Muv-Luv Extra’ ~終焉の銀河から~第五章【西暦2001年、日本時間12月17日11時33分、高級マンション、香月夕呼部屋】「先生、先生! 純夏は、純夏は大丈夫なんですか!?」 リビングルームで病院に電話をかけていた香月夕呼が受話器を下ろすやいなや、側で固唾を呑んでいた白銀武は、くってかかるようにして尋ねた。 夕呼は、真っ白な顔で青く変色した唇を噛みながら、あえてストレートに答える。「意識不明の重体よ。緊急手術で一命は取り留めたらしいけど、予断は許さないわ。回復の見込みはほぼゼロ。命は助かっても、このままじゃ、一生ベッド上での生活ね」「う……うう……うわああああ!!」 報告を聞き終えた武は、冷たいフローリングの上に崩れ落ちると、堰が切れたように泣きだした。「武……」 後ろに立つクォヴレーが心配そうに声をかけるが、その声も武の耳には入らない。「畜生、なんで、何でなんだ! なんで、純夏がぁ! 純夏だけが、こんなぁ!」 武は、怒りと悲しみを抑えきれず、何度も何度も硬いフローリングの床に拳を叩きつける。「やめろ、武。手を痛めるぞ」「ぐあああ……!」 とっさにクォヴレーは、後ろから武の手を押さえ込んだ。 この場に、クォヴレーがいたのは幸いだった。 軍人としての教育を受け、身体を作っている武を、並の人間では押さえ込むことは出来ない。 同じく、軍人として訓練を受けているクォヴレーだからこそ、出来た事だ。「クォヴレー、純夏が、俺の純夏がぁ……もう、助からないって……!」「気をしっかり持て、武。俺の世界の技術なら、もしかしたら助けられるかもしれん。だから絶望するな!」 クォヴレーは武の両肩を両手でしっかりと掴むと、強く揺さぶった。 クォヴレーの励ましの言葉に、それまで墨を垂らしたように濁っていた武の瞳に、急速に光が戻る。「ほ、本当か、クォヴレー!」 振り向いた武は、すがりつくようにクォヴレーの腕を掴む。「ああ。絶対とは言えんが、可能性は十分にある。だから、絶望するな、武」 クォヴレーはあざが着くほど強く自分の腕を掴む武に痛い顔一つ見せず、そう言って励まし続けた。 もちろん、クォヴレーは適当な虚言を吐いているわけではない。 クォヴレーが元々所属していた組織、ゼ・バルマリィ帝国では、人体のクローニングの技術が非常に発達していた。 その上、人を脳髄だけで生かしておく技術も存在していたのだ。 よって、よほどの怪我でない限り、クローンの生体移植で怪我は修復可能なはずだ。 もっとも、ゼ・バルマリィ帝国自体、地球との戦争と、滅びの宇宙意思の具現化『アポカリュプシス』によって母星を失うという大ダメージを被っているうえ、現在因果律の番人をやっているクォヴレーは、簡単に故郷に帰ることも出来ないため、確約は難しいのも確かだが。「どちらにせよ、それもまずは今の問題を解決してからよ。これで、ディス・アストラナガンが怪我の因果を取りこぼしていることが、実証されたわ。このままなら、鑑と同程度の負傷者がこの世界に続出することになるのよ」「あ……」 それまで、純夏のことしか頭になかった武が、その言葉でやっと思いついた。 向こうの世界は、BETAと戦い続けている地獄のような世界だ。死者もいるが、当然負傷者もたくさんいるだろう。 それらの情報がこちらの世界に流れ込む。「……だ。俺の、俺のせいだ……俺が、あの時、死ぬよりはマシだなんて言ったから」 真っ黒な後悔と共に思い出されるのは、三日前、ディス・アストラナガンの前でクォヴレーと交わしたあの会話だ。 死の因果を取り逃さない事を優先し、それ以外の因果の流入に目を瞑るか。それとも、死の因果をある程度取り逃すことを前提の上で、それ以外の因果も積極的に吸収するか。 二択を迫られた武は、安易に前者を選択してしまった。 もちろん、あの時は十分に悩んだ上での選択だったつもりだが、今のこのあふれ出す黒い感情と比べれば、あまりに軽い決断だ。 自分は、あの時、今のこの状況を全く想定していなかった。「もう、もう嫌だ。なんで、俺は、俺が、俺のせいで、純夏が。なんで、俺じゃなくて純夏がぁぁぁ……!」 フローリングの上に、涙の小さな水たまりを作っている武に、夕呼は上から言葉をかける。「白銀。私はこれから鑑の家に行って、入院に必要なものを病院に持っていくよう、学校から指示を受けたわ。どうする? あんたも来る?」「……え?」 惚けたような表情で、床の上からすぐ前に立つ夕呼を見上げながら、武は頭の片隅で「そういえば、今純夏の両親も、うちの親と一緒で海外旅行中だっけ」と鑑家の状況について思い出していた。「鑑の両親には既に連絡が行っているわ。今、御剣が用意したチャーター便で緊急帰国中よ。それで、どうするの、白銀? 無理にとは言わないけど」「わかり、ました……俺も行きます……」「そう、だったら準備しなさい」 それだけ言うと、夕呼は武に背を向けると、さっさと歩き出した。 武も緩慢な動作で床の上から立ち上がる。「武」「ありがとう、クォヴレー。大丈夫だ」 クォヴレーの手を借りて立ち上がった武は、弱々しくクォヴレーに笑い返すと、夢遊病者のような頼りない足取りで、夕呼の背中を追いかけて出て行った。 バタンと音を立て、夕呼と武が玄関から出て行く。「…………」 一人残されたクォヴレーは、さっきまでの武を気遣っていた優しげな表情を一変させ、憤怒の表情で右拳を左の手に平に思い切りぶつける。「何が、因果律の番人だ! 俺は、何も出来ていない! 