Muv-Luv Unlimited ~終焉の銀河から~第三章その8【2005年1月20日、日本時間23時57分、横浜基地、地下19階】 速瀬水月中尉率いる伊隅ヴァルキリーズ速瀬隊が、釜山港(プサン港)上空に浮かぶラー・カイラムの甲板で、クォヴレー・ゴードンと名乗る謎の男の声を聞いていた頃、伊隅ヴァルキリーズの隊長である伊隅みちる大尉は、直属の上司である香月夕呼の呼び出しを受け、横浜基地の地下19階に位置する彼女の研究室にいた。「それじゃあ、伊隅。あんたは、バニング大尉を結構な人物と見たわけね」 国連軍の制服の上から白衣を羽織った香月夕呼は、肘掛け付きの立派な椅子に座り足を組んだまま、直立不動を保つ部下にそう声を掛ける。「はっ、十分な経験と、高いスキルを併せ持ち、それでいながら柔軟な思考と判断力を有した人物です。私個人としても見習うべき点は多いかと」 みちるは、見本にしたくなるくらいピッと背筋の伸びた体勢のまま、よどみのない口調でそう答えた。「ふうん、なるほどね……ああ、今日はもういいわ。下がりなさい」 意味深にそう呟いた夕呼は、みちるの言葉に満足したのか、右手をヒラヒラと振り、みちるに退出を促す。「はっ、失礼しますッ」 幾ら上司に当たるとはいえ、少々失礼にあたる夕呼の態度にも、顔色一つ変えないまま、みちるはカッと小気味よい音を立て、かかとを合わせると、綺麗な敬礼をし、退出していった。 ガチャリと音を立ててドアが閉まると、ドアには自動でロックがかかる。「…………ふう」 孤独な密室となった研究室で、夕呼は背もたれに体重を預けるように、一度大きく伸びをした。「特別な情報は無し、か。そろそろ結論づけても良いのかしらね」 そう呟きながら、夕呼は白衣の胸ポケットからボールペンを取りだし、デスクの上に散らばる用紙をコツコツとペン先で突く。 先ほど、夕呼がみちるにした質問「バニング大尉をどう思うか?」というのは、実は質問自体には大きな意味はない。 これまでにも似たような質問を、夕呼は伊隅ヴァルキリーズの面々にぶつけていた。「アムロ・レイ大尉をどう思うか?」「αナンバーズという部隊にどのような印象を抱いているか?」「αナンバーズで一番気安いのは誰か?」等々。 夕呼が本当に聞き出したいのは、そういったくだらない質問の答えではない。そう言った質問に答える際に必然的に彼女たちが話す、『αナンバーズと交わした会話の内容』こそが夕呼が真に求めている情報である。 一つ一つはくだらない物ばかりだ。「カミーユ・ビダンは自分の名前にコンプレックスを抱いている」とか「アラド・バランガがゼオラ・シュバイツァーの胸の大きさについて言及して殴られた」とか「カガリ・ユラ・アスハは、どうやらかなりの家柄の生まれらしい」とか。 だが、クリスマスから今日までおよそ一ヶ月間、複数の人間からそう言った細々とした情報を集めれば、αナンバーズという存在の外形が、朧気に見えてくる。 まず、最初に夕呼が出した結論は、『αナンバーズと言う部隊は、軍隊として極めて程度が低い』という身も蓋もないものであった。というか、はっきりいって「戦闘集団」ではあっても「軍隊」とは呼びづらい。 機動兵器部隊のパイロット達を筆頭に、皆個人スキルにおいては凄腕揃いのため、どうにもごまかされがちだが、まず間違いのない事実だと夕呼は確信している。 通常軍隊では、上の命令は絶対である。昨今のBETA戦では、より柔軟な戦術変化が求められるという現実から、現場の判断が重要視されるようにはなっているが、それもあくまで大本において上の命令に反しない範囲での話である。 例えば、「友軍を攻撃しろ」とか「民間人を殺せ」といったような、明らかにおかしな命令が下された場合、前線の軍人はどういった行動を取るだろうか? ここで「イエッサー」と答え、何の疑問も持たずに攻撃に移行するのは、駄目な軍人だ。そういった思考の停止したロボット的忠実さの軍人で固められた軍は、ほんの僅かな情報工作で壊滅的なダメージを被る可能性がある。 通常、このようなおかしな命令を受けた場合、軍人は最低でも一度、命令の内容を確認する。情報工作の可能性を考慮に入れ、可能ならば、直属の上司を飛び越え、一段上の命令系統に命令の正否を確認する事もあり得るだろう。 だが、そういった確認作業を終えても、なお命令に間違いがなかった場合は、どれだけ眉をしかめながらでも、その命令を実行しなければならない。 それが、軍人に求められる資質であり、軍という巨大な組織を円滑に回すための約束事なのだ。 だが、もしαナンバーズにそう言った命令――「友軍を攻撃しろ」や「民間人を殺せ」といった命令が下された場合、彼らはどう答えるだろうか? はっきりいって、αナンバーズは最初に上げた例とは全く逆方向に駄目な軍隊なのである。 率直に「いやだ」くらいの返事は返しそうだ。それどころか最悪、「命令の撤回を求める」と逆に上官に「命令」をかえすくらい、やりそうな連中がゴロゴロしている。 少なくとも、香月夕呼にはαナンバーズの兵士達はそういった存在に感じられた。「正直、危なっかしくてしょうがないわね」 誰もいない研究室で夕呼は深いため息をつく。 夕呼は一度、二度頭を振ると、デスクの横に備え付けてあるポットからカップにコーヒーを注ぎ、口をつけた。 合成品の「コーヒーもどき」ではない。正真正銘の『ブルーマウンテン』である。 予算と権力を急速に取り戻しつつある今の夕呼にとっては、特別贅沢と言うほどの物でもない。 つくづく自分がコーヒー党で良かったと思う瞬間だ。紅茶だったら、こうはいかない。 なにせ、コーヒー豆の生産地である中南米、ハワイ島、アフリカ大陸といった地域はまだそのほとんどが健在なのに対し、紅茶の生産地であるインド、中国、スリランカなどはほぼ全てが現在BETAの支配地域なのである。 無論、南北アメリカ大陸やアフリカ大陸などでも紅茶の栽培は行われているが、紅茶党の人間に言わせればそれは、かつての物とは比べものにならない低品質であり、そのくせ値段は100倍できかないのだそうだ。 熱いコーヒーで一息ついた夕呼は、コーヒーカップをデスクにおくと、再び考え込む。