Muv-Luv Unlimited ~終焉の銀河から~第五章その6【2005年4月4日、日本標準時10時03分、横浜基地地下19階、香月夕呼研究室】 αナンバーズが『万鄂王作戦』を無事成功に導いてから二日たった今日。ここ、横浜基地の地下19階に位置する香月夕呼研究室には、部屋の主である香月夕呼と、伊隅ヴァルキリーズの隊長代理である神宮司まりも少佐の姿があった。 伊隅ヴァルキリーズ神宮司隊を率いて、『万鄂王作戦』に参加していたまりもが、横浜基地に帰還したのは、昨日の午後である。 そのまりもが提出した『万鄂王作戦』の報告書が現時点で既に夕呼の手にあると言うことは、まりもはその報告書を昨日一日で書き上げたということになる。 重慶ハイヴからの復路にBETAが出没しなかったため、まりもたち機動兵器部隊の面々は丸一日艦内で休みが取れた。そのおかげで、ある程度疲労が抜けていたから出来たスピード提出なのだろうが、それにしても神宮司まりもという軍人の生真面目さと勤勉さをを端的に示すエピソードである。 そして、朝一でその報告書に目を通した香月夕呼は、早速神宮司まりも少佐を自室に呼びつけたのであった。 十年以上の付き合いであるまりもでも、ちょっと見たことのないくらいに不機嫌な顔で、夕呼は報告書を丸めて右手に持ち、それでパンパンと左手の平を叩く。「……一応聞いておくけど、この報告書に嘘はないわね?」 夕呼のその言葉に、まりもはとっさに提出した報告書の内容を頭の中で反芻する。しかし、そこに香月夕呼が不機嫌になるようなことを書いた覚えはない。もちろん、報告書に嘘の記載をするようなマネは、まりもは考えたこともない。 故にまりもは、いぶかしみながらも、「はいっ、ありませんっ!」 と、答えるしかなかった。 その答えを聞いた夕呼は眉の間に刻まれたシワを一段と深めて、再度確認する。「ねえ、まりも。この報告書の最後は『特筆すべき異常は見あたらず』と結ばれているのだけれど、本当に、異常は、なかった、のね?」 一言一言言葉を切りながら夕呼はそう言うが、やはり心当たりのないまりもは、同じ返答しか返せない。「はい、異常ありません」「そう……」 その返答を聞いた夕呼は、しばし黙りこくった。「…………」 直立不動の体勢を保ったまま微動だにしないまりもに「楽にしなさい」とも言わず、黙って机の上の受話器を取ると、隣室に控える副官に連絡を入れる。「ああ、ピアティフ? 悪いけどコーヒー二人分お願い。ええ、そう、αナンバーズから頂いた奴。袋にマジックで○て書いてあるから、すぐ分かると思うわ。×って書いてある方と間違えないでね。それじゃ、お願い」「……香月博士?」 直立不動のまま、いぶかしむように声を上げるまりもを、夕呼はきっぱりと無視する。「失礼します。コーヒーをお持ちしました」「ありがとう、そこに置いて」「はい。失礼します」 夕呼の副官、イリーナ・ピアティフ中尉は、まりもに視線で向けて小さく頭を下げた後、テキパキと二つのコーヒーカップを夕呼の机の上に置き、丁寧に一礼して退室していった。 パタンと軽い音を立てて、出て行ったピアティフがドアを閉める。 再び研究室は夕呼とまりもの二人だけになる。夕呼は湯気を立てる白いコーヒーカップの片方を手に取ると、少し眼を細めてその黒い液体をすする。 それは、αナンバーズのアンドリュー・バルトフェルドから毎週のように送られる、彼特製のオリジナルブレンドコーヒーである。より正確に言えば、送られてくる中の数少ない『当たり』の一つと言うべきか。「ほら、あんたも飲みなさい。まりも」 自ら率先してコーヒーをすすりつつ、夕呼はそう言って直立の姿勢を崩さない親友兼部下を促す。「いえ、勤務時間中ですから」「別に酒を勧めている訳じゃないのよ。いいから、飲みなさい。それ飲めば少しは、頭がすっきするから」 というか、これが酒だったら、たとえ勤務時間外でも間違ってもまりもに勧めたりしない。この人の良い親友の唯一の欠点は、その桁外れなまでの酒癖の悪さだ。「は、はあ……。では、頂きます」 予想以上に強い口調で進める夕呼に、まりもは押し負けるようにして、コーヒーカップを手に取った。そして、その中身を一口すする。 美味しい。 最近は、αナンバーズのおかげで嗜好品のたぐいを口にする機会も随分と増えたが、こうして天然物のコーヒーを口にする機会というのはそうあるものではない。 ほどよく熱く、香り高く、そしてほのかに苦い液体を嚥下する。まりもの身体が胃からぽかぽかと温まるのを実感した。同時に、一晩の睡眠だけでは溶けきらなかった瞳の奥の疲労が少し和らいだのも感じられる。 表情にもそれが現れたのだろう。「少し落ち着いたみたいね、まりも。それじゃあ、改めてもう一度聞くわよ。この報告書の最後に「異常なし」と書いてあるけど、これは本当?」 コーヒーカップを手に持って椅子に座ったまま、夕呼はまりもを見上げ、三度確認した。「ええと……」 これだけしつこく何度も繰り返されれば、ここで「はい、異常ありません」と答えていけないのは分かる。 実際、少しクリアーになったまりもの脳内では『異常なし』と言う言葉に僅かな引っかかりを感じる。(おかしいわね。