Muv-Luv Unlimited ~終焉の銀河から~第四章その8【2005年3月25日、バグダッド時間20時02分、バグダッド基地北北東120キロ地点】 バグダッド基地の全面撤退開始から約二時間。 すでに撤退中の兵士の姿はどこにもなかった。撤退戦の結果は既に出ていると言ってもよい。撤退に成功した兵士と失敗した兵士。生還者と戦死者。比率としては前者が三割強、後者が七割弱といったところか。 撤退に成功したと言うにはあまりに後者の比率が高いが、それでもパウル・ラダビノッド少将ら、バグダッド基地首脳部が想定していた数値と比べれば、一割以上よい数字である。 その生者を増やすために影で一役買った二機の機体、ガンダムデスサイズヘルとキングジェイダーは、BETAが敷き詰められた中東の大地で孤軍奮闘しながら、今は自らの撤退のタイミングを見計らっていた。「ったく、本当にきりがないぜ。小さい分、ある意味宇宙怪獣以上にやっかいだぞ、こいつ等」 ガンダムデスサイズヘルのパイロット、デュオ・マックスウェルは鼻の上に皺を寄せながら、迫り来るBETAの群れをビームシザーズでなぎ払った。 大きな鎌の形をしたビームの刃が横薙ぎに振られる度に、五匹、十匹とBETAが纏めて葬られる。 そこに、BETAの種類による違いはない。柔らかい戦車級も、硬い爪が厄介な要撃級も、強固な外骨格で覆われた突撃級も、死神の鎌にかかれば、ただ切り裂かれるのみだ。 だが、それは必ずしもBETAが容易い敵であることを意味していない。 デュオが言っているとおり、敵の小ささと数が問題なのだ。αナンバーズが以前に相手取った敵――宇宙怪獣は、BETA以上に圧倒的な数を有していたが、『兵隊型』と呼ばれる種以外は非常にサイズが大きかった。『上陸艇型』で五百メートル強、『高速型』『混合型』『合体型』は三千メートル強、ごく一部であるが『母艦クラス』と呼ばれる代物に至っては、全長百万メートル(千キロ)近い物さえ存在した。 そんな巨大な敵を、全長二十メートルに満たないモビルスーツで相手取ればどうなるだろうか?「そもそも相手取れるわけがないだろう、貴様は正気か?」という常識的な回答はαナンバーズには言っても無駄なため無視するとして、結論を言えば、その巨体が災いして「瞬間の戦闘は常に一対一」という状況になる。 ちょっと想像すれば分かるだろう。 全長二十メートル弱のガンダムデスサイズヘルが、全長三千メートルの宇宙怪獣を近接戦闘の射程に収めたとして、それ以外の宇宙怪獣がデスサイズヘルにちょっかいをかける隙間が存在するはずがないのだ。 分かりやすく三千メートル級宇宙怪獣を人間サイズまで縮小すると、二十メートル弱のモビルスーツは三ミリ前後にしかならない。ハエやカだって一センチ前後はあるのだ。一体のモビルスーツに複数の宇宙怪獣が襲いかかるというケースがどれだけまれか分かるだろう。 必然的に、戦闘は「連続する一対一」という状態が多くなる。 だが、BETAは違う。主力の要撃級で十九メートル、最大数を誇る戦車級に至ってはほんの四メートル強だ。 必然的に状況は常に、「多対一」になる。 後方に回り込む要撃級、側面から突撃をしかけてくる突撃級、隙あらば取り付いてこようと全周囲から迫ってくる戦車級。 そして、遙か彼方からレーザー照射を浴びせてくるレーザー級と重レーザー級。 常に戦場全体を把握していないと、いつどこから予想外の攻撃を喰らうか分からない。 もっとも、「準特機級」と呼ばれる強固な装甲、ガンダニュウム合金製のガンダムデスサイズヘルの場合、戦車級の噛みつきや、要撃級の爪程度ではそう大したダメージにはならないので、口で言うほど深刻な状況でもないことも確かなのだが。「しっかし、俺のデスサイズに全く問題なく集まってくるって事は、こいつらやっぱり周囲の認識手段は、視認なのか?」 半ば作業的にビームシザーズを振りながら、デュオはそう疑問を口にした。 ガンダムデスサイズヘルは、αナンバーズの中でも屈指のステルス機だ。 その機影を捉える方法は、肉眼による目視以外にはほとんど存在していない。 だが、BETAは全くデスサイズヘルの姿を見失うことなく群がって来ている。『さあな、それは私達の考えることではないだろう。どうやら、既に撤退が可能な者は全て撤退したようだ。そろそろこちらも離脱するぞ』 デュオの独り言にそう答えを返したのは、キングジェイダーに乗るソルダートJだった。 全長百メートルの巨大ロボットキングジェイダーは、足下に押し寄せるBETAをミサイルで纏めて駆逐しながら、遠方から照射されるレーザーの照射源に両手を向け、十連メーザー砲で逆に狙撃している。 