茶々の懐妊から二ヶ月。
秀次は密通を知り悩んでいたが、もう一人、疑っている者がいた。
北の政所。ねねである。
結婚して以来、彼女が最も秀吉と付き合いが長い。
彼が足軽のような身分だった頃から、長浜城主となり、毛利と戦い、明智光秀を討ち、柴田勝家を滅ぼして天下を取った。
すべてに立ち会ってきた女性である。当然、彼の華やかな――華やか過ぎることもあったが――女性遍歴も知っている。
側室を統括する立場にいるのが正室であり、今も多くの側室達の公式な上司となっている女性・・・それがねねである。
その彼女である。自分に子が出来ないのは納得できても、なぜ茶々殿にだけ? と思うのは当然であった。
他の女性達・・・側室や秀吉が今まで戦地や新たな領地で手をつけた女性達は誰も懐妊していない。
そう、誰一人として。
それが、茶々だけが二度も懐妊している。
通った回数の違いだけとは言えないだろう。それなら彼女より前、もっと頻繁に通っていた女性だっている。
まことしやかに奥で囁かれている噂・・・茶々殿には密通の疑いがある、と。
どうにも怪しいが、確かめる術はない。まさか本人に聞くわけにもいかない。
もし・・・もしも密通していたとして、男子が産まれたらその子が豊臣家を継ぐことになる。
豊臣家を継ぐということは天下を継ぐということだ。
秀吉の種なら問題ないが、そうではないならねねには耐えられることではない。
自分と秀吉、二人でこの家を作ってきたのだ。その自負がある。
一度秀次殿に相談してみようか・・・。
ねねはそう思った。
秀次は秀次で忙しい。
朝鮮渡海軍は今のところ順調だが、朝鮮を領土として支配するのは問題が多すぎる。
秀次も家康もとっとと撤退したいのだが、秀吉は明まで征服する気でいる。
李氏朝鮮は明へと救援を要請し、明はそれに答えたが、明は明で問題を抱えており朝鮮問題にいつまでも関わっていられないだろう。
すでに現地からの報告で明の救援軍と李氏朝鮮は住民から糧食を現地調達しており、元々飢饉だった朝鮮の民は悲惨な状況になっているらしい。
平壌方面から流民が漢城周辺に押し寄せてきているとの報告もある。漢城には日本軍が大量の食料を持っており、周辺住民に分け与えている情報を掴んだようだ。
それはそれで困り物だ。無限に物資があるわけでもないので、流民が流れ込んで来たら全てに食料を配ることは不可能だろう。
そうなると、優先的に配られるのは元から漢城周辺に住んでいた住民・・・下手をしたら流民と漢城周辺住民が激突しかねない。
これだから占領地統治は無理があるんだ、と秀次は頭を悩ませていた。
蝦夷、樺太なら現地住民を慰撫してその祖霊を尊重して付き合いを考えればうまくいく公算は高い。
琉球や台湾もその領地が広大でないから日本に組み込むのも可能だろう。
しかし、朝鮮・明は無理だろうと秀次は最初から思っている。無駄な努力はしたくないのだ。
送っている自領の兵には風魔の手のものが多く入っている。彼らには密命を与えてあった。
漢城、あるいは平壌を制圧したら部隊を一時離れて、女清族にコンタクトさせるのだ。
武器を売りつけて明の後方撹乱させて清の時代の到来早めてやる! とひそかに誓っていた。
貿易は清とすればいいや、と割り切っていたのだ。
一方で蝦夷開発は順調だった。
政宗からの報告で現在で言う函館に城を築いて開発拠点としたいとあったので、許可したのだ。
今は街道整備と入植、現地住民との交易が始まっているようだ。遠からず蝦夷は日本の領土として組み込まれるだろう。
送り込まれた東北の大名達も懸命に開墾している。自領を持つには開拓していくしかないのだ。
琉球もすでに降伏。台湾まであと僅かである。