一人の女も、一人の男の心も救えずに、俺は何をやっている!」 自分がこの世界にやってこなければ、死の因果の流入によって多数の死者が出ていたはず。だから、何も出来ていないわけではない。 それは、頭では分かっている。かつての自分ならば、鑑純夏の怪我ぐらい「必要最小限の犠牲」と言ってのけただろう。 だが、αナンバーズと共に戦い、彼等の価値観に染まった今のクォヴレーには、どれほど僅かな犠牲でも割り切ることが出来なくなっていた。「イングラム・プリスケン。お前は、こういった思いを何度も繰り返してきたのか?」 クォヴレーは、前任の因果律の番人に問いかける。もちろん答えは返ってこない。イングラム・ブリスケンは、クォヴレー・ゴードンにその全てを託し、この世界から消え去っている。「ゼオラ、アラド、みんな。俺は、どうしたらいい。俺は、一人でもお前達のように戦えるのか……?」 クォヴレーは、あらゆる困難をねじ伏せ、不可能を可能に書き換えてきた、かつての仲間達にすがるように呟くのだった。【西暦2001年、日本時間12月17日12時02分、鑑純夏宅、純夏部屋】 夕呼と武が上がり込んだ、純夏の部屋。 そこには、無数の日記帳が散乱してた。 何十、何百冊という数の日記帳。「…………」 武はその一冊を手に取り、中を見る。『12月24日(ゆき) たけるちゃんがプレゼントくれなかった。 やくそく、わすれちゃったのかな? サンタさん、やっぱりこないんだ……』「これは……何年前から書いてるんだよ、純夏の奴……」 武の記憶が正しければ、これは自分たちがまだ小学校に上がる前の話のはずだ。 武は呆然としたまま、別の日記帳も手に取る。『7月7日(絶対晴れ!) 今日は私の誕生日。 タケルちゃんよりちょっぴりお姉さんなんだ』『6月10日(雨) 大変なことをしちゃったよ。 アンモナイトの化石を壊しちゃった。 そしたらタケルちゃんが……』『2月28日(はれ) 今日学校で将来の夢の話をしたら、タケルちゃんが……』『4月8日(くもり) 今日から中学生。やったー、タケルちゃんと同じクラスだっ!』 どの日記帳のどのページにも武が出てくる。というか、武のことしか書かれていない。「なんだよこれ……純夏の奴。これじゃ、日記帳じゃなくて俺の観察日記だろう。はは、あの馬鹿……」 タケルは視界が潤み、鼻の奥が熱くなるのを感じた。それを無視するように、わざと笑う。 純夏のマヌケな行為を笑う。それが、白銀武と鑑純夏の正しい付き合いというものだと信じているように。「実際そうだったんでしょ。鑑にとって毎日の記録は、そのままあんたとの生活の記録だったのよ。あんた達、ほとんど毎日一緒だったんじゃない? 少なくとも、今の学校に来てからはそう見えたわ」「それは……」 言われるまでもない。武が思い返しても、自分の日常には必ずと言って良いほど、純夏の姿が思い浮かぶ。 赤い触角のように跳ねた髪を、ピンと立てて怒っている純夏。 野良犬に武のハンバーガーをやって、笑っている純夏。 冥夜が来てから、学校生活は一変したが、自分の隣には純夏がいるという景色だけは変わらなかった。「これ、読んでみなさい」「これは?」「一番新しい日記帳よ」 武は夕呼に促されるままに、その日記帳を読んだ。 そこには、この数日の武の行動がつぶさに記されていた。 武がこちらの世界に逃げてきた初日、まりもちゃんにあって号泣したこと。 それからなにか武がいまいち元気がないこと。 そして、一昨日のページ。『12月16日(はれ) 今日はタケルちゃんの誕生日。いつもならタケルちゃん家で誕生日パーティだけど、今年は御剣さんの家が会場なのだ。リッチさが違うね。 御剣さんはタケルちゃんの誕生日が一緒なんてちょっと羨ましい。 でも、結局誕生日パーティはなかった。昼になって突然、御剣さんも、パーティに来るはずだった榊さん達も、タケルちゃんのことを知らないって言いだした。 なんで?って思ったら郵便受けに変なチラシが。 香月先生! 『白銀武? 誰それ? ゲーム』てなにー? せっかくの誕生日にこんなの、タケルちゃんがかわいそーだよー! でも、タケルちゃんとの丸一日デート権か……。いやいや、駄目だよ、私だけでもタケルちゃんの誕生日を祝ってあげるのだ。 って、思ってたのに、買い物にで戻ってきたら、いつの間にか忘れちゃっていた。タケルちゃんのこと。 なんで? もしかして、みんなもゲームのせいじゃなくて本当にタケルちゃんのこと忘れるの? 明日、学校に行ったらみんなにも聞いてみないと。 いやだよ、そんなの。タケルちゃんのことを忘れるなんて、そんなのは絶対に駄目! こうやって、日記帳を見直すと、タケルちゃんのことを思い出せるみたい。 だから、明日からは毎日いつもより1時間早く起きて、日記帳を見てから学校に行こうと思います。 早起きは辛いけど、タケルちゃんのことを忘れるのはもっともっと辛いもんね。 頑張れ、私!』「純夏、お前、相変わらず馬鹿だな。それだって結局俺の記憶だろ? 日記を見返すって記憶自体忘れちまうんだから、意味ないじゃないか……馬鹿、馬鹿純夏……」 ポタリポタリ、武の両眼から涙がこぼれ、純夏の日記帳の文字が滲んだ。「これで得心がいったわ。ちょっと引っかかっていたのよ。なんで、鑑だけ記憶を失うのが一日以上遅れたのか。鑑は偶然私と同じ方法で、対策を取っていたのね」 夕呼の呟きが、武の耳の届く。「対策?」「そう。不思議に思わなかった? あんたに近い人間ほどあんたの記憶を失うのに、私だけあんたの事を忘れないってことに」「そういえば……」 言われてみれば不自然だ。