパーツを捻って外すと、中のバッテリーボックスを取りすと、握りの部分はただの筒になるので、【水球】で作った水の塊を空中に浮かべたまま【真傷癒】で沸騰させると中にマグライトの握りの部分を放り込んで煮沸消毒し、再び【真傷癒】で人肌程度に冷ましてから、腹部の開いた開口部へねじ込む。
直径30cmの水球の体積は14L強で、これを生理食塩水にするためには塩を130g弱溶かし込めばよいのだが……重さを量る道具など持って無いよ。料理させて貰えないだから。
「紫村。塩130gくれ!」
悠長に紫村に頼む。苦しいのは大島なので慌てる必要はない。
「軽量スプーンでもいいかな?」
「構わん。多少の違いは誤差は誤差だ。大島が誤差程度でどうにかなるなら苦労しない」
「それもそうだね」
「……お、お前等」
大島も教え子の心遣いにに感動しているようだ。
紫村が大体で計った食塩を水球内に投入。【操熱】で加熱しながら回転させて食塩を溶かし切り、更にそのまま沸騰するまで過熱し、人肌まで戻すと【操水】で水球の水の約1/3、5L弱をマグライトの握りの部分を通して大島の腹腔内に送り込んで、血液や胃の中の未消化な食べ物をあらない流し水と一緒に外に取り出す。それを3回繰り返してから【中解毒】で雑菌を殺し腹腔内の洗浄を終えると、マグライトの握り部分を引き抜き【軽傷癒】で切開部分の傷を塞いだ。
「処置終了。感謝して土下座しても良いんだぞ」
「高城、今のは何をやったんだ?」
「さてね」
大島に対して魔術の事を説明する必要はない。奴はレベル30になったが、レベル176の時の俺と同様にレベルに応じた属性魔術のレベルが開放されただけであり、もう1つレベルが上がって属性レベルに対応した魔術を憶えない限り憶魔術を使うことは出来ない。そして奴は2度とレベルを上げる事は無いのだから。
「それがお前の強気の原因か? だがその力、何もお前だけが身につけたって訳じゃないみたいだな」
……勘違いしてるよ。
「大島君。大島君。泣きのもう一回を遣りたいなら、ほら人としてやる事があるんじゃないかな?」
「何のことだ?」
「ド・ゲ・ザ。地面に額を擦り付けて、もう一度チャンスを下さいお願いします高城様って言うんだよ」
「舐めるな、この餓鬼!」
完全に怒った。冷静さを失ったなら大島といえ恐くは無い。
現段階では大島の身体能力は怖れるに足らない。恐るべきはその技のキレと深さ。そして悪魔のように狡猾な頭脳だ。その頭脳が冷静さを失い働かなくなるのなら勝率は跳ね上がる。
更に罠を仕掛けていく。
パワーが2倍以上に跳ね上がった大島の打撃をいなす。だが力をいなし切れずに下がる。立て続けに襲い掛かる打撃を必死にといった風に受け流し払い続ける。
「止めだ!」
追い込まれて、反撃する余力も無い振りをした俺に、大島は止めとばかりに大きく踏み込んでの一撃を送り込んでくる。
その瞬間、俺はその一撃をかわすと、自分の中のギアを1つ上げて踏み込みながらカウンターを放つ。
「やはりな」
俺の一撃は大島の左手に阻まれて止まり、次の瞬間に右斜め下から跳んできた大島の膝に顎を打ち抜かれる。
「残念だったな。必死に俺を怒らせて、更に奥の手まで隠していたのは誉めてやる。中学生の餓鬼にしては大したもんだ」
「くそ……」
脳を揺さぶられて膝から力が抜けて、歪んだ視界の中で景色が上へと流れて行き、地面の硬さを顔に感じた。
だがこれも作戦の内だ。大島の手を読んでいた訳では無いが想定外という事態というほどでもない。
10秒もあれば脳震盪から回復する事が出来る。俺の身体はそんな風になってしまっている。
「……な、なんで……分かった?」
「簡単な事だ。お前が追い込まれているというのに櫛木田達は妙に余裕の表情を浮かべていたからな」
馬鹿共が! 後で覚えてろよ!
