Muv-Luv Extra’~終焉の銀河から~第四章【西暦2001年、日本時間12月16日11時03分、横浜市白銀家】 「ふわあ……うわ、もうこんな時間か。二度寝したとはいえ、これだけ遅く眼を醒ましたのは久しぶりだな」 日曜日、昼近くまでベッドでゴロゴロしてた武は目を醒ますと、差し込む日差しに目を細めながら、呟いた。 ベッドから身体を起こすと同時に、昨晩のうちに用意しておいた着替えに手を伸ばす。 着替えが異常に早いのは、軍隊生活で身についたスキルだ。 臙脂色のセーターと色の褪せたジーンズに着替え終えた武は、大きく一度深呼吸をしてから両手でバチンと顔を叩く。「ふう……いつまでも、引きこもってはいられねえよな」 意を決したように、武はそう呟いた。 実際のところ、武は朝早くに一度目を醒ましていた。 そこで起床せず、あえて二度寝したのは、単純に部屋から出て、人と会うのが怖かったからだ。 親しい人が、自分の事を忘れる。 最悪、自分の事を覚えている人が一人もいなくなるかも知れない。 夕呼に告げられたその予測は、時間が経つにつれれ、ジワリジワリと武の心を冷たく蝕んでいた。 この家には、月詠真那がいる。三馬鹿がいる。そして、御剣冥夜がいる。 冥夜の記憶は大丈夫だろうか? 結局昨日はクォヴレー達と分かれてから、ゲームセンターで冥夜に贈る携帯ストラップを取ったりしていたせいで、帰りが遅くなり、冥夜とはほとんど顔を合わせなかった。 夜、寝る前に挨拶をした感触では、特におかしな所はなかったのだが。「っと、忘れるところだった」 武は、机の上に置いてあった細長い手の平サイズの紙箱を手に取った。 昨晩、ゲームセンターで取ってきた携帯ストラップだ。 透明な硬質プラスチック製の猫の飾りを、カラフルなヒモで結んだだけのいかにもゲームのオマケといった安物全開の代物だが、冥夜にとってはかえって珍しいのではないだろうか。「まあ、冥夜なら喜んで受け取ってくれると思うけどな」 もっともそれも、冥夜が自分のことを忘れていなければ、の話だ。「……よしっ」 意を決した武は、携帯ストラップの箱を左手に持ったまま、自室から外へと足を踏み出した。「ああ、おはよう、武。今朝は随分とのんびりしていたのだな」 強張った表情で自室を出た武を迎えたのは、御剣冥夜のそんな拍子抜けする言葉だった。「あ、ああ、おはよう。冥夜」 あまりに普通な冥夜の対応に、武は少しどもりながら返事を返す。「む? どうした。そう言えば、昨晩も帰りは随分と遅かったな。夜更かしは感心せぬぞ。起床時間にも支障をきたす」 向こうの冥夜ほどではないが、やはり冥夜は気持ちいいくらいにまっすぐだ。 予想に反した冥夜の普通の対応に、武は肩の力を抜き、笑いかける。「ああ、そうだな。気をつけるよ。そういえば、月詠さん達は?」「月詠達は、私の部屋だ。誕生日パーティの準備をしている」 冥夜の『部屋』とは、この辺り一帯を纏めて買い占めて建てた巨大な屋敷のことである。 あの巨大建築物を『部屋』と言い切る冥夜の価値観は、四つの世界を渡った武にも未だ理解できない。「御剣家の誕生日パーティか、なんだか、凄すぎて想像もつかないな。あ、俺も一応プレゼント用意したからさ」 言いながら、武は細長い箱を持った左手をそっと背中の後ろに隠す。「武からのプレゼントか。楽しみにしているぞ」「ああ。せっかく誕生日が同じなんだからな。後でプレゼント交換しようぜ」 ゲームセンターで取ってきた携帯ストラップと、冥夜からのプレゼントではとんでもない不平等交換な気がする武は、苦笑でその思いをごまかした。 だが、武のその言葉に、冥夜は心底驚いたようにそのつり上がり気味の青い瞳を大きく見開く。「なんと! 武も今日が誕生日だったのか!? そうと知っていればもっとちゃんと用意をしたものを。すまぬ武、しばし待ってくれ。月詠! 月詠はおるか!」