マルは俺の脳が覚醒を開始するタイミングを掴み、俺が目覚める直前に顔を嘗め回すようになってしまった……これでは回避しようが無い。
散々に嘗め回されて顔中をベタベタにした状態でマルの首を抱きしめて背中を叩いて落ち着かせる。
やっと理解できた事なのだが、マルが毎朝俺の部屋に来て顔を嘗め回すのは、朝の散歩に連れて行って欲しくてやっているのではなく、朝の挨拶のようだ。
俺が家を出る時も玄関まで見送りに来てくれたが月曜日の時の様に、一緒に外に出ようとしたり鳴いたりはしなかった。
……つまり、もしかすると……マルの人気ランキングで俺は1位になったのかもしれない。
どうだろう。流石にご飯を用意して、一日中面倒を見てくれる母さんに勝てているだろう? まだ無理だ。まだ無理だが、夜の散歩の後で念入りにブラッシングしてご機嫌を取ってやるぞ。
「おはよう」
声を掛けながら部室に入ると空気がどんよりと重い。今朝の空は快晴だというのに……その原因は1年生達だ。昨日の合宿の話で心が折れ掛けてしまっている。
「おはようございます」
香籐が挨拶をしてくるが、その顔色は優れない。
「主将。何か1年達に言葉を掛けてあげは貰えませんか? このままではこいつら……」
潰れてしまうという事だ。でもなぁ、こいつらまだ諦めて無いんだよ。諦めれば楽なのになぁ~、俺から諦めとと言っても……いや、もう言ったな。でも納得は出来ない訳だ。
「聞け1年生。お前達はそんなに合宿が嫌か?」
「は、はい……」
「申し訳ありません……」
俺の問いに頷きながら答える。
「俺も嫌だ。凄く嫌だ。嫌で嫌でたまらない! 学校を爆破する程度で合宿が中止になるなら喜んで爆破したいくらい嫌だ!」
「しゅ、主将……」
「そ、それは幾らなんでも」
驚く1年生達と慌てる香籐。
「俺はな、アンデルセンの童話に出てくる超神経質なお姫様並に枕が替わったら眠れない神経質な男だ。おかげで毎年合宿では酷い寝不足に苦しんでいる。そんな状態でハードなサバイバル訓練をこなす苦しみは、お前達には理解できないだろう」
「お前が悪いんだろう」
「バーカ」
「このヘタレが」
俺の事情を知っているゲイ以外の3人が野次を飛ばす……後で〆る。
「そんな俺でも耐えられたんだ。お前達に耐えられない訳が無い。耐えた分だけ強くなる。お前達は強くなるために、態々こんな空手部を選んだのだろう」
まあ、合宿で鍛えられるのはサバイバル技術と忍耐力だけで、空手に関する練習は何一つしないから、1年生達が望む強さは身につかないと思うけど……今は内緒だ。合宿中は何も考える余裕が無く、家に帰って一息吐いてから「あれ?」と気付くくらいで良いんだ。
「常識的な練習では常識的な力しか身につかない。ここは非常識で理不尽な場所だ。だからお前達は理不尽を乗り越えて己を鍛え、非常識なほど強くなれ」
「はい……強くなります」
「俺は強くなるために空手部に入りました……だからきっと強くなります」
「俺も、俺も強くなります」
1年生達は決意を新たにしたようだが、どのみち空手部は簡単には辞められないし、空手部に居る以上は強くなるしかない。そこにはお前達の決意は余り関係なくオートマチックに未来が待ち受けているだけなのだ。と言ったらやっぱり駄目だよな。自分で気付かないとさ。
話が一段落ついたところで後は香籐に任せる事にした。
そして着替えを始めた俺に紫村が話しかけてくる。
「高城君は、今日は鈴中が現れると思うかな?」
「……どうだろう。失踪しているとするなら学校には来ないだろうし」
「僕はね、彼の失踪に君が関係してるんじゃないかと思っているんだけどな」
「……冗談は性癖だけにしておけよ」
