「よし。最後の仕上げにランニングをやるぞ」
時刻はまだ3時過ぎで、これからランニングをするにしても切り上げるにはかなり早い……他の部と比べたら全然早く無いんだけどね。
「今日は井上さんが、お前らに焼肉をおごってくれるそうだから食欲がなくならない程度にランニングは抑えておいてやるから腹いっぱい食わせてもらえ」
「えっ?」
「お前ら、礼を言え」
「ありがとうございます」
一瞬呆気に取られる井上を無視して、大島の促す声に俺達は間髪入れずに礼を言う。大切な事は機先を制し問答無用で既成事実化する事である。
皆、笑顔だ。同じ後ろ暗さを共感し合う者同士特有の人の悪そうな笑顔だ。そこには当然のように空知さん、宗谷さんも含まれていた……焼肉の前には人情紙の如しだな。
「練習で20kmも走る事になるなんて……」
「もう駄目ぇ~!」
今日の水揚げはマグロが2本。宣言通り食欲を無くさない程度に抑えてくれた結果だ……あの大島が練習を端折ってまで井上の財布にダメージを与えることにこだわるとは、本当に仲が悪いのだろう。それなのに態々相手の本拠地である空手部にわざわざ乗り込むとは、ドMなのかもしれない。
「体力無いですね。いつもなら25kmは走るんですよ」
そうマグロ達に話しかける。
「体力無くない!」
「私だって、毎日朝晩に5kmずつ走ってるのよ! 大体ペースが速すぎる」
「だからジョギングじゃなくランニングなんですよ」
「だからって、あんなマラソンの世界記録でも目指すような勢いで走ることは無いでしょ」
「それは大島先生に言ってくださいよ」
「そんなこと言えるわけ無いでしょ!」
抗議の声を上げるが、その身体は仰向けになったまま地面から1mmたりとも離れる事は無い。
「大体、5kmくらいなら毎日練習後に犬の散歩で走ってますよ」
俺にとってはマルとの大事な癒しの時間だ。
「……高城。それは引くぞ」
「俺もだ。流石に練習の後に走るのは嫌だ」
「お前が余裕あるみたいな事を言ったら、大島が距離を伸ばすから二度と口にするな」
「そうだね。大島先生なら『そうかまだ生温かったか、すまなかった。明日からの練習メニューを考え直す』と凄く良い笑顔で謝罪するね」
3年生達からは総突込みが入った。確かに大島の耳に入ったら……あれ?
「大島は俺が練習後に散歩してること知ってるぞ」
教頭の件で見張られてたからな。
「何?!」
「い、何時からだ?」
俺の言葉に激震が走った。
「水曜日からだ」
鈴中が死んだ次の日の事だから間違いない。
「ああ、あの件の時か……という事は、結構時間が経ってるしセーフなのか?」
「セーフなんじゃない?」
「とりあえずセーフとしてだ。高城、大島がその事を思い出すような事はするなよ」
「分かった。分かったけど、飼っている犬の事を言わなければ良いのか?」
思い出すような事の範囲が漠然として広すぎる。何を切欠に思い出すかなんて分からんよ。唯でさえ何を考えているのか分からない奴だから。
「そうだな犬の話はするな。そして散歩をしているところは絶対に見られるな」
「無茶言うな。大島が何処で見てるかなんて分からないぞ」
俺には出来ないオーダーじゃないが、櫛木田。普通の人間には無理な事を言うな。
「主将、どうかお願いします」
香籐……他にも後輩達がすがるような目で俺を見ている。
「分かった。いざとなったら俺が何とかするから心配するな」
安請け合いしちゃったよ。状況に流されやすくNOといえない小心さ、実に憎めないキャラクターだ……と自分を慰めてみる。
「あの件って何? お姉さんに教えてくれない?」
すぉーやー! 折角収まりかけた話を何故ひっくり返すの?