「…………え?」 大騒ぎを始める冥夜に、武は声も出せずにただ立ち尽くしていた。 一瞬で口の中がカラカラに乾いており、つばが飲み込めない。両手の指先から血の気が引き、ジンジンと痛む。「ま、待てよ、冥夜。何言ってるんだよ。昨日、お前の方から言ってきたんだろ、明日は俺の誕生日だって!」 もしも記憶を失っている者と直面しても、問いかけてはいけない。武との接触が更なる記憶の流出の要因となる可能性が高いのだから。 昨晩夕呼から聞かされたそんな警告も、今の武の脳裏には残っていなかった。 「む……?」 突然の武の剣幕に、冥夜は戸惑ったような表情で記憶を探る。『白銀武に関する記憶』を思い出そうと、目を瞑り真剣に記憶を探る。 そして、冥夜は一度頭を振ると、きっぱりとした口調で答えるのだった。「いや、やはり初耳だ。武の誕生日が私と一緒だったとは、やはりそなたと私は運命によって結ばれているのだな」 晴れやかな冥夜の笑顔が、武には怖い。「冥夜……」「武? どうしたのだ? 顔色が悪いぞ………」 血の気が引いた武の顔を心配そうに見上げた冥夜は、その途中で、急に視力を失ったように目の焦点をぼやけさせた。「…………」 日頃はキリッと結ばれている口元をだらしなく半開きにさせ、白昼夢を見ているような表情で突如冥夜は黙り込む。「冥夜? おい、どうしたんだよ、冥夜!?」 次の瞬間、冥夜は我に返ったようにいつもの表情を取り戻し、そして呟いたのだった。「ここはどこだ? なぜ、私はこのような所に……」「おい……冥夜……?」「うむ。状況はよく分からぬが、そなたにはご迷惑をおかけしたようだ。かけた迷惑に対する保証は、御剣の名において必ずや保証するので、ご容赦頂きたい」 いつものキリリとした表情。だが、武に向けるその目は「見ず知らずの他人」を見る目だった。「めい……や……」「それでは失礼する。月詠! 月詠はおるか!? 月詠!」 冥夜はクルリと身体の向きを変えると、よどみのない足取りでカツカツと玄関から出て行った。 残された武は、力尽きたようにガクリとその場で膝を折る。 硬いフローリングの床に両膝を痛打したのだが、その痛みも今の武にはほとんど感じられなかった。「あ、はは、ははは……こういうことか。これが、記憶の流出ってやつなのか」 やっと武は、周りの人間が自分の記憶を失うという現象のおぞましさを実感していた。 あの冥夜に、他人を見るような目で見られた感触。思い出すだけで、生きる気力を削られる。「しかも、これ、冥夜だけじゃないんだろ? 委員長とか、彩峰とか、タマとか、尊人とか……」 彼女たちにも「他人を見る目」を向けられて、自分ははたして壊れずにいられるだろうか? 大丈夫なのは、『向こうの世界』に存在しない鑑純夏だけ。 その純夏だって、絶対に大丈夫ではないのだと夕呼先生は言っていた。「そ、そうだ。先生に、夕呼先生に知らせないと。知らせて、対策を練って……」 夕呼の存在を思いだした武は、フラフラと頼りない足取りで玄関に向かう。 半ば無意識のうちに靴を履いた武が玄関のドアを開けると、赤いメイド服をきっちりと着こなした月詠真那と鉢合わせた。 十二月の透明な日差しの下、月詠真那は、怜悧な表情でこちらを見ている。「あ……」 もしかして月詠さんも。そんな思いで固まる武に、月詠はいつも通りの丁寧な仕草で一礼をする。「申し訳ありません、武様。冥夜様からなにか失礼な事を言われたのではありませんか?」「え? 月詠さん?」 この人はまだ、俺の記憶を失っていないのか? 武がホッとしている間に、月詠は困ったように苦笑しながら、手に持っていた一枚のコピー用紙を武に見せる。「その様子ですと武様ご自身は、知らされていないようですね。実は先ほど、郵便受けにこのようなチラシが入ってまして。恐らく、冥夜様もこれを見たのではないか、と」 そう言って、月詠はその紙を武に見せた。