Muv-Luv Unlimited ~終焉の銀河から~第四章その7【2005年3月25日、バグダッド時間12時48分、バグダッド基地】 甲2号ハイヴのBETA西進が確認されてから、約四時間。 BETA群の前衛を担う、突撃級の群れが今まさにバグダッド基地を蹂躙しようとしていた。 BETA全体における突撃級の割合は、およそ7パーセントと言われている。BETAの総数が十万としても七千匹、二十万ならば一万四千匹、三十万ならば二万一千匹の突撃級がいる計算だ。 無論、効率的な戦術など存在しないに等しいBETAが、そんなにきちっと動くはずもなく、かなりの数の突撃級が後方で他のBETAの渋滞に巻き込まれているようだが、それでもその前衛部隊の総数は、一万を超える。 最大速度で迫り来る、一万匹の突撃級BETA。 地平線の彼方から立ち上る土煙は、ソニックブームを彷彿させる。 その先頭が視認できる距離に近づいた頃には、基地内で固唾を呑む兵士達は、足の裏がむず痒くなるような振動を地面から感じ取っていた。 そのまま一万匹のBETAが突っ込んでくれば、バグダッド基地はものの数準文で、無人の更地と化すことだろう。 だが、BETAが基地を蹂躙するより先に、先頭を走る突撃級の真下が爆発を起こす。 埋設しておいた地雷原を踏み抜いたのだ。直接被害を被った突撃級はもちろん、その後続の突撃級も仲間の残骸にぶつかり、一時的に足が止まる。『BETA群、地雷原到達を確認』 観測班からの報告を聞いた、初老のインド人司令官は即座に命令を下した。『支援砲撃部隊、撃て!』 バグダッド基地の内懐に守られた支援砲撃部隊が、一斉に火を噴く。 豪雨のように降り注ぐ砲弾が大地を揺らし、迫り来る突撃級を駆逐していく。 この防衛戦で唯一人類側に幸いしたのは、甲2号ハイヴからここまでの距離が十分に開いていいたことだ。おかげでBETAの前衛と後衛が大きく離れている。 厄介なレーザー級、重レーザー級はまだ地平線の向こう側。 しばらくは、レーザー属種に迎撃されることなく、砲撃を加えられる。 何千という突撃級BETAが突進し、無数の砲弾が降り注ぐ。 アラビア半島の大地が揺れ、立ち上がる土煙が視界を隠す。 土煙の中では、突撃級BETAが次々と息絶えている事だろう。 それでも、一万匹の突撃級を全滅させるには至らない。 土煙の壁の中から、難を逃れた突撃級が疎らにその姿を現す。 その前に立ちふさがるのは、バグダッド基地所属戦術機部隊の面々だった。『来るぞ! ロック1より各機へ! 二機編成(エレメント)単位で対処しろ!』 国連ブルーに塗装された第二世代戦術機、F-16Aファイティングファルコンを駆るロック中隊の中隊長は、中隊各員にそう命ずると、自らも突進してくる突撃級の背面を取ろうと、機体を急稼働させた。『ロック2! フォローしろ!』『了解っ!』 ロック1の駆るファイティングファルコンは、正面から突っ込んでくる突撃級を右サイドステップで回避すると、その場でクルリと百八十度反転し、右メインアームに持つ『AMWS-21』突撃銃から、36㎜弾を撃ち放つ。 放たれた数発の36㎜弾は、突撃級の弱点である柔らかい背面を貫いた。 撃たれた突撃級の撃破確認をするより先に、エレメントパートナーである若いアラブ系衛士の鋭い声が、中隊長の耳に届く。『ロック1! 回避、右!』『ッ!』 戦場でエレメントパートナーの声は、命をつなぐ蜘蛛の糸だ。 ロック1は、思考すら放棄して、反射的に機体を最大速度で右にずらした。 次の瞬間、ロック1の機体の左腕をかすめるようにして、新たな突撃級が駆け抜けていく。『ロック2、フォックス3!』 その突撃級に、ロック2の駆るファイティングファルコンが36㎜弾を放ち、仕留める。 味方機が十メートルも離れていない所にいるBETAに、ためらいなく銃弾を振らせるその瞬時の決断力と、抜き打ちで味方機に弾丸を掠らせもしない技量は大したものだ。『助かった。この調子でいくぞ』 ロック1も自分より十歳以上若いエレメントパートナーに、賞賛の声を惜しまない。『はいっ!』 若いアラブ人衛士は、まだ髭も生えそろわない幼い容姿に似合わない、歴戦の戦士の笑みを浮かべ、中隊長の期待にこたえるのだった。 支援砲撃と地雷原が有効に働いたおかげもあり、バグダッド基地は突撃級一万から基地を守りきることには成功した。 もちろん、一万匹の突撃級を余すことなく討ち滅ぼしたわけではない。倒したのは半分にも満たない。 地雷原と支援砲撃、そして三個連隊(324機)の戦術機が死力を尽くしたとしても、一万匹の突撃級を駆逐しえるはずもない。 そのため、バグダッド基地司令官は、アンバール基地からの『現状維持に努めよ』という命令を若干曲解し、基地の左右を駆け抜ける突撃級は無視し、基地正面に突撃してくる突撃級のみにターゲットを絞ったのである。 その判断は、間違えていなかったといえるだろう。 もし、バグダッド基地の戦力で、一万匹のBETAを一匹も後ろにと押さない気概を持って当たれば、この前哨戦だけでバグダッド基地はすりつぶされていたはずだ。 そんな事態に陥るくらいならば、ある程度は後ろに押しつけてしまった方が良い。 アンバール基地には、バグダッド基地の倍以上の戦力がそろっているのだ。十分対処できる。「横を抜けた突撃級群は、現在後百三十キロ地点に到達。反転してくる様子はありません」「BETA本隊、交戦可能地点に到達!」「地雷再埋設作業、進捗は五パーセントです!」「支援砲撃部隊、補給完了!」「第一戦術機連隊、補給完了です!」「第二、第三戦術機連隊も、補給は完了しています。前線補給ポイントの補給コンテナ散布状況も問題なし!」 バグダッド基地司令室内が、情報の濁流であふれかえる。 浅黒い肌と、真っ白な髪を持つ、初老の司令官――パウル・ラダビノッド少将は、しばし目を瞑り、無数の情報を頭の中で整理する。 何もかもが思い通りとはいかないものの、ここまでは予想以上に順調だ。 