今日は目覚めた途端に「早く王都へと向かおう」という考えが頭に強く浮かぶ。
これは神のお告げというやつだろうか? ……駄目だ。疲れているんだな俺、病院に行った方が良いな。
自分の部屋を出て、2号の居る隣の部屋のドアを2度叩くが、返事が無い。
「まあ、良いか今日は急いで出発する必要は無いし」
王都への道は街道だけあって、徒歩で半日の旅程の目安である20km強の間隔で、普通の町か宿場町があるので、昼から出て普通に歩いても日が落ちる前には次の町にたどり着ける。
本当に急ぐなら、街道を外れて森の中を、猿の様に木から木へと飛びながら進んだ方が遥かに早いが、今日は神様のお告げに、あえて逆らう事に決めた。
1階に下りて宿の親父と挨拶を交わすと、散歩というかランニングに出かけた。
これから暫くは2号と一緒に旅をすることになるので、間違いなく運動不足になるだろう。レベルが上がれば身体能力はアップするが実際の筋肉量が増えるとか言う事は無い。実際の身体能力xレベルアップによる補正が今の身体能力ならば、通常のトレーニングによる地力の上昇は不可欠だと思う。
宿屋に戻ると朝飯時と重なったせいか食堂は込み合っていたが、宿屋の娘のターラが「おはようございます」と声を掛けながらやってくると唯一空いていた4人掛けのテーブルの席へと案内される。
「肉料理で頼む」
朝飯の代金は宿代に含まれていて、肉料理に魚料理。それから宗教上の問題なのか肉、魚を使わない野菜料理の3種類から頼む事が出来た……野菜オンリーの料理は珍しいが、それ以外はこれまで泊まった宿と変わりは無い。
「わかりました。ところでお連れさんはどうしたの? ……あっ、失礼しましたお客様」
ターラは、地で喋ってしまったことに気づいて謝罪するが、俺は笑って手を横に振りながら答える。
「まだ寝ているみたいだ」
昨日は、あれから夕方過ぎまで寝ていたので、どうせ夜は逆に寝付けなくなって夜更かししたのだろう。
「ではお客様の分を先のお出しします」
ごく自然な営業スマイルで一礼すると厨房へと戻って行った。
時間潰しに【所持アイテム】内の荷物をチェックを始める。
昨日、魔道具屋から宿屋に戻った後、俺は変装を説くと【迷彩】で姿を消すと宿を抜けてから、幾つかの店を回ってオークの死体やオーガの角を売って金に替えたり、買い物をしてから宿に戻る事で、出入りの帳尻を合わせたのだ。
購入したのは武器屋でクロスボウ用のボルトを50本と、クロスボウに取り付ける銃床用に少し加工してもらった木材──この世界には銃床付のクロスボウは存在しなかっただけではなく、銃床というものを説明しても理解されなかったので自作するしかなかった──を買った。
そして道具屋で木工用のナイフ──彫刻刀に近い形状で、刃から柄までが一体になった金属製の道具が存在した──とヤスリ。そして王都までの道が描かれた地図と大型の水筒を2つ購入した。今までは【水球】を使えば水は出し放題に使い方だったが、これからは2号という同行者が居るので普通の旅人と同じような水の使い方をしなければならない……実に面倒くさい。
その後は市場を回って食料品。特に果物の類で見た事の無いものを中心に購入したのだった。
確かに自分の体感時間は経過したが、チェックするにはシステムメニューを開く必要があるので、一瞬も経たずに終わってしまった。昨日もそうだったが時間を潰すのは何か考え事でもしていないとならないのだ。
クロスボウの銃床の取り付け方法について──銃床自体は昨晩の内にほぼ完成している──考える始めて間もなく、入り口付近のテーブル席の客達がでざわめき始める。
そちらへと視線を投げると、1人で店に入ってきた人物と周囲のテーブルに居る男達との間で微妙な緊張感が居心地の悪そうな空気を作っている。
耳を澄ますと彼らの呟きの中に「エルフ……」という聞き捨てなら無い言葉が聞こえてきた。
エルフ。それはファンタジーのファンタジーたる所以とも言うべき存在。そう、龍を倒しドラゴンスレイヤーにまでなりながら、この世界に感じていたファンタジー感の不足はエルフと出会っていなかったからではないだろうか?