「なんですか、これ」 武は何の気なしに渡された用紙に目を通す。『白銀武誕生日記念、【白銀武? 誰それ? ゲーム】開催のお知らせ。 主催:香月夕呼。 期間:本日から一週間。 「白銀武? 誰それ? ゲーム」を開催します。 ルールは至って簡単。一定の期間中、「白銀武を知らないふりをする」だけ。 白銀武を知っているという言動を発してしまった者はアウト。 ゲームをクリアした者にはもれなく【白銀武と丸一日デート権】をプレゼント! さあ、冷たい態度と、強固な理性で、甘い一日を勝ち取ろう。 ※なお、全員が時間内に失格となった場合は、白銀武に豪華賞品が贈られることになっておりますので、白銀武からの妨害が予想されます。ご注意下さい。』「なんじゃ、こりゃ!?」「おそらく、冥夜様はそのゲームに参加されているのだと思われます。ですので、冥夜様がどのような対応を為されたのかは知りませんが、それは決して冥夜様の本意ではなく、武様を思うが故の……」 月詠真那がなにやら一生懸命主のために弁明の言葉を重ねているが、武の耳にはほとんど入っていない。 これは間違いなく夕呼の仕業だ。主催、香月夕呼とわざわざ書いてあるし、例え書いてなくてもこんなくだらないはた迷惑なことをやらかすのは、夕呼しかいないだろう。 だが、今この時期、因果情報の流出は始まったこの時に、ただの悪ふざけでこんな悪趣味なことをやったとは思えない。「すみません、月詠さんっ。俺ちょっと出かけてきます。あ、これ、俺から冥夜への誕生部プレゼントです。渡しておいて下さい!」「あ、武様っ!?」 武は、紙箱に入ったままの携帯ストラップを月詠に押しつけると、全速力で駆け出した。【西暦2001年、日本時間12月16日12時58分、高級マンション、香月夕呼部屋】『せ、先生! 冥夜が、俺のことを忘れて、でもこんなチラシがあって! これって先生のせいですよね? どうなってるんですか!?』 けたたましくなされたインターフォンを取った夕呼の耳にこれ以上ないくらいに動揺した武の声が響く。 思わず顔をしかめた夕呼であったが、どうやら予想通り最悪の方向に事態が動いていることを悟り、すぐに返事を返す。「分かったから落ち着きなさい。今、ロックを開けるから、入ってきなさい。私の部屋は、508号室よ。表札は出てないから、間違えないように」『は、はいっ!』 インターフォンを切った夕呼は、パネルを操作して、マンション入り口のロックを解除した。 俗に言うオートロックという奴だ。こうして内部から操作してもらえば、玄関の鍵は一度だけ開閉可能な状態になる。「一日も持たなかったか。早めに手を打っておいたけど、果たしてどの程度有効かしらね」「どうした? 何かあったのか?」 顎に手をやり、ブツブツと呟いている夕呼に、後ろから若い男の声がかけられる。 一昨日から夕呼の部屋に間借りしている、クォヴレー・ゴードンだ。 クォヴレーは、白のスリムジーンズとブルーのTシャツというラフな格好で、頭をバスタオルで拭いている。シャワーでも浴びていたのだろう。「なにかあったのは確かね。今、白銀が来るわ。あの様子だと、良い報告はなさそうね。覚悟しておいて頂戴」「分かった」 夕呼の言葉に、クォヴレーはソファーに腰を下ろしたまま姿勢を正し、表情を引き締めた。 三分後、白銀武を室内に招いた夕呼とクォヴレーは、武から一連の情報を聞いていた。「なるほどね。御剣から白銀武に関する記憶は完全に消え失せたか。あ、一応断っておくけど、演技の可能性はないわよ。朝一であったときは普通に挨拶したんでしょ? もし、『ゲーム』に参加する気なら、最初から知らんぷりしているはずだから」 渋い表情を浮かべながら、冷静な声でそう言った夕呼は、先ほど自分で入れたコーヒーカップを手に取り、その中身を一口すすった。「わ、分かってます。