カッとつぶらな眼を開いたラダビノッドは、矢継ぎ早に指示を出す。「地雷埋設作業は中止、工兵隊は後方に退避。 第一、第二戦術機連隊は前線で防衛網を構築。第三戦戦術機連隊は予備選力として後方に待機。指示があるまで、戦闘には参加させるな。 支援砲撃部隊は、対レーザー弾頭に換装後、命令を待たずに各自砲撃支援を開始」「了解っ! 工兵隊に通達。現時刻をもって……」「了解。第一、第二戦術機連隊は、防衛ラインを構築を構築。第三戦術機連隊は後方にて……」「了解です。支援砲撃部隊に告ぐ。全砲座は対レーザー弾頭に換装。その後……」 司令官の命令を、各CP将校達が前線の兵士達に伝達する。 CP将校達は、熱の籠もった様子で己の業務に打ち込んでいた。 少なくとも、命令を通達している間は、西側半分が、BETAを意味する真っ赤な光点で塗りつぶされた戦術マップから、眼を逸らしていられる。そうでもしなければ、精神の均衡が保てない。 だが、責任者であるラダビノッドは、例え一瞬でもその絶望的な現実から眼を逸らすわけにはいかない。「アンバール基地からの返答に変更はないか?」 ラダビノッドは、戦術マップを見据えたまま、隣に立つ副官だけに聞こえるよう小さな声で、既に何度目になるか分からない言葉を投げかけた。 年若い東アジア系の女士官は、少し眼を伏せながら、こちらも変わらぬ答えを返す。「はい、相変わらず『現状維持に務めよ』とだけ」「くっ……」 ラダビノッドは口元が憤りに歪みかけるのを、意思の力で必死に堪えた。 ラダビノッドは、これまでも再三アンバール基地に『バグダッド基地の放棄・撤退』許可を求め、打診していた。 押し寄せるBETAの数は、数十万という数なのだ。 バグダッド基地の戦力で防衛可能な限界ラインを遙かに超えている。それどころか、その後ろのアンバール基地とて、防衛に成功するには奇跡がダース単位で必要だろう。 故に、ラダビノッドはバグダッド基地の役割を『アンバール基地駐留軍の撤退が終了するまでの時間稼ぎ』だと考えていたのだ。 しかし、実際にはBETA西進が確認されてから五時間が過ぎた今も、アンバール基地は撤退を始めるそぶりを見せていない。となると当然、アンバール基地を守る盾の役割に担うここ、バグダッド基地も現状位置を余儀なくされる。 「アンバール基地の司令官は、話の分からない人物ではないはずなのだが……やはりもっと上の問題か?」 ラダビノッドは隣に立つ副官にも聞こえないよう、口の中だけでそう呟く。 実際、ラダビノッドの予想は的中していた。 アンバール基地は、国連軍とは名ばかりで、実際にはアメリカ軍の傘下にある。 アンバール基地駐留軍はトップから末端まで全員、アメリカ軍からの横滑り組なのだ。 バグダッド基地は、すぐにでも撤退戦に移りたいが、後方のアンバール基地が撤退を始めるまで撤退出来ない。 アンバール基地も本当は即座に撤退したいのだが、貴重な反応炉を惜しむアメリカ本国が撤退を許可しない。 反応炉を死守したいアメリカは、安保理にαナンバーズの派遣を打診しているが、一週間後に甲16号作戦を控えた統一中華戦線はこれに反対し、拒否権を行使するかまえだ。 結果、事態は何一つ動かない。 このままでは、アメリカ政府が折れて、アンバール基地に撤退許可を出すまで自分たちはただ無意味に死地に留まり続けるしかない。 勝算が一欠片もなく、そのくせ撤退も許可されない戦場で、はたして兵士達はどれくらい士気を保っていられるだろうか?(最悪、私が泥を被る覚悟が必要か……) ラダビノッドは、もしこのままの状況が続くようならば、越権行為を行う覚悟を、密かに固めていた。【2005年3月25日、バグダッド時間15時25分、バグダッド基地】 BETA本隊とバグダッド基地軍が交戦状態に入り、既に二時間が経過していた。 今のところ、バグダッド基地に目立った被害は出ていない。 最前線では、二個連隊――二百機を超える戦術機が防衛ラインを築き、死守命令に文字通り命を懸けている。 だが、最初は綺麗に整っていた陣形も、時間の経過と共に、歪み始める。『ロック8、一度後方に下がって補給を受けろ! ロック7、ロック8を連れ戻せ!』 ロック中隊の中隊長は、血の気が多い部下を通信で窘める。 注意を受けたのは、F-4Eファントムを駆る、黒髪の若い女衛士だった。 女衛士の駆るF-4Eは、要撃級BETAが集まっている小集団に正面から距離を詰め、36㎜弾を掃射しながら、銃口を横にスライドさせ、五匹の要撃級を纏めて屠る。 また、36㎜弾の弾倉が一つカラになり、サブアームが自動で最後の弾倉と交換を始める。 だが、そうして足を止めた隙に、小さな戦車級BETAがロック8の周囲に集まっていた。『ッ!?』『慧さん、動かないでっ!』 気づいたロック8が対処しようとするより早く、彼女のエレメントパートナーであるロック7の声が届く。ちょっと聞いただけでは、少年とも少女とも判別できない中性的な声だ。 そして、次の瞬間、ロック7の操るF-4Eファントムは、ロック8の乗るF-4Eファントムに取り付こうとしていた戦車級BETAを、36㎜弾の雨で纏めて蜂の巣にする。『ありがと、鎧衣』『いいよ、気にしないで。でも、慧さん、一度下がった方がいいよ』『駄目。今私達が抜けたら、前線が支えられなくなる』 ロック7――彩峰慧少尉は、心配げに話しかける鎧衣美琴中尉に素っ気ない口調で言葉を返すと、更に機体を前に押し出そうとする。『彩峰少尉、下がれと言っているだろう! 無茶をしすぎだ! 補給を受けてこい!』 彩峰の網膜ディスプレイに、アラブ系の中年男の怒り顔が大きく映し出される。 彩峰は、直属の上司の怒声にも全く動じることなく、無表情のまま抗弁した。『今私が下がったら前線に穴が空く』 明らかに上官に対する口の利き方ではないが、中年の中隊長は今更そんな些細なことを注意する気もなく、ただ無謀な部下の行動を諭す。