Muv-Luv Extra’ ~終焉の銀河から~プロローグ【新西暦189年より1万2千年後、地球圏宇宙】 「……我は滅びる……! だが、忘れるな、運命の戦士達よ! この宇宙を縛る因果の鎖が断ち切れぬ限り、我はまた現れる! 無限力と共に!」 最後のあがきとばかりに呪いの言葉を残し、『霊帝』ケイサル・エフェスが消滅する。 今ここに、一つの戦いが終わろうとしていた。全宇宙の命運をかけた戦いだった。(そして、俺にとっては始まりでもある。『平行世界の番人』として俺の) クォヴレー・ゴードンは、当事者でありながら、どこか他人事のように現状を眺めていた。 霊帝ケイサル・エフェスを倒しても、全てが終わったわけではない。αナンバーズのこれまでの戦いを、宇宙の意思『アカシックレコード』がどう判断するか。それ次第では、宇宙意思を相手に次なる戦いを挑む覚悟を決めている。 だが、クォヴレーは不思議と心配していなかった。自分はもう旅立たなければならないが、残される彼らに不安はない。例えどのような困難が立ちはだかろうと、どれほどの強敵が立ちふさがろうと、αナンバーズはその全てに打ち勝つだけの力と意思を兼ね備えている。 だから、クォヴレーは、突然赤い巨神――イデオンが搭乗者の意思に反して動き出したときも、コスモ達イデオンのパイロット達が謎の力で宇宙に放り出されたときも、それを追って全機動兵器、全戦艦が動き出したときも驚くことはなかった。 イデはαナンバーズをどうしようとしているか。元の時代――1万2千年前に返すつもりなのか、もっと別の次元に吹き飛ばすのか、それともあくまで宇宙の意思を乱す存在として断罪するつもりなのか。 皆がどこに向かうのかは分からない。分かるのは、自分がそれに同行するのは不可能だと言うことだ。 イデの意思がイデオンガンから放つ白色光で、クォヴレー以外の全員を「どこか」に送り込むのと同時に、クォヴレーの乗る機体『ディス・アストラナガン』も、クォヴレーを平行世界へと旅立たせようとしている。 αナンバーズが向かう「どこか」とクォヴレーが向かう「どこか」が一致する可能性は果てしなくゼロに近い。だから、クォヴレーは別れの言葉を残す。(すまないが、お別れのようだ)「クォヴレー!?」「おい、どうしたんだよ、クォヴレー!?」 大破寸前のパーソナルトルーパー、『ビルトファルケン』と『ビルトビルガー』に乗ったゼオラ・シュバイツァーとアラド・バランガは突然の別れの言葉に、驚きを隠せない。 こちらに向けられたイデオンガンが、眩い白色光を今にもうち放そうとしている最中、ゼオラとアラドは唐突に別れの言葉を継げた仲間の言葉に意識の全てを傾ける。(俺は、俺に全てを託した男から受け継いだ使命を果たさなければならない。もう、俺がお前達と同じ世界に戻ってくることはないだろう) 無限に存在する平行世界を監視し、因果律の歪みを修整する『平行世界の番人」という役割に、明確な終わりは存在しない。旅立ちは永遠の別離とイコールである。 だが、そんな言葉で納得するほど、ゼオラとアラドは聞き分けの良い人間ではない。「な、何言ってるのよ、クォヴレー!」「そうだぜ。どんな使命か知らねえけど、んなもん、とっとと済ませて戻ってこいよっ!」 二人の言葉に、クォヴレーはディス・アストラナガンのコックピットで笑みをこぼす。 ああ、そうだった。こんな言葉で、彼女たちが、αナンバーズの人間が諦めてくれるはずがないではないか。「不可能」とか「絶望」とかいう言葉など、この世のどこにも存在しない。愛と勇気と魂を込めた一撃で、どんな理不尽もぶち抜けると本気で信じている。そういう人種なのだ、αナンバーズは。 クォヴレーは観念したように少し笑うと、言った。(そうか……そうだな。分かった)「クォヴレー!」「クォヴレー!」 その言葉に、ゼオラとアラドの表情にも笑みが戻る。 そうだ、なにを勝手に悲壮な覚悟を決めていたのだ。