午前中いっぱい隆とのデートを楽しんだイスカリーヤは隆の家へと戻った。
夕方までには寮に戻らなければならない彼女にとってはそれがタイムリミットだった。
「リョーちゃんただいま!」
居間のソファーで尻尾を丸めて小さくなっているマルにちょっかいを掛けている涼へと声を掛ける。
「……おかえり」
不貞腐れたようにイスカリーヤを睨みつける。
「叔父さんや叔母さんに甘えてたんでしょう。何を怒ってるの?」
イスカリーヤはそんな涼の態度を無視して彼女の隣に腰を下ろすと耳打ちした。
「べ、別に甘えてなんていない!」
思わず、そう叫んだ後でばつが悪そうに俯いた。
「へぇ~、書類は郵送でも良いのに態々直接家まで来たのに?」
「うるさいな。リーヤだって勝手について来たくせに」
「私はリューちゃんに会いに来たんだもん」
「何で隆なんて……」
「だって優しいんだもん」
「私には全然優しくないけどな」
「それに関してはリョーちゃんも悪いと思うよ。ダイちゃんもリューちゃんも、もう少し女の子らしい優しい子になって欲しかっただけだし」
「私は私なりに女の子らしくて優しいと思ってる」
「…………………………ごめん、ちょっと眩暈がしたわ」
ソファーの背もたれに後頭部を埋めて、そう口にするのがイスカリーヤの限界だった。
「あいつらが私に求めるのは私を辞めて、他の私になれって事だ」
「はい嘘」
「嘘じゃない」
「リョーちゃんが、リューちゃんたちに反発し始めたのって3歳か4歳くらいだよね」
「ああ」
「そんな子供の頃にしっかりとした自我なんて確立してなかったでしょ」
「じ、自我?」
「世界と自分の境界線の事よ。『我思う、故に我在り』って言うでしょ。全てを内包する世界の中から自分という個を切り離すための意識……こういう話は師範とかは話してくれてなかったの?」
イスカリーヤは隆の前では可愛いお馬鹿を演じているが、実は学校の成績もかなり良い。つくづく恐ろしい中学1年生である。
「あ、ああ」
柔道とは「道」を示すもの。その指導者ともなれば、人としての道を説くために道徳や哲学に付いて話をする事もあるのだが、涼にはつまらない話としか感じられなかった。
そのため小学校の頃に通っていた道場で聞いた事があるような気もするが、全く憶えていない。
「さすが脳筋の王と書いて脳キング……まあ良いわ。リョーちゃんの言う『私を辞めて、他の私になれ』とか言うのは、ある程度大きくなったリョーちゃんが作り上げたリューちゃんたちへのイメージで、小さい頃のリョーちゃんはそんな事を考えていたんじゃないって事よ」
ちなみに脳キングの称号は、3月下旬から部活に合流していた彼女がわずか1ヵ月足らずの間に勝ち取ったものだった。
「じゃあ、昔の私はどう考えていたって言うんだ?」
勝手に決め付けられたことに反発を覚えた涼の声には険しさが表れていた。
「多分ね……大好きなお兄ちゃん達が涼の事を叱るの。涼はがんばってお兄ちゃん達のいう通りにしようとするけど出来なくて、お兄ちゃん達は涼にがっかりするの。それが辛くて悲しくて、お兄ちゃんの期待に応えられないなら、もう涼はお兄ちゃん達の妹を辞めるの。そうすればお兄ちゃん達をがっかりさせなくて済むの……てところじゃないの?」
「だ、だ、誰がそんなこと! か、勝手な事を言うな!!」
図星を突かれたかのように冷静さを失い大声を上げる。ついでにマルも怯えて吠える。
「どうしたの涼。そんな大声を出して?」
「べ、別に何でもないよ母さん」
「喧嘩しちゃ駄目よ」
「はい!」
「叔母さんや叔父さんには良い子なのにね」
「いいだろ別に……」
学校では男前少女で通っており、年下どころか同級生や上級生にすらファンがいる涼だが、実は甘えん坊な部分を多分に持っていた。
「リューちゃんもダイちゃんもリョーちゃんのことは嫌ってなんか無いのにね」
「嘘だ。隆も大も私のことが嫌いだ」
「本当よ。だって2人が私のことを可愛がってくれるのは、リョーちゃんの身代わりだもん」
「身代わり?」
「そうよ。2人はリョーちゃんのことを可愛がってあげたくて仕方ないのに、リョーちゃんが海栗みたいに刺々しい態度を取るせいで出来ない代わりに私のことを可愛がってくれたんだよ」
