結局、大島と早乙女さんを異世界に放し飼い状態というとても迷惑な状態のまま、俺達は帰ってきた。
数年単位で食うに困らない程度の金は渡して来たので犯罪行為に走るとは思わないが、何らかのトラブルは起こすだろうな、きっと……
起きるとすぐに、紫村と香籐、それから櫛木田と田村と伴尾と床の上に転がしてゆく。
「……おはよう高城君」
「おう、おはよう。今日はこれで帰るから、後はよろしくな」
「ああ、妹さんが帰ってくるんだったね」
「そんなんだ」
「ちょっと待て、という事はイスカリーヤさんも一緒に?」
「それをお前が知ってどうするというんだ?」
「勿論、お前の家にお邪魔する!」
櫛木田の顔面にアイアンクローをかける。軍用ヘルメットでさえ紙風船と大して違いが無い俺の握力に櫛木田の頭蓋骨が悲鳴を上げる。
「妹さんも可愛いのか? 可愛いんだろう? なあ? 可愛いと言えよ?」
「いいか田村。家の妹が可愛いくても可愛くなくてもお前の人生に全く関わりが無いんだ。夜空に輝く遠い星が、既に消えているのかまだ存在するのか以上に、お前にとっては意味が無い話だ。死にたくなかったら2度とその話題を口にするな」
「お……おう」
俺の脅しに口ごもる田村に、ついでに何かを言いかけて止めた伴尾。
「でも主将のご家族なら興味がありますね」
「じゃあ、お前は家に来い」
「本当ですか! やったー!」
「差別だ!」
アイアンクローを受けながら櫛木田が叫ぶ。
良いんだよ。香籐は家に来てマルやユキと遊びたいだけだから。それに何かのきっかけになるかもしれないから……
香籐と一緒に紫村邸を出て家に向かう。相変わらず護衛兼見張りがついている。
ここで大島が戻ってきたとなったらどうなるんだろう? そういえば大島の手下達はどうしよう? 予定では大島や早乙女さんと一緒に平行世界から此方に戻ってきたという風に偽装するつもりだったのだが……まあ良いか。
家に戻ると、父さん、母さん、兄貴。そしてマルとユキを居間の床へ取り出して寝かせる。
『おはようタカシ! お母さんは……まだ寝てるね。あれカトーが居るよ。どうして?』
マルは香籐の匂いを嗅いで確認しているが、香籐に撫でられてすぐに尻尾を振ってじゃれ付いてる。
「……ああ家か。おはよう隆。それじゃあ、シャワーを浴びてから涼達を迎えに行く準備でもするかぁ~」
欠伸を漏らしながら風呂場の方へと消えて行った。
母さんと兄貴はまだ起きない様なので『散歩に行って来る』と書置きを残すとマルにリードをつけてカトーに渡し、目を覚ましたユキを抱くと家を出た。
『タカシ! タカシ! マルの背中にユキちゃん乗せて!』
『危ないから駄目』
『走らないから。マル静かに歩くから』
『本当に?』
『本当! マル嘘吐かないから』
『主将。マルちゃんの上にユキちゃんの二段重ね。最高じゃないですか!』
『カトー、オメガ高い』
この手の話題に関して香籐はポンコツ野郎で、マルとは愛称ばっちりだ。
ただ景色を楽しみながら歩くだけの散歩を済ませて家に戻る……いや、散歩とは本来そういうものだな。
香籐にシャワーを譲って、マルとユキに餌を上げて、床に胡坐をかいて食べる様子を眺めていると兄貴がやってきて俺の隣に座り込む。
「なあ、涼とどんなことを話せば良いと思う?」
「そんな事が俺に分かるなら、とっくに俺達兄弟は3人仲良くやってるか、俺と涼で兄貴をハブってるかのどっちだろ」
「そうだな……って酷すぎるだろ! 普通に兄弟3人仲良くってことにしとけよ!」
「きっと俺だけお兄ちゃんと呼ばれて、兄貴は、オイとか呼び捨てだな」
「それなら、今日俺が涼と和解して、お前をハブる!」
「その意気だ。頑張ってくれ……精々な」
「隆も少しは頑張れよ!」
「何となく……無駄な足掻き?」
「何でもう諦めてるんだ?」
「失礼な俺は諦めてないぞ。奇跡は起きます。兄貴が起こしてみせます! ってな」
「……完全に他力本願かよ」
「そういえば、イーシャが言ってたよ。俺達は理屈っぽすぎるって。もう少し単純なら涼と仲良くやれるって」
「単純に……ってどういうことだ?」
「さあ、だけどそれを考えてしまうのが悪いんじゃないのか?」
「俺に考えるなというのか?」
考えない兄貴というか、考え過ぎない兄貴は余り想像出来ない。似たような性分である俺が言うのもなんだが、敢て言わせて貰えば面倒な奴である。
香籐に続いてシャワーを浴びて居間に戻ると、玄関の方から車のエンジン音が聞こえてくる。
「帰ってきたみたいだな」
『お父さん帰ってきたの?』
『涼も一緒にな』
俺の答えにマルの身体に緊張が走る。
『スズ来るの?』
『もう来てるんだよ』
更なる答えに、マルは立ち上がりオロオロと落ち着きをなくする。
「主将。もしかして……」
「マルが妹を苦手としているのは確かだ。だけど別にマルをいじめているという訳じゃないんだ。手加減を知らないと、生まれつき粗暴というか……」
「もう良いんです。分かりました、もう良いんです」
香籐は察してくれた。
「おかえり」
居間に入ってきた父さんに俺が声を掛けると「ああ」と小さく応えるだけで、顔には不機嫌と大きく書いてあった……はて? 俺達兄弟の苦言を無視して甘やかしてきた娘と、可愛がっていた姪を連れて帰って来たとは思えない態度だ。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「おはようございます」
「いらっしゃい。リーアちゃん」
「お邪魔します」
「あら?」
……3人目誰? 男の声だよな……これが父さんの不機嫌の原因か?
「リューちゃん、ダイちゃん おはよう!」
「おはよう……久しぶりだな」
前回兄貴は俺を見捨てて逃げて帰ってこなかったからな。
「おはようイーシャ。涼」
入り口で挨拶もしないで、此方を睨んでくる妹に一応挨拶をしておく。どうせ注意しても噛み付いてくるだけだろうから。
「どうも初めまして。香籐って言いますよろしく」
ミスター爽やか君の香籐が、爽やかに挨拶をする……さあ妹よ、何かリアクションを返すのだ。
「……そいつ誰だ?」
いきなり、そいつ呼ばわりかよ!
「友北中の2年生で空手部でお兄さんの後輩で、何時も大変お世話になっています」
香籐はそいつ呼ばわりも爽やかにスルー。マルやユキと戯れて、幸福度がMAXな香籐はまだまだ心に余裕があるようだ。
「あっそう。興味が無い」
そう吐き捨てるとダイニングへと姿を消す。
思わず唖然とするほどの無礼さ。本当にこいつは、その手の礼儀がうるさい体育会系バリバリの柔道部の寮生活でやっていけてるのだろうか?
「……すまないな香籐」
「妹が申し訳ない」
「いいえ、気にしないで下さい」
謝る俺と兄貴に、香籐は笑顔で許してくれる。
だけど香籐。お前が許してくれたことで、お前への無礼は気にしなくて良くても、涼の将来を気にしなくては駄目なんだよ。
「リューちゃんの後輩? 私はイスカリーヤ。よろしくね」
「どうも香籐です。貴女の事はは何度か聞いた事があります。そうだ準優勝おめでとうございます」
「イーシャ。おめでとう」
「おめでとう」
入り口に立つ3人目が気になりながらも無視して、俺と兄貴はイーシャの準優勝を讃える。
「うん、ありがとう……決勝戦で、ちょっと納得のいく試合が出来なかったんだけど、今はちょっと嬉しく──」
「あの……」
「今大事な所なんだから空気読んで黙ってろ!」と兄貴。「他人の家で勝手に呼吸してるんじゃねぇぞボケ!」と俺が見知らぬ男を怒鳴りつける。
そんな俺達の失礼さに香籐は「やっぱり兄弟妹なんだなぁ~」と溜息混じりに漏らしていた。
「それでお前は何者だ?」
普通に考えるなら涼の彼氏と考えるのが普通だろう。そうでもなければ唯の知り合いの女の子の家に態々新幹線に乗ってやってくる男がこの世に居るはずも無い。
だが、涼に彼氏が? ……はっきり言って信じられない。粗忽、粗暴、そして粗末な胸と三拍子揃った涼に彼氏だと? そんな馬鹿げた事、異世界以上に現実味が無い。
「俺は国中 忠司(くになか ただし)。蓬栄中の柔道部で主将をしている」
「蓬栄って、そもそも学校も違う無いか! まさか涼をだましてるんじゃないだろうな? あいつに彼氏なんて出来るはずが無いんだから!」
そうだ。そう考えれば全ての矛盾が解きほぐされていく。流石兄貴、実に明快な答えだ。そして流石兄貴、やっぱり馬鹿だ。
「随分と面白い事を言ってるじゃないか……大」
戻って来た涼が兄貴の後ろから声を掛ける。
「げぇっ! す、涼」
孔明ではなく実の妹に「げぇっ!」は……良く分かります。
「てめぇは後で覚悟しておけよ……こいつは隆、お前と勝負がしたくてやって来た馬鹿だ」
「高城! 先輩に向かって馬鹿とは──」
学校も違うのに先輩とか……柔道の先輩という事か? 俺には分からない感覚だな。
「素人相手に柔道の勝負を仕掛けに来たとか馬鹿としか呼び様が無い」
「……うっ!」
「しかも、それがリーアが隆の事を誉めたのが気に入らないから、態々新幹線でやって来たとか……どうなんだ馬鹿先輩?」
「馬鹿で申し訳ありませんでした」
涼の容赦の無い言葉攻めに、新幹線でやって来た馬鹿は全面降伏をする。
『あの追い込み方主将そっくりですね』
『おいっ!』
『香籐君、真実だけに止めてあげて』
『おいっ!』
「ともかく柔道の勝負と言われても、俺は柔道なんてやったこと無いから柔道着も持ってないしルールも知らないぞ」
「柔道着なら父さんのを貸そう」
父さんの柔道着?
「……どうした」
「汚くない?」
それが一番大事だった。
「失礼な! ちゃんと洗ってある」
「漂白と殺菌した? 加齢臭が残ってたら嫌だよ」
「お前は思春期の娘か? オカマちゃんか?」
「加齢臭が嫌いかどうかに、性別性癖は関係ないから」
むしろ、オヤジの加齢臭を好むとしたら、その専門分野を得意とするオカマしか想像出来ない。
「父さんは加齢臭なんてしません!」
おいオッサン。開き直って嘘つくのは止めろよ。
「そりゃあ、自分の加齢臭だから分からないだけでしょう」
冷徹に事実を突きつける俺の言葉に兄貴が深く頷く。
「ま、大?」
兄貴にまで加齢臭が臭い事を肯定されて動揺を隠し切れない父さんは、怯えるようにゆっくりと涼を振り返り、娘が頷く姿に絶望してその場に座り込んでしまった。
「大丈夫ですよ英さん。臭くなんて無いですよ」
「史緒さん~」
優しく慰める母さんに、泣きながらすがりつく。
「ちゃんと洗濯物はセスキ炭酸ソーダを溶いたお湯で漬け置きしてから洗ってますから、洗濯物は臭くないですよ」
(加齢臭の原因菌を60度以上のお湯で殺菌し、原因物質である酸化した脂肪をアルカリ性のセスキ炭酸ソーダで鹸化、つまり液状の石鹸へと変化させて洗い流す)
「史緒さん~っ!」
母さんから遠回しに加齢臭が臭いと指摘され、本当に泣きが入ってしまった。
「……まあ、それで結局どうしたいんだ?」
馬鹿が新幹線でやって来たこと国中に尋ねる。
「俺と試合え!」
「涼。こいつ真剣に馬鹿だぞ。一般家庭に押しかけて、さあ柔道だ試合え試合えって、一体何処で試合をする気なんだ?」
「馬鹿の考えなんて知るものか!」
「お前も考え無しにこんなの連れてくるなよ」
「悪かったな。勝手について来たんだよ! 何で父さんもこんなの車に乗せたんだよ!」
「乗せたも何も当然という顔で乗り込んでこられたら何も言えないだろ……」
もしこいつが涼の彼氏で、そんな態度をとって愛娘に嫌われたらと思ったら何もいえなかったんだね……そんなのだからスポイルして涼をこんな風にしてしまうんだ。
「家族の揉め事は後にして、学校の格技室の隅でも借りれば良いだろう」
「お前が馬鹿なせいで揉めてるんだよ。大体、何が借りれば良いだろうだ? 勝手な事ぬかしてるんじゃねえぞ」
馬鹿も度が過ぎると面白くない。むしろイラっとする。
「休みなんだから、空手部にだって格技室の割り当て時間があるだろう。その時間で俺は構わない」
俺は構わない? 誰がお前の都合など心配してると思うんだ?
もう決めた。こいつの望みどおり試合をしてやる。そして最高のピエロに仕立ててやろう。更にそれを撮影して顔出しで動画サイトに投稿してやる。
「空手部は、今顧問がいないので無期限活動停止で、主将の担任の先生のご好意で、ご実家の剣道の道場を借りて活動しているので、部外者を招き入れるのは問題があります。それに空手部としても迷惑です。さっさと新幹線で帰るのが良いでしょう」
そう言って割って入った香籐のこめかみで血管をピクッピクッと動いている。馬鹿の態度が腹に据えかねたのだろう。
「部外者は口を挟むな!」
「何を言ってるんですか? 部外者も何も空手部の部員ですが?」
「うるさい!」
馬鹿が手を出そうとした瞬間、香籐は小さく右膝を抜くと次の瞬間、膝を伸ばして床を蹴り、その力を左足で止める事で上半身に右回りの運動を生み出すと、即座に左膝を内側に抜き、更に上半身に右前に倒れる力を生み出すと、肩から先を鋭く振りぬいて馬鹿の顎先を打ち抜いた。
崩れ落ちる馬鹿の後ろ襟を掴んで止めて「主将。この馬鹿は川原に捨ててきます」と振り返りながら笑顔で言った。
「香籐。捨てて来なくて良いぞ。これから北條先生に連絡して、こいつを道場に連れて行く許可を貰うから」
「主将!」
「まあ落ち着け。こいつの望み通りに試合をしてやるさ。結果はこいつの望み通りには絶対にしないけどな」
「……なるほど。具体的にはどんな感じにするんでしょう?」
「散々弄くって恥をかかせて、その様子を動画サイトに顔出しで投稿するに決まっている」
「流石主将」
はっはっはっ誉めるなよ。
北條先生に連絡を取り許可を得てから、次に紫村に撮影する準備を頼んでから俺達は道場へと向かった。
「あれ? 高城は今日は午後からだったんじゃないのか?」
門の前で、伴尾と出会った。
「妹と従妹がこっちに顔を出す事になったんだ」
「可愛いと評判の従妹さんが来るんですか?」
「妹さんの方も可愛いですか?」
周りに居た2年生達が一気に盛り上がる。
「残念な事に俺の妹が可愛かった事など一度も無い」
俺の答えに一瞬で盛り下がった。
道場で空手道着に着替えて、門の前に戻りまつ事5分で父さんが運転する車がやってきた。
後部座席のドアからは涼とイーシャ。そして助手席のドアからは馬鹿が降りて来た。
「ったく、もったいぶらずに此処でやれば良いだろうに」
香籐に殴られた顎に手をやりながら勝手な事をほざいている。
「お前は今日は空手部の練習に参加すると言う名目で特別に許可を貰った。すぐにランニングに出るから道場で着替えて来い」
「ランニング?」
「そうだ。唯の準備運動だ。文句は無かろう?」
「良いだろう」
……20分後、いや着替えなどの時間もあったので、実際に走った時間では10分足らずで国中は路上に倒れ伏した。
走った距離は3㎞程だというのに体力が無さ過ぎる。
「体力無いですねこの人」
「中一の女子でもちゃんとついて来てるのに」
「なさけねぇ」
1年生達が、倒れた道端の草でつっついたり、鼻の穴に突っ込んだりして遊んでいる。
「ぺ、ペースが速すぎる……陸上部の長距離走じゃあるまいし……こんなペースで走れるわけが無い」
「我が空手部に長距離で陸上部に負けるような軟弱者は居ない!」
「だよな、鍋川の奴、俺達の1500mのタイム見て涙目立ったもんな」
1年生達がそう言って笑ってる。
鍋川は体育教師で陸上部の顧問だ。そりゃあ手塩にかけて育てた3年生の長距離代表選手と変わらないタイムを、2ヶ月前までは小学生だった空手部の1年生が出したら泣くだろ。
強いて言うなら、システムメニューを身につける前の俺が、陸上部の1年生に空手で負けるようなものだ。もしそんな事になったら責任を取って腹を斬るだろう……大島が。
「そ、そんなの空手部じゃねぇ……」
そう良い残して国中は意識を失った。アスリートの癖に筋肉の上に贅肉をたっぷりトッピングした柔道の重量級ならそんなものだろう。
「じゃあ、こいつの面倒は任せた」
俺達のペースについて来るのはやはり厳しかったのだろう。額に汗を浮かべて息を乱した涼とイーシャに告げる。
「こんなの連れて戻れないよぅ~」
「連れてかいらなくて良いよ。ただ、こんなのが道端に転がってたら警察を呼ばれるから、こいつが目を覚ますまで傍で介抱している振りをしていてくれ」
「こんなのの横で立ってられるか冗談じゃない!」
君達2人とも「こんなの」扱いか、何でこんなのを連れて来たのか、何でもっとはっきりとお断り出来なかったのか本気で教えて欲しいよ。
「じゃあ、俺達はまだ半分以上ランニングが残ってるから。行くぞ!」
「イスカリーヤさん、また後で!」
「ランニングなんてさっさと終わらせて帰ります!」
「待っててくださいね!」
こいつら分かりやすく張り切ってやがる。
結局、1年生や2年生達が張り切ったお陰で、ランニングコースを2kmほど伸ばしたにも拘らず、時間は何時もより短縮されてしまった。
連中はドヤ顔だが、明日以降は今日の結果が考慮される事は思いもしていないのだろう。
大島も復活したことだし、最終的にはこっちの世界に戻って来るだろうから、それまでにこいつらを鍛え上げておかなければならない。
戻って来た大島に「何だ後輩の指導も満足に出来ないのか? 俺がやってた事をそのまま真似すれば良いのに、真似すらも出来ないって無能だなぁ~」と言われたらと想像するだけではらわたが煮えくり返る。
ともかく、後輩達、そして櫛木田、田村、伴尾の3人は我先にと道場に駆け込んだが、涼もイーシャも、そしてどうでもいいが国中も姿が無かった。
「あの野郎。まだのびてるのか?」
「先輩、あいつ使えませんよ。何で練習に参加させてるんですか?」
「主将が連れて来たみたいなんだけど……」
1年生の栗原と2年生の岡本が俺の方を見る。
「何か知らんけど、いきなり家に押しかけて来て、さあ試合え、試合えと言ってな」
「はぁ主将と? 頭大丈夫なんですかあいつ?」
「大体、あいつが着てたのは柔道着ですよね? 柔道で主将に挑む気なんですか?」
柔道をやっている人間は空手を下に見る傾向があるが、同様に空手をやっている人間は柔道を下に見る傾向がある。勿論俺もその思い込みからは完全に自由という訳ではなく、ある程度囚われているのは間違いない。自分が打ち込んできたものが1番であって欲しいに決まってる。
「というか俺にも柔道でやれと」
「主将って柔道の経験あるんですか?」
「全く無い」
「…………それで、相手の柔道の腕前はどうなんですか?」
「一応、中学柔道では日本でもトップクラスらしい……良く知らないけど」
「はぁ! それで素人相手に柔道で試合しろと言ってるんですか?」
「ふざけた奴ですね……ちょっとヤキ入れてきます」
立ち上がりかけた森口の肩を掴んで押しとどめる。
「俺が例え柔道であっても奴に負けると思うか?」
「幾らなんでも……柔道のルールさえも知らないんですよね?」
「知らない。だが知らないから面白いアクシデントが生まれる。そもそも奴は俺が柔道の素人と知って試合をしろと言っているんだ。どんな面白アクシデントが起きても奴自信の責任だとは思わないか?」
「撮影は?」
分かってるな森口。
「勿論、紫村に頼んである」
「僕も手伝います!」
「頼むぞ。撮ったのは動画サイトに投稿するからな」
「それならばっちり気合を入れて撮影します!」
悪そうな笑顔でテンションを上げる森口に対して、空手部の水にまだ馴染んでいない、いや大島の毒に犯されていない1年生達は軽く退いている。
「それで? 無様にも練習前のランニングにすらついて来れずに失神した国中君は、まだ俺と試合をしたいというのかな?」
1時間後、ようやく戻って来た国中は「さあ勝負だ。試合え、試合え」と懲りもせず喚きだしたので、たっぷり挑発しながら尋ねる。
ちなみに既にカメラ4台で撮影中だ。
「試合をして俺がお前より強い事が証明したいだけだ」
他人を指差してお前呼ばわりなんて、その指をへし折られても文句を言えない国も多いというのに、こんなのを国際試合に出して大丈夫なのか?
