「えー、三理教は知識や技術の探求を奨励し……あまねく全ての人間が知恵を身につけることを求めている――――同時に自然崇拝の念を持つ事を繰り返し説いており……そのため過度な森林伐採や採掘は国法によって厳しく制限されて――――」
本講義は補講義とは違い、常に決まった場所で行われる。
場所は宮殿――――の端にある特別講堂。
そこで初老の教授が、講壇の上から眠くなるような声の調子で講義を進める。
法学の本講義に出席した私は、それぞれ気に入った場所に座っている学生たちの後方に紛れこんでいた。
必要なところは手帳に書き込み、自ら存在感を徹底的なまでに小さくする事に腐心する。
全く持って忌々しい事だが、私は神学の講義で乱闘に巻き込まれて以来、直ぐに逃げられるように様々な準備をしてから講義に望むようになった。
ここならば乱闘が起こったとしても速やかに逃走出来る。
こっそり参加し、こっそり聴いて、こっそり帰る。時たま討論に参加させられ、私の弁論術を披露する機会に恵まれるが、いつの間にか周囲の機嫌を損なわないように配慮した物言いが染み付いてしまい、かつてのテンプレ時代の舌の鋭さが損なわれていてしまっていた。その事に愕然とする事もあったが、私の学園生活は少なくとも表向きには平穏であった。
「――――では、今日の講義を終了する」
教授の宣言と共に、私は出席の証を残すと速やかにその場を退散することにした。すでに水面下ではなくなった学内闘争の気配に、私は敏感なのだ。まさか端とはいえ宮殿内で乱暴狼藉を働く事はないだろうが、いまだって私の首筋をチリチリとさせている。
危険な兆候だ。逃げなくては、今すぐに――――
「やあ、久しぶりだねえ。ちょっといいかい?」
ポンと私の肩に置かれた手。その持ち主は、学生会長だった。
背後には、奴の親衛隊とでも言うべき取り巻きが数人侍っていた。
学生会長――――それは学生達の円滑で有意義な学生生活を支援する事を目的にした一種の世話役なのだが、この男が就任する前から半ば形骸化し、現在では単なる名誉職に成り下がっていた。
事実、私はこの男に世話になったことなど一度もない。
よって、別に指示に従う義務などない。だが、それとは別にして、取り巻きに取り囲まれた以上、私に選択肢はなかった。
「はあ……どちらへ?」
「まあ、付いてくれば分かる」
私の問いにそう返すと、会長は顎で出口を指示した。黙って付いてこいということだろう。私は非常に不本意ながらも、彼らに付いて行った。
「僕らに協力してほしい」
私が連れてこられたのは、会長が大学に通うために両親から用意された邸宅だった。そこに半ば連行されるようにして連れ込まれた私は、挨拶も無しにそう切り出された。
金、銀、銅製の調度品が目にも眩しい豪邸を背景にする会長は、いつにもまして態度がでかいように見えた。
「協力と言われても……」
いきなりそんな事を言われても、私は彼らの事情などほとんど知らないのだから何に対して力を貸せと言われているのかさっぱり分からない。そうして困惑する私に若干のいらつきを覚えたらしい会長だったが、彼はしぶしぶという感じに説明を始めた。
まとめると、彼らは長年にわたって「聖天大帝実在派」として活動し、同派の教授と深く結びついていた。だが、どうにも最近彼らの過激な活動に同派の教授達からさえも待ったをかけられ、進退極まっているとのこと。
そこで彼らは、「非実在派」を一撃で粉砕し、そのまま自分たちの立場の名誉挽回を計る事を画策した。その計画の内容とは、ずばり非実在派教授の拉致であった。
――――アホか。
皇帝陛下の部下である教授の拉致など、超絶的に運が良くて退学、順当に考えれば翌朝には吊るされるような事だ。
こいつらの話を聞くくらいなら、「フトッチョ先生」の漫画論を聞いていた方がまだマシだ。少なくとも、実害はないのだから。
要するに「お断り」だ。
「まだ柱に首を吊るされたくはないのですが……」
「安心したえ。覆面をかぶるし、足が付く事のないように手はすべて打ってある。それに北の不毛地帯に出来たごろつき共の根城を壊滅する為に、朝から軍が出ている。町の警備状態が手薄になっている今……くくく、もはや成功したも同然さ」
付き合っていられない。私はそう判断し、どうやって逃げようかと算段を始めた。
確かに、我々のような貴族は皇帝陛下の御威光が前提に存在するので、その権威を少しでも落す事は、自らの権威を落とす事に等しい。それは会長の実家のように確固とした地位を持つ者にとっても逃げられない定めだ。
土地を帝国から支配する権利を与えられているのが貴族だが、その実態は大地主といったほうが適切な存在だ。保有する武力も領内の治安を維持する程度の、兵力とはお世辞にも言えない様な武力しか持っていない。よって支配権の正当性を証明するのは最終的には皇帝陛下の御威光だけなのだ。
だが、そんなものは私には関係ない。とっとと逃げさせてもらおう。
「おっと。まあまあ待ちたまえ。話を聞いた以上、手伝ってもらうよ? 田舎者とはいえ君も貴族の一員。僕達の崇高な計画に協力すぐ義務があるのだよ。あ、そういえば君の分の覆面は用意できなかったから、これでいいかな?」
勝手に言っただけだろうになんだその言い草は、とは私は言えなかった。反射的に出口に向かった私は、会長の部下共に取り囲まれ、猿轡をかまされ上に簀巻きにされてしまったからだ。
更に大きな袋をかぶされ、数人に担がれた私はこうして不本意極まりない形で連中に同行する事を余儀なくされた。
だが、運搬されながらも私は気になって仕方なかった。非協力的な人間を取りこんで、一体何をさせようというのか、と。
縄を解かれた瞬間に逃げるつもりだった私は、全く持って会長の行動が分からなかった。見張りでもさせるつもりなのか、それとも拉致した教授を運搬する為の労働力にするつもりなのか分からないが、どちらにしても私が真面目にそれに取り組むと思っているのだろうか?