時折狙撃が間に合わず、レーザー照射を浴びたりもしているが、今のところキングジェイダーの防御フィールド『ジェネレイティングアーマー』を突き破り、キングジェイダーの装甲に致命的なダメージを与える猛者はいない。 だが、同時にそれは、もはやキングジェイダーを持ってしても単機では、この戦況を覆し兼ねるという現実も意味していた。 キングジェイダーが、百匹、二百匹とちまちま倒しても、BETAは千匹、万匹という単位で押し寄せてきているのだ。 アラビア半島を南下するBETAの群れを押しとどめる役目は、ほとんど果たせていないに等しい。 これ以上粘っても、バグダッド基地の撤退戦には、良くも悪くも影響はないだろう。『そろそろ潮時だ。離脱するぞ』 ソルダートJの冷静でありながら、どこか悔しさを滲ませたその言葉に、デュオは素直に首肯する。「了解っ。変形したら一度高度を下げてくれ。取り付く』『良いだろう。ハッ!』 ソルダートJはメガフュージョンを解き、巨大ロボットキングジェイダーは、巨大戦艦ジェイアークへと変貌を遂げる。「よしっ、そこだっ!」 素早く高度を下げたジェイアークの甲板上に、バーニアを拭かして跳び上がったガンダムデスサイズヘルが四つん這いになり取り付く。『しっかり掴まっていろ! このまま、海上に出る、トモロ!』『了解、ジェイアーク、発進』 次の瞬間、白亜の巨大戦艦は、レーザー級BETAの照射も振り切るほどの速度で中東の戦場を離脱していった。【2005年3月27日、日本時間5時02分、国連軍横浜基地】 海上でメガライダー二機に乗る六機の不知火と合流を果たした、キングジェイダーとガンダムデスサイズヘルが横浜港に無事戻ってきたのは、それから丸一日以上がたってからのことだった。 この辺りは香月夕呼の入れ知恵である。 今回の彩峰慧少尉、鎧衣美琴中尉両名の救出劇は、書類の上では「XM3教導部隊が出港した後に、BETAの侵攻が確認されたため、引き返すことが出来ず、やむを得ず現地で合流した後、共に横浜に帰還した」という筋書きになっている。 その筋書きに説得力を持たせるためにも、横浜・バグダッド間の航行時間は丸一日以上はかかってくれたほうが、望ましいというわけだ。 幸いにして二機のメガライダーは、元々複数のモビルスーツを乗せて超長距離を行くことを前提とした支援兵器だ。 大きさの割りには、内部の居住性はそれなりに整っている。武達速瀬隊の六人に、彩峰、鎧衣、そしてメガライダーのパイロットである、ビーチャとイーノを加えた総勢十人でも、丸一日くらいならどうにか我慢くらいのスペースがあった。 朝靄が立ちこめる横浜港に入港を果たした武達一港は、丸一日ぶりに外気にふれ、思い思いに身体を伸ばす。「くー! やっとついた!」 横浜港に降り立った武は、冷たい朝の浜風を胸一杯に吸い込みながら、両手を組んで思い切り伸びをした。「こーら、白銀。まだ気を抜かない。報告を終えるまでが任務よ。もうちょっとしゃきっとしてなさい」 いつの間にか武の背後に降り立った速瀬水月中尉が、コツンと武の後頭部を軽く拳骨で小突きながらそう窘める。 「あ、はい。すみません」 武は頭を押さえて、照れたように笑った。 口では殊勝な事を言いながら、窘めた方も窘められた方も、その顔からはすっかり緊張感が抜け落ちている。まあ、戦術機六機で数十万のBETAが押し寄せる味方基地を救援し、そこから二人の仲間を救出してくるという、難易度の高い任務を終えたばかりなのだから、緊張感が溶けてしまうのも無理はない。「なあ、何はともあれ、まずは香月博士に報告しなきゃね。彩峰、鎧衣。あんた達の着任許可もそこで降りるはずだから、一緒に来るのよ」「了解」「はい、分かりました」 丸一日にわたるメガライダー内での生活で、それなりに打ち解けてきた彩峰と美琴は、素直に水月の言葉に頷く。 水月は、部下達が全員無事に横浜港に上陸したことを確認した後、その横に立つ薄緑の鎧を身につけた鷲鼻の男に笑いかける。「それじゃあ、私達はこのまま香月博士の所に向かうから。本当にどうもありがとう」「礼を言われるようなことはない。私はただ、戦士を戦場まで運んだだけだ」 水月の言葉に、ソルダートJは口元を僅かに笑みの形に歪めて、そう言葉を返した。「そうそう。俺達は、ただあんた達を輸送しただけ。戦場には足一本踏み入れてないし、戦果は一つもあげていない。オーケー?」 後ろからソルダートJの肩に手を乗せたデュオ・マクスウェルが顔を出し、そう言って意味深に笑う。 水月も思わず釣られて笑った。「オーケー。そうだったわね。