「経験者が未経験者相手に試合をしろと強要か……俺なら恥ずかしくてとても言えないような事を平気で口にするとは、お前恐ろしい奴だな」
「お、長家は、お前は柔道でも俺より強いと言っていた」
俺がイーシャを振り返って睨むと悪びれる様子も無く笑顔で「ゴメンネ!」と言った……その様子を森口のカメラが撮影しているようだが、それは使えないからな。
俺は涼に近づくと「何でイーシャが俺が強いというと、あそこまでむきになるんだ?」と耳打ちする。
すると涼は、こいつは馬鹿か? と見下すような目で俺を見ると「奴がリーヤの事を好きだからに決まっているだろう」と声をひそめて答えた。
「す、すると奴は俺との勝負にかこつけて、ここまでイーシャとデート気分でやって来たというのか?」
「それは……否定出来ない」
なんて高度な手段を使うんだ? モテないならモテないなり僅かな可能性を残すことなく泥臭く拾い上げていく。俺にはそんな発想は無理だろう、恋愛というのはもっと綺麗なものだという妄想を捨て切れない……ともかく恐ろしい奴だという事は分かった。
東京にはあんな奴がたくさんいるのかよ。さすが日本の首都だな。正直、所沢が日本の首都だと言われても騙されるレベルのS県の田舎者にとっては格というより次元が違う。
「先ほども言ったが、俺は柔道の技は幾つか知っていてもルールは知らないぞ」
「構わない! お前に何もさせるつもりは無い」
おお格好良い! 格好良ければ良いほどピエロとなった時の惨めさが引き立つのだから、もっと吹かして貰いたい。
嫌々ながら父さんの柔道着に着替えた俺は、道場の真ん中で国中と向かい合う。
「始め!」
涼の掛け声と共に国中は組手争いの距離まで詰めてきたので、俺は組手争いを無視して掌底で鼻頭を打つと、怯んだ一瞬の隙を突いてコブラツイストを決めた。
「そんな柔道あるかっ!」
涼の怒声が道場中に響き渡った。
「だからルール知らないって言ったのに、こいつが自信満々に何もさせるつもりはないとか言って聞く耳持たなかったのが悪いんだろう」
「……まあ、そうだな。この馬鹿の自業自得だな」
一部の隙も無い正論に、いくら涼でも俺を責める事は出来なかった。
「こ、今度は殴るなよ! 殴るのは反則だからな!」
鼻血は止まったがまだ鼻が赤く腫れている国中が叫ぶが「はいはい、殴らなければ良いだろ」と投げ遣りに答えた。
「始め!」
掛け声と同時に、先ほど同様に距離を詰めてきた国中の鼻頭に向けて掌底を放つ。
「ひぃっ!」
怯えた声を上げ、完全に腰が引けた状態で頭を抱える国中の鼻の一寸手前で掌底を止めると、余裕でコブラツイストをかけて、グイグイと締め上げやった。
「止め! 隆、わざとやってるだろ? 柔道のルールを分かった上でわざとやってるだろう? そして何故コブラツイストなんだ?」
「父さんに最初に教わったプロレス技がコブラツイストだったからだ。ちなみに涼の練習台としてかけられる方だったがな……苦しかった。幾らギブアップと言っても、力を緩めるどころか笑い声を上げながらグイグイ締め上げてくる妹が怖かった。確かその後、俺は失神したよな?」
「…………まあ、コブラツイストはもう止めろ」
気まずそうに涼は視線をそらした……むしろ気まずいという感情を持っていた事にお兄ちゃん吃驚だよ。
「な、殴る振りも駄目だからな」
俺を責めるというよりも怯えた目をしている。鼻骨を折られた訳でもないのに、ただ鼻っ面に掌底貰った程度でビビってしまうなんて信じられない。
「なあ、もうやめた方が良いんじゃないか?」
試合じゃなく柔道を。格闘技に向いてない気がするよ。
「うるさい! ちゃんと柔道で戦えば俺の方が強いんだ。卑怯な手を使うお前が悪いんじゃないか!」
よし、今のシーンと「構わない! お前に何もさせるつもりは無い」のシーンを交互に3回ほど流せば効果的だな。
「始め!」
少し投げ遣りな掛け声で試合は始まる。
今度の国中は慎重に距離を取りながら、俺の周りを右へとゆっくりと回る。消極的だな、ここで俺から先に仕掛けると面白みが無くなる。あくまでも柔道をやろうとする国中に対して俺がギャグで返すというスタイルを変えるのは得策じゃない。
わざと隙を見せてやると、国中は踏み込みながら俺の右肘へと右手を伸ばして袖を掴み引き寄せようとした。
これが立ち関節で相手の間接を痛めつける大島が好きな技だと分かった俺は、右肘が伸ばされない様に逆に身体に引き付けると同時に左手で右の袖を捲くって国中の右手の上に被せてから、袖口を絞り上げて手を引き抜けないように固定すると、身体ごと左へと回転して半ば手首と肘をと肩を極めた状態で国中を引き回し、1回転したところで足を引っ掛けて転倒させる。
そして俺は人差し指を立てた右拳を高々と突き上げて「イッチバーン!」と叫んだ。
「だから柔道をやれと言ってるだろ! 柔道を!」
また涼が怒鳴る。」
「一体何が柔道じゃないんだ?」
妹よ、お兄ちゃん今の何が悪いのか本気で分からないよ。
「袖で覆って相手の手を動けなくするな!」
「そんなのも駄目なのか? 柔道にだって確か相手や自分の柔道着を使って締め上げたりする技は有っただろう」
「駄目なものは駄目だ! 柔道舐めるなよ! ……それから国中! 手前ぇ脇固めで隆の肘を壊そうとしただろう」
「な、何を証拠にそんな事を……確かに多少痛い思いをして貰おうとは思ったけど、壊すとかそんな真似を俺がするとでも?」
国中はすっとぼける。あの瞬間の奴の目は明らかにやらかす人間の目だったよ。
「はっきり言って、何を根拠にそんな風に自信満々に『俺がするとでも?』なんて言えるのか全く理解出来ない。そういうのは普段から相手との信頼関係をしっかり築いてから言え、それとも何か? お前は私との間に信頼関係を気付けてるとでも勘違いしているのか? 笑わせるな、そういう所が信頼に値しないんだ。寝言は寝て言え」
容赦の無い啖呵に、場が静まり返る。
アレは確実に相手の憎しみを生み出す。相手を確実に始末するくらいの覚悟が無ければ使うべきではない。
少しでも場の空気を和ませるために、俺は明るい口調で「うわぁ~凄い啖呵聞いちゃった」と言った。
「高城君は普段からあんな感じだよ。兄妹だね良く似ているよ」
流石紫村だ。上手く話の流れを関係の無い方向へと流してくれた。
「えっマジ!?」
態と大袈裟に尋ねる。
「残念な事に……」
目を合わさず頷く紫村。他の部員を振り返るも全員顔を背けた……えっ、本当にマジなの?
「それでどうすれば良いんだ? そろそろ俺も飽きてきたし、練習を再開したいんだけどな」
……というか傷心。俺だって傷つく事はある。
そこで涼が妥協案を示した。
「仕方が無いから、両者相手の襟を取った状態から開始だ……国中。これはお前にくれてやったアドバンテージだ。これ以上柔道をやる者として恥を晒すなよ」
どういう理由かは分からないが勝手に俺はハンデを負わされてしまったようだ……そうそう、よく「ハンデを貰う」とか「ハンデをあげる」という使われ方をしているが、ハンデキャップは負ってる方が不利なんだから、貰って喜んだり上から目線で相手に押し付けるものじゃないだろうと思うので、「ハンデ頂戴」とか言うのを聞くと笑いがこみ上げる。
「そんなものいるか! 俺は実力で勝つ!」
こいつはこいつで実力差を理解出来てない。俺がやった事が反則かどうかは関係なく、俺はこいつのアクションに対応出来ているが、こいつは自分が俺のリアクションに何一つ対応出来ていないと気付かないのが怖い。
野生本能の欠片も感じられないハムスターを、もし野に放ったらどうなるんだろうと想像するのと同じくらい怖い。
「この馬鹿がっ! 隆分かってるな……始め!」
涼よ。分かってるななんて言われても、お兄ちゃんもお前とそんな以心伝心な関係は築いてなんて居ないぞ……という事を前提にして、お兄ちゃん何の事か分からないや~(笑)
胸元で両腕を内側に捻った状態で構えて、襟を取りに来る国中の人差し指と中指の間に自分の人差し指を挿し入れ、中指と薬指の間に中指を挿し入れる。
そして内側に捻っていた腕を逆に外側へと捻り戻しながら、自分の人差し指と中指の間の付け根に挟んだ国中の中指を中心に、人差し指と中指の先でロックした国中の人差し指を、奴の中指に巻きつけるようにしながら外側へと回転すると両手指四字固めの形だけは完成するのだが、奴の方が上背があるのでこのままだと腕を上から前へと突き出すようにされると技の効きが悪くなるので、両手指四字固めを極めた状態で肩から先の腕全体を外回りに回転させ下へと移動させることで互いの両の掌を上向きにする事で両手指四字固めは真の完成をみる。
「何を? ……お、おい、止めろ……痛、痛い、痛ったったったった!」
今にもポッキリと折れてしまいそうな中指の痛みに悲鳴を上げる。
「ギブ?」
「痛い! 痛い! ぎ、ギブ、ギブ、ギブッ!」
涙目の国中の指を開放してやると、今度は人差し指と小指を立てた右の拳を突き上げて「ウィーーーッ!」と叫んだ。
「もう止めた! 私は知らん! お前等みたいな馬鹿と付き合ってられない!」
全く柔道をしようとしない俺に、涼がついに切れた。そしてダンダンと床を踏み鳴らしながら道場の出口に向かって歩いて行く。
まあ無理も無いが俺にはこいつを道化にするという大事な仕事があるんだよ。
「リューちゃんが苛めるから、リョーちゃん怒っちゃったじゃない。い~けないんだ、いけないんだ!」
可愛く身体を左右に揺らしながら歌われると、何故だか懐かしさと共に罪悪感が沸いてくる。
「イーシャ? そんな小学生みたいな──」
しまった。こいつは2ヶ月前まで小学生だよ。
「い~けないんだ、いけないんだ!」
小学生から最も遠い3年共が唱和し始めた。だが、そんな野太い声で歌われても罪悪感どころか嫌悪感しか沸いて来ない。
「待て涼。次で決着をつけるぞ」
このまま涼を不機嫌にして帰してしまったら、兄貴に馬鹿にされてしまう。
きっと『何が涼と向かい合ういい機会だって? お前って想像以上の馬鹿だな』などとネチネチと責められるのだ……だって俺ならそうするから!
「次だと? てめぇ、やっぱり遊んでたんじゃないか!」
はい、しっかり遊んでました。しっかり撮影もして貰ってます。
「もう遊ばないから機嫌直して……な?」
「うるさい! もう知るか!」
そう言って道場を出て行ってしまっ──
「きゃっ!」
飛び出した直後誰かにぶつかって、小柄な涼は反動で転がり戻って来た……さすがに受身は万全で頭を打つような事は無かった。
「大丈夫?」
この声は北條先生。
「大丈夫です。ごめんなさい」
……俺はてっきり「何処見てんじゃボケ!」と漫画のチンピラのように絡むのかと思ったが意外に普通だよ、我が妹は。
「先生こそ怪我はありませんが? 愚妹がご迷惑をかけて申し訳ありません」
俺は素早く駆け寄って謝罪する。
「怪我はありませんよ」
そう言って、尻餅を突いている涼に手を差し伸べる。
「あ、ありがとうございます」
北條先生の手を借りて立ち上がった涼は、頬を赤くして照れた様子で頭を深々と下げる……何だ、この可愛い生き物は? こんなのは決して涼ではない。
「可愛い妹さんね」
……涼が可愛いかどうかには色々と意見があるが、俺は大人の対応で「はい」と答えるしかなかった。
「涼です。よろしくお願いします……あ、兄が何時もお世話になっています」
ANI? 今、涼の口から出たANIとは何だ? 俺へのどういう罵倒を意味する言葉なんだ? ……このパターンはもうやったわ!
兄と言ったのか……やはり兄なのか? 涼が俺の事を兄と呼んだのか? 一体何年ぶりだろう10年とまでは言わないが8年振りくらいだろう。
何だろうこの胸の中にこみ上げて来る温かい感情は?
「いいえ、私の方こそお兄さんには色々とお世話になってます。とても頼りになるお兄さんですね」
「…………はい」
涼は顔を強張らせながら答えた。嫌だったんだね、お兄ちゃんも結構微妙だったけど我慢したよ。
「私は、お兄さんのクラスの担任で北條 弥生です。そうそう柔道の国際大会で優勝したんですってね。おめでとうございます」
「……あ、ありがとうございます」
涼が素直だ。まるで借りてきた猫を被ったとも言うべき態度。何故それが普段から出来ない! 悔しいから兄貴に【伝心】で今の一連の流れを動画イメージで送りつけてやった。
すると混乱した兄貴から『もしかして、高城家に代々伝わる掟によって別々に育てられた涼の双子の片割れ?』とか言い出したので『アホ』とだけ伝えて兄貴との接続を切断した。
「隆……弥生さんってどんな人なんだ」
道場の中に入って部員達に声を掛けている北條先生の姿を目で追いながら涼が尋ねてくる。
「俺の担任の北條 弥生先生は、この家の主の娘さんだ。ちなみに担当教科は数学、とても切れのある良い授業をする」
「美人で優しくて、教師としても優れていて……羨ましい」
「ちなみに剣道4段の腕前だ」
「隆には勿体無いな」
自慢したら睨まれた。
「俺の学校の教師は北條先生以外はほとんど糞だけどな」
「お前にはお似合いだ」
なんと口と性格の悪い。流石兄貴の妹だぜ!