そのエルフが今、俺の目の前に居る…………うん? ……あれ? ……無いぞ。おかしいな、流れ落ちる銀の滝の様な腰まである癖の無い銀髪の中からつんと尖った長い耳が飛び出ていない。ああなるほど、扉の前に立っている人物ではなく、エルフは別の人間な訳ね……居ないぞ。エルフは何処だ? 隠し立てすると為にならんぞ! うん、テンションがおかしい。
「いらっしゃい!」
「食事をしたいのだが……満席かな?」
声は男か女か分からないが、話し方からすると男だな。
今更性別に気づいたのは顔も美形過ぎて男か女か区別がつかない位であり、身体は足元まである長いマントに包まれていて体形も分からなかったからである。
「そうだな……」
宿の親父は食堂の中を見回して、俺の方で視線を止めるとニヤリと笑みを浮かべて「お客さん。相席は良いかい?」と聞いてきた。
そう言われてしまうと嫌でもノーとは言えないのが日本人である俺は「構わない」と答えてしまった……馬鹿馬鹿! 俺の馬鹿! 何でこんな鬱陶しいほどの美形と向かい合って飯を食わなければならないんだ? 僻みしか出てこなくて自分が惨めになってしまうじゃないか。
「折角1人のところを申し訳ない。同席のの許可、ありがとう」
「どうぞ」
俺が席を勧めると一礼してマントを外す。マントの下から現れた胸板を見て、やはり男だったかと確信する。
そしてマントを隣の椅子の上に乗せようと上半身を屈めた拍子に、彼の髪の間から耳が慎ましくのぞいた。
その耳は耳朶が無く細くて尖っていて、人間の耳に比べると少し長い。これはあれだ和製ファンタジーに出てくる似非エルフではなく指輪物語に出てくる本物のエルフだ……そもそも本物のエルフって何だ?
エルフだと思って、改めて見ていると神秘的なほど美しい顔立ちだ。切れ長のアーモンド形の目はアジア系を思わせる。そういえばエルフの目はアーモンド形というの説を聞いたことがある。ともかく全体の造詣が見事に整っていて人外の美しさがでありながらも、それを人間の美的感覚に美しいと訴えかけるのだ。
食堂の客達が彼へ向ける視線はエルフという異種族へと向ける恐れや警戒ではない。その美しさに惹かれつつ畏怖する複雑な感情がこめられているのだろうと思った。
「先日泊まった宿の食事が余り美味しくは無かったもので、食事処を探していたのだけど、この時間は中々入れる店が無くて──」
「いらっしゃいませ。現在、朝食タイムなのでメニューは肉、魚、野菜の3種類定食のみになりますがよろしいでしょうか?」
「それではとりあえず肉の定食を肉特盛りで頼みます」
分かっている。エルフと言えば菜食主義みたいなイメージがあることを、俺も一時はそう思っていた。しかし一方でエルフと言えば弓である。現に目の前のエルフもマントの下では立派なロングボウと矢筒を背負っていた。つまりエルフはバリバリの狩猟民族なのだ。肉を食わないわけが無い。
こう言うと、弓は森への侵入者と戦うためと言う反論もあるが、動物ならともかく人間など知恵を持つ相手に森の中で弓で戦えば、遮蔽物である木々を盾にして距離を詰められるだけである。つまりエルフにとっては弓とは狩猟を主目的にした武器以外にはあり得ない。
「お待たせしました。肉定食と肉定食の肉特盛りです」
暫くして同時に来やがった。俺と彼の間に肉定食を注文した声は3度ほど聞いた気がするので、俺を遅らせたか、それともエルフの注文を優先したか、もしかしたらエルフの注文を早めるために、俺の注文も一緒に繰り上げたかだ……周囲を見渡すと、不満そうにこちらを睨んで居る奴が居たので3番目が正解なのだろう。
自分も恩恵にあずかっていて何だが、イケメンもげろと妬まずにはいられない。
「君の黒髪に黒い瞳……随分と珍しいね」
朝っぱらからのオーク肉のたっぷりの400g以上はあるステーキに梃子摺る俺に対し、その倍以上はある厚さと1.5倍以上の面積がありそうなステーキに対しても動じる素振りも見せず、己の健啖さ誇示する彼に苦笑いで応じた。
「そちらの尖った耳ほどではない」
実際、こちらの世界に来て、髪と瞳の色の事を直接口に出して言われたのは初めてだ……もっとも口には出さないだけで、奇異な目で見られた事は1度や2度ではないが、彼ほどの露骨な注目を浴びた事は無い。
「おや? 彼らが私を注目するのはエルフだからではないと思うんだがけど」
「……そうなのか?」
「君はエルフに関して余り知識が無いみたいだね」
そう言いながら大きく切り取られた肉の塊を口の中に詰めていく。実に旨そうに笑顔で食べる……食欲さえも俺はエルフに勝てないのか?
