Muv-Luv Extra’ ~終焉の銀河から~第一章【西暦2001年、日本時間12月14日6時55分、横浜市白銀家】 何でも出来る気がしていた。最低でもなにか出来ると思っていた。だが、現実は何も出来なかった。 武が考案した戦術機の新型OS――『XM3』のトライアル中に、突如現れたBETAの群。 何の心構えも出来ていないまま巻き込まれた実戦に、白銀武の精神はいとも容易くはじけ飛んだ。 恐怖を抑えるために投与された後催眠暗示と興奮剤の影響をもろに受け、後退の命令を無視してBETAに向かい、自機に装填されているのがペイント弾であることも忘れ乱射し、戦術機を破壊され、動かなくなった機体の中、死の恐怖に泣き叫んだ。『何も出来ず、ただ一方的にやられ、間一髪の所を救援に駆けつけた戦術機に助けられた』。簡単に言えば、それが白銀武の初陣だった。 そして、残骸と化した戦術機の前にしゃがみ込み、己の無力感に絶望していた時、後ろから声をかけてくれたのが神宮司教官――まりもちゃんだった。 感情の制御もきかないまま、攻撃的で情けない言葉ばかりを吐く自分に粘り強く、慰めの言葉と励ましの言葉を投げかけ続けてくれた。初陣で部下を全員死なせてしまったという、自らの心の傷をさらけ出してまで自分を立ち直らせようとしてくれた。「自分の失敗を笑ってはなせるようになる頃には、白銀が失ってしまったものも、また見つかっているはずよ」 そんなまりもちゃんの言葉に、少し自分を取り戻した武は、時間をかければ立ち直れるかも知れないという、小さな光明を見いだした。 だから、「……ありがとう……まりもちゃん」 とまりもに背中を向けたままお礼の言葉を投げかけて、それから「神宮司軍曹」をまた「まりもちゃん」と呼んでしまったことに気づいて、「しまった、振り向きづれぇ」なんて思いながら、でもなんだか後ろから「ピチャピチャ」という水音がするから、「なんだ?」と思って振り向いたら……まりもちゃんが、頭から、BETAに……食べられていた。「――うわああぁっ!」 自らの悲鳴で目を覚ました武は、ベッドの上で上半身だけを起こしたまま、ゼイゼイと荒い息をついていた。カーテンの隙間からは、細く陽光が差し込んでいる。「あ……? ここは?」 身体を起こした武は、キョロキョロと室内を見渡す。 しばしの間、自分のおかれている状況が理解できない。そこは、慣れ親しんだ国連軍横浜基地の自室ではない。 薄緑の壁紙が貼られた室内。黒い机と椅子のセット。カラーボックスの上に鎮座している見覚えのあるラジカセ。 それらを眺めているうちに、ここがどこであるか、武は思い出した。「ああ、そうだ。帰ってきたんだよな、俺」 そう、武は昨日帰ってきたのだ。BETAに侵略され、人類滅亡の危機に瀕している世界から、BETAのBの字も存在しない平和なこの世界へ。「大丈夫だ。あれは全部向こうでの話しだ。忘れるんだ。ここにはBETAなんかいない。まりもちゃんだって生きてる……」 まだ鳴り止まない心臓を左手で抑えながら、武は自分にそう言い聞かせると、ゆっくりベッドから立ち上がる。神宮司まりもがBETAに食い殺されたのは、「あっち」の話。「こっち」のまりもはちゃんと生きている。昨晩、情緒不安定になっている武のために、わざわざ放課後ファミリーレストランで、相談に乗ってくれたではないか。 お人好しすぎるくらいに優しい人。それは「あっち」の神宮司教官も「こっち」のまりもちゃんも変わらない。 駄目だ。何もしないでいるとすぐに「あっち」の事を考えてしまう。「くそっ!」 強制的に思い出される記憶を振り払うように頭を振った武は、その拍子に全身にびっしょりと気持ちの悪い汗を掻いていることに気がついた。「うわっ、気持ち悪りぃ。シャワーでも浴びるか」 少しわざとらしく、そんな言葉を呟きながら武は、自室のドアに手をかける。 