「良いな弥生先生……憧れる」
「このにわかが北條先生を弥生先生などと呼ぶなど100年早いわ」
「ふっ、お前の100年などこの涼様にとっては──」
そう言って涼は気取ったしぐさで右腕を斜め前に突き出すと指をパチンと鳴らし「この程度に過ぎない」と嘯(うそぶ)いた。
「弾指の間……そんな言葉を知っているなんて、お前何者だ? 涼を、俺の妹をどうしたんだ!」
勉強は嫌いで、そもそもお頭の出来がいまいちな涼が、そんな気取った言い回しが出来るはずが無い。
「お前の中で私はどんだけなんだよ!」
「一言で言えば、残念!」
「よし、その喧嘩買った! 隆、さっさと国中と決着をつけたら私と勝負しろ」
「え~~っ、涼ちゃん小さいからお兄ちゃんと試合するのは無理だと思うよ」
涼は中学1年生としても小柄で身長は140cmは無いだろうという手のひらサイズの中学生……勿論冗談だ半分は……
柔道の階級的には44kg級のはずだが、実際の体重は筋肉がしっかりついているので、この身長にしては体重はあるだろうが、40kgを大きく割り込むだろう。
その体重で44kg級を制したのは大したものだが、リーチと体重が大きく掛け離れた俺とでは例え柔道の試合といえども涼に勝ち目は無い。
「誰にものを言ってるんだ? 隆如きが」
今晩、鏡を見て真似る練習をしようと思ったほどの、実に惚れ惚れとする様な不敵な笑みである。不敵というと大島だが涼の方が見栄えが良いというか、奴のは少し下種いのだ。
「そろそろ前座試合の時間はお仕舞いだ」
ピシっと国中を指差して告げる……良いんだよ指さしたって、俺は海外なんて行かないから。
「……前座だと、ふざけるな!」
「ふざけてなどいない。そもそも今回の涼の帰郷で、俺は宿命の兄妹の因縁に蹴りをつけて、俺の事を可愛く上目遣いで『お兄ちゃん』と呼ぶようにしてやるつもりだった」
「おぞましい事を言うな!」
道場の隅で、イーシャと北條先生に壁を作って貰い着替え中の涼が叫ぶ。
「そして、その計画に割り込んできた邪魔者がお前だ!」
「……もう少し兄妹仲何とか出来ないのか?」
意外にもいきなり冷静に突っ込んできた。
「うるさい! 生後1年の妹に目を抉られそうになった俺の気持がお前に分かるのか? 初顔合わせで、生後数日の妹に差し出した手の指を一瞬で脱臼させられた兄貴の気持がわかるのか?」
「うん、ごめん無理……何かすまなかった」
「同情するな!」
俺が切れると同時に涼も切れた。
「うるせい! 隆、てめえ余計な事抜かしてるんじゃないぞ!」
暴れているようだが、北條先生から「可愛い顔でそんな汚い言葉遣いしたら駄目よ。それに高城君の事は、お兄ちゃんと呼んで上げた方が良いわよ」と諭されて「……うん」と小さく答えたのが耳に届いた……俺は初めて北條先生への嫉妬の念を覚え、この感情を持て余していた。
「始め!」
着替えを終えた涼が戻ってきて開始の合図を出す……物凄い表情で俺を睨みながら。
少し警戒しながら取りに来た襟を何もせずに取らせてやる。想像していなかった事態に戸惑い色を一瞬浮かべるが、すぐに感情を消し去ると体格差を生かして揺さぶりをかけてくる。
だが足腰の強さに関しては、レベルアップの効果など関係なく明らかに俺の方が鍛え上げられているので、国中は思うように揺さぶりをかける事が出来ずに焦りの色を浮かべる。
そして、より強く俺の体幹へ揺さぶりをかけるために奴自身の体幹が乱れ始める。それを待っていたのだ。
今までの流れで国中の呼吸を読み切った俺は反撃に移る。
掴んだ襟ごと俺の胸を押した状態から、一気に引き寄せて投げに入ろうとした瞬間、国中が体重を乗せ変えようとする途中の左脚を自らの左足で払い、そのまま左足で踏み込み、腰を右へと捻り国中の腰に当て、バランスを崩してすがるように強く俺の襟を握り込んだ奴の両手と腰を支点に、勢い良く身体を右前へと捻りながら倒す事で自分の両手を一切使う事無く国中を投げた。
「一本、それまで。一本勝ち」
涼は俺の方である右手を高く上げて、俺の勝ちを宣言するが、その顔は驚きに歪んでいた。
「……待て」
床の上にひっくり返ったままの国中が声を掛けてきた……床に叩きつけられる直前に奴は手を離しているために、力の方向が横へと逸れて大してダメージを受けていないはずなのに起き上がろうとしないのは、単に自分が負けた事が信じられないのか、それてもあんな投げ方をされたからだろうか?
正直なところ、普通に柔道の試合をするならレベルアップ前の俺なら国中には勝てない。
基点となる動作から、どのような動作を派生させて技につながるのかが分からないからだ。何せほとんどが初見となってしまうため自分のセンスだけで推測して対応しろと言われても限界がある。
その点、柔道経験者なら長い歴史の中で積み上げられてきた技が頭と身体に刻まれているだろう。個人の素質とセンスだけでそれを上回るのには余程の天賦の才が必要となる。
ましてや同じ中学生として世界でも上位に食い込む相手ならば、体重差を考慮しなくても紫村ほどの才をもってしても勝つのは無理だろう。
「今の技は何だ?」
「何だと言われても唯の遊びで技でも何でもない」
「遊びだと? ……俺は、遊びで負けたのか」
「遊びで良かったじゃないか、本気なら病院送りだ。俺等のやってるのは武術であってスポーツじゃないから安全なんて言葉は無いから……本当に無いんだから」
言ってて泣けてくる。
空手部の2年生、3年生も涙を堪えている。
辛かったもんな、痛くなければ身に付かないじゃないく、痛ければ身に付くはずだ。だからもっともっと身体に教え込んでやるが大島流。
「生徒への指導で安全を考慮しないなんて大問題だ」
「何故か大問題にはならず空手部は長きに渡って存続してきたんだよ……迷惑な事に」
「迷惑なのか?」
「迷惑でないはずが無い。何で空手部の部員がこんな技を身に付けなければならない? ただ強くなるというならまだ分かる。だが何で山でサバイバル訓練を受けなければならない。何で冬山に捨てられなければならない? これに何か理由があるんだ?」
「それって本当だったのか?!」
跳ねるようにして起き上がるほど驚いている。
「ああ、そうだ」
「じゃ、じゃ、じゃあ、工業高校が廃校になったって話は?」
「……先輩達がやった事だ」
つまらない事を知っていやがる。
当の先輩達も「若気の至り」と言ってる事を引っ張り出してきやがって、先輩達だって反省してるんだ。工業高校のトップを浚って【空手の試合をきちんと決着がつくまで何度もやり、その様子を撮影する】事で問題を回避すれば、これほどの大事にしなくて済んだのにと……どう考えても誘拐と脅迫で犯罪だな。
「俺は殺されるのか?」
そう言った国中の顔の強張った顔には、はっきりと怯えの色が浮かんでる。
「物騒な事を言うな。それじゃあ俺達が普段から間単に人殺しをしてるみたいじゃないか」
態と凄みを利かせた笑顔で答えると「ひっ!」と小さく可愛い悲鳴を上げて、再び崩れ落ちて失神した。
「一応、あいつを相手に実力は見せたと思うけど本気でやるの?」
男子で2学年上で、涼が出場したのと同じ大会の90kg超級で優勝しているのだから涼よりは強いはずの国中に一本勝ちしてるのに、これ以上戦えといわれても、俺は打撃系なんでそろそろ引き出しが無いんだよ。
「お前が誰と戦って勝とうが関係ない。私に負けを認めさせたければ私に勝て!」
「それじゃあ、俺が勝ったら上目遣いで──」
「黙れボンクラ! その干乾びたちっさい脳みそが耳の穴から転がり落ちるまで蹴り飛ばされたくないなら、2度とそのおぞましい事は口にするな!」
マゾならば涙を流して喜びそうな切れのある罵声……その気は無い俺だけど目覚めてしまったらどうするんだ?
「涼ちゃん!」
「ごめんなさい」
北條先生には速攻で謝る……蘇る北條先生への嫉妬心。これを癒すにはやはり涼に勝って、上目遣いで「お兄ちゃん」と可愛らしく呼ばせるしか無い……無いんだ!
「はいはい、始め!」
イーシャが何故か俺を睨みながら適当な合図を出す……おっと涼に集中しなければ。
想像通りに涼は最初から攻勢に出る。
圧倒的なリーチの違いから組手争いには持ち込まず、体勢を低く取って下半身を狙いに来る。
空手部的には足技によるえげつない対応法もあるし、例え足を取られて寝技に持ち込まれたとしても、その状態でも使える急所への打撃もあるので、基本に寝技に持ち込まれることに対して特別危機感とかは抱かないのだが、幾ら糞可愛くなくても妹にそれを使うのは躊躇われる。ただでさえ円滑とは程遠い兄妹の仲は完全に崩壊して、2度と口を利いて貰えなくなる自信がある……大島め、もっとマシな技を教えろよ。
淀みない水の流れのようにするりと足元に滑り込んでくる。狙いは足首。
そう判断するとその場でほとんど予備動作すらなく前方宙返りを行い、空中で丸見えの涼の背中手を伸ばすと帯を掴んで、着地と同時に反動も利用して一気に引き抜くようにして頭上へと持ち上げる……なんて勝ち方をしても涼は絶対に負けを認めないだろう。むしろ暴れる。引掻かれて噛み付かれる様子が目に浮かぶようだ。
仕方が無い。俺は涼の攻撃を受け入れ、それを正面から返す事で兄としての威厳を示そうと──
「はいリョーちゃん反則。もう面倒臭いから反則負け!」
イーシャがやる気がなさそうに左手を上げて俺の勝利を告げた……タックルから足首を取ってなんてむしろ常識じゃないだろうかと思うんだけど、柔道って本当にスポーツなんだな。
「違う……ほら、講道館ルール的な?」
涼は焦った様子で必死に言い訳をする。
「私達は中学生だからね」
なるほど中学生だとルールが変わるのか、確かに剣道も中学校では突き禁止とか年齢によって使えない技はあるからな。子供なら分別もつかずに危険な技を使って大怪我をさせる事もあるから仕方が無いのだろう。
「た、隆が悪いんだ! フェイントだったのに避けないから思わず掴んでしまったんだ」
涙目である。
「リョーちゃん、そんな言い訳するんだ……」
「そんなつもりは──」
「良いんだイーシャ。涼の攻撃を正面から受け止めて、その上で勝とうとしたんだけど、今までが今までだから涼は混乱したんだよな。それに俺自身がルールを知らなかったから足首を取らせてからが勝負だと思い込んでいた。涼、悪かった」
そう言って涼に頭を下げた。紳士である。自分でもうっとりするほどの立派な紳士ぶり。これは北條先生も惚れるな……櫛木田に話しかけられて見てないし!
その癖、俺の紳士ウェーブは予期せぬところへと波及する。
「リューちゃんのお兄ちゃん力が未だ嘗て無いほどに高まっている。もしかして、これがフォースの目覚め? I'm your brotherって言う気よ。恐ろしい……」
イーシャは混乱した。
「だ、誰だこいつは? くっ、この中の人が兄だったら私はもっと……」
涼は混乱した。
隆は逃げ出した……だが回りこまれていた。
結局試合は仕切り直しになった。
「今度は反則しないでね」
「しないよ!」
イーシャの突っ込みに涼が噛みつく。
「それでは、始め!」
俺は両手を前に差し出す。涼が良いのか? という視線を送ってきたので、黙って頷くと左手で俺の右袖の肘下の部分を下から掴み、右手で左袖の肘上の内側を掴む。
身長差があるので涼が両の袖を掴んだ段階で俺は前傾体勢になっているので、涼は容赦なく投げ技をかけてくる。
ちなみに俺には背負い投げと体落しと跳腰などの区別は良く分からないので全部投げだ。
投げられながらの対応は身体を捻ってうつ伏せで落ちて一本を避けるんだろうが、うつ伏せの体勢へ首を絞めるような技を使われたら力技で抜け出すしかなくなる。
仕方がなく身体を前に投げ出しながら右足で床を蹴り跳ぶ、空中で涼の背中を見ながら掴まれた袖を大きく捲らせる様にして腕を伸ばし、両脇腹の辺りで帯を掴むと、左足で床を蹴って高さを稼ぐように跳ぶ。
涼の身体を自分の胸に引き付けて、そこを重心として前方宙返りで着地。衝撃で帯がずり上がるので、右腕を涼の右脇に差し入れて、左手で両膝を救い上げて抱っこの体勢にした。
「こんなもんじゃ駄目か?」
「…………」
涼は俯いたまま何も答えない。
「抱っこ固め一本。それまで! リョーちゃんだけズルイ! リューちゃん私も抱っこ! お姫様抱っこして!」
イーシャが走り寄ってきて、涼ごと俺を抱きしめる。
「抱っこ固めってなんだよ?」
幾ら俺でもそんな技は無いことくらい分かる。
「知らない! 知らないけどイーシャも抱っこ固めにして!」
「リーヤ苦しい!」
「じゃあ代わってよ! 何で何時までも大人しく抱っこされてるの?」
「べ、別に大人しくなんて──」
「リョーちゃん降りて!」
涼の頬を引っ張る。涼も負けじとイーシャの頬を引っ張り返す。
「い、今は敗因を分析してるんだ。黙って待ってなよ!」
「分析なら降りてでも出来るでしょう」
「や~め~ろ~!」
俺から引き剥がそうと必死に引っ張るイーシャに涼も必死に抵抗する。
「何よ今更、お兄ちゃんに甘えたくなったの?」
「そ、そんなことあるか!」
涼は俺の胸板をドンと突き飛ばして俺の腕の中から抜け出すと、俺に向かって「バーカ!」と叫ぶと道場を出て行った。そして、周辺マップを見る限り家に向かっているようだ……柔道着のままで。
「あぁぁぁぁぁっ!」
イーシャは膝を曲げて座り込むと、やっちまった感たっぷりな表情で頭を抱えている。
「どうしよう? 自分だけのお兄ちゃんを取られたみたいな気分になって……リューちゃんはリョーちゃんのお兄ちゃんなのに……」
確かに、俺も兄貴も実の妹に愛情を注げなかった分、イーシャにたっぷりと兄妹愛を注いできた。
「俺がいきなり涼にばかり構ってたから焼餅焼いたか?」
「うん……でもそれだけじゃないけどイラついてたの。あんな事言う気はなかったのに、リョーちゃんがりゅーちゃんやダイちゃんと仲良くなれるようにってずっと思ってたのに……ごめんね。リューちゃんごめんなさい」
そう言いながら立ち上がって、俺の胸に顔を埋めて肩を震わすイーシャを叱る事など俺に出来るはずも無い。そもそも妹との仲を破綻させた俺と兄貴が悪いのだから。
「イーシャは悪くないよ。むしろずっとイーシャに心配かけててごめんな。それからありがとうな」
慰めるために頭に置いた手でそっと撫でてやると、本気で泣きに入ったのでうろたえた……こんな時の女の子への対応なんて俺には荷が勝ちすぎる。
荷が勝ちすぎたので、そのままイーシャの頭を撫でながら【伝心】を兄貴に繋ぐと『任務失敗。対象はそちらに向かい移動中』と報告した。
『失敗って何が?』
『俺と涼が戦って、涼を傷つけないようにして勝ち、少し涼の態度が解れたんだけど、涼のことばかり構っていたのでイーシャがご機嫌斜めになり涼と口論になってご破算』
『あちゃ~っ! だけどリーヤがなあ……他に何かあったんじゃないのか? 心当たり無いか?』
『いや、特には……あれ? そういえば他にも理由があるような事を言ってたけど』
『まあ良い、リーヤの理由は置いておこう。今はどう涼に対処するかだ……』
『兄貴に任せた』
『待て!』
『言っておくけど、どうせ俺は何の役にも立たない』
『それは分かっているが……』
『同様に兄貴が役に立たない事も分かっているから、俺も兄貴を頼らなかった』
『おいっ! 事実だけに、おいっ!』
『超頑張れ兄貴! 以上』
無事に引継ぎは終了した。俺と兄貴の間には兄弟愛と書いて『非情』と読む、深くて澱んだ長い川が横たわっているのだ。
「悪いが、今日は先に帰らせてもらう。国中が目覚めたらさっさと自力で東京まで帰れと言って追い出してくれ。練習が終わるまで起きなかったらたたき起こして帰せ。以上頼んだ」
そう伝えると、涼の荷物を持ちまだ落ち込んでいるイーシャを連れ、まだ昼前だというのに練習を抜けた。
背後から「ああ、貴重な女子分が一気に不足状態!」と悲鳴が上がるが知った事か。
「ねえ……」
しばらく互い無言で並んで歩き続けていたが、ためらいがちな呟くような小さな声。何時ものイーシャとはまるで違った様子だ。
「どうした?」
「リューちゃんは、あの先生の事が好きなの?」
「えっ? ……」
即バレに驚き、言葉が出てこない。
「そうなんだ……」
何も口に出来ないでいる間に疑問は核心に変わってしまった。
「どうして好きになったの?」
「分からない。気付けば好きになっていた……」
最早、隠す意味は無かったので、事実をそのまま話す。
「綺麗な黒髪が良いの?」f
「いや、髪の毛が綺麗なだけで好きなったりはしないよ。それにイーシャの髪は綺麗だと思うよ」
「それじゃあ、大きい胸が好きなの? イーシャの胸だって大人になれば負けないくらい大きくなるから……」
一人称が「イーシャ」なのは久しぶりだ。小学3、4年生の頃には「私」になっていた。何故かと聞いたら「もう大人だから」とこたえていたのに……
「イーシャ……外見じゃないんだ」
すいません、私めは今嘘を吐いています。もちろん外見だけじゃないが外見も大変重要です。そして北条先生の外見は本当に素晴らしいものだと、日々感心する事しきりであります。
だから、北条先生の濡烏とも呼ぶべき艶やかな長く、そして癖のない真っ直ぐな髪は、先生の微笑みにも匹敵する魅力で俺の目を惹きつけてやまない。
スタイルだって抜群だ。一見して露出が少なく身体のラインが出ない地味なスーツ姿に隠されているが、エロ孔明の称号を手にした選ばれし者のみが持つ【全てを見通すエロい魔眼】の前にはマルっとゴリッと全て見え見えだ!