まりもと違い、『向こう』の夕呼は間違いなく生きている。記憶の流出が起きていなければおかしい。ただ、何となく最初から「香月夕呼は特別」と思い、深く考えてなかった。「ほら、あんたがこっち世界に来た最初の時プリントアウトさせたでしょ、五万枚ほど。あのうち、向こうの私に渡した数式は百枚程度だったじゃない。じゃあ、残りはなにかっていうと、あれ私の知る限りの白銀の情報が書いてあったのよ」「俺の?」「そう。私は毎日定期的にそれを読むことで、流出する記憶を補充してたってわけ。鑑はこの日記帳を使って、偶然私と同じ事をやっていたのね。だから、鑑だけ白銀の記憶を失うのが遅れたんだわ」「純夏……あっ、でもそれじゃあ、いずれ先生も俺のことを忘れてちゃうってことですか?」「ええ。いずれはね。けど、安心しなさい、それはずっと先の事よ」「え? 何でですか?」 武の問いに、夕呼は小さく笑いながら答えた。「これも私の仮説だけど、白銀の記憶を失うのは、あんたの好意を寄せている人間ほど早いからよ。対策を取っていた鑑は例外とすると、最初に記憶を失ったのが、御剣。その次が、榊、彩峰、珠瀬。男の鎧衣は少し後だったわ。 私があんたに寄せている好意なんてのは、鑑のそれと比べれば塵芥のようなものよ」「そうですね」 確かに夕呼が自分に好意を寄せてくれているとしても、それはあくまでちょっと見所のある教え子に対するものでしかない。 こんな、全身全霊をかけて愛するような純夏の好意とは、比べものにならない。 白銀が日記を読んでいる間に、夕呼は保険証や着替え、バスタオルといった入院に必要なものをいつの間にか揃えていた。「それじゃあ、病院に向かうわ。悪いけどあんたは」「分かってます。車で待ってます」 夕呼の言いたいことを理解した武はそう答えた。 因果導体である自分が、純夏に近づけばこれ以上に悪い結果をもたらしかねないし、なにより病院には冥夜や千鶴達がいる可能性がある。 病院で彼女たちと鉢合わせをして「誰だそなたは?」などと言われれば、大騒ぎだ。 この期に及んでまだ、そのくだらない『ゲーム』を続けるのか、と記憶を失っていない人間は怒り狂うことだろう。「ええ、そうして頂戴」 夕呼は抑揚のない声でそう答えた。 程なくして、武と夕呼を乗せた車は、純夏の入院している病院へと着いた。「それじゃ、手早く済ませてくるから」 運転席から足を地面におろした夕呼は、そのままの体勢で武に話しかける。「はい」 武の短い返答を背中で聞きながら、夕呼はもう一度武に言葉を浴びせた。「白銀、あんた覚えてる? 昨日私が言ったこと。あんたはどうしたい? この問題をどう解決したいの? あんたの中の優先順位はどうなっているの?」 そう言えば、確か昨日、夕呼先生はそんなことを言っていたなあ、と武は遠い昔のことのように思い出した。「俺は、今は、ただ純夏が助かれば、純夏が治ればそれで良いです……。あとは、これ以上俺のせいで被害者でなければ、俺はどうなってもいいです」「……そう分かったわ。帰ったら話し合いましょう」 武の言葉に、何かを決意したように表情を固めた夕呼はそう言うと、病院の方に向かい早足で歩き去っていった。「お待たせ」「いえ、思ったよりずった早かったですね」 武の言うとおり、さほど時間を置かず、夕呼は駐車場に戻ってきた。「ああ、向こうはまりもがついてるから。私は荷物を渡しただけよ」「そうか、まりもちゃんが……」 考えて見れば当たり前だ。純夏の担任は、夕呼ではなくまりもである。こうした場合、一番側で世話を焼くのは、まりものほうだ。「出すわよ」「はい」 手早く運転席に戻った夕呼はそう言うと、アクセルを踏み込み、車を発進させる。 長い直線道路に入ったところで、夕呼はハンドルを握ったまま、話し始めた。「結論から言うと、鑑を元の状態戻すのは、この世界医療技術じゃ不可能よ」「そうですか。それならやっぱり、クォヴレーに頼んで……」「その結論はまだ早いわ。白銀。一つ聞くけど、あんた、自分がこの世界に残って鑑はそのまま。でもそれ以外のみんなの記憶は元に戻るのと、あんたは向こうの世界に戻ってしまうけど、鑑は無傷、みんなの記憶も戻るっての、どっちがいい?」 唐突なたとえ話であったが、武は一瞬の迷いも見せなかった。「そんなの、後の方が良いに決まってるじゃないですか! ていうか、そうなればそれ以上の結果なんてないですよ。元々俺がこの世界に来たのが、全ての原因なんだから!」 実際、武はネガティブな意味だけでなく、夕呼の言ったその後者の例を望んでいた。 今この状態でも、向こうの世界にも未練は十分に残っているのだ。 結局、こちらの世界逃げてきてしまったが、出来ることならば自分の手であの世界の皆も救いたいという思いに偽りはない。 だが、そんなことはただの夢物語だ。割れた卵は直らない。こぼれたミルクも戻らない。 そんな、武の内心を知ってか知らずか、夕呼は口元に不敵な笑みを浮かべると、何でもないことのように言い放つのだった。「分かったわ。それなら、後者の方向で行きましょう。忙しくなるわよ、白銀。あんたにもやってもらうことは山ほどあるから、覚悟しなさい」「え? そんな、まさか、本当に出来るんですか、そんなこと!」「後は部屋に戻ってからよ」 今にもつかみかかりそうな武に、夕呼は心強い笑みを返しただけで、それ以上は何も答えないのだった。