平行世界の番人、因果律の番人としての役割には確かに終わりがないが、一時の休息も存在しないわけではあるまい。一段落したところで彼らの元に帰り、また使命を果たすべく平行世界へと旅立っていく。それを繰り返せば良いだけの話ではないか。「クォヴレー、待ってるわ。私達、ずっと待っているから!」「おう、あんまり待たせんなよっ!」(心配は無用だ。俺は何時かお前達のところへ帰る) 急に180度方針を変更した言葉のはずなのに、なぜかその言葉はスッと胸の奥から出てきた。 そして、次の瞬間、ディス・アストラナガンの心臓『ディス・レヴ』が臨界に達し、この世界からクォヴレー・ゴードンを乗せたディス・アストラナガンは姿を消す。 それは、αナンバーズ一同が、イデオンガンから放たれる光に導かれ、時空間転移するほんの一瞬前のことであった。【西暦2001年、日本時間12月13日、地球圏宇宙】「ついたか、ここは……」 三半規管を無秩序に揺らされるような不快感が過ぎ去った後、クォヴレーは「転移」した世界を見渡した。「どこ」であるかはすぐに判明する。ディスプレイの端に、大きく青い水の星が映し出されている。 地球だ。向こうには月も見える。ここが地球にほど近い宇宙空間であることは間違いない。それは、多少意外ではあっても予想外と言うほどではない。もともと、クォヴレーは『因果律の番人』としての役割を果たすために、平行世界を渡ったのだ。 ならば転移先は、もっとも因果律を乱す要因となりうる存在、すなわち『知的生命体』がいる星の近くである可能性が高い。「問題ははたしてここが、いつの地球か、だな」 クォヴレーは周囲の星空や太陽、地球、月の映像を取り込み、ディス・アストラナガンのコンピューターに分析させる。元々、次元、時間を旅することが前提のディス・アストラナガンには、時代を含めた「現在地」を分析させるだけの能力が備わっている。もっとも、あまりに本来の歴史からずれすぎた平行世界の場合は、エラーが表示されるが。 程なくして、コンピューターは分析結果をはじき出した。「西暦2001年12月。誤差、±3パーセント、か。約200年時を遡っているという訳か。……これは少々厄介だな」 はじき出された結果を見たクォヴレーは、思わず舌打ちをする。 200年も過去では、どうやってもこのディス・アストラナガンは『異質』な代物である。かといって、国家や科学技術全般はある程度すでに成熟してきているので、現地人の目をかいくぐるのも一苦労だろう。「この世界の、科学技術レベルは……少なくとも、初期レベルの宇宙進出は果たしているという訳か。ならば、レーダーもあまりなめてかかるわけには行かないな」 軽くカメラを向けただけでも、地球の静止衛星軌道上には複数の人工衛星が発見できる。 元々、ゼ・バルマリィ帝国製の人工生命体であり、記憶喪失にもなっているクォヴレーに詳しい地球史の知識などあるはずもないが、これだけでもこの時代の地球が、ある程度の科学技術レベルを有していることは、分かる。無造作に地球に降下すれば、どんなパニックを引き起こすか分からない。 だが、同時にこれだけ長い時間、こうしてディス・アストラナガンが地球近くの宙域に留まってるのに、どこからも警告や威嚇射撃が飛んでこないところを見ると、宇宙防衛網のレベルはそう大したものではないようだ。「ならば、ステルス機能を最大限に働かせ、洋上に降下すれば発見されずにすむ可能性が高い、か」 細い顎に指を当てて、クォヴレーがそう呟いたその時だった。「ッ、なんだっ! 警報っ? これは……因果地平に穴が空いた!?」 突如、ディス・アストラナガンが、レッドシグナルを灯し最大音量で警告する。どうやら、クォヴレーをこの世界の導いた要因、因果律の乱れが本格的に発生したようだ。 クォヴレーは計器を操作し、状況の把握に努める。「このままでは、この世界と別な世界が因果律を共有してしまうぞ。穴はどこだ。……日本、横浜……。だめだ、ここからではこれが限界か」 ここから先は、地球に降りるしかない。