「それじゃあ、お仕置きの時間だ」
余裕の表情で近寄ってくる大島だが、俺は既に脳震盪から回復し終えていた。
さてと、どのタイミングで仕掛けるかだが──
「これ以上息子に手を出すというのなら私が相手になろう」
……か、格好良い! これが本当に俺の父さんだろうかと疑ってしまうほど格好良いな。
「ほう……俺は相手が父兄だろうが一切手加減しない主義だぞ」
そこはしろよ馬鹿野郎。
「父さん。大島はまずいから止めておいて。回復して無い振りして隙を伺ってただけで、俺はとっくに回復してるから!」
俺の発言に大島は一瞬驚いた表情を浮かべたが、それを押し殺して「……やはりな」と呟いた。
「嘘吐け、完全に騙されてた顔してただろ」
「騙されてなんていねぇ! お前の気のせいだ! 誰があんな猿芝居に引っかかるか!」
「騙されるかどうかもう一度試してやろうか?」
「ほざきよるわ!」
やはりこの男は正面から叩き潰さなければならないようだ。だが勝てるのか? こいつはまだ奥の手をかくしているだろう。そして俺よりも引き出しの数が多いのは間違いが無い。
俺は大島という宿敵との戦いに入れ込みすぎて、自分と大島だけが世界に存在するかのごとく視野狭窄に陥っていた。
だが大島は冷静にその場を取り巻く全て、櫛木田達の表情すらも戦いに利用した。
自分を取り巻く全て、いや自分すらも煽られて冷静さを失えば戦いにおいて敵となりうる。同様に自分を取り巻く全てを、相手さえも味方とする事が出来れば必ず勝つという事に気づかなかった。
大島が持つ経験という名の引き出しはやっかいだ。戦いの場で起こり得るモノの多くが、頭の中で考えたものではなく経験として蓄えられ状況に応じて何時でも引き出されるのだから。
そんな大島を倒すとするのならば、奴が何も引き出しから取り出せぬ内に倒すべきだろう。
先手をとって主導権を握り、手放さず大島には何もさせないのが理想的だ。しかしそんな事が俺に出来るのか?
大島の無駄に豊富な戦いの経験なら、相手に先手を取らせてからいなして主導権を奪うなんて事は朝飯前だ。俺の引き出しの中にすら幾つか手段は入っているくらいにありふれている。そうでもなければ戦いは先手を取った方が勝つという単純な構図になる。
だが逆に先手必勝の言葉通りに、先手を取ってそのまま押し切るなり逃げ切るなりして勝利を得る方法もありふれてる。
両者に明確な優劣が無いのだから当然だろう……馬鹿か俺は考えすぎだ。戦いを複雑にすればするほど大島の術中にはまる。逆だ。逆に戦いを単純にするんだ。
「大島。これから俺が仕掛ける。そして一撃で決める。その一撃を凌ぐ事が出来たらお前の勝ちだ。今まで通り学校で王様気取りで過ごすが良い。だが負けたなら今後は態度を慎め。さもなけばあの学校を去れ」
大島なら他に食っていく手段は幾らでもあるだろう。奴が教師を遣ってるのは半ば趣味の様なものだと俺は思っている。
「負けた場合、お前は……場合もくそも負けるんだけどな。どうするつもりだ?」
「卒業後は鬼剋流に入門し、お前の手下になってやるよ」
「主将! それは駄目です!」
「待て高城早まる!」
「人生を捨てる気か?」
「思いとどまれ!」
「高城君それは言い過ぎだよ」
お前等……それは分かり易すすぎるだろ。台詞棒読みだし。
「俺が負けたらこいつらも同じ条件で良いからな」
俺の爆弾発言に紫村を除く4人の顔が怒りと絶望に歪む。
「そいつはおっかないほどの自信だな。不安になってしまう無いか」
一方大島は心の邪悪さを顔に浮かべ心にもない台詞を口にしやがる。顔に感情が出るというより、そもそも隠す気が無いときている。
戦いを単純にする。それは単に正面から踏み込んで殴るだけだ。
ただし、大島に反応さえさせない速さで踏み込み、回避不能の攻撃でガードごとぶっ飛ばす。
何の駆け引きも介在しない実にシンプルなプランだ。だが、その為には大島のありとあらゆる企みを看破しなければならない……大島が俺が攻撃するまで何の手も打たないなんて事はありえないからだ。
