日向方面から進撃中です。どうも、秀次です。
進撃っつっても島津は後退し続けているので、その後をゆっくりついていってるだけだが。
秀勝と秀康も初陣だが、俺の部隊にはいない。秀吉本隊にいるので俺は楽だ。
そう、楽は楽なんだけど・・・精神が持ちそうにありません。
「山田有信が高城を守っているようですな、秀次殿。おそらく島津は後詰に来るでしょうから、そこを叩くのがよろしいでしょう」
そ、そうですね、徳川殿。僕もそれがいいと思います。
「では、早速用意に取り掛かりましょうぞ」
そう、秀次が率いる別働隊には徳川家康が帯同していた。
史実では小牧・長久手の戦いから二年も臣従しなかったが、この歴史ではすでに豊臣の配下になっている。
当然、九州征伐に従軍しており、家康は一万ほどの兵力と供に秀次率いる別働隊の中にあった。
まさか家康が自分の配下として来る事になるとは想像もしていなかった秀次は、大いにうろたえた。
が、すぐに家康がいるなら指揮執ってもらえばいいやと考え、基本的に家康の意見を全面的に肯定して順調に進軍していた。
最も、島津は秀吉の大部隊が博多に上陸するとすぐに九州の北半分を放棄。
南九州に防衛線をはるべく、後退していった。
九州で大友宗麟を救援することに成功した秀吉は、そのまま島津を追って南下。
肥後方面から秀吉が、日向方面から秀次が薩摩に向けて進撃していた。
家康の戦は慎重かつ周到な準備を行うものであった。
物見を多く使い、島津義弘の位置を把握した上で高城を包囲。
包囲軍には秀次本隊、細川忠興、山内一豊、中村一氏、堀尾吉晴、黒田考高などがあたった。
一方、高城の南にある根城坂に徳川家康、小早川隆景らを主力とした防衛陣を構築。
陣の構築には土木に長けた藤堂高虎が中心となって行い、堅牢な陣をひいて待ち構えた。
高城を秀次本隊が囲んでから三日。
島津義弘の軍勢は高城を救援に向かい、秀次率いる別働隊との決戦を選択した。
島津義弘は軍の多くを日向方面に集中させており、秀吉の別働隊が秋月を降して肥後方面から来る、との報にもはや他に選択肢はない、と決戦を決意したのだ。
このとき、島津義弘の手勢は三万と五千。
根城坂に布陣している家康を中心とした防衛隊は約三万。
その後ろで高城を囲んでいる六万のうち、最初から根城坂へ救援に向かうように配置されている兵が三万。
高城は一万ほどの手勢がいれば十分に囲んでおけるため、その気になれば秀次の別働隊は八万近い戦力を投入できる。
それでもなお、家康に慢心はない。
歴戦の将たる家康は島津の兵の強さを肌で感じている。これまでの追撃戦で、退却する軍とは思えぬ逆撃を受けたこともあった。
ひょっとすると三河兵より頑強か。そう敵の強さを正確に読み取っていた。
家康は空堀や急増の土嚢を作り、相手を待ち構えている。
そして夜が明けるころ、坂の下に島津軍が現れる。
「あれが島津の矢の陣か。まさに正面から粉砕するためだけの陣。よほどの兵の強さの自身の現われか」
家康が坂の上の本陣から見下ろしながら言った。
矢の陣。
島津が得意とした攻めの陣形である。
文字通り、矢のような陣形を組み真正面から突き破る陣形である。魚燐をさらに正面攻撃力に特化した陣形と言える。
反面、魚燐以上に側面攻撃に弱い。島津の兵の強さを前提にした陣形である。
「来るか、島津」
家康が独語したとき、矢の陣を組んだ部隊がいくつも坂を駆け上がってくる。
さながら弓から放たれた矢の如く、すさまじい勢いである。
一気に敵陣を貫かんと迫る島津軍。そこに、最前線に陣を張っていた小早川から雨のような鉄砲が発射された。
またたくまに血に染まる根城坂。しかし、僚友の屍を超えて島津の兵は陣に迫る。
「鉄砲、弓兵、まだ次は撃つなよ! 堀まで引きつけよ!」
小早川隆景の大声が響く。その統率力によって完璧に制御された小早川隊は、鬼の形相で迫る島津に対して静かに構えていた。
ついに島津の先駆け部隊が堀に取り付く。その瞬間、短いがよく通る声で小早川隆景は叫んだ。
「撃て!」
一斉に放たれる鉄砲と弓。至近距離から受けた先駆け部隊はほぼ全滅していた。
「防げ!」
次の小早川隆景の命令で鉄砲部隊が退き、変わりに槍隊が前に出る。
隆景は先駆け部隊を討ち取っても次の射撃の前に島津軍が堀を超えに来ることを見抜いていた。あの程度の損害で止まる相手ではない。
まして、退くことなどありえない。
坂の下から上ってくる島津も鉄砲や弓で反撃しながらなんとか陣を崩そうと突撃してくる。
しかし、小早川隆景の熟練の指揮になかなか前進できない。
さらに榊原、石川の徳川の重臣率いる部隊が前進して小早川隊の救援に回る。
家康は後方から素早く指示を飛ばし、手薄になった場所を自らの兵で埋めていく。
前線で敵を蹴散らす小早川隆景、後方から支援する徳川家康。
島津の損害は加速度的に増えていったが、いまだに最初の空堀すら突破できずにいた。
戦闘開始からおよそ一刻。
島津の側面をつく形で黒餅の紋が翻る。
黒田考高の部隊が戦場に到着したのである。
さらにその後方より細川忠興の軍勢が現れ、戦場に乱入する。
ついに崩れたった島津軍に、家康は陣から出て追撃を命じる。
細川勢に島津忠隣が討ち取られ、全面壊走となった島津軍を家康と隆景は追撃し多くの戦果をあげた。
こうして、根城坂の戦いは秀次別働隊の大勝利となった。
最も、総大将の秀次は特に何もしていなかったが。
島津義弘の救援部隊が敗走したとの報を受けた高城は降伏。開城する。
開城の措置は山内一豊、堀尾吉晴らにまかせ、またも何もせずとも物事がうまく運んでいく秀次。
なんて楽なんだ! 俺いらなくね? 清洲で寝てればよかったなどと口走って舞兵庫に首筋に手刀を叩き込まれて眠らされた。
この後、ほぼ史実通りに島津義久が剃髪して降伏。
徹底抗戦を決めた島津義弘や新納忠元を説得し、秀吉に島津全てが服することが決まったのが四月下旬。
事後処理を石田三成や増田長盛が行い、五月の終わりには九州征伐が完了することとなる。
島津には薩摩、大隅の二カ国が安堵されることとなり、秋月は日向に移封。
大友宗麟には豊後が安堵される。
なお、大友宗麟はより豊臣との結びつきを深めるため、重臣の一人を豊臣直参として欲しいと秀吉に懇願。
豊臣との結びつきで島津や秋月などより政治的に優位に立つことを画策する。
中央への影響力を持ち続けるための大友宗麟の策であった。
これに対し、秀吉は秀次の重臣として受け入れることを受諾。
大友は最初、直参でないことに多少の不満を覚えたが先の短そうな秀吉より、若く名声があり大きな領土と力を持つ秀次に結びついたほうがおいしいと判断。
喜んで一人お使えさせていただく、と返事をする。
自分が最近病気がちでもう長くはないことを悟っていた宗麟は、息子の義統になんとかして家の行く末を託したかったのである。
かくして、秀次がまったく知らないところで、立花宗茂を家臣として迎えることになっていた。