輸送任務、お疲れ様。おかげで助かったわ。後これはあなた達とは関係ないけど、あのバグダッド基地北東部での『謎の大量BETA消失』がなければ、私達もこうして、全員無事に帰還することは出来なかったかも知れない。 貴方達にお礼を言うのは筋違いなんだろうけど、他に適切な相手もいないことだし、ついでにその件についてもお礼を言っておくわ。 ありがとう、本当に助かった」 代表して礼を言う水月の後ろで、武達も神妙な顔で頷いた。 この話は、ここで終わらせなければならない話だ。下手に広げれば、かえってαナンバーズに迷惑をかけてしまう。 だからこそ、この機会にしっかりと感謝の意を伝えておく。 だが、そんな神妙な雰囲気を吹き飛ばすように、メガライダーのパイロットの一人、ビーチャ・オーレグは、鼻の下を擦りながら、おどけた口調で言う。「いいって、いいって。こっちは役得でイイモノ見れたしっ! ムグッ!?」「ビーチャ! まずいって!」 不謹慎な友人の言葉に、もう一人のメガライダーパイロット、イーノ・アッバーブは慌てて後ろから口を塞いだ。 イイモノとは他でもない。速瀬水月を筆頭とする伊隅ヴァルキリーズ速瀬隊のプラス、彩峰、鎧衣の着替えである。 水月達は、戦術機のコックピットからメガライダーの居住スペースに戻った後、そこで全員強化装備を脱ぎ、国連の制服に着替えを済ませていた。 無論、着替える際にはそれ以外のメンバーがついたてなって男性陣から目隠しはしたが、長年の軍隊生活が祟り、その精神的な防御壁はかなり脆くなっている。 操縦席からその着替えを除くのは、そう難しいことでなかったようだ。「こんの、エロガキ……」「まあ……」 涼宮茜や風間梼子が少し顔を赤らめているのと反対に、柏木晴子、宗像美冴、彩峰慧といった連中は、目元にしたたかな笑みを浮かべている。「おやおや、さすがにタダ見はいけないなー」「そういえば、この間『エルトリウム通信販売』で中々良い、アクセサリを見つけてね」「天然物の焼きそばパン、一生分、確保……」 ビーチャと、いつの間にか巻き込まれたイーノは、しばらくの間速瀬隊の面々に色々奢らされる事になりそうだった。【2005年3月27日、日本時間5時30分、横浜基地、αナンバーズ特別区画】 伊隅ヴァルキリーズ速瀬隊の面々と別れた、デュオ達輸送任務隊の一行は、そのままの足で、ラー・カイラム艦長、ブライト・ノア大佐の元へと報告に向かっていた。「てなわけで、バグダッド基地は大体全体の三割ちょっとが撤退に成功したみたいだ。彩峰慧・鎧衣美琴の両名は無事横浜に到着。基地司令のパウル・ラダビノッド少将は無事撤退したと思うけど、さすがにそこまで詳しい情報はわからねえ」 代表して報告するデュオの言葉に、いちいち頷きながら聞き入っていたブライトは、最後まで無言で聞き終えた後、重々しく言葉を返す。「ラダビノッド少将の生存は、こちらで確認している。少将は、無事地中海から海上に抜け、現在はアフリカ大陸に向かっているそうだ。 なにはともあれ、ご苦労だった。よくやってくれた」 生存者三割。 αナンバーズの基準で言えば、「完敗」に等しい結果だが、それでもこれはデュオとソルダートJが、最善を越える努力のうえで掴んだ最高の結果であることは、ブライトも承知している。 胸にこみ上げる苦いモノを呑みこみ、ブライトは年若い仲間達にねぎらいの言葉を投げかける。「それほど大したことはしてない」「ま、そーだな。ただの輸送任務だもんな」 何でもないことのように肩をすくめるソルダートJとデュオ・マクスウェルの様子に、ブライトは一瞬詳しい情報を問いただしたい欲求に駆られたが、それをグッと押さえる。 少なくとも、公式には絶対に問いただせない。 公式に「お前達は本当に参戦しなかったのか?」と問えば、デュオ達は嘘を付かなければならなくなる。 嘘をつき、上官を騙した時点で、責任の何割かはデュオ達現場の人間に渡ってしまう。 この権の責任を丸ごとブライトが抱えるためには、あくまでこの件は「全面的に彼等を信じて、特に問いただすこともしなかった」という形にしておかなければ、いざ事が発覚した時、責任追及がブライトの所で止まらなくなってしまう。 気持ちを切り替えたブライトは、話を今後の予定に移す。「『甲16号作戦』がすでに五日後に迫っているが、どうだ? お前達は休養が必要ならば、パスしても良いが」 ブライトの言葉に、デュオ達は虚を突かれたように顔と顔を突き合わせ、拭きだしたように笑った。「じょーだんなしだって、ブライトさん。五日後なんて普通のスケジュールでしょ」「うん、まあ、普通とは言えないけど。