大島と俺の距離は3mといったところだ。2人の間には固い岩盤の上に、長い年月をかけて草木が生えては枯れて出来た土の層が数10cmといったところだろう。
システムメニューを呼び出して、時間停止状態にして周辺マップを拡大表示する。
周囲の地面を岩、石、土、草、それ以外に分けて色を変えて表示する。
こ、この野郎、涼しい顔して何してやがる! 俺と大島との間の地面にはアルミ製の板で作られた小さな捲菱が撒かれていた。
小さいといっても靴の底を突き破って足に刺さるには十分な大きさだ。
何故そんなものを持っているのか分からない。大島の格好は平行世界から戻ってきた時に自衛隊の手当てで来ていたシャツは切って脱がされているので上半身は完全に裸で、下は軍の放出品のゆったりとしたカーゴパンツで、収納力はあるだろうが常備する理由も分からない。
とりあえず撒菱は拡張されたシステムメニューの収納機能は自分を中心とした10m以内の物を触らずに収納出来るので全部回収。
だがこれは俺にとっては拍子抜けだった。大島の仕掛けにしては弱い。奴ならもっと決定的な何かを幾つも仕掛けてくるはずだ。
更に地形的な段差、穴、などや草の中に紛れた蔦等の障害になりそうな物の位置を全てチェックする。
しかし、これといった問題は発見出来ない。
これはおかしい。撒菱では必ず俺が踏むとは限らない。大島にとっては気休め程度の仕掛けだ。そうだとすると気休めじゃない本命の仕掛けがあるはずだ。
本命が何かを考える。大島が仕掛けを施すとしても、時間もさらに俺達に気付かれずに出来るような隙も与えていない筈だ。精々撒菱を気付かれないように落すのが限界だ。
ならば、元々この場にある何かを利用する。
いや、それも難しいだろう。今俺がチェックを済ませて何も問題が見つからなかった事。もし毒を持つ虫や植物へ俺を誘導する罠とか考えないでも無いのだが、そもそも大島がこの世界の動植物の知識を持っているはずが無い。
残された可能性は仕掛けが大島の手の中にあるという事だった。
銃器・刃物・毒物・劇物・火薬・可燃ガス……危険物で検索をかけてもヒットするのは、すぐには取り出せない位置にあるナイフと、後は残りの撒菱だけだった。
考えすぎだったのだろうか?
最後に大島の握りこまれた拳の中をチェックする……ハバネロ粉末?
なるほど眼に入れば失明の可能性もある劇物でもあるが、奴が調味料として購入したのなら、ハバネロはあくまでも調味料という事か。それを指で弾き飛ばして俺の視力を奪う作戦か。
ちなみに指で弾いて飛ばすといっても大島の場合は普通じゃない。ガムの銀紙の包み紙を丸めて親指で弾けば2mほど先にあるアルミ缶を狙い1発で破裂させるのだ。更にいえば5mm程度の小石を縦に丸めた舌の上に乗せて吹いて飛ばすと4m以上離れたアルミ缶をこれまた正確に捉えて破裂させるという嫌なかくし芸を持っている。
そう本人はかくし芸だと言っていたが、使い方次第では武器となる、そして武器として使う事に躊躇いなど持ってはいない。
……最低でも、もう1つは何かを仕込んでいる。仕込んでいなければそれは大島じゃない別のもっと可愛いらしい何かだ。
だが、それを見つけ出すことが出来なかった。分からないという底知れぬ恐怖と、罠を食いちぎって勝ってみせてやるという蛮勇。その狭間の中で俺はシステムメニューを解除した。
「ほらいいぞ。いつでもか──」
お言葉に甘えて台詞の途中に仕掛けさせてもらう。
大島が撒菱を仕掛けた場所を敢て踏み込む。大島の「しめた!」と言わんばかりの表情筋の動きを無視する。そして眉間の辺りを目掛けて飛んで来る白い包み紙を左手で下へと叩き落すと、大島の股間の真下を踏み込んだ俺の正拳突きが唸りを上げる。
咄嗟に腕をクロスして鳩尾を守ったのは流石と賞賛しても良いだろう。だが俺の拳は2本の腕を重ねてへし折り、その腕ごと鳩尾へと突き刺さった。
「勝った!」
俺は確信した。この打撃に今の大島が堪えられるはずが無いのだ。両腕が使い物にならなくなり再び胃を破裂させられた大島に反撃の余地はもう残されていない。完全勝利だと……
次の瞬間、大島の口から吐き出された赤い煙を正面から顔に受ける。