「何でもありませんよ」
「え~っ、何なのか教えてよぅ」
「止めなさいよ美佐」
「良いじゃない。ねぇ教えて」
流石にイラっとしてきた。
「紫村」
「了解」
俺の呼びかけに答えると、宗谷さんの頭の脇に片膝を突くと、何の躊躇も無く宗谷さんの首筋へと手を伸ばすと両の人差し指と中指で頚動脈を押さえる。ランニング明けでまだ脈も呼吸も荒くなっていた彼女は、頭への血流を止められると僅か3秒足らずで意識を失った。
「えっ? 何?」
その隣で床の上のマグロこと空知さんが、阿吽の呼吸で行われた暴挙に驚きの声を上げる。
「やる?」
紫村はまるで一緒に飯でも食わないかと誘うかのように、彼女の事も気絶させるか聞いてくる。紫村はバイセクシャルじゃない。だから女性に対しては表面上とても柔和に接し親切にもするが、実際は路傍の石程度にしか思っていはいない。
「止めておこう。気絶させたところで記憶までなくしてくれるわけじゃない。ただ大人しくして俺の話を聞いてもらえれば良いだけだから」
「そうだね……良かったねお姉さん」
優し気な笑顔の瞳の奥に宿る何かを見てしまったのか空知さんは身震いを起こす。
「という訳で空知さん。僕達は余計な詮索をされるのが大嫌いなんだ。分かってくれるかな?」
俺の言葉に、彼女は首を何度も縦に振る。
「分かってくれたなら、宗谷さんにも余計な興味は持たないように伝えて欲しいんだけど、良いかな?」
再び俺の言葉に首を縦に振る。
「後はと当たり前の事だけど井上さんにも黙っていてね。そうじゃないと後で愛知まで出かけなければならなくなってしまう……分かるかな?」
悪乗りのし過ぎとはいえ、こんな事を言ったら彼女達には嫌われてしまうな……だけど良いんだ。俺には北條先生がいるんだから、だから何にも辛くないもん。
「……分かったわ」
僅かな怯えの表情を浮かべながらもそう答えてきた。20歳位の女性が脅迫を受けてもパニックも起こさず冷静さを失わない。彼女が属する鬼剋流という組織の異常さを改めて感じずにはいられない……俺とか紫村の方が異常? そういう説も無い事も無いのかもしれない。
空知さんは田村に肩を借りて、いまだ気絶している宗谷さんは櫛木田に抱き上げられて職員用のシャワールームへと連れて行かれた。
「紫村はともかく高城は、お姉さん達と『触れ合い』をしなくても良かったのか?」
田村が、羨ましそうに伴尾と櫛木田を見送りながら聞いてくる。
「別に……俺は北條先生一筋だし」
「イスカリーヤさんの事はどうなんだ?」
ニヤニヤしながら話しかけてくる。
「イーシャは、大切な従妹だ」
「はっ」
鼻で笑いやがった。
「お前、何か勘違いしているみたいだが、イーシャは──」
「はいはい、分かりました分かりました」
苛立ちを抑えつつ、諭すように話し始めたのを遮ると、そう抜かしやがった。はいも分かりましたも一回だ!