『そうやって無理をして貴様が死んだら、もっと大きな穴が空くんだ。大体その有様で、出しゃばられても迷惑なだけだ。何ならこの場で貴様のバイタルデータを見せてやろうか?』『…………』 彩峰は中隊長の的確な指摘に、返す言葉を失い、コックピットの中で唇を噛んだ。 中隊長の言うとおり、彩峰の豊かな胸元は、先ほどから荒い呼吸に従い激しく上下していた。 バイタルデータを見せられるまでもなく、彩峰自身も息が上がっているのを自覚している。 まだ戦闘開始から三時間も経っていないのに、歴戦の衛士である彩峰が息を切らせているところに、この戦場の非常識なまでの過酷さが分かる。 一方、縦横無尽に大暴れする彩峰のフォロー役に終始していた美琴は、まだ軽く息を弾ませている程度だ。 中隊長は一回り年下の女衛士を諭すように、言葉をかけ続ける。 『どうした。俺も命令が聞けないか? 俺もお前の言う、命令を無視してもいい『無能な上官』か?』 彩峰は悔しそうに唇を噛んだまま、汗で湿った頭を振り、一つ大きく息を吐き答えた。『……了解。ロック8、一時後方に下がります』『ロック7、同じく。補給してきます』『よーし、せっかくだから、水と食い物も腹に入れておけ。どれくらい長丁場になるか分からんからな!』 中隊長の声に尻を叩かれるようにして、二機のF-4Eファントムは後方へと一時下がっていくのだった。 後方は、前線とはまた違った意味で地獄だった。 前線と後方と言っても距離にして一キロも離れているわけではない。 こうして後ろに下がると、全周囲からBETAが津波のように押し寄せている様がよく分かる。 最前線に立つ戦術機部隊は、いわばその津波を身体で止める生きた防波堤だ。 そうして津波を食い止めている隙に、後方から自走砲部隊が砲撃を加え、BETAの群れを纏めて屠る。 そうすることで、戦術機部隊にかかる圧力が弱まり、戦術機部隊も辛うじて生きながらえている。 前線と後方、お互いがお互いをフォローし合い、辛うじて今のところは現状を保っている。 だが、もし一カ所でも堤防が決壊すれば、バグダッド基地はその瞬間BETAの波に呑まれることだろう。『すぐに、戻らなきゃ』『うん、そうだね、慧さん』 本来のセオリーであれば、後方に下がった衛士は一時休息を取ることが望ましいとされているのだが、そんな状況ではないことが一目で分かる。 彩峰と美琴は、戦車隊と機械化歩兵隊に守られた補給コンテナに近づくと、手慣れた様子で武器、弾薬、燃料を補充していく。 前線の戦術機部隊が止めきれない小型種が、防衛網を超えてこの辺りまでその醜悪な姿を見せるが、それらは戦車と機械化歩兵が相手をする。 彩峰は、強化装備に備え付けられている水と非常食を腹に詰めこむと、何度も深呼吸をしてはやる心を抑えた。 まだだ。せっかく無理をして後方に戻ったのだから、補給を完全に済ませなければならない。『でも、このままどれくらい持つのかな……』 鎧衣は、このままでは全滅以外の選択肢がない戦場を見渡しながら、通信機の全周波数をオープンにして情報を拾う。 分厚く戦場を覆う重金属雲の影響で、無線を拾える範囲は極めて狭いが、それでもフルオープンにした通信機からは、怒濤のように怒号と雄叫びと悲鳴が、聞こえてきた。『ハイヤトゥン4,5,11,12、戦死! 一時撤退許可を!』『こちらサウル1、前方に支援砲撃を! このままじゃ、もたない!』『こちら支援砲撃部隊。自走砲の砲身がいずれも活動限界を超えています! 換えの砲身の補給はまだですか!?』 耳を塞ぎたくなるような凶報ばかりが聞こえてくる。 本来であれば、交代要員として後方に待機していた第三戦術機連隊の百八機も、すでに各前線に『穴埋め要員』として駆り出されてしまっている。 補給状況に眼を向けながら、情報収集に勤しむ美琴の耳に、更なる凶報が届く。『こちら、ロック2。ロック1が戦死されました。以後、ロック中隊の指揮は私が引き継ぎます』「ッ!? ……隊長っ」 それは先ほど、彩峰を諭して、自分たちを後ろに下げてくれた中隊長の死を告げる知らせだった。 それでも、悲しみより先に「まずい事態になった」と考えてしまったのは、美琴の感情がこの地獄のような戦場で麻痺しているからだろうか。 少なくとも、美琴のエレメントパートナーの反応は、もっと激情的なものであった。『ッッ!!』「慧さんっ!?」 補給を済ませたばかりの彩峰機が、鎧衣にことわりもなしに突如駆け出す。「駄目だよ、落ち着いて! 前線復帰は指示を受けてからっ」『駄目。一刻も早く戻らないと、中隊が崩壊する』 その答えに美琴は、彩峰がただ激情にかられているわけではないことを理解した。 元々、彩峰の技量はロック中隊でもトップだ。 生憎、指揮官適正が果てしなく低空飛行なことと、上官への暴言や命令無視で昇格と降格を二度ずつ繰り返したせいで未だ少尉に留まっているという問題から、小隊長や副官と言った役職には就いていないが、彩峰がエースとして部隊をひっぱているのは紛れもない事実である。 エースである彩峰と、準エースである美琴が抜けている間に、中隊長が戦死した中隊。 確かに、士気が崩壊していてもおかしくない。『分かった。ボクがフォローするからっ!』『お願いっ!』 二機のF-4Eファントムが前後に並び、全速力で前線に戻る。『中隊のみんなは……』 一応持ち場は決まっているのだが、この絶望的に劣勢な戦力では、誰も彼も臨機応変な戦術変化を余儀なくされている。 元の部隊に復帰するだけでも一苦労だ。『くっ、もう、こんな所までっ!』 美琴は最前線を抜けてきた戦車級BETAを36㎜弾で駆逐しながら、通信機をフルに使い、ロック中隊の居場所を探る。 美琴がその通信を受信したのと、彩峰がその機影を発見したのは、ほぼ同じタイミングだった。『ロック2より各機へ! 戦線を再構築します。一度集合して下さい!』 BETAの体液と煤で赤黒く汚れたF-16Aファイティングファルコンが、こちらに背を向けて戦場に仁王立ちしているのを発見する。 