両方の目を襲い、そして吸い込んでしまったため鼻や口、喉の奥まで入り込む赤い煙。
「あぁぁっぁあっぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
一拍置いて襲い掛かる顔から胸が直接神経を炙られるかの様な痛みに限界を越えた脳がシャットダウンした……
「隆。隆起きろ!」
身体を揺さぶられて意識が覚醒していく。
「……兄貴?」
「目はちゃんと見えてるのか?」
「目? 目は別に…………うわっ!」
先ほどの痛みを思い出して思わず声を上げてしまう。2
「どうした? 見えないのか?」
父さんが慌てた様子で肩を掴んで揺すってくる。
「隆、こっちを見て!」
「目は見えるよ。問題ない……何がどうなったの?」
傍には父さん、母さん、兄貴。そしてマルにユキもいる。
「目、喉、気管、そして肺の一部まで広範囲に広がった炎症が原因で失神状態に陥ったんだよ」
「炎症で失神?」
「ハバネロの粉末を詰めたパイプを口の中に仕込んでたんだ。それで呼吸器系がまとめて火傷した様なものなんだから無理も無いよ」
紫村の説明に、随分酷い目に遭わされた事が分かった。
「それで大島は?」
「向こうで死にかけているね」
「相打ちか……それで治療は?」
「高城君が回復してない状況で、彼を治療するなんて自殺行為だよ」
「そりゃあそうだな……じゃあ死なない程度に治療しておくか」
「そうだね、また生き返らせるのも面倒だろうし」
「別に魔力は無駄に余ってるから、一度死なせてから【反魂】をすれば怪我も全部治って楽なんだけど、そもぞも全部直す気は無いし」
「それなら、やはり一度死なせて【反魂】をかけてから改めて両腕を折れば良いんじゃない?」
「紫村。お前マジ天才だな」
「息子が荒みきっている。昔はあんなに良い子だったのに」
「いや、隆は大島の近くで影響を受けてる割にはかなりまともだと思うよ」
俺の中で兄貴の評価が急上昇。今ならレベル100までパワーレベリングを無理矢理してやっても良い気分だ。
「やはりあの男が元凶か……」
父さんが「排除するべきか?」と真剣な顔で呟く。
「彼に教員免許を与えた責任者の顔を見てみたいと思うわ」
突然、周囲の温度が下がる……母さんが怒っている。
「治療用の魔術が無ければ隆は死んでたかもしれなかったのだから……ちょっと海に捨てて来るわ」
「待って文緒さん!」
父さんが背後から羽交い絞めにして母さんを止めるがズリズリと引きずられていく。
「母さん!」
慌てて兄貴が加勢して何とか抑える。
「嫌ね、英さんも大も、これじゃあ海にゴミ出しに行けないじゃない」
「行かなくていいから!」
「もう一戦やるのか?」
面倒なので死なせてから【反魂】で復活させようかとも思ったのだが、また何か想定外な事が起きても嫌なので、普通に治療魔術で復活させた大島は、両腕が砕けた状況でも不敵にそう嘯いた。
「その腕でか? 大した自信だな」
「なんら問題は無い!」
張ったりではない。揺らぎ無き強大な自負心が言わせる言葉なのだろう……羨ましいほどの図太い神経。
「だがな。もう一戦も何も、そもそもあんたは俺の一撃を凌いでないから賭けは俺の勝ちだからな」
そう、思いがけない反撃をしてきたが、俺の攻撃はかわす事も受け切る事も出来ずにきっかり食らっているので、あの賭けは俺の勝ちとも言える。
「何だと! あれは相打ちだ」
「だから相打ちかどうかなんて関係ないんだよ。俺の一撃を食らって死に掛けて俺に助けて貰ったという事実があるだけだ」
「くそっ!」
「大体、戦った相手に治療して貰い命を救われておいて相打ちとか都合の良い事抜かして恥ずかしくないの? 俺なら切腹モノだ」
そう断言してやる。
「分かった。学校は去ろう」
……えっ? 今何て言ったの? 櫛木田に視線を飛ばすと、分からないとばかりに首を横に振った。
「潔く教師も辞めよう」
イ・サ・ギ・ヨ・ク……これは何かのアナグラムだ。多分地球滅亡に関わる重大なメッセージが潜んでるいるはずだ。
……駄目だ。総当りで試してもそれらしい言葉は出てこない……地球オワタ!