「……そういえば、イーシャがお前の事を──」
「なんと?」
「服の趣味が悪くて、しかも口が臭いと言っていたな」
田村は無言で床に崩れ落ちた……脈も無いただの屍のようだ」
「殺すな!」
おっといかんな、そうであって欲しいという願望が口から漏れていたようだ」
「態とだろ、態と口に出してるな!」
「そんなのに態とに決まってるだろうが!」
「ぎゃ、逆切れ?」
「ちょっと良いですか主将?」
「何だ?」
2年の仲元が揉めている俺と仲元の間に入る。この下らない口論には俺もウンザリだったので渡りに船──
「イーシャさんとは一体──」
「先輩の話に口を挟んだ挙句、いきなり女性を愛称で呼ぶな。説諭!」
田村の突きが仲元の腹に突き刺さった……おい。
「イスカリーヤさんと呼べ、イスカリーヤさんと!」
……おいおい。
「あ、ありがとうございました」
何で殴られた挙句に何で礼まで言わなきゃならないのか未だに理解出来ないが、これが空手部の掟だった。
「それでイスカリーヤさんとはどんな人ですか?」
「美人ですか?」
「可愛い系ですか?」
「外国の方なんですよね?」
馬鹿田村のせいで2年生達が一斉に食いついてきてしまったではないか。
そう、こいつらだって思春期の獣であり、空手部部員である為に飢えに飢えてしまった獣だ。
「え~い! お前達には10年早い。ひかえろ!」
田村が2年生達を牽制する。
「お前こそ100万年早いわ!」
田村の背中を蹴り飛ばす。
「何を?」
「黙れ、大体お前はイーシャのパンツを覗いて白だ白だと喜んだ変質者じゃないか!」
改めて腹が立ってきた。よく考えたらこいつや櫛木田、伴尾を俺はまだ許した訳じゃない。
「そ、それは人聞きが悪すぎるだろう」
「そうだな人聞きの悪い事実だ……本当に性質が悪いなお前」
そう吐き捨ててやった。
「違うんだ。アレはほら……ラッキースケベってやつで──」
「意図したラッキースケベなどこの世には存在し無い。説諭!」
「見損ないました! 説諭!」
「この変質者が! 説諭!」
「犯罪者。説諭!」
「うらやま……説諭!」
田村は俺に一発貰った後も、立て続けに2年生達に殴られていく……どいつだ? うらやましいと言いかけた奴は。
ディナータイム1980円の焼肉食い放題の店の看板を見て、頭の中の算盤をはじいて溜息を吐く井上だが、当然大島の足はそこをスルーして先週と同じ、ちょっとお値段高めの高級といえなくも無い焼肉レストランへと向かう。
「大島君。大島君。その店は拙いんじゃないのかな? 拙いよね!」
井上はプルプルと首を横に振りながら必死に大島に訴えかける。
「問題ありません。俺の財布は全く傷みませんから」
そう言うと入り口との間に立ちふさがる井上の肩を押し退けるようにして店の中に入っていく。
「終わった……終わっちゃった……女房にどう説明すれば……」
入り口前のスロープの手摺につかまり力なく項垂れる井上の横を、俺達は目を合わせないようにして、そそくさと店内へと入っていく。手下であるはずの北海道コンビさえも彼に声すら掛けないで入店する。
一人取り残された井上を憐れみをこめた目で見つめながら、誰に話すという風でもなく呟く。
「鬼剋流の看板を背負うに相応しく徹底的に己を鍛え上げる。他よりも少し厳しい修行で、他より少し強い門下生を沢山そろえる事で金を稼ぐ。これを一緒にしようとするから問題が起こるのであって分けて考えれば何の問題も無くなる。前者を上級道場とし、後者を下級道場とし、下級道場から選抜した才能とやる気のある門下生を上級道場へと掬い上げる事で、下級道場で数を維持しつつ上級道場で質を高めれば良いだけだ。ついでに言うならば下級道場もクラス分けして、上のクラスの修行内容は下のクラスの門下生には決して見せないでおき、それでいながら時折合同練習などで、上のクラスに上がった門下生の上達振りを、下のクラスの門下生に見せて上昇意識を高める。そうすれば上のクラスに上がった時に、厳しい修行を課せられても理不尽とは感じずに済むだろう。ともかく全員徹底的に鍛え上げようとか、いやそれじゃあ人が集まらないからそこそこの修行ですまそうとかなんてブレるから駄目なんだ」
「だ、駄目だったのか私は……」
井上は止めを刺されたかのように崩れ落ちた……さてサービスは終わった。今日は容赦なく高い肉を腹一杯食べようと心に誓った。