「どちらにしても、珍しそうに見られてるのはそっちだろう」
反発感から出た俺の言葉に彼は周囲をゆっくりと見渡す。彼にぶしつけな視線を投げかけていた客達は慌てて目を逸らす。
「全く困ったものだよ」
「無理も無いさ、その綺麗な顔が気になるんだろ」
認めるのは癪だが、この話の流れ的に認めないと先に進まない……くそっ誘導したんじゃないだろう? 段々僻みが酷くなっていく自分が惨めだ。
「綺麗……何をいきなり、初対面の女性に、き、綺麗などと……」
……じょ、じょ「女性だと?」
また口に出してしまった。
「やはり私を男だとでも思っていたのだな……まあ良い。そう疑われるのは初めての事ではない」
確かに、マントを身に着けて黙っていれば、男女の可能性は五分五分だが、喋れば6対4で、マントを脱いで胸板…そう、胸ではなく土台である胸板をさらした段階で、限りなく10対0となる貧乳界の期待の逸材だからな、男と思われるのも当然だろう」
……また思っている事を口にだしてしまった。
次の瞬間、テーブルの向かいからフォークを握った右手が俺の首元を目掛けて飛んで来るのを、左手を伸ばして彼、もとい彼女?の手首を掴んで止めた。
ちなみに、こちらのフォークは歯が二股で長く、そして鋭いので首を吐かれたら普通に死ねる。
「くっ!」
顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけながら、必死に俺に突き立てようと手首から先だけでフォークを振り回すが、力勝負で俺に勝ちたいなら精霊の加護でも受けてくるんだな……精霊の加護? 何でそんな事を俺は知ってるんだ?
俺が意識がそれた瞬間、彼女?はフォークの首あたりの背に添えていた人差し指を表側に移して、そこを支点としてフォークを180度回転させ、逆手に握り変えると俺の手首目掛けて振り下ろそうとする。
それに気づいた俺は咄嗟に左肘を上げながら手首を返して、彼女?の手首の稼動範囲から外すと、そのまま手首ごとテーブルの上に叩きつけて握っていたフォークを吹っ飛ばす……こいつ的確に急所を突いてくるなんて。
「お前、命取りにきやがったな!」
「殺す!」
鋭く即答されてしまった。何がここまで彼女?を思いつめさせたのだろう? どう考えたってあの胸じゃ男と勘違いされるなんて日常茶飯事だろうに、その度に刃傷沙汰を起こしていた訳でも無いだろう。何処でスイッチを入れてしまったのか自分でも分からないよ」
「貴様! まだ言うか!」
うん、今のは態と聞かせるための独り言だ。ただの失言で、しかも客観的な事実を口にしただけで命を狙われたんだ。言いたい事くらい言わせて貰いたい。
「確かに私は胸の薄さについて同族達からも揶揄され続けてきた。ああ慣れてしまうほどな。ある時など『お前って、胸の筋肉が動くのが直接見えるだろ』などと言われもした」
それは酷い。他の客達もざわつくほどの酷さだ。
「あの時は腸が煮えくり返る思いだった。本当のことだけに!」