その時、私の脳裏に嫌な予想が唐突に浮かんだ。
会長達は覆面を被っている。会長達が拉致に失敗した時の事を想定して保険を用意しようと……つまり全ての罪をなすりつける存在として私を用意したのではないだろうか。
会長達が全員で口裏を合わせ、実家の権力を利用して保身に走れば、強制的にとはいえ現場の近くに「何故かいた覆面をかぶっていない」私が捜査線上に浮上し嫌疑が掛る。その後、私は逃げ遅れた犯行一派の一人として目され、いもしない同士の存在を厳しい尋問され……
(拷問死、獄中死、処刑……!!)
「もが、もんが、もが!―――!(いやだ、やめろ、下ろせ!!)」
私は必死になって暴れた。生きるため、死を回避する為、足をばたつかせ身をよじらせ、みっともなくわめきながらも暴れた。
「うわ、やめろ!」「バカ! 早くおとなしくさせろ!」
その甲斐あってか、私の必死の抵抗に連中はたまらず私を地面へと放り出した。
地面に衝突した時の痛みに耐えながらも袋から頭を強引に出して辺りを見回せば、どうやら私は路地裏の影に放り出されたようだった。辺りは暗く、会長達の影が蠢く様が見て取れる程度の見通ししかなかった。通りの街灯の火が届かない現状は、まるで灯台の光が見つからない漁師のような気分だ。いや、私を拉致した下手人共と一緒にいると言う点を考慮すると、海原でサメに囲まれているような心細さだった。
さて、このままどうやって逃げ切ろうか、そう私は考えながら匍匐前進で逃げようとしたときだった。
「……ッ!」「――――っ!……!!」
「……?」
どうにも連中の様子がおかしい。
人質というか、保険というか。とにかく自分達が失敗した時の為に用意した生贄が逃げようとしていると言うのに、連中は私の事が眼中にないかのように無視して小声で何事かを相談していた。
その様子は何やら焦っているような、押し問答をしているような……何か不測の事態に陥って慌てふためいているような感じであった。
それは自信満々という風に、或る意味堂々としていた会長が神経質そうな顔つきで何事かを小声で取り巻きたちに怒鳴っていた。
どうにも揉めているようだ。ここにきて仲間割れか、それとも怖気づいたのか。どちらでもいいから、止めるべきだと思った。連中の計画が正気の沙汰ではない事は誰が見ても分かることだ。
まあ、私はこの隙に逃げるから、後の事は知らないが。自分たちの愚かさに気づいたのならばそのまま解散すればよし、そのままアホな事をするのならば、その償いは自分たちですれば良かろう。
私は尺取り虫のように地面を這いながら、暗がりの方へとジリジリ進んでいった。このまま闇に紛れてしまえば、晴れて私は自由の身だ。
だがしかし、事態は私の斜め上方向に悪化していた。
唐突に、私たちの周囲が明るくなったのだ。
私が反射的に後ろを振り返れば、なぜかうろたえている長達の向こうに松明を掲げた集団が見えた。明るさは通りかかった彼らが原因なのだが、その集団の様子が――――完全に異常というか異質だった。
スキやクワと言った農具に、木の棒、つるはし、斧、金づち……その他様々な品物を彼らは手にしていたのだ。
これでせめて持ち主が穏やかな表情で、真昼間だったら良かっただろう。
私も「皆さんお仕事ですか?」
と陽気に挨拶が出来たかもしれない。だが、持ち主たちの眼は血走り、時間は夜。とてもこれから仕事に行くような雰囲気ではない。というか、教授の拉致という凶行が悪戯に思えるほどの事をしでかすような気配を辺りに垂れ流していた。
「おい」
集団の先頭にいた、冴えない商人風の男がぎらぎらとした目つきで私――――というより会長とその取り巻き共をじっとりと睨みつけた。
「良い物身につけてるじゃねえか……てめえら貴族や豪商どもが貿易の独占なんかしやがったおかげで、俺の店はつぶれちまったんだ」
貿易の独占とは一体何のことだろう? そう言えば港の労働者が何か言っていたな。
会長達が盾になっていることで、私は多少なりとも精神的に余裕があった。故にそんな事がふと気になったのだが、彼らと直に相対している会長達はそうはいかないようだった。
会長を始めとして、取り巻き連中がその気迫に押されて身体を固くしている様子が手に取る様に分かった。そして私は、言葉を発するごとに男の何かが限界点に近づいて行くことを感じていた。
何が何やら分からなかったが、頭の中で「ああ、これは駄目だな」という冷静な解説をしている存在が居た。
そして――――
「ぶっ殺せーーーーー!!」
雑多な品々――否、凶器を持った暴徒が一斉に襲いかかって来た。