しかし、最悪なことに日本の関東地区というのは、世界でも指折りの人口密集地帯だ。直接ディス・アストラナガンで降りれば、大パニック間違いなしだ。やはり、最初の予定通り洋上に降下し、人目やレーダーをかいくぐって上陸するのが一番だろう。「直接空間転移できれば、面倒がないのだがな」 クォヴレーはそう愚痴をこぼしながら、地球降下の用意を始める。 平行世界を渡るディス・アストラナガンには、ごく当たり前のように空間転移、いわば瞬間移動の能力が備わっている。 だが、クォヴレーはまだまともに空間転移を試したことがないし、なにより宇宙空間から地表への空間転移はリスクが伴う。ましてや、地表の状況もろくに知れない、訪れたばかりの平行世界でいきなり行うべきではないだろう。「いくぞ、アストラナガン」 やがて、クォヴレーは太平洋の公海上を目指し、降下を開始するのだった。【西暦2001年、日本時間12月13日20時48分、横浜市】「この街で間違いないはずだが、ここからは手がかりがないな」 夜遅く、街灯の明かりが照らす町並みを、クォヴレー・ゴードンは歩いていた。 あれから約半日。洋上に降下したクォヴレーは、時に海中に潜り、時に海上を飛び、この世界の人間の目やレーダーをかいくぐりながら、どうにか発見されることなく、こうして目的地である日本の横浜市へと上陸することに成功したのである。 現状、ディス・アストラナガンは海岸線の海中に隠してある。いつまでも、隠し通せるとは思えないが、当面は問題あるまい。 それよりも差し迫った問題は、服装だ。現在、クォヴレーは、全身にフィットする青と白のパイロットスーツを着込んでいる。 胸や肩、股間など重要な箇所はプラスチックやセラミックで保護されている以外は、ほとんどレオタードのような全身のボディラインが露わになる薄い作りの代物だ。 2001年の日本を歩くには、少々場違いな服装である。ごく一部の電気街を除き、この格好で街を歩いていれば、無駄に注目を集めるのは間違いない。しかも、クォヴレー自身、控えめに言っても銀髪の美青年なのだから、これで目立たないというのは、不可能に近い。 そう言った意味では、ここが夜の住宅街だというのは、幸いだった。おかげでまだほとんど現地の人間とすれ違っていない。 まれに、残業上がりのサラリーマンとすれ違い、ギョッとされたりもしているが。「今は闇雲に歩き回るか、何かが起きるまで待つしかないか」 ディス・アストラナガンでも、これ以上細かな絞り込みは難しい。ならば、あとは直接この街を歩き回って異変を探すしかない。因果律が乱れていれば、必ず何らかなの影響がでるはずだ。それを見逃さないことが、今のクォヴレーに出来る最大にして唯一の取り得る手段である。 それまでに出来ることと言えば、長期戦を想定し、この世界に溶け込む努力をするくらいか。元々ゼ・バルマリィ帝国から、地球に送り込まれたスパイであるクォヴレーに、現地の溶け込むスキルは無いとは言わないが、流石にろくに知識のない200年前の世界というのは少々荷が重い。「先のことを考えれば、目立つのは拙いな」 呟く言葉とは裏腹に、200年後のパイロットスーツ姿で銀色の髪を隠すそぶりも見せず、堂々と夜の住宅街を歩く。 そんなクォヴレーの耳に、異変が届いたのは次の瞬間だった。「ッ、なんだっ!?」 キャーと言う女の悲鳴。それも、ふざけ半分の代物ではない。重大な危機に瀕した、切羽詰まった代物だ。「こっちかっ!」 次の瞬間、クォヴレーはアスファルトを蹴り、駆け出した。何らかの異変、これが因果律を乱す要因の手がかりになる、などと言うことはこの瞬間は考えていない。悲鳴を聞いた瞬間、何も考えずに「全速で助けに向かう」という選択肢をごく当たり前に選択していた。 所属していた期間は短くても、クォヴレーもすっかりαナンバーズの流儀に染まっているのだろう。 