Muv-Luv Extra’ ~終焉の銀河から~第三章【西暦2001年、日本時間12月15日15時30分、白陵大付属柊学園3年B組教室】 昨日に続いて担任の神宮司まりもが休みを取った3年B組の教室は、帰りのホームルールの時間、教壇には代役のクラス委員長・榊千鶴が立っていた。「ほら、うるさくしないでっ、すぐ終わらせるから。って、彩峰さん! 何一人で先に帰ろうとしてるのよ!」 黒板の前に立つ千鶴は二本の太い三つ編みを揺らし、神経質な怒鳴り声を上げている。 怒鳴られたのは、制服越しにもそのスタイルのよさが分かるグラマラスな肢体を持つ、黒髪の少女だ。 鞄を右手に持ち肩にかけて、今まさに教室を出ようとしていた少女――彩峰慧は、どこか焦点の合ってないぼうっとした視線を千鶴に向けると、空いている左手をヒラヒラ振りながら、棒読み口調で答える。「気にしない、気にしない」「気にしない、じゃないでしょ! まだ、帰りの号令がすんでないんだから、ちゃんと席について!」「一休み、一休み」 千鶴の怒鳴り声など歯牙にもかけず、彩峰は人を食った言葉を吐きながら、とっと一人で教室から出て行ってしまう。 まあ、その時の気分次第で授業もサボる彩峰慧が、担任教師もいない帰りのホームルームを真面目にこなすと期待する方が、おかしいのかも知れない。 出来ればこのまま追いかけて、彩峰の襟首をひっつかんで引き戻したい千鶴であったが、クラスメイト達の視線が「早く終われ」と圧力をかけてきている。「ああ、もうっ。起立、礼!」 特に通達事項もないこの日の帰りのホームルームは、苛立った千鶴の声を合図に終わりを告げるのだった。「なにかあったら、すぐ連絡しろって夕呼先生は言っていたけど、今のところは何もないよな」 昨日からの騒ぎから、緊張感を持って一日を過ごしていた武は、少し気が抜けた声でそう呟き、席を立った。 何もなかったとしても、放課後は必ず一度物理準備室に顔を出すよう、夕呼から言われている。無論武としても否はない。昨日は、自分のせいでこっちの世界の神宮司まりもまで危うく死なせるところだったのだ。 因果導体による因果の流出入問題が解決するまで、自分に安らかな夜は訪れないだろうことは、武も自覚していた。 椅子にかけていた鞄を手に持ち、武が教室を出て行こうとしたその時だった。 「武、すこしよいか?」 武の背中に一人の少女が声をかける。「ん? なんだ、冥夜」 席を立とうとした武に後ろから声をかけてきたのは、御剣冥夜だった。 長い藍色の髪をアップに纏め、凛とした表情で小気味よく背筋を伸ばして立っているその姿は、相変わらず人目を引きつける、非凡な何かを醸し出している。 武は、クルリと後ろに向き直る。「うむ。そなた、明日時間は取れるか?」 武と正面から眼を合わせたまま、冥夜はいつも通りの凛とした表情で、明確に質問を投げかける。「明日?」 唐突な申し出に、武は少し考えた。 明日は日曜日だ。せっかくの休日だが、今の武には何にも優先してしなければならないことがある。自分が『因果導体』となった問題を一刻も早く解決しなければならない。 今のところは、クォヴレー・ゴードンとディス・アストラナガンの協力で事なきを得ているが、彼等がやっているは、流入してくる死の因果がこの世界の人間を襲う前に吸収するという対処治療。 根本的な解決手段ではない。「ああ、明日はちょっと夕呼先生に呼ばれてるんだ」 武の返答に、冥夜は少し眉をしかめる。「む、そうか。それは残念だな。全く時間が取れないのか?」「あ、どうだろ? 全くだめってことはないと思うけど」 至極残念そうな顔をする冥夜に、武が思わず反射的にそう答えていた。 とはいえ、言った言葉自体は嘘ではない。明日も夕呼とクォヴレーと会い、今後の対策について話し合わなければならないが、何か劇的な変化でもない限りは、休日が丸々潰れるという事態にはならないだろう。 