「隆や大が、私のことを可愛がりたい……馬鹿なことを」
そう言いながらも涼の視線がきょろきょろと動く。明らかに動揺していた。
「リョーちゃんが『ごめんね。本当はお兄ちゃんのことが大好きなのに、素直になれなくってごめんなさい』なんて泣きながら言ったら、2人は喜びの余り昇天するんじゃない?」
「私が……私が……そんなこと言えるか!!!」
マルが全力で暴れて自分の身体を押さえつける涼の手から逃げ出し、史緒のいる台所へと逃げ込んだ。
「涼っ!」
台所から史緒の叱責の声が飛ぶ。
「うっ……ごめんなさい」
史緒に叱られてしゅんとなる涼の姿に、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべずにはいられないイスカリーヤだった。
「でもリーヤは兄貴達に可愛がってもらえて嬉しかったんじゃないのか?」
「うん、とっても嬉しかったよ。凄い幸せだった。ダイちゃんとリューちゃんは私が欲しいと思っていた理想のお兄ちゃんだったよ」
「だったら私が兄貴達と仲直りしたら困るのはリーヤだろ」
「私はもういいの。妹はもう卒業して、これからは女の子としてリューちゃんとお付き合いしていくの、そしていずれは……もう何言わすのよ」
「……何も言ってない」
そう応じながらも涼は、こいつはヤバイ。隆も大変だなぁ~と思わず同情してしまう。。
「リューちゃんさ、強くなってて格好良かったんだよ。私が高校生になるまではリューちゃんには我慢してもらおうと思ってたんだけど、私が我慢できないみたいな?」
「何言ってるんだ? ……本当に色んな意味で何を言ってるんだ!」
前半は隆≠強いが常識となってる涼の頭の中でイスカリーヤの言葉が上手く日本語に変換されないのだったが、後半は単なるエロトークに対する抗議だ。
「リューちゃんが強いのが不思議なの? 空手もやってるのに?」
「馬鹿いえ、所詮中学の部活レベルだろ」
「……それを言うなら私達の柔道も中学の部活だよ」
「一緒にするな」
涼としても親元を離れて、寮生活までして柔道に打ち込んでいるので、普通の部活と一緒にされることは我慢ならなかった。
「でもリューちゃんと同じ空手部の人に不意打ちまでして割と本気で仕掛けたんだけど、逆に投げられたよ」
「リーヤ、何を言ってるんだ?」
「ちゃんとありのままに言ってるよ~」
「仮にも日本代表の癖に。何で空手部の人間に投げられてるんだ」
「何でって言われても、そういう空手部らしいとしか……」
「たるんでる」
「たるんでないよ。むしろメリハリボディーだよ。リョーちゃんの棒体型とは違うんだから」
「そういうことじゃない。大体、誰が棒体型だと!」
そう抗議するが、まるで少年の様とその気のある同級生から持て囃されている涼の身体は凹凸に欠けているのは事実だった。
しかし、それを指摘して追い込むほどイスカリーヤは鬼ではない。生温い視線を送りつつもその件に関してはノーコメントを貫く。
「顧問だって外部から指導者を招いたわけでもないただの中学教師がやってるような部で、しかもそんな顧問にすら勝てない隆が強いなんて、何の冗談だ?」
「はいはい。話はそこまでにしてお昼ご飯が出来たわよ」
史緒がサラダの入ったボウルをキッチンテーブルに置きながら声を掛けて来る。
「分かったよ」
「涼は食器出して。ねぇ、女の子なんだから料理を手伝ってくれてもいいのよ。リーヤちゃんは隆を呼んできてね」
小言を言われる涼を見捨てて、イスカリーヤはさっさと隆を呼びに廊下へと逃げた。
「お母さんね。涼と2人で台所に立って料理するのが夢なのよ」
「そ、それは……」
人間には出来る事と出来ないことがあると思ったが、自分の一番の味方であり理解者である史緒にそれを言うことは憚られた。
「それから話は変わるんだけど、のうきんぐって何のこと?」
とても自分の口からは説明出来ないと泣きたくなる涼。
まさか送り出した娘が1月足らずで、そんな不名誉な称号を与えられたと知ったら母として悲しむだろう。
そう思うと実家に顔を出した事を後悔せずにはいられなかったのである。