その緊張で裏返りかかった若い声は、間違いなくロック2のものだ。『よかった。どうにか、間に合った……』 ホッと口元をほころばせた彩峰が自分と美琴の戦線復帰を告げようとしたそのときだった。 ロック2のファイティングファルコンの右手側のBETAが、海が割れるようにしてまっすぐ道を開く。『だっ!?』 その動きが何を意味するか、分からない衛士はいない。 突如開いた道の向こうには、大きな単眼が印象的な重レーザー級BETAの姿があった。 ロック2は重レーザー級と『眼が合う』のを感じた。『しまったっ!』 ロック2のコックピット内にけたたましくレーザー照射警報が鳴り響き、機体は自動的にランダム回避モードに移行する。 ランダム回避モードで、ロックされるまでの時間をほんの僅かだけ引き延ばし、その僅かな時間でエレメントパートナーがレーザー照射源であるレーザー属種を倒す。 レーザー属種に狙われた戦術機が生き残る可能性は、原則これだけだ。 そして、ロック2のエレメントパートナーは、既に死んでいる。『カリミッ!』 彩峰が悲痛な声でロック2の名前を呼び、重レーザー級を打ち倒しに向かおうとするが、それを横から美琴が制する。『駄目だよ、慧さんッ、もう間に合わない!』 彩峰機は、ロック2機より後方にいるのだ。今から突貫しても、彩峰機が重レーザー級を射程内に収る前に、ロック2のファイティングファルコンは、レーザー照射を浴びて、跡形もなく蒸発していることだろう。 その場合、残されるのは帰り道をふさがれて、BETAの群れの中で孤立する彩峰機だ。『グッ!』 一瞬でそういった状況判断が出来てしまったのだろう。彩峰が一瞬、足を止めたときは既に結果は出ていた。 彩峰の目の前を、眩い『ピンク色』の光が駆け抜ける。『うわああ! アッラー・アクバル!』 死を覚悟したロック2が最期の言葉を叫ぶ。『…………あれ?』 だが、予想に反していつまで経ってもロック2の魂は、神の御許へ旅立たない。 ロック2が恐る恐る眼を開けてみると、そこには理解が及ばない光景が広がっていた。 蒸発していたのは、自分ではなく重レーザー級BETAのほうであった。遙か遠方で、頭部を消し飛ばされた重レーザー級の下半身が、バランスを崩して崩れ落ちる様が見える。『な、何が起きたのですか?』 年の割には落ち着いていると表されるロック2が、自分の置かれている状況を確認するより早く、ロック7の声が聞こえる。『ち、ちょっと、中隊長代理、慧さん。後ろ!』 マイペースが服を着ているような美琴が、聞いたこともない震えた声でそう言う。『後ろ?』『後ろに何が……?』 後方に視界を向けると、いつの間に、どこから現れたのか。国連ブルーに塗られた見覚えのない六機の戦術機が立っていた。 いや、見覚えがないのは、ロック2だけだ。彩峰と美琴はその戦術機をよく知っている。 縁がなく、乗った経験はまだないが、母国製の戦術機を知らないはずがない。 少し遅れて、コンピュータが自動検索を済ませ、その戦術機の素性をロック2に知らせてくれる。『あれは……日本帝国製第三世代戦術機、不知火?』 状況がつかめずに呆然としているうちに、不知火と通信が繋がる。 ロック2の網膜投射ディスプレイに映し出されたのは、藍色の長髪をポニーテールに纏めた、東アジア系の美女だった。『こちら、極東国連軍横浜基地所属、伊隅ヴァルキリーズ、速瀬隊。自分は隊長の速瀬水月中尉です。これより貴軍を援護します』 一時間三十分という時間をかけて、横浜港からインド洋を横断し、アラビア半島までやってきた速瀬水月は、力強い笑みを浮かべ、鮮やかに敬礼をして見せるただった。【2005年3月25日、バグダッド時間16時40分、バグダッド基地】「彩峰! 美琴! よかった、間に合ったみたいだな!」『うそ……白銀?』『うわあ、タケル? 本物? 偽物? まあ、どっちでもいいや。凄い久しぶりだねー』 記憶にある通りの二人の顔と声。特に、美琴などはそのつかみ所のないしゃべりも昔のままだ。 タケルは、目尻に涙がにじむのが堪えられない。『美琴、お前、偽物はないだろ、偽物は。正真正銘本物だよ』『確かに、この間の抜けた顔は、紛れもない白銀』『彩峰、三年ぶりに再会して最初の一言がそれかっ!』 いきなりの酷評に白銀はブーたれるが、軽口を叩いている彩峰と美琴は、自分たちの口から出た言葉に、自分で驚いていた。 さっきまで、部隊の中隊長を失い、絶望的な戦況に心を凍らせかけていた自分たちが、タケルの顔を見て声を聞いただけで、三年前に戻ってしまった。 やはりこの男は、天性のムードメーカーだ。 しらずに、二人の頬がほころぶ。『こーら、白銀。旧交を温めるのは後にしなさい』 そこに、速瀬中尉が割り込む。「はい、すみません、速瀬中尉」『話は付いたわ。鎧衣美琴中尉。彩峰慧少尉。二人とも横浜基地への転属辞令は、ずっと前に受け取っているわね? というわけで、この作戦が終了次第、私達と一緒に横浜基地に直行してもらうことになるから、そのつもりでいて』『ええと、この作戦終了後、ですか?』 含みのある美琴の返答に、何を言いたいのか理解した速瀬は、にやりと笑い返す。『そう、作戦終了後。大丈夫よ、ラダビノッド司令官が自分の部隊を黙って全滅させるわけないでしょ。それに、香月博士も動いてくれる手はずになっているから』 前線に向かう途中、バグダッド基地司令官のラダビノッドとは連絡を付けている。『副司令が?』 三年前の時点で横浜基地の情報が途切れている彩峰にとって、夕呼は『副司令』という印象が強いのだろう。彩峰は、つい昔の役職で夕呼を呼んでしまった。『そう。と言うわけで、しばらくしたら、基地放棄・撤退の命令がでるはずよ。それまでの辛抱だから、気張って生き残りなさい。あんた達もいいわね。横浜基地のメンツにかけて、無様なところを見せるんじゃないわよっ!』『『『了解っ!』』』 