本当なのかい! ちょっと泣けてきた……ごめんよ、二度とからかったりしないよ。「彼女?」じゃなくちゃんと「彼女」って言う事にするから。
「だが我慢ってモノには何時か必ず限界がやって来る。久しぶりに普通に女として綺麗だと褒められたと思えば、単に男だと思われていただけで、更には……誰がえぐれ胸だ!」
うわっ、俺は知らず知らずに、持ち上げて落とす事で、とんでもない地雷を踏んでしまったようだ。
「待て! 貧乳とは言ったがえぐれ胸とまでは言って無い。僅かだがお前の胸はプラスで、マイナスではないぞ」
という必死のフォロー。
「今更だ黙れ! 我慢の限界の時に居合わせた不幸と、己の失言を呪って死ね!」
今度は左手のテーブルナイフで突きを放ってくる。だが自分で踏んだ地雷だろうが何だろうが殺されてやる訳にはいかない。
内から外へと右の掌を、ナイフを持つ左手の親指の上に覆い被せるようにしながら、小指で彼女の人差し指をナイフの柄ごと巻き込んで、そこを支点にし小指の付け根でナイフの柄を外へと押し出すように回転させつつ、柄が中指から小指までの3本の指から外れるように下に少し捻ってやると、梃子の原理で簡単にテーブルナイフは俺の手の中に収まった。
ナイフを俺に奪われた次の瞬間には、肩から脇の下に吊るされたナイフへと手を伸ばしたので、システムメニューで時間を停止させて奪い取る。ついでに危険物は全部没収した。
システムメニューを解除すると、脇の下に伸ばした手があるはずのナイフの柄を探して彷徨う。
「探してるのはこれか?」
まるで手品のように右手にナイフを刃の方を指で摘んだ状態で出現させると、目の前で左右に振ってみせる。
「返せ!」
手を伸ばして奪い取る。その一瞬前に収納してナイフを消した。
「ちっ!」
大きく舌打ちすると、そのまま空いている自分の横の席の上に置かれた矢筒へと目を向けるが、当然、中の矢は全て収納済みだ。
「な、何故だ!」
こちらを振り返る彼女の目の前に矢筒に入っていた7本の矢──システムメニューで【所持アイテム】内に入れておくことも、魔法の収納袋も持っていないなら、旅装で20本も30本も矢を持ち歩く事はありえない──を握った右手を突き出してみせながら「落ち着け」と諭す。
「落ち着けるか! 貴様を殺して私も死ぬ!」
それなんて無理心中? まるで、浮気男とその彼女みたいな発言だけど、俺との間に何時恋愛感情が芽生えたの?
「待て百歩譲って、俺を殺したいのは分かるが、何故お前まで死ぬ?」
「お前を殺した理由が『自分のことをえぐれ胸と侮辱したから』と、生き恥を晒してまで生にしがみ付けると思うのか!」
分かった……分かった。しかし、えぐれ胸とまでは言っていない! 冤罪だ、弁護士を呼んでくれ。
「分かったら死ね! 涼やかなる風の精霊よ、死の刃となりて──」
物騒な言葉とともに、魔法使い見習いである俺のシックスセンスに何か魔力とは似て違う魔的な何かが集まるのを感じた……これは精霊魔法という奴か?
