尾張・美濃・伊勢・伊賀。この四カ国を拝領している羽柴秀次(中納言になりました)。
天正14年から彼の本格的な治世が始まった。
史実では北条征伐は天正18年。それまでは大きい戦もないから俺も適当に暮らせるってもんよ! と意気込んで大坂から帰還した秀次。
小松姫との婚礼は重臣たちにまかせて、俺は食って寝て暮らす! と清洲城で高らかに宣言する。
「まず、現在の復興状況ですが・・・」
田中吉政に華麗にスルーされても泣かなかった。
天正大地震の復興を、九州征伐で得た恩賞と名器を売り払った金で凌いだ秀次。
他の地域は地震の被害があっても堂々と年貢を取り立てていたが、秀次は一年の年貢免除を打ち出して復興を優先する。
この時代、天災があっても領主は年貢を取り立てる。戦費が重んだあとなら当然である。それが領主の権利なのだから。
しかし秀次はそれをしなかった。あまりにも現代の感覚で普通に災害の後は税免除しなきゃ、と思ったからだ。
領民の秀次に対する評価はこれで極まったと言っていい。
彼が北条征伐へ出向くまでにやった内政を見ていこう。
伊賀街道整備
山に囲まれ「隠れ国」と呼ばれた伊賀。秀次はここに大和に通じる街道を敷設した。
美濃経由ではなくなぜ山国の伊賀に? と皆がその理由を図りかねた。
尾張~伊賀~大和の街道が出来上がると、これまで近畿圏ながら大坂の経済圏から外れていた伊賀にも商人たちが訪れるようになる。
荷を運べる道さえあれば、商魂たくましい商人たちはどこにでも行く。これによって伊賀も俄かに活気付く。大坂の経済圏に組み込まれたのだ。
それまで京の側でありながら片田舎だった伊賀を発展させ、さらなる利益を上げるとは、と周囲は秀次の先見性を褒め称えた。
実際は現代だと名古屋まで行くのに伊賀通ったほうが近いよね、と思ったから道を作っただけだが。
最も本人は想像以上に山道めんどくせ、とほとんど使わなかったが。
美濃治水事業
美濃は豊穣な土地である。しかし、河川の氾濫が古来より続く土地でもある。この河川の氾濫さえどうにかできれば安定した収穫が望める。
そのため、美濃の河川を調べ上げ堤防を築き時には河川の流れまで変えるほどの大事業を行った。
田中吉政が。
報告書に「美濃の治水事業完了に候」とあったのを見た秀次は覚えがなかった。
「こんなのいつ頼んだっけ?」と聞く秀次に田中吉政は「まさか忘れたのでは・・」と返すと秀次は、いや、覚えてるよ、うむ、ご苦労だったな吉政、と褒めまくった。
覚えてないのは当然で田中吉政がほとんど独断でやったのだが、怒られるのが怖かった秀次は覚えてるふりを必死で続けていた。
最近、譜代の家臣は秀次の操作方法を覚えてきたらしい。
津島港拡張工事
尾張・津島の港はその規模を大幅に拡張した。
港には船大工達が秀次の援助により立てられた巨大な造船所に数百人働くようになり、その他の職人たちもこの街に集められた。
鉄砲鍛冶、刀鍛冶、大工、宮大工、薬師、窯大将、酒職人、織物職人、染師、鉄鍛冶などである。
街の中心部に市場があり、年中賑わうことになる。
大友宗麟より譲り受けた「国崩し」を秀次は津島に持ち込んでおり、大砲の改良と製造を命じていた。
いつか誤射でまだ出来てない淀城に叩き込んでやる、と本気で思っていたのだ。
また、秀次の思いつきで建造が始まったガレオン船建造は足掛け四年を経て完成。
船体は白一色で統一され、帆は漆黒である。
「津島丸」と名付けられたその船を堺で見た秀吉は驚きと共に興味を引かれた。
もともと、目新しい物や巨大な物が好きな秀吉である。すぐさま秀次に金塊を渡して自分の船も作ってくれと依頼する。
かくして、天正17年より津島の造船所で「豊臣丸」の建造が始まった。
秀次の内政はこれ以外にも警察組織の整備を行ったり、奉行所を各街に建てたり、領内の盗賊団の討伐を可児才蔵とその配下の精鋭たちに命じたりと大忙しであった。
また、彼は徳政令禁止を打ち出す。秀次の領地では城主など権力を持つ者が商人から金を借りて徳政令を出しても無効、と決めた。
むしろ秀次にしてみればそれがまだまかり通ってるふしがあるだけで驚きだったのだが・・・。
こうして彼は内政に励みながら過ごしていく。
天正15年。京に聚楽第が完成。秀吉が帝を迎える準備が整った。
秀吉に従う全ての大名が聚楽第に集い、帝を迎えた。そこで、秀吉は全ての大名に誓詞を書かせる。
以後、帝には逆らわない、という誓詞である。帝に逆らわないということは、帝に代わって政治を行う関白にも逆らえない。
その誓詞を全ての大名が差し出し、秀吉からご覧の通り、今後身辺を騒がす者はこの者たちが成敗いたしましょう、と言上される。
秀吉の支配が今、始まったと言える瞬間であった。
聚楽第での盛大な催しから一月後、秀次の祝言が挙げられる。
花婿は羽柴秀次。花嫁は小松姫。徳川家康の養女である。
秀次十九歳、小松姫十四歳であった。
はっはっは。結婚しちまった。稲姫とな! 本多忠勝の娘ですよ。
相手十四歳って、俺はロリかっつーの! 現代じゃありえんなぁ。
しかし、美人っつーか美少女っつーか。現代日本に居たらいけないオジサンに狙われそうなくらい美少女だ。
親がヤ○ザより怖いけど。
それにしてもこの時代の武家の婚礼は長い! 丸二日がかりだぞ! ほとんど座りっぱなし!