「あともう一つ、はっきりと言えることは、そのαナンバーズの末端兵士達は、本気で「この世界の人類を救うために戦っている」つもりだということね」 これは、夕呼自身もαナンバーズのメンバーと何度か直接会話を交わした上での、現時点での結論だ。 大河特使やノア大佐といった中枢の人間だけならば、心の奥に真の目的を秘めたまま、表面上だけ取り繕っている可能性もあるだろう。 しかし、末端兵士まで含めた数百人が、この一月近くの間、誰一人もただの一度のボロも出さないとなると、彼らは心底その表向きの目的「この世界の人類を救う」というお題目を信じている可能性が高い。 無論、これはあくまでこの世界の常識に当てはめての推論である。例えば、αナンバーズの世界には、思考や感情を書き換えるような超技術があり、それで兵士全員が自分の心を偽っている、などという突飛もない可能性も残されてはいるが、そんな所まで考慮に入れていては、推測は一歩も前に進まない。 このような、五里霧中の中で推測を進める場合には、小さな可能性は一端脇に避けておいて、行き止まりになるまで一番太い可能性をたどっていくのが良い。「もし、末端兵士達が本気で「この世界を救うために戦う」と信じているとしたら、彼らの真の目的を果たす方法もかなり限られるわね」 デスクに肘をついた夕呼は手の甲に顎を乗せながら呟く。 この一月の情報収集から夕呼が導き出した二つの結論、「αナンバーズの兵士はいざという時、納得できない命令には反する可能性が高い」と「αナンバーズの兵士は、この世界に来た目的を「純粋にただこの世界を救うため」と本気で信じている」の二つが事実だとすれば、ある日突然αナンバーズがこちらに銃口を向けてくる可能性は極めて低い。 別な言い方をすれば「αナンバーズは裏切らない」と言い換えても良い。 その場合、αナンバーズがその秘めた真の目的を果たす方法は、二つ思いつく。 一つは、恩を売る係と恩を取り立てる係が別部隊である可能性だ。 他者を思い通りに動かすために、飴と鞭を使い分けるというのは常套手段だが、飴と鞭が同じ人間の右手と左手に握られている必要はない。 αナンバーズがまずこの世界の人類を無償で救い、笑顔で立ち去った後、「αナンバーズの関係者、もしくは上位者」を名乗る何者かが、厳つい顔で取り立てにやってくるという訳だ。 ご褒美の飴役と、脅しの鞭役は別な役者が演じる、というわけだ。人にはそれぞれ適役というものがある。そういう可能性は否定できない。「ただし、この場合は、彼らにとって異世界移動というのが容易く実現可能である、というのが大原則なのよね」 そこまで思考を働かせた夕呼は、ポツリとそう呟いた。 もし、αナンバーズの技術を持ってしても、異世界への移動が困難なものだとすれば、普通は多少成果を妥協してでも、同じ役者に飴役と鞭役を兼任させるだろう。 そう考えると、夕呼のこの想像が当たっているとしたら、αナンバーズにとっては次元の壁さえ、さしたる障害にならないということになる。「その場合は、対抗するのは難しいわね」 夕呼は決して不可能だ、とは言わない。夕呼は、少しぬるくなったコーヒーカップをもう一度口に近づけた。 だがもし、αナンバーズにとっても異世界への航行というものがある程度リスクの生じる困難なものだとすれば、ずっと頭の端に押しのけていたもう一つの可能性が真実味を持つ。 それはあまりに都合が良すぎる可能性。いくら何でも話がうますぎ、現実主義者の夕呼としては、この期に及んでもまだ、可能性の一つとして上げるのも憚られる可能性。それは、「αナンバーズの真の目的が、「この世界を救う」という表向きの目的と一切矛盾しない可能性」 そう口にして、夕呼は、甘い考えを振り払うように頭を振った。「あー、駄目ね。いくら何でも都合が良すぎるわ」 夕呼の言う通り、確かに作り話でもここまで都合良くは回らないというくらいに、この世界の人類にとって都合の良い話だ。だが、そう考えれば矛盾がないのも事実なのである。 αナンバーズの末端兵士が、納得いかない命令を拒否するたぐいの人間だとして、そんな彼らが「この世界を救うために戦う」という表向きの目的を本気で信じているとしても、その真の目的が表向きの目的と、一切矛盾しないものであれば、問題は生じない。 実際、そう言う「真の目的」も思いつかないではないのだ。 例えば、最初に夕呼が考えたように彼らの真の目的が、「新兵器の実戦テスト」であった場合、末端兵士は表向きの目的だけを信じて戦っても、真の目的は果たされる。 もしくは、真の目的が「彼らの世界の政府の支持率アップ」などという可能性もある。BETAという異形に滅ぼされつつある異世界の人間を救う。イメージアップにはこれほど向いた戦場もないだろう。 この世界の過去の歴史においても、王や議会が単純な人気取りのためだけに兵を挙げたと言う例は、数こそ少ないがないわけではない。「もし、そんなだったら本当に助かるんだけどねぇ……」 シビアな思考形態を持つ天才・香月夕呼でも思わず信じたくなるくらい、都合の良い可能性が段々と真実味を帯びてきている。しっかりと心を強く持っておかなければ、さしもの夕呼もその「都合の良い可能性」という甘い蜜に引き寄せられてしまいそうだ。「あーもー、社にリーディングさせることが出来れば、こんな事で頭悩ます事もないのにっ!」 いらだつ夕呼はドンと音を立てて、コーヒーカップをデスクに降ろす。 霞によるαナンバーズへのリーディング。決して切ってはならない禁断のカードに手が伸びそうになるくらい、夕呼は思い悩んでいた。【2005年1月21日、日本時間00時08分、巨津港、国連軍太平洋艦隊司令部】 横浜で香月夕呼がαナンバーズの目的を探り頭を悩ませているその頃、本来戦闘中のはずの国連軍太平洋艦隊の司令部は、水を打ったように静まり返っていた。「「「…………」」」 彼らの視線は、二枚のモニターに注がれている。 前線のカメラから送られてくる鉄源ハイヴ主縦坑周辺の映像と、監視衛星から送られてくる鉄源ハイヴ主縦坑を真上から写した映像。 謎の銀盤から放たれた謎の攻撃を十数秒間くらい続けたハイヴ主縦坑は、まるで白旗を掲げるように力なく黒煙をたなびかせていた。「なんだか、蟻の巣に水を流し込んだような騒ぎだな……」 老司令官は、子供の頃の悪行が想像できる例えで、その状況を表現した。 