【西暦2001年、日本時間12月17日13時14分、高級マンション、香月夕呼部屋】 夕呼の自宅に戻った武と夕呼は、留守番をしていたクォヴレーを交え、デリバリーのピザとペットボトルのウーロン茶で遅めの昼食を取りながら、この世界を救うための計画を話し合っていた。「それじゃ、まず状況を確認するわよ。白銀、あんたにとって少しと言わず、耳が痛い話が続くけど、覚悟はいいわね?」 八分の一にカットされたピザの先を啄みながら夕呼はそう話を切り出す。「はい。大丈夫です」 武は強化ガラス製のテーブルの上に、ウーロン茶を注いだカップを置き、神妙な表情で頷いた。「オーケー、始めましょう。まず、この世界では今、因果の流出入という問題が起きている。現在確認されているのは、死や怪我といった因果の流入と、記憶という因果の流出。 何故死や怪我が流れ込んで、記憶が流れ出るのかは、因果の重さに関係があると私は睨んでいるんだけど、それは今は置いてきましょう。 さて、白銀。最初の質問よ。なぜ、この世界はこんな状態になったのかしら?」 最初から重い質問に、武は頭を押さえられたように一度項垂れたが、すぐに顔を上げると答えた。「それは、俺が、因果導体がこの世界にやってからです」 武の答えに夕呼は満足したように、一度頷く。「そうね。この場合の因果律は、『白銀武がこの世界に来た』が原因で、『因果の流出入が始まった』が結果。因果律というのは全てこの様な『原因』と『結果』から出来ているわ」「うむ、そうだな。それが因果律というものだ」 因果律の番人であるクォヴレーは、ピザの端っこの硬いところをよく噛んで呑みこんだあと、そう合いの手を入れた。「ええ。では次の質問。なぜ、白銀武はこの世界に来たの?」 本当に武にとっては、辛い質問ばかりだ。 自分の弱さ愚かさを全てここでさらけ出されるのだろうか。 武は、半ば懺悔のつもりで素直に答えた。「それは、俺が向こうの世界の現実に耐えられなかったから……逃げたから」「違うわ」 だが、その答えに夕呼は首を横に振った。「え? でも」「ええ。それも一つの事実なのでしょう。でも、今私が追いたい因果律はそこじゃない。いい、白銀。あんたがこの世界に逃げてきた理由は、「あんたがこの世界に逃げて来ることが出来たかから」よ」「は?」 武は、夕呼の言葉が理解できず、間の抜けた言葉を返す。「あんたは、その前に一度この世界に来ている。そのため向こうの世界には、こっちの世界に渡る装置があり、それを使えば、この世界に逃げてくることが出来ることを知っていた。だから、逃げてきた。 もし、そんな装置が無いか、あってもその存在を知らなければ、あんたは向こうでどれだけ辛い目にあっても、この世界には逃げてこなかった。違うかしら?」「そ、そう言えば、そうですけど。さすがにそれは滅茶苦茶じゃ」「いいのよ。私が今やろうとしていることは、その滅茶苦茶なんだから。話を続けるわ」 武の突っ込みを軽く受け流した夕呼は、別なシーフードピザの箱を開けながら、目線は武からずらさず、話し続ける。「ではなぜ、白銀は以前にこの世界にやってきたのか? それは、向こうの世界の私が、『向こう』の世界には存在しないある『数式』を欲していたから」 夕呼の目がランランと輝く。「はい。そうです」 あまりに当たり前な話の連続だが、夕呼の様子からすると何か大事なことなのだろう。 武は話の腰を折らずに、素直に相槌を打つ。「よろしい。ここで一度、話を別な方向に向けましょう。白銀。あんた、因果導体って、どういう存在か分かっている?」 本当に唐突に変わった話に武は、戸惑いながらも答える。「ええと、因果情報の流出入を起きさせる存在なんですよね。因果律を乱す要因で」「そう。因果導体は、因果律を乱す。で、因果律の番人さん? 因果律の正しい状態とはどういうモノかしら?」「原因があって結果がある。川の流れのように一定方向に因果が流れ、逆流や停滞、氾濫が起きない状態が理想だ」 突然話を振られたクォヴレーであったが、最初から答えを用意していたように淀みなく答えた。 それは、期待通りの言葉だったらしく、夕呼は笑みを深めた。「そう、因果律というのは本来そういうもの。原因があって結果がある。一度出てしまった結果はどうやっても変えられない。でも、因果導体は因果を乱す要員。その例外。一度出てしまった結果を、覆すことができる」「ええ!?」「まて、香月! それはお前が意図的に因果律を歪めると言うことか!?」 驚きの声を上げる武以上に、驚愕と警戒を露わにしたのは、クォヴレーだった。無理もない。今の夕呼の言葉をそのままの意味で取れば、とうてい因果律の番人が見逃すことの出来ない類の発言だ。 だが、夕呼はクォヴレーの剣幕に怯む様子もなく、「大丈夫よ。本質的には私がやろうとしていることも、因果律の流れを正すことだから。ただ、その際にちょっとおこぼれに預かろうって話。 白銀。あんた、今大げさに驚いていたけど、あんたは既に経験してるでしょう。 あんたは確か、一度目の向こうの世界で、オルタネイティヴ4とかいう計画が失敗したのを見たんでしょう?」「はい」 忘れられない、サンタの格好をして酒に逃げた香月夕呼の姿を思い出し、武は頷いた。 そうあれは忘れられない。せっかくあんなセクシーなミニスカサンタの格好をしておきながら、鼻眼鏡を付けていたせいで、色気も減ったくれもなかった。 鼻眼鏡さえなければ、眼福モノの格好だっただろうに。と、武がとりとめもなく思い返したその時だった。(っ、なんだ!?) 唐突に武の脳裏に、記憶にない記憶がよみがえる。 