同時に少しこちらの感覚を取り戻している気がして、笑みがこぼれる。汗を掻いて気持ちが悪いから、寝起きにシャワーを浴びる。「あっち」の世界では、とうていかなわない贅沢だ。 汗で湿った寝間着姿のまま、武が茶の間に降りてくると、すでに柊学園の制服に着替えた御剣冥夜と、いつも通りメイド服姿の月詠真那が、真剣な表情でなにやら話をしていた。「おっす、冥夜、月詠さん、おはよう」「ああ、おはよう武」「おはようございます、武様」 階段を下りながら挨拶をする武に、冥夜と真那は話を途中で中断し、そろってこちらに顔を向ける。「ちょうど良かった、武。そなたにも知らせておこうと思っていたのだ」「あ、悪りぃ。俺、これからシャワー浴びたいんだけど」 やけに真剣な表情の冥夜に、少し戸惑いながら武はそう返し、浴室に向かおうとする。「昨晩、神宮司教諭が暴漢に襲われた」 通りすぎようとする武に、冥夜は単刀直入にそう告げる。「ッ、まりもちゃんが!? だ、大丈夫だったのか!」 あの夢の目覚めから、朝一で聞かされた神宮司まりもに関する凶報。最悪の想像を働かせるのに十分な知らせに、一瞬で武は顔色を失う。だが、幸いなことに冥夜の後を引き継いだ月詠真那の言葉は、その最悪の予想を裏切るものだった。「はい、幸い悲鳴を聞きつけて駆けつけた方が暴漢を撃退して下さったらしく、神宮司教諭は左腕に浅い裂傷を負っただけですみました」「そうか、良かった……。それで、犯人は?」 真那の報告にホッと胸をなで下ろした武は、少し落ち着いた口調でそう尋ねる。「はい、早朝のうちに御剣財閥の手の者で身柄を拘束し、警察に引き渡しました。そのような不逞の輩を、冥夜様がおられるこの街で野放しにしておくわけにはまいりません」 きっぱりと言い切る真那の口調が武には頼もしい。一見穏やかそうなメイドさんにしか見えないが、やはり彼女はあの日本帝国斯衛軍所属、「月詠真那中尉」と同じ人間なのだ。「そういうわけで、武。この一件が解決するまで、お前も私と一緒に鷹嘴(たかはし)の車で通学するのだ」 鷹嘴とは、冥夜お抱えの運転手の名前である。60mリムジンを手足のように乗りこなす、超一流ドライバーだ。 すでに決定事項のようにそう言ってくる冥夜の言葉に、武は戸惑った様子で言葉を返す。「あ、いや。でも、すでに、犯人はつかまっているんだろ? それに、純夏もいるし」 そう言えば、そろそろあの賑やかな幼なじみが襲撃してきてもおかしくない頃だ。ちらっと玄関の方を目をやる武に、冥夜が首を横に振る。「無論、鑑もだ。確かに犯人は捕まったが、まだ事情聴取は終わっていない。単独犯である確約が取れるまで、安全が確保されたとは言えない」 そう言いながら冥夜は一度視線を真那に向ける。にっこり笑いながら首を横に振る真那と、どこか恨めしげな目で渋々ながら頷く冥夜の様子から見るに、「徒歩通学禁止」を言いだしたのは、冥夜ではなく真那なのだろう。 御剣財閥に仕える真那の立場からすると、次期党首である冥夜の安全を守るために万全を期すのは当たり前のことである。元々物わかりがよく、自分の立場を理解している冥夜は、こういう場合我が儘を言わない。 冥夜と真那の無言のやりとりから、何となく事の次第を察した武は、素直に冥夜の提案を受け入れることにした。「わかったよ。しばらくの間、よろしく頼むわ。登校が車なら、シャワーもゆっくり浴びられるしな」 武のその言葉に、冥夜は武のパジャマが汗で濡れている事に気づく。冥夜は心配そうに、「そういえば、武。随分と汗を掻いているな。体調でも悪いのか?」 と言ってくる。慌てて武は否定する。下手な答えを返すと、三十秒後には世界一の名医がドクターヘリで白銀家にやってくることになりかねない。「いやいや、ちょっと夢見が悪かっただけだ。心配すんなって。