人型機動兵器パイロットだけでなく、兵士として一通りのスキルを身につけているクォヴレーの身体能力は十分に高い。 飛ぶようにして夜道を駆け抜けたクォヴレーは、あっという間にその現場に到着した。「貴様っ、何をしている!?」 仰向けに倒れる若い女と、興奮して息を荒らげながらその前に立つ中年の男。女は気絶しているのか、すでに事切れているのか、ぴくりとも動かない。血走った目で女を見下ろす男の右手には、ギラリと光る刃物が握られている。「なんだ、お前はっ! 邪魔をする気か!?」 予期せぬ乱入者――クォヴレーの登場に、男は半狂乱になって刃物を振り回して、威嚇する。一目で分かる素人の動きだ。その正気の吹き飛んだ様子から、話し合いの余地がないことが一目で見て取れる。 そう判断したクォヴレーの動きは素早かった。「フッ!」 短い気合いの声と共に、一気に男の正面に踏み込んだクォヴレーは、間髪入れずに下から男の顎に掌底を叩き込む。「なっ、ぶっ!?」 顎を痛打された男は、そのまま真後ろに転がった。 アスファルトの上に倒れたまま、何が起きたか分からずパニックを起こしている男を、クォヴレーは構えを解かないまま黙って睨み付ける。元々、クォヴレーは顔立ちこそ綺麗に整っているものの、目つきがよいとは言えない。そのため、こうして睨み付ければ結構な迫力になる。「…………」「ひ、ひぃっ!」 少なくとも、この暴漢を追い払うくらいの迫力はあったようだ。 男は手に持っていた刃物を放り投げ、転がるようにして去っていった。 一瞬、追いかけて掴まえるかと考えたクォヴレーであるが、今はそれより女の様態を見るのが先だと思い立つ。「大丈夫かっ」「…………」 傍らにしゃがみ込み、クォヴレーはこの時初めて女のまじまじと見た。 年の頃は二十代の中盤くらいだろうか。くすんだ黄色のセーターに、茶色のロングスカートというよく言えば清楚、悪く言えば地味な服装で、茶色の髪は腰くらいまで長く伸ばしてある。 スタイルの良さでは定評のある、αナンバーズの女性陣と比べても引けを取らないくらい豊かに膨らんだ胸元は、ゆっくりと上下している。 どうやら、女は単に気を失っているだけのようだ。街灯の薄明かりを頼りに見ると、セーターの左腕の辺りが切り裂かれており、腕にも浅い裂傷を負っている。おそらく男に襲われて、とっさに腕で身体を庇いながら後ろに倒れた拍子に、頭を打ったのだろう。 ホッと安堵の息を吐いたクォヴレーであるが、問題はここからである。 本来であれば、現地の警察か病院と連絡を取るべきなのだろうが、不法入国者の自覚のあるクォヴレーとしてはどちらもあまりお近づきになりたくない代物だ。 かといって、このまま捨て置くわけにはいかないし、頭を打っているのだとすれば、揺すって起こすのも拙い気がする。「とりあえず、どこかベンチにでも寝かすか」 そう言ってクォヴレーは、両腕を仰向けに寝そべる女の脇の下と膝の下に差し込んだ、その時だった。 ヒュンと唐突に突風が上空を吹き抜けると、クォヴレーの頭上に「何か」が落ちてくる。「くっ!?」 クォヴレーはとっさに女を抱き上げると、半ば本能だけで体をかわす。 その一瞬後、さっきまで女の頭があったところに大きな植木鉢が落ちてきたのだった。 ガシャンと大きな音を立て、植木鉢が粉々に砕け、黒い土とゴムの木(鑑賞木)がアスファルトの上にぶちまけられる。 間一髪だった。後一瞬遅かったら、女の頭部はグシャグシャに砕けていたことだろう。 近くの家の二階のベランダに飾られていた植木鉢が突風にあおられ、道路まで落ちてきた。絶対にあり得ないとは言わないが、偶然の一言ですませるには少々度が過ぎている。だが、二階のベランダに人影が見えないのも確かだ。人為的なものでないことは間違いない。「偶然、か?」 驚きと安堵のない交ぜになった息を吐くクォヴレーであったが、どうやらゆっくりとしている余裕はなさそうだった。 今の植木鉢が砕ける音を聞きつけたのだろう。周りの住宅から人が玄関に出てくる気配が感じられる。