今日もマルに顔をたっぷり嘗め回されながら目を覚ます。
何度か注意したのでベッドの上に乗る事は駄目だと理解してくれたのだが、後ろ足が床に着いていれば前足をベッドの上に掛けて俺の顔を舐めるのはセーフだと思い込んでしまっている。
今日は土曜日なので1日中空手三昧だ。今の大島と一日中顔をつき合わすのは憂鬱で堪らない。
「じゃあ行ってらっしゃい」
母さんから朝の分と昼の分、2つの弁当を受け取る。朝早くから弁当を二つも用意してもらって本当に申し訳ない。しかも朝と昼では中のおかずが違っているという手の込みよう。俺だけでなく母さんにまで迷惑を掛ける大島には謝罪と賠償を請求したい。
「行ってきます。マルも行ってきます」
マルの頭を撫でてから家を出た。
早朝の爽やかな風の中を軽く走っていると、黒い1BOXカーが俺を追い越して行き学校の校門をくぐり学校の敷地内へと入って行った。
「何だ?」
まだ五時半過ぎで、こんな朝早くに学校に用があるのは俺達空手部の人間だけだと思っていたのだが一体何者だ?
普段学校の教員用駐車場に駐車している車の中には黒の1BOXは見たことが無い。つまり部外者の可能性が高い。部外者がこんな時間にか……訳が分からない。
俺が校門までたどり着くと、1BOXは来賓用駐車場に停められていたが、既に乗っていた人間の姿は無い……また面倒な事が起こりそうな気がした。
「おはようございます」
部室に入ると俺が挨拶するよりも先に1年生の神田に挨拶された。
「おはよう」
「主将。お話があります」
1年生にも空手部の鉄の上下関係が分かってきたようで、すっかり軍隊口調みたくなってしまった。俺としては余り好きではないのだが、残念な事に俺自身にもそれはすっかり染み込んでしまった習性である。
「どうした?」
「栗原のことなんですが、あいつ昨日の帰りに足首を挫いて今日は走れそうも無いんですよ」
「走れないなら上半身を中心に筋トレをやらされるけど、正直お勧めできないぞ」
大島は部員達が自分の与り知らぬ事で部活の練習に差し支えるような怪我をする事を好まない……大っ嫌いってことさ。
そのために代替メニューはきつくなる。それは2年生のみならず3年生でも辛いと音を上げるメニューだ。大体においてランニング中心の今のメニューは1年生以外の部員にとってはかなり温いメニューなのだから、1年生が代替メニューを受けるという事は……死ぬとは言わないが、死にたくても死ねない目に遭わされると言うべきだろう。
「主将。どうしましょう?」
香籐も栗原の事を心配して辛そうにしている。1年生の面倒を見るのは2年生であり、その2年生のリーダー格である香籐に掛かる責任は小さくは無い。
もしも栗原が空手部を辞める事態になれば、大島から香籐がどんな仕打ちを受ける事になるかが心配だ。
「栗原。とりあえず足を見せろ」
壁際の椅子に座っている栗原に声を掛けて、その足元で膝を突いて、裾がたくし上げられた左の足首を覗き込む。
確かに捻挫して足首が腫れている。歩けないほど酷い捻挫というわけではないが、何十kmも走れる状況ではない。
「これはランニングは無理だな。とりあえずテーピングで固定してやるからやり方を憶えて、自分で出来るようにしておけよ」
ロッカーの中から取り出したテープを使って栗原の足首を固定しながら、密かに【軽傷癒】を使って治療する。
【傷癒】の次が【軽傷癒】なら、次は【中傷癒】で、その次は【重傷癒】。そして【全傷癒】となり、更に【薄口傷癒】とか【昆布傷癒】になるのだろう。
「よし完了だ。今日は足首は動かさないように気をつけろ」
くだらないことを考えている内に処置が終わった。
「ありがとうございます。何か凄い楽になったんですけど」
そりゃそうだ。大した効き目が無いとはいえ5回も掛けたのだ、軽い捻挫くらい完全に治っていてもおかしくは無い……本当に頼むから治っていてくれ、効果無しは切ない。
「捻挫などの関節の怪我は、患部をしっかりと固定するだけでもかなり楽になるものだ」