……だけど、イーシャの外見に魅力が無いという訳では無い。将来への期待を含めるなら北条先生にさえ匹敵する魅力がある。
そういう全てをひっくるめて、外見じゃないんだ……ほら、なんとなく良い事を言ってるかのように綺麗にまとまったな。
「出会いなら、イーシャの方がずっと前からリューちゃんの事を好きだったよ。なのにどうして?」
イーシャの頬を涙の玉が滑り落ちる。
マズイ! 何がマズイかと言うと、ここは路上であり、人通りは少ないとはいえ周囲には通行人がいる。
どう見ても中学生カップルの痴話喧嘩。しかもイーシャは人目を惹くロシア系白人とのハーフの妖精の如き美少女である。そして致命的なのは、ここは既に家まで数100mというご近所圏内であり、このままではこの町で暮らすのが、今まで以上に辛くなってしまうという事だ。
何としても早急にイーシャの涙を止めなければならない。
システムメニューを開いて時間停止状態にし、セーブを実行する。
ロードを実行すると、パーティーに入っている全員に迷惑をかけることになるが、そんな事を気にしている場合じゃない。
後でどんな突込みが入ろうとも、今この場での被害を最小に止める必要がある。
今の状況で俺には3つの選択肢があると思う。
先ずは、泣き止んでもらうためにイーシャに譲歩しまくる。当然「好きだよ愛しているよ」なんて正気では言えないような事を口にすることになる。
そうすると俺に待っているのは、イーシャとゴールインしてしまう未来だろう。
何せ親戚同士だ簡単には別れられ無いから、例の2文字に達する可能性が高く、当然北条先生と結ばれるという未来はなくなるだろう。
次は、イーシャには誠実に自分には正直であるという選択。「北条先生が好きなんだ。彼女と結ばれたい。彼女以外ありえない」という事になる。
そうすると、今の状況は更に悪化するだろう。当然、この町に住み続けるにはかなりのストレスを伴う様になるのだ……
高校は県外の全寮制の学校を選ぼうか? でもそれだと北条先生との縁も薄くなってしまう事になる。
それ以前に、この醜聞が北条先生の耳に届くかと思うだけで胸が引き裂かれそうになる。
最後は、折衷案。つまり「君の事【も】好きだよ」……最低だ。
そして確実に、一番酷い結果を招く事になる事くらい俺にだって分かる。
もしそれで上手くいったとしよう。だが2人の女性と同時に付き合うなどという器用な真似が出来るとは自分でも思わない。むしろ地獄! ストレスでハムスターの様な小動物のように死ぬんだ。
こうなったら4番目のプランを思い浮かべるんだ。
話をそらす。
何も言わずに(言質を与えず)抱きしめて誤魔化す。
逃げる!
……真剣に考えろ馬鹿野郎が! 自分なんかを信じた俺が馬鹿だった。
「イーシャ……」
何の解決手段も思い浮かばなかった俺は、ハンカチを取り出して彼女の涙をそっと拭う……ハンカチは紳士の嗜みというか、もしそれが北条先生の為に使う機会があるかもしれないとしたら、僅かな可能性でも逃さないように常にアイロンの掛かった綺麗なハンカチをポケットに忍ばしている。勿論自分では絶対に使わない。もしもの時に汚れていたらアカンだろ。
「リューちゃん……」
俺の二の腕の辺りをぎゅっと掴み、額を胸に押し付けてくる。
「ご──」
「私あきらめない!」
「めん……えっ?」
「良く考えたら、あの人ってリューちゃんより10歳は上よね。リューちゃんが結婚出来る年齢になるまで待ってたら30歳。リューちゃんが大学進学をするなら結婚は30代半ばだから、普通に考えたらそんなには待ってくれないから」
あっさりと意気を回復すると、俺が考えまいとしてきた重過ぎる事実を、こうも残酷に口にするなんて……慰めが必要なのはイーシャではなく俺だろ。
「お、俺は大学なんて行かないから、高校卒業したら働いて生活基盤を築いてプロポーズするから」
「ふっ」
鼻で笑われただと?
「リューちゃんのそういう可愛いところ好きだよ」
何この上から発言。確かに大人の女性である北条先生に掌(たなこごろ)の上でコロコロと転がして貰いたいという願望はあるが、妹のように思っていたイーシャは中学1年生にして俺をコロコロしようとしているだと? ……恐ろしい女って生き物は、年齢に関係なく「女」であるんだ。結婚したら負けなのかな?
いや俺はどんなに絶望しても希望だけは諦めない。男子中学生の限りなき美しい(おぞましい)夢(妄想)よ世界の理すらも捻じ曲げて見せろ! ……本当に頼む!
家の近所の曲がり角の向こうから突然現れた涼と鉢合わせになる。
「な、何だよ!」
家まで戻って自分が着替えなどの荷物を全部道場において柔道着姿のまま家まで戻った事に気づいて戻ってきたのだろう、さすがに気まずそうだ。
「忘れ物だろ。ほら」
俺に対して野生の動物のような距離感を持つ妹に、俺は忘れ物のスポーツバックを放った。
「おう……」
両手で抱えるように受け止めると、何か言いたそうにしているが、さらに気まずそうに黙り込む。
「何この不器用な父と息子の寸劇みたいなのは?」
「誰が父だ誰が!」
「百歩譲ったとしても息子とはどういう事だ?」
俺と涼の抗議に対してイーシャは「だとするなら私がお母さん? リューちゃんの奥さんなのね……」
「俺の話を聞け!」
「そうだ!」
2人の意見が一致するのだが……
「駄目よリョーちゃん。お父さんに先ずありがとうでしょう」
「こいつ止める気がない。妄想の翼が力強く羽ばたいてやがる!」
「し、幸せそうなのが怖い」
肩をすくめた涼の顔にははっきりと怯えの色が浮かんでいる。正直なところ俺も怖い。誰かの幸せそうな顔を怖いと感じる事に対する言い知れぬ恐ろしさ。
「怖いって酷いよ!」
涼の率直な言葉を浴びせられて、流石のイーシャも正気に返る。
酷いのはお前の妄想だと言うのを堪えた自分を褒めてやりたいくらいだが、俺が言わなくても言ってしまうのが妹様だった。
「リューちゃん、リョーちゃんがいじめるの」
勿論、俺としては涼に同意だが……畜生。卑怯なほど可愛いじゃないか。
「涼、思っていても口にしないで上げるるのが思いやりだぞ」
「リューちゃんも酷いっ!」
「思っても口にしない……リーヤ、率直でごめん」
そう言って深々と頭を下げる
「いや! 何よ全然仲良いじゃないの。何で私をいじめるのは息がぴったり合うのよ?」
「……何となく?」
俺と涼は同時に答えると「……もういいわよ」と力なく頭を振りながら、すっかりやさぐれてしまった。
「ねえダイちゃん。リューちゃんとリョーちゃんが酷いの私の事2人していじめるの」
家に戻ると、ダイニングでコーヒーを飲んでいた兄貴にイーシャが縋り付く。
窓辺でユキと一緒に日向ぼっこをしながら昼寝をしていたマルが一瞬、こちらに耳を向けるが、そのままゆっくりと耳を伏せて再び眠りに落ちた。
「うぉっっと! ……お帰り早かったな」
「ただいま」
「お、おぅ……」
「あのね、2人して私の事を可哀想な子扱いするのよ」
「……よく状況が分からないけど、隆と涼の意見が一致したという事は余程の事だよ。それは人として動かしがたい普遍的真理って事じゃないかな?」
ナイスだ兄貴。俺達兄弟妹の仲の悪さを活かして上手い事言ってくれる。
「ダイちゃんまで私の味方してくれないの?」
「何を言うんだ。俺はいつだってリーアの味方だよ。そして味方だからこそ、早く事実を受け入れた方が良いと思うんだ」
「うっ! 心遣いが痛いよぅ~……あっそうだ。ねえダイちゃん。リューちゃんが私というものがありながら他の女に色目を使ってるの!」
嫌な方向に話をずらしやがる。ついでにこちらにちらりとドヤ顔で視線を投げてきた……むかつく!
「ほう……それはそれは」
「父さんも聞かせてもらおう!」
畜生、居間で新聞を読んでいたはずの父さんまで寄ってきた。
「へぇ~、それは私も興味があるわね。家の子達は誰もそういう話題が持って来た事が無くて寂しかったの……それで誰なの?」
「学校の剣道部の先生」
「ああ、北条先生か、隆。分かるぞ! ……以上、終了」
「北条先生ね。美人だしまだ若いし、中学生の男の子が憧れてしまうのも無理ないわ……終了」
「えっ? どういう事? 大も史緒さんも即納得って、どういう人なの?」
「弥生先生なら……お姉ちゃんって呼んでも良い」
よく言った妹よ……俺が心の底からそう思ったのは人生で初めてだよ。
「涼まで?」
一晩の内に家族が地球侵略を目論む宇宙人に洗脳されてしまったSF映画の主人公のような驚きを見せる父さん。
だが父さん以上にその心境にたどり着いたのは──
「遅かった……高城の家はもう征服完了なのね」
いや色々間違ってるし、その間違いを前提にしたとしても父さんがいるからノーカンにしないで上げて。
「だけど、リューちゃんと結ばれるのは私だから!」
……ネバーギブアップだね。
「リーヤの事はお姉ちゃんと呼びたくない」
「そこは呼んでよ! 私の方が誕生日が早いんだから、私は従える姉と書いて従姉。リョーちゃんは従う妹と書いて従妹なんだから」
「たった3日早く生まれただけの癖に」
「双子なんて数時間差で兄弟姉妹の秩序が決まるのよ」
両雄一歩も譲らず……女だけど、いや女だから空気が悪くなっても間には割って入る事など出来ない。某、男故に。
「涼ちゃんもリーアちゃんも喧嘩しないで、それより学校の勉強はどうなってるの? そろそろそっちの学校も中間試験は終わってるんじゃないの?」
しかし母さんは遠慮なく割って入って話題を変えた。
「うちの学校は1学期に中間試験は無いから」
「そうそう、中間試験なんて無いよ」
一瞬にして旗色が悪くなった2人は共同戦線を張る。
「本当に?」
「本当、本当!」
「うんうん、リョーちゃんの言う通りだよ」
疑わしそうに尋ねる母さんに、2人は断言した……これは嘘は吐いてなさそうだ。
「じゃあ、中間試験は良いけど……」
矛先が逸れてほっとため息を漏らす2人だが、次の瞬間、触れられたくない核心を突かれる。
「でも普段から勉強はちゃんとしてるの?」
「べ、べ、勉強はちゃんとしてるよな?」
「してるよ! リョーちゃんは知らないけどリーアちゃんとしてるよ!」
いきなりイーシャは涼を売った。
「リーア、裏切るな! 私だってちゃんとしてる。リーアがどうかはしらないけど!」
「あっ! リョーちゃん」
「喧嘩しない! それじゃあ涼。リーアが勉強してるのを見たことがある?」
母さんの目つきが厳しくなり、2人の名前の後には「ちゃん」が抜け落ちた。
「…………」
口ごもる涼に母さんは「ちゃんと答えなさい!」と追い込む。
「あ、あるよ」
苦しそうに答える。
「授業中を除いてよ」
母さん毛の先ほども容赦なく追及する。
「ありません……」
「りょ、リョーちゃん……」
「すまないリーア」
「リョーちゃん~~」
「ごめん、リーア」
「それじゃ、リーアは涼が勉強しているのを見たことがある?」
2人の愁嘆場の様な空気を無視して母さんは話を進める。
「授業中も含めて全くありません!」
あっさり売りよった!?
「リーア……?」
「だってリョーちゃん授業中も寝てるでしょ」
「それは言っちゃおしまいでしょうが?」
本当におしまいだよ……本当に色んな意味で。
「涼?」
母さんの声が極北の地に吹く風の唸りの様にも聞こえた。
一方マルは、咄嗟にユキを口にくわえると猛スピードで居間を脱出すると階段を駆け上がり、多分俺の部屋に逃げ込んだ。
「か、母さん?」
恐る恐るといった様に母さんに目をやり、「とんでもないものを見た!」と言わんばかりに目を背けて、助けを求めるように父さんへと縋る様な目を向ける。
父さんは、涼と目が合うと小さく頷き母さんの方を向くが、目が合うと即逸らして、涼に「無理!」とばかりに首を横に振って見せた……駄目だ。父さんは母さん以外なら、大島にすら立ち向かう強者だが、母さんには無力。完全に尻に敷かれている。
続いて兄貴も、同様に涼に小さく頷くと母さんの方を向く。そして一瞬で勝負が着く……だが、俺は【伝心】で『良いのか兄貴? ここが重要な分岐点だぞ』と訴えかけると土壇場で踏み止まり、延長戦に突入する。
「か、母さん……涼の学校は大学までエスカレーター式だから、今はまだそれほど問題視する状況じゃないと思うんだ」
「ま、大……」
まさかの救いの手に涼の中で兄貴の株が急上昇。
「へぇ、大は妹が馬鹿のまま大学まで行って、馬鹿のまま卒業して社会に放り出されて、それで良いと思ってるんだ? 随分と妹思いのお兄ちゃんだったのね」
寒い。成層圏付近で感じた寒さとはまた別次元の凍り付くような寒さが俺の心を襲う。
「でも、大学卒業後も柔道の指導者としての道も──」
「馬鹿に指導者が出来ると思うの? 第一涼は技術や努力で強くなったというより、生まれつきの才能で強くなったようなものよ。そんな選手に後進の指導が出来るとでも思ってるの?」
「……涼。ごめん」
兄貴弱っ!
「…………」
涼も何も言えない。正論過ぎて言い返すことが何もないのだろう。そして最後に一縷の望みをかけて俺に視線を向けた。
「任せろ……」
力強く頷くと涼が感動のためだろう目を潤ませる……そう、そこで「お兄ちゃん」と言ってみろ……言わないわな。畜生!
「隆も何か言いたいことがあるのかしら?」
「母さん、涼は柔道をやる上で決して恵まれた資質を持っているわけじゃない」
「そうかしら?」
「そうだよ。とにかく身体が小さいのが致命的だ」
「でもそのための体重別のクラス制じゃないの?」
「涼は身長はあと5㎝以上伸びる事は無いよ。今後柔道を続けていくなら48㎏以下の階級で戦う事になるから、体格で劣る涼は勝つために技術面を強化するしかない。だから涼が柔道を続けるのなら決して才能だけの選手では終わらない」
「……そうね」
俺の言葉に母さんは少し納得したような様子だが、納得しない馬鹿がいた。
「うがぁぁぁっ! 勝手な事を言うな! 私の身長はあと10㎝以上は伸びる。階級ももっと上で戦うんだ!」
「……はぁ?」
思わず出てしまう溜息交じりの疑問形。
俺が口にした5㎝だってかなり気を使って多目に出した数字だよ。正直なところあと1-2㎝が妥当な数字だと思う。
「リョーちゃん。おばさんとリューちゃんは真面目な話をしてるんだから冗談はやめて」
「ごめんね涼。お母さんがこんなに小さく産んでしまったせいで……」
「史緒さん、僕にも責任はあるんだ……」
「涼。無理な事を言って母さんを悲しませるなよ」
家族親戚からの総叩きに涼は半泣き状態だ。
「冗談はさておき……涼は48㎏級でもかなりの重量差のハンデを背負って戦う事になるだろうけど48kg級を制覇したら、絶対に計量前に大量に水を飲んででも上の階級を目指すから、負けず嫌いで上を目指す性格だから、技に関しては誰よりも上手い選手になるって保証するよ」
「そう……でもね──」
まだ不安そうな母さんに最終的な決着案を出す。
「後は学校側に、中学生なんだから柔道だけじゃなく勉強もきっちり教えろ。成績が悪かったら保護者として試合出場は認めないと脅しをかけておけば良いよ。そうなれば学校側だって必死になるし、授業中に居眠りなんてさせないと思うよ」
「それは良いわね!」
母さんの顔に喜色が浮かぶ。
「おい隆!お前、全然良くないよ!」
そう叫ぶ涼は、半泣きどころか全泣きの一歩手前で掴みかかってくるが、リーチの差を利用して上から頭を片手で鷲掴みにして押しとどめる。
「まあ、暫くは真面目に授業を受けて頑張るんだ。それでも駄目だったら今度帰って来た時に、空手部に伝わる短時間で確実大幅成績アップ術を教えてやる」
「胡散臭い!」
「そういうな、空手部の部員は勉強をする暇もないほど練習を科せられているのに、理不尽な事に成績優秀であることまで要求されているんだぞ。人間は必要性が生命に係わるほどのレベルに達すると分厚い壁だって突き破るんだぞ。効果的な学習方法を編み出さずにはいられるはずもない。そして、その切実さは教える立場の人間が感じられるような生温いものではない」
「だったら今、それを教えろよ!」
「涼。今のお前には必死さが足りていない。しかも圧倒的にだ!」
「ひ、必死さ?」
「そうだ。本当にぎりぎりまで追い込まれたなら、その状況を打開するためなら、俺に『お兄ちゃん、涼にお勉強の仕方を教えて、お願い』と上目遣いで言うようになるだろう。お前にはそれほどの必死さが無い!」
「てめぇ、いい加減そこから離れろよ、ぶっ飛ばす──」
「そう言えば、俺は勝負に勝ったよな?」
ふとある事を思い出したので、涼を無視してイーシャに話を振ってみた。
「確かに勝ったよね。勝った時の条件って何だっけ?」
俺の意図を察してくれたようで期待通りの展開に持ってきてくれた。
「い、言っておくが、私はそんな事は認めてないからな!」
激高する涼だが、そこに母さんが喰いつた。
「そんな事ってどんな事?」
「! ……いや、その~……」
涼の顔が激高したまま青褪める……器用だ。
「あのねリョーちゃんはリューちゃんと勝負して──」
「黙っていろ!」
イーシャの背中にジャンプし腰に両脚を巻き付け、右腕を首に回すと左手で固定して締め上げる。
「涼ちゃん邪魔」
「い、止め……うひゃひゃ……てっ!」
母さんがイーシャの脇越しに手を伸ばし、涼の両の脇腹を擽ると堪らず裸締めを解いて落下し腰を打った。
「それで何なんだったの?」
「リューちゃんが試合する条件として、リョーちゃんが負けたら、上目遣いで可愛く『お兄ちゃん』って呼んで貰──」
「わぁーーーっ! わぁ~~~~~! わぁ────っ!」
声を上げるのが遅い。すでに100%肝心な部分は話し終えてるよ。
「何だと! 父さんだって涼から可愛く上目遣いで『お父さん』って呼んで貰いたいというのに、隆だけなんて実にけしからん!」
結構涼とは上手く親娘関係を築いていたはずの父さんですらやって貰ったことないのかよ。この分なら「大きくなったらお父さんのお嫁さんになるの」もやって貰ってないな……憐れ。
「……涼ちゃん。大と隆に言ってやりなさい。ついでに英さんにもね」
「それは無理」
うるうるとした涙目に上目遣いで、プルプルと首を横に振る……それだよ。そういう可愛らしいのが我が家の男衆の乾いた心には必要なんだよ。何故それをやってはくれない? 無理なんですね、分かってますよ!