BETAの主力がいると思われるハイヴ最下層に、主縦坑を通し直接攻撃がたたき込まれた今こそ反撃のチャンスなのだが、司令部の人間は、皆例外なく一時的な思考停止状態に陥っている。 まあ、無理もないだろう。 不測の事態を想定し、対処するのが、参謀・司令の仕事であることは確かだが、それにしても人間には能力の限界というものがある。 釜山港(プサン港)から鉄源まで、400キロ弱の距離をワープホールでぶち抜いて、直接攻撃を加える奴らがいる。などと事前に予想している奴がいたら、それは有能な軍人などではない。ただの誇大妄想家だ。 だが、目の前で起きているのは妄想でも幻想でもなく、れっきとした現実である。全権を預かる司令官として、対処しないわけにはいかない。 なんとか頭の働きを取り戻そうと、老司令官が二度三度、強く目を閉じたり開いたりしたその時だった。「だ、大東亜連合軍の戦術機甲部隊、機動! ほぼ全ての戦術機が、最大速度でハイヴ主縦坑を目指しています!」 若い男のCP将校が、うわずった声でそう報告を入れる。 国連軍より先に大東亜連合軍がアクションを起こせたのは、能力の差ではない。単純に両者の心理状況の差だ。 手詰まりになった戦況を、脳裏の片隅に「撤退」の二文字を思い浮かべながら冷静に見ていた国連軍司令官と、不退転の決意を持って血走った目で勝利の道筋を探していた、大東亜連合軍司令官の差だ。 はっきり言えば、大東亜連合軍の司令官の方が、視野が狭く感情的なっていたのだから、司令官適正としては下に見るべきなのだが、この場合はその視野の狭さがプラスの方向に働いた。「む、素早いな。よし、こちらも戦術機部隊を先頭に戦線を押し上げろ。ハイヴ突入は大東亜連合軍に任せ、我々はそれに対する砲撃支援と退路の確保を優先するのだ」「了解っ!」 老司令官の命令を受け、ようやく息を吹き替えした司令部はすぐさま、その命令を実行すべく全軍に指示を行き渡らせるのだった。『いくぞっ、全機続けぇッ!』『うおおおっ!』 F-18Eスーパーホーネットを駆る衛士の雄叫びにも似た言葉に、後続の衛士隊が雄叫びそのもので応える。 大多数は、F-18ホーネットやMiG-23チボラシュカ、MiG-27アリゲートルといった第一、第二世代戦術機で占められているが、中には、F-18EスーパーホーネットやSu-37チュルミナートルといった2.5世代戦術機の姿も見受けられる。 日本の『不知火』、アメリカの『F-22ラプター』、EUの『EF-2000タイフーン』など、第三世代戦術機を各開発国が他国に積極的に流していない現状では、スーパーホーネットやSu-37は大東亜連合軍にとって虎の子と言っても良い。 その虎の子を全機投入する、乾坤一擲の一撃だ。 匍匐飛行で不毛の朝鮮半島を直進する大東亜連合軍の戦術機部隊は、やがて地表にぽっかり空いた大穴――鉄源ハイヴ主縦坑に到達する。 セオリー通りならばここは急停止するべきだ。本来、ハイヴ主縦坑の底には無数のレーザー属種が巣くっており、主縦坑上空を飛ぶ飛行体に容赦なくレーザー照射を喰らわせるのだから。 だが、今は違う。先ほどの銀盤からハイヴ主縦坑に向かって放たれた謎の攻撃の最中、主縦坑から銀盤に向かって立ち上るレーザー光は次々と消え失せ、最後には一本もなくなっていた。 それを持って「ハイヴ主縦坑底のレーザー属種は全滅した」と決めつけるのは早計だろう。 それは分かっている。だが、大東亜連合軍司令部はあえて「ハイヴ主縦坑底のレーザー属種は全滅した」と決めつけ、今回の命令を下したのであった。 滅茶苦茶な見切り発車だが、命を張る前線衛士達にも否はなかった。 このままでは祖国の地をG弾で半永久的に汚しただけで、おめおめと引き下がらなければならないところだったのだ。 鉄源ハイヴを攻略し、朝鮮半島からBETAをたたき出せるというのなら、命の一つや二つ掛けてもいい。『被害は気にとめるな。反応炉の破壊を最優先に考えろ!』『『『了解っ!』』』 ついに、戦術機部隊の先頭がハイヴ主縦坑の上空にさしかかる。 次の瞬間、穴の底から大空めがけ、眩いレーザー光が立ち上った。 しかし、その数は僅か三本。重レーザー級と思われる太いレーザーが一本に、レーザー級と思しき細いレーザーが二本。 そのレーザーは、憎たらしいほどの精度で主縦坑上空に飛来する戦術機を次々と打ち落としていくが、流石に僅か三本のレーザーでは100を遙かに超える数の戦術機を討ち滅ぼすには至らない。 文字通り、光の中に消えていく戦友達の死を悲しむ間もなく、生き残った衛士達は地上に穿かれた巨大な穴――主縦坑へと飛び込んでいく。『全機可能な限り壁際によれ!』 その命令を飛ばした声は、先ほどからずっと指示を出していた壮年の男のものではなかった。それよりもまだ若そうな、女の声だ。 先のレーザー照射でそれまでの男、連隊長は戦死したのだろう。それでも、部隊の指揮はナンバー2が引き継ぎ、死者など最初から存在しなかったようにハイヴ攻略を継続していく。 主縦坑に突修した衛士達は、その命令通り主縦坑の内壁ギリギリまで機体を寄せ、一気にハイヴ主縦坑を下降していった。 BETAの決して味方を誤射しないという性質は、ハイヴそのものにも適応される。 こうして背後にハイヴの壁を背負えば、レーザー照射を受けることはない。『いくぞっ!』『へっ、一番乗りっ!』『気をつけろ、主縦坑の深度は不明なんだぞ。勢い余って墜落死などしたらいい笑いものだ!』 ある者は陽気に、ある者は生真面目に声を上げながら、100機を超える戦術機が重力加速度にブーストの加速をプラスさせ、頭からハイヴ主縦坑を垂直に降りていく。 常人ならば失神もの、訓練された衛士でも心拍数が上がるのは避けられないスリリングな機動だ。 しかも、ハイヴの常に違わず、主縦坑もある程度深度が深くなると、無線通信が効かなくなっていく。 さっきまでは軽口をたたき合っていた、網膜投射モニターに映る戦友達の姿が砂嵐に変わる。 薄闇に灯る互いの戦術機のバーニア炎だけが、自分が孤独ではないと教えてくれる。 そんなスリルと不安が交錯する、高速落下の時間はそう長いものではなかった。 如何にハイヴの深度が深いとは言ってもせいぜい、1キロから2キロといった所だ。 