嘘は言ってないが嘘なんだ。
その後、着替えを終えて格技場へと入り、それぞれ準備運動を行う。
「栗原は軽く柔軟だけにしておけよ」
「はい」
そんな指示を出す香籐もすっかり先輩が板に付いてるようだ。1年前は俺もあんな感じだったのだろうか? などと感慨に耽っていると時間が来た。
「全員、整列!」
俺の掛け声に全員が整列し終えて10秒ほど経ってから入り口の扉が開いて大島が……大島と見知らぬ50歳前後の男が現れた。
大島と比較すると背も低く──俺と同じくらいだろう──身体づきも細い。しかし肩幅は広く立ち居からもかなり鍛えられた身体をしている事が窺える。
「よし、全員揃っているな……高城何かあったか?」
俺の顔色を読んで声を掛けてくる。空気は読めないが顔色は読める……そんなわけあるか! こいつは空気を読めないんじゃなく読まないだけだ。明確な意思に基づきあえて読まないのだ。
「1年の栗原が左足首を捻挫しているので今日のランニングは無理だと思います」
「そうか、分かった」
本来ならここで栗原への「たるんでるからそんな事になる」とか説教と説諭が入り、下手をすれば俺や香籐にもとばっちりが来るところだが、横にいる部外者がせいか穏便に済ませてくれた。
「それでだ。お前達も気になっているだろうから紹介する。こちらは鬼剋流7段の井上さんだ。今日はお前達の指導のために本部から来てくだされた」
部員達がざわめく、「何で鬼剋流が……」と、俺も驚いている7段って大島よりも上だろう。何でそんな奴が学校に来るんだ。今まで一度も鬼剋流の人間が空手部の練習に顔を出したことなど無い。例外は早乙女さんだが、あれはむしろこちらから彼の持ち山に合宿に行ってるだけだ。
それに気になるのは大島の態度だ。一応は相手を立てるような話し方をしているが、声や表情から明らかに歓迎していない。奴にとっても招かれざる客なのは間違いない……ただでさえストレスを溜めた大島に、追い討ちをかけるようにストレスを掛けるタイミングが絶妙すぎて、さすが鬼剋流と唸らせられてしまう。
「皆さんはじめまして。私は鬼剋流本部で事務局長という裏方をしている井上です。今日はよろしくお願いします」
実に穏やかで紳士的な態度に、俺達の中で鬼剋流の株が上がった。
「大島君が将来有望な若者を育てていると聞いたので、大島君に頼んで今日は皆さん練習の様子を見学させてもらう事になりました。そこで皆さんと一緒に練習に参加させる為に本部から若い門下生を2人連れきました……入りなさい」
開いた扉の向こうから現れた2人の姿に部員達から「おおぉぉっ!」という歓声が沸きあがる。
「こちらが空知君で、そしてこちらが宗谷君です」
「はじめまして空知 祥花(そらち しょうか)です。今日は皆さんと一緒に大島先輩に稽古をつけていただけるとの事で、とても嬉しく思っています」
長い黒髪を後ろでまとめたポニーテールで、身長は170cm弱くらいのモデルといっても通用するスタイルの良い女性で、きりっとした感じの武闘派美人だ。
「私は宗谷 美佐(そうや みさ)です。私も楽しみにしていたので、今日はよろしくお願いします」
亜麻色のショートヘアーで、身長は160cmを超えたくらいで、可愛い感じの顔立ちで柔らかな物腰に女らしさに溢れる胸や腰のボリュームを持つが、やはり奥にピンと一本通ったものを感じさせる美人さんだ。
しかし、何故2人とも女性なんだ……しかも2人とも美人。鬼剋流の門下生ならやはり男の比率が高いだろうに、態々彼女達を揃えた理由が分からない。
「こちこそよろしくお願いします」
櫛木田達が鼻の下を伸ばしながら頭を下げる。分かり易すぎて可哀想になってきた。
また強い女だ。女子県道部の顧問をしている北條先生は剣道4段の腕前だし、イーシャに涼、それにルーセだ。俺に関わる女は皆強い。どこかに儚げで守ってあげたいと思えるようなタイプの女の人はいないのだろうか?