「お母さんのいう事を聞けないの?」
「嫌! だって気持ち悪いから」
衝撃的な言葉が俺達の胸を貫く。嫌われているのは分かっていた…父さん以外。
だけど気持ち悪いとまで思われているとは……キモイのは父さんだけにして欲しかった。
「涼。お父さんに気持ち悪いはないでしょう。加齢臭とかでデリケートな年頃なんだから」
「史緒さん……まだそれで引っ張るの? ……それに気持ち悪いのは僕限定?」
少なくとも俺は気持ち悪くない。何処にも気持ち悪い要素なんてない。あってたまるか……そうだよね?
昼食後の家族のまったりとした時間は、インターホンの音で終わりを告げる。
「どちら様でしょうか?」
母さんが応対に出るが、母さん自身もマップ機能のおかげで家のインターホンを鳴らしたのが国中である事は知っている。
『すいません。そろそろ新幹線の時間なので迎えに来ました』
『それはお前が心配することじゃない。涼とイーシャはこちらで送っていくから、さっさと帰るんだな』
割り込んで、そう告げるとインターホンを切った。
「隆?」
俺の言動に憤りを感じたのだろう母さんがきつい目で睨んでくる。
「あいつはイーシャに懸想した挙句、俺との勝負にかこつけて2人に同行する事で、密かにデート気分を味わっていたという不埒者だから」
「え~っ! そうだったの?」
「お前以外の人間は皆気づいていたぞ」
柔道以外はほとんどポンコツな涼が気づいていたんだから、他に周囲で気づかない奴がいるとは思えない。
「つまり俺の女に手を出すなって怒ったわけね……意外にやるわね、でも北条先生との二股はどうかと思うのよ、母さんは」
「そんな事は思ってない。ただ奴の性根が気に入らないだけだし、はっきり言っておくけど、俺はイーシャと付き合っていないし、そして北条先生には恋愛の対象としてすら見られていないから……」
自分で言っていて泣きそうだよ。
「あ~、じゃあ隆が涼ちゃんとリーアちゃんを責任を持って送っていくという事で、新幹線代を出してあげるわ……英さんが」
「…………大。父さん泣いても良いよね?」
「泣いても良いけど、どこか行って独りで泣いてよ」
父さん無残……帰りは【迷彩】で姿を消して飛んで帰ってくるから片道分にジュース代でも付けてくれれば良いよ。
父さんの運転で新幹線が止まる県庁所在地のある街の駅のコンコースに到着する。
そこそこ周囲は栄えていて、そこそこ大きな駅なのだが私鉄が乗り入れる様なターミナル駅ではない。埼玉がとんでもない都会に思えて仕方がない関東のブラックホールS県らしい……基本的に公共の移動手段はバスがメインだからしょうがないんだよ。
「それじゃあ涼、リーア、風邪や怪我をしないようにしっかりと気を付けるんだよ。それから史緒さんじゃないけど勉強もしっかりするんだよ。それから……」
オカンかっ! と突っ込みたくなる父さんの優しい気づかいにリーアはともかく涼は嫌そうな顔をしている。
「はいはい、もういいから父さんは帰って」
「おじさん、今日はありがとうございました。またお世話になると思いますがよろしくお願いします」
涼の塩対応とイーシャの礼儀正しい態度。父さんは自分の娘への教育の失敗を深く噛みしめるべきだと思う。
「それじゃあ隆、頼んだぞ。ちゃんと学校まで間違いなく送り届けてくれ」
そう言って、俺に輪行バッグを渡した上に、涼達には見えないように1万円札をこっそりと渡してきた。
『これは多いよ。帰りは自力で帰ってくるから』
『途中で何かスイーツでも食べさせてやれ』
『本当に涼には甘いな』
『…………』
無言で【伝心】を切りやがった。そして目も合わせる事無く車に乗り込むと涼とイーシャにだけ手を振って去って行った。
「よう!」
「失せろ、10m以内に接近するな」
何事もなかったかのように近づいてきた国中にそう告げる。
「おいっ!」
「俺との勝負だけに、わざわざこんな田舎までやって来たのなら、愚かなるも殊勝と褒めてやるところだが、まさか妹達と新幹線でキャッキャウフフな気分での小旅行が目的とは、とことんおそ……見下げ果てた奴め、2度と妹達の視界に入るな消え失せろ」
「生まれてきてすいません」
図星を突かれ真っ赤になった国中は、周囲からの視線もあって別の車両へと逃げて行った。
「今後奴に声をかけられるような事があったら、すぐに俺に連絡を入れるんだぞ……涼もだからな」
「うん!」
「わ、わかった」
真剣に話す俺を見て涼も頷く……こちらが真剣に向き合えば涼にも思いは通じるのだろうか? いや、元々俺と兄貴が真剣に向かえば向き合うほどウザがられて、最終的には暴力に訴えてきたのだからそれはない。
正直、東京は恐ろしいところだ。あのような危険人物が沢山いるとするなら、涼やイーシャにもパーティーに参加させてレベルアップを施したいところだが、やはり涼がネックだ。
涼に強力な力を与えたら、冗談じゃなく何かの拍子で死人が出かねないし、イーシャにだけという方法もあるが、すぐに涼にばれるだろう。
新幹線は指定席は取っていない。そして土曜日の午後のこの時間は始発でもないので座席は当然のように空いていないのでデッキに立つ。
デッキにはぎっしりというほどでもないが、他に乗客がいるので基本無言だ。
涼とイーシャは女子中学生だが空気を読まないで騒ぐ事無く小声で何やら話している。俺は女の子の会話に割って入るような技能は生憎持ち合わせていないので、壁に身をもたれ掛けさせて目を閉じて寝ている振りをしながらマップ機能で周囲を伺う……便利すぎる。
最近は慣れすぎて意識する事が少なくなってきている護衛兼見張りは、隣の国中と同じデッキ部分に待機している。
他には何事もなさそうなので、警戒を続けながらも2人の会話に耳を傾けながら時間を過ごす。
意外に内容はクラスの女子達と大して違いがなく、安心するやらついていけないやらで溜息が漏れた。
東京駅から山手線に乗り換え、更にバスへと乗り換えて涼達の通う柔道名門校「太洋学院大付属中等学校」にたどり着く。
途中、何か甘いものでも食っていくかと尋ねたのだが、夕食前に少し練習に顔を出しておくというので直行したのだった。
帰る前にとりあえずセーブする。
これから交通機関を使わないで家まで帰る訳だが、もし戻ってから俺の姿を誰かに見られたとすると大問題だ。
新幹線を使ったとしても上手く乗り継ぎが出来て2時間半程度の時間がかかるが、俺は新幹線に乗っていない事はすぐに確認がとられてしまうだろう。
そして、次に新幹線以外の鉄道。そして高速バスなどもチェックするのも護衛兼見張りの彼らにとっては可能だ。
彼らの監視の目を逃れて、いかなる足跡も残さずにいつの間にか自宅に戻っているという状況が、超常現象を伴わずに受け入れられる程度の期間を俺は姿をくらます必要がある。
父さんから渡された輪行バッグに入っている自転車。父さんが若い頃にこいつで旅をしたというロードサイクルで、今も年に数回は整備をして長距離を走るのだが、こいつを持っているという事で交通機関を使わないでも短時間で長距離を移動する説明がつくので、明日の朝まで身を隠しておけば問題はない……実際に自転車は使う事は無いけど。
「リーア、涼お帰り!」
校門の前で2人に声が掛けられた。
相手は学校の友人なのだろう。4人組の女子中学生……声を聴くだけで胸の中で苦手意識が頭をもたげテンションが下がる。
「北斗先輩。ただいま戻りました!」
4人の中で1番身長が高く170㎝位はあり、全体的に均整の取れた身体付きだが、首から方のラインが柔道で鍛え上げられているせいだろう男性的ですらある少女に、涼は元気よく挨拶する。
ちなみに髪型はイーシャを除き涼を含めて全員、うなじの見える襟足で切り揃えたショートカットで前髪に多少バリエーションがある程度だが、まあ格闘技をやっているものとしては当然の心構えだろう。
「……誰?」
涼に北斗と呼ばれた少女とは別の、涼より10㎝くらい背の高いちびっ娘が、こちらをチラ見してから涼に尋ねる。
全く礼儀知らずめ、他人の名前が知りたければ自分が名乗ってから直接聞け。本人の目の前で他人を介して名前を知ろうなどとは個人情報保護法違反で死刑だ。ああこれだから満足躾もされてなジャリ女は嫌いだ。礼儀知らずが闘うための技を磨くなど、熟れの果ては大島だ……と全く表情に出さず胸の奥で罵る。
中学生女子というだけで俺にとっては親の仇にも等しいのだ……親は死んでないけど。
「鶴居! 誰じゃなくちゃんと自分から名乗ってから相手に尋ねなさい」
「あぅ……」
「自分がコミュ障だから、相手が気遣ってくれないと困るとか勝手な事を思っているんじゃないでしょうね?」
「お、思ってない……」
はっきりコミュ障扱いされて涙目だ。
「だったらちゃんと挨拶しなさい!」
「……鶴居……鶴居 雪裡(つるい せつり)……」
なんとか自分の名前を口にして、やり遂げた感のある満足気な表情を浮かべた鶴居の頭がパン! と良い音を発した。
「痛い……」
頭を押さえて蹲ると、恨めしそうな目で叩いた相手を見上げる。
「よろしくお願いしますでしょう。ちゃんとしなさい」
「よ、よろしくお願いします」
「……高城 隆です。よろしくお願いします」
言わされた感たっぷりだが責める気は一切起きなかった。
「全く……申し訳ありません。うちの部員が失礼な態度を。私は柔道部で主将をしている北斗 文月(ほくと あやつき)と申します。どうぞよろしくお願いします」
さすがは主将だ。きちんと礼儀をわきまえている……怖いけど。俺も主将として恥ずかしくない対応をしなければなるまい。
「涼の兄、高城 隆と申します。妹がお世話になっています」
そう名乗り頭を下げる。
「いいえこちらこそ新入生の涼のめさましい活躍は柔道部の励みになってます……ところで涼のお兄さんという事はあの空手部の?」
「あのとは、どの空手部かは知りませんが、地元の友引北中学校の空手部で主将をしています」
「そうですか、あの……失礼ですが、噂は本当なのでしょうか?」
「噂とは?」
「えっと、OBの方々が素手で武器を持った不良達に100人以上をたった7人で倒したという……」
「……概ね事実です」
実際の戦力差は1:20程度だったけど、その辺のチンピラ相手なら20対1でも、囲まれないように移動しながら戦えば今の空手部の2年生達なら勝てる。
チンピラ共では逃げる部員に追いつける足は無いので、ある程度ばらけたところで逆襲に転じて各個撃破して行けばよい。それに20人程度を倒す間走って闘い続けるだけの体力は十分にあるときているので楽勝だ。
しかも例の事件では、1対百数十人のつもりで油断していたところを背後から襲い掛かりパニックに陥った連中を殲滅していったので先輩達にとってはそれほど大変だったという意識はないらしい。
「今日はどういったご用件でしょうか?」
その質問には涼が答えた。
「えっと……兄に勝負に負けた国中が何をするかわからないということで付き添いで来たというか……」
「えっ! アイツ負けたのダッサ!」
しかし、身長160㎝くらいの粗野と粗暴を兼ね備えたような女が、まるで奴が格下に足元をすくわれて負けたような言い方をした。
まあ良いさ、こんな女としての魅力に欠けた小娘にどう思われようが知った事じゃない。役目も果たしたことだしさっさと帰ろう……べ、別に悔しくなんてないんだから! 単に早く帰って紫村達と一緒に国中の動画を編集して動画サイトにアップしたいだけなんだから!
「リューちゃんは──」
抗議の声を上げようとしたイーシャの肩に手をのせて止める。
「良いんだよ」
「でも……」
拗ねたように上目遣いをするな……畜生、破壊力抜群だよ。
「イーシャが分かってるだけで良い。そもそも彼女たちが知る必要もない話だよ」
実際、凄く嬉しかったしな。
「えへへ……イーシャが分かってるだけで良いなんて……もうリューちゃんは……」
俺がほっこりする一方で、イーシャの頭のネジが飛んでしまったようだ……どなたか、この娘の頭のネジ穴に合うネジをお持ちの方はいらっしゃいませんか?
そんな俺とイーシャのイチャついてるとも取れる、やり取りに誰一人として突っ込まなかったのは、同時進行で別のイベントが進行していたためだ。
「先輩。国中の馬鹿は馬鹿なり真剣に闘いました。そんな言い方は闘った2人に対して失礼です」
何が起こっているのか全く理解できない。もしかしてこれって涼が俺の為に先輩に反論しているの? いやまさか? はっはっは、狼狽えるな。これは孔明の罠だ。
「失礼も何も油断して素人に負けるようなダサ坊主じゃないか」
頭の悪い奴だな、実際に見た涼が真剣に闘ったと言っているのに、それを無視して自分の勝手な思い込みを前提にしていやがる。
俺の名誉を守ろうとしている……ような気がしないでもない妹の思いを無下にする言葉にお兄ちゃんは流石にイラッと来てますよ。
「国中は油断して何度もやられてましたが、最後は完全に一本を取られました」
「高城ぃ、お前身内贔屓で目が曇ってるんじゃないか? 海外試合で活躍したからって調子に乗ってんじゃねえぞ」
涼の胸倉を掴んで言い放つと、平手を打ち下ろしやがった。
手が振り下ろされる前に割って入り手首を掴んでへし折ってやりたかったが、距離を一気に詰めるにはウサイン・ボルトの2倍以上の速さで駆け寄る必要があったので出来なかった。
代わりに時間停止状態を使いながらのコマ撮りで──ただのガラケーに連続撮影機能は無いし、時間停止状態では動画撮影は無理──涼が打たれる様子を余すことなく撮影して証拠とする。
「舐めてんじゃねえぞ、この餓鬼が!」
そう吐き捨て胸倉を掴んでいた手で、そのまま涼を突き飛ばした。
その一連の動作も全て撮影してから、暴力女に歩み寄ると、その顔にアイアンクローで鷲掴みにし、爪先が地面に届かない高さに吊し上げる。
俺の腕を掴んで引きはがそうと暴れるのを無視して引き寄せると「じゃあ、お前は一体何をやって調子に乗ってるんだ?」と自分でも驚くほど低く冷たい声で尋ねる。
「は、放せこの!」
必死に暴れるがその程度では俺のアイアンクローは外れない。
「身内贔屓も何も妹は控えめに言っても俺や上の兄貴が大嫌いで、普段はろくに口も利いてくれないんだ。だけどな柔道に関しては嘘を吐けないから、仕方なくああ言った訳だ……理解出来るか?」
「畜生! 手を放せ!」
俺の手に爪を立てて抵抗するだけで、分かったという言葉もシグナルも発する事は無かった。
「お前、妹を含めて下級生に暴力を振るったのは今回が初めてでないだろう?」
「うるさい! 何が悪い」
……う~ん、それがどういうことなのかも分からないほど、自分に与えられた権利だと言わんばかりに弱い立場の者へ日常的に暴力を振るってきた様だな。これはもう駄目だな。
「馬鹿過ぎて言葉も通じない、相手をする価値もない」
手を放すと同時に【中傷癒】で俺の指先が喰い込んで出来た痣を消し去る。
これで俺にアイアンクローを食らって宙吊りにされたと訴えれば、信憑性を失い証言自体を疑われるだろう。この場にいる全員がそう証言しても、仲間同士で口裏を合わせて不条理な言いがかりをつけて来たと反論すれば良い。
「ふざけるな!」
「ふざけてるのはお前だ! あれほど下級生のへ体罰は止めろと言ったのが理解出来ないのか?」
堅苦しいまでに折り目が正しい態度をとっていた北斗がブチ切れた。
「……上下関係をはっきりさせるのも指導だ、これは安浦先生も認めているだろう」
主将の北斗が馬鹿を怒鳴りつけるが、反省素振りすら見せず、それどころか開き直って見せた。
「もういい、お前がいてはまとまる話もまとまらない。さっさと寮に帰れ。お前達もだ」
鶴居と呼ばれたのは頭下げてから、そして暴力女ともう1人は不満そうな表情を浮かべて立ち去った。
「涼、さっきあの女が言ってた教師が上級生による下級生への暴力を認めているというのは本当なのか?」
そうだとするなら、涼が転校するか教師が学校を辞めるか、それとも教師を俺の手で強制的に人間辞めさせるしか選択肢が思い浮かばないレベルだ。
「はっきりとは言ってないけど多分……」
「良し分かった……ちょっと、その馬鹿に話があるから案内してくれ」
「待て隆! そんな事をしたら私が柔道部にいられなくなる」
「リューちゃん、それはまずいよ」
「私の方からも注意を促すので、思い止まって下さい」
涼達と北斗が止めるが、既に止める訳にはいかないのだ。何故なら涼が殴られる様子は【伝心】で父さんと母さん、そして兄貴に送られている。
兄貴からは『何故止めなかった!』とお叱りの言葉が届いていて、父さんに至っては怒りの余りに『ぶったね? 親父の俺だってぶったことないのに!』と訳の分からない事を口走って母さんにぶたれている。
ついでに言うと、涼とイーシャを何事もなく送り届けるためにここまで来た俺のメンツも丸潰れだよ。
「それは出来ない相談だ。この件は父さんと母さんに報告しなければならない。笑って済ませるような2人じゃないぞ」
実際に2人は激怒しているので、それは間違いない。
「父さんと母さんには内緒にしてくれ!」
そんなことを言うから、『涼が俺に内緒?』『英さんにならともかく私にも内緒なの?』と落ち込んでるよ。
「お前の気持ちも分かるが答えはNOだ。これが練習時の指導の中での体罰なら俺も目くじらを立てるつもりはない。だがな今のは妬みからの暴力だ。これが日常茶飯事だというならば、そんな学校にお前達を通させておく事は絶対に認められない」
折角の珍しい涼の頼みだがそれにOKを出す訳にはいかない。もし「お兄ちゃんお願い」なんて言われたら二つ返事でOK出しだろうけど。
「リューちゃん、私の事をそんなに心配して……」
イーシャ、今は真剣な話をしてるんだから少し黙っていてよ。
「……迷惑だ……誰が……誰がそんな事を頼んだ?」
……俺は小さくため息を漏らした。
「じゃあ父さんと母さんが、お前を転校させると決めたら、お前は2人にも言うのか? そんな事誰が頼んだってな」
この馬鹿ちんが、そもそもお前は父さんと母さんに頼んでこの学校への進学を認めて貰った立場だろうに。
「それは……だけど」
「大体、お前が文句を言うべき相手は学校だ。今後このような事が再発しないための具体的改善策の提示と正式な謝罪。そしてこのような状況を作り上げた責任者の処分。これが行われない場合は……」
「場合は?」
「まあ、父さん次第だろうな」
転校の2文字は口にしない。俺からその言葉を出したなら涼の怒りは確実に俺に向かう。ここは無難にパスを回すに限る。ちなみに父さん「達」と言わないのは母さんを敵に回さない生活の知恵である。
『なんて酷い裏切り! もう息子を信じられない』
何とでも言ってくれ。
「待って欲しい。高城と長家は1年後には我部のエースとして活躍してくれる大事な選手なんだ。転校されては困る」
「それじゃあ、柔道部の指導者やその上の責任者を挿げ替えるしかないな」
「それは無理だ。確かに人間としては最低レベルで言動にも問題があるし、指導能力も最低レベルではあるが、柔道界では色々と顔が利く男なんだ」
想像以上の低評価に驚く、それなら何でさっさと追い出さなかったのか不思議なレベル。
やはり顔が利くというのは大きいのだろうか? 大島のおかげで大会にすら参加出来ない我空手部を思えば、理解したくないけど理解出来る気がするが……
「いや、それにしても柔道名門校だろう指導力に問題のある奴が指導してたら強くなる者も強くなれないだろ」
「柔道は、ある程度基礎となる練習法は固まっているから……それに全くの無能という訳でもないから……」
かなり言い辛そうに答える。
「それにセクハラするよね」
「リーア!」
「リョーちゃんは完全に対象外だけど、私は厭らしい目で見られて気持ち悪いよ」
「本と──」
「……おい」
俺の怒りの声を遮った涼の目には憎しみの炎が灯っていた。
「アレがロリコンじゃなくて良かったね」
イーシャは見事に空気を読まずスルー。
「……おい!」
「いや、中学生にセクハラする段階で完全にロリコン……だとするなら何故?」
北斗の言葉に全員の憐憫の視線が涼に集まる。
「誰が女としてもロリータとしてさえも魅力が無いだと!」
誰もが思っているけど、誰もそんな恐ろしい事は言ってないよ。
「……安浦、柔道部の顧問なんですが、彼を排除するとするなら、まずはセクハラの証拠を集めてそれをネットに流すのが一番かもしれませんね」
俺の考えそうな事をさらりと口にする北斗。
「つまり貴女にとっては、顧問よりも涼やイーシャが大事だと?」
「ところでイーシャって長船の事ですか?」
「そうなの、リューちゃんだけが呼んで良い私の愛称なの」
「分かった分かった。イラッとするから惚気るな……顧問に関しては、むしろもっとまともで優秀な人に替わるなら、それに越したことはないと思っています」
笑顔で答えるイーシャに凄い笑顔で返しながら答えた。しかしだ……
「現状では優秀な指導者は無理だと思う」
「何故?」
涼が俺を睨みながら言う。まだ怒っているようだ。
「そもそもこの学校のお偉いさんが、選んで招いたのが安浦って奴だったんだから後釜も同じようなレベル。多分お偉いさんとコネのある奴って事になる」
「駄目じゃないか!」
駄目なんだよ!