とりあえず俺は、再びシステムメニューを開いて時間を止めると、自分の皿の上の残ったステーキを半分に切り分けると、フォークで彼女の口から無理矢理押し込んで、口の中を一杯にしてやってからシステムメニューを解除した。
「ムグッ……ほれふぁなひあ……」
何を言っているのか分からないが、今がチャンスである。
「そちらの身体的な問題について、論った無礼な失言に対しては詫びさせてもらう……すまなかった」
そう言ってテーブルの上に額が着くほど深く頭を下げる。ここまで殊勝な態度を取られたら、許せないとは言え無いだろう。俺なら絶対に言えない! 人間として言えなくて当然な──
気配を感じて咄嗟に頭を左に振ると、次の瞬間右の耳を掠めて何かがテーブルに突き刺さる音を聞きながら、後方へと飛び退く。
目の前には皮のブーツの踵をテーブルに食い込ませながら、口の中の肉を咀嚼する女エルフの姿……確かに身体的特徴というレベルを超えた無い乳には同情の余地もあるが、この執拗なまでの殺意には流石に俺もキレる。
「この気ぐるいのえぐれ胸め、表に出ろ!」
そう叫んだのも仕方が無いことだと思う。
宿を出た俺とエルフは、5mほどの距離を開けて向かい合う。
「もはや我が怒りは貴様を八つ裂きにしなければ収まる事は無い!」
そう声を荒げるエルフに対して、俺は表に出るまでに既に冷静というか醒めていた……どうしてこんな茶番に、簡単にキレてしまった自分が恨めしい。
「胸が大きい小さいなどという理由で、殺されてやるわけにはいかない。俺の命はその胸より遥かに重い」
「まだ言うか!」
叫びながらナイフを抜こうとするが、当然俺は返却などしていないので、彼女にとっては呼吸するのと同じくらい慣れ親しんだ動作だろうが、手は空しく宙を掴むだけだった。
「私の武器を返せ泥棒!」
「欲しければ取りに来いよ」
ノープランで挑発を実行してしまう。いい加減言葉の通じない奴の相手をするに疲れて、考えるのが面倒になってきたのだ。
「清らかなる水の精霊よ──」
詠唱を開始するが、そんなもの待たねばならない法は無いので、ダッシュで距離を詰める。
エルフも慌てて後方に下がりながら詠唱を続けるが、後ろ向きでは逃れられる訳も無く、俺は2度地面を蹴っただけ手の届く範囲に彼女を捉えた。
弦の張っていない背中のロングボウを肩越しに掴み取り右から左へと薙ぎ払ってくるが、地面すれすれに身をかがめて潜り抜けると振り切って隙の出来た彼女の右脇から背後に回りこむと、システムメニューを開き【所持アイテム】から取り出した手拭を使って後ろから口元に猿轡をかまして詠唱を止める。
そしてシステムメニュを解除して、口元から手拭を外そうと反射的に伸ばしてきた両手を背後から掴み取り、前回しで背へと引き寄せると再びシステムメニューの時間停止中に両手を後ろ手に縛り上げた。
口を封じられ、両手を縛られて暴れるがボーイスカウトのロープワークを参考にした縛り方なので、暴れれば暴れるほどむしろ締まるだけだ。
「俺には勝てないと分かっただろう」
実際彼女と俺の戦力差は大きい。彼女ではレベルアップの恩恵の無い頃の俺にでも、精霊魔法を上手く使わなければ勝てない程度だろう。
決して彼女が弱いという訳ではない。俺は元からこの世界のレベルよりも強いのだと思う。実際、体格面からしてもこの世界でもかなり大柄の方に入るだろう。去年の身体測定では175cmで、今は176cm……いや177cmくらいになっていれば良いなと思う程度の俺がである。
町の雑踏の中を歩いていると、まるで自分が185cmを超えたんじゃないかと思うくらい周囲との身長差は大きい。
つまり、この世界に来た段階で既にアドバンテージが与えられていたのだ……加護持ちに対してはレベルアップの恩恵があっても勝てるかどうか怪しい程度だけどさ……だから加護って何? システムメニューの何かの説明で読んだのか?
「うぅぅっ!」
顔を怒りに赤く染め、低く唸り声を上げながら激しく身を捩る……だから、手を縛った紐がどんどん食い込んで痛くなるだけだからさ止めてよ。
だが全然諦めそうに無い。どうする【昏倒】で眠らせて逃げるか?