どこがおかしいのかしら?) まりもは、提出した『万鄂王作戦』の報告書の中身を思い返す。 予定通りの時刻に始まり、予定時刻内に目標を達成し、予定時刻内に帰還した。 本作戦における神宮司隊の人的被害はゼロ。物的被害は、振り回しすぎで戦術機を再起不能にした者が数名出ただけ。 対BETA戦、それも内陸部のハイヴ攻略戦と考えれば、できすぎという言葉すら通り越している結果である。やはり、ざっと思い返しただけでは『異常』は見あたらない。 そうしてまりもが頭をひねっている間に、香月夕呼はついに痺れを切らし、椅子から立ち上がった。 夕呼はドンと音を立てて乱暴にコーヒーカップをデスクに戻すと、両手でがっしりとまりもの両肩を掴み、力一杯揺さぶる。「しっかりして頂戴、まりも! BETAが突撃級の上に光線級が乗るという新戦術を取ってきたのでしょ? 地球で初めて『母艦級』BETAが確認されたんでしょ? あんたの報告書にちゃんと書いてあるじゃないの。それなのに何で締めの言葉が『異常なし』になるのよ!?」「……あ」 そこまで言われて、まりもは初めて気がついた。 そうだ。なにが「異常なし」だ。異常だらけではないか。新戦術に新型BETA。どちらも、通常ならば作戦部隊に壊滅的なダメージを与え、作戦続行不可能に陥らせるに十分な脅威だったはずだ。 ただ、新戦術は一時的に戦艦アークエンジェルを不時着させるという戦果を上げたものの、その被害もその後のαナンバーズに機動兵器機部隊の頑張りでリカバーされてしまったし、全長1.8キロの新型BETAは、出たと思ったら次の瞬間、鎧騎馬武者ロボの巨大剣で二枚に下ろされてしまったため、ついいつの間にか「特筆するほど大した異常ではない」と考えてしまっていた。 まりもは呆然とする。帰還したばかりで、心身の疲労が抜けきっていないというのは、言い訳にならない。いったい、いつの間に自分の物差しは、これほど狂ってしまったのだろう。 そんなまりもの表情に気づいたのだろう。夕呼はまりもの両肩に両手をかけたまま、少しうつむき加減で低い声をあげる。「気をつけなさい、まりも。油断してると……あんたも『落ちる』わよ」「お、落ちるって、どこに……?」 動揺するまりもは、無意識のうちに軍人然とした口調から、平素の親友に対する口調に戻ってしまっている。 しかし、日頃から礼儀や形式を軽視している夕呼がその程度のことを気にするはずもない。 夕呼は、下から睨み上げるようにして視線を合わせ、きっぱりと言うのだった。「決まってるでしょう。『常識の向こう側』に、よ」 その後、平静を取り戻したまりもと冷静を取り戻した夕呼は、実務レベルの話をすり合わせ、一息つく。「それじゃ、本日付で正式にあんたは伊隅ヴァルキリーズの中隊長代理を解任、同時に衛士訓練学校の教官に就任してもらうわ。ああ、面倒だけど階級も軍曹に降格げね」「はっ、了解しましたッ!」 まりもは見本にしたくなるくらい、綺麗な敬礼をして辞令を受け取る。 少佐から軍曹への降格など、懲罰人事でも中々ない暴虐な仕打ちだが、訓練学校の教官は最高で軍曹と決まっている以上、仕方がない。 この一見奇妙に見える取り決めも、もちろん全く意味もなくされているわけではない。 まず第一に、こういった制限を設けることで現役バリバリの衛士が、教官につくことを制限するという狙いがある。 少し考えて見れば当たり前だが、訓練学校の教官という職は、衛士にとって『もっとも死ににくい』役職の一つだ。階級が下がるといったデメリットでもなければ、心ない希望者が殺到してもおかしくはない。無論、そんな奴に大切な次代の人材を預ける教官という職務は任せられないが、そうなると今度は、教官を希望したがなれなかった人間が、教官になった人間を妬む者が現れる。 それにもう一つ、こちらはオマケのようなものだが、教官が軍曹であることは、新人衛士に軍隊にとって階級というものがどれだけ絶対的なものであるか、理解させる役にたつ。 昨日までは自分の事を、バカだの、マヌケだの、包茎だの、早漏だの、好き勝手に怒鳴り散らしていた鬼教官が、無事卒業を迎えて『少尉』の階級章を首に着けただけで、自分に対置し直立不動で「サー、イエッサー!」と言うようになる。 この時、初めて、軍における階級の重さを実感したと語る衛士も少なくない。 いわば、身をもって教える、教官からの最後の教えと言うわけだ。 そういった状況を鑑みれば、この場合、取り決めがおかしいと言うよりも、心身ともに充実した、まりものような現役トップ衛士を、専属教官に使用とする夕呼の人材の使い方が、贅沢すぎるのかもしれない。 いずれにせよ、元々まりもが訓練部隊の教官に就任することは、まりもを連れ戻した時から既に決まっていたことだ。 しかし、そこで夕呼は少しイタズラっぽく笑うと、「それにしても、あんたほど階級が上下する軍人も珍しいわね。一度は大尉までいって、そこから軍曹まで下って、また少佐まで上がって、また軍曹か」 そう他人事のように言う。 昇格はともかく、降格はどちらも夕呼がまりもを教官役に押し込んだから起きたことなのだが、その口調からは全く罪悪感のようなものは感じられない。 