途中で逃げ出そうかと思ったわ! 花嫁の義父と実父が来てるからそんなこと出来ないけどな!
ようやく終わったと思ったら、そのまま初夜ですよ! いやまあ、この時代なら十四で子供いる人もいたわけだし、いいんだろうけど・・・。
とりあえず、沈黙に耐えれないから何か喋ろう。
「疲れた?」
ふ、世のイケメンはこんな時どう会話してるんだろうか・・・俺には精一杯の勇気振り絞って今の一言が限界です。
「いいえ。私は大丈夫です」
なんかじっと見つめられてます。
「あ~、え~と、と、とりあえずこれからよろしく・・・」
もう、沈黙に耐えれないってば。
花嫁、小松姫は自分の夫となった人物を興味深く観察していた。
尊敬する父曰く、三方ヶ原以来初めて徳川に野戦で傷をつけた男。その武才は計り知れないと言う。
家康様曰く、飄々としているがその器量の底が知れないと言う。
九州征伐では家康様の言をほぼ無条件で取り入れ、全ての戦に完勝した。
「おそらく、秀次公なら自分の配下の将のみで勝てただろう。私に采を取らせたのは、我が武門の名誉を立てさせてくれただけのこと。
それだけの余裕があり、また彼は恐ろしく冷静に戦況を見つめていた。かの人は人を知る。名将を名将たらせるために何が必要かを知っている。
我らと小早川、他の大名にまで下知できるほどの権限を与えておいて、自らは超然としていた。我らがその気になれば九州で秀次公を討つことは可能だったかもしれん。
そんなことをすれば徳川も小早川も破滅することを、彼は知りぬいた上で我らに采をまかせたのだ・・・」
家康様がこれほど恐れる将は武田信玄以来やも知れぬ、と父は言っていた。
この地に来る前に様々な話を聞いたが、民を慈しみ領内の領民から神の如く崇められる領主。
部下を信頼し、年上の部下をも問題なく使いこなす人使いの天才。
先見性を持ち、新たな戦略をも生み出す戦争の達人。
しかし、今目の前にいる何やら困った顔をしてこちらを見ている若者とはどれも結びつかないような気がする。
「秀次様、ふつつかものですが、これから末永くよろしくお願い致します」
そう言って布団に頭をつける。これから初夜、というのが妙に生々しく感じられた。
「あ、うん。仲良くしような。よろしく、姫さん」
少し照れながら笑う秀次様は歳よりも若く見えた。
優しそうな人でよかった。この人となら夫婦としてやっていけそうだ。
その頃、別室では家康が忠勝他数名と話していた。
「今回の縁談、我らにとっては願ってもない機会である」
家康が低い声で話し出す。
「秀次公は若くして名声を得ている御方。北政所様にも親しく、このまま行けば関白様の跡継ぎになられるかもしれん。
最も、関白様に実子がいない現状ではだが」
謀臣、本多正信が口を開く。
「左様・・・将来的に秀次公と戦うにせよ共闘するにせよ、まずは徳川との結びつきを強めることが大事でございましょう」
「そうだ。我らが京へ出るには秀次公が障害となるが、私は戦で天下を取る気はない。
今は力を蓄え、諸将との結びつきを強くする必要がある。それには秀次公と縁戚になるのは願ってもないことだ」
本多忠勝も口を挟んだ。
「稲には何も言っておりませんが、輿入れには当然実家より侍女と側廻りがついていくもの。
特に小姓や侍階級の者は念入りに才ある者を選んでおりまする」
これに家康も頷く。
「が、何せ相手は秀次公だ。念には念を入れておく必要がある。彼を徳川家に取り込めれば、我が天下はすぐそこぞ。
此度の機会は逃せぬ。しくじりは許されぬのだ」
家康が力強く宣言する。家康は本気で秀次を徳川寄りに取り込もうと画策していた。
「相手を取り込むためには相手を知らねばならぬ。奥のことは小松姫の侍女達に任せるとして、表向きのことだ。
正信、何か存念はないか。小姓程度では安心できぬ」
目を閉じて考えている正信。やがてゆっくりと目を開いて家康に言った。
「我が家から武将を貸すのはどうでありましょう。古来より嫁入りと同時に重臣を配下として差し出した例はいくらでもあります。
気の利いた小姓ではなく、決して上様を裏切らぬ男を一人、秀次公の側に送り込むのです。その者には徳川との戦以外では存分に働いて貰いましょう。
うまく手柄を立てて取り立てられれば、何かとやり易くなりましょう」
名案なり、されど秀次公は承諾してくれようか、と家康が問うとそれは正信にお任せあれ、命に代えても口説いて見せましょう、と本多正信が言う。
「されど、誰を送り込むのだ、正信」
忠勝が問うが、正信にもこれといった案があるわけでもない。徳川四将と呼ばれる男達はさすがにやりすぎであろう。
かといって、三河侍に多い血気盛んなだけの槍武者を送りこんでも役に立つまい・・・。
すると、家康が傍らに控えていた男に向かって言った。
「おぬしがゆけ」
家康に影のように付き添っていた男は静かにこう言った。
「御意」
こうして本多正信に丸め込まれた(初夜のことを思い出してほとんど聞いてなかった)秀次の配下に服部半蔵が加わった。
最も、その忠誠心ははなはだ疑問だったが。