「い、今なんて?」
混乱する俺を他所に田村が大島に聞き返す。
「教師を辞める。お前達もこれからは自分達で空手部をどうするか自由にやれば良い。ここが異世界だというのならこっちに残ろう。なにやら面白そうなて相手がいるようだから、戦う相手に不足は無いだろう」
そう言って崖から見下ろす海には5頭の海龍が、投棄されたハイクラーケンの臓物に群がっていた。
ちなみに海龍は名称こそ違えど水龍と同種であり、単に住む場所が淡水域か海かの違いでしかないが、餌の豊富さで海龍の方が大型化するために水龍の上位種と勘違いしている研究者も多いらしい。
海龍は水龍と違って群れを作る。湖などをテリトリーとする水龍と違い、広大な海でしかも餌も豊富なため縄張りを維持する必要もなく回遊するために群れることが出来る。
だが群れる事が可能な事と実際に群れを形成する事は同じではない。水龍より大型化した海龍が群れを形成して行動を取る必要があるほどの脅威がハイクラーケン以外にも海には存在するいうことだろう。
その海龍をどこか清々しくもある表情で見下ろす大島の顔には、もう空手部へのこだわりは無いように見える。
……おかしい、おかしいぞ、俺は誰だ? 中の人が大島じゃないぞ……まさか、大島以外の、早乙女さんと人格が入れかわているとか? ……何を考えてるんだ俺は? 落ち着け落ち着くんだ。冷静になるんだ、そうすれば答えは必ず導き出されるはず……………………あっ!
閃いた。答えが閃いてしまった。これは良い。なんて素晴らしい状況なんだ。
『皆良く聞け! 大島は【精神】関連のパラメータの【レベルアップ時の数値変動】を設定しないままにレベル30になったんだ!』
『何だって! 大島はそんな状態でも、撒菱を巻いて、ハバネロの粉末をお前に吹きかけたというのか? どれだけ酷い性格をしてるんだ?』
『相当病んでますね』
『あれって数値変動をONにしておくと数レベルでもかなり変化が現れるんだぞ』
『そんな異常者が教師をやっていたなんて怖いわ!』
『僕の想像を超えるね』
一斉にディスられる大島。確かにレベル29分も『勇者様』的性格に変動してアレと考えると恐ろしいというよりおぞましい。やっぱりあいつは悪魔なんじゃないかと思う。
『だからだ。このまま大島のレベルを一気に上げればどうなると思う?』
『…………それは、凄く、凄く……気持悪い』
伴尾の返答に皆が一斉に頷く。
『気持悪いとかの問題じゃなくだ。大島が善人になったとしたらの話だ』
『やっぱり気持悪いです』
『整理的に受け付けない』
やはり不評だ。俺も当然だが気持悪いと思っている。善人な大島なんて気持悪くないはずが無い。
『気持悪いか気持悪くないかなら、俺だって気持悪い! だけどそういう話じゃないって言ってるんだよ』
『だがな高城。厚い寒いや痛い痒いは我慢出来ても嫌悪感は自分の中で何とか出来ないからな』
『我慢しろ。何でもキモい、ただしイケメンは除くで済ませる女子か?』
そういう見た目で判断するから、俺達が怖いの一言で遠ざけられるのだろう。そういう風潮を後押しするような事をお前等自身が口にしていいのか?
『僕はおもしろいと思うね。それにキモいとか』
『そう! 紫村。そういう言葉を待っていた。どのくらいレベルが上がったら奴がまともな人間になると思う?』
流石紫村だ。言葉の全く通じない遠い異国で日本人に出会ったような思いだよ……日本を出た事無いけど。
『難しい問題だね。大体レベル30でも、最近何かと大島化が進んだといわれる高城君と比べても、全然モノが違うというか比較にならないと思ったくらいだからね』
『つまりお前の見解は、無理って事か?』
『違うよ。別に大島先生に善人になれとか真人間になれとか言う訳じゃなく、少しはマシな人間になれば良いんだよね。普通の悪人レベルにね、それなら十分ありだと思うよ』
大島がその辺のヤクザレベルの言動に落ち着くとしたら……何だか微笑ましく思えてしまうのは何故?