って訳で朝飯はシャワー浴びてから食べるから」「承知しました、武様。そのようにご用意しておきます」 まだ心配そうにこちらを見つめる冥夜と、ペコリと頭を下げる真那に見送られるようにして、武は今度こそ本当に浴室へと消えていった。【西暦2001年、日本時間12月14日8時35分、白陵大付属柊学園3年B組教室】「というわけで、まりもは今日学校に来ないわ。英語の時間は自習、朝と帰りのホームルームは榊、あんたのほうで適当にやっておきなさい。なにか問題があるようなら、私の所に来るように。いいわね?」 ほとんどブラジャーにしか見えない黒いレースの上着の上から白衣を着た女――香月夕呼が教卓の上から、そう3年B組の学級委員長に言葉をかけた。その大胆と言うよりちょっとおかしい服装といい、抜群スタイルと派手な美貌といい、どう見ても学舎にいるより夜の繁華街にいるほうがマッチしているのだが、香月夕呼はこれでも歴としたここ、柊学園の物理教師である。「はい、分かりました」 二本の三つ編みに大きな眼鏡という、今時珍しい「委員長の見本」の様な少女――榊千鶴がいかにも生真面目そうな面持ちで返事を返す。 唐突に告げられたクラス担任の欠勤であるが、とりあえず3年B組の面々に、特筆すべき反応を示した者はいなかった。 元々、まりもの欠勤理由について夕呼の口からは「まりもの私的な都合」としか語られておらず、まりもが昨晩暴漢に襲われたという事実は、今のところ武と冥夜、後は通学途中の車内で武達から話を聞かされた純夏の3人しか知らない。 死者も出ていないただの暴漢事件では、テレビのニュースになることもない。一応、刑事事件ではあるので、いずれ何らかの形で、皆の耳に入ることもありえるが、あえて大々的に宣告する必要もないだろう。 ただでさえ、妙齢の女が暴漢に襲われたとなると、噂に無駄な枝葉がつくものだ。隠し通せるのならば、それに越したことはない。「それじゃ、私はこれで。ああ、白銀。あんたはちょっと来なさい」 いつも通り、軽い口調で朝のホームルーム終了を告げた夕呼は、帰り間際何でもないことのようにそう付け加えると、ちょいちょいと武に手招きして見せた。「あ、はい。冥夜、一時限目の先生に言っといてくれ」 そう言って武は、隣の冥夜に事情説明を頼むと素早く席を立つ。「了解だ」「武ちゃん、また何かやったの?」「なにもやってねーよっ」 当たり前のように自分に濡れ衣を着せてくる純夏の頭頂部に軽くチョップ入れて、武は教室の前の入り口で待っている夕呼の元に小走りで向かった。「あ痛ー、武ちゃん暴力反対!」 幼なじみの抗議の声を背中で聞きながら、武は夕呼の後を追い、教室から廊下へと出て行く。「夕呼先生、話って」「物理準備室で話すわ」 駆け寄る武の方を見ず、まっすぐ顔を前に向けたままそう答える夕呼の顔は、教室にいたときとは打って変わって、唇を強く結んだ、見たこともないくらいに険しいものだった。 物理準備室に着いた夕呼は、武を突き飛ばすようにして部屋の中に押し込むと、ピシャリと入り口の戸を閉め、施錠した。「あの、夕呼先生?」 廊下に出たときの表情からただ事ではないことは察していた武であったが、どうやらいよいよもってただ事ではないようだ。「こっち」の夕呼が、ここまで血相を変えているところは初めて見る。「あんた、昨晩のまりもの身に起きたことについては、御剣から聞いているわね?」 いらだたしげにドスンと備え置きの椅子に腰を下ろしながら、夕呼が話を切り出す。「あ、はい。確か、俺とファミレスで別れた後、帰り道で暴漢に襲われたって」「それで? 他には?」 矢継ぎ早に夕呼が促すが、武は首をかしげるだけだ。「いえ、俺が今朝冥夜と月詠さんから聞かされたのはそれだけですけど」「そう、それじゃあ詳しいいきさつは知らないのね。なら、まずは聞きなさい。