「くっ!」 この現状はあまりに拙い。 腕を切られて、気を失っている女。そこに転がっている血のついた刃物。そして、その女を抱きかかえている、200年後のパイロットスーツ姿の自分。 誰がどこからどう見ても、立派な不審者である。「ちっ、この場は逃げるしかないか!」 クォヴレーは、女を肩に担ぐと全速力で走り出した。 せっかくこの世界の住民が出てきてくれるのだから、彼らに女を任せれば良いのだが、先ほどの「植木鉢の落下」が偶然ではなく、クォヴレーの悪い予想が当たっているとすれば、ここに放っておくのは見殺し以外のなにものでもない。「くそっ、予想以上に重いっ!」 本人に聞こえれば、引っぱたかれても文句の言えない愚痴をこぼしながら、クォヴレーは女を右肩の上に担ぎ上げたまま、全速力でその場を離脱する。 幸いにして、付近の住民が出てくる前に十分現場から離れることが出来た。フッと、速度を揺るめて息を整えようとしたクォヴレーは、ゾクリと首筋を逆なでされたような悪寒を背中に感じる。「ッ!」 本能に従い速度を上げた次の瞬間、クォヴレーの背後に上から看板が落ちてきた。 あのまま速度を落としていたら、ちょうど肩に担いでいる女の頭部を、金属製の看板が、ギロチンのようにぶち抜いてくれたことだろう。 留め金が錆びてゆるんだ看板が、偶然頭上に振ってくる。非常に運の悪い偶然である。 先ほどの植木鉢と、今度の看板。どちらか片方だけならば「偶然」かもしれないが、二つ重なれば、もう「偶然」では済ませられない。 クォヴレーは、確信した。「この女、『死の因果』にのまれかかっている!」 世界に空いた「穴」から、因果律の流出入が起こっている。 異なる世界で死んだ人間の『死の因果』が、この世界に流れ込み、この女を同じ運命へと導こうとしているのだ。おそらくその人間は「頭部に致命傷」を負い、死んだのだと思われる。今になってみれば、植木鉢や看板だけでなく、あの暴漢もこの女を死の因果に導くための要素だったのだろう。 このままではこの女は、まとわりつく「死の因果」に常に抗い続けなければならない。襲い来る一つ一つの事故や通り魔を回避し続けてもじり貧だ。「だが、アストラナガンなら、ディス・レヴならばっ!」 クォヴレーは女にまとわりつく死の因果を振り払うべく、愛機ディス・アストラナガンを隠した海岸へと全力で走るのだった。「よし、目覚めろ。アストラナガン」 全身汗だくで、呼吸もろくに整わないまま、クォヴレーはディス・アストラナガンを夜の横浜へと上陸させる。 浜辺には、ここまでどうにかあらゆる事故を回避しながら、無事連れてきた女が寝かせてある。 幾らこの辺りはほとんど人が来ないとはいえ、本来であればこうして堂々とアストラナガンを上陸させるのは遠慮したいところなのだが、今はそんなことをいっている場合ではない。文字通り一分一秒を争う事態なのだ。「いくぞ」 ザバリと海水をしたたらせながら上陸を果たしたディス・アストラナガンは、海岸に降り立つとその主機関――『ディス・レヴ』を回し始める。「吠えろ『ディス・レヴ』。喰らいつくせ。死霊を、悪霊を、死の因果をっ」 ディス・アストラナガンの主機関――ディス・レヴは、死霊・悪霊を初めとした『負の無限力』を糧としている。ならば、死そのものに限りなく近い「死の因果」も吸収できるのではないか。 推測と言うより願望に近い思考からの行動であったが、どうやら功を奏したようだった。「…………」 いざという時とっさにかばえるように、ディス・アストラナガンのコックピットで緊張状態を保ったまま、クォヴレーは女とその周囲の様子を伺う。 1分、2分、3分……10分たっても女の頭部に「不運な偶然」が襲いかかる様子はない。それでもう5分、クォヴレーは緊張を解かずに、女を見守り続ける。やはり何の異変も起こらない。「……ふう」 ここに来てやっと女にまとわりついていた「死の因果」を引きはがしたことを確信したクォヴレー・ゴードンは、長く深い息を吐きながら、ディス・アストラナガンのコックピットにぐったりと身体を預けるのだった。