ヤケを起こした夕呼に誘われ、そのまま押し倒された自分。泣きじゃくる夕呼を抱き、その裸身を貪る自分。 夕呼の肌の感触すら、一緒によみがえる。(そんな、俺は、夕呼先生となんかしてない! なんだ、この記憶は!?) あまりに驚きすぎて、逆に表情が動かなかったのだろう。夕呼は武の様子に気づくことなく話を続ける。「で、あんたは二度目の向こうの世界で、一度目の失敗を教訓として、私に話した。結果、あんたはこの世界に来て、数式を手に入れ、向こうの私に渡した。ほら、結果が変わっているじゃない。これが因果導体が、因果律を歪めることが出来る証明よ。って、なによ、白銀変な顔をして?」 ようやく武の様子がおかしいことに気づいた夕呼は、怪訝そうな顔でそう言う。 唐突に沸いてきた、記憶にない記憶。これも夕呼先生に相談した方が良さそうだ。だが、今は話の腰を折るべきではない。「あ。いえ、ちょっと俺の方からも、先生に相談したいことがあったのを『思い出して』。俺のは後で良いですから」「そう?」 夕呼はまだ少し怪訝そうな顔をしたが、武に隠す意図はない様子を見て、この場は流した。「まあ、というわけで白銀という因果導体を使えば、限定的とはいえ、因果律を歪めて結果を改ざんすることが出来る訳よ。ある意味、この世界も白銀が来たせいで本来たどるべき結果から歪んだのだと言えるしね」「……はい」 さすがに今の話題には、武も元気よく返事を返すことが出来ず、俯いて相槌を打つのが精一杯だった。「とまあ、ここまではいいかしら。ポイントは二つ。 一つ、元々向こうの世界の私が数式を欲しなければ、この世界は干渉を受けることはなかった。 二つ、因果導体である白銀武は、因果律を歪めて結果を改ざんすることが出来る。 この二つを合わせれば、私のやりたいことはすぐに分かるでしょう。 つまり、向こうの世界の過去に白銀を通して干渉し、最初から向こうの世界に必要な数式が存在する状態にしてしまう。 そうすれば、白銀がこの世界にくると言う『原因』が生まれず、この世界の因果律が歪むという『結果』もなくなるわ」「…………」「…………」 あまりに壮大で無茶苦茶な話に、武とクォヴレーはそろって馬鹿のように口を開いていた。「ええと、つまり先生は俺を、向こうの世界の過去に戻すって言うんですか?」「馬鹿な、同一世界軸の過去への干渉など不可能だ。それこそ因果律が崩壊して、世界が終わるぞ。もしうまくいったとしても、それはよく似た異なる別の平行世界を生み出すだけだ」 武の疑問と、クォヴレーの反論を夕呼は頷きながら聞いていた。「ええ、ゴードンの言うとおり。だから、違うわ。干渉するのは過去じゃない。もう一つの別の世界よ。具体的には、白銀が転移した最初の世界。オルタネイティヴ4とやらが途中で頓挫して、終わってしまったというその世界に干渉して、数式の情報を送り込む」「? それでどうなるんですか?」 そうすれば、最初の世界はもしかすると救われるかも知れない。しかし、それがなんだというのだろうか? 今の状況を打破する手段になるとは思えない。 首を傾げる武に夕呼は、不敵な笑みを返すと説明を続けた。「鈍いわね。分からない? その世界には白銀武がいるわけでしょう。今後、向こうの世界に二度目の転移をする予定の白銀武が。その白銀武が、一度目の転移世界の段階で、数式を知っていたらどうなるかしら。 二度目の転移世界、『向こう』の世界には白銀武が転移した10月22日の段階で、数式が存在することになる。 結果、『向こう』の私は、こっちに白銀武を転移させる必要はなくなる。 因果導体となった白銀武が来なければ、こっちの世界は因果の流出入を受けてない自然な状態に戻る」「…………」「…………」 文字通り、世界の認識そのものを書き換えようというのだ。 夕呼のあまりに大それた発言に、武とクォヴレーは、再び言葉を失った。「ほ、本当にそんなこと出来るんですか?」 自分がこの世界にやってきたという結果自体を消去できるのなら、この世界にとってはそれ以上良いことはないだろう。 だが、夕呼は少し真剣な表情を作ると、首を横に振った。「このままでは無理ね。何度も言うようだけど、世界は矛盾を嫌うから。現在白銀はここにいるでしょう? 向こうの世界にはいない。つまり、数式を持って来るはずの張本人がいないままでは、例え一つめの世界に干渉しても、二つめの世界はその矛盾を嫌って、10月22日時点から数式が存在していたという可能性を消去してしまうわ。 だから、あんたには、向こうの世界に戻ってもらう。これが大前提」「はい」 一度は逃げ出した、あの世界に戻れ。 その言葉に、武は全く躊躇も恐怖も感じなかった。 純夏を救うためならば、自分が消えても良いとさえ思った武だ。 向こうの世界で汚名返上が出来るならば、願ったりかなったりだ。「良い返事ね。プラス、あんたにはその数式を一文字も間違えず暗記してもらう」 だが、夕呼の続く言葉に、武はたじろいだようにソファーに座ったまま少し身体を後ろに下げた。「ええと、あの数式ってあれですよね。俺が、向こうの世界の夕呼先生に渡した……」「そうよ、せいぜいコピー用紙で百枚程度の代物だから。三日もあれば覚えられるでしょ」「三日って、先生と一緒にしないで下さいよ。だいたいなんでそんなこと、しないといけないんですか?」 記憶術は、衛士のようなある程度以上の高級軍人には必須のスキルだ。そのため学生時代とはレベルが違う記憶力を有している武であったが、それでもコピー用紙百枚分の数式を記憶しろ、というのはかなり難易度が高い。 