隊長である水月の言葉を合図に、ビーム兵器で武装を固めた、六機の不知火は本格的にバグダッド基地防衛戦線に参加するのだった。『白銀っ、動きが遅い! なにやってるの!』 迫り来る要撃級を、近くの戦車級ごとビームサーベルでなで切りにしながら、水月は動きの悪いエレメントパートナーをどやしつける。「は、はい、すみませんっ!」 武は、背中にびっしょりと気持ちの悪い汗を掻きながら、それでも何とか強張る手で操縦桿を操作し、ビームライフルで、巨大な要塞級を仕留めた。「畜生、なんなんだよ、これはっ」 水月に言われるまでもなく、武自身も自分の動きの悪さは自覚していた。 理由は、精神的なものだ。 BETAが怖い。死の恐怖が、心臓を鷲づかみにしている。 なぜだ? 確かに、BETAの総数は今まで経験してきた、二つの戦いと比べても圧倒的だが、目の前で対処する量自体は大差ない。 味方の戦術機の数だって、随分うち減らされたようだが、それでもまだ二百機以上残っているのだから、孤立しているわけではない。 それなのに、武の心臓は初陣の時のように高鳴り、身体も異常に強張っていた。「くそっ、みっともねえ。こんなの、αナンバーズのみんなには見せられねえ」 武はこの数ヶ月で仲良くなったαナンバーズの碇シンジや、イサム・ダイソン、アラド・バルンガといったメンツの顔を思い出す。「……αナンバーズ?」 その名前を口にしたことで、武はハッと思いつく。「そうか、俺は初めてなんだ……いや、俺だけじゃない。速瀬中尉、涼宮と柏木はっ!?」『なに、涼宮と柏木がどうしたっていうの? 宗像?』 武の真剣な声に、事情も分からないまま速瀬は、部隊の副隊長格である宗像美冴中尉に通信をつなぐ。 風間梼子中尉と連携して、順調にBETAを屠っていた美冴は、突然の通信にも取り乱すことなく、返答を返す。『そう言われると、確かにちょっと、おかしいですね。二人とも、いつもの調子じゃないです。なんだか、初陣の時に近い緊張状態で』『やっぱり』 美冴の言葉に武は、悪い想像があたったことを確信した。『やっぱりって、なによ、白銀?』 問いかける水月に、武は一瞬言いよどんだが、思い切って言葉を続けた。「宗像中尉の言うとおりなんです。俺達、初めてなんですよ。その……αナンバーズがいない戦場で戦うのは」『はっ?』『なるほど、そういうことか』 武の言葉に、水月は意表を突かれたような声を出し、美冴は即座に納得がいったかのように頷いて見せた。 そう、武達三人は形の上ではこれが三度目の実践だが、過去の二戦は常にαナンバーズとの共同戦線だった。 特に大きな違いは、すぐ近くに、ATフィールドを準備したエヴァンゲリオンがスタンバイしていた、ということだ。 エヴァンゲリオンの有無が衛士の心理にどれほど大きな違いをもたらすかは、簡単に想像がつくだろう。 なにせ、エヴァンゲリオンが側にいるということは、すぐ側に絶対安全圏が存在すると言うことなのだ。ATフィールドの内側に入れば、いかなる攻撃も恐れることはない。 無論、違いはそれだけではない。 αナンバーズが参加する対BETA戦は、こちらの戦力が上回っている、いわば『勝ち戦』だ。 絶望と敗北で彩られるこの世界の標準的な対BETA戦を、武達ヴァルキリーズの新人は、今初めて経験しているのだ。『竹の花作戦』に、帝国軍人として参加した榊千鶴は例外だが。『なるほどね。泣き言抜かすのは、マイナスだけど、恥ずかしい自己分析を自己申告した勇気は褒めてあげる。いいわ、白銀はしばらく私がフォローする』 武の言う内容を理解した水月はすぐさま、そう対応する。 一瞬みっともないと思った武であったが、その瞬間夕呼と交わした『約束』が脳裏をよぎる。「彩峰と鎧衣、二人の身柄を救うために、あんたの命を危険に晒すことは許さない」 と言い切った、夕呼の言葉。あの言葉は疑う余地もなく本気だった。「り、了解。すみません、中尉。ご迷惑をおかけします」 武は虚勢を呑みこんで頭を下げた。『白銀、右っ!』「ッ!」 水月の警告を受けた武は、視界の隅に映った突撃級にビームライフルの銃口を向けて、反射的にトリガーを引き絞る。 放たれたピンク色の光弾は、違うことなく突撃級を撃ち抜いた。『よし、上出来。その調子よ』「はいっ! 大丈夫だ。やれる。俺の動きは通用する。俺の攻撃はBETAを倒せる……」 武は、自分に言い聞かせるようにそう呟く。 武が、戦場に意識を戻している間に、水月は他の部下達にも指示を飛ばす。『というわけだから宗像・風間は、涼宮・柏木から眼を離さないで』『了解です』『分かりました』 水月の指示に、美冴と梼子は落ち着いた様子で返事を返した。『わ、私なら、大丈夫です、速瀬中尉ッ!』『茜、落ち着こう。中尉は私達のバイタルデータを見た上で判断してるんだよ。虚勢を張っても事態は好転しないよ』 一方、尊敬する水月に足手まといされたと感じた涼宮茜少尉は、勝ち気な声を上げるが、それを横からエレメントパートナーの晴子が諭す。しかし、晴子の声も、言葉ほど冷静なものではない。 戦場に対する恐怖、ふがいない自分に対する怒り、先輩に負担をかける羞恥。色々な負の感情がない交ぜになり、いつもはひょうひょうとしている晴子の声色に、隠しきれないビブラートがかかっている。 それでも、同じ立場にある晴子の言葉は、茜に冷静さを取り戻させるだけの効果があったようだ。『分かりました……すみません、宗像中尉、風間中尉。よろしくお願いします。で、でも、すぐに、調子を取り戻しますから』 それでも、強気に早期の復調を宣言する辺りは、気が強い茜らしい。『ああ、期待している』 美冴は、その中性的な美貌を笑みの形に歪めて答えるのだった。 武達新人三人が、ギクシャクしていると言っても、それはあくまで内側の評価であり、外から見た者にはまた別の感想がある。『なんだ……あれは……?』 ロック中隊の中隊長代理、ロック2は自らも愛機を駆り、BETAの津波を押し返しながら、呆然とした様子でそう言葉を漏らす。 