「それでは排除しても無駄という事ですか?」
「いや、そのお偉いさんごと排除すれば良いんじゃないか……その上も含めて全部」
「リューちゃん凄い悪い笑顔してるよ」
失礼な……左右から頬を挟んでマッサージを行いながら、ちょっと引っかかる事があったので尋ねてみる。
「ところでどうして、そこまで協力的なってくれてるんですか?」
その瞬間、周囲を取り巻く空気が変わった。
「理由ですか? 簡単な事ですよ奴を社会的に葬ってやりたいだけです」
「何故に?」
「奴が私にセクハラ……いえ、あれは既にわいせつ行為を行ってくるからです。最初は指導中に偶然を装って胸を掴んで来たのですが、こちらが抵抗出来ない事を良い事に、次第にエスカレートして直ぐには手を離さず下種な笑みを浮かべながら揉んできたり」
「完全に犯罪者だな」
納得した。
鈴中を知っている俺にとっては小者感しか感じないが、それでも涼やイーシャの……まあ、涼は関係なさそうだが、それでも傍においてはおけない存在だ。
単に失職だけではなく、刑務所にぶち込んだ方が良いだろう……となるとセクハラや指導方針の問題だけでは足りないから、挑発して暴力をふるわせて、その証拠をガッツリと押さえ、それを周知する必要がある訳だ。
早速人手が必要になったので紫村と香籐を呼ぶ。
あの2人が最新バージョンの浮遊/飛行魔法を使って全力で飛べば、直線で120㎞少しの距離は10分もかから無い。
『なるほど、要するにうちの学校でやった事をもっと規模の大きな名門校でやるという訳だね……わくわくするね』
『やりましょう』
紫村はともかく香籐もかなり乗り気だ。そもそも俺達は学校という組織が大嫌いだ。悲しい事に好きなる理由が無いのだから仕方がない。
『女子柔道部なら俺も』
『勿論、俺も』
『行かない理由がない!』
櫛木田達の弁だが、勿論『下級生達への指導を頼む。そして来たら殺す!』と丁重にお願いし納得して貰った。
校門より敷地内に入り、来客用玄関に向かうのだが玄関までが長い。そしてなにより敷地が広い。
涼達は途中で分かれて生徒用玄関に向かう。
靴を脱いでスリッパに履き替えると玄関脇の事務室の窓口に向かう……休日にも事務に人がいるとはさすが有名私立校だけあって金を使ってる。うちの学校では事務員は公務員だから土日には誰も居ないから。
「こちらの用紙に生徒名と保護者名を記入して、来校目的の欄へも記入をお願いします」
渡された用紙に名前を書き込む。
「来訪目的……生徒である妹への指導について、柔道部の顧問に相談あり……と」
校門での揉め事は伝わっていないのだろう、用紙を提出すると面会申請はあっさりと通った。
「それでは第4柔道場の待合室でお待ちください」
既に来客用玄関に来ていた涼達に案内されて第4柔道場へと向かうのだが、名称通りこの中等学校には柔道場が4棟存在する。
中等学校とは中学と高校の一貫校なので、柔道部だけでも中学の男子と女子、高校の男子と女子の部ごとに、友北中学の柔道、剣道、空手部兼用の格技場の2-3倍はある道場が存在するのだから恐ろしい。
他にも合気道や薙刀、空手などのさほど人数が居ない部活にも大きな合同道場の中に、我校の格技場より広い格技室が各部ごとに与えられ、更に共同のトレーニングジムなどが用意されていると聞くと、もう笑うしかない。
十数年前に23区内から現在の広い敷地へと移転したそうだが、それだったらもっと地価の安いS県の我校ならもっと凄い事になっていても……止めよう比べる対象が悪すぎる。自分が傷つくだけだ。
中学女子柔道部棟の玄関脇の待合室に入ると紫村と香籐から【伝心】による方向が入る。
『高城君。無事に所定の場所へ侵入に成功したよ。久しぶりのピッキングは緊張したね』
犯罪臭溢れる単語を聞いた気がしたがスルーする。
『こちら香籐、現在、待合室の外で撮影準備完了しています』
『了解。指示があるまで待機していてくれ』
「なあ隆。本気でやるつもりか?」
この期に及んで何を言うんだろう。もう諦めて試合終了の段階だろ。
「いい加減覚悟を決めろ。この学校が変わるか、お前がこの学校を辞めて転校するかのどちらかしかない」
「私はもう覚悟を決めたよ。この学校にいられなくなったら、リューちゃんと一緒にリューちゃんの学校に転校するからね」
「リーア! お前は」
「リューちゃんと同じ学校に通うってことは、リューちゃんと同棲するって事だから、むしろラッキー!」
「この色ボケが同棲じゃなく同居だ! それに柔道はどうする気だ?」
「柔道なら父さんに教われば良い」
涼のごく真っ当な疑問に俺が答える。
「父さんに~?」
涼。そこで胡散臭いって顔しないように父さんも俺の視点でリアルタイムに見てるんだから……良いぞもっとやれ!
「父さんをただのプロレス好きのおっさんだと思うな。ああ見えて柔道に関しては並みの腕ではない(多分)」
俺の言葉に父さんが『隆、良く言った! さっき渡した金のお釣りはいらんぞ!』とはしゃいでいる……父さんは涼とイーシャが途中でスイーツを食べて残金が僅かだと思っての事だろうが、とにかく儲かった。
「信用出来ない」
しかし、言葉の刃で一刀の元に斬り捨てられた父さんの親心……内心、思いっきり笑った。甘やかしてスポイルするだけでは子供の信頼は得られないんだよ。
「まあ大丈夫だ。悪いようにはしない」
「本当か? 本当に大丈夫なんだろうな?」
「心配ない。いざとなったら肉体言語も駆使してお話しするから」
「止めろ! 頼むから止めろ! 本当にマジお願いします!」
「はっはっは俺に任せておけ。お兄ちゃんは話し合いで相手を怒らせる事と、肉体言語による表現力の高さには定評があるんだ」
「駄目だ、心配しかない。お前は全てを目茶目茶にする気満々だろう!」
妹よ破壊無くして再生無しだよ。
「そうそう、ここでの話し合いの様子は証拠として記録しておきたいから、各々撮影しておいてくれ」
「それは良いけど、本当にやり過ぎるなよ、話し合いだからな」
「大丈夫、大丈夫」
……絶対話し合いじゃ終わらないよ。俺に終わらせる気は無いから。
待つこと5分ほどで扉が大きく開け放たれ入ってきたのは黒ジャージの髭のビア樽親父だった……その背後には【迷彩】で姿を消している香籐がいることが周辺マップで確認出来る。
『香籐。騒がしくなるから入り口は閉めておいて』
『了解です』
誰も触れていない扉が突然動き出し、ゆっくりと閉まっていく様子はちょっとホラーだったが、幸い誰も気づいていない。
「何だ居ないじゃないか? おい、お前は誰だ?」
多分、父兄と聞いて父さんか母さんを想像していたのだろう。髭のビア樽は大人でも生徒でもなさそうな俺に目をつけて詰問してきた。
「おい涼。この髭の生えたビア樽は何だ?」
もうこの手の無礼者にはうんざりなので余計な手順は踏まずに最短コースで喧嘩を売りつけるため。第一印象をぼかす事無くありのままの言葉にして伝えた。
「ぷっ! ……おい隆、お前何を」
「何をってお前笑ってるんじゃないぞ、髭の生えたビヤ樽に失礼だろ」
「わ、笑ってなんていないぞ!」
……残念だが、それを笑っていないというのなら『黄金のガチョウ』をもってしてもお姫様は笑わせられないだろう。
「てめぇ、誰が醜く肥えた薄汚い髭だと?」
安っぽい挑発に乗ってくれたのには感謝するが、誰もそんな事まで「思っていても」言ってない。
「涼、質問に答えるんだ」
髭ビア樽を無視して涼を促す。
「ああ、もう! 柔道部の顧問の安浦先生だ」
「お前、こんなのの指導を受けているのか? 道理で弱いはずだな」
「何だと!」
涼と髭ビア樽が同時に叫ぶ。
「自分が誰に喧嘩売ってるのか分かっているのか?」
髭ビア樽が威圧をかけてくるが、大島に比べたらチワワが吠えているようなものなので全く意に介さない。
「誰に? 知るか! そもそも名乗りもしないで、尋ねて来た生徒の父兄にお前呼ばわりするような礼儀知らずが」
「何を餓鬼の分際で!」
「生徒の父兄を名乗る相手を餓鬼呼ばわりするとは、頭おかしいんだろ? 悪い事は言わないから病院行け。それとも黄色い救急車を呼んで欲しいか?」
ある一定以上の年齢層にはお馴染みのフレーズをぶつけてやる。
「……父兄だと、餓鬼がふざけたことを抜かすな」
父兄という言葉を浴びせられて多少は冷静さを取り戻した髭ビア樽はトーンを下げてた。
「高城涼の兄で、高城 隆。両親から任されて妹達をここまで送って来たんだ父兄を名乗るになんの不足がある?」
「ふん、その父兄気取りの餓鬼が何の用だ?」
そう言いながらポケットから煙草を取り出して口にくわえると火を着ける。
俺は手を伸ばして一瞬にして煙草を人差し指と中指の間に挟んで奪い取り、向きをひっくり返して火先から口の中に突っ込む。
「ぶっはっ! て、てめぇ」
慌てて吐き出す。
「許可も得ずに勝手に他人の前で煙草を吸い始めるな。ましてや生徒の前でとか馬鹿なの阿呆なの死ぬの?」
ネットスラングも用いて挑発する。ネットというのは仲の悪い者同士が、匿名で文字だけでやり合う場なので、この世の煽り文句の全てがそこにあるといった感じで勉強になる。
「俺が煙草を吸うのに、お前の許可などいるか!」
「イーシャ。こいつは普段からも生徒の前で煙草を吸ってるだろう?」
「うん」
「せめて生徒の前で煙草を控える程度の常識さえわきまえる事の出来ないニコチン中毒。そして不摂生な食習慣で太った身体。それに目の充血……どうせ毎日の深酒で肝臓にも問題があるんだろう。駄目な大人の典型……こんなのが体育会系の部活の顧問だなんて非常識だ」
「言いたい放題言ってくれるじゃないか、おい?」
近寄って来て臭い息を浴びせてくる。
「言いたい放題? お前はやりたい放題だろう? 生徒に生活態度から食生活の指導も行うのに手本となるべき当人がそんな様で、一体どうすれば指導に説得力を持たせられるんだ?」
「お、俺の指導をお前に文句を言われる筋合いはない!」
正論に狼狽えるなら、普段からまともにしておけよ無様な。
「まあ、それはどうでもいいさ。それよりも本題だ。先ほど学校の校門の前まで2人を送り届けに来たのだが、いきなり俺の妹が柔道部の上級生から暴力を振るわれたんだが、柔道部ではいったいどの様な指導を行っているのか教えて貰いたい」
「暴力? 指導だ? ……何の問題もない」
「問題無いとは、どういう事だ?」
「上級生が下級生を殴って何が悪い?」
「……意味が分からない。日本語で頼む」
「上級生が指導で下級生を殴る程度の事は問題ないと言っているんだ! 一体何が悪い? どうせお前のような文系の口ばっかり達者な坊やには体育会系の流儀なんて理解出来ないんだろう?」
「今時の世情がその言い分を認めるかどうかは別として、俺個人として指導の為に上級生が下級生を殴るのはある程度ありだと思っている。だが、妹は指導で殴られたのではなく、単に感情的に殴られたのだが、それでも問題は無いと?」
「感情的だ? どうせ高城が生意気な事を抜かしたからだろう」
「何故決めつける? お前はその場で見ていたのか? どうして自分の都合良いように勝手に話をすり替えるんだ? 恥を知れ!」
「お前の一方的な言葉を信じる必要などない」
「俺の言葉を信じ無い事と、頭から否定するのでは意味が違う。俺の言葉を信じられないなら、お前がするべきと否定では無く事実の確認だ。そんな事すら分からないで良くも指導者でございますと名乗れたものだな」
実を言うと本当に確認されたら少し拙い。何故なら仲間内で庇い合って涼が先輩に暴言を吐いたと先ほどの3人が口裏を合わせられると、水掛け論になってしまい、それを覆すだけの証拠は無いのだ……せめて動画で音声も拾っておけば違ったのだが。
勿論、ロードし直して、涼が平手で殴られる前からその状況を撮影しておくというも手だが、妹が殴られるのを止められるのに黙って見ている事など出来ない。だからといって殴ったという事実がなければ、この問題だらけの柔道部のあり方を見逃すという事となり根本的な解決にならない。
つまり、ロードなしで決着をつけるために策を弄する必要がある。
単純に考えるならば今のはったりが効いている間に、状況を進めて髭ビア樽……もう髭樽で良いや。その髭樽から決定的な問題発言なりを引き出して決着をつけてしまう短期決戦で勝負に出る。
その為の策を練る必要がある訳だが、柔道と同じでもっと揺さぶりを掛けてから仕掛けるべきだろう……だがそれは無駄になった。
「うるさい! 柔道部において上位に立つ者の言葉は絶対だ。上級生に下級生が逆らうなんて事は認められない。上級生が下級生を殴るならそれは正当な理由があるって事だ。部外者が口を挟むな!」
あ~あ、言っちゃったよ。
香籐からも『音声と画像ともにばっちり録りました!』と喜びの報告が届く。
「要するに、顧問のあんた自身が上級生が下級生に暴力を振るう事を認めているという訳だな?」
「そうだ、何が悪い!」
「悪くない。悪くないよ。実に悪くない。自分がトップに立つ職場で上位者が絶対であるというヒエラルキーの構築は、快適な職場環境の完成と同意義だからね。あなたは成功者だ、小さな小さな王国を王様になれたんだから誇っていいよ。本当に素晴らしい。あなたの豚小屋の王国では、上位者は絶対で間違わない。批判を口にする事は許されない。すべての成功は王様のモノで、全ての失敗は下の者責任だ。人間をそうマインドコントロールすることで豚に変えて支配する。素晴らしいのはその階級制度を豚にも当てはめることで、大多数の豚に自分より下の豚を作ることで体制を維持するというやり方だ。3年制のいや中高一貫で6年制の学校において、最下層の中学1年生を過ごすのはわずか1年間のみ、残りの5年間を上級生としての立場で過ごす事が出来るなら、誰もその状態に不満を持たない。持っていても1年後には忘れて、新たに王国に入って来た最下層の新入生に上級生として思うがままに振る舞う事だろう。自分たちが受けて来た屈辱の全てをぶつけてな。実に素晴らしく何処にでも転がっているありふれた豚小屋の王国だ。独創性というものが欠け過ぎていて、そして余りに醜悪で反吐が出そうだ」
俺は髭樽にチェックメイトをかける。
「言うに事欠いて、俺の柔道部を豚小屋だと?」
「お前の? 本当に所有物気取りとは驚きだが、だとするならやはりお前は豚の王様だ。人と呼ぶにはその性根が醜すぎる。そんな奴に大事な子供を預けている親達は憐れだな」
父さんと母さんからは何のリアクションも返ってこない。
今の発言が最後のトリガとなった様だ。髭樽は「うおぉぉぉぉぉぉっ!」と叫びながら突進してくる。そして俺はそれを避けずに受ける。
推定身長185㎝体重130㎏の樽が突っ込んでくる衝撃をまともに受ければ、レベルアップによる身体能力なんて関係なく俺の体重では支えきれるはずもない。
髭樽と一緒に壁まで吹っ飛ばされて、壁と樽……もう樽で良いや、樽の間でサンドウィッチにされる。普通というかレベルアップの恩恵を受けていない人間なら、どんなに鍛え上げられた強靭な肉体を持っていても肋骨の骨折は免れないだろう衝撃を受け、そして反動で樽共々床に投げ出される。
『見るものをぞっとさせるような衝撃映像が撮れましたよ。こいつの人生終わりですね』
香籐、少しは俺の身を心配してくれ。イーシャなんて驚きのあまりスマホを持ったまま固まってるくらいだぞ……うん、肝心なところを撮影していないね。
「この餓鬼が! この餓鬼が! 餓鬼の癖に生意気な事を抜かしやがって!」
樽はすぐに起き上がると、力なく横たわる演技をする俺に圧し掛かり上から殴りつけてくる。
実は激突の瞬間、壁に背中だけではなく両肩と両肘を付け、続いて突っ込んでくる樽の胸の両脇を受け止めるように構えていたので、奴の肋骨は左右数本ずつ折れている筈なのだが、その痛みを気付かせない怒りとは凄まじいものだ。
1発、2発とその拳をわざと受けるが、それ以降は右拳には左に、左拳には右へと教科書通りのヘッドスリップによる防御を行うと、所詮打撃の素人の樽なので、力任せに振るう拳は全て的を外してコンクリートの上にリノリウムを貼っただけの床を強く打ち付けていく。