今まで経験してきた中では、特に厳しいスケジュールじゃないよね」 ビーチャとイーノはそう言って笑いあい、「けどまあ、留守番の必要があるなら、俺はデスサイズと岩国に残るけど? どうする?」 デュオはそう言って、逆にブライトの問いかけた。 デュオの問いに、ブライトは即座に首を横に振り、答える。「いや、それならば、全員作戦に参加してもらう。基地防衛の必要はない」「いいのかい? 岩国は、各国のスパイ銀座になっているらしいけど?」「かまわん、岩国の防衛は帝国に一任してある」 ブライトの返答に、デュオは少し皮肉げな笑みを浮かべた。「信用して大丈夫なのかね、それは」「大丈夫だろう。少なくとも帝国も、他国に出し抜かれることをよしとはしないはずだ。逆に、帝国が不義理を働こうとすれば、各国のスパイがこちらに密告をしてくる。 よしんば、有力各国が全て協定を結んで技術を奪取するのならば、それはそれでいいというのが、艦長会議での結論だ。元々岩国にある技術は、最終的には譲渡する予定の技術だけだし、それが各国に分散して渡る分には、大きな問題とはなり得ない、そうだ」 そう言うブライトの口調はどこか、用意しておいた用紙を読み上げるような、身についていないものだった。 恐らく、ブライトの意見と言うより、大河全権特使やバトル7のエキセドル参謀、もしくはエルトリウムの副長辺りの意見なのだろう。 元々、ブライトは政治や諜報が絡む話にはあまり強くない。「なるほどね、りょーかい」「アストナージ達に言って、機体の修復を急がせる。あと、ビーチャとイーノには、ドーベンウルフと百式も地上に降ろしてあるから、好きなほうを使え」「やりぃ! ドーベンウルフならジュドーにだって負けねーぞ!」「無茶はだめだよ、ビーチャ。ジュドーと張り合ったって意味ないからさ」 浮かれてガッツポーズを取るビーチャを、横からイーノがそう言ってなだめる。「ジェイアークには、こちらとしても特に出来ることはないが、香月博士に言って基地内で一番日当たりの良い空間を確保してもらうつもりだ」「それで問題ない。現時点でも、ジェイアークは万全だ」 鉢植えの花でも育てるようなことを言うブライトに、ソルダートJは満足げに頷き返した。「『甲16号作戦』は地球における、我々αナンバーズが主力を担う最初のハイヴ攻略戦だ。今更言うまでもないだろうが、よろしく頼むぞ」 確かに言われてみれば『甲21号』佐渡島ハイヴ戦は途中参戦だし、『甲20号』鉄原ハイヴ戦では海上からの支援しか許可されなかった。 最初から主力として参戦すると言うことでは、今回の『甲16号』重慶ハイヴ戦が初めてなのだ。「りょーかい」「へっ、まかせとけって、ブライトさん」「分かりました」「ああ。目に物見せてくれる」 ブライトの言葉に、デュオ達は、そろって力みのないリラックスした言葉を返すのだった。【2005年3月27日、日本時間6時01分、横浜基地、ブリーフィングルーム】 デュオ達が、ブライトを相手に状況報告をしている頃、武達伊隅ヴァルキリーズ速瀬隊の面々も、別室で香月夕呼に結果報告を上げていた。『敬礼ッ!』 宗像美冴中尉の号令を合図に、武達八人の衛士が踵を揃えて、香月夕呼に敬礼をする。「はいはい、そこまで。楽にしなさい」 夕呼は、ヒラヒラ手を振り敬礼を止めるよう促した。 足を横に半歩広げて、安めの体勢を取った武達を一瞥した夕呼は、前置きを置かずに即座に用件から話し始める。「彩峰、鎧衣。前に」「はい」「はいっ!」 一歩前に進み出た二人の前に歩み寄った夕呼は、辞令書を手渡しながら、素っ気ない口調で言う。「本日付で横浜基地への着任を許可するわ。しばらくは、速瀬の指示に従いなさい。最終的な割り振りはあとでまりもと相談して、そっちで決めなさい。いいわね、速瀬?」「ハッ!」 水月の返答に、表情を変えないまま頷いた夕呼は、視線を美琴のほうに向ける。「とこで、鎧衣。あんた、お父さんからなにか預かってない?」 急に水を向けられた美琴は一瞬、首を傾げたが、すぐに何かを思い出したのか、「え? あ、はい。確か、父さ、父が、香月博士にお土産って……」「普通に話して良いわよ」 とっさのことでしどろもどろになっているのか、元から敬語があまり得意ではないのか、要領を得ない美琴の返答に、夕呼はため息をつきながらそう言って、発言を許した。 美琴は制服のポケットをゴソゴソやると、なにやら手に平に収まるくらいの小さな細長い物体を取り出す。「はい、これですよね。『アッラー君人形』。酷いんですよ、父さんったら。「これは大変御利益のあるご神体だが、安易に手放せば、アッラーの呪いがお前に襲いかかる」なんて言って。