実際、ロック2の眼に映る伊隅ヴァルキリーズ速瀬隊の戦闘力は非常識と言うしかない。 最初期機とはいえ、第三世代戦術機である不知火のスピードとパワー。 XM3搭載による、硬直時間が発生しない操作性。 そして、一発で要撃級BETA数匹を纏めて撃ち抜くビームライフルと、突撃級の外殻すら紙のように切り裂く、ビームサーベル。『すごーい。なんだろあれ、香月副司令の発明品? それとも、噂のαナンバーズの技術?』 美琴も驚きで大きな瞳をまん丸に見開いき、声を上げる。『分からない。でも、これで、希望が見えてきた』 答える彩峰は、口元に笑みを浮かべ美琴の問いに答えた。 彩峰の言う希望とは、この戦場の話ではない。 いかに、ビーム兵器とXM3搭載機が非常識な威力を見せるとはいえ、それで戦況が好転しているのはこの周囲だけの話である。 前線の大部分は今もなお、破断限界ギリギリの圧力に死力を振り絞って耐えている状況だ。 彩美の言う希望とはもっと大きな意味、この世界の人類がBETAに勝つという希望だ。 香月夕呼の技術か、異世界の技術かは知らないが、あのビーム兵器が量産され、全ての戦術機に搭載される時代が来れば、間違いなく戦況は変わる。 今までは噂レベルでしか知らなかった、『極東で人類の反撃が始まっている』という話は間違いのない事実であると、今は確信できる。『死ねない理由ができた』 勝ちの目があるのに、こんな所で死んでいられない。 彩峰は、久しぶりに身体の奥の方から生きる気力がわき上がってくるのを自覚した。『そうだねー。あ、横浜基地はまだ、京塚さんいるのかなー。おばちゃんの料理食べたいな」 美琴も、迫りくる戦車級に36㎜弾を浴びせながら、懐かしむようにそう声を上げるのだった。【2005年3月25日、バグダッド時間18時03分、バグダッド基地】 夕陽が、地平線の彼方に沈みかける中、バグダッド基地は全周囲を軍用設置ライトで照らしながら、夜間戦闘へと突入していた。 戦術機はもちろん、戦車は自走砲にも夜間戦闘用の装備が備わっているが、昼夜の区別のないBETAを相手に、暗闇がマイナス要素であることは間違いない。 ぬかりなく午前中のうちに、ありったけのライトを用意しておいたラダビノッド少将の行為は褒められても良いだろう。 多数の外部ライトに基地の貴重な発電機を回した分、他の補給部隊に不自由を強いていたので、マイナスに転ぶ危険性もあったのだから。 BETA西進の報を受けたから、八時間。 凶報と訃報を裁き続けてきたラダビノッドの顔色は、目に見えて悪化していた。 この八時間で、吉報呼べるのは、横浜基地からきた六機の戦術機の活躍ぐらいだ。 元々ラダビノッドは香月夕呼と近しい立場にあったこともあり、彼女の直下部隊であるヴァルキリーズの顔も、ある程度は見知っている。 懐かしい顔に、顔をほころばせたのもほんの一瞬。次の瞬間には、この地の部下の訃報が舞い込み、額の皺を深くさせる。 そんな、絶望の中で最善を模索していたラダビノッドの元に、待ち望んだ吉報が飛び込んできたのは、ラダビノッドが無意識のうちに痛み出した胃の辺りをさするようになった時のことだった。「司令、アンバール基地からの通達です。『現時刻をもってアンバール基地は基地放棄を決定。同時刻、バグダッド基地の防衛任務終了を通達』、以上です!」 アンバール基地の撤退の決断に伴う、バグダッド基地の撤退許可。 半日以上待ち望んでいた命令に、さしものラダビノッドも大きな安堵の息をつくのが押さえられなかった。 一瞬このタイミングでの命令変更に、裏の事情を勘ぐりかけるが、今はそんなことに頭を回しているときではない。「よし、これより防衛線から撤退戦に移行する。司令部付き戦術機大隊は、撤退戦のタイムスケジュールを前線衛士に届けろ!」 司令官の言葉に、それまで檻のように沈殿していた司令部の空気は生き返った。 ちなみに、司令部付き戦術機大隊とは、名前だけは勇ましいが、その実体は三十六機全てがスクラップ寸前のF-4ファントムからなる、貧弱極まりない部隊である。 同じF-4系列でも、アビオニクスから装甲素材まで全面的に改装し、第二世代機に準じる力を持つ、F-4Eとでは鳶と鷹ぐらい性能が違う。 そんな動くスクラップのような機体をあえて、司令部付きとして残したのは、今この時のためだ。 重金属雲の影響と戦闘による有線通信の切断で、前線との連絡が難しくなったこの状況で、迅速な『伝令兵』の役割を果たしてもらうのだ。 「了解っ、司令部付き戦術機大隊に次ぐ。これより撤退戦に移行する。各員は前線にこの情報と撤退戦のタイムスケジュールを……」 CP将校達は、忙しそうに撤退戦開始の情報を各部署に通達していく。 撤退戦の手順は、事前に各部署の責任者に通達してある。ただし、撤退戦というのは、防衛戦より難しいものだ。 全体の状況認識に齟齬があれば、一瞬で部隊が全滅してもおかしくはない。 一言で基地の兵士といっても、その兵種は様々だ。 ただ、闇雲の撤退を許可しても、ほとんどの兵士は逃げられない。 当たり前だ。一般兵士の足は、輸送用の大型トラックが主なのだ。 兵士を満載した大型トラックの最高速度は、明らかに突撃級BETAの最高時速よりも遅い。 装甲車や戦車などは、地形次第では要撃級にだって追いつかれてしまうだろう。 故に、殿を十分な移動速度と機動力を持つ戦術機部隊が引き受けてくれなければ、撤退戦の成功はあり得ない。 だが、それは戦術機部隊にとって悪夢を意味する。 後方の兵士が先に撤退すると言うことは、CP将校からの情報が入らなくなるということだ。後方支援部隊からの砲撃支援が途絶えるこということだ。 現状でも、十分に一人が死ぬ戦況で後方支援が途絶えたら、衛士の死亡率は加速度的に跳ね上がることあろう。 無論、脱出の際には自走砲その他は自動砲撃モードにして、投棄していくことになっているが、同じ所に砲弾を振らせるだけの砲撃など、前線衛士にとってはさほどありがたいものでもない。 