怒りの興奮によって脳内へ過剰分泌されたβ-エンドルフィンによる鎮痛効果で痛みを感じていなのだろうが既に樽の両の拳は砕けているが殴るのを止めない。
数か月は両手ギブスで箸も握れないだろうが、どうせ数か月は留置場と刑務所暮らしだから刑務作業をサボれて良かったのかもしれない。 まあ自業自得なので俺が心配する事でも無いだろう。
『主将。もう十分だと思います』
香籐の言葉を合図に俺は反撃に転じる。マウントポジションからのコントロールの利いた打撃ではなく馬乗りになった素人の力任せな打撃は体重を乗せて前のめりになって打ってくるので、下から簡単にカウンターを合わせることが出来る。
カウンターで鼻先に入った一撃に仰け反る樽の左膝を取って、持ち上げてやると簡単にバランスを失い俺の上から転がり落ちる。
そこで樽は初めて柔道の寝技に持ち込もうとするが、同時に砕けて使い物にならなくなっている自分の両手に気づく。
「ああぁぁぁぁぁっ!」
興奮が醒めた事で一気に襲い掛かってくる両手の痛みに悲鳴を上げて転がりまくる。
本来ならその顔面に膝を叩き込んで、前歯を全部へし折ってやるところだが、この場はあくまでも柔道部顧問の暴力にあった生徒の父兄という被害者でなければならないので自重して【昏倒】を使って眠らせた。
『紫村、作戦実行だ』
紫村がいるのは放送室。
この状況を香籐が撮影していた動画データは、全てビデオトランスミッターで紫村に送られており、紫村はそれを録画データUSB接続で放送機材のHDDレコーダーにデータ落とすと騒ぎの一部始終を校内に放送するのだった。
『ばっちり撮れているねいるね。それにしても流石、金持ちの私立校だね。校内のあちらこちらに校内放送用のモニターが設置されてるんだから、うちの学校じゃ考えられないよ』
放送開始直後、紫村は内側から鍵をかけた状態で外側から扉を閉め、更に鍵穴には細くねじったティッシュをピッキングツールで押し込んでから放送室を脱出した後、廊下に配置されているモニターで動画を確認しながら話しかけてくる。
『どんな立派な施設でも中身があれじゃあな』
『それにしてもどうしようもない奴でしたね』
『あの手の人間は他にも沢山存在するぞ。何故なら恥を知らない人間にとってはあれが一番やりやすい形なんだから……それにうちの学校もこの学校を馬鹿に出来るような立派な学校じゃない』
『救われないね、この世は……』
3人で浮世を嘆いていると、北斗から突っ込みが入る。
「これは、どういう事なんだ?」
「どういう事って?」
「セクハラ問題でこいつを追い込むのでは?」
「ああ、そういう事か。セクハラ問題じゃ弱いだろ。証拠を出せと言われても困るだろし、それにお前さんもセクハラされましたなんて広言出来るか?」
「それは……」
「分かりやすい傷害事件が一番良いんだよ。俺が殴られれば済む話だし」
「……私の為に?」
「リューちゃん、身体は大丈夫なの?」
北斗を突き飛ばしたイーシャが不安そうに聞いてくる。
「大丈夫だ。ちゃんと受けているから」
「イーシャびっくりしたんだから!」
泣きながら抱き着いてくる。
か、可愛いじゃないか、それに胸の感触が……もうイーシャで良いんじゃないか? そんな思いが頭を過るが、次の瞬間、胸元でクンカクンカと鼻を鳴らす音に、真下に見える旋毛めがけて手刀を振り落とした。
突然扉が開く。
「安浦君!」
息を切らせながら飛び込んできた初老で眼鏡をかけたスーツ姿の男が樽の名前を叫んだ。
「安浦……君?」
床の上で大きな鼾をかいている樽に戸惑い勢いをなくす。
いや、おっさんもしも樽が頭を打って脳震盪で倒れているとすると鼾は脳溢血のサインなんだから呆気にとられるなよ。
「これは一体? あっ、き、君たちそのスマホはしまいなさい!」
男は自分に向けられたスマホに驚き、恫喝すると開け放った扉を自分で閉めた。この行動はこの後の話を周りに知られたくないという気持ちの現れなんだろうが、その様子は香籐が先ほど同様にしっかりと撮影している。
部屋の中の何かを探すように見渡しているが【迷彩】で姿を消し、気配を消して背後に立つ香籐を捉える事は出来ない。
大島レベルとは言わないまでも、空手部の2年生レベルなら何かおかしいと気づけるだろうが、この男は武道に関しては素人のようだ。
「この状況を撮影されると困る事でもあるんですか?」
「何もありません。しかしここは学校です、こちらの指示に従って貰います」
3人は俺に「どうする?」と言った視線を向けてくるので「しまいな」と答えた。
記録されてないと勘違いしている方が本音が出てやり易いからだ。
「ところで、一体もなにもありませんよ。この男がいきなり飛び掛かって来て、僕を壁に叩き付けた上に、馬乗りになって殴りかかって来てんで何発か殴られた後で、避けたら床を殴りまくって拳が砕けて痛みに悲鳴を上げながら転がり回った挙句に失神したんですよ。頭を打った様子はないので両手の人差し指と中指の第3関節の骨折。もしかしたら複雑骨折でしょうね。救急車と警察を呼んでください」
「け、警察?」
「当たり前じゃないですか傷害事件なんだから」
「傷害事件?!」
放送を見て駆け込んで来た癖に白々しい。だがそれを指摘はしない。あくまでも放送されたのは俺達とは関わりの無いというスタンスを取る。
「いちいち繰り返さなくて結構。人の話聞いてないんですか? 僕はこの男に壁に叩き付けられた上に、馬乗りで殴られたんですから立派な傷害事件ですよ。ちゃんと警察に被害届を出すつもりですから状況確認をして調書も作成して貰わないと」
「ま、ま、待ってくれ!」
「待って『くれ』? ……さてとあなたが呼ばないのなら、自分で電話して呼びましょう」
そう言って携帯を取り出す。
「いや、待ってください!」
この瞬間、この場における主導権どころか関係性がどちらがプライマリーでどちらがスレイブが決定した。
「待つのは良いんですが、あなたはどういった立場の方ですか?」
「私は太洋学院中等部体育会部活動系統括部長の花沢と申します」
そう言って流れるような動作でさっと名刺を出してきた。
「ああなるほど、つまり今回の問題の学校側の責任者ととらえて間違いありませんね?」
名刺をじっくりと眺めながら、次なる口撃を加える。
「責任、責任者ですか?」
「当然じゃないですか? この学校内で統括者である貴方の部下の女子柔道部顧問が生徒の父兄に暴力を振るった訳ですから、直接事件を起こした彼は刑事責任が問われるとして、民事では当然あなたと、この学校の管理責任も問われないはずが無いでしょう。明日は日曜日だから月曜日の新聞にはこの事件が載るんじゃないですか?」
『今の主将、とても輝いてますよ!』
『そんな褒めるな』
割と本気で照れる。
「待ってください。何とか穏便に済ませる訳にはいきませんか?」
「傷害という犯罪をなあなあで済ませて、犯罪者に刑事的責任を科さずに野に放とうとお考えな訳ですね。学校経営という意味では理解出来るんですが、あなたの子供達への教育に関わる者としての見識を疑いますね」
「いえ、私は教育の現場に直接関わる立場ではなく、あくまでも学校をマネジメントする立場の人間ですので」
「つまり、この学校は上の立場の人間ほど、教育とは全く関係ない理念に従って学校を運営しているという事ですか……いや、正直な方ですね。驚くやら呆れるやら」
「いい加減、そういう上げ足を取るようなやり方は止めてもらえませんか?」
目つきが変わり、態度もメッキが剥げてきたようだ。
「止めて欲しいも何も、あなたが学校側としてどのような対応を取るのかはっきり示さず、下らない駆け引きをしようとするからこうなる」
「つまり学校側から何らかの誠意を見せろと……つまり脅迫ですね。そういう態度をとるのならこちらとしても──」
やはりこの学校にはろくな大人が居ないようだ。徹底的に叩いて潰して涼とイーシャには転校という形を取って貰った方が良い。
はっきり言って、これ以上2人をこの学校に通させておく事は出来ない。
「もしもし警察ですか? あのですね傷害じ──」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
再び携帯電話を取り出すと警察に電話を掛ける、すると花沢が叫び声をあげながら携帯電話を奪おうと飛び掛かってくる。俺は左足を左後ろに大きく引いて体重を乗せる事で上体を逃がしながら、残した右脚で花沢の脚を引っ掛ける。状況についていけず呆然として椅子に座る涼の隣の椅子に突っ込み椅子ごとひっくり返った。
ちなみに携帯はわざと奪わせるという絶妙なタイミングでそれは行われたのだ。
床から起き上がった花沢は眼鏡がどこかへ吹っ飛び、さらに額から血を流しているが口元には卑しそうな笑みを浮かべている。
俺から奪った携帯を真っ二つにへし折ると床に叩きつけて「これでお前も傷害犯だ覚悟しておけ!」と叫ぶ。
実は二枚腰のタフな交渉者であったという面白そうな展開ではなく、ただの小物の逆切れだった。
「俺の携帯を奪って勢い余って勝手に転倒しただけに見えましたが? ちなみに俺の携帯への器物破損であんたも犯罪者の仲間入りだ。おめでとう」
そして俺の電話がスマホに生まれ変わって戻ってくるチャンスをくれてありがとう!
「うるさい! お前が勝手に言ってるだけで何の証拠もない!」
「ここには当事者の俺とあんただけじゃなく目撃者が3人もるけどな」
花沢は部屋を見渡してからおもむろに鼻で笑った。
「そんな餓鬼の証言が何の役に立つ」
香籐がしっかり証拠映像を撮影している事を知っているので彼がピエロ過ぎて笑うのを堪えるのが辛い。
「役に立つかどうかは自分の人生をかけて確認してみるんだな」
「……ふん、ここは学校だ。こちら側の証人なんて幾らでも増やせる。せいぜい吠え面をかくんだな」
「ねぇ、リューちゃん吠え面って何? 初めて聞くんだけど」
空気を読まないイーシャの疑問の声に、俺も挑発の意味で乗っかる。
「そうだな、今時吠え面なんて古臭い言葉使うのは爺くらいだよな。いいか吠え面っていうのは泣きっ面という意味で、これは犬の吠える事を鳴くともいう事から鳴き声の鳴きを、涙を流す泣くにすり替えた昔の人間の言葉遊びじゃないだろうかと俺は思うんだけど、信じるか信じないかはあなた次第です」
「へぇ~昔の人って面白い事考えるんだね」
俺が適当に今考えたそれっぽい話をあっさりと信じちゃいましたよ。こいつは将来、訪問販売詐欺に百万円単位で金を騙し取られるだろう。
「うるさい! 何を下らない事をしゃべってる。もうお前たちは終わりなんだよ。お前は刑務所にぶち込まれて、その3人は全員退学だ! ざまあみろ! はっはっはっはっは……」
「ちなみに撮影はしてないけど録音はさせて貰った。お前を破滅させる証拠として十分だろう。お疲れさま」
「な、何だって?!」
もう十分に喋って貰ったので、呆然としているところを【昏倒】で失神させた。
『紫村先輩、後はよろしくお願いします』
花沢が失神したところで香籐はカメラを止めた。
『了解したよ』
ちなみに紫村が今居るのは、高校の校舎の放送室だ……ご愁傷さまとしか言いようがない。
「それにしても、この学校もろくな人間がいないな。お兄ちゃん、ますます学校という場所が嫌いになりそうだよ」
涼にそう話しかけるが、頭を抱えながら「柔道部が……も、もうお終いだ。どうしてこんな事に……」と呟くだけで返事は返って来なかった。
どうした諦めるのが早くないか?
「私はもう開き直ったから良いよ。リューちゃんの家から最低でも中学3年間は通わせてもらうから、その間に既成事実を……ふっふっふ」
も、もうお終いだ。どうしてこんな事に……
「さすがに私もこの学校には失望が隠せません」
「まあ、そうだろうね」
「今のが表沙汰になったら、この学校自体が終わりですよね」
もう既に高校の方では一部始終が放送されているので手遅れなんだけどね。
「トップクラスがまともなら立て直すチャンスもあるんじゃないかな?」
可能性はゼロではない。
「花沢って結構トップに近い人間ですよ」
「……ほ、ほら、校長とかが──」
「校長は部活動にはほぼ無関係です。この学校にとっては部活動の成績が広告代わりなので、そこを統括する花沢の発言力は、ある意味校長をも上回ります。つまりこの学校はもう救いようがないって事ですね……ならばこの手で引導を渡してやるのが……ふっふっふ」
なるほど涼が諦めモードに突入したのはそういう事なのか……北斗、あんた黒いよ。
「どうしたものか……」
『もういいから。こんな学校には涼やリーアをおいてはおけない!』
『そうね。だったらもう涼達とは関係ないんだから徹底的にやってあげないと駄目ね』
母さんが黒い。真っ黒だ。
それから5分後、Next challengerによって三度扉が開け放たれる……私は誰の挑戦でも受ける!
「花沢君、君は何をやってるんだ! 学校中に全部流れている……花沢君!?」
倒れている花沢に気づいて駆け寄ろうとする小太りの六十がらみの爺さんに声をかける。
「何が全部流れているんですか?」
「げぇっ!」
多分、高校の校舎の放送で花沢の醜態を見て来たのだろう、俺の顔を見て潰されるカエルのような悲鳴を上げた。
「他人の顔を見てげぇっとは、熟(つくづく)この学校の人間は礼儀知らずですね」
「あっ……やあ、私はこの学院の中等部の校長で島村です」
動揺を隠し切れずにぎこちなく名乗った。
「僕は高城。ここにいる今年の新入生で柔道部に所属する高城 涼の兄で、同じく長家 イスカリーヤの従兄です」
いつものように最初は人当たりの良い態度で接する。
「それで、今日はどのような用件で?」
「実家から妹達を学校まで送って来たんですが、校門の前で柔道部の上級生が妹に『調子に乗ってる』などと難癖をつけて殴り、更に『舐めるな餓鬼』などと暴言を吐いて突き飛ばしたんですよ」
「それは、誠に申し訳ありません。我々の指導不足と申しましょうか、今後そのような事が無いよう──」
「その件で、上級生が下級生に暴力を振るうのは柔道部の指導者が認めているという発言があったので、その事に関して問い質したく面会を申し込んだのですが」
「安浦先生にですか……って安浦先生どうしたんです!」
壁際に倒れている安浦を発見して半ば悲鳴のような裏返った声を上げて駆け寄る。
安浦が鼾をしている事を確認して安心しているが、脳震盪で倒れた場合は鼾は危険のサインだから安心するなよ。
「それで彼と面会したところ、上級生が下級生に柔道の指導と関係のないところでも体罰と称して暴力を振るう事には何の問題も無いという意見を頂きまして」
「……はっ? 何でですか?」
「そんな不思議そうな顔をされても間違いのない事実です。その様子は撮影してありますから」
「撮影……そうだ!」
島村は慌てて背後の扉の付近を振り返ると何かを探しているかのような首の動きを見せる。
香籐の撮影は、その辺りで行っているので、カメラが仕掛けてあると勘ぐっているのだろう。
「そんなところに隠しカメラ何てありませんよ。彼女達が撮影したんですよ」
隠しカメラはないがカメラマン自体が隠れてるだけだがな。
「それから意見の相違という奴で口論になりまして、そこで突然叫び声を上げながら突っ込んできて、僕を壁に叩きつけて、倒れたところを馬乗りになって殴られましたよ」
その場にがっくりと崩れ落ちる。
すっとぼけているのかと思ったが、どうやら本気で花沢の件の放送は見ているが安浦のは見ていない、しかも花沢の方の放送もしっかりとは見ていない様子だ。
「やはり本当なんですか?」
「本当ですよ全て」
間髪入れずに即答する。
「……分かりました。この際、膿は全て絞り出し切りましょう」
おお、この学校に来て初めて建設的な意見を耳にしたような気がする……だけど校長って実権は余り無いんだよな?