でも、あのチラシは何なんですか?」 武は震える手で、自分の前のコーヒーカップに角砂糖を落としながら、夕呼に尋ねる。「ああ、『白銀武? 誰それ? ゲーム』のことね。あれは、私の苦肉の策。というか、当てにならない保険と言った所ね。 あのチラシは昨晩のうちに、私とゴードンとで、あんたのクラス全員の所にばらまいておいてわ。あれを見れば、御剣のような「白銀武を忘れた人間」の態度を、「白銀武を忘れていない人間」が見ても、しばらくは『香月夕呼の悪ふざけ』のせいと取るでしょう」「ええ、まあ、多分……」 かなりたちの悪いイタズラだが、香月夕呼ならばやりかねない。それくらいの悪名を、夕呼は校内にとどろかせている。 あのチラシを見れば、武の記憶を失った人間を、武の記憶を失っていない人間は「ゲームの参加者」だと取るだろう。「それに、いずれ記憶が戻ることを考えれば、少しでも揺り返しの波を小さくしておくに越したことはないわ」「え? それはどういう意味ですか?」 夕呼の不意の言葉に、武は思わず問い返す。 夕呼は、手に持っていたコーヒーカップをテーブルに戻しながら説明した。「前にも言ったかも知れないけど、世界っていうのは安定を望むのよ。でも、安定というのは必ずしも無変化を意味する訳じゃない。一度変化して安定してしまった場合は、今度は現状維持を優先して、元に戻らないように反発するの。分かる?」「ええと、すみません。よく分かりません」「まあ、ものすごく安直に例えると風船細工のようなモノを想像するといいわ。ほら、あるでしょ、あの細長い風船をねじ曲げて馬やら猫やら作るやつ」「はあ」「あれって最初にまっすぐの風船をねじ曲げようとすると、元に戻ろうと反発するでしょ? でも、一度形を作っていまうと今度はその形で安定してしまって、元のまっすぐの状態に戻すときに逆の反発力を生じる。世界もちょうどそんな感じなのよ」「なるほど」 なんとなく、おぼろげにだが武にも夕呼の言わんとしてることは分かった。 ようは、世界は外部からの変化を好まないが、一度その変化が定着してしまうと、今度はその変化した部分を元に戻すことに反発するということなのだろう。「今、この世界からあんたの記憶が流出している。問題は、例えこの問題を解決できたところで、御剣達の白銀武のことを忘れていた時間というのは、消え去るわけではない、ということなの。 世界は矛盾を好まない。だから、何の理由もなく圧倒的大多数が白銀武の記憶を失っているようなら、世界は白銀武がいない状態を自然な状態ととり、最悪あんたをこの世界から追放してしまうかも知れない」「なっ!?」 予想外に深刻な夕呼の言葉に武は思わずソファーから腰を浮かしかけた。 夕呼は、武のほうに手の平を向けて、「落ち着きなさい。そうならないように手を打ったんだから。そこでこのゲームが生きてくるのよ。このゲームの参加者は「白銀武を知らんぷりしている」必要がある。 だから、記憶の流出がとまり、この世界の御剣達が白銀のことを思い出したとき、記憶を失っていた期間の情報を、「ゲーム参加して知らんぷりしていた」という状態に置き換えて、矛盾を解決できるわ」 そう、元気づけるように言う。「ええと……」 いまいち分かっていないような武に、夕呼の横に座っていたクォヴレーが、状況を確認するように口を開いた。「つまり、こういうことか? 本来ならば、武の知り合いは、武の記憶を失う。 もし、後日その問題を解決して記憶を取り戻すことが出来たとしても、記憶を失っている人間の数があまりに多すぎた場合、武を忘れていた数日間を、矛盾無く理由づけることが難しくなる。 結果、武がいない状態の方が自然だと世界が判断し、武を世界から放逐してしまうかもれない」「そうね、その認識で間違いないわ。もっともあくまで最悪の可能性だけど」 夕呼の言葉を受けて、その後に続き今度は武自身が、天井に目を這わせながらゆっくり考えながら口を開いた。