せいぜい、「無いよりはマシ」と言った程度のものだ。 後方支援部隊が先に逃げれば、戦術機部隊が持たなくなる。 戦術機部隊が先に逃げれば、後方支援部隊に脱出のチャンスがない。 そして、言うまでもないが司令部が率先して逃げたりすれば、部隊の士気は一気に崩壊し、全滅の一途をたどるだろう。 ここからは、綱渡りの連続だ。一歩間違えれば、一気に奈落の底に真っ逆さまの道のり。 だが、この綱の先には脱出口があるのだ。 今の、逃げ場のない崖っぷちにつま先立ちしている状況よりは遙かにマシだろう。 実際、『撤退戦に移行する』という命令を聞いた兵士達は皆、落ちかけていた士気を取り戻している。「……よし。脱出車両の再点検と人員配置図の見直しを進めろ。ドライバーの人数が車両ごとに偏らないよう、気を配るんだ」 ラダビノッドは今一度大きく、深呼吸をすると、改めて撤退戦の指揮を取るのだった。【2005年3月25日、バグダッド時間18時33分、アラビア海海上】 バグダッド基地が撤退戦に移行し始めた頃、アラビア半島の南、アラビア海の海上には、一隻の白い戦艦が、二機のオレンジ色の戦闘オプション兵器と共に漂っていた。 αナンバーズ所属、ジェイアークと、二機のメガライダーである。 本来であれば、よりバグダッド基地に近いペルシア湾まで侵入したいところであるが、あそこはすべて中東諸国の領海だ。αナンバーズの機体が無断で侵入することは許されない。 武達、伊隅ヴァルキリーズ速瀬隊の不知火を、バグダッド基地に送り届ける際には、勢い余って一度侵入してしまった気もするが、恐らく気のせいだろう。 その証拠に、どこからも抗議の声は上がっていない。「始まったようだな」 ジェイアークの艦橋で、バグダッド基地の様子をつぶさに観察していたソルダートJは、腕を組んだまま、そうポツリと呟いた。『おっと。そんじゃ、俺達の出番かな』 モニターに映るデュオ・マクスウェルが、その幼い顔に似合わない不敵な笑みを浮かべている。デュオは、愛機ガンダムデスサイズヘルに乗ったまま、ジェイアークの上に掴まっている。「ああ。バグダッド基地の基地司令はかなりの人物のようだが、この調子では全体の一割も撤退できまい」 さしものαナンバーズも、この公式に戦力を送り込めない状態で、勝利を手に出来るとは思っていない。 αナンバーズが望んでいるのは、この撤退戦で一人でも死者を減らすことだ。「ジェイアーク出るぞ。準備はいいか?」『オーケー、大丈夫だ。やってくれ』 ジェイアークの上に乗っているデュオのデスサイズは、改めてしっかりと甲板に掴まると、そう返事を返す。『ビーチャ、イーノ。武達が戻ってくる可能性があるから、気を配っていてくれな』 デュオは、アラビア海に残る二機のメガライダーにそう声をかける。『任せておけって!』『こっちは大丈夫、デュオこそ気をつけて!』 ビーチャとイーノは、明るい声で返事を返す。 メガライダーは元々その上に複数のモビルスーツを乗せ、超長距離を移動することを前提に作られた機体だ。 輸送速度を気にしないのならば、メガライダーはジェイアークに牽引されなくても、速瀬隊を乗せて横浜基地に帰還するだけの能力がある。「よし、行くぞ。ジェイアーク、発進!」「了解、ジェイアーク、発進」 ソルダートJの声を受け、ジェイアークの統括コンピュータ・トモロは、その白亜の戦艦を急速発進させた。【2005年3月25日、バグダッド時間18時37分、バグダッド基地】 防衛線から撤退戦に移行したバグダッド基地は、今まで地獄が可愛く思えるくらいの地獄を、アラビア半島に作り出していた。『畜生、来るな、来るなぁ! 俺は生きて帰るんだ!』『支援砲撃は、支援砲撃はもうないのか!? 畜生、あいつ等だけ先に逃げやがって!』『馬鹿、そっちに退避するな、そこは自動砲撃の着弾地点だ!』 現状、生き残っている百機弱の衛士達は、皆口々に腹の中にため込んでいる思いをぶちまけながら、全周囲から迫り来るBETAに銃弾を叩き込み続ける。 すでに、後方部隊の人間はほぼ全員が、車両に乗り込み順次撤退を始めている。 殿を務める戦術機部隊は、今や一切の支援がない状態で戦っている。 それでも、実のところ、兵士運搬用トラックで脱出している一般兵士より、戦術機に乗っている衛士達のほうが、恵まれていると言える。 時速二百キロも出ないトラックでの脱出は、どれだけ楽観的に見積もってもBETAから逃げ切れる可能性のほうが低い。 一方戦術機ならば、いざとなれば時速五百キロ以上の速度で飛行することが可能だ。 重金属雲濃度が十分に高いうちに撤退すれば、トラックでの撤退よりは生存確率が高いだろう。 衛士達は、狂ったように戦いながら、しきりに網膜ディスプレイの端に映る時計を気にしていた。 つい先ほど、最後まで残っていたラダビノッド少将達司令部も撤退を開始したのだ。 もう、これ以上命令が下されることはない。後はタイムスケジュールに従い、ここで予定時刻まで粘った後、この地獄から脱出するだけだ。 予定時刻まで後数分。 だが、支援砲撃のやんだ戦場は、BETAの圧力が圧倒的に増し、重金属雲濃度は徐々に下がってきている。 この調子では、撤退許可時間まで果たして何人生き残っているだろうか? その思いは、ビーム兵器とXM3で武装した、伊隅ヴァルキリーズ速瀬隊の面々も同様だった。『全員まだ生きてるわね? そろそろ時間よ。準備をしておきなさい!』 ビーム兵器の威力は反則的に高いが、それでも高々六機の戦術機に、数十万のBETAからなる大侵攻を食い止める力はない。 武達は、周囲のBETAを一方的に駆逐しながら、己の無力さをかみしめていた。『畜生、何でだよ! こんなの、こんなのってありかよっ!』 奥歯が熱く熱を持つくらいに硬くかみしめながら、武は得意の三次元機動を駆使して、ビームサーベルを振るう。 ひっきりなしに聞こえる、衛士達の断末魔の声。 三割以下と予想される撤退部隊の生存率。 