怖いから、戦術機に乗るときもいっつもこれ、持ち込んでたんですよ。 でも、こんなもの部隊のイスラム教徒の人に見つかったら、怒られるじゃすまないし、とにかく大変だったんですよー」 そう言う美琴の表情は、夕呼の目を持ってしても、今の表情が演技なのか素なのか、読みとることが出来なかった。(流石はあの男の娘、と言うべきかしらね) 内心そんなことを呟きながら、夕呼は美琴の手からその『アッラー君人形』を取り上げる。「これ、記念にもらうわよ」「え? でも、呪い……」「大丈夫よ。人にあげるのは、「安易に手放したこと」にはならないから」 ポカンとしている美琴に適当な言い訳をして、夕呼はその人形を、白衣のポケットにしまった。「それじゃあ、あとは自由にしなさい。任務を終えたばかりだから、今日と明日は休暇に当てておくから」 そう言い残し、勝手にブリーフィングルームから出て行ってしまう。「ッ、敬礼!」 美冴がかけた号令の声に、武達が敬礼をしたときは、夕呼の背中はちょうど閉まるドアの向こうに消えるところだった。 相変わらず、傍若無人というか、勝手気ままに夕呼が去ると、残された速瀬隊の面々の間には、緊張の糸が消えたように弛緩した空気が漂い始めた。「休みか。って言っても、昨日も事実上、メガライダーの中で寝ていただけだからな。身体の疲労は取れているんだけど。ん? なんだ、彩峰?」 今日の予定について考える武の袖が、後ろから引かれる。 振り向くと、武の袖を引っ張っていたのは、彩峰慧だった。無表情のまま目だけランランと輝かせた彩峰が、ぼとりとした口調で話しかける。「白銀、焼きそばパン。天然物」 日本語を覚えたての外国人のようなぶつ切りの言葉だが、それだけで彩峰の言いたいことを伝わる。 武は、そう言えば、メガライダーの中で「横浜基地では、最近αナンバーズから流れてくる天然食料が手に入る」という話をしたことを思い出した。「ああ、うん。多分手に入るんじゃないか? 以前、アラドとかと話したとき『焼きそばパン』て言ったら言葉通じたし」「案内して」 有無を言わさぬ彩峰の口調に、武は慌てて胸の前で両手を振る。「いやいや、お前、時間を考えろよ。せめて昼食の時間まで待てって!」 今はまだ、朝の六時ちょっと過ぎだ。ラー・カイラムの購買部もまだ開いていないだろう。「私の焼きそばへの愛は、そんな言葉では止まらない」「止まれ! そこは、一時停止しておけ!」 武が暴走する彩峰を説得していると、先ほど夕呼が出て行った出入り口が再び開く。「やはりここだったか」 ガチャリという音に、期せずして全員の視線が詰まる中、黒い国連軍の制服を着こなした、壮年の女が、堂々とした足取りで入って来る。「ッ、神宮司教官っ!?」 入ってきたのは、伊隅ヴァルキリーズ現隊長代理、神宮司まりも少佐だった。武は予想外の、来客に思わず、素っ頓狂な声を上げた。「白銀少尉、今の私は少佐で中隊長代理だ。教官ではない。何度言えば分かるのだ? まあいい。お前達も入れ」 相変わらず間違える白銀に突っ込みを入れながら、入室してきたまりもが、後ろにそう促すと続いて、伊隅ヴァルキリーズ神宮司分隊の面々が入って来る。 榊千鶴少尉。珠瀬壬姫少尉。築地多恵少尉。高原麻里少尉。朝倉舞少尉。 黒い国連軍の軍服を着た、五人の女衛士がまりもの後に続いて、ブリーフィングルームに入ってくる。「あ、あの、神宮司少佐。これは?」 水月にも話が通っていなかったのか、戸惑う声を上げる水月に、まりもは力強い笑顔を向けると、「ああ。こっちも、五日後の出撃を前に、クールダウンに入っているからな。比較的時間に余裕があるんだ。せっかく三年ぶりの対面なんだ。全員そろったほうがいいだろう」「ハッ、お心遣い、ありがとうございます」「それでは、昼までこいつ等を預ける。よろしく頼んだぞ」「はっ!」「敬礼!」 夕呼と違い、真面目なまりもはしっかりと皆の敬礼に返礼を返したあと、静かに一人でブリーフィングルームを出ていった。 かつての教官であり、今の上官でもある自分がこの場にいては、砕けた空気なれないだろうという、心遣いだ。 まりもが出て行くと、一同は自分たちが軍人であることを一時忘れように、はしゃいだ声を上げた。「鎧衣さん、久しぶり」「うわあ、壬姫さん? 変わらないね-」「あはは、それは鎧衣さんもだよ」 二十歳を過ぎても少女のような女と、二十歳を過ぎても少年のような女は、手と手を合わせて互いの無事を喜び合う。「確かに、タマも美琴も三年前と全然変わってねーな」 横から会話に加わった武はそう言って笑い声を上げた。 