「でもこの「白銀武? 誰それ? ゲーム」のおかげで、この期間俺のことを意図的に無視していた、という理由付けが出来る。 結果、冥夜達の記憶を戻すことが出来れば、冥夜達の『俺のことを忘れていた時の記憶』は、ゲーム参加中でわざと俺のことを無視していたと改ざんされて、世界は俺の存在を認めるって事ですか」「あら、やるじゃない、白銀。あんた思ったより頭良いわね。そうよ、そう言うこと」 夕呼は、予想以上に聡明なところを見せた生徒に笑みを返した。 もっとも、それは過程に過程を重ねた上での話だ。実際に役に立つかどうかは、全く分からない。 だが、もう一つの効果『白銀武の記憶を失わない人間に、白銀武の記憶を失った人間の態度を納得させる』のには、十分役に立つだろう。 恐らく、明日学校に行けば神宮司まりもに、思い切り怒られるだろうが、それくらいは許容範囲内だ。 そうして、武が一部の人間に無視されている状況を、「夕呼の悪ふざけの犠牲」と取ってくれている間に、なんとか抜本的な解決手段を見つけるのだ。「白銀、あんたも今日からしばらくはここに泊まりなさい。問題が起きた場合即座に対応したいから。いいわね?」「は、はい。分かりました」 怖いくらいに真剣な夕呼の表情に押されるようにして、武は頷くのだった。【西暦2001年、日本時間12月16日07時32分、横浜】 香月夕呼のマンションで、クォヴレーと共にゲスト用ベッドで一夜を明かした武は、翌朝夕呼の運転する愛車――ストラトスの助手席に収まっていた。 向かう先は学校ではなく、武の家だ。制服を家に置いてきた事を、今朝になるまで忘れていたのである。 急いで家に戻り、着替えないと遅刻してしまう。 急ぐ理由があるのに安全運転をする夕呼ではない。 朝の住宅街を、黄色いスポーツカーが危険なスピードでかっ飛んでいく。「戦術機の方がよっぽど速いんだろうけど、体感速度的にはこっちの方がクルなあ……」 衛士である武に、冷や汗混じりの苦笑を浮かべさせる位なのだから、夕呼の運転がどれくらい荒っぽいかが分かる。「なに、ブツクサ言っているの。いい、家に戻ったらすぐに着替えて戻ってくるのよ。御剣はもちろん、他の奴らとの接触も極力避けること。いいわね」「はい、分かってます」 武は、助手席のシードに身体を深く埋め、唇を噛んだ。 自分との接触が、因果情報の流出入を促す可能性が高いのだ。 死の因果の流入をクォヴレーが押さえてくれている今、目立った被害は記憶の流出しか起きていないが、今後どのような因果が出入りするか、分かったものではない。(なんだか、まるきり俺って疫病神だよな……) 落ち込みかけた武は、昨晩就寝間際、ベッドの上で交わしたクォヴレーとの会話を思い出す。(大丈夫だ、武。まだ、取り返しの付かない事態には何一つなっていない。ここからだ。俺とお前の努力次第では、事態はいくらでも良い方向に持って行ける) クォヴレーの言葉の内容は、まるで中身のない気休めのようなものであったが、その声に籠もる意思の強さと熱さは、彼が間違いなくその言葉を本気で言っていることを物語っていた。 その後も武は、眠れない夜をクォヴレーと言葉を交わすことで気を紛らせた。 最初は、クォヴレーの話すあまりに桁外れの内容に圧倒されていた武だったが、やがて勢いが付いたのか、向こうの世界で味わった多くの苦難と一握りの喜びについて、ごく自然に語っていた。 少なくとも、クォヴレーと夕呼はこの事態の無事解決させることを全く諦めていない。 ならば、当事者であり現況とも言える自分が勝手に諦めるわけにはいかないだろう。 武が改めて気合いを入れ直している間に、車は武の家の前に着く。「ほら、着いたわよ」「はい、それじゃすぐ着替えてきます!」 車から降りた武は、一日ぶりにやってきた我が家の玄関の前に立った。「鍵は、空いている。