武は少し楽観的にそう考える。「そうか、ならば用事が済んだ後でよいから、私の部屋に来てはくれぬか。明日はそなたの誕生日であろう。贈り物は直接手渡しにしたい」 冥夜はそう言って、邪気のない笑みを浮かべた。「あっ」 言われて武は初めて気がついた。(そうか、こっちの世界では今日が12月16日なんだよな) 向こうの世界の12月10日から、こっちの世界の12月13日へ飛んでいるため、若干日付感覚が狂っているうえ、向こうでは自分の誕生日を祝うような余裕など、どこにもなかったため、すっかり忘れていた。(この場合、俺は一歳年を取るのか? ていうか、そもそも俺は今何歳だ?) 2001年12月16日の誕生日を、自分は何度迎えているのだろう? 最初の世界で一度。BETAの居る世界で一度。そして今。 三度も同じ歳の誕生日を迎えた経験のある人間など、自分くらいのものではないだろうか。 考えたら武は少しおかしくなった。「武? そなた何を笑っているのだ?」「いや、なんでもねえよ。分かった。ちょっと遅れるかも知れないけど、絶対行くぜ。あ、そう言えば、俺が誕生日って事は冥夜も誕生日なんだよな? プレゼントの希望はあるか。予算はその……乏しいけど」 ポリポリ鼻の頭を書きながらそう言う武の言葉に、冥夜は花がほころんだように笑顔を浮かべる。「なんと、武からのプレゼントか。なんでもよいぞ。強いて言えば、常に身に付けてられるものがよい。そうすれば常にそなたを身近に感じられる」 常に身につけてられる物。とっさに指輪やネックレスといったアクセサリーのたぐいを連想した武であったが、すぐにその身の程知らずな考えを振り切った。 御剣財閥の次期党首に贈るアクセサリーなど、最低ラインでもサラリーマンの生涯年俸が吹き飛ぶのではないだろうか。 武は開き直って考え直す。(んー、確か駅前で時たま、手作りアクセサリーの露天広げてる外人がいたよな。もしいなかったらゲーセンの景品でもイイか) 武の感覚で言う、「安物」と「奮発した高級品」など、冥夜の感覚ではどちらも「びっくりするほどの安物」に違いはないだろう。ならば値段にこだわる意味はない。 武が真剣に選んだ物ならば、冥夜は喜んで受け取ってくれるだろう。「わかった。身につけられる物な。探してみるわ。しかし、今年の年末は忙しいな。明日が俺とお前の誕生日で、その後は温泉旅行だろ。そこから帰ってきたらクリスマスだもんだ」 武は、『因果導体』関連の問題を今だけでも忘れようと、わざと明るい口調でそう冥夜に話しかける。 だが、対する冥夜の反応は武の予想とは大きくズレものだった。「温泉? そなたは温泉に行くのか? 誰というのだ、ま、まさか鑑とか?」「……え?」 全く聞き覚えがない、と言わんばかりの冥夜の反応に、武は一瞬惚けた。(どういうことだ? あ、ひょっとしてこっちの世界では、温泉旅行の話は出ていないのか?) 考えて見れば、あり得ることだ。 たしか「向こう」の世界の夕呼は言っていた。『これから送り込む世界は、あんたの言う元の世界から分岐した別の世界だ』と。 この世界は、一見すると武が生まれ育った『元の世界』そのものに思えるが、実際には『分岐した別の世界』なのだから、細部に多少の違いはあるのかも知れない。「ああ、いや、なんでもねえよ。俺の勘違いだった。すまんすまん、じゃあな!」 これ以上話していると更にぼろが出るかもしれない。 「あっ、武?」 冥夜を振り切り教室を出て行く武は、改めてこの世界が本来自分の世界ではないことを、自覚するのだった。 【西暦2001年、日本時間12月15日15時42分、白陵大付属柊学園物理準備室】「すみません、遅くなりました」 武が物理準備室に入ると、夕呼はいつも通り、黒いレースのチューブトップの上から白衣を羽織った扇情的な格好で、パイプ椅子に腰をかけて待っていた。