秀次は将来の、未来の日本のために樺太~台湾までを日本領としておくつもりであった。
朝鮮にはこだわるつもりはない。今はいいが後の現地の反発などを考えるとあまり領地にしたくない。
そして、何よりも茶々のことであった。
大野との密通はほぼ間違いない。
あれだけ喜んでいる秀吉が悲しくもあり、哀れでもあった。
しかし、秀吉本人には言えない。おそらく、自分が世継ぎになるための諫言としか取られない。
秀次は秀吉には悪いが、秀頼が産まれてそれで天下が治まっていくのなら、それでいいとさえ思っていた。
自分の切腹と世の戦乱がなければそれでいい。秀吉が死んだ後のことまで責任は持てない。
そう考えていた。最も、茶々に嫌悪感は感じていたが。
大野はおそらくただの"種"だろう。そこに情愛があるとはとても思えなかった。
ただ茶々が男を産み、その子が豊臣の世継ぎになれば茶々は生母となる。
それで幼い幼児を権力の座につければ、後はなんとでもなると思っているのだろうと推測していた。
しかし、そうなると秀吉亡き後に秀次が邪魔になる可能性はある。
そこは考えないとまずい・・・と日々仕事をしながら悩んでいる時。
大坂の北の政所から招きを受けた。
秀次が招きに応じて出かけていくと、驚いたことにねね以外にも客がいた。
秀吉の母である大政所、秀吉の姉朝日である。
なんか豊臣女性陣に囲まれた! 俺なんかしたか! と焦った秀次だったが、おろおろしてる所に大政所から声がかかる。
「はよー座らんかい。何をもたついとんじゃーお前は」
す、すんません、と言いながら座る秀次。
この大政所には秀吉も秀次も逆らえない。最も、大政所は政治的な事には関心がなく、そのセンスもない。
昔ながらの肝っ玉母さんであった。
「こちらへどうぞ、秀次殿」
朝日姫に勧められるままに座る秀次。
この秀吉の姉は、いたって普通の女性であった。
史実では徳川へ人質として嫁いでいくために旦那と強制的に離縁され、そこで母と共に焼き殺されそうになったりと散々であったが。
秀次が長久手で家康を撤退に追い込んだことでそんな必要もなく、今も幸せに暮らしていた。
秀吉の母と姉と正妻に囲まれた秀次はなんとなく居心地の悪さを感じながら座っていた。
むう、ねね様からの招きだったからてっきり他はいないと思ったが・・・。
ばーちゃんと叔母さんまでいるとは、これは予想外。
史実では亡くなってるのだが、めっちゃ元気だよ。特にばーちゃん。
俺の息子を抱いて「ひ孫が見れるとは、生きていた甲斐があったっちゅーもんじゃ」とか言ってたけど、あと二十年は生きそうです。
むしろ子供あやすのが上手すぎて稲がちょっとへこんでた。自分が抱いても泣き止まないのがばーちゃんが抱くとすぐ寝ちゃったからな。
しかし、何の話なんだろう・・・この面子、豊臣の裏を支配してる面子と言っても過言ではないような・・・。
「茶々殿のことです」
いきなり切り込んでキター! いやまて、ねね様は茶々殿の事と言っただけ!
一言も子供の事とは言ってない・・・。
「誰の種ですか?」
政治的にやばい発言キター!
死亡フラグにどんどん近づいてるような気がする!
とりあえず茶でも飲んで落ち着こう・・・。
「おみゃーなんか知っとるな?」
ぶー。思わず茶を噴出してしまった。
ばーちゃん、何を言ってるか俺には全然分からない・・・。
「あのくそたわけに種が無いことくらい、知っとるわい」
何事も決めつめるのはイクナイ!
誰かに聞かれたら俺明日にでも死んじゃうかも!
「誰も此処には近づけませんよ。招待したもの以外通さないように言っております。
万が一、それでも強引に近づこうとした者は、風魔の皆さんが抑えてくれます」
小太郎、いつの間にねね様の手下に!