あれ? 俺そう言えば鍵占めないで出たっけ」 まあ、どのみちこの辺り一帯は冥夜が買い占めてしまっているのだ。泥棒が入ってくる可能性はゼロに近い。「ただいまあ」 恐らく誰もいないだろうと思いながら、武は恐る恐る自宅のドアを開けた。「お帰りなさいませ、武様。昨晩はどちらへ?」 だが、武の予想とは裏腹に、玄関の向こうでは月詠真那がいつもと変わらぬ礼儀正しい笑顔で、武を迎えていた。「え? あれ? ただいま、月詠さん。あ、ああ、昨日はほら、夕呼先生の所に泊まって」「ああ、なるほど。ゲームの打ち合わせでしょうか」 白いエプロンの前で手を組み、穏やかに笑う月詠の様子からは、今のところ何の異変も感じられない。「あ、うん、そんな感じ。冥夜は?」 だが、武のその質問に、その穏やかな空間は一瞬にして崩れ去った。 月詠は、形の良い眉の間に皺を寄せて答える。「それが……冥夜様は、突然ここを出て行く、と。それどころか、武様の家のお隣に建てた部屋も取り壊し、本宅に戻るとまで言い出しまして。あの「ゲーム」の為にそこまでする必要はないと思うのですが……」 まずい。武の背筋に冷たいものがはしった。 元々鋭い上に、日頃誰よりも冥夜の言動に気を配っている月詠は、冥夜の態度が「白銀武? 誰それ? ゲーム」に参加しているにしてもおかしい、と感づき始めている。「あ、ああ。冥夜ってほら、凄く生真面目で妥協しないところがあるからなあ。そこまで、やる必要はないと思うよ。って俺が冥夜に話しかけたら、冥夜がゲームオーバーになっちゃうか。それじゃ」「あ、武様、朝食はっ」 武はごまかしながら靴を脱ぐと、月詠の声を振り切り、二階へと上がっていった。 軍人ならではの早さで制服に着替えた武は、月詠の朝食を断りそのまま玄関を出た。 そして、歩道に片車輪を上げて停車する夕呼の愛車の元へと駆け寄っていく。「遅いわねえ、何かあった?」「すみません、夕呼先生。ちょっと月詠さんと話をしてたもんですから。でも、特に何もないです」「そう、それじゃ出るわよ。早く乗りなさい」「はい」 武がそう言って助手席のドアに手をかけたその時だった。「あれ? 香月先生、おはようございます。どうしてここに?」 タイミング悪く、向かいの家から出てきた、柊学園女子の制服に身を包んだ赤い髪の少女が、大きな眼をパチクリさせてこちらを見ている。「す、純夏……」 予期せぬ幼なじみの登場に、武はグルグルと思考を巡らせる。(しまった。あ、でも、純夏は大丈夫だったのか? あ、でも、純夏は本気で「ゲーム」に参加している可能性があるな。一応挨拶だけしてみるか)「あ、おはよう、純夏」「うん、おはよう、『白銀君』」 武の言葉に、鑑純夏は、ごく自然に極めて不自然な挨拶を返す。『白銀君』。 物心ついたときから、十数年来、『タケルちゃん』としか呼ばれたことのない声で、まるでただのクラスメートにかけるような声色で『白銀君』と呼ばれた。「お、お前、純夏……」「ん? どうしたの、白銀君?」 幼なじみは、不思議そうに首を傾げている。 自分の事を知らんぷりするのならばいい。純夏が本気で『ゲーム』に参加していると言う可能性がある。だが、他人行儀に「白銀君」と呼ばなければならない理由はどこにもない。「白銀、急ぐわよ。乗りなさい!」 アスファルトの上にへたり込みそうになった武を叱責するように、鋭い声をぶつけてきたのは、愛車の運転席に座る夕呼だった。「あ、せ、先生」「白銀! 早く!」「あ。は、はい」「うん。それじゃ、白銀君。また、学校で会おうね」 無邪気に手を振る幼なじの姿を歪む視界の端に見ながら、武は潰れるようにして助手席に腰を下ろした。 夕呼は、すぐさまアクセルを踏み、愛車を急発進させる。「…………」 猛スピードで外の景色が流れる様、実感なく眺めていた武に、夕呼が正面を睨んだまま声をかける。