……そりゃあいるだろう。俺に縁が無いだけでさ。類は友を呼ぶというように俺が全部悪いんだよ。
などと考えつつも俺の鼻の下も伸びていた事は否定しない。仕方ないだろう男なんだからどんなにキャラが被っても美人は大好きなんだよ。
「それじゃあ、まずはいつも通りにランニングだ。栗原はトレーニングルームを開けておいたから適当に筋トレをしておけ」
そう言って格技場を出て行く。
「良かったな栗原」
田村が栗原の肩を叩きながら笑顔で話しかける。
本来なら怪我をした栗原に大島がついてがっつりとキツイ筋トレメニューを課すのだが、部外の参加者がいる以上は栗原に付っきりという訳にいかなかった訳で、楽が出来て良かったなという意味にも取れるが、田村の顔に浮かぶ邪悪な笑みがそれを否定していた。
「無理せずに筋トレをするんだぞ」
伴尾も栗原の肩を叩くと格技場を出て行く。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕もランニングに──」
「無理するな!」
残りの部員達が声を揃える。
多分、栗原の足はもう治っているのだろう。走っても大丈夫だろう。だけど俺は彼をおいて格技場を出て行く……笑顔で。
「主将待ってください!」
そうは言われても待つはずが無いだろう。
ランニングを始めて30分ほど経つと、1年生の一部が遅れ始める。
本来ならここで、尻の一つも蹴り飛ばして先頭に追いつくように発破を掛けるのだが、今俺の目の前にある尻を蹴り飛ばすわけにはいかない……ああ、蹴りたい。蹴ってみたい。蹴らせては貰えないものだろうか? なんなら触らせて頂くだけでも結構ですから。
「本当に……いつも……こんなに走ってるの?」
「も、もう10kmくらいは……走ってるんじゃ……無いの?」
「まだ8kmも走ってませんよ。東田! ペースを上げろ」
遅れ始めた一年生達よりも更に後ろ。俺の目の前を走っている尻……走ってるのは空知さん、宗谷さんの北海道コンビだった……いや、単に苗字が北海道の地名なだけで北海道出身でも何でもないのだろうけど。
「あ、後……どれくらい……走るの?」
空知さんが尋ねてくるが、俺が答えられるのは彼女の望むような答えではない。
「いつもなら後5kmくらいですかね……大島先生の気分次第ですけど」
「えぇぇぇぇぇっ!」
2人は絶望の叫びを上げる。
「今日はお客さんもいるので早目に切り上げるかもしれません」
大島がこの2人をお客さん扱いするとは思えない。そうなるかどうかの鍵を握るのは井上と名乗った男の存在だ。
「空知君、宗谷君。中学生の彼らも走ってるのだ当流の門下生として最後までしっかり走り抜いてくださいよ」
「は、はい!」
「申し訳ありません!」
いつの間にか後ろまで下がってきた井上さんが、全く息を乱さずに2人を注意する。
年相応の老いを感じさせない体力は、普段から鍛錬を欠かしていない証拠だろう。先週のアレとは違い本物の鬼剋流幹部とは、決して舐めて掛かって良い相手ではないという事だ。
「そうそう、君は高城君といったね。先週は大島が無理に協力させたみたいで申し訳なかった。ありがとう」
走りながらだけどしっかりと頭を下げてくれる。一見大島の同門とは態度だが、その目は計算高く俺の事を探るかの様に見ている。
「いえ、こちらこそご馳走になって、ありがとうございました」
何処までも社交辞令であり、俺は感謝なんてしていない。中学生に何をさせてるんだと。あんな生き物(大島)を放し飼いにしているお前らの管理責任はどうなっているのだと問い詰めたいくらいだ。