十数秒もしないうちに、ほのかに青い燐光を放つハイヴの底が見えてくる。『ッ、全機反転! 最大減速だっ!』 連隊長代理の女衛士は、自らの機体を上下反転させ、急ブレーキを掛けながら、思わず通信がほとんど不能と化していることも忘れ、そう叫んだ。 無論その声はほとんどの衛士に伝わらない。何機かの戦術機が減速が間に合わず、主縦坑の底に激突し、派手な爆炎を上げる。 立ち上る爆炎が薄暗いハイヴの底を明るく照らし出す。 謎の銀盤からの攻撃で、一度完膚無きまでに破壊されたのだろう。核に匹敵するS-11でも容易には破壊できないはずのハイヴの壁が、まるで発破を掛けられた違法建築ビルなみに粉々に破壊され、本来広く平らであったはずの主縦坑底は、壊れた瓦礫と溶けて固まった瓦礫で埋まってる。戦術機を直立させる場所にも困る有様だ。 そして、そんな瓦礫の影にモゾモゾと蠢く異形の姿。『チッ!』 Su-37チュルミナートルを駆る女衛士は、素早く突撃砲から36㎜弾を発射し、その要撃級と思しきBETAを打ち倒した。『全機、行動開始、反応炉に繋がる横坑を探せ!』 女衛士は近くに立つ、F-18ホーネットに機体がぶつかるくらいに近づきながら、そう無線を最大出力にして叫ぶと同時に、突撃砲の銃口を斜め上に向け、白く輝く照明弾を撃ちはなった。『了解……!』 いかにハイヴ深くでは無線が妨害されるとは言っても、これだけ至近距離ならば、ある程度は通じる。 雑音混じりながら、通信機から若い男のうわずった声がかえる。 とはいえ、百機からいる全ての戦術機にこうやっていちいち指示をして回る訳にはいかない。そのための照明弾だ。 ハイヴ内部では至近距離でしか無線が通じないことは想定の範囲内であったため、ハイヴ攻略のプロセスは事前に全衛士に通達し、すべての戦術機に細かなタイムスケジュールがインプットされている。 その上で、大ざっぱな進捗を照明弾で通達することになっている。白は任務継続、黄は反応炉発見、赤は全機緊急脱出など、大航海時代の艦隊でももう少し細かく指示を出すだろう、と言いたくなるくらい大ざっぱなものだが、ないよりは良い。 白い照明弾を見た衛士達は、デコボコした瓦礫の間を縫うようにして散開していった。 どうやら、謎の銀盤の攻撃は徹底的にハイヴ主縦坑底のBETAを駆逐してくれたようだ。しかし、主縦坑の内壁には、無数の横坑が繋がっている。時間をおけば、難を逃れたBETAが再び主縦坑の底を埋め尽くすことだろう。 ここからは時間との勝負だ。 通信が死んでいるため、効率的な集団行動が取れないのがもどかしい。 それでも衛士達は決死の覚悟で探索を続ける。「このっ、邪魔をするなっ!」 ソ連製の第二世代戦術機、MiG-27アリゲートルを駆る若い女衛士が、苛立ちをぶつけるように側面から襲いかかってきた要撃級の攻撃を回避すると、素早くその側面に回り込み、右肩でショルダーチャージをしかけるように突っ込み、その肩部装甲ブロックから飛び出しているスーパーカーボン製ブレードを突き刺す。「はあっ!」 そしてそのまま機体をその場で自転させ、要撃級の身体を肩のブレードで切り裂いた。 全身に備え付けられたブレードは、ソ連製戦術機の特徴だ。 熟練した衛士はハリネズミのような全身の刃を巧みに使い、迫り来るBETAの集団を機動だけで切り裂いていくという。 長刀の使用に特化した日本製戦術機とはまた違った意味で、近接戦闘を重視した作りと言える。 その独特な戦闘方法さえ身につければ、ハイヴ内部でBETAを殲滅するには向いているのかも知れない。 だが、どちらにせよ今やるべき事はBETAの殲滅ではない。反応炉の発見、破壊が最優先だ。「どこだっ……」 女衛士は、血走った目を、グチャグチャに崩れたハイヴ内壁に走らせる。 ハイヴ内壁が放つほのかな燐光だけが光源だ。無論、戦術機には高度な暗視機能が備えられているが、それでも視界良好とはとても言えない。 ひょっとして、あの謎の銀盤からの攻撃で、反応炉に繋がる横坑は崩落を起こし、ふさがってしまったのでは? 十分にあり得る不吉な想像が、衛士の心をよぎる。「いやっ、そんなことを気にしている場合ではないっ」 それでも女衛士は、頭を振ると探索を続ける。崩落が起きたのなら掘り返せばいい。掘り返せないのならば、S-11で吹き飛ばすまでだ。今更、後に退くわけにはいかないのだ。 早速、それを実行に移そうと内壁につもる瓦礫に手を掛けたその時だった。『ッ!?』 突然、後ろの方で照明弾が打ち上げられる。とっさに振り向いた女衛士の目に、網膜ディスプレイを通し、その照明弾の光が飛び込む。『黄色……』 黄色の照明弾。反応炉発見を意味する黄色の照明弾が、誇らしげにハイヴの底を照らしていた。 反応炉に続く横坑発見。 発見された横坑に、予定通り練度の高い衛士が突入し、それ以外の衛士は横坑入り口の周りで三重の半円陣を築き、突入部隊が任務を果たすまで、入り口を守る。防衛部隊はおおよそ90機といったところだ。「絶対死守」という言葉がこれほどしっくりくるものもない、危険極まりない任務であるが、怖じ気づく者は誰もいなかった。 大東亜連合軍と一言で言っても国籍は色々だ。南北朝鮮はもちろん、他にもカンボジア、タイ、ベトナムなど、異なる国旗を頭上に掲げる衛士達が肩を並べ、人類共通の敵に銃口を向ける。「畜生、やらせねえ、やらせねえぞ!」「この野郎、通すと思うか!」 時間がたつにつれ、あちこちの横坑から次々とBETAが押し寄せてくる。 最初は時折思い出したように36㎜弾を放つだけで十分だった防衛線が、今では最外円に陣取る全戦術機がフルオートで弾幕を張りBETAの接近を阻止している状態だ。 幸い、このハイヴの底でもこの密集陣形の中ならば、無線も通じる。「畜生、そろそろ弾倉交換だっ!」『わかった。交代だ!』 ノイズ混じりの通信から、互いの意図を読み取り、弾切れを起こした衛士は、後ろに控える衛士とポジションを交換する。 下がった衛士は、その隙に弾倉の交換をすまし、次の交代に控える。 だが、この場には補給コンテナのような心強い代物は存在しない。 各戦術機が持ち込んだ弾倉が全てだ。 弾切れは時間の問題だろう。 