お、俺の心臓を貫くかにような、し、紫村の鋭い指摘をか、顔色一つ変えず、か、華麗にかわす事が出来た……ふぅ、全く油断の出来ない男だよ。切れすぎる。
「まあ、僕は君の敵じゃないから、そういうことにしておくよ」
こいつは苦手だ。その性癖を除いたとしても苦手だ。本当に敵じゃないのが唯一の救いだと思うよ。
朝練終了後、またマグロが部室の前に並べられている。
「俺……本当に強くなれるのかな?」
「強くなる前に死ぬのかな?」
「生き残りたい……生き残りたい……」
そんな絶望の声が上がるが……お前達が死ぬ事は無い。ぎりぎりを生きる者達の必死な様を愛でる。それが大島なのだから、その匙加減は芸術的ですらある。
着替えを終えて部室を出て校舎玄関に向かう途中で大島が待っていた。。
システムメニューが『大島がが現れました』とエンカウントアナウンスをしないのが不思議で堪らない。どう考えても俺にとっては重大な脅威だから仕事をしろよ。
「高城。お前昨日の夜何をしていた?」
「昨日の夜ですか? 犬の散歩して、それから飯食って風呂入って寝ましたけど何か?」
事実だ、もし大島が俺の心を読めたとしても嘘は吐いていないと判断するしかないだろう。
「散歩か……何処を散歩したのか聞かせてもらうぞ」
顔を近づけて凄みを利かせる。ちっ! そう来たか──『セーブ処理が終了しました』──これで良しと。
「川の堤防上の散歩道を往復しました」
万一の為にセーブをしたが、これが正解だと思っている。
昨日俺を尾行する者は居なかった。そもそもただの鬼剋流の門下生ではマップ機能が無くても、俺に気付かれずに尾行なんて真似が出来るわけが無い。だからこそ大島は俺にプレッシャーを掛けて綻びを見つけようとしたのだ。
「ふん、そうか……今はそういう事にしておいてやる」
諦めて大島は立ち去る。だが去り際にニヤリと笑った。
「絶対、今度は尾行をつけてくるな……」
鬼剋流の門下生には、警察官や自衛官などの人間も居るだろう。そして興信所の人間も……だから奴は、俺に尾行をつけるはずだ。
ちなみに、じゃんけんで一方が「俺は次にグーを出す」と言った時に「じゃあ俺はチョキを出す」と相手が出すと言った手に負ける手を敢えて宣言する奴は、かなりの確率で宣言通りにチョキを出す。
それは自分の宣言で相手を翻意させ、自分は宣言を変えずに相手を負かすと言う最高の勝ち方をする自分の姿をイメージし、それに酔ってしまうからだ。
大島も同じく、この件に関して高みの見物を決め込む一方で、俺を出し抜き弱みの一つでも握る最高のシナリオを思い描いているはずだ。
貸し借りはともかく、奴にだけは弱みは握られたくない……あんなアウトロー気質のドS男に弱みを握られたら人生終了ですよ。絶対に出し抜いてやる。
取りあえずMP3プレイヤーを仕掛けるために教頭を探す。
正直なところ、もうMP3プレイヤーで何か重要な発言を拾う事は余り期待してはいない。今の最大の目的はMP3プレイヤーを発見させる事だった。
鈴中が失踪するという想定外の状況に警戒する中、身に覚えの無い録音状態のMP3プレイヤーが胸ポケットから見つかり、しかも何時仕掛けられたのかすら分からないとなれば、奴にとってかなりのプレッシャーになるはずだ。
追い込まれて北條先生に直接的な手段をとる可能性もあるが、北條先生には放課後は空手部の部員で、そして深夜の時間帯はOB達が交代で見張りに付いているとの事であり、教頭本人が金でそこらのチンピラを雇ったとしても、北條先生に危害を加えるのは絶対に無理だ。大島クラスの化け物でも雇わない限り……