昨晩まりもはね……」 夕呼は理路整然と、昨晩神宮司まりもの身に起きた事件について話し始めた。 武と分かれてからの帰り道、住宅街で暴漢に襲われたこと。 暴漢の凶刃をかわそうとして足を滑らせ、頭を打ち、気を失ったこと。 気がついたら、なぜが港近くの公園のベンチで、奇妙な格好をした銀髪の青年に介抱されていたこと。 そして、暴漢を撃退してくれたその青年――クォヴレー・ゴードンに「お前は死の因果に囚われかかっていた。何か心当たりは無いか?」と、尋ねられたこと。 そこまで話が進んだところで、武は一気に顔色を失った。「死の因果、って……」 まりもが死の因果に囚われている。そこの言葉に、武は半ば反射的に「あっち」のまりもの最期が思い出された。背中を向けたまま、「ありがとう」と言ったのに、帰ってこない返事。何故か唐突に聞こえてくる、ピチャリピチャリという水音。そして、振り返った先に見た、頭を丸かじりにされたまりもちゃん。「そんな、じゃあ……まりもちゃんはっ」 唇が紫に変色するほど顔から血の気の引いた武をなだめるように、夕呼はため息をつきながら言葉を続ける。「落ち着きなさい、白銀。大丈夫よ。少なくとも、現時点でまりもの身に危険は及んでいないわ。その様子を見ると聞くまでもない気もするけど、一応確認を取るわ。「あっち」のまりもは死んだのね?」 平行世界での出来事とはいえ、親友の死を口にするのはさしもの夕呼にも酷だったのか、少し躊躇いの色を見せながら、そう言った。「は、はい。俺がいた基地にBETAが現れて……お、俺何も出来なくて、落ち込んでいたところをまりもちゃんが慰めてくれて……ありがとうって振り向いたら、振り向いたら、ま、まりもちゃんがっ……」「そこまでよっ! あんたの記憶がトリガーになっている可能性もまだあるんだから、それ以上思い出しちゃ駄目!」 まるで自分の意思に反するように、あの時の情景を話し始める武を、夕呼は血相を変えて制止させる。素直に武が口を閉ざした見た夕呼はホッとため息をつくと、椅子から乗り出していた身体を背もたれに戻す。「どうやら間違いないみたいね。白銀を通して、「あっち」の世界の因果が「こっち」の世界に流れ込んできている。あんた、「あっち」の私に『因果導体』って存在について詳しく聞いている?」「……いいえ」「そう。まあ、簡単に言えば、因果情報を導く存在。世界から世界に因果を導き、異なる世界に同じ結果をもたらすモノのことね。たぶん、今のあんた、その『因果導体』になっているわ」 真っ白に近い武の頭に、夕呼の言葉がジワリジワリと毒のようにしみこんでいく。つまり、武という「因果導体」を通して「あっち」世界でまりもが死んだという因果が、「こっち」の世界に流れ込み、「こっち」の世界のまりもに同じ結果、すなわち死へと導こうとしたと言うことか。「そんな……」 それは、「お前が来たせいで、まりもは死にかけている」と言われているに等しい。「しっかりしなさい、白銀! おそらくまだ、取り返しはつくわ。まりもを助けたクォヴレーという男は「お前は死の因果に囚われかかっていた」と言ったのよ。いい? 「囚われかかっていた」。「囚われている」じゃなく、「囚われかかっていた」。この違いが分かる?」「それって……」「囚われかかっていた」。素直にその意味を取れば、「囚われていたのは過去のことであり、今はそうではない」ということになる。 それは、武にとって真っ暗闇に差し込む一筋の光明にも感じられる言葉だった。 僅かに頬に赤みが指した武の顔を椅子の上から見上げ、夕呼は一つ頷く。「そう。そのクォヴレーという男の言葉が正しければ、今のまりもは死の因果に囚われていない可能性が高いわ。実際、まりもは昨晩意識を取り戻してからは、命の危機に瀕するような目に遭っていないみたいだし、おそらくその言葉に嘘はないでしょう」 夕呼の保証に、武はその場でへたり込みそうになるくらいの安堵感を覚えた。