実際、長い付き合いで、反論の無意味さを知っているまりもは、あくまで軍人口調を崩さずに、模範的な回答を返す。「はっ、自分は与えられた職務を全うするのみですッ!」 その回答が面白くなかったのだろう。夕呼は少し、口元を歪め、なおも言い募る。「そう。さすがまりもね。そう言ってもらえると私の心労も少し軽くなるわ。いやー、私の権限もかなりのところ戻ったのだけど、人事に関しては以前ほど自由が利かなくてね。降格は出来ても、昇格は難しいのよ。って訳で、もう元の階級には戻れないと思うけど、良いわよね?」「……はっ、問題ありません」 一瞬、頬をひくつかせただけで、まりもはそう答える。しかし、「当然、給与も軍曹相当に下がるけど、問題ないわよね?」「ッ!?」 と言う次の言葉で、まりもは驚愕の声を上げそうになった。 いかに軍人は金を使う暇がない職業だと言っても、大幅な減額に何も感じないほど、まりもの価値観は俗世離れしていない。 その表情を見て、ある程度満足したのか、夕呼はそれ以上イタズラを引きずらずに種を明かす。「まあ教官の特別手当も出るし、それでも足りない差額分は、αナンバーズの電子マネーで補充してもらえるように、あっちと交渉しておいたから、有効に使って頂戴」 そう言ってにやにや笑う親友の顔を、まりもは思わずにらみ返しそうになり、全力で表情筋に力を込めて、顔を引き締めた。「……り、了解です」 αナンバーズの電子マネーというのは、エルトリウムの艦内都市で流通している物資を購入するのに利用できる通貨だ。 地球に来ている戦艦、アークエンジェルや、ラー・カイラムのコンピュータを使わせてもらって、通販という形で物資を取り寄せるのだが、当然その品揃えは戦時下の日本とは比べものにならないくらいに豊富である。 日常生活を過ごすのに必要最低限の円があるのならば、それ以外の金はむしろ『α電子マネー』のほうが使い道は多い。冷静に考えてみれば、まりもにとってもいい話である。 一通り、生真面目な親友をからかい終えた夕呼は、笑いを納めると小さく肩をすくめて、告げる。「話は以上、退室して良いわよ」「……はっ、失礼します」 まだ何か言いたげな表情のまま、まりもは敬礼をして、カツカツと出入り口へと歩いていく。 まりもの手が、ドアノブに触れたその時、まりもの背中に夕呼は何気ない口調を装い、声をかける。「あんたの階級は、もう元に戻らないってのは嘘じゃないわよ。今の状況なら、地球からBETAを駆逐するのも、何年も先の話じゃないわ。恐らくあんたが前線に戻るようなハメになる前に、決着が付いている。 そうしたら、あんたも第二の人生……ううん、本来迎えるはずだった、第一の人生に立ち戻っても良いじゃないかしら。 地球上からBETAが一掃されれば、帝国だって軍縮に向かう可能性が大だし、恐らく、徴兵年齢や徴兵条件の引き上げも起こるわ。 つまり、世の中から若い兵士が減り、その分年相応の学生が増えるということ。そうなったら、軍の教官なんかより、学校教師の方が世の中には必要とされるのではないかしら?」 夕呼は、まりもが本来教師を夢見ていた事を知っている。だが、16歳以上の人材が根こそぎ軍に持って行かれる様な現状では、教師という職に就ける者など、極限られている。 だったら、自分が軍人になってこの戦争を終わらせ、子供達が普通に学校に通える世の中にする。そんな、ある意味あの白銀武よりまだ、夢を見ているような思いから、まりもは軍に志願したのだ。 当時はまだ、女は徴兵の対象ではなかった時代に。 そんなまりもの思いを、親友である香月夕呼は、誰よりもよく理解している。 親友の口から発せられた、珍しく真摯な言葉に、一瞬動きを止めたまりもであったが、その場で振り返ることはなかった。「……お心遣い、ありがとうございます。少し考えてみます」 そう、背中を向けたまま返答し、神宮司まりもはそのまま退室していった。「……ふう」 廊下にて出た神宮司まりもは、研究室のドアを閉め、ホッと溜息を漏らす。「私の将来、退役後のビジョン、か……」 まりもは廊下の壁に背中を預け、天井を見上げながら、そうポツリと呟いた。 正直、考えたこともなかった。この戦争に戦後があるなど。まして、自分が戦死もせずに五体満足で戦後を迎え、第二の人生を歩む可能性など。 だが、確かに今の戦況ならば、地球からBETAを駆逐するのもそう遠い未来の話ではないのだ。 まさか、自分が生きている間に『戦後』の身の振り方について考える時代が来ようとは。 天井を見上げたまま、まりもはふと夕呼のセリフを思い出し、クスリと笑う。「まりもが前線に戻るようなハメになる前に、決着が付いている」という夕呼の言葉。 夕呼は気づいているだろうか? 自分が言ったその言葉の意味に。 まりもが前線に戻るような状況にならないと言うことは、今後伊隅ヴァルキリーズに致命的な損耗が乗じる可能性はない、と言っているようなものだ。 かつては、僅か数年で連隊規模(108機)から中隊規模(12機)まで人員をすり減らした、香月夕呼の直属部隊。 その部隊の今後の損耗を、香月夕呼は無意識のうちに限りなくゼロに近い数値に見積もっている。「なんだ、夕呼も人のこと言えないじゃない。