せめてもの慰めは、ハイヴ地下が瓦礫で埋まり、平らな地面がほとんど無いため、突撃級がその破壊力と速度を十全に発揮することが出来ないことだ。 背後に守るものを控えた防衛陣形では、突撃級の突進も正面から粉砕するしかない。突撃級はその弱点である背面を狙えば、36㎜弾でも容易に倒せるが、正面の外殻は120㎜弾でも弾かれかねない。 今のところ、120㎜弾の集中砲撃で正面粉砕に成功しているが、120㎜弾の弾薬など、全体戦術機を合わせても、何百発もあるものではない。「くそっ、まだか、まだなのか!?」 刻一刻と消費されている弾薬と比例するように、衛士達の焦燥感は募っていた。 無論、守備隊が奮戦している間、突入部隊は暢気に遊んでいたわけではない。『なんだこれは!?』 目の前に広がる光景に、突入部隊の衛士が悲鳴じみた声を上げる。 その横坑の奥には確かに反応炉があった。まっすぐな横坑の一番奥に鎮座する、青白く輝く巨大な反応炉がここからでも見える。 問題は、その横坑の地面だ。『足の踏み場もない』という言葉が比喩ではなく、的確な表現と言えるくらいにそこには無数のBETAが犇めいていた。『落ち着けっ、匍匐飛行で一気に飛び抜けるぞっ!』 スーパーホーネットに乗る衛士が、悲鳴を上げた衛士の戦術機の肩をつかみ、そう言う。『あ、そうか。了解っ!』 この世界の衛士は、BETAの前で戦術機を飛ばす、という発想に中々なれない。それだけ、レーザー属種が脅威が頭に染みついている。 当然、ハイヴ内部ではレーザー照射は受けないという知識はあるのだが、ハイヴ突入経験もない衛士に、外の戦闘とハイヴ内の戦闘のセオリーを、簡単に切り替えることができるはずもない。『行くぞ、誰でもいい、反応炉にS-11を取り付けるんだ!』 おおよそ30機の戦術機が、BETAが敷き詰められた横坑を一気に飛び抜け、反応炉に迫る。『っ、上だ!』 一人の衛士がそれに気づき声を上げる。 まるでトラップのように天井に張り付いていた戦車級が、ボトボトと戦術機の上に落ちてくる。 いかに横坑が広いとは言っても閉鎖空間には違いない。回避できない何機かは、その赤く醜悪な蜘蛛のような生き物に食いつかれてしまう。『うわあ!?』『畜生っ!』『こ、この野郎!』 空中でバランスを崩した戦術機達は、そのままびっちりとBETAが敷き詰められた横坑の床へと墜落していった。 まるで飴玉に集る蟻のように、落ちた戦術機にBETAが群がり、消えていく。 それでも、20機を超える戦術機が、無事に反応炉の前までやってくる。『どこでもいい、S-11だ!』 S-11の破壊力を持ってしても効果的に配置しなければ反応炉の破壊は難しいのだが、この場にいる20機は全て一発ずつ、S-11を搭載している。時間もない今、効率にこだわっている場合ではない。 衛士達は、戦術機を巧みに操作し、巨大な反応炉にとりつき、S-11の設置作業に取りかかる。『くっ』 しかし、反応炉にとりついた戦術機を、BETA達が見逃してくれるはずもない。 次の瞬間、床に広がっていたBETA達はウゾウゾと反応炉をよじ登ってくる。『っ! 全機、退避!』 通じているか分からない無線で、スーパーホーネットを駆る中隊長はそう叫びながら、反応炉から離れる。 幸いにして、逃げ遅れた者はいなかった。20機強の戦術機がジェット燃料を消費しながら、空中にホバリングし事なきを得る。しかし、その間にBETA達は次々と反応炉にとりつき、僅かな時間で反応炉はその青く光る巨体の大半を醜悪なBETAの身体で覆い尽くされることとなった。『野郎、嘗めやがって』 ある衛士が空中から、36㎜弾で反応炉にとりついたBETAの群れを掃射する。 身動きのとれないBETAは面白いように打ち落とされていくが、流れ弾が当たっても反応炉はびくともしない。しかも、そうしてBETAを反応炉から引きはがしても、すぐに下から這い上がってくるBETAがその隙間を埋めてしまう。 この状態で、反応炉にとりついてS-11を設置するなど不可能だ。作業途中で、戦術機ごとBETAの腹の中に収まってしまう。 時間さえあれば数発のS-11で地上のBETAを一掃し、体勢を立て直すことも出来るのだろうが、そんな余裕はどこにもない。この横坑の入り口を守ってくれている守備隊が抜かれれば、この場にいる以上のBETAがここに押し寄せてくることだろう。 付け加えるなら、戦術機のジェット燃料も心許ない。戦術機は空も飛べるが、原則地上を走るものだ。無限に飛んでいられる訳ではない。『これは、覚悟を決めるしかないかな……』 中隊長がそう呟いたとき、近くで通信を聞いていた他の衛士たちも、ごく自然な顔で頷いたのだった。『了解です』『仕方がないですね』『考えるまでもない』 静かな決意の籠もった了解の返事が返る。『よし、時計を合わせろ。今から30秒後に全機反応炉にとりつき、同時にS-11を機体内部からの手動爆発で起動させる』『『『了解!』』』 この場にいるのは南北朝鮮の衛士だけではない。だが、自らの命で反応炉を砕くことに、不満を申し出るものはいなかった。『まあ、守備隊の皆には少し悪い気もしますがね』『彼らだって覚悟は出来ているさ』 ある女衛士の言葉に、別の衛士がそう応える。 この場で20発のS-11を爆発させればその爆風はこの横坑だけでなく、その外を守る守備隊の所まで蹂躙することになるだろう。そうなれば、守備隊の大部分も助からない。 退避勧告をしようにもこの距離では通信も届かないし、万全を期すことを考えれば直前まで入り口を守っていて欲しいのも確かだ。 20人の犠牲を110人に増やし、その分反応炉破壊の確率が数パーセントでも上がるのならば、悪い取引ではない。そんな冷たい計算を、司令官や参謀だけでなく、最前線で命を張る衛士達もしなければならないのが、この世界の『当たり前』であった。『よし、全機散開っ!』 次の瞬間、20機の戦術機が、BETAの固まりと化していた反応炉めがけ、突撃を敢行する。『うおおおおお!』『ちょっとどけ、俺もまぜろや』『ああもう、死ぬ直前に見るのがあんた達(BETA)の顔だなんてねっ!』 20機の戦術機は、突撃砲を乱射し反応炉に張り付いているBETAを一時的に引きはがすと、その穴が埋もれる前に、自らの機体をそこに滑り込ませる。 