「誰にも聞かれるわけにはいかない話があるので、周辺の警備を頼んだのですよ。
秀次殿のお命に関わると言ったらすぐに了承してくださいました」
さすが風魔だ。ここに来るまでに誰にも合わなかったけど、きっと色んなとこに潜んでるんだろう。
なら安心って、果たして喋っていいものかどうか・・・。
「黙ってるということは、喋ってるのと変わりませんよ、秀次殿」
というか、俺が必死で風魔に調べさせた事をなんでこの人たちは・・・。
「奥には奥の葛藤や駆け引きがあります。私が何もしなくても、他の側室の方から色々と耳に入りますよ」
さすが他の側室(茶々除く)から絶大な信頼を集めるねね様だ。
まあ、そりゃあみんなおかしいと思うわな、普通・・・。
「で、何か知っているのでしょう?」
叔母さん、そんな率直に。
「秀次、わりゃー知っとること話せ」
だからばーちゃん・・・。
「殿下の・・・種ではないとしたら、それは問題なのですよ、秀次。あなたにも分かっているでしょう?
最も、殿下に言っても聞き入れられることはないことも分かります。心の底から信じていますから、殿下は」
だからつらいというか、問題なわけでして・・・。
結局、洗いざらい吐かされた秀次。
だが、確たる証拠はないので茶々本人に追求もできない。
ねね達は秀次に改めて固く口止めして彼を帰す。
そして、ねねが口を開いた。
「もし、産まれた子が男子なら豊臣の世継ぎとなるでしょう。
子に罪は無い。しかしそうなれば、殿下亡き後茶々殿とその取り巻きが権勢を握ることは必死」
そうなれば、自分達は過去の人として遠ざけられる。それだけではなく、譜代の家臣も同じ目にあうだろう。
それは譜代の家臣だけではなく、たとえば秀次などの残った親族にも及ぶことは疑いない。
「秀長も逝っちまったから、今は秀次しかおらん。
それにわしゃ、あの茶々って娘が好かん」
ほとんど顔もみせねーしよ、と言う大政所。
「もし、産まれた子が男子なら、世継ぎとなることは止められません。
しかし、殿下がいらっしゃる間は何事も起きないでしょう」
秀吉は秀次を信頼しており、世継ぎの後見人とするだろう。
そのまま、世継ぎの男子が元服するまで秀吉が生きていれば問題ない。
しかし・・・。
「殿下は最近体調が思わしくありません」
妻としては心配だが、立場上その先のことを考えなければならない。
「秀次殿に頼るしかないですね・・・結局、あの子には苦労ばかりかけてしまいます」
「かまーせんわ。そんなやわな奴じゃないでーよ」
「秀次殿なら、なんとかしてくれますよ」
三者ともに茶々が権勢を振るおうとしたら秀次側に立ってそれに対抗する、と心を決めたようである。
知らず知らずのうちに、秀次は妙な立場に追い込まれていた。
凄く疲れた秀次はそのまま今日の仕事を放り出して帰宅。
家で帰りを待っていた稲を勢いのまま押し倒して久しぶりに心の充電をすることにした。
色んな感情が混ざったまま、稲が前後不覚になるまでいちゃついた秀次。
なんだか昂ぶりが収まらなかったので、そのまま夜は甲斐姫と朝までコースの秀次。
起きてからちょっと自己嫌悪に陥ったという・・・。
文禄ニ年八月。朝鮮で明からの救援軍が決戦に出れずにぐずぐずしている頃。
淀君こと茶々は男子を出産。
男子は拾と名づけられた。
後の豊臣秀頼である。
秀吉は大急ぎで名護城から帰還。
その場で拾を世継ぎとすること、秀次は関白職に留まり元服するまで後見を行うことを発表する。
秀吉は上機嫌そのものであり、秀次に何度も拾を頼む、お前にとっても弟ぞ、この子が天下を持てるように育つまでよく補佐してくれと手を取って頼んだ。
史実と違い、優秀で豊臣家随一の弓取りと呼ばれる秀次を切腹などさせるはずもなく、家老の筆頭として補佐してくれと命じた。
秀次はとうとう切腹フラグを乗り越えたかも、と喜んだ。
史実では切腹が文禄四年なのでまだ半信半疑だったが・・・。
文禄ニ年十二月。
膠着した戦線を見かねた秀吉は前線司令官にある命令を下す。
李氏朝鮮と明に対して降伏勧告を行え、というものである。
聞き入れられなかった場合、直ちに平壌を攻撃、これを制圧せよとのものであった。
その命を前線へと伝える使者を立ててから、秀吉は名護城へと戻ろうとする。
しかし、その時秀次にすら予想できなかったことが起こる。
秀吉が倒れたのだ。