貴女も落ちかけてるわよ、『常識の向こう側』に」 夕呼が聞けば半狂乱になって否定するような言葉を残し、神宮司まりも少佐はゆっくりと廊下を歩き出した。【2005年4月4日、日本標準時11時17分、横浜基地】 同じ頃、横浜基地のある一室では、αナンバーズの面々と伊隅ヴァルキリーズの面々が、それぞれ思い思いの方法で交流を深めていた。 αナンバーズ機動兵器部隊の方は、この場にいるのは全体の約半分程度だが、伊隅ヴァルキリーズは、留守番をしていた速瀬隊も、今回の作戦に同行していた神宮司隊も、ほぼ全員がこの場にいる。 いないのは、夕呼に呼びされた神宮司まりも少佐ぐらいで、数日前に原隊復帰を果たしたばかりの伊隅みちる少佐も、隅の方でアムロ・レイ大尉やケーラ・スゥ中尉といった年配組と、穏やかに談笑している。 とはいえ、静かに交流している人間は全体で見ればむしろ少数派だ。 部屋の中央部では、実年齢や精神年齢の低い組が、派手な笑い声と歓声を上げている。「じゃーん、これが今日の秘密兵器、『けん玉』だっ!」 そう言って輪の中心で、手に持つけん玉を高らかに掲げているのは、鎧衣美琴だ。 中東のバクダッド基地から横浜基地に戻ってきてから、まだ十日ほどしかたっていない美琴であるが、持ち前の明るさと、悪く言えば空気を読まない、よく言えば物怖じしない態度で、すでにαナンバーズ機動兵器部隊の面々と、忌憚なく会話をかわすまでの仲になっていた。「おー、懐かしい!」「俺は、ホンモノ見たのは初めてだぜ」「ねえ、ちょっとやってみてよ」 ジュドー・アーシタを中心としたシャングリラチルドレンの面々が、コンコンとけん玉をやってみせる美琴を中心に、やいのやいのと騒ぎ立てる。「よし、次俺、俺にやらせてくれ!」「はい、あっ、ダメだよ、そっちは小皿。いきなり小皿は難易度高いって」 ビーチャ・オーレグが美琴からけん玉を受け取り、やってみるが中々成功しない。 失敗しまくるビーチャに笑ってアドバイスをしながら、美琴はふと思いついたように尋ねる。「そういえば、そっちの世界には、こう言うおもちゃってもうないの?」 ジュドー・アーシタは焦げ茶色の頭髪を掻きながら答えた。「あー、どうだろ? 俺達はコロニー出身だから分かんないけど、もしかしたら地球にはあったのかもしれないなー。コンバトラーのヨーヨーとか、ボルテスの独楽なんかもあるんだし」「へー、ヨーヨーや独楽はやる人いるんだ。その人上手いの?」「ああ、豹馬や健一の手に掛かれば、要撃級BETAなんて一撃さッ。もしかしたら、要塞級だって倒せるかも知れない」「??? ゴメン、言ってる意味が分からない」 胸を張って答えるジュドーの言葉に、当たり前だが、美琴は不思議そうに首を傾げた。 そうしているうちに、美琴のけん玉は手から手に渡り、何人もの人間によって試されている。 けん玉は、よほどセンスがある人間でない限り、正しい持ち方も知らない素人がいきなり自由自在に操れる代物ではない。皆、一番簡単な大皿に球を乗せるのが精々で、美琴が最初に見せたような世界一周のようなマネは出来るはずもない。「次は俺、次は俺」と失敗する人間の手から、次の挑戦者の手に美琴のけん玉は移っていく。「もうだらしないわね。ほら、ちょっと貸しなさいッ」 そう言って次に、けん玉を手に取ったのは、エヴァンゲリオン二号機パイロット、惣流・アスカ・ラングレーである。「とどのつまり、こんなのはバランスと力の加減の問題なのよ、見てなさい」 自信満々にそう言いきり、アスカはけん玉を持った手をヒョイと動かす。 しかし、大皿に乗りかけた球は、コンとバカにしたような音を立てて、皿の上から滑り落ちる。「……まあ、いきなりは成功しないわよね。もう一回」 再び、コツンと音を立て、球は皿からこぼれ落ちる。「このっ」 こぼれ落ちる。「このっ!」 やはり、こぼれ落ちる。 力や気合いを込めれば込めるほど、うまくいかないのがこの手の遊具である。「ああ、もう! こおのぉっ!」 苛立ちもあらわに、ブンと振りあげたけん玉の球が勢いよく跳ね上がり、上からのぞき込むようにしていたアスカの高い鼻を痛打する。「フガッ!?」 少々聞き苦しい悲鳴を上げて、アスカは顔を押さえて蹲った。 その様子を後ろから見ていたエヴァンゲリオン零号機パイロット、綾波レイはさっと顔を横に向ける。 その様子を、顔を押さえる指の間から見咎めたアスカは、地獄のそこから響くような低い声をかけた。「ちょっと、優等生……? なに、耳まで真っ赤に染めながら、うつむき気味に視線を逸らしているのよ……?」「…………」「優等生? こっち向きなさいッ!」 しかし、綾波は横を向いたまま、肩をピクピク振るわせながら、辛うじて聞こえるくらいの小さな声で答える。「ごめんなさい……私、こういうとき……どういう顔をすればいいか、分からないの……」 明らかに、何かを堪えているがもろばれの態度である。そんな綾波に、エヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジが苦笑を浮かべ、アドバイスを送る。 「わ、笑っても、いいんじゃないかな?」 シンジのその言葉が引き金となった。