当然、そうして張り付いた戦術機はあっという間に、BETAという漆喰に塗り込まれ、すぐにその姿が見えなくなる。『畜生、割れろ、割れろ、割れろ!』 Su-37チュルミナートルに乗る衛士は、機体の全身を戦車級BETAに食い破られながら、右メインアームから伸びたモーターブレードを全力で反応炉に押しつけている。 チェーンソーのように高速で回転する細かな刃が頑健な反応炉とぶつかり火花を散らす。 S-11起動前に僅かでも傷がついていれば、それだけ反応炉破壊の可能性が高まる。その衛士は死ぬ直前まで、任務遂行のために全力を尽くしていた。 無論、中には努力が報われず、絶望の声を上げる衛士もいる。『うわあ、駄目だ! もう、戦車級がコックピットまできやがっ……!』 S-11の点火を待たずして、絶命して言う衛士。『くそっ、S-11の発動装置がやられた、これじゃ犬死にじゃねえか!?』 肝心のS-11の発動装置をやられ、ただ無力に終わりの時を待つだけの衛士。 だが、それでも二桁を超す衛士が、機体の全身をBETAに食らいつかれながら、無事にその瞬間を迎える。『今だっ!』『うおおお!』『喰らえ、このクソ野郎!』 衛士達の拳が、ガラスカバーをぶち破り、禁断のボタンに叩きつけられる。 次の瞬間、鉄源ハイヴの最下層は、光に包まれた。【2005年1月21日、日本時間1時48分、横浜基地、地下19階】「……いい加減、あんたの不法侵入にとやかく言う気はないけど、せめて常識的な時間に来るつもりはないの? 普通、誰でも寝ている時間よ?」「ですが、博士は起きていますな。まあ、結果として問題はなかったので、目をつぶっていただけませんかな、はははは」 不法侵入者に殺意すら籠もった視線を向ける夕呼であったが、不法侵入者は欠片も臆することなく、朗らかに笑っていた。 すでに日付が変わって2時間近くが経とうとしているこの時間帯に訪問するなど、例え正式な手順を踏んでいたとしても失礼極まりないだろう。常識に乗っ取って考えれば、夕呼の言葉は全面的に支持されるべきものであった。 夕呼は、椅子の上で軽く姿勢を直すと、帽子をかぶったロングコート姿の不法侵入者――鎧衣左近に対し、露骨なため息をついてみせる。「で、こんな時間に何の話? まあ、大体は想像がつくけれど」『甲20号作戦』が始まってから約17時間。成功にせよ、失敗にせよ、そろそろ結論が出てもおかしくない頃だ。 しゃくな話だが、今の夕呼の情報網は、目の前の男のそれと比べて格段に劣る。情報源としてだけでも、鎧衣左近という男は十分に利用価値がある。もっとも、その情報でこちらを思い通りに動かそうとすることも多いため、情報の裏取りは必須だが。 鎧衣左近は、いつも通りのつかみ所のない笑みを浮かべたまま、「そうですな。では、この間出張で訪れた中東の砂漠で出会ったランプの精の話を」「くだらない話をするつもりなら、そこの壁時計にでもしてくれる?」 夕呼が鼻の辺りに皺を寄せて、怒りを露わにするが、左近は意に介さない。「ひょんな事からランプの精を砂の中から助け出した私は、お礼に木彫りの『アッラー君人形』を頂戴したのですよ」「……あんた、刺されても知らないわよ」 夕呼の返答は、さほど大げさなものでもない。 イスラム教は原則的に、偶像崇拝を禁止している。唯一絶対の存在である「アッラー」を象るなど、ガチガチのイスラム原理主義者に見つかれば、その場で発砲されてもおかしくはない。「ええ、本当は博士へのお土産に持って来るつもりだったのですが、怖い人たちに睨まれまして。結局、息子にあげてしまいました」 左近はさも残念そうな顔を作り、わざとらしく肩をすくめた。「娘、でしょ」「ああ、そうでした。娘のような息子ですな。いや、息子のような娘かな?」 鎧衣左近の一人娘であり、旧207B分隊の一員であった鎧衣美琴は、国連軍の衛士として現在は、中東のバグダッド基地に所属してる。同じく旧207B分隊であった彩峰慧も一緒だ。 夕呼も戦死すればその報が入るくらいにはアンテナを立てているが、何も聞こえてこないところを見ると、今のところはまだ元気にやっているのだろう。 バグダッド基地はその後ろに、人類が手に奪取した二つ目の生きたハイヴ『甲9号・アンバールハイヴ』を背負っている。 まさに中東戦線の最前線と呼ぶべき激戦地なのだが、そこで娘に会ってきたというこの男は、せいぜい県外に嫁いだ娘に会ってきた程度の気軽さで語っている。「はいはい、それで? 話はそれだけ? だったら、お帰りはあちら」 いい加減うんざりした表情で夕呼はパンパンと手を鳴らし、話を遮る。遮られた左近は特に気を悪くした風もなく、自らの顎に手をやると、首をかしげ、「おや、興味がない? では、その後、マレー島で見た未だ残るシャーマン信仰の儀式については?」「お帰りは、あ・ち・ら」 いい加減限界が来た夕呼は唇が歪み、一見すると笑みを浮かべているように見える。「『甲20号作戦』。とりあえず、成功したようです」 人をからかっていいギリギリのラインを見極めているのが、この鎧衣左近という男の一番いやらしいところだ。 これ以上は危険というまさにギリギリの所で、左近は本題を切り出した。「ふーん。「とりあえず」、何てつくところを見ると、あまり順調ではなかったみたいね」「ええ。一度は全てのG弾を使い果たしたところで、手が尽きかけました」 普通ならあの時点で、作戦失敗ですな、と付け加える左近の言葉に、夕呼はピクリと反応した。「つまり、普通じゃないことが起こった訳ね」 ため息をつきたいところを、虚勢を張り、我慢する。普通ではない事を起こす奴ら。もう、この時点でオチは読めた。「ええ、ご想像の通り、αナンバーズの皆さんがちょっと凄い事をやって、無くなった勝ちの目を無理矢理取り戻したのですよ。詳細をお聞かせしましょうか?」 ご親切にそう言ってくる情報局課長に、夕呼は力なく首を横に振って答えた。「いい。一晩寝てから、朝に聞くから……」 こんなつかれて寝不足なところに、「αナンバーズが起こした非常識な事態の報告」など聞きたくない。常人離れして強靱で柔軟な精神を有している香月夕呼にも限界というものがある。「まあ、なんにせよ、それならαナンバーズは明日には戻ってくるのね」 それは夕呼にとって朗報と言えた。