「そうか……よかった」 だが、夕呼は厳しい表情を崩さないまま、武への追求を緩めない。「まりもに関しては、ね。でも、このままなら、同じ事が他の人間にも起こらないとは限らないわ。あんた、「こっち」の知り合いで「あっち」で死んだ人間は他にはいない?」 少し考えてから、武は一つ首を縦に振った。「大丈夫、だと思います。世界全体では何十億人も死んでるとか、日本だけでも3600万人が死んだとか、話では色々聞いてますけど、直接俺が見たのは、その、まりもちゃんだけですから」「そう……」 短く言葉を返しながら、夕呼は手を顎にやりながら考えていた。拙い。あくまで最悪の可能性だが、武の知識に「あっち」で数十億人が死んでいるという事実がある以上、いずれこちらにその数十億人分の「死の因果」が流れ込まないという保証はない。 冗談ではなく、本当に世界の危機だ。 一方、まりもの死という最悪の可能性が遠ざかった事を理解した武は、少し思考がクリアになる。その多少は回転速度を取り戻した頭で、先ほどの情報を思い出してみた武は、巨大な疑問点が放置されたままになっていることに気がついた。「あの、それで、そのクォヴレーって人、何者なんですか? どう考えてもただ者とは思えないですけど」 単にまりもを暴漢から救っただけならば、「通りすがりの正義感が強い人」だろうが、その後「死の因果」などと言う話をした以上、単なる通りすがりという可能性は無い。それに、なぜ「死の因果」に囚われたはずのまりもが助かったのだ? まりもの死が「因果律」によって導かれるものであるならば、尋常な手段ではその運命は曲げられないはずだ。まさか、それもクォヴレーという男が何かやったのだろうか? その武の問いに、夕呼は当てが外れたと言わんばかりに一つため息をつく。「それはむしろ私からあんたに聞きたい事だったんだけどね。その様子だと、あんたも知らないのね? 見た目は、銀髪の西洋系。年はあんたと同じくらいかちょっと上くらい。服装は、白と青の全身レオタードにみたいな感じだそうよ。心当たりは無い?」「はい、ありません」 武は考えるまでもなく即答した。そんな目立つ外見の男、見知っていれば絶対に忘れるはずがない。強いて言えば「青と白の全身レオタード」というのが、衛士強化装備を連想させるが、それだけで「あっち」の世界関係者と考えるのはあまりに安直だろう。ただのレオタードで夜の街を練り歩くのが趣味の一般人、と言う可能性だってある。「そう、あんたに心当たりがないとなると、本格的に謎ね。後は本人に直接聞くしかないか」「直接って、どこにいるか分かっているんですか?」「いいえ、現時点では不明よ。だから、御剣に頼んで御剣財閥の力で探してもらっているわ」 幸い、クォヴレーは神宮司まりもの命の恩人だ。「ぜひ、直接礼を言いたい」という表面上の理由だけで十分な説得力がある。 義理堅い上に、金銭感覚が常人と違う冥夜は、快く引き受けてくれた。現在すでに、御剣財閥の人間が町中に散らばり、クォヴレー・ゴードンの探索に回っているのだという。「とにかく、あんたが『因果導体』であるのならば、今後も因果の流出入が起きる可能性は高いわ。はっきりって何が起こるかは、全く予測が付かない。だから、いい? 何か異変があったらすぐに私に知らせなさい。私も『クォヴレー』と連絡がついたらあんたも呼ぶから、すぐに連絡がつくところにいるのよ」「わ、分かりました」 事態の深刻さは十分に理解しているのだろう。武がゴクリとつばを飲み込むと、素直に首肯するのだった。【西暦2001年、日本時間12月14日12時58分、横浜市海岸付近、ディス・アストラナガン、コックピット内】 特機、ディス・アストラナガンとパイロット、クォヴレー・ゴードン。 