三年前から変わっていないことを言えば、他の皆もそうなのだが、壬姫と美琴は元の容姿が幼い分、その変化の無さが際だつ。 今の壬姫と美琴を見て、「二十歳を超えた女二人」だと見抜ける人間はごく少数派だろう。「もう、武の言い方はなんだか悪意を感じるよ-」「いや、深い意味はないんだぜ、うん」 和やかな笑いに包まれる再開の横では、がまの油が取れそうな無言のにらみ合いを続けている二人もいる。「…………」「…………」 旧207B訓練分隊中、最高の犬猿の仲として知られていた、榊千鶴と彩峰慧だ。 一度は、武の尽力で和解したはずの二人であるが、やはり根本的な相性の悪さはぬぐえないのか、三年ぶりの再開は、緊張感のある無言空間から始まっている。「……ひ、久しぶりね」 長い無言空間を破ったのは、千鶴のほうだった。 わざとらしく丸い大きな眼鏡を直しながら、そう三年ぶりに会った天敵に声をかける。「うん、久しぶり」「い、生きてたのね」「駄目? 生きてちゃ?」「だ、誰もそんなこと言ってないでしょっ!?」 早速、千鶴が声を荒らげた。 ヌラリヌラリと、からかうような発言ばかり続ける彩峰と、不真面目な人間を注意せずにはいられない性分の千鶴。 互いを認めるとか何とか言う前に、そもそも根本的な相性が悪すぎる。「あはは、変わってないね-、千鶴さんも。駄目だよ、二人とも。出遭ってすぐに喧嘩しちゃ」「彩峰さんも榊さんも落ち着いてください」 二人の空気の険悪さを見て取ったのか、美琴と壬姫が会話を中断して間に入る。 さすがに、ここでいきなり喧嘩をおっぱじめるのも拙いと感じたのか、慌てて千鶴も、すぐに態度を改めた。「え、ええ。そうね、ごめんなさい。鎧衣もお帰りなさい」「うん、ただいま。千鶴さんも横浜に戻ってたんだね」「ええ、私も去年までは帝国軍にいたんだけどね。まだ、戻ってきて三ヶ月弱ってところ。あ、そういえば、鎧衣は中尉なのよね。これからは普段は口の利き方に気をつけないといけないわね」「そう言いながら、何でこっちを見るんだ、委員長?」 ギロリと眼鏡の奥から睨まれた武は、不本意そうにそう声を上げた。「あなたが一番危険だからに決まってるでしょ。いい、白銀。鎧衣は私達の仲間でも、対外的には一階級上の上官なんだから、それなりの言動を取るのよ」「分かってるよ、俺だって昔の俺じゃないんだから」「本当かしら? 私には、何年経っても白銀は白銀にしか見えないけど」 胡乱げな視線を武に浴びせる千鶴の横で、彩峰は無意味に胸を張りながら、偉そうに口を挟む。「そうそう、白銀はちゃんと私達に敬意を払わないといけないよ」「分かってるって、ていうか、美琴はともかく彩峰は階級同じだろうが!」「そうよ、そもそも何であんた、まだ少尉なのよ!? 最前線で三年間過ごしたんでしょ?」 千鶴の突っ込みももっともだ。 対BETA戦の死傷率は極端に高いため、前線衛士の階級は、ある一定期間生き延びただけで、自動的に大尉まで上がると言われている。 ずっと横浜基地で飼い殺しにされていた武やタマ、『竹の花作戦』までは帝国軍で事実上父の庇護下にいた千鶴と違い、彩峰は美琴と共に、最前線で一度も後方転属することもなく生き延びてきたのだ。 最低でも、美琴と同じく中尉ぐらいになっていなければおかしい。「ぷい」 それは都合の悪い追求だったのか、彩峰はあからさまに首を横に向けて、視線を逸らした。 だが、それで追求を止める千鶴ではない。本人の口から聞けないのならば、と彩峰とこの三年間共に過ごした人間にターゲットを移す。「鎧衣?」 水を向けられた美琴は、全く空気を読まずに、素直にペラペラ話し始めた。「うん。慧さんも本当は何度も中尉になってるんだよ。確か三回、だったかな? でも、そのたびに問題をおして降格しちゃうんだ。「無能な上官の指示に従って命を無駄にするほど馬鹿じゃない」とか「上司が無能の場合耳を貸す必要はない」とか言ってさー」 美琴の発言に、武達はそろって呆れたようにため息をついた。「お前、本当に全く変わらなかったのな」「あなたよくそれで、前線衛士が務まったわね」 それでも許されたのは、前線には衛士を独房に入れておくほどの余裕がなかったということ、どうせ死刑にするくらいなら戦場で役立たせたほうがいいという認識が皆にあったということ、そして何より彩峰がそれらの言動をとってもなお『凄腕の衛士』と認められるだけの技量を持っていたことが原因だろう。 実際、上官に向ける言葉ではないが、内心ほかの衛士達も賛成したくなる状況で発せられた言葉が多いというのも、見逃せない。 だが、どう言いつくろったにせよ、彩峰がとびきりの問題児であったことは間違いない。 全てを暴露されて開き直ったのか、彩峰は堂々と言った。