「それじゃあ、餞別代りにレベルアップしていきませんか?」
「レベルアップ?」
「ほら、テレビゲームなんかである、戦って経験値を稼いでレベルアップして能力上昇って奴ですよ。そんな現象がシステムメニューの影響下なら実際に起きるという事です」
「システムメニュー? ゲームの話は良く分からんが、それで強くなるという事か?」
「そう考えて下さい。ちなみに貴方の現在のレベルは30です。自分が強くなっている自覚はあるでしょう?」
大島は自分の手を何度か握ったり開いたりしてから「なるほど、そういう事か」と呟いた。
「それで、本来はパーティーというか、俺の仲間に入らないとレベルアップなどの恩恵は受けられないのですが、【反魂】という特別な魔術を使う際に、レベルアップなどの機能を持つシステムメニューの影響下に入らなければ死者の復活は出来ないために自動的にパーティー加入した状態になり、その際に貴方が今までに貯めていた経験値でレベルアップしてしまったんですよ」
その辺の説明は正直自分でも自信は無い。何故ならパーティーに加入した段階で皆最低でも2レベルになるだけの経験値を貯めていたはずなのに、誰もパーティーに入った瞬間にレベルアップしたものはいないので【反魂】には俺の知らない何かがあるのだろう。
「高城。お前のレベルは今なんぼだ?」
「177ですよ」
「177……てめぇそれはズルイだろ!」
「空手を始めて2年と少しの俺に対してあんたは何年修行してきたんだ?」
「糞、痛いところ突きやがる」
こんな風に素直に認めてしまうのもレベルアップの影響だろう。もっと素直にして綺麗なジャイアンのように綺麗な大島にしてやるから覚悟しろ……無理だな精々普通のジャイアンまでだな。
その後、早乙女さんにも【反魂】を使って復活させる。
早乙女さんのレベルアップは18で、驚いていいのか安心していいのか微妙な数字だった。
「俺も大島に暫く付き合うからレベルアップを頼みたいんだが」
「いいですよ。今日中に70程度までは上げてしまいましょう」
早乙女さんなら大島よりもかなりマシな部類に入る人なので、レベル70まで上げれば真人間になるだろう。そして彼に大島が感化されるなら……悪くない。感化しなければ2人で殴り合って白黒つけるかもしれないのも、それはそれで善しだ。
「それでは心の中で強く。私、高城隆の仲間になりたいと願ってください」
「無理を言うな」
大島が速攻で拒否した。
「無理でもやれよ。お前が嫌だと思う以上に俺だって我慢してるんだ。大人の癖にガタガタとみっともない真似はするな!」
今の大島には正面から浴びせられる正論を鼻で笑い飛ばすような真似は出来ない。どんなに拒もうとしても心が言う事を聞かないのだ……などと油断していると痛い目に遭いそうなので気をつけよう。
『早乙女 晴司がパーティーに参加を表明しました。受理しますか? YES/NO』
勿論YESだ。
「それでは面倒なオッサンは放っておいてレベルアップをしに行きますか」
「よろしく頼む。大島……じゃあな」
親しい先輩で、多分大島にとっては唯一の友達と呼べる早乙女さんに突き放されて、奴の顔に僅かだが動揺の色が浮かぶ。
そうシステムメニューが作り上げようと目指すのは知恵と勇気と友情の勇者様だ。その影響を受けた大島が唯一の友達から見捨てられようとしている状況に焦りを感じないはずが無かった。
「分かったやってみよう……」
こんなに自信が無さそうな大島を見るのは初めてだ……つうかそこまで嫌かよ。俺も嫌だけど。
『…………』
システムメニューからは何のアナウンスも来ない。
「早乙女さん行きましょうか?」
「そうだな」
「残念ですよ。自分を騙す程度の嘘すら吐けないなんて」
自分に正直過ぎる男には自己欺瞞は無理だったようだ。
「待て……自分を騙せば良いんだな? ……プライドは捨てぬ。ヘタレの高城如きの下に俺が靡くなどありえない……だから己の心さえ欺く!」
何だ、きっちり俺をディスりやがって──
『大島 俊作がパーティーに参加を表明しました。受理しますか? YES/NO』
やりやがった……迷わずに即NO!