「…………プッ」 綾波の漏らした笑い声はごくごく小さなモノであったが、アスカの逆鱗を刺激するには十分だったようだ。「殺す、この女、ぶっ飛ばす! ええい、止めるな!」 ものすごい形相でけん玉を振りかざすアスカを、周りの人間が慌てて止める。 実はなにげに、綾波よりシンジの方が酷いことを言っているのだが、アスカの怒りは純粋に綾波だけに向いているようだ。「ちょっと、アスカ、落ちついてっ!」 怒りに燃えるアスカを取り押さえようと、周りはドタバタと大騒ぎを始めた。 部屋の中央部で、美琴を中心にしたグループが大騒ぎを起こしている頃、白銀武はそこから外れた隅の方で、椅子に座り、なにやら一人で考え込んでいた。 非常に珍しいことである。 この様な場で武が中心にいない事も、大騒ぎに巻き込まれないことも、そして、真面目な顔で考え込んでいることも。 背もたれのあるパイプ椅子に逆向きに腰掛け、背もたれに顎を乗せた体勢で、武は考える。『万鄂王作戦』には、神宮司隊が同行し、武の所属する速瀬隊は横浜基地待機だったため、ここしばらくは比較的ゆっくり考える時間があった。(ワープか。ようは瞬間移動の事だよな。αナンバーズにはその移動手段があるんだ) 武が思い返すのは、朝鮮半島の『鉄原ハイヴ攻略戦』に参加したときに見た光景だ。 キングジェイダーと呼ばれている白亜の巨大ロボが開いた『ESウインドウ』と呼ばれる空間の穴。 あの穴は、直接鉄源ハイヴ上空に繋がっていたという。距離と言う壁を絶対的な壁を、一瞬でゼロにする技術。それが、αナンバーズにはあるのだ。 永遠の別離のつもりだった。それでも、この思いを胸に生きていくと誓った。だが、あえないと覚悟したはずの最愛の人に、もう一度会うことが出来るかも知れない。 そう考えただけで、白銀は心臓の鼓動が無駄に高鳴るのを自覚する。しかし、あの時の光景を思い出すと、同時に思い起こされるのが、『クォヴレー・ゴードン』の伝言である。「今度こそ、お前の手で『鑑純夏』を救…………」 途中で切れたその言葉。クォヴレーは間違いなく、『鑑純夏』と言った。鑑純夏を救えと言いたかったのだろう。 だが、香月夕呼は、そんな人間はいない、と言った。「戸籍上にも、軍のデータベースにも『鑑純夏』という名前は存在しない」と。 ならば、クォヴレーという男が間違えたのだろうか? 世界の壁をぶち破ってまで作った貴重な時間に、間違った情報を伝えたというのか? 分からない。武は呟く。「冥夜、純夏……」 どちらも、もう二度と会うことはかなわないと、あきらめていた大切な人。そのどちらもが、ほんの僅かであるがあえる可能性が生まれた。 星の海の向こうに、たどり着く手段があるのかもしれない。 この世界に、いないはずのその人がいるのかも知れない。 ごく時間期間愛し合った恋人と、人生の大半において隣にいた幼なじみ。 どちらか一人に会えるだけで、どれほど武の心は救われることだろう。 もし、万が一にも両方にまたあえるようなら、その時は……。「その時は……あれ……?」 武は、そこで首を傾げる。そう言えば、その可能性は考えていなかった。 万に一つの幸運と、万に一つの幸運が同時に叶う可能性など、どのみち限りなくゼロに近い。だから、考えるのも馬鹿馬鹿しいが、この二つの幸運が同時に叶うのは、ひょっとして全面的に「喜ばしい」ことばかりではない、のではなかろうか? 武ももう二十歳を超える年だ。鑑純夏の自分に向けている感情が、どのようなモノであったか理解している。そして、当時、自分が彼女に抱いていた潜在的な感情が、同様のモノであったことも。 もちろん、御剣冥夜との関係は、歴とした『恋人同士』だ。 恋人である御剣冥夜と、互いの感情に気づかずに過ごしてきた潜在的な恋人である鑑純夏。 もし、二人に再開するという奇跡が重なったら、その時は。「あれ、あれ、あれ?」 その一つ一つは奇跡のような幸運だが、二つ重なったそれは、果たして純粋に幸運と呼んで良い代物なのだろうか? そこまで考えて武は苦笑を浮かべ、首を横に振る。 考えすぎだ。万に一つの幸運が、二つ重なる可能性を勝手に考えて心配するなど、明日空が落ちてきたらと心配するようなモノだ。「考えすぎ、考えすぎだな、うんッ! おーい、お前等、なにやってんだ!?」 武は、おかしな考えを振り切るように椅子から立ち上がると、気分転換とばかりに、まだ元気に騒いでいる鎧衣美琴たちのグループの所に混ざっていった。【2005年4月5日、日本標準時08時00分、横浜基地、第七会議室】 翌日、横浜基地の会議室の一室で、香月夕呼は今日までの人生で最高といっても良いくらいの緊張感に包まれていた。 隣に座るのは、黒いロングドレス型の国連軍服に身を包んだ社霞。机を挟んだ対面に座るのは、αナンバーズの全権特使である大河幸太郎。その両隣には、アドバイザー兼ボディガードの破嵐万丈と、ボディガードである司馬宙が座っている。 彼等とも、もうそれなりに長い付き合いだ。この三人が悪人ではないことも、原則紳士的な言動を取る人間であることも理解している。それでも、今日打ち明ける内容を考えれば、緊張を表に出さずにいるのは難しい。