「予想外の事態ね」「……はい」 心理的な意味における武の最終防衛ラインであった、純夏の記憶の流出。 武は、視界がブラックアウトする寸前の心境のまま、ただ首を縦に振る。「これってどういう事なんですか?」「端的に言えば、私の推測がどこか間違っていた、と言う事ね」「間違っていた、ってそんな……」 あっさりとした夕呼の物言いに、一瞬武がくってかかりそうになったが、血が出る寸前まで唇を噛んでいる夕呼の表情を見て、その激情は一瞬で収まった。 災厄を呼び込んだのは自分だ。自分が怒るのは筋が違う。「とはいえ、鑑の一件以外は、ほとんど私の推測通りに事が動いているの。昨日の晩、何人かに電話をしてみたんだけどね。予想通りの反応が返ってきたわ。 榊、彩峰、珠瀬、鎧衣は白銀の事を忘れていた。 一方、まりもは全く忘れていなかった。 おかげであの『ゲーム』のことで、すごい怒られたわ。「夕呼! これ一歩間違えたら、教師公認のいじめよ!」って」 その時のことを思い出したのか、夕呼は赤いルージュの塗られた口元を、笑みの形に歪める。「そうですか。あ、でも、委員長達が本気で『ゲーム』に参加しているって可能性は?」「まずないわね。私も何度か誘導尋問をしかけてみたから。彩峰辺りならともかく、珠瀬や榊に私の誘導尋問をかいくぐるようなスキルがあるとは思えないわ」 確かに、見た目通り精神年齢も低そうな珠瀬壬姫や、頭は良いが実直すぎて融通の利かない榊千鶴に、悪辣きわまる夕呼の誘導尋問を回避できるとは思えない。「ましてや、鎧衣もなのよ。あんた、まさか鎧衣が『ゲーム』に参加する可能性があると思っているわけ?」「それは、ないですね」 言われて武も思い出した。 この世界の鎧衣は、美琴ではなく尊人、男なのだ。 鎧衣尊人が『白銀武との丸一日デート権』を望み、『ゲーム』に参加する。 さすがにそれはちょっと、なんというか、嫌である。「というわけで、私の仮説――あんたと親しくしていて、克つ向こうの世界でも現時点で存在している人間の記憶が流出しているという説が、間違っているとは考えづらいのよ」 実のところ、夕呼は御剣財閥に仲介してもらい、海外旅行中の武の両親とも連絡を取っている。 夕呼予想通り、武の両親もごく普通に武のことを覚えていた。 だが、このことを告げるということは、武に「お前は後一歩でこの世界の両親も殺すところだったのだ」と宣告するに等しい。 今の武の精神状態を危険と見た夕呼は、その情報は胸にしまったまま、話を続けた。「でも、それじゃ、なんで純夏は……?」「そう、そこがおかしい。だから、私は間違っているのは私の仮説じゃなくて、前提条件、あんたの情報の方だと思っているわ」「前提条件?」「ええ。向こうの世界に今現在存在していない人間の記憶は流出しない。と言う説が正しいのなら、向こうの世界に鑑純夏は存在しない、という前提条件が間違っていると言うことになる」 いい加減驚きすぎて麻痺しかけていた武の心をも、その言葉は強烈に揺さぶった。「そんなっ……!? で、でも、向こうの夕呼先生は確かに!」「あんた、まだ信用してるの? あっちの私を。断っておくけど、あっちの私は、あんたの今の状況を、ほぼ正確に予測していたわよ」「なっ……!」 絶句する武を横目で見ながら、夕呼はハンドルを握り、唇を噛んだ。 白銀武が、最初にこちらの世界に来たとき持っていた、『香月夕呼』から香月夕呼に当てられた包み。 あの中身は、因果律量子論に関する数式の要求だけではなかった。 むしろ、それはごく一部で、それ以外はこちらの世界に白銀武に対する対処方法が、いくつものケースに場合分けされて書かれていたのだ。 そして、その中には今のケース――武が使命を放棄して、こちらの世界に逃げてた場合についても書かれていた。(踊らされている。香月夕呼ともあろう者が、たかが香月夕呼ごときに踊らされている) 夕呼は屈辱で視界が赤く染まる錯覚に陥っていた。 