「ああ、やっと来た。それで、なにか変化はあった?」 武の緊張感のない表情から、返答を半ば予測しながらも、夕呼はそう問いかける。「いえ、特にこれと言ったことは何も」 武は部屋の隅に立てかけてあるパイプ椅子を持ち出して、夕呼の前に座りながら、そう答えた。「そう、小康状態ってことかしらね」「あの、そっちは、何か判明しましたか?」 昨晩、ディス・アストラナガンによる死の因果吸収を済ませた後、武は一人自宅に戻ったが、クォヴレーと夕呼はその後も行動を共にしていたはずだ。 それ故の武の質問であったが、夕呼は面白くなさそうに首を横に振る。「ダメね。これといった進展はないわ。まあ、個人的な収穫はあったけれどね」 因果地平の番人であるクォヴレーの話は、因果律量子論を研究する夕呼にとっては、それなりに有意義な知識もあったが、残念ながら当面の問題――因果律の流出入への対策には役立たなかった。 日頃は自分の好奇心と知識欲を最優先に行動する夕呼だが、今はなにを最優先にすべきかは理解している。「そうですか……」「まあ、いいわ。とにかく、後でまた海岸に行くわよ。念のため、毎日死の因果を吸収してもらわないと」「あ、は、はい」 夕呼の言葉に武は、改めて緊張感を取り戻した表情で神妙に頷く。 ディス・アストラナガンの主機関『ディス・レヴ』ならば、例え武の自宅と海岸くらいの距離は無視して死の因果を吸収できる可能性が高いそうだが、一応距離をつめておくに越したことはない。 夕呼が机の上から愛車の鍵を手に取り、立ち上がる。 武も慌ててその後を追おうとしたその時、武はふと教室での冥夜との会話を思い出した。「あ、そうだ、夕呼先生。後でいいからこの世界の俺の行動を、分かる範囲で教えてくれませんか? どうやら、俺の元いた世界と若干違っているところがあるみたいで」 先ほどの温泉発言は強引にごまかしたが、あんな力業を何度も繰り返していては、不信感を招くだろう。「ああ、なるほどね。よく似た平行世界の些細な違いって奴ね。で、何が違ってたのよ」 夕呼も指先でクルクル鍵を回しながら、いつも通りの口調で聞き返す。だが、そんな夕呼の表情が武の次の発言で一変するのだった。「いやあ、それが俺の世界ではこの時期、夕呼先生の発案で有志一同の温泉旅行があったんですけど、うっかり冥夜にその話をしたら、全然知らないって反応で……って、先生? どうしたんですか?」 気がつくと、夕呼は怖いくらいに真剣な表情で武の方を見ていた。「詳しく話しなさい」 夕呼は、乱暴に愛車の鍵を机の上に戻すと、再びパイプ椅子に腰を下ろすのだった。 根掘り葉掘り、冥夜の発言を聞き出した夕呼は、メモ用紙にその内容をメモしながら、奥歯をかみしめるように一度、口元を歪めた。「なるほどね……。まず結論から言うわ。その温泉旅行に関する話は、こっちの世界でも、あんたの記憶と全く同じ流れのはずよ。少なくとも私は、白銀に参加者を集めるように命令したし、白銀もついこの間、御剣達が参加すると私に報告して来ていたわ」「……え?」 武にはしばし、夕呼の言っている意味が分からなかった。「それじゃあ、冥夜のど忘れってことですか?」 夕呼は、こちらを睨み付けるような真剣な面持ちのまま否定する。「あり得ないわね。あの御剣があんたと一緒の温泉旅行を『忘れる』なんて」 確かにその通りだ。 うぬぼれるわけではないが、この世界の冥夜は、全ての事象を白銀武中心に考えて動いている。 その冥夜が、よりによって武が参加する温泉旅行の話を忘れるなど、考えられない。「そ、それじゃあ……」「これも因果導体の影響、と考えるべきでしょうね」「そ、そんな……」 武は眼に見えて、顔色を失った。「『向こう』から『こっち』に流れ込んできたのが死の因果。