この世界ではもちろん、元の世界でもあまり知名度がなかったこの組み合わせだが、実のところその戦闘力は、反則的に高い。 世間の基準で反則級が平均値と言われるαナンバーズの特機の中でも、ディス・アストラナガンは間違いなく最上位グループに区分される。 主機関、負の無限力を糧とする『ディス・レヴ』の出力には理論上上限はなく、稼働限界時間も存在しない。 常時張り巡らされる防御フィールド――ディフレクト・フィールドは、あらゆる攻撃に対し有効であり、生半可の攻撃ではこのフィールドを貫くことはできない。また、ディフレクトフィールドを抜けたとしても、ディス・アストラナガンの装甲は特機の平均と比べても十分に強固で、有効なダメージを与えることは難しい。 さらに、ディス・アストラナガンには自己修復機能もあるため、時間が立てばそのダメージも簡単に回復してしまうという反則さだ。 攻撃力も、近接戦闘用の鎌『Z・Oサイズ』、遠隔誘導兵器『ガン・スレイヴ』、強力なエネルギー砲『メス・アッシャー』と隙無くそろっており、さらに最強の必殺技である『アイン・ソフ・オウル』に至っては、敵対象を強制的に時間逆行させることにより、存在そのものを抹消するという防御不能の殲滅技だ。 さらに、それを操るクォヴレー・ゴードン自身もただ者ではない。 元は地球と敵対する宇宙の巨大勢力『ゼ・バルマリィ帝国』で作られた人口クローン生命体であるクォヴレーは、地球連邦に対する潜入工作員として、広い分野において高いスキルを有している。 さらに、先代の「平行世界の番人」であるイングラム・プリスケンをその身に取り込んだことにより、彼の知識・スキルを断片的にではあるが己のモノとしており、その力量は奇人変人の巣窟であるαナンバーズのパイロット達の中でも、十分にエースと呼ばれるに相応しいだけのものとなっている。 圧倒的な超兵器と、その力を十全に発揮しうる高レベルなパイロット。その力は、まさに脅威の一言だろう。冗談でなく、一機で世界の勢力図を一変させうるだけのポテンシャルがあるのだ。 だが、当然であるが、ディス・アストラナガンは完全無欠というわけではなく、クォヴレー・ゴードンも全知全能にはほど遠い。たとえ、常人の数十倍、数百倍出来ることがあったところで、出来ないことの方が圧倒的に多いのが現実だ。 そして、「平行世界の番人」として、最初の仕事を果たすべく昨日、この世界に降り立ったばかりのクォヴレーの前に、早速ディス・アストラナガンの力を持ってしても解決できない、極めて強大な問題が立ちはだかったのであった。「平行世界の番人」とか「機動兵器パイロット」としての問題以前の問題。1人の人間が文明社会の中で生きていく上で、必然的に生じる最初の問題。 平たく言えば、「この世界の金が無い」という致命的な事実に、今更ながらクォヴレー・ゴードンは気がついたのであった。「参ったな。携帯食料は、一週間分か。切り詰めれば十日は持つか? 水は公園で調達できるようだからどうにかなるが、やはり一週間や十日で因果律の歪みを修整できると考えるのは、楽観的すぎるだろうな」 ディス・アストラナガンのあまり広くないコックピット中で、ありったけの物資を並べ立てたクォヴレー・ゴードンは、右手で頭を掻きながら、深いため息をついた。なにせ、『霊帝ケイサル・エフェス』との最終決戦直後、まっすぐ転移してきたのだから、用意らしい用意は何もない。現在のクォヴレーの持ち物は、ディス・アストラナガンを除けば、僅かな携帯食料と無重力用のドリンクボトル。後はハンドガンが一丁に幾つかの修理・工作道具くらいのものである。 当面の生活を支えるのに役立ちそうなものは少ない。「そうなると、やはり働くしかないか。問題は、この国は戸籍管理がしっかりしていると言う点だな」 2000年代の日本で、戸籍のない見るからに外国人であるクォヴレーの働き口はないと言っても過言ではない。 