αナンバーズに出向させていた伊隅ヴァルキリーズ速瀬隊の面々から詳しい話を聞き出せば、色々と有益な話が聞けることだろう。その倍くらい、疲れる話を聞かされることにもなりそうだが。「話はそれだけ?」 流石に本格的な眠気に襲われ始めた夕呼は、そろそろ話を切り上げようとそう言う。 それに対して左近はわざとらしい動作で、ポンと一つ手を叩くと、さも今思い出したかのように、「ああ。そういえば、博士はご存じでしたか? 私も今日初めて知ったのですが、ソビエト連邦というのは、実は国ではないのだそうですよ」 突如訳の分からない話を始める。「はあ?」 意図が読めずに聞き返す夕呼に、左近は、「いえ。間違いのない事実です。彼らが言うには、ソビエト連邦というのは、「ロシアを盟主とした複数国家による軍事的、経済的統合体」なのだそうです」「何の話よ、それ」 睡眠不足で頭が鈍っているのか、新しい情報と古い情報を結びつけられないでいる夕呼に、左近はそのままズバリ、ヒントを出す。「なんでも、αナンバーズの皆さんは『各国家ごとに一定数ずつ』ビーム兵器を贈与する準備があるのだそうで」 その言葉に、やっとソビエトの意図を理解した夕呼は、本気で頭痛を感じ、頭に手をやる。「……そう言うことね。相変わらずあの国は、予想を超える真似をやってのけるわね」 聞きようによっては褒め言葉にも聞こえるが、絶対に褒めていない。夕呼の表情の半分は、あきれ顔で出来ており、もう半分は軽蔑顔で出来ている。 まあ、それだけ、どの国もなりふり構っていられないくらいに切羽詰まっているということなのかも知れないが。 思わず脱力状態におちいった夕呼は、我慢できず小さくあくびをした。「おっと、これ以上美女の睡眠時間を奪うのは国家的損失ですな。では、私はこれで失礼します」 今更、どの面下げて言うのかという言葉を残し、左近は滑るような足取りで出口へと向かう。が、ドアノブに手を掛けたところで、左近はもう一度振り向いた。「ああ、「中華人民共和国」もなにかアクションを起こそうとしているようですよ。なんだか、一気に世界が騒がしくなってきていますな」 そして、そう言い残し、夕呼の返答も待たずに今度こそ部屋を出て行った。 残された夕呼は、眠気と戦いながら、今聞いた言葉を頭の中で反芻する。「「中華人民共和国」? 統一中華戦線じゃなくて?」 今の中国が領土として保有しているのは台湾島だけだ。中華人民共和国と台湾。もしくは中国共産党と中国国民党。 二つの政府は表向き、対BETA戦線において共同歩調を取っている。特に領土を全て失い台湾に間借りさせてもらっている「中華人民共和国」は、大家に当たる「台湾」に無断で行動を起こすことはあり得ないはず。 今まで通りならば。「また、面倒くさい事が起こる見たいね」 夕呼は深いため息をつきながら、鈍い動作でゆっくりと椅子から立ち上がった。 とりあえず、面倒話は纏めて朝になってからだ。今は、シャワーを浴びて一寝入りするのが、全てに優先される。 夕呼は、今後起こるであろう複雑な問題も、面倒くさい問題も、非常識な問題も、今は一時的に忘れることにするのだった。【2005年1月21日、日本時間9時05分、帝都東京、帝都城】『甲20号ハイヴ陥落』 その報告は、日本帝国にすむ人間にとっても、『甲21号ハイヴ陥落』の半分くらいの歓声を持って迎えるべき、喜ばしいニュースであった。 いくら、九州・四国・中国地方からの疎開はすんでいるとは言っても、甲20号ハイヴが日本にBETAを送り込み続けていたのは間違いのない事実である。 これで、日本列島は当面BETAの脅威から無縁となったのだ。嬉しくないはずがない。 四国・中国・九州から疎開していた人間の中には昨夜の内に政府に「自分たちはいつ故郷に戻れるのか?」と聞いた者もいたという。 だが、それはあくまで一般市民レベルでの話であり、帝国の中枢であるここ帝都城に勤務する高級役人達の脳裏にはまた、別な現実が広がっている。 国連軍太平洋艦隊の補給を担当した帝国軍の補給担当者達は、十分及第点をやれるくらいに上手く仕事をこなしてくれたが、それでも国連軍からはいくつもの苦情が届いているし、さらに国連軍は疲れ切った兵士達に帝国で休暇を与えたいと言っている。 今の帝国に十万を超える国連軍の兵士が放たれたら、下手をすればBETAの侵攻にも等しい混乱が巻き起こるだろう。 そもそも、国民の大半が食料を配給で受けている今の帝国で、彼らは何を愉しもうというのだろうか。 さらに、大きな問題が、昨晩ついに全世界の前でその力を披露した『αナンバーズ』の問題だ。 各省庁は、昨晩からひっきりなしに電話が鳴り続け、中にはノイローゼになりかけている者もいるらしい。 そんな、大混乱の帝国中枢であったが、ここ帝都城の一室にも疲れ切った官僚が一人、青い顔で革張りの黒いソファーにその身体を埋めていた。 年の頃は、30代の後半といったところだろうか。ネクタイを緩めているせいか、高そうなスーツもどこかくたびれた印象を受ける。「あー、畜生。なんで、俺がこんな問題を担当させられるんだよ……」 ソファーの背もたれに頭を乗せ、顔の上に腕をのせて愚痴をこぼすその男に、別な男が湯気を立てるプラスチックのカップを二つもって、近づいてくる。「よう、ご苦労さん」「あー、お前か」 だらけていた男は、目線だけ声を掛けてきた男に向け、そう返した。どうやら二人は顔見知りのようだ。おそらく、同じ部署で働いているのだろう。年の頃も同じくらいだ。「で、朝一でやってきた『統一中華戦線』の副特使殿は、何を言ってきたんだ?」 後から来た男は、合成コーヒーの入ったカップを一つ渡しながら、そう尋ねた。「おお、ありがたい。けど、お前それは間違いだ」 だらけていた男は、どうにか座り直し、合成コーヒーを受け取りながら、そう返す。「間違い?」 後から来た男は、男に対面に腰をかけながら、首をかげる。確かに、今朝やってきたのは、統一中華戦線の副特使だったはずだが。 通常、統一中華戦線は『台湾』サイドの正特使と、『中華人民共和国』サイドの副特使が互いを監視し合うようにそろって行動するため、どちらか一人だけがやってくるのは珍しい。それ故、副特使が一人でやってきたのはよく覚えていたので、間違いはないはずだ。 