【西暦2001年、日本時間12月13日23時14分、横浜市海岸付近】「……ん……あ……?」 朦朧とする意識の混濁状態から這い上がってきた神宮司まりもが最初に感じたのは、身体の節々の痛みと、全身に感じる肌寒さだった。 なぜだろうか? 確かに今の季節は冬だが、それにしても寒すぎる。私の部屋はここまで寒くないはずだ。ひょっとしてまた、しこたま酒を飲んであまりよろしくない寝方をしてしまったのだろうか? それになぜ、こんなに潮の匂いが濃いのだ? そんなことを考えながら、重い瞼を持ち上げる。「気がついたか」 ぼうっと目を開くと、最初に視界に飛び込んできたのは、真上からこちらの顔をのぞき込む、銀髪の青年だった。それとも少年と言うべきだろうか? 年の頃は自分が担当している学校の生徒達と同じくらいか、ちょっと上くらいに見える。ぞくに東洋系は幼く見えて、西洋系は年上に見えるというから、この明らかに西洋系の彼ももしかしたら見た目より年下なのかも知れない。 いずれにせよ、初めて見る顔だ。やけに目つきが鋭いが、その分を差し引いてもちょっと見ないくらいの美形である。女であれば、長い付き合いの悪友や、受け持ちの生徒などで綺麗どころを随分と見てきたが、男でこれだけの美形にはちょっと心当たりがない。(鎧衣君は格好いいというより可愛いんだし、白銀君も悪くない顔してるけどもうちょっと間が抜けているものね) まだ、頭の大半が覚醒していないのか、とりとめのない考えばかり頭をよぎる。 銀髪の青年は、無表情の中にもどこか心配げな色を滲ませ、問いかけてくる。「現状は理解できているか? 自分の名前は言えるか?」「名前……神宮司まりも……」「よし、職業は?」「白陵柊学園教職員……」「今日は何年の何月何日だ?」「2001年12月13日……あ、14日かしら」 答えながら、まりもは途中で訂正する。今は何時頃だろう? 深夜0時を過ぎているのならば、すでに14日のはずだ。それにしても自分はいつ寝たのだろう? まりもは覚醒しつつある意識の片隅で、昨日のことを思い出す。昨日は色々あった。朝のホームルームでは突然受け持ちクラスの生徒、白銀武が泣き出し、心配だから放課後にレストランで彼と個人面談をして、送っていくという彼の申し出を断って一人で帰る途中…………。「あああっ!? わ、私っ……!!」 恐怖と共に意識が覚醒し、一気に記憶がよみがえる。反射的に上体を持ち上げようとするまりもを銀髪の青年――クォヴレーは、グッと両手で支えながら、落ち着かせるように声をかける。「思い出したか。大丈夫だ。お前は気を失っていただけだ。もう安全だ、暴漢は撃退した」「あ……ああ……あ……!」 まりもは、まるでそれが絶対に手放してはいけない命綱だと言わんばかりに、クォヴレーの二の腕をギュッと強く握りしめる。「大丈夫だ、問題ない」 クォヴレーはその手を払うことなく、まりもの背中をさすりながら、ただ彼女が落ち着くのを待つ。「…………」「……落ち着いたか?」「はい。ありがとうございます、貴方が助けてくれたのですか?」 やっと会話が出来るくらいにまりもが自分を取り戻したところで、クォヴレーはまりもから離れた。 視界が開けたまりもは、自分が港に面した公園のベンチにいることに気づく。 繁華街のレストランから住宅街の自宅に帰る途中襲われたはずなのに、なぜ今自分は港近くの公園にいるのか、という当たり前の疑問が思い当たらないところを見ると、まだ完全に頭が働いているわけではないのだろう。「偶然だ。たまたま、お前の悲鳴が聞こえる所にいた」 クォヴレーは抑揚のない口調でそう答える。「落ち着いたら家まで送っていこう。その前に、一つ聞きたいのだが、いいか?」「あ、はい。何でしょう?」 まりもは、ちょっと不意を突かれたように驚いた表情で自分の前に立つ青年を見上げながら、丁寧な口調で言葉を返す。