ある意味、クォヴレーにとっては最悪の時代と言えよう。もう少し前の時代であれば、戸籍管理ももっといい加減であっただろうし、もっと後の時代であれば、戸籍管理が完全電子化されていたはずだ。 元々、平行世界を飛び回り、星の位置から時代と場所を特定できるディス・アストラナガンのコンピューターは、200年後の基準で見ても、かなりのハイスペックを誇っている。電子化された戸籍であれば、クラッキングで偽造も可能だっただろうが、生憎この世界の戸籍管理は未だに紙である。素人に偽造は難しい。 しかし、それを理解した上でも、クォヴレーにはまだ、十分な勝算があった。 確かに、戸籍を入手出来るのが最善であるが、仕事さえ見つかれば当面戸籍は無くても問題ないのだ。「どれほどの管理社会でも、必ず非合法の世界というは存在するはずだ」 そう呟きながら、クォヴレーはディス・アストラナガンのコンピューターを操作し、この世界のネットワークにアクセスした。一体どのような経路を通ってこの世界のネットワークにアクセスしているかは、正直なところクォヴレー自身理解していないが、問題はない。 どのみち、どんな経路でも「不法アクセス」であることには間違いないのだし、かといってアクセスを止めるという選択肢も存在しないのだ。「平行世界の平和」を守るためならば、多少の違法行為は黙認されるべきだろう。 最初は、勝手の違うこの世界のインターネットに苦戦していたクォヴレーであったが、やがて目的としていた情報を入手することに成功する。「やはりな」 薄い唇の端を歪め、クォヴレーはにやりと微笑む。もくろみ通り、この世界にも戸籍を必要としない仕事の求人は存在していた。 まず、クォヴレーは慌てず、一般的なネット販売のホームページを開き、この世界の平均的な物価を確かめる。 そうやってこの世界の情報を入手すると共に、求人情報を絞り込んでいったクォヴレーは、最終的に三つまで候補を絞る事に成功したのだった。『アルバイト募集中! 職種:電話対応。 経験は問いません。こちらの指示通りに電話をかけて対応するだけの簡単な仕事です。 ※多少の演技力が必要とされますが、演技指導の用意もございます』 このバイトは、料金と拘束時間の兼ね合いでは一番魅力的に見えた仕事だ。問題は『多少の演技力が必要』とされるという点だろうか。元潜入工作員としては情けない話だが、クォヴレーは演技力にはあまり自信がない。『綺麗な女性に囲まれて、働いてみませんか? 当店では、常時男性接客員を募集しています。容姿、スタイル、話術に自信のある男の方。貴方のその才能を当店でお金に換える気はありませんか? 当店では、お客様を厳選しておりますので、客先とのトラブルには万全のアフターサービス態勢を取っています』 こちらは時給の高さが魅力だ。問題は拘束時間が不規則で、時間延長(残業というやつだろう)が多く存在するという点だ。延長時間も時給は発生するらしいので、金銭的には良いのだが、そのために肝心の「因果律の乱れ」調査に支障を来しては本末転倒である。『出演者募集中。 ローズダイヤモンド映像では、キャスト・エキストラを募集しています。映像に興味のある方、お金が必要な方、歓迎。 あなたもこれを機会に、思い切って新たな世界に飛び込んでみませんか?』 最後のこれは、拘束時間の短さが魅力だ。男はエキストラ出演しか募集していないので金銭的には安いが、その場で支給されるというのがありがたい。問題があるとすれば映像出演という形で自分の姿が記録されてしまうという危険だが、要相談の欄に希望する者は『目にモザイク』を入れる事も可能、となっているので一考の価値はあるだろう。「さて、どれにするか。いずれにせよ早く決めなければならんな」 クォヴレーは、真剣な面持ちで腕を組み、『振り込め詐欺』『無許可出張ホスト』『裏ビデオ出演』の三択問題に頭を悩ませていた。 