一方、『こっち』から『向こう』に流れ出るのが、記憶の因子ってところかしら」 夕呼は、冷静な表情を保っているが、先ほどからずっと貧乏揺すりが止まらない。 だが、夕呼以上に冷静を失っている武は、夕呼の動揺に気づかなかった。「白銀」「はいっ」「酷なことを言うようだけど、出来るだけあんた、知り合いと接触しないようにしなさい。まりもの事件も、冥夜の記憶喪失も、あんたとの接触がトリガーになっている可能性が高いわ」 死の因果の流入は、クォヴレーがどうにか食い止めてくれているが、記憶の流出の方は今のところ対策手段がない。「わ、分かりました……」 一目で分かるくらいに顔色を失ったまま、武は力なく頷いた。「そ、それで、いつまで避けてればいいんですか?」「…………」 武の質問に夕呼は、口を閉じたまま答えない。「先生っ!」「分からないわ」「えっ?」「分かるはずないでしょ。私も今あんたから話を聞いたばかりなのよ。私だって全知全能じゃないのっ」 感情を剥きだしにして怒鳴りつける夕呼の様子に、武は恐縮して頭を下げた。「す、すみません」 そのため、気がつかなかった。 夕呼の視線がさっきから何度も、部屋の片隅に積み上げられている、前回武がこの世界に来たときにコピーを取らされた、五万枚近いコピー用紙の方に向いているのも。 口の中で何度も、憎々しげに「やってくれるじゃない、向こうの世界の『私』」と呟いているのも。「まあ、いいわ。気休め程度だけど、こっちでも対策は考えておくから。とにかく、まずはディス・アストラナガンの所に行くわよ。記憶の流出も深刻だけど、死の流入はそれ以上に深刻なんだから」「はい、分かってます……」 気を取り直したように、声を抑えて再び立ち上がる夕呼の背中に、武も力ない足取りで続くのだった。【西暦2001年、日本時間12月15日16時22分、横浜海岸】「そうか、記憶がな」 夕闇の浜辺で、ディス・アストラナガンによる死の因果吸収を終えたクォヴレーは、武と夕呼から事情を聞き、その細い眉をしかめていた。「ああ……その、何とかならないか?」 まずは死の因果の吸収が先決、と夕呼に言われていた武は、今まで我慢していた疑問をクォヴレーに投げかけた。 記憶の流出も因果律の乱れが原因であるのだとすれば、この自称『因果律の番人』は何か解決手段を持っているかも知れない。現に、死の因果の流入という大問題を対処療法的にとはいえ、食い止めてくれているのだから、武がすがってしまうのも無理はあるまい。 だが、クォヴレーは無情にも、その銀色の頭髪を揺らし、首を横に振るのだった。「いや、すまないが、俺にもすぐには解決手段は思いつかないな」「そうか……いや、俺が無理を言った」 赤い夕陽の下でも分かるくらいに顔色を悪くしている武の様子に、クォヴレーは黙っていられず、励ましの言葉を口にする。「諦める事はないぞ、武。この世の中、不可能なことと言うのは、お前が思っているより遙かに少ないものだ。解決手段は必ずある」 それは、クォヴレーの本心からの言葉だった。 そう、確かにこの世には、どうあがいても不可能なことも存在する。 だが、それは世間の常識で『不可能』とされている中のほんの一部に過ぎないのだ。 サイボーグとして死ぬはずだった人間が、超進化人類として復活することもある。 生物の生体エネルギーを無限に吸収する化け物を、歌で改心させた歌手もいる。 αナンバーズの一員であるクォヴレー・ゴードンは知ってる。 この世界の『絶望』と呼ばれる状況の八割は覆しようがあり、『不可能』と呼ばれるものの九割は、可能であることを。「そうか、そうだよな。ただ忘れてるだけだもんだ。ありがとう、クォヴレー。ちょっと気が楽になった」 クォヴレーの言葉に虚がないことが分かったのか、武は顔色はまだ悪いものの笑顔を浮かべて、礼の言葉を返した。「そうだ、武。