一見すると、受け持ちの生徒と同世代くらいに見えるが、正確な年齢は分からないし、第一彼は自分にとって命の恩人だ。敬語で話すのが適当だろう。「嫌な記憶を思い出させて悪いが、お前は今日のような目にある事に、なにか心当たりはあるか?」 その言葉通り恐怖の記憶を思い出さされたまりもは、ビクッと身体を痙攣させながら、必死に首を左右に振る。「いえ……ありません。顔もよく見てないですけど、あんなことをされる心当たりなんて……」「あ、いや。そう言うことではない。お前は「死の因果」に囚われかかっていた。何かお前の身の回りで、超常現象的なおかしな出来事があった心当たりはないか?」 200年前の世界の一般人に、いきなり「死の因果」などと言っても意味は通じないだろうが、クォヴレーはあえて直接的な言葉でそう問いかける。元々この世界に知り合いはいないし、手がかりと呼べる物もないのだ。で、あれば「被害者」という形であれ、この因果律の乱れの当事者となってしまったこの女を中心に、話を進めていくくらいしか当面、手がかりはない。 無論、この女が「死の因果」に囚われたのは、ただの偶然という可能性もあるが、そんなことまで考えていてはいつまでたっても身動き一つとれない。「死の因果って、因果? あの、ひょっとして貴方、夕呼の知り合い?」 因果、と言う言葉の響きに長い付き合いの悪友を連想したまりもはそう言葉を返す。「ユウコ?」「ええ。香月夕呼。確か彼女が「因果律量子論」だかなんだか、怪しげな理論の話を最近よくしていたけど」「『因果律量子論』か」 クォヴレーは顎に手を当てて考える。聞き覚えのない理論だが、少々名前が符合する。因果の流入による第一被害者の知り合いが、『因果律量子論』という理論を研究していた。これは無関係であると考える方が不自然だ。「鍵はその女か」 考え込むクォヴレーをベンチの上から見上げながら、まりもはまだ回転の鈍い頭を振りながら、少し自分の言動が軽率だったと反省していた。 自分にとっては命の恩人でも、見るからに怪しい格好をした謎の外国人に友人の名前を打ち明けるとは。頭がまだぼうっとしているというのは言い訳になるまい。 しかし、それにしてもおかしな格好だ。こんな格好をしている人間など、まりもは今日まで、夕呼に無理矢理連れて行かれる年2回の特殊なイベント会場以外で、お目にかかったことがない。 そう考えるとなおさら、夕呼の知り合いという線が有力になるのだが、この様子からするとどうもそうではないようだ。 まあ、あの香月夕呼が、ちょっとやそっとのことでピンチなったりはしないだろうが、だからといって不義理を働いて良いと言うことにもならない。「なるほどな。ああ、では、家まで送ろう。立てるか?」「あ、はい」 自然に差し出されたクォヴレーの手を取り、まりもは立ち上がる。目の前の男に対する不信感はあるが、流石にあんな事があった後に、送るという申し出を断る気にはなれない。 夜道の一人歩きに対する恐怖の方が、目の前のことに対する不信感より遙かに強い。 立ち上がってみると、以外と足はしっかりしていた。この分ならば家まで歩いて帰るのに問題はなさそうだ。「それでは、お願いします。ええと……あ、そう言えば、名前聞いてませんでしたね。あの、貴方の名前は?」 青年の名前を呼ぼうとして、まだ名前を聞いていなかったことを思い出したまりもは、そう言って青年の名前を尋ねる。「ああ、そうだな。クォヴレー。クォヴレー・ゴードンだ」 まりもに気づかれないくらいの短い時間、考えたクォヴレーはそのあとすぐにそう素直に自らの名前を名乗る。この世界であまり自分の存在を吹聴しない方が良いのは間違いないが、この神宮司まりもという女は、現在唯一の手がかりであり、さらに有力な手がかりである『香月夕呼』に繋がる鍵でもある。 多少のリスクを負ってでも、こちらの存在を売り込んでおいた方が良い。 クォヴレーは、口元に小さく笑みを浮かべながら、そう名乗った。