それから30分ほどたった頃だろうか。 どうにか、三択問題に答えを出したクォヴレーは、海中にディス・アストラナガンを隠すと、昼の横浜市内を歩いていた。生憎ディス・アストラナガンのコンピューターにプリントアウト機能はないので、これから向かう先の道のりは頭の中に叩き込んできた。 元々、兵士として訓練を受けているクォヴレーは、短時間でマップを記憶する能力も身につけている。幸い、目指す先は同じ横浜市内の繁華街だ。徒歩でも、一時間以内でたどり着けることだろう。 念のため、ドリンクボトルと一日分の携帯食料を腰のポーチにしまったまま、クォヴレーは真昼の横浜市内を堂々と歩いていた。 青と白のパイロットスーツ姿の自分が、この世界ではかなり目立つ存在であるという自覚はあるが、着替えも着替えを買う資金もないクォヴレーに選択肢はない。むしろ、こういうときはへたにこそこそするほうが拙いのだと考えたクォヴレーは、まるっきり自分の格好に疑問を持っていないような足取りで、悠然と赤い煉瓦の敷き詰められた遊歩道を進む。「とはいえ、やはり目立つな。なんとか頼み込んで、給料を前借りして着替えを買うべきか。それが無理ならば、今日から働かせてもらうしかないな」「平行世界の番人」とは思えないくらい、貧乏くさい切実な悩みを口にしながら、クォヴレーは歩み進む。 徒歩で一時間弱と言う距離は、軍人として鍛えられたクォヴレーにとっては大した距離ではない。「しかし、イングラムはこういった問題をどうやって解決していたのだ? やはり、何らかの形で現地の協力者を得ていたのだろうか。それとも今の俺のように、最初はしばらくアルバイトで糊口を凌いでいたのだろうか」 歩きながら、クォヴレーは青い長髪を靡かせた自分の前任、先代平行世界の番人、イングラム・プリスケンについて考える。 もし、訪れる平行世界の先々で上手いことやるコツのようなものがあるのなら、教えて欲しいものだ。切実にそんなことを考えながら、歩いていたクォヴレーの耳に、なにやら異様なエンジン音が聞こえてきたのはその時だった。「ッ!」 反射的に身構えるクォヴレーの前で、黒塗りの高級車が前の十字路を左折してこちらに向かって来た。「馬鹿な、空間歪曲技術だと!?」 その動きを見たクォヴレーは、思わず驚きの声を上げる。200年も前のこの世界に、空間歪曲技術が実用化されていたとは。信じがたいが、今目の前で起きた現象は、そうとしか考えられない。 なにせ、クィヴレーの横に止まったこの黒塗りの車は、見積もっても軽く全長50mを超えているというのに、今さっきこの車は、二車線しかない車道で、十字路を普通に直角に曲がってきたのだ。「ッ、例え200年前でも日本ということか」 軽く握る拳の中に、ジンワリと汗を掻きながら、クォヴレーはそううめき声を漏らした。 以前、αナンバーズの皆から聞かされていた『特異技術のデパート日本』の異名を思い出しながら、薄い唇を噛むクォヴレーの前で、長大な高級車の助手席側のドアが開かれ、1人の女が姿を現す。 赤いメイド服に白にエプロン。長い緑の髪を頭頂部でお団子にして纏めている、若い女だ。 一見すると、ただの美人メイドにしか見えないが、その足運びには隙がない。逃げるべきか、様子を見るべきか。クォヴレーが決断できないでいるうちに、女はしずしずとした足取りでクォヴレーの前までやってくると、穏やかな笑みを浮かべながら口を開く。「クォヴレー・ゴードン様ですね? 昨晩は神宮司様をお助けいただきありがとうございました。その件に関しまして、直接お礼を言いたいというものがいるのですが、ご同行願えないでしょうか」 緑の髪のメイド――月詠真那は淀みない口調でそう言うと、警戒心を露わにしているクォヴレーに対し、ゆっくりと頭を下げるのだった。