「具体的にはどうするつもりですか?」
「残念ですが、安浦先生と花沢君には職を辞して貰い。その後刑事罰を受けてもらいます。安浦先生は傷害罪。花沢君は脅迫、器物破損となるでしょう。そして安浦先生は起訴されるのは間違いありませんが、花沢君は起訴されるかどうかまでは分かりません。その件に関しては学校側の力が及ぶところでないので、ご理解下さい」
「それは構いません。学校側が身内を庇うような事をしなければ、後は司法に判断を委ねれば良いと思います。ただし彼らが、再び今の様な職には就けないように、全ての学校に話を入れておいて下さい」
「分かりました」
「それからもうひとつ。安浦は女子生徒へのセクハラ行為も行っていたようです」
「セクハラ? まさか中学生にですか?」
「そのまさかです。この件に関しては表沙汰にすると傷付くのは生徒達なので内々に処理をして貰いたいのですが、他の部でもそのような問題がないのか、生徒への体罰と合わせて、アンケート調査、そうですねあくまでも部の指導者達が関わらない方法で、生徒達に直接行った方が良いでしょう」
「内々にアンケートを実施して、その結果を踏まえて処分を行う事にしましょう」
随分と積極的だな。
「でも良いんですか? 警察沙汰になれば学校側にも大きな痛手でしょうに」
気になったので尋ねてみた。
「構いません。学校側が自主的に彼らの排除を行えば信頼回復も早いですし、それに体育会系の部活動偏重の学校経営には疑問を持っていたので、彼らの勢力を削ぐというのは私個人としてのメリットのある話ですから」
良いね、こういう人。ふんわりとした正義感に酔ってる奴等と違って、裏切る事はあっても行動原理がブレる事の無いタイプだから、利害関係が一致とまではいかなくても互いに調整出来ている間は信頼しても大丈夫だろう……その間だけはね。
「それでは、当たり前の事ですが、妹達を含めて柔道部の部員が何の杞憂もなく柔道に打ち込めるように、教師が生徒を上級生が下級生を弱い立場の者を虐げる様な事が無い艦橋を作るとよう約束してください」
「……分かりました」
俺と島村とのやり取りを見ていた北斗が疑わしそうに俺を見詰めている。
「……高城兄。君は本当に私と同じ中学3年生なのか?」
真顔で言うな。それはよく言われる言葉だから、慣れているからと言って何でも無いわけじゃなく、良く言われるからこそ嫌だという事もあるんだぞ。
「えっ! 中学3年生……高校じゃなくて?」
島村が、俺の顔を見詰めたままで口を開けて固まるのは止めろ。俺だって傷つくことぐらい……ある。
好きで中学生にして幕末の人斬りみたいな目つきはしてないんだよ。
「リューちゃん、頼れる大人って感じで格好よかったよ!」
中学生に見えないから良い、発想の転換で少しだけ救われた気分になれるよ。イーシャは俺の癒しだな……時々。
『高城君。どうしよう?』
『何だ?』
真剣な様子の紫村に、俺は先を促した。
『高校の放送室で流した奴には、最後にスーパーインポーズで「続きはウエブで」って入れたのに続編はお蔵入りになるみたいだけど』
『勝手に入れるなよ』
『だって、あそこは徹底的にやるなって期待してたからね』
『僕も期待していました』
『酷い奴等だな、人の妹の人生を左右するような話だというのに……だが、お前達の期待は叶うぞ』
『へぇ~』
『どうしてです?』
『最後に奴に話しかける前に俺は闇属性レベルⅢの【看破】を使った』
『まさかあの使いどころの分からない。相手が嘘を吐いたかどうかし分からない中途半端なあれをですか?』
やっぱり評判が悪い。というか魔術はほとんどが評判悪い。【看破】は相手に掛けて、こちらの質問などに対して、答えた時にそれが嘘の場合に自分だけに聞こえる「ブゥーッ!」という音で知らせてくれるのだが、普通の会話の流れの場合は、どれに対して嘘を吐いたのかが判断付きづらいという欠点の魔術である。しかも本当は何なのかも分からない、正解の解説をしないクイズ番組のような不親切さも使いづらさに拍車をかける。
『そうだ。カマを掛ける前に使う位にしか役に立ないあれだ。あの野郎すました顔で「分かりました」と嘘吐きやがったよ』
『でも【看破】を使ったという事は疑いを持ってたんですよね? 一体どのタイミングで疑いを抱いたんですか?』
『花沢達体育会系が力を持った状態を改善したいって言ってただろう。だがそれを行うには花沢を排除しても余り意味はない。別の新たな人間が花沢の立場を就くだけで、学校の体制自体は変わらない。だとするならば島村は自分が学校、というか本体の大学を含めた組織のトップに立ち、運動部の成績で学校の知名度、評判を上げる構造を変えるつもりと考えるべきだろう。つまり柔道部をはじめとする運動部をいずれは縮小するはずなんだ』
『でも自分には奴が嘘を吐いているようには見えなかったんですが』
『それはそうだ。奴は嘘は吐いていない。嘘を吐かずにこちらを騙そうとしていた』
『そんなことが?』
『可能だよ。奴は嘘を吐かずに、選択的に真実の一部だけを話す事で、こちらの意識をコントロールし、自分に都合の良い話の流れに持って行った』
『何故そんなことをするんですか?』
『嘘を吐くのはデメリットが大きいからだ。相手が証拠を記録していれば致命的になるし、それに普通人間は嘘を吐くのが嫌いだから嘘を吐けばストレスがかかるし、何より相手に見破られ易い』
『でも主将は──』
『それ以上何も言うな』
誰が平然と嘘を吐きまくる異常者だ!
『だけど面倒だね。彼を破滅させてあげるだけの証拠を集めるのに時間がかかりそうだけど、彼は今回の件が公表された後、早い段階で……多分、来週中にでも決着をつけてトップを取ると思うよ』
『同感だ。だからこちらも今日中に決着をつける』
『どうするんだ隆?』
『奴にとって致命的な爆弾がこちらの手の中にあるからね』
『彼女達が撮影した。そして彼女達が放送したと思っている動画データだね』
やはり紫村は気づいていたか。
『奴としてはそれを何としても回収したい。自分のコントロール下にない爆弾の存在は許容出来るはずが無いからな』
『そしてそれを彼が穏便に手に入れようとする提案を高城君が理由をつけて蹴る。すると彼は何らかの直接的なアクションを起こすという訳だね』
『それじゃあ、涼やリーアが!』
『大丈夫だよ兄貴。先ずこれ以上学校の中で事件が起きる事は、学校自体にとっても致命的だし、次に島村には体育会系に所属する涼達へ直接的に手出し出来る手段は無いだろ。そして何より肝心の動画データを俺が持っている事を分からせてやれば確実に狙いは俺になる。俺の護衛として張り付いてる人達にも仕事をさせてあげないとね』
『なるほど、お前を襲って捕まった連中は背後関係を洗いざらい徹底的に調べられるから、誰の命令で襲ったのかも明らかになる訳だ』
『それなら、続きをウェブで発表しても良いんだね?』
『構わん、むしろやれ。ただしタイミングは俺が襲われて、島村が捕まった後だ』
『それなら時間があるようだから、先ほどの分もしっかり編集して解説もつけておくよ』
一つの大きな学校という組織を破壊しつくす事を楽しんでるな。
『それは良いんですけど、扉の向こうに張り付いてる奴はいつまで無視するんですか?』
香籐の言葉に俺は困る。周辺マップには明らかに部屋の外で、扉の廊下側にぴったりと張り付いて、多分中の様子を伺っている奴がいるのは島村が入って来てすぐに気づいたのだが、それがどういう人間なのか分からないので放置している状態だ。
『どうしたものかな?』
『じゃあ開けますよ』
『えっ?』
止める間もなく香籐が扉を開く。
すると扉に身体を預けて聞き耳を立てていたのだろう男ががバランスを崩して転がり込んできた。
「そ、総長!」
その言葉にS県人たる俺の頭に真っ先に思い浮かんだのは暴走族の頭だ……いや、本当に多いんだよS県には、暴走族同士の抗争で機動隊が出動とか、平成の世でそんな事が起こるオンリーワンなS県万歳だよ。
だが、乱入者は革ジャンにサングラス、そして気合の入ったリーゼントの「どけぇ~い、どけ、どけぇっ!」という感じではなく、長い白い髭を顎に湛える和服の島村よりも10歳以上は齢を重ねた老人だった。
ただ者ではないと感じさせる佇まい。総長と呼ばれるだけの事はあり人を従える事に慣れた者特有の空気をまとっている……例え床に転がっている姿を晒していても。
そして倒れる瞬間のぎりぎりまでの粘りからも、老いた今でも肉体の鍛錬は欠かしていない事を感じさせる……そう、俺には分かる。この老人はカバディの達人に違いないと。根拠はないよ。
「島村君。やはり君は己の野心を抑えきれなかったようだのぅ」
立ち上がると何事もなかったように口火を切る。
「な、何を馬鹿な事を……」
「先ほどの話は、廊下で聞かせてもらった」
盗み聞きだけどな。
「くっ! ……」
「はっきり言おう。我太洋学院大はスポーツ名門校という看板を下ろせば経営は成り立たない。君の思惑通りにする訳にはいかんのだよ」
「スポーツ名門校と言えば聞こえは良いが、実際世間の評判は運動馬鹿校という不名誉なものだからですか?」
島村の発言に、俺が涼やイーシャ、ついでに北斗に視線を投げかけると3人ともさっと視線を外した……おい!
「だが人を育てるという事に関して、文と武に優劣がある訳ではない。何を恥じる必要がある!」
「貴方には分かるまい、『ねぇ、お祖父ちゃんの学校って馬鹿製造プラントって本当?』と孫に訊かれた私の気持ちが!」
うま……酷い事を言うな。この部屋にいる製造中の馬鹿3人は、がっくりと肩を落としているぞ。
そもそも、そんな個人的な理由で学校の制度改革を行おうと考えたのか? 馬鹿だろ。
「そんな事で僻んでいたのかね?」
「そ、そんな事だと! 私がどれほど──」
「孫にそう言われたのが自分だけだと思うなっ!」
カバディで鍛え上げられた老人離れした肺活量による大音声(だいおんじょう)で一括された島村は堪らずに尻餅を突いてひっくり返る。
「総長も……それならば──」
「喝っ!」
気合に打たれて仰け反りでんぐり返り一回転。
「……儂はな、そう言った孫に3時間に渡り正座して話し合って分かって貰えたよ。小さな子供とはいえ腹を割って話し合えば理解してくれる、それが教育なのではないか?」
それはただの拷問だろう。下半身を重点的に鍛え上げる空手部の俺は正座が苦手だ。発達した脹脛などのボリュームたっぷりの筋肉が正座の姿勢により圧迫されて常人以上に血流を妨げるので、3時間の正座など考えただけでゾッとする。
俺ほど苦手じゃなくても、子供が3時間も説教されたら「OK!OK! グランパ。あんたの言いたいことは分かったぜ。分かったからもう勘弁してくれ!」と泣きを入れるのは間違いない。
「君には教育者としての信念が、いや哲学が足りない!」
「哲学?」
哲学とは我々現代日本人にとっては思想的なものを想像するだろうが、本来の哲学とは全ての学問の根幹にあり、学問ではなく論理的な思考活動全般を意味する。つまり哲学とは活動を示すものであり人生そのものであるのだ。
だからこそ孫に拷問を加えて自説を通し、それお教育と豪語する人間が使ってはいけない。哲学に対する冒涜といえる。
「そうだ哲学だ。何故諦める? 何故己の信念を貫き通さない? そもそも幼き子供の意見に己の考えを屈するなど、それでも教育者なのか?」
「私は……間違っていたのか?」
何かを分かって居るような気分になっているようだが根幹の部分から間違ってる。その爺のいう事は全部間違ってるからな。
「やり直すのだ。我校に問題があるのも事実だ。一から仕切り直そうじゃないか」
そう言って手を差し伸べる。
「そ、総長……」
島村は差し出された手を両手でつかむ。
「島村君……」
涙を浮かべて見つめ合う爺2人に、俺は「何これ?」と呟くしかなかった。
もうね、涼がすっかりこの学校でやっていく気をなくしてしまいましたよ。こんな学校にいたら馬鹿になるってね。
既にどのクラスにも一人いる。ダントツで勉強出来ない子レベルだと思うんですが、これ以上馬鹿になるのは嫌なんだと好意的に解釈したよ。
まあ、気持ちは分からないでもないのだが、大学を含めた学校全てのトップである総長が折角部活などの改革にも力を入れる気を見せているのだから、様子を見てからでも良いんじゃないかと説得している。
「ほら夏休みにこっちに戻って来て、父さんの指導を受けてみて、その結果、転校して実家に戻るか判断しても遅くはないだろ?」
「じゃあ、私もリューちゃんの家に行くからね」
「国に帰るんだな。お前にも家族がいるだろう」
ソニックブームを出しそうな勢いで俺は断固として拒否する。
「じゃあ、電話するね……もしもし、お母さん? うん私。あのね今年の夏休み、リョーちゃんと一緒に叔父さんの家に行ってもいい? ……うん……うん、ありがとうね。じゃあまた電話するから!」
通話を終えると「お母さんが頑張りなさいだって」笑顔で言った。
ナニを頑張るんだ!?
『頑張るんだ』
と、父さん?
『頑張れよ』
兄貴? ……
『お母さん、信じてるから、ちゃんと自重してね』
自重って何を?
とりあえず涼とイーシャの転校は保留となった。
涼に家に電話をかけさて父さんと母さんに話をして貰った。
父さんがうっかりとまるで見ているかのように話しかけて母さんに足を踏まれたのは想定内の出来事だった。
その後は警察と救急車を呼んで、警察からは調書を取られ、更には病院で診断書も取られた。
診断書とともに警察署に向かい、そこで更に改めて聞き取りが行われる。
何度もしつこく同じ事を尋ねて来られるのはかなりイラッとするが、これには嘘を吐いていた場合に証言がブレたり、または新たな事実を思い出すという事もあるので、事件捜査において重要な手法なので怒ってはいけない……怒ってはいけないのだ……怒ったら負けだから。
結局、涼達と共に解放されたのは5月下旬という日の入りの遅い季節にも関わらずとっくに日は沈んでからの事だった。
涼とイーシャと北斗、それに学校関係者は警察車両で学校に送り届けて貰えるようだ。俺は駅に送ると言われたが「自電車でS県まで戻るんだよ……これから」と言ってやった。
「電車賃が無いなら貸そうか?」
俺の聴取していた刑事がそう言ったが「借りても出費だ。余計な気を遣いをするくらいなら、俺が輪行バッグに自転車を入れてる事がどういう意味なのか察して、聴取を早目に終わらせる程度の気遣いが欲しかった」と嫌味をぶつけてやる。
そもそも俺の所持品である輪行バッグの中身を確認したのはこの刑事なのだから、これくらいの嫌味は許されるだろう。
こんな時間になるまで拘束されるとは思ってなかったので、これから街灯もない山道を走って帰るという設定は無理があるんじゃないかと思うのだ……だが、無理を通せは道理は引っ込むと昔の偉い人も言っていた。
自転車で家まで帰る振りをするために輪行バッグから取り出した自転車のフレームに車輪を取り付けて跨ると、そのまま警察署の門を通過し、表通りで張り込んでいる護衛兼見張り達の横をすり抜け、加速し一気に振り切ると人目のない路地に入ると【迷彩】で姿を消して自転車を収納する。
そして浮遊/飛行魔法で上空へと移動すると、紫村、香籐と合流する……こいつらしっかり何か買い物したのだろう紙袋を両手に持っていやがる。
途中、飛ばし過ぎて飛行機雲が出来てしまい、一部ネットで話題になってしまった。
月齢が25頃の細い月なので油断していたせいだが、夜空に3本の雲が水平に伸びていくが、その先頭には航空機であることを示す航空灯・衝突防止灯の明かりが存在しない動画にはさすがにヤバイと思った。
ともかく飛行機雲の発生は、折角の視認もレーダーによる捕捉も不可能な高い隠密性を誇る浮遊/飛行魔法の優れた特性を無にしてしまう重大な問題だった。
原因は飛行時の風除けの為に形成する風防の形状が高速飛行する場合に正面から受ける風の影響で不規則に歪む事で、本来ならば水平に直進するだけなら発生しないはずの飛行機雲が発生すると予想出来たが、速度制限を行うか、全体の魔力消費の40%を占める風防の強度を上げて、魔力消費量を大幅に引き上げる以外に解決方法が簡単には思い浮かば無い。
現在の目標である超音速達成の為には根本的な解決策を講じる必要があるだろうが難しい問題だ。