失われた物は取り戻せばいい。単純な話だ。俺も出来る限り協力しよう。それで、記憶の流出というのは、どの程度起きているのだ?」 途中でクォヴレーは、視線を武からその後ろに立つ夕呼に移す。 夕呼は白衣の腰に左拳を当てたまま、肩をすくめて答えた。「現状は、一人の記憶がごく一部失われているだけ。今後どこまで進行するかは、分からないわ。最悪の予想としては、白銀武の親しい知り合いが、『ごく一部』を除いて白銀武に関する全ての記憶を失う可能性がある、と言ったところかしら」「…………」 この世界で全ての人間が、自分の記憶を失う。 夕呼の語るあまりに暗い未来に、武はまた言葉を失った。「そうか……ん? 親しい知り合い? ならば、香月お前は……」 何かに気づいたように、クォヴレーが言いかけるが、武の後ろで夕呼が口元にピンと立てた人差し指を当てているのを見て、言葉と途中で呑みこんだ。「クォヴレー? どうかしたか?」「いや、なんでもない。それで、武はこの後どうする、帰るのか? 近所にはその御剣冥夜、鑑純夏という女が住んでいるのだろう」「あ、そうか。先生?」 クォヴレーの指摘で改めて問題に気づいた武は、夕呼に助言を求める。 夕呼は少し考えた後に答えた。「普通に帰った方が良いでしょうね。下手におかしな行動を起こすと、御剣や鑑が騒ぎ出すわ。かえって面倒なことになりかねないし」 現状、何が記憶流出のトリガーなのか、はっきりとは分からないのだ。五里霧中のままで下手な動きはやめておいた方が良い。「分かりました。あ、そう言えば、向こうの世界にはなぜか純夏だけいないんです。それでも、純夏も記憶喪失になるんですか?」「そうね……それが本当で、私の仮説が正しければ、鑑はあらゆる意味で一番安全な人間、といえるでしょう。向こうに自分が存在しない以上、死の因果が流れ込むこともないし、向こうに受取手がいないのだから記憶の流出が、起きることもないわ」「そうですか」 武はこの日、この場に来てから一番ホッとした表情を浮かべた。 たった一人でも、鑑純夏だけでも、自分のことを覚えていてくれる。それだけで、武の心は随分と救われる気がした。「それじゃ、俺帰ります」「ああ、気を落とさないようにな。俺も可能な限り力になる。解決手段は必ずあるはずだ」「気をつけて帰りなさい。さっきの仮説はあくまで仮説に過ぎないんだから、鑑だからって必要以上に近づくんじゃないわよ」「分かってます、それじゃあ」 そう言うと武は、一足先に帰っていった。「…………」「…………」 残されたクォヴレーと夕呼はしばし、無言のままゆっくり去っていく武の背中を見送る。 その沈黙を破ったのは、クォヴレーの方だった。「それで、先ほど止められた質問を今一度、させてもらうぞ。白銀武の親しい者から白銀武に関する記憶が流出するというのなら、香月夕呼もその例外ではないのではないか?」 先ほど、夕呼に無言のまま途中制止された質問を今一度繰り返す。 夕呼は、夕日で赤く染まる顔をあくまで無表情に固定したまま、小さく肩をすくめて答えた。「いいえ、私は例外の一人よ。私は対策を取っているから」「対策?」「ええ。コピー用紙四万枚に渡る白銀武の情報。私はそれを毎日読んで、白銀の情報を補充しているわ。だから、多少記憶が流出しても大丈夫」「……用意周到だな。この結果を予想していたのか?」 それにしては、白銀武に何も忠告していなかったのは何故だろうか? 若干の不信感を抱きながら、クォヴレーは夕呼を問い詰める。 夕呼は、嫌悪感で顔を歪めると吐き捨ているようにして答えた。「ええ、私じゃなくて、『向こうの私』がね。まったく、さすが私だわ。他人を自分の都合で振り回すことに長けているわね」 自嘲と言うには苦いものが混ざりすぎている夕呼の言葉に、クォヴレーは一瞬言葉を失った。 