「本日は、お忙しい中ご足労頂き、ありがとうございます」「いえ、博士との会談は、我々にとっても重要な意味を持ちますから」「それに、美人の誘いを断るほど、野暮ではありませんからね、僕達は」 神妙に切り出した夕呼の言葉に、大河全権特使は朗らかに笑い、破嵐万丈は冗談を交えた言葉を返す。 相変わらず彼等は友好的だ。探って探っても腹の底の真意が見えないくらいに。 現実的で、判断に希望的観測を交えない事では定評のある香月夕呼を持ってしても、いい加減疑うのが面倒に思えてくる。 だが、そんな真意を疑い続ける日々も今日で最後だ。 この会合が成功に終われば、夕呼はもう疑うのは止めると決めている。成功に終わらなければ、その時は夕呼の身も無事ではないだろうし、近い将来地球の人類自体が無事では済まなくなるだろう。 だから、どのみち決着は付く。良くも悪くも。 そう考えれば、覚悟も決まるというものだ。別の言い方をすれば、破れかぶれとも言う。 兎にも角にもどうにか緊張を押さえ込んだ夕呼は、ゆっくりを口を開く。「それでは、まずはしばらく私の話をお聞き下さい。これから話す内容は、仮定の上に仮定を重ねた、物的証拠などなにもない、極めて信憑性に乏しい話です。ただの妄想と言われても、反論が難しい、そんな話です。その前提で聞いて下さい。 まず、事の起こりはこの間の甲9号・アンバールハイヴにおけるBETAの不可解な撤退から始まります。アンバールハイヴでは……」 その話の切り出し方は、三日前ここで国連事務次官・珠瀬玄丞斎に話したときとほとんど同じものだった。「…………」「…………」「…………」 夕呼の『推測』を聞き終えた大河達は、流石に厳しい顔で、しばし沈黙を保っていた。 未だ、G元素を生産し続けているアンバールハイヴの『アトリエ』。そのG元素によって量産されるG弾。 だが、それは全てBETAの意図するところであり、十分な量のG弾が製造された時点で、BETAがG弾を奪取し、それを使用するつもりなのではないか。 纏めれば、夕呼の説明は、そんなところだ。事実確認が取れているのは前半の部分だけで、後半部分は全て夕呼の推測だというが、もしその推測が当たっていれば、洒落にならない大事であることは、大河達にも分かる。「もし、それだけの量のG弾がBETAの手に渡れば。いえ、そのためにBETA達が北アメリカ大陸深くに侵攻を果たしただけでも、私達の世界は致命的なダメージを受けるのです。 アメリカは世界の工場であり、食料生産庫であり、世界経済を支える一大消費地であるのですから」 夕呼の言葉に、大河は重々しく頷き、口を開く。「状況はおおむね理解しました。確かに、そうなれば、我々の手にも余る事態です」 大河は率直にそう認める。αナンバーズの技術がどれほど隔絶していると言っても、所詮その数は十万人を僅かに超える程度でしかない。エルトリウムの食料生産能力をフル回転させたとしても、まかなえるのは二百万人が限界だ。 つまり、αナンバーズはアメリカを超越する戦闘力は持っていても、アメリカの代わりを務めるだけの、各種生産能力は持っていないと言うことだ。アメリカにαナンバーズの変わりは務まらないのと同様に、αナンバーズにもアメリカの代わりは務まらない。 共通の理解が得られたと感じた夕呼は、一つ頷くと、大河全権特使の目を正面から見据え、切り出す。「はい。ですから、そうなる前に、そうならない為に、皆様のお力を貸していただきたいのです」 夕呼の言葉を聞いた大河は、深く頷き、答える。「なるほど。つまり、博士はこう言いたいのですな? BETAが北米のG弾の奪取に成功する前に……」「はい」 大河としっかり目を会わせた夕呼は、真剣な面持ちで頷き返そうとして、「成功する前に……我々αナンバーズの総戦力を持って、残り19のハイヴを全て破壊しろ、と」 ガクッと椅子の上でこけた。「そ、その発想はなかった……」 机の顔を突っ伏すようにして呟いた夕呼の言葉は、大河達には聞き取れなかったようだ。「はっ? 香月博士、今何か仰いましたか?」「い、いえ、ただの独り言です……」 流石は、αナンバーズである。どれだけ心構えをしていても、常にその一回り上の非常識を披露してくれる。 どうにか体勢を立て直した夕呼は、コホンとわざとらしい咳をして答える。「違います。それも実現するのなら非常に魅力的なお話ですが、私が要請したいのは、G弾奪取に侵攻してくるBETAの水際防御です」「ああ、なるほど。その手がありましたか。しかし、我々はご存じの通り、決して数は多くありません。数十万単位のBETAに地上、地下二面からの浸透作戦をとられれば、完全防衛は難しいと考えますが」 元々αナンバーズは少数精鋭というその性質から、戦線が横に伸びる大規模な守勢任務を苦手としている。「はい。しかし、それが一番現実的な防衛手段です。本当ならば、米国がG弾の製造を中止し、現存するG弾の全て破棄するか、軌道ステーションに収納してくれるとベストなのですが、物的証拠が何もない現状では、彼等にG弾という有効な兵器を手放させることは不可能でしょう」「で、しょうな」 その辺りは、大河も理解を示す。政治の世界に生きる人間としては、この上ないくらいに理想主義者の大河幸太郎であるが、現実的な視野も併せ持っている。