「あ、あの件は、流石に法人という体裁をとっている以上はあれを経費と認めるわけにはいかないので……総帥が個人的に」
つまり俺は鬼剋流には何の借りも無い。それどころかただ働きさせられたと言う訳だで、形だけの感謝ではあるが感謝しただけ損したようなものだ。
「そうですか」
「それで……君は中学を卒業後に鬼剋流に入門する気はありませんか?」
「全くありません」
間髪いれずに否定する。この手の輩にはきっぱりすっぱりと付け入る隙を与えない態度を示す必要がある。
甘い顔を見せて僅かでも可能性があると思えば、何処までもしつこく何時間でも粘ろうとする訪問販売の類への正しい対応が、玄関のドアを開けないことであるのと同様に僅かな取っ掛かりも与えてはいけない。余計な事を喋らせれば必ず長期戦に持ち込もうとするので喋る時間を与えてはいけない。
大体、この世の中に時間を割いて聞くまでの価値があるほど『良い話』が自分からやってくる事は無い。
自分の頭で必死に考え、足を棒にして探し回って、初めて自分の前にやって来るかもしれないのが『良い話』というものだ。
これは絶対の真理であり、もしも「そんなことはない。私は本当に素晴らしいものに出会うことが出来た」という人がいたのなら、眉に唾して「それは良かったですね」と返せば良い。
良い物には必ず人が集まる。勧誘するには勧誘しなければならない理由が必ずある。
「……考えてみてはくれないかな?」
「考える余地が在りません」
「強くなりたくは無いのですか?」
「俺達は既に十分強くなってますよ。今より強くなってどうなります?」
「君達の強さなど、まだまだだ。良いか武の高みとは──」
「素手で熊を倒せるようになることに何の意味があるんですか? 無邪気に強くなった俺最高って喜べるほど子供じゃないんですよ」
「……ひ、否定された。当流の根幹を中学生に全否定された!」
俺の質問に対する答えをもっていなかったのだろう驚愕と絶望に顔を歪ませる……酷いな鬼剋流。想像以上に酷い。普通の武道ならば下らない精神論などで取り繕った建前の一つや二つはあるはずだろう。そんな建前すらないとは幾らなんでも実戦武術の看板に頼りっきりで経営面を何も考えてない。
ある意味では破門された甲信越支部の幹部達の考えの方が正しい。こいつには法人としての体裁が云々などという資格は無い。
そんなに強くなりたいなら、幹部達が山に篭ってひたすら修行に明け暮れれば良いんだ。
「中学生に否定されて反論も出来ないような大人ってどうかと思いますよ」
そう言い残すとペースを上げてして井上と北海道コンビを置き去りにすると、東田と神田の尻を蹴り飛ばして「おらっ、速く走れ! 美人のお姉さん達の前で恥を晒したいのか!」と喝を入れた。
「おい、あいつに何て言ってやったんだ?」
先程までの不機嫌面は何処へやら、満面に邪悪な笑みを湛えて嬉しそうだ。井上が走れなくなるほど精神的ダメージを負った事がそこまで嬉しいのだろうか、確かに大島と線が細く計算高そうな井上ではそりは合わないだろう。しかも年齢、立場ともに相手が上となれば、大島にとっては余程目障りだったのは想像に難くない。
「力を使う目的も無く強くなる事に意味は無いし、強くなった自分にうっとりするほど子供じゃないっていってやりました」
大島に対する皮肉も込めて本当のことを伝える。
「何を言う。今よりも強くなった自分って素敵だろ!」
馬鹿だ。皮肉の通じない馬鹿が居た。真正にして神聖なほどの馬鹿が居た。幼児退行して「怖いよパパ、ママ助けて!」と叫びたくなるほどの馬鹿だ。
「……パパママ? 何の事だ」
やっべぇ~、冗談じゃなく本当に口にしてしまうほど俺は精神的に追い込まれていたのか。