「そう。だから私は本来降格さえなければ、今頃は……少佐?」「そんなわけないでしょう。本当あなた、ここでちゃんとやっていけるんでしょうね?」「大丈夫。上官がよほどの無能じゃない限り、命令には従う」「どこが大丈夫なのよっ、大体あなたっ!」 なおもあっさり問題発言を続ける彩峰に、再び激した千鶴が怒声をぶつけようとするが、それよし早く後ろから、藍色の髪をポニーテールに纏めた女が、千鶴と武の首に両手を絡ませるようにして、会話に割り込んできた。「おーと。それなら、まずは上官がどれくらい有能なのか見せておいたほうが良さそうね」「は、速瀬中尉っ! い、いえ、別に彩峰の発言は」 とっさに彩峰をフォローしようとする榊の首をギュッと締めながら、水月は猫科の肉食獣のような笑みを浮かべる。「いいわよ、別に。気にしなくても。ま、前線帰りならそれくらい鼻っ柱が強いほうが頼もしいし。で、どう? 彩峰? 有能の条件は操縦技術だけじゃないでしょうけど、とりあえず腕だけでも見てみない? 今日、午前中はシミュレータ、空いてるわよ」 無論、例え相手が上官であっても、これだけあからさまな挑発を受け流す彩峰ではない。「はい、よろしくお願いします」 真正面から、水月の瞳を見返し、彩峰は堂々とそう言った。 水月は会心の笑みを浮かべ、パチンと指を鳴らす。「よっし、決まりね。どうせならエレメントでやりましょう。鎧衣、あんたずっと彩峰と組んでたんでしょ。せっかくだから纏めて面倒見てあげる。白銀、ほらぼうっとしてないで、あんたも参加するのよっ」「は、はい。って、速瀬中尉、本気ですか? うちのシミュレータ既に全部XM3対応ですよ」「ふふーん、それだけじゃないわよ。一昨日前からαナンバーズの協力を得て、ビーム兵装も選択できるようになっているわ」「だったらなおさらですよ! そんな条件、ぶっつけ本番で、彩峰や美琴が、中尉と俺に勝てるわけないでしょう!」 それは武からしてみれば、心底彩峰と美琴を思っての言葉だったが、それは三年間地獄の最前線で生き延びてきた衛士には、決して聞き流すことの出来ないレベルの挑発にしか聞こえなかった。「分かった、白銀。その喧嘩、買った」「酷いよ、武。そこまで言うなら手加減しないからね」 ギロリとこちらを睨む彩峰と、プクッと頬を膨らませている美琴。「あ、あれ?」 いつの間にか地雷を踏んだことに、武は遅まきながら気がついた。「あら、全員異論はないみたいね。それじゃ、シミュレータルームに行きましょう。あ、もちろんちゃんと強化装備に着替えてから来るのよ」 いつの間にか、二対二のシミュレータ戦をやることは決まっていた。「了解。絶対負けない」「了解。武、見ててよ。前線返りがダテじゃないとこ、見せてあげるから」「……了解」 ランランと闘志を燃やす二人に、これ以上の抵抗は無駄だと悟った武は、ため息混じりにそう言うのだった。【2005年3月27日、日本時間7時01分、横浜基地、地下十九階香月夕呼研究室】 武達がシミュレータルームに移動し始めている頃、研究室に戻った夕呼は、副官のピアティフ中尉に頼んだモノが来るのを待っていた。「ふん、出来の悪い人形ね。それに出来の悪いジョーク」 夕呼は机の上に転がした『アッラー君人形』を指先で突く。 元々は鎧衣左近が夕呼に渡すつもりだったが、仕方なく娘に渡したというその人形。『アッラー君人形』は、無残にも首からねじ切られ、その頭部を前後二つに割れていた。 よく見ればその頭部に、小さな円柱型の何かを収納できるスペースがあることが見て取れる。 そこに収まっていたモノは今、夕呼の手の中にある。 小さな筒状に丸められたマイクロフィルムだ。『博士、投影機をお持ちしました』 ドアフォンから聞こえる副官の声に、夕呼は視線を机の上から逸らす。「ご苦労様。中まで持ってきてセットして頂戴」『はい。失礼します』 ガチャリとドアが開く音がして、大きな投影機を両手で押したイリーナ・ピアティフ中尉が夕呼の研究室に入ってくる。 一礼したピアティフは何も言わずに、投影機を壁に画面を映し出せる位置に置き、電源をつなぐとすぐに出て行く。「失礼しました」「ご苦労様」 夕呼は、忠実な副官にねぎらいの言葉をくれるもそこそこに、投影機にマイクロフィルムをセットする。 久しぶりに弄る機械のため、中々要領がつかめないが、しばらく弄っているうちに使い方も分かってくる。元々そう複雑な機械ではない。 夕呼は念のため、部屋の照明を落とすと、マイクロフィルムの画像を部屋の壁に投射した。 壁一面に、画像がうちし出される。