向こうの夕呼は、白銀武をもう一度向こうの世界へ送り返すための方法と、それに使う装置の設計図まで記していた。 白銀武は因果導体。 その存在によって因果がねじ曲がったこの世界を抜本的に救うには、白銀武を因果導体という運命から解放するしかない。そして、白銀武を因果導体とした要員は恐らく向こうの世界にある。(だから、もう一度白銀を送り返せ、ってあっちの私は言いたいんでしょうけど……) そこまで、なにもかも向こうの夕呼の思惑通りに動いてやるつもりはない。 向こうの香月夕呼がどれだけ知恵を巡らせようが、完全無欠に予測できていない要素がこちらには一つある。 因果地平の番人、クォヴレー・ゴードンとその愛機、ディス・アストラナガンの存在だ。 げんに、ディス・アストラナガンのおかげで、この世界は死の因果の流入による死者はまだ一人も出していない。(見ていなさい。あんたの思惑なんて越えてやるから)「だから、向こうにも鑑は存在しているはず。でも、その存在を向こうの私はあんたに明かさなかった。間違いなく、なにか深い理由があるはずね」「純夏が、向こうの世界に、純夏が……」 武は呆然とした表情で、壊れたスピーカーのように、何度も幼なじみの名前を呼んでいた。 無理もあるまいと夕呼は思う。 恋愛原子核などと夕呼に呼ばれるほど、周囲を女に囲まれている武だが、それでも鑑純夏は比較対象もいないくらいに特別な存在なのだ。 他の女達、御剣冥夜や榊千鶴が、側にいないと寂しさを感じる大切な人間なのだとすれば、鑑純夏は側にいるのが当たり前の、大切であることさえ認識していない我が身にも等しい存在だ。「どうするの白銀。あんたはどうしたい? 一応言っておくけれど、私もあれから色々調べて、ある程度この状況をどうにか出来る目安がついてきたわ。でも、この問題の中心はあくまであんた。 あんたがどうしたいかで、全ては変わる」「俺次第。でも、俺は……」 武はその後を続けられなかった。 現状を認められないのは確かだ。だが、本質的に自分がどうしたい、どうなりたいのかと言われると、簡単には答えが出ない。 自分はこの世界に逃げてきたのだという、引け目もある。「まあ、今すぐ答えを出す必要はないわ。でも、もうあまり時間がないことは覚えておきなさい。ほら、着いたわよ」「はい、分かりました……え?」 停止した車から降りようとしてドアに手をかけた武は、やっと周囲の景色が思っていたのと違うことに気づき、そのまま固まった。「せ、先生? なんで、先生のマンションに戻ってきてるんですか?」「やっぱり、全く周りが見えていなかったわね」 ハンドルから手を離した夕呼は、呆れたようにため息をつきながら答える。「当たり前でしょう。鑑の記憶流出という不測の事態があったのよ。私もあんたも暢気に学校に通っている場合じゃないわ。今日は臨時休校で、即座に対策を練るわよ」「あ、そうか。そうですね、分かりました」 確かに言われてみれば、今更暢気に学校生活でもないだろう。少なくとも、この問題が解決するまでは、こちらの問題を優先するべきだ。 これが、何の手がかりもなく五里霧中だというのならばともかく、先ほど夕呼先生は「ある程度どうにかできる目安がついた」と言っていたではないか。 学校には、全てが解決してからゆっくりと通えばいい。「分かったら、すぐに私の部屋で、ゴードン交えて作戦会議よ。私は今日休むことを学校に伝えておくわ。あんたも一応学校に欠席の連絡は入れておきなさいよ」「はい、わかりました」 決意を固めた武は、車から降りると夕呼の後ろに続いて、マンションへと戻っていく。 そんな武達の元に、「体育の授業中、バスケットボールのゴールが落下し、下にいた女学生――鑑純夏が意識不明の重傷を負った」という報告が入ったのは、それから三時間ほど時間がたったときのことだった。