「問題は、国連との取り決めで、皆様がその武力を行使するには国連決議の採択が必要があるということです。ですが、会議と呼ばれるものの常として、この手の決議が採択されるまでには、驚くほど時間が掛かります。 まして、物的証拠が一切ないこのような『懸念事項』の為に、αナンバーズと言う最強の戦力を振るう許可が下りるか。正直、難しいというのが、私が国連の代表から聞いた返答です」「それでは、我々にどうしろと?」 尋ね返す大河を前にして、夕呼はゴクリと唾を飲み込む。今から、夕呼はこれまでαナンバーズにしてきた、厚かましい要請が可愛く見えるほど、図々しいお願いをするのだ。 流石に、掌と背中にびっしょりと汗が滲み出る。 だが、もし、このお願いに彼等が首を縦に振ってくれたなら。(その時は、もう認めましょう。彼等に裏など、真の目的などなかった、と) 覚悟を決めた夕呼は口を開く。「はい、ですから、その場合は、国連決議の採択を待たずして、人道に基づき、人命を守るために、皆様のお力をお借りできないでしょうか?」 そして、そう一気に言い切った。「…………」 再び、室内は沈黙に包まれる。 長い沈黙だ。少なくとも夕呼には恐ろしく長く感じられた。 隣に座る霞が、心配そうに夕呼の白衣の裾を引っ張るが、それに気づく余裕もない。 夕呼はただ、まっすぐに大河全権特使の目を見て、その口が開くのを待つ。 やがて、大河幸太郎は、真剣な表情を緩め、口元に人好きのする笑みを浮かべるというのだった。「明確な返答は、出来かねます。調印を結んだ決議の遵守は、組織同士の関係を円滑に必要不可欠なものですから。 しかし、法や約束事というのは、人々の生活や生命を守るためにあるのであり、約束事を守るために、救える命を座視して見殺しにするのは本末転倒であるとも、考えています」 流石に、今の状況で面と向かって「分かりました。国連決議なんて気にしないで思い切り戦います」とは言えなかったらしく、大河にしては随分と回りくどい言い方になっている。 しかし、その内容をちょっと聞けば「イエス」と言っているのと同じであることが分かる。 夕呼はテーブルの下でずっと握りしめていた拳を開き、全身を弛緩させた。 もう、ここまで来れば、裏を探る方が難しい。もし、ここまで愚直に貧乏くじを引いてまで、彼等が真の目的を隠しているのだとすれば、それはもう夕呼の能力を持ってしても、その真意を探り当てることは不可能だ。(結局、脳天気な白銀の意見が正しかったって訳か) なんだか、色々な意味で笑えてきた。これは反則だろう。なぜ、こんな恐ろしく都合の良い存在がこの世に存在するのだ? しかし、ここで脱力しているわけにはいかない。 この時点で、夕呼は大河全権特使を呼び出した目的を、まだ半分しか果たしていないのだ。 夕呼は背筋を延ばしして、座り直すと言うのだった。「ありがとうございます。皆様のご尽力には心から感謝を。しかし、私もただ皆様のお力にすがるだけでいるつもりはありません。幸い、私がかねてから開発を続けてきた、装置。対BETA偵察要兵器『00ユニット』。それを上手く運用すれば、BETAが本当にG弾奪取を考えているかの裏付けが取れます」「ほう、そのようなモノが」 00ユニットという言葉に、大河はピクリとその太い眉を跳ねあげた。それが、『クォヴレー・ゴードン』が次元を超えて送ってきたデータと同じ名前であることに、大河は気づく。「はい、今からご説明します」 この、持ちうる戦力、有する技術力とはアンバランスとしか言いようがないくらい、善良な価値観で動いている彼等は、自分が00ユニット開発のために今日まで行ってきた所業を告げたら、一体どういう反応を返すだろうか? それでも、ここまで来たら隠し事をする意味はない。と言うより、隠し事をしたまま、00ユニットについて説明をすることは不可能である。(さて、懺悔の時間ね) 今日まで一度もオープンにしたことのない手札を全てさらけ出す行為に、夕呼はある種の爽快感すら感じていた。 しかし、そんな爽快感を感じていられたのも、ごく僅かな間だけだった。 00ユニットとは何か。その作成のために、今まで夕呼がどれだけの志願者を犠牲にしてきたのか。そう言った説明を一つする度に、部屋の温度が一度ずつ下がっていく様な錯覚に襲われる。 その原因は一人の男にある。 大河幸太郎ではない。大河は夕呼の非人道的な研究に眉をしかめてはいるが、そこまでの殺気は放っていない。 司馬宙でもない。宙も、隠すことなく不快感をあらわにしているが、同時にどこか夕呼にどうにかして、理解を示そうと努力している様子が見受けられる。 残るは一人。そう、破嵐万丈である。 日頃の気さも、人懐っこさもすっかり影を潜め、万丈は見たこともないくらいに憎しみを込めた視線で、夕呼を睨み付けている。 よもやここまで怒りをあらわにするとは。少し予想外ではあったが、ここで説明を止めるわけにはいかない。夕呼は覚悟を決めて最後まで、説明を続ける。「……その脳髄だけの生存者こそ、『鑑純夏』。私の手元にいるもっとも00ユニットに適した被献体です。既に、00ユニットの外形は完成してます。