不審げに首をひねる男に、もう一人の男は力なく笑いながら、「今日の彼は、『統一中華戦線』の副特使ではなく、『中華人民共和国』の大使なんだそうだ」 そう答えた。「グッ……!」 聞かされた方は、危ういとこで拭きだしかけたコーヒーを無理矢理飲み込む。「おいおい、穏やかじゃないぞ、それは」 統一中華戦線の『二つの中国』問題は、色々と繊細な問題をはらんでいる。それ故、両国はあえて「統一中華戦線」という名前で統一し、対外的にはこの問題を凍結していたのだ。 その一方があえて本来の名前『中華人民共和国』を持ち出してくると言うのは、彼が言うとおり穏やかではない。「それで?」 思わず佇まいを直し聞いてくる同僚に、男は口元に人生に疲れたような笑みを浮かべながら、「中々、笑える提案をされたよ。1982年の米ソ、と言えば分かるか」 1982年の米ソ――アメリカとソビエトといえば思いつくのは一つしかない。『アラスカ租借条約』の締結だ。「おい、まさか?」「そのまさか、だ」 同僚は血相を変えてソファーから尻を上げる。「冗談じゃないぞ。帝国はアメリカじゃない! 貸し出すような土地は逆さに振ってもありはしない!」 だが、激高する同僚を押さえるように男は両手を挙げると、「落ち着け、勘違いするな。逆だ」 という。「逆?」「ああ。逆だ。土地を借りたいんじゃない。奴さん、「土地を貸したい」と言ってきた。具体的には、湖南省、江西省、浙江省の三省をな」「な……」 今度こそ同僚の男は絶句した。思わず、途中まで上がっていた尻がドスンとソファーに落ちる。「期間は100年、租借料は、三省から上がる税収の10パーセント。まあ、これはほとんどオマケみたいなものだな。というかはっきり言えば、江西省、浙江省自体がオマケみたいなものだろう。狙いは、帝国に「一時的に湖南省を持たせる」ことだ」 湖南省。 中国内陸部のその地は、世界有数の非鉄金属の鉱脈として名高いが、この場合問題となるのはそこではない。 湖南省のすぐ隣には、中華人民共和国の直轄市、『重慶』があるということだ。 そう、甲16号・重慶ハイヴがあるのだ。 中国の意図は明らかだ。 重慶ハイヴのすぐ近くの湖南省が帝国領となれば、必然的に帝国は中国と協力して重慶ハイヴのBETAに対応しなければならなくなる。 BETAに対応する一番良い手段は、ハイヴを落とすことだ。幸い帝国にはその力がある。特殊部隊か、同盟を結んだ独立勢力かは知らないが、『αナンバーズ』という不可能を可能にする戦力が。いや、あえて帝国に打診してくるところ見ると、中国は未だαナンバーズを帝国の一部隊と考えているのだろうか? どちらにせよ帝国、というかαナンバーズの力を借りて、「国連を通さずに」国内のハイヴを攻略する。それが中国の狙いなのだろう。 そうすれば、ハイヴ及び、そこにあるG元素を国連(実質的にはアメリカ)に、徴発されることもない。 その後は中国もαナンバーズと『同盟』を結び、残りの国内のハイヴを攻略できれば言うことはない。なにせ、中国には、地球上で唯一のフェイズ6ハイヴ、甲1号・カシュガルハイヴがあるのだ。 そこに眠るG元素を考えれば、すでにBETAによって平らにされた三省など惜しくもない。 どのみち中国の人口は、最盛期の十分の一以下まで衰えている。中国全土を開発するような力は残っていない。 むしろ、帝国資本で不毛の地と化した三省を再開発してもらえるのなら、美味しいくらいだ。 はっきり言って短期的に見れば、帝国には苦ばかりがあり、うま味はゼロに近い。 だが、もう少し目を遠くに向ければ、話は違う。 湖南省には全世界のタングステンの約5割が眠っていると言われてる。 山脈が、ことごとくBETAによって削り取られた今、その埋蔵量は半減しているだろうが、それでも全世界の2割以上だ。 掘り返すことが出来れば、戦術機や戦車、さらには戦艦で使われている通常弾頭を劣化ウラン弾からタングステン弾に切り替えることが出来る。 タングステンは劣化ウランに比べれば若干軽く、その分威力は落ちるが、製造は劣化ウラン弾より容易だ。 今後も対BETA戦が続くのだとすれば、弾薬の消費量というのは、国庫に重くのしかかる問題だ。 現在、帝国は、オーストラリアなどから劣化ウランを買い取り自ら製造するか、もしくは劣化ウラン弾自体を他国から買い取るかして、帝国軍の弾薬をまかなっている。 だが、このタングステン鉱脈を手に入れることが出来れば、十年後には全ての弾薬を自国でまかない、さらには余剰弾薬を輸出して外貨を稼ぐことも出来るようになるかも知れない。 もちろん、それは全て、ハイヴ攻略に今後もαナンバーズが協力してくれるという事と、のど元の熱さが過ぎ去った後の中国が約束を反故にしないと言う保証が大前提なのだが。「……『台湾』はどういっているんだ?」 今更ながら声を絞り聞いてくる同僚に、男はヒョイと肩をすくめて見せた。「わからん。だが、何も知らないと言うことはないだろう。副特使と正特使は同じ、統一中華戦線特使館に寝泊まりしているのだからな」「…………」 ちなみに台湾とは別名『中華民国』といい、彼らも「自らが中国大陸を統一する唯一の政府である」と言う宣言を取り消してはいない。あくまで、BETA戦の間、諸問題を「凍結」させているだけだ。 つまり、いかに「中華人民共和国」と「日本帝国」の間に租借条約が締結しても、もう一つの中国は「そんなものは知らない」と後で言ってくるかも知れない、というわけだ。 はっきりって胡散臭いを通り越している。どう考えても、関われば碌な事にはならなさそうだ。「おい、かつての満州の二の舞はごめんだぞ」「ああ、分かっている。とはいえ、俺に出来るのはこの話を上に通す際に、出来るだけ忠告をすることだけだ」 男は官僚としてはまだ、若造と言われる年齢でしかない。こんな大きな問題に返答を返す権限はない。まして、握りつぶすにも問題が大きすぎる。 帝国の上層部は、あらゆる組織がそうであるように、切れ者もいれば馬鹿もいる。表面上の美味しい話に飛びつく人間は必ず現れるだろう。 なんとか、馬鹿よりも切れ者の声が大きいことを祈るのみだ。 男は、そのまま固形物になりそうなくらいに重いため息をついた。