夕呼は、当たり前ような顔で説明する。「少しでも世界の矛盾を小さくして、過去の改ざんを成功させる為よ。いい? 元々あんたは向こうの世界で、二度目の世界移動を経験した。本来なら、その時あんたは数式を知らない。だから、あんたはこの世界に来た。数式を知っている私から数式を受け取るために。 そのあんたがこの世界に来たという過去を、根本的に消去するのが今回の目的なのよ。 そのために、一度目の転移世界に数式を流し、二度目の転移世界の白銀が最初から数式を知っている可能性がありうる状態にする。その状態で、ここにいるあんたが、その数式を頭に詰め込んで、向こうの世界に帰ったらどう? 最初から白銀が数式を知っているという可能性が存在し、なおかつそこに数式を頭に詰め込んだ白銀が再転移してくれば、向こうの世界は、『最初から白銀が数式を知っていた』という時間軸を矛盾無く選択できるわ」「なんだか……言葉遊びでごまかされているような気分なんですけど……」 考えすぎて頭の芯がかゆくなってきたのか、武はしきりに頭を掻きながら、まだ納得がいかない様子で呟く。 言っている意味は分かるが、あまりに荒唐無稽克つ都合が良すぎて、そんなことが本当に可能なのか疑わしく思える。「まあ、あまり難しく考える必要はないわ。ようは、因果導体であるあんたは本来の因果律から切り離されているため、世界の時間軸の影響をあまり受けない状態なのよ。 だから逆に世界は、ある程度あんたの現在の状態に合わせて、もっとも矛盾がない過去を選ぶわけ。 世界があんたに影響を及ぼせないから、代わりに世界のほうがある程度あんたに合わせてくれるってことね。 まあ、どうやっても解消できない大きな矛盾を生じさせてしまったら、今度はあんたが世界からはじき飛ばされることになるから、あまり多用は禁物の手なんだけどね」 夕呼としては分かりやすく説明しているつもりなのだろうが、やはり武には今一理解しきれなかった。 だが、これだけは分かる。 夕呼の言っていることが正しければ、一つめの転移世界にあの数式を送り込み、自分があの数式を覚えて向こうの世界に帰れば、この世界は武が来なかった本来の状態に戻るのだということ。 つまり、死や怪我の因果は流れてこないし、記憶が流れ出ることもない。 冥夜達は武を忘れず、純夏の怪我も無かったことになる。 良いことずくめではないか。「あ、でも、一つめの世界に数式を送るとか、俺を向こうの世界に送り返すのとか本当に出来るんですか?」 ふと武は向こうの夕呼が言っていたことを思い出した。 世界転移のタイムリミットは二十四時間。それを越えれば、戻ってこれないと夕呼は言っていたはず。 武はこっちの世界に来て、すでに四日目を迎えている。タイムリミットはとっくに過ぎている。「ああ、二十四時間って言うのは、向こうの私が向こうからあんたを引き寄せるタイムリミットね。こっちから、送り込む分には問題ないわ。ある程度の電力が確保できれば、転移は可能よ」 そう言えば、あっちの世界では最初このために基地が一時的な停電に陥ったのだと言っていた。あの大きな横浜基地が停電になるほどの電力をこの世界で確保することが出来るのだろうか?「あの、先生。それで、電力の当ては……」「問題ないわ。ゴードン、ディス・アストラナガンの出力をかりるわよ」 恐る恐る聞いた武の質問に、夕呼はあっさりとそう答えた。既に話が通っているのか、クォヴレーも平然と頷き返す。「ああ。良いだろう」 「ディス・アストラナガンの出力ってあれそんなに凄いのか?」 まさか、あれ一機で横浜基地の総電力以上のパワーがあるとでも言うのだろうか。確かに、昨晩クォヴレーから聞いたαナンバーズの戦いというのは、話半分に聞いてもすさまじいモノだったが。「ああ。ディス・アストラナガンは、αナンバーズの中でも指折りの高出力機だ。よほどのモノではない限り、支えきれる」 武の疑問にクォヴレーは自信を持ってそう答えた。 ディス・アストラナガンの主機関ディス・レヴは負の無限力を糧とする一種の無限動力である。その出力は文字通り無限大。 単純な出力に関しても、真・ゲッターやマジンカイザー、ジェネシック・ガオガイガーと言った辺りと肩を並べる。 ちなみにジェネシック・ガオガイガーの良きライバルであるキングジェイダーの最大出力が、約二億四千万KWだ。 この世界の日本の、総電力が二億KWに満たないと言えば、αナンバーズの特機がどれくらい非常識な出力を有しているか、ある程度分かるのではないだろうか。「ふん、ディス・アストラナガンがなければこんな無謀な計画立てないわよ」 向こうの世界の夕呼にとって、唯一の誤算がこのディス・アストラナガンの存在だろう。 これがなければこっちの夕呼に出来ることは、武を向こうの世界に返すことだけだった。それも、どこかの原子力発電所に潜り込んでやっとどうにか出来るかと言ったところだ。 だが、一機で日本の総電力を軽く上回るディス・アストラナガンの力を使えば、武を向こうの世界に送り返すどころか、それよりもはるかに難しい一つめの転移世界に干渉することも不可能ではない。「以上が、私立てたプランよ。どうかしら、因果律の番人さん?」「…………」 クォヴレー・ゴードンは目を瞑ったまましばらく考え込んでいた。 なるほど、香月夕呼の言うとおりに事が進めば、結果として因果律の乱れは減少する。 今いるこの世界は因果律の流出入が完全になくなり、『向こう』の世界とやらも、この世界に干渉しない分、因果律の乱れは減少するだろう。 