それは、今日まで武が一度も目の当たりにしていなかった、『この世界』の現実があった。 いつの間にか、武は戦場に対する恐怖も忘れて戦っていた。 今の武にとって、もはやBETAは敵ではない。ほとんど的に近い存在だ。エネルギーCAPが切れるか、推進剤が切れるか、集中力が切れるか。とにかく、なにかが切れるまで、このままの活躍を続けられるだろう。 だが、武や速瀬隊の皆が獅子奮迅の働きを見せても、周囲から聞こえてくる凶報は全く止まない。 まるで津波に立ち向かっているようなものだ。 自分自身は、津波の中ビクともしないだけの足腰を持っているからといって、津波そのものを止められるわけではない。 自分が津波の真ん中に突っ立っている間に、周囲の人間達は次々と津波に浚われ息絶えていく。そんな無力感に武は襲われていた。 だが、そんな贅沢な無力感を感じていられるのも、XM3搭載不知火に乗っている武達だけだ。 バグダッド基地の衛士達は、もっと純粋な無力感と絶望感にかられていた。 全周囲からBETAが押し寄せてくるこの状況は、個人の技量で生存確率を上げられる次元を超えている。 それは、F-4Eファントムという、準第二世代戦術機に乗っている、彩峰と美琴にも当てはまることだった。『ッ、右腕がイかれた……』 既に全弾撃ち尽くし、短刀だけで戦っている彩峰のF-4Eファントムであったが、ついにその過負荷に耐えかねた右メインアームが馬鹿になってしまった。 それでなお、左腕に短刀を持ち直して戦闘を続行しようとする彩峰機を見た水月は、決断する。 どのみち、F-4Eの飛行能力では脱出のさい、足手まといになる。機体を彩峰と鎧衣は機体を捨てさせた方が良いだろう。『彩峰、鎧衣。二人とも機体を破棄しなさい。彩峰は白銀機に、鎧衣は柏木機に同乗。他は白彩峰達の乗り換えが澄むまで、両機を護衛。急いでっ!』『了解っ!』 有無を言わさぬ水月の口調に、反論をするものはいなかった。 この地獄のまっただ中で、機体の乗り換えるのはかなり危険な行為なのだが、そんな事をいっている場合ではない。『彩峰っ!』 武はスクラップ寸前の彩峰機の前に自機を止めると、コックピットブロックを解放し、大声で彩峰に声をかける。「んっ」 直立したままの戦術機から戦術機に飛び移るという行為は、決して簡単な技ではないのだが、身体能力に関しては旧207B訓練小隊でも頭一つ抜けていた彩峰だ。 八時間にわたる戦闘の疲労も見せない軽やかな身のこなしで、あっという間に武機のコックピットに滑り込む。「ヤッホー」 武の膝の上に腰をかけた彩峰が、ヒョイと手を挙げて武に挨拶する。「やっほーって、お前。ほんと変わってないな」 武は一瞬、ここが戦場であることも忘れて呆れた声を上げる。 少し遅れて、美琴も無事晴子機に乗り移ったようだ。 武がコックピットハッチを閉じている間に、彩峰は予備のハーネスを締め、コックピット内に身体を固定した。「…………」「……白銀の視線を胸元に感じる」「ブッ!」 沈黙を破った彩峰の逆セクハラ発言に、武は思わず拭きだした。「お、おま、何いってんだよ。ていうか、網膜ディスプレイ使ってるんだぞ、んなの全く意識してなかったって!」「そう? でも、今は意識してるでしょ」 彩峰は、ボディラインが露わな強化装備姿を見せつけるように胸を張り、ニヤリと笑った。「お、お前ッ!」「すけべ」「どっちがだっ!」 泡を食った武が、猛抗議をしようとしたところで、網膜ディスプレイに水月の顔を映る。『はい、夫婦漫才はそこまでよ』「す、すみません。って、夫婦じゃないですよ、速瀬中尉っ!」「浮気漫才?」「彩峰は黙ってろって! ああ、すみません。それで、ご用件は?」 ディスプレイに映る水月は一度、呆れたようにため息をつくと話し始めた。『まあいいわ。時間よ。タイミングを見計らって脱出するわ』「り、了解っ!」 水月の告げる内容に、さしもの彩峰も軽口を挟まず真剣な表情で口を紡ぐ。 と同時に、バグダッド基地所属の戦術機達は、皆匍匐飛行で撤退を始めたのが、見えた。『ハイヤトゥン1よりヴァルキリーズへ、支援感謝する!』『サウル3より、ヴァルキリーズへ。貴官らの勇戦は忘れないっ!』『ロック2より、ロック7,8へ。無事を祈ります』 少しでも重金属雲濃度が高いうちに、と考えているのだろう。口々に、感謝の言葉を残し、戦術機は我先に飛び立っていく。 今のところ、レーザー光が立ち上る様子はない。だが、飛びながらポタポタオイルを垂らしている機体や、黒い煙を立ち上らせている機体、飛行速度がそもそも時速百キロにも満たない機体も珍しくない。 果たしてあのうち何機が、無事脱出に成功するのだろうか。「さよなら……」 彩峰がポツリと呟いた言葉はあまりに小さく、同じコックピット内の武の耳にもどかなかった。 最後に残った速瀬隊の面々も、撤退許可を求め声を上げる。もはやここに留まる理由はない。『速瀬中尉っ!』「まだよっ!」 だが、水月ははやる隊員達を制止し、時を待つ。 まだだ。千載一遇のチャンスはこの後にある。 バグダッド基地の皆には告げられなかったチャンス。 公式には、存在しないチャンス。 後日、追求されてもしらを切り通さなければならないチャンス。 一秒が一分にも感じる長い時間を、水月はビームサーベルでBETAをなで切りにしながら、待つ。 そして、そのチャンスはやってきた。 ドン、と地響きが聞こえたかと思うと、次の瞬間、マップ北西の赤い光点が纏めてごっそり消え失せる。その情報が正しければ、総数にして数千のBETAが一瞬にして消え失せたことになる。『ええ!? なに? 何が起きたの?』『んー、計器の故障じゃないかな』 驚きの声を上げる美琴の言葉に、晴子が白々しくごまかしているのが聞こえる。『今よ、全機匍匐飛行、撤退開始!』『『『了解っ!』』』 速瀬水月中尉の声を合図に、八人の衛士を乗せた六機の戦術機は、まだ重金属の立ちこめるアラビア半島の空に舞い上がった。