「おい高城! お前今何をした? 成功したよな? 俺成功しただろ?」
「確かに成功した……だがお前の態度が気に入らない」
「何しやがるこの野郎!」
「悪いな。俺もまた自分すら騙す事が出来ない未熟者よ……そもそも俺の方から折れるメリットが無い!」
「ふざけるな!」
その後、早乙女さんが間に入ってとめるまで掴み合いになった。
「それじゃあ説明するけど、俺のパーティーに入るとパーティー全体で経験値というものを共有する事が出来る。つまり俺があそこにいる海龍を倒すと、その経験値は全員で共有しレベルアップすることが出来る」
「頭割りじゃないところが太っ腹なシステムですよね」
「香籐、余計な事を言うと突然バージョンアップで修正されて頭割りになるかもしれないぞ」
そう脅すと、香籐は血相を変えて押し黙った。
「……それでだ」
システムメニューを呼び出し、【所持アイテム】内のリストから足場岩を選択し海龍の首に狙いをつけて【射出】。【所持アイテム】内のリストから足場岩を選択し海龍の首に狙いをつけて【射出】。【所持アイテム】内のリストから足場岩を選択し海龍の首に狙いをつけて【射出】。【所持アイテム】内のリストから足場岩を選択し海龍の首に狙いをつけて【射出】」
システムメニュを解除すると打ち出された足場岩が5体の海龍の首をほぼ同時に吹っ飛ばした。
俺のレベルは勿論、紫村と香籐のレベルも上がらなかったが、大島と早乙女さんはレベル68と67に、残りはレベルが80以上になりレベルアップに必要な経験値が大幅に増えたので1-2だけしか上昇しなかった。
大島と早乙女さんも70を越えるかと思ったのだが、予想より経験値は延びなかった。やはり海龍は水龍が大型化しただけの同種に過ぎないというわけなのだろう。
ちなみにレベルアップによって、大島君、早乙女先輩と呼び合う2人が様子が気持悪かったのは否定出来なかった。
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今回はハイクラーケン編のラストと大島復活の大きなイベントが2つも同時にやってきたため、書いても書いても終わらないという地獄で結局二ヶ月。
ハイクラーケンも後乗せでどんどん強くして、更に大島は予定に無いレベルアップというアイデアを盛り込み自分を追い込む始末。
「今日の俺にはハイクラーケンを倒す方法を思いつくのは無理だが、明日の俺なら必ず倒す方法が思いつけるはずだ。頑張れ俺! 俺は明日の俺を信じてる。だからハイクラーケンをもっと強くするお! ついでに大島もレベルアップさせるお!」
……タイムマシーンで過去に戻って、過去の自分を殺すべきだと思った。
ハイクラーケン編を書くにあたって雷を一生懸命勉強したので、先日ある番組の中で、雷は周囲の温度を3万度まで加熱するというアナウンスと同時に、実際の雷の画像に広範囲に3万度まで上昇する範囲を示していて笑った。
3万度近くまで加熱されるのは雷が通った場所の空気で、それが急激に膨張する際の衝撃波が生み出すのが雷鳴であり、番組で示されたような広範囲が3万度に熱せられるなら、世界はとっくに滅んでる。
雷の放電持続時間は0.1秒程度であるが、その大半の時間は雷が落ちる先を探すための先駆放電なため、先駆放電の一筋がルートを確保してからの雷が落ちるまでの時間は0.01秒程度で熱量自体は1番危険な放射熱でも1mも離れれば人体の生命に関わるほどの危険は無い。
また、説明が長すぎて作中では省いた衝撃波は、避雷針を通過している部分では発生しない(空気に比べると鉄筋は電気伝導率がいいので発熱は小さい)ので、主人公兄は主人公なら驚く程度で済むだろうと軽く考えている。
ちなみにハバネロはマジでヤバイです。
自分が知る限り最もコストパフォーマンスに優れた辛い調味料である100円ショップのキャンドゥで売ってる 【LOUISIANA THE PERFECT Habanero HOT SAUCE】というハバネロで作ったタバスコソースの様な奴なんだけど、手を滑らせて落とした衝撃で容器のガラスが割れて絨毯の上に撒いてしまって、自分の脚にも掛かったんだけど無視して、ガラスの破片を拾って絨毯の汚れを拭いてとやってる内に、1分ほどでピリピリ程度が突然激痛に変わり風呂場に駆け込んで洗い流したら、ソースが掛かっていた場所が真っ赤になって軽い火傷状態になっていた。まさに食品でありながら劇物だよ。
また大島が使ったのは【S&B ハバネロペッパー】を想定。文字通りハバネロの粉末で、12gで定価165円(税抜き)とコストパフォーマンスが良い。