校内で直接暴力に訴えようとしても人目が多い。それに俺がマップ機能で北條先生と教頭を常にマークしているので、教頭が攻撃態勢を取ればすぐにシンボルマークが赤に変わるので、その場合は何をおいても全力で駆けつければ良い……本当に良いのか、いきなり不安になってきた。
下手な真似はせずに今晩一気に決着を付けるのが良いんじゃないか? いや今晩決着を付けるなら、敢えて教頭にMP3の存在を気付かせてもいきなり今日中に北條先生に襲い掛かるような真似はしないだろうから……うん、やっぱり止めておこう安全第一だ。金で動く大島クラスの化け物が居ないとも限らない……あのクラスの生き物が何体も存在したら世界のピンチな気もするが、北條先生の安全を脅かすようなリスクを冒す必要は無い。
HRの時間、連絡事項を伝える北條先生の表情が何時もより和らいでいる。昨日の事で少しでも気分が楽になれたならば幸いだ。
「なんか北條さん機嫌良さそうだな」
「そう思うか?」
「何時もあんな顔してたら良いのにな……ほら、折角美人なんだし」
良い傾向だ。良い傾向だがイラっとする。この感情が嫉妬である事くらい分かる。だが圧し殺す事は出来ない。出来ないなりに付き合っていくしかない感情だ。
「ほう。今までそんな事言った事なかったじゃないか?」
「別に前から美人だとは思ってたよ」
俺は前を向いているので顔が見えないが、多分前田は顔を赤らめているだろう。
クラス全体の雰囲気も、何時もの奇妙な緊張感はほぐれている。これを良しとしないのは北條先生へ自分の気持ちを裏切る事に他ならない。俺は涙を堪えつつ嫉妬の念を胸の内にしまいこんだ。
もっとも北條先生のオーソリティーの座は絶対に譲らない。何がオーソリティーかは知らないがな!
昼休みになると、俺のクラスに顔を出した紫村達と連れ立って部室に向かう……相変わらず女子達のテンションは高い。もう嫌だこんなクラス。
「鈴村は今日も無断欠席だそうだ。本気で失踪を疑った方が良いかもな」
田村の言葉に「そうだな」と頷く。
「ところで、いい加減高城君が何をしているのか教えてくれないかい?」
「そうだな旗振り役のお前が1人でこそこそと何かやってるのに、俺達には秘密と言う事は無いだろう」
確かにそうだ、こいつらには北條先生の見張りもやって貰っているんだ……だが。
俺は人差し指を自分の唇の前で真っ直ぐ立てる。それだけで何の疑問も発さずに口をつぐんで頷く、こういうところが、こいつらもただの中学生ではない証だ。
周辺マップで室内に盗聴・盗撮の虞は無いことはあらかじめ確認しているが、部室の外に大島が居る。距離と奴の向きから部室の壁に耳を当てているのだろう。
俺は大島が張り付いている壁の方を指差すと、口の前で5本の指を開いたり閉じたりを繰り返して何か喋れと指示すると壁へとゆっくり忍び寄る。
「そうだ。さっさと話せよ!」
伴尾が態と大きく声を荒げて俺をサポートする。俺が伴尾に親指を立ててやると奴はニヤリと笑う。さすが2年間共に地獄を潜り抜けてきたわけではない。
「何とか言えよ高城!」
俺を責め立てるような声を背に受けながら、【探熱】を使い壁の熱分布から大島の頭の位置を確認すると、壁を壊さないように加減しつつ殴りつける。
本来なら壁を通した衝撃が奴の鼓膜を破壊するはずだった。だが俺が殴った向こうから同じタイミングで大島は殴り返した……壁越の熱分布の変化では急な動きは掴めなかった。
戻ってきた衝撃が手首を抜けて肘を押し返しバランスを崩す。次の瞬間、周辺マップの中の大島のシンボルマークは校舎玄関へと向かって逃走して行った。
「今のは一体なんだ?」
「大島だよ。あの状態で俺が殴る気配を察して同じタイミングで同じ位置を殴れるような真似が出来る人類など、他に思い当たらない」