昨晩のうちに、BETAという異星起源生命体に襲われる別世界の話は全て聞いているクォヴレーはただ、「そうか」と相づちをうつだけだった。「ならば当面、武と接触して問題がないのは、俺とお前だけということか」 クォヴレー自身は平行世界、因果地平の番人だ。因果律の支配から外れたところに位置しているし、そもそも『向こうの世界』とやらに、クォヴレー・ゴードンは存在しない。 クォヴレーの言葉に夕呼は首を横に振る。「いいえ、最低でも確実なのが一人、ほぼ確実なところで後二人いるわ」「どういうことだ?」 予想に反する夕呼の言葉に、クォヴレーは頭を悩ませる。 夕呼は、クォヴレーが答えを出すより早く、その疑問に答えた。「さっきも言ったでしょう。『向こう』に受取手がいない者の記憶は流れない可能性が高いって。鑑純夏が向こうに最初から存在しない、って言うのは向こうの私の言葉らしいから、正直全く信用できないけど、今現在は確実に向こうに存在していない人間がいるわ」 そこまで言われればクォヴレーも、さすがにピンと来た。「そうか、神宮司まりも」「ええ。まりもの死の因果は既にあんたが取り払ってくれたから、まりもは死なない。でも向こうのまりもは死んでいるから、記憶の流出も起きない。だから、逆に厄介なんだけどね」「厄介? 何故だ。それは武にとってはせめてもの救いになるのではないか?」 当然と言えば当然なクォヴレーの疑問に、夕呼はもう一度首を横に振る。「厄介よ。考えて見て。まりもは白銀の担任なのよ。 ある日突然、クラスの皆が、ある一人の生徒を最初からいないように扱う。全員がそう扱えば、むしろ問題は起きないわ。当事者である白銀が、原因を理解しているから。 でも、逆にそこで担任の教師だけが、その『いない扱いの生徒』の存在を忘れなかったら? しかも、神宮司まりもという教師は、事なかれ主義のダメ教師じゃなくて、生徒のために全力を尽くす、お人好しで模範的な教師なのよ」「それは……」 確かに大問題だ。一見すれば、極めて陰湿ないじめにしか見えない。 通常の説明で、神宮司まりもを説得することは不可能だろう。神宮司まりもは、全力で白銀武の味方をし、事をどこまでも大きくしてしまう可能性が高い。「まあ、一応は当面ごまかせるように、対策は練ってあるわ。どれくらいの間、通じるかは分からないけどね」 その間に、この問題を根本的に解決するしかないのだ。 ある種、タイムリミットが存在すると考えた方が良い。「なるほどな……それで、ほぼ確実なもう二人、とは誰だ? 先ほどの話の流れからすると、それも向こうでは既に死んでいる人間のようだが」「ああ、それは白銀のご両親よ」 クォヴレーの質問に、夕呼は今度は何でもないことのように肩をヒョイとすくめて答えた。「両親? 武の両親は向こうの世界では死んでいるのか?」「恐らく、ね。はっきりと聞いた訳じゃないけど、向こうの世界ではこの街はBETAの襲撃に遭い、一度全滅しているらしいわ。向こうの白銀はその際に死んでいるみたいね。白銀はその当時まだ学生。となると、一緒に暮らしていた両親も死んでいると考えた方が、自然でしょう。 だから、こっちの世界のご両親は、死の因果に囚われて死ぬ可能性はあっても、白銀武の記憶を失うことはないと思うわ」「……分かった。絶対に、死の因果を逃がしはしない」 夕呼の言葉に、クォヴレーは改めて自分の果たしている役割の重さを自覚し、強く宣言した。 自分が、白銀の両親の死の因果を吸収できれば、最低でも武は両親という最も近い理解者だけは失わずにすむのだ。 もちろん、クォヴレー完全無欠な抜本的解決を目指しているが、万が一そこにたどり着けなった場合を考えれば、最悪の中にも一つでも救いを残しておきたい。「……頼むわ」 視線を合わせずそう言う夕呼の声は、とても小さなものであったが、不思議とクォヴレーの耳に良く響いた。