駄目だ周囲の人間が本気で起こしに掛かれば直ぐに目が覚める仕様だし、そんな短時間では2号を起こして街を離れたとしても、基本的に道はタケンビニへと東に向かう狭い道と南北に走る街道だけなので、少し聞き込みをすればどちらに逃げたかなど直ぐに分かってしまうだろう。
すると物理的に追跡不可能にするか説得して和解するしか方法は無いのか? 物理的にというのは駄目だろう。人目が在り過ぎる……って何を犯罪者的な思考に走ってるんだ。
それが駄目なら説得か……知性を持ち、同じ言葉を話す──俺はシステムメニューの自動翻訳だけど──者同士だ。
言葉を尽くして語り合えばどんな問題も必ず解決出来る……小学校の頃の担任が言っていたが、はっきり言って戯言だ。その戯言が正しいなら戦争なんてこの世からとっくに無くなっているはずだと子供にも分かる理屈であり、「お前馬鹿じゃねぇの」とボビー・オロゴン風に指摘しなかったのは我ながら素晴らしい忍耐力だったと思う。
そんな戯言が真理になるためには、互いの権利を制限しあっても争いを回避する事で、争いの結果に得るものよりも多くのモノを互いに得る事が出来るという状況を作り出して、全ての人間にそれを理解させる必要がある。
はっきり言って無理だと断言できる。ミガヤ領の話では無いが一度全てをぶっ壊して新たな社会を構築しないと無理だ。例えば宇宙人がやってきて、全ての国家・民族の枠組みを破壊した上で、優れた科学力で地球環境・食糧問題・資源・エネルギー問題を解決した上で、新た社会を構築するとかなら可能だろうが……宇宙人、どんだけ良い人なんだよ!
だが自分の目の前の相手を見ても、これが話して何とかなる相手とは思えない。
大島の赤いメロン熊にも負けないほど興奮に顔を赤くして、眼はまるで本当のメロン熊……あれ? 何やら伏せ目勝ちで、何故かモジモジトとした態度……いや気のせいだ。それよりもはっきりと言ってやらなければ。
「諦めろ。これ以上やろうというのなら、全身を縛り上げて木から吊るすぞ」
だが、俺の言葉に何かスイッチが入ったかのように、ビクッと身体を震わせると潤んだ目でこちらを見つめてくる。
もしかして? ……いや、そんな馬鹿な。エルフだぞエルフ。誇り高い森の賢者であるエルフだぞ……でも、これは……いやいやまさか、Mのエロフなんてそんなものが実在するはずが無い。
しかも、口に手拭で猿轡をされて両手を後ろで縛られただけでエロフに早変わりなんてドMだろ。
信じられない。この世に自分の想像の遥か外にいるドSが存在する事を大島によって思い知らされたが、まさかドMがいるなんて……それって捜索の中にしかい存在しない空想の産物だろうとしか思ってなかった。
それが今、俺の目の前にいるのか?
「わ、私を止めたいなら、もっと強く縛り付けなければ……必ずお前を、殺す……だからもっと……もっと縛って……猿轡ももっとしっかり……」
本物でした!
確かに俺はSかM化と聞かれたらSだろうが、所詮はソフトS。しかも言葉責め専用なので本物のドMが相手では荷が重いのでパスだ。
「いいか、危険だからこいつに手を出すなよ。俺は準備をしてくるから、頼むから手を出すなよ」
勿論、準備をしたらそのまま逃走するつもりだが、わざわざ警告するまでもなく周囲の人間もその妖しげな雰囲気に思いっきり引いている……一部の人間にいたっては腰を引いてる。勃起してんじゃないよ!
宿屋に戻ると階段を駆け上がり、自分が泊まった部屋に戻ると荷物をまとめてから【迷彩】で姿を消すと窓から外に出て、隣の窓から2号の部屋へと侵入。
【迷彩】を解除してから、寝ている2号を容赦なく収納するとドアを開けて外に出て、そのまま鍵を2つとも返してチェックアウト。
「おい、連れはどうした?」
「連れはとっくに出て行ったみたいだ。すまないが俺も急ぐので失礼する」
そう言って入り口のドアを開けると同時に【迷彩】で姿を消して、その場から離脱した。
誰にも見つからないように慎重に移動して街の西、街を周囲を取り囲む城砦の如き壁を飛び越えると西の森へと飛び込んだ。
「もしタケンビニに向かう東の道を無視したとしても、これで俺が北と南のどちらへ向かったかを当てられる確率は1/2で、さらに街の中に潜伏している可能性を含めれば、初動が遅れて追跡は難しくなる……勝ったな!」
と自信満々にフラグを立てた。