問題は、武の一度目の転移世界とやらに僅かとはいえ干渉してしまうことだが、それでも差し引きで考えれば、全体では因果律の乱れは減少傾向にある。 因果律の番人としても、クォヴレー・ゴードン個人の感情としても、反対する理由はなさそうだ。「いいだろう、協力しよう。ただし、計画の実行まではまだ日にちがあるな? 念のため、お前の話に穴がないか、確認はさせてもらうぞ」「ええ、望むところよ。私も、下手に干渉したせいで状況を悪化させるような事態は避けたいからね」 夕呼は、笑顔でそう答えた。「うむ。だが、俺の役割はそれだけでは終わらないな。俺はこの世界の守護者ではなく、因果律全ての番人だ。武が、因果導体の運命から解き放たれない限り、この世界での俺のやることは終わらん」 クォヴレーの返答に、今度は夕呼が手を口元に当てて考え込んだ。「そうね。確かに、私のやろうとしていることでは、この世界は救われるけど、白銀が因果導体であるという根本的な問題は解決しないわ。それじゃあ、クォヴレー。白銀が『向こう』に向かうのを追いかけて、あんたも『向こう』に行くってことかしら?」「ああ。ディス・アストラナガンの世界移動は俺の意思ではなく、因果の乱れを察知したアストラナガンがオートで行うからな。絶対とは言い切れないが、この世界の因果の乱れが無くなり、なおかつ武が、因果導体のままと言うことになれば、必然的に俺も『向こう』の世界とやらに引っ張られる可能性が大だ」「クォヴレーも来てくれるのか!?」 武は予想外の吉報に、信じられない思いで心臓を高鳴らせた。 ディス・アストラナガンの戦闘力がどの程度のものかははっきりとは分からないが、昨日の晩聞いた話の十分の一でも事実ならば、とても心強い援軍だ。「ああ、お前が因果導体でなくなるまではつきあうことになるだろう」 クォヴレーはその薄い唇の両端を僅かに持ち上げ、笑う。「あ、ありがとう、クォヴレー」「礼を言われるようなことではない。これは俺の使命でもある。こっちこそ、『向こう』ではよろしく頼むぞ。俺はこちら同様、向こうでも異邦人なのだからな」「ああ、俺に出来る限りのことはするよっ!」 次々と明るい見通しが立っていく中、武は久しぶりに笑顔を取り戻した。 夕呼はパンパンと手を叩くと、武とクォヴレーの会話に割ってはいる。「はいはい、男同士の友情はその辺にして。話を続けましょう。白銀、今の話は聞いていたわね。私がやろうとしていることが成功しても、それはあくまでこの世界が救われるだけ。あんたが、因果導体であるという運命に何ら変わりはないわ。 だから、あんたは『向こう』の世界で、あんたを因果導体にした要因を探すのよ」「はいっ!」「まずは『向こう』の鑑純夏を探しなさい。今回の一件で分かるとおり、向こうにも鑑はいるはずよ。『向こう』の私は、それを知らなかったのか。それとも知っていてあえて、ごまかしたのか。 前者なら問題ないけれど、後者なら鑑は向こうの世界の謎を解く大きな鍵となる可能性があるわ」「純夏が……先生。本当に、『向こう』にも純夏がいるんでしょうか?」 まだ、信じられないといった風の武に、夕呼はきっぱりと言い切る。「いるわ。それも恐らく、こちらの鑑と同様に、『ベッドで寝たきり』に近い状態にあるはず。自分で言うのも何だけど、『私』が無意味なことをするとは考えづらいわ。 鑑には、その存在を隠さなければならない何かがあるのよ」「わ、分かりました。『向こう』に戻ったら問い詰めてみます」「頑張ってね。我ながら手強いと思うけど」「はいっ」 武は精一杯の力を込めて、頷いた。 やることがたくさんある。それは確かに大変だが、裏を返せばやれることがたくさんあるということでもある。 まだ何も終わっていない。ほとんどの事象は取り返しが付くのだ。 武は、気合いを入れ直すと、少し冷めたシーフードピザを一つ手に取り、それを頬張った。 こっち来てからすでに数日過ごしているが、やはり天然食材は美味しい。こんな、デリバリーの安物のピザでさえ、向こうの合成食と比べれば、雲泥の差だ。「さてと、今のところ私からの話はこれくらいね。それじゃあ、白銀の話を聞きましょうか」 武が、ピザをじっくりと味わっていると、夕呼が一度パンと手を叩き、そう言ってくる。「俺の話?」 武は眼をパチクリさせて、首を傾げた。「なによ、あんたさっき言ったでしょう。私に相談したいことを思い出したって」「あ……」 言われて武は思い出した。先ほど、唐突に脳裏に浮かんだ、夕呼との情事の記憶。 無視するにはあまりに鮮明すぎる記憶だ。打ち明ける必要があるのは確かだが、この場にはクォヴレーもいる。堂々と口にするには少々勇気がいる。「あー、それは、その。この場では言いづらいっていうか……なあ、クォヴレー。ちょっと席外してくれないか」「何を言うんだ、武? 情報は出来るだけ俺達三人で共有すべきだろう。それとも、俺が聞いたら拙いような情報なのか?」「ああ、いや。拙いというか、恥ずいというか……」 武の様子に、このままではらちがあかないと見た夕呼は、一つため息をつくと言った。「いいわ。ゴードンは悪いけど、隣室に控えていて。ただし、私が聞いてゴードンに隠す明確な理由がないと判断したら、後で一切包み隠さずゴードンにも教えるわ。白銀もそれで良いわね」「はい。先生がいいなら」「分かった。終わったら呼んでくれ」 一応納得したクォヴレーは、ウーロン茶の入ったコップと、ピザをのっけた皿を手に持ったまま、隣を部屋へと消えてった。