「なるほどねえ……」 夕呼は口元を笑みの形に歪めながら、フィルムを操作し、次の画像、また次の画像と矢継ぎ早に画像を確認する。「あの男は、あの人形を『砂漠で助けたランプの精』にもらったって言ってたわね。さしずめ、ランプの精の国籍は『ソ連』かしら? それとも『EU』か『アフリカ』? もしかしたら内部分裂の可能性もあるか。あの国は今、上院と下院で与党が違うから。いずれにせよ、これは大きな弱みよね」 マイクロフィルムに納められた画像。そこには、無傷の『アトリエ』が映し出されていた。 それも、ほのかに燐光を放ち、あからさまに『生きて』いる。さすがに『稼働』はしてないらしく、G元素を排出している様子は映っていないが。 G元素製造工場、通称『アトリエ』が存在するハイヴはフェイズ5以上のハイヴのみ。 人類がこれまで攻略に成功したハイヴは、これまで六つ。 そのうち、フェイズ5以上のハイヴは僅かに二つ。そして、そのうちの一つであるヨーロッパにハイヴ、『甲12号』リヨンハイヴは、攻略の際、反応炉もアトリエも再起不能なまでに破壊してしまった様子が、全世界に公開されている。 ならば、このフィルムに映っているのはただ一つの可能性に絞られる。『甲9号』アンバールハイヴ。 ここ横浜に続き、二つめの『反応炉』を生かしたまま、攻略に成功したハイヴ。ただし、アトリエは跡形もなく吹き飛んでいた、と攻略戦を主導したアメリカ軍は発表していた。 その後もずっと国連軍の皮を被ったアメリカ軍が独占していたのだが、どうやら予想以上に大きく、あからさまな秘密が隠されていたようだ。「鎧衣美琴はこれの正体を知っていたのかしら? まあ、それはどっちでもいいか」 さしもの鎧衣左近も、これほどの代物を国外に持ち出すのは不可能だったのだろう。そこで、比較的ボディチェックが甘い、同国内の最前線で戦う自分の娘に『お土産』としてこれを託した。 万が一、中身が発覚すれば持ち主の命も確実に失われる事ぐらい誰よりも承知しているだろうに、相変わらず、目的のためならば周りを巻き込むことに躊躇のない男だ。「惜しむらくは、せっかくの秘密もタッチの差で大きく価値が落ちてしまったという事ね」 夕呼はそう呟いて、眉をしかめる。 昨日のうちに夕呼の所にも、『アンバール基地』放棄、陥落の報告は入っている。 今にして思えば、どう考えても抗しきれるはずのない大侵攻前にしても、『バグダッド基地』の撤退がギリギリまで許可されなかったのも分かる。 アメリカは、最後の瞬間までこの『生きたアトリエ』を手放せなかったのだろう。 それでもギリギリの所でへたな希望にすがらす、現実的な対応が取れるところが、逆にあの大国の恐ろしさか。 どちらにせよ、アンバールハイヴの反応炉とアトリエは、昨日からその主人を再びBETAに戻している。 現状ではこのフィルムも、「アメリカが全世界を謀っていた」という証拠にしかならない。 それはそれで大きな手札なのだが、やはり夕呼としてはアンバールハイヴが、アメリカの手にある間に、このフィルムが欲しかった。 そうすれば、それこそ「私ならば、アトリエを起動させられるかも知れない」くらいのはったりをかまして、密かにアトリエに招かれるくらいのことはできただろうに。 返す返すも悔やまれる。「まあ。あんまり、欲張っても良いことないか。これは、アメリカの要求をはねつけるときの手札と割り切りましょう」 そう言って夕呼が、投影機の電源を落とし、部屋の照明を付け直した。 明るくなった室内に目をならすため、夕呼は数度パチパチと瞬きをする。「いずれにせよ、これはしばらくはふれる必要のない情報ね。今、差し迫っているのは中東・アフリカじゃなくて、アジア大陸だから」 夕呼はそう自分に言い聞かせ、思考の切り替えをはかった。 中東BETAの南下という予想外の事態により、アンバール基地が陥落するという大きなハプニングに見舞われたが、世界はなお、予定通り『甲16号』重慶ハイヴ攻略のため、動き続けている。 形の上では作戦を主導する統一中華戦線の全戦力は今すぐにも、動きだせるよう各港と、打ち上げ基地に集結しているし、真の主力であるαナンバーズも、後は岩国基地で最終チェックを済ませるだけの状態だ。 同盟のため、ごく一部の戦力を中国大陸に上げることとなった日本帝国は、夕呼に少数量産を依頼したブラックボックスを搭載した、九丁の『99式電磁投射砲』と予備機を含めた四十機不知火壱型丙が、戦術機母艦に搭載されて、いつでも出航できる体勢だ。 いずれにせよ、今変化の中心は中東ではなく、極東と東アジアにこそある。 統一中華戦線命名『万鄂王作戦』の開始まで、すでに百二十時間を切っていた。