櫛木田の当然の質問に答えると返ってきたのは「化け物め!」の一言。
本当に化け物だよ。俺の様にマップ機能や魔術を使えるわけでもない奴が、純粋に気配だけを頼りに俺の動きを読み切ったのだ。とても俺の身に着けた武の延長の先に在るとは思えない隔絶した技。
やはりまだ大島とは戦って勝てるとは思えない。システムメニューがあいつの身に着けた武に劣るとは思わないが、一部分においては凌駕しているのは確かだ。さもなければ先程の様な真似は出来ない。
しかも、システムメニューと言うチートを俺は借り物レベルにしか使えていないのに対して、奴の武は自らが血反吐を吐くまで修練し獲得したものであり、奴の血と肉にも等しい存在だ。
もし攻守の立場が逆だったら、俺には大島の攻撃を同じように返す事は出来ないだろう……つまり、俺はまだ奴と同じ土俵にすら立てていない。
「大島先生は、この件に深く関わっているのかな?」
「関わっているというか、元々俺のニュースソースは大島による部分が大きい」
「馬鹿な。奴に借りを作ったのか?」
「お前、そこまで北条先生の事を…………本当に愛しているのんだな?」
櫛木田。何を負けたって顔してるんだ? そこまで深刻になるなよ。怖くなるじゃないか。
「いや、俺も土曜日に大島に貸しを作った。奴が何と言おうとそれで相殺にさせる」
「高城君。もし借りを相殺出来なくて鬼剋流に入門する事になったとしても僕も一緒だよ」
「お前、鬼剋流に入るつもりなのか?」
紫村の突然の発言に俺達は驚きの声を抑えられなかった。ホモを除いたとしても、時々こいつは分からない奴だ。
「そうだよ。鬼剋流には倉田先輩も居るから……」
そう言って紫村は頬を薄く染めながら微笑む。倉田先輩と言えば1年の3学期。部室で紫村と……俺のトラウマを作り出したあの先輩である。
「……倉田先輩と高城君。楽しみだな」
そんな事を楽しみに思うな!
「高城。人生が掛かってるんだ。頑張れ!」
「頑張るんだ! 絶対に相殺にしろ」
「本当に頑張ってくれ!」
櫛木田・田村・伴尾が俺の肩を叩いて励ましてくれる。3人は俺を見ずに涙がこぼれないように上を向いていた。
「と言うわけで、本来この件に対して興味を持って居なかった大島だが、俺が動くと言う事で興味を持ち始めてしまったんだ……残念な事に」
「迷惑だ。本当に迷惑な奴だ」
「奴は俺に見張りを付けているから、それで皆と一緒に動くわけにはいかない」
「つまり、この件はまだ奥に何かが有るって事だね」
「その通りだ」
「奥って何だ?」
「秘密に出来ると言うなら話す。だが先程の事で大島はお前達から情報を引き出そうとするぞ。それでも秘密を守れると言うなら──」
「無理だな。俺には荷が重過ぎる」
櫛木田は即答だった……賢明だが賢明過ぎるだろ。もう少し悩めよ大島の下僕め。
「俺も聞かないでおく」
「俺もだ。すまない」
田村と伴尾も続くが紫村の答えは違った。
「僕は聞かせてもらうよ。高城君と一蓮托生というのも悪くないと思うんだ」
俺にとっては悪いんだよ! と突っ込みを入れる前に再び肩が叩かれる。
「お前と一緒にした下ネタ談義……楽しかったぞ」
何で過去形? またしようよ下ネタ談義。
「もう北條先生の話でお前と盛り上がれないと思うと、寂しいよ」
何でもう盛り上がれないの? 俺は何時だって北條先生の話なら大盛り上がりさせるよ。
「知ってるか? 紫村からは逃げられないって……残念だ」
何処の魔王様の話だよ? つかこいつはそんな沢山のノンケを喰らってきたのか? 駄目だろ。紫村こそ抹殺すべきじゃないの?
3人は上を見上げて涙を堪える。だが涙は隠せても声が潤んでいるのだ。や~め~ろ~変な雰囲気を作るな。俺にはそんな趣味は無いんだよ。