「ほら、これで言えるでしょう。で、なによ、今更あんたが口ごもるような話って」 夕呼に促され、武は羞恥で顔を真っ赤にしながら眼をキョロキョロさせる。だが、いつまでも恥ずかしがっていては、話が進まない。「実は、なんだか身に覚えのないおかしな記憶が頭をよぎったんですよ。それが、その……」 武は一度大きく深呼吸をすると意を決して話し始めた。「なるほどね。やけ酒で酔っぱらった私とセックスをした記憶か……。白銀、あんた本当に身に覚えはないのね?」 日頃言っている「年下は、性別認識圏外」というのは本当なのか、自分とセックスをした記憶がよみがえったという武の発言を、夕呼は単純な興味以外のモノは示さずに受け止めていた。「はい。っていうか、一つめの世界の記憶は正直かなり曖昧で。あ、でも確かクリスマスの日は、部隊のみんなとクリスマスパーティをやって、その後プレゼント交換をしたんです。 それで、俺にプレゼントをくれた奴と俺は確か結ばれたはずだから、夕呼先生とシたってことは無いはずです」 恋人と結ばれておきながら、別な女と身体の関係を持つほど自分は、だらしない人間ではない。 一生懸命思い出しながら答える武を、夕呼は鋭い目で見つめながら、更に問い詰めていく。「それは誰?」「誰って……すみません。思い出せません」 正直にそう答える武であったが、夕呼はまだ何か考えがあるのか、その質問を続ける。「もしかして、それは御剣だったんじゃないの? あんたは、御剣からプレゼントをもらい、御剣と結ばれた、どう? 思い出さない?」「……え?」 そこの言葉に、武の脳内でスイッチが入ったように、記憶があふれ出す。 プレゼント交換で武の手に渡ったのは、冥夜の愛刀『皆琉神威』の鍔。 驚いて返しに行く武と、受け取って欲しいという冥夜。 やがて、冥夜から告白をされ、武も愛していると打ち明ける。 そのまま結ばれる、武と冥夜。(そうか、俺が一つめの世界で結ばれた相手は、冥夜だったのか) ストンと、納得しそうになったその時、夕呼はさらに不可解なことを言ってきた。「いえ、違うわね。その相手は、きっと珠瀬ね。あんたは珠瀬のプレゼントをもらって、珠瀬と結ばれたのよ」「あ……?」 すると今度は、夕呼の言うとおり、珠瀬壬姫と結ばれた記憶がよみがえってきた。 プレゼントでもらった鉢植えの『セントポーリア』。 そこからの流れは冥夜の時とほとんど同じだ。互いに心の内を打ち明けあい、身体を重ね結ばれた。「なっ、なんで、同じ日に冥夜と結ばれた記憶と、タマと結ばれた記憶が両方……?」 混乱している武の言葉に、夕呼は何か納得がいったのか、小さく頷きながら、なおも言葉を続けた。「でも、ひょとすると相手は、榊だったのかも知れないわね。あるいは、彩峰? ああ、そっちでは鎧衣も女なんだっけ。だったら鎧衣の可能性もあるか。私とシたくらいだから、まりもだって可能性はあるんじゃない?」「う……あ……なんで、なんでこんな記憶が……!?」 夕呼が口にする名前が呼び水となったように、次々と記憶が呼び覚まされる。 委員長と、彩峰と、タマと、そして尊人と。それぞれと愛を交わし、身体を重ねた記憶が武の頭に次々と浮かんでは消えていった。「その様子からすると、色々『思い出した』みたいね」「お、おかしいですよ、先生! なんで、同じ日の別な記憶がこんなにたくさんっ!」「落ち着きなさい。誰もあんたが五股、六股かましたなんて言ってないから。恐らくそれは全部別な世界の記憶よ」「……は?」 武はわけが分からず、思考が停止する。 停止状態の武の脳みそに、しみこませるように、夕呼が説明する。「いい? 私の因果律量子論の理論で考えれば、この世界は無数の平行世界で出来るの。これは、既に四つの世界を経験しているあんたは、肌に沁みて理解しているわね」「は、はい」「例えば、この世界はあんたが最初にいた世界とほとんど同じよね? でも、あんたという不確定要素が加わった事で、元との世界とは異なり、枝分かれした世界になっている。 あんたの記憶もそれと同じよ」「全部別の世界の記憶、って事ですか?」「そう。あんたが、御剣を選んだ世界。榊を選んだ世界。彩峰を選んだ世界。可能性の数だけ、平行世界が存在するって事よ。 因果導体となったあんたは、それら異なる平行世界の記憶を、引き込んでしまったのかも知れないわ」「はあ……」 そう言われても実感がわかない。つまり、数ある平行世界の中に、自分がタマや美琴と結ばれた世界もあるのだということか。「じゃあ、これは俺じゃない俺の記憶って事ですか? それなら、俺の本当の記憶は一体……?」「さあ。それは、私には分からないわね」 夕呼をお手上げと言わんばかりに、小さく肩をすくめた。「まあ、なんにせよ、わざわざゴードンに隠すような内容でもないわね。後であいつにも伝えておくわ」 武に複数の世界の記憶がある。それは、今のところ大事な情報ではないが、無意味な情報でもない。少なくとも、あえて隠匿するたぐいの情報ではない。「うっ、分かりました」「話はそれだけね。それじゃ、それを食べ終わったら、早速数式の丸暗記を初めてもらうわよ。脅すようで悪いけど、ここからは時間の勝負よ。時間が経てば立つほど、この世界で白銀の記憶を失う者が増えて、因果律の修正は難しくなるわ。早ければ早いほど、この作戦は成功の可能性が高いんだから。よろしく頼んだわよ」「はいっ!」 夕呼の言葉に、武は己のやるべき事を思い出し、力強い返事を返すのだった。