後は、彼女の全データを素体にダウンロードし、調律を行えば、00ユニットは起動することでしょう」 と、夕呼が言葉を結んだその時だった。 バン! という、馬鹿でかい音立て、破嵐万丈はスチール製のテーブルに手を突き、立ち上がる。「万丈君?」「ば、万丈さん!?」 驚きの声を上げる大河と宙に返事を返すこともなく、万丈は険しい表情のまま出口へと歩いていく。 そして、ドアノブに手を掛けた体勢で言ったのだった。「……失礼。この件に関しては、僕は何も言いません。全て、大河長官の決定に従います。ですから、僕に意見を求めないで下さい。もし、一欠片でも僕の意見を反映させるのならば、αナンバーズと香月夕呼の間に、決定的な亀裂が生じることになる……!」 固くかみしめた奥歯の歯ぎしりの音がまざった聞き苦しい声で、万丈はそう言い残し、会議室を出て行った。「失礼しました、香月博士。彼には少々特別な事情がありまして、彼の態度にはこちらから謝罪させていただきます。宙」「分かってるッ!」 今の万丈を、一人にしておくのは危険だ。大河の意図を察した宙は、すぐに万丈を追いかけて、会議室から出て行った。「いえ、彼の反応こそ、正しい反応と言えると思いますわ。私も、自分のやってきたことが世間の常識と良識に照らし合わせれば、どう取られるか、自覚はありますから」「ご理解いただき、ありがとうございます。率直な感想を申し上げれば、私も正直平静ではいられない感情を、博士に対して抱いています」「……はい」 大河の鋭い視線と鋭い言葉に、夕呼は小さく息をつき、視線を下げた。 無駄に人命を弄んだつもりはない。人類に生存の道しるべを残すため、全力を尽くしてきたという自負もある。 しかし、いくつもの命を、研究のために摘み取ってきたのは紛れもない事実だ。 そして、『鑑純夏』を00ユニットにするという行為も、言ってしまえば脳髄だけの状態とはいえ、生きている少女を殺して、その少女と同じ思考パターンを持った機械を作るということだ。 全てが明るみに出れば、自分が世間からどのような評価を受けるか、それは十分に自覚している。 夕呼を見据えた大河が再び口を開く。「香月博士。その、鑑純夏という少女を、00ユニットにダウンロードする作業はいつ開始するのですか?」「いつ、とは決めていませんが、先ほども申し上げたとおり、私の推測が当たっていれば、あまり時間はありません。状況が整い次第明日にでも、開始するつもりです」 夕呼の答えに、大河は何かを堪えるように奥歯をかみしめた。「明日、ですか……せめて三日、いや、一日でも良いですから猶予を頂けませんか?」「それは、一日くらいでしたら、不可能ではありませんが。何故でしょうか?」 夕呼の問いに、大河はきっぱりと答える。「一度、我々の技術部に話を通してみたいのです。もしその少女を助けるすべがあるのならば、助けたい。こうして話を聞いてしまった以上、彼女が00ユニットになるより明るい未来を提供できるのならば、その可能性を無視したくないのです」 もっとも、その可能性はさしものαナンバーズと言えども、限りなくゼロに等しい。実際、αナンバーズがいた異世界の地球では、かつてエンジェル・ハイロゥという装置に組み込まれた、脳髄だけにされた三万人の人間を救えなかったという、悪い実績がある。 ましてや、鑑純夏は、全く未知の存在であるBETAの技術で現状生きながらえているのだ。助けるつもりがとどめを刺すことになってもおかしくはない。 そんな大河の返答に、夕呼は思わず苦笑を漏らす。 ああ、そうだった。この人達は、そう言う価値観で動いているのだった。 加害者である自分を非難することよりも、被害者である『鑑純夏』を救うことの方が、遙かに優先順位が高いのだ。 つい先ほど認めたばかりのαナンバーズの『本質』に、まだ頭が適応し切れていない。「しかし、鑑純夏が00ユニットにならなければ、国連やアメリカを納得させる証拠が入手できないと言うことになりますが?」 半ば返答を予測しながら夕呼が放った問いに、大河は夕呼の予想と全く違わない返答を返す。「はい。その場合は、責任を持って我々の力で、BETAの侵攻を食い止めましょう。たとえ、どんな状況になっても」 たかが一人の少女を救うために、条約破りの汚名すら怖れないと、大河幸太郎は断言する。 全くの生身に戻すことは不可能でも、もう少し自由の利く身体を用意することは出来るかも知れない。 GGGのサイボーグ技術と、Gストーン。ネルフのクローニング技術。そして、ゼントラーディのマイクローン装置。 有望な技術はいくつもある。あきらめたくはない。 少女の未来も、地球の未来も。 そうとなれば、すぐにでも緊急のフォールド通信会議を開き、皆の意見を聞いてみるべきだ。「それでは、私はこれで失礼します。こちらの結果は、まず一度明日にでも報告を入れようと思うのですが」「分かりました。時間はこっちで合わせますので、遠慮なくいつでもいらして下さい」「ありがとうございます。では、失礼します」 そう言い残し、大河幸太郎は席を立つと、足早に会議室を去っていった。 この世界と一人の少女の命運を左右する大切な情報を一刻も早く、皆で共有するために。