文詠十二年。夏。
大坂城のとある部屋に豊臣家の人間が集まっていた。
上座に豊臣秀次。現在の関白職である。
下座には各々席次を気にせず勝手に座っていた。
尾張大納言と呼ばれる豊臣秀勝。
大和中納言と呼ばれる豊臣秀秋。
故太閤秀吉の遺児(とされている)豊臣秀頼。
見事に男ばかりである。
「あちぃ・・・」
秀次がそう呟いて上座でぐったりしている。
「兄上、だらしないですぞ・・・」
呆れたように秀勝が言うが、大して気にしない秀次。
「変わりませんね、兄上は」
穏やかに笑っているのは、秀秋である。
今年で二十一歳になった。
温和な性格で素直に育っており、誰からも好かれる好青年になっていた。
柔和な秀秋、冷静な秀勝、傑物秀次。
世に言う豊臣三兄弟である。
そしてもう一人。
現在は北の政所の下で育成され、すでに出家している、かつての大坂城の主。
豊臣秀頼である。
「叔父上達もお代わりなく。何よりでございます」
秀頼がそう口上を述べた。
「おう、秀頼。北の政所様はご機嫌いかがだ?」
「相変わらず、すこぶる元気ですよ、義母上は」
秀頼はそう答えながら、茶を立てている。
古田織部を師に持つだけあって、中々堂にいったものである。
秀頼は豊臣家の中でも本来は微妙な位置にいる。
そうならないように北の政所は自分で秀頼を引き取ると、自分の手元で出家させた。
後の禍根にならないようにとの配慮である。
出家と言っても、北の政所の元でとりあえず頭を剃った程度である。本格的に寺に預けられて・・・というものではない。
この時代の大名など身分の高い物が出家するとなると、自分で寺を建てて頭を剃って法衣を纏えばそれでいい。
別に修行してお経を唱えられなければならないという事はない。
ただ、秀頼の場合、少し変わっている。
彼は書道、茶道、絵、短歌などと言った風流を好み、当代の名人達に教えを受けていた。
元々そういった素質があったのか、今はメキメキと腕を上げ、師匠達を驚かせている。
その道の名人、当代の頂点に立つほどの男が師匠であるわけだが、その師匠達が秀頼の事を書き残している。
茶道の師匠、古田織部曰く、
「基本に忠実であり、非常に素直な茶となっている。もう少しひょうげてもいいかも知れませぬ」
短歌、書道の師である細川幽斎曰く、
「歌は古典をよく学び、理解しておられる。書は力強く雄大であり、いま少しすれば歴史に名を残す名人となられます」
それほど評価されている。
(・・・秀吉の種じゃないってのが、ますます良く分かってきたな)
豊臣三兄弟は全員共通して芸術方面に才能がない。
というか、豊臣家で芸術方面に才能がある人間は皆無である。
どうも、政務や戦に才を見せても芸術や茶道に才能を見出す人間がいないのだ。
(まあ、そっち方面は秀頼にまかせてしまおう・・・)
久しぶりに集まったのだから茶でも飲もう、と秀次が誘って始まったこの茶会。
世は平穏であり、天下に取り立てて大きな問題はない。
国軍も創設され、仕官学校や官僚育成学校も順調である。
各地に学校の建設が始まっており、教育水準の向上という秀次の目標も達成されそうである。
ヌルハチが明の前に李氏朝鮮を倒してしまったので、釜山との間での交易が盛んに行われている。
北では南部氏が樺太に拠点を作った。南では大友と島津が台湾統治を大過なく努めている。
全国の金山、銀山から上がる金銀も膨大な量になっている。
学校の建設などでかなり金を使ったが、それ以上に貿易や国内の流通による商業で儲けているので、金はまったく減っていなかった。
むしろ毎年どんどん増え続けている。
「しかし兄上、何もこの部屋で茶を飲まなくとも・・・」
そう言ったのは秀秋である。
彼らが茶を飲んでいる部屋は、元々大奥だった部屋だが、余っているので今は別の用途に使われていた。
床が補強され、四つほどの部屋の壁を取り除いて一つの大きな部屋にしている。
部屋には、天井までびっしりと金の延べ棒が積まれていた。
「見てもらったほうが早いと思ってな。俺も信じられんが、この部屋の金塊は全て余剰金だ。
金蔵に入りきらなくなった物をこっちに移したんだが・・・」
「新しい金蔵を作ったら、そこも直ぐに埋まってしまって戻せなくなったらしいですね」
周囲を完全に金塊に囲まれている状態で悠々と茶を飲む秀勝。
「うむ、困ったことにまだまだ金は増え続けている。清との取引が本格的に始まってさらに儲けてしまった。
最近は南蛮人の商人も売れそうな物はなんでも持ってきやがる。思わずメイド服とシスター服を買ってしま・・・なんでもない」
ごまかすように茶を飲む秀次。
「・・・関白様が贅沢をされないからですよ。別荘として城でも作りますか?」
秀頼がそう提案する。
「いらんなぁ。大坂城でも広すぎるってのに。伏見城なんて、そのまま士官学校にしちまったし」
そう、伏見城は現在、仕官学校として使われている。今も各地から集められた俊英達が武の天才達に講義を受けているだろう。
ちなみに講師は持ち回りで、現在は直江兼続と大谷吉継、それに後藤又兵衛、明石全登らが教えているはずである。
「先に言っておきますが、北方開発と南方開発の資金も十分余ってますよ」
「尾張の津島港、伊勢湾の造船所もこれ以上大きくするのは難しいですよ」
秀勝と秀秋に先にそう言われてしまう秀次。
「む、なら北の政所様や大政所様のお住まいを・・・」
「北の政所様に三万五千石の化粧料付きで寺を建立したばかりでしょう。
大政所様のお住まいは昨年改築したばかりですよ」
新たな茶を立てながら、秀頼がそう釘を刺した。
ちなみに他の豊臣の女性達の住まいも当然豪華な寺を建立している。
「じゃ、じゃあ朝廷に・・・」
「三肩衝の献上と共に帝の別荘をお建てになったではありませんか。あれも十分、道楽といえば道楽です。
これ以上は必要ないのでは?」
秀秋に否定された。
いよいよ金の使い道に困る秀次。
(国軍の規模を増やすか? いや、数だけ増やしてもなぁ。仕官の数が足りない。
将来的にはもっと規模を大きくできるかもしれんが今はそこまで大きな常備軍は人材がないな)
将が多くても、もっと小さな規模の長、小隊長クラスが不足しているのだ。
今までの足軽頭等では、根本的に考え方が違うので、今は地道に教育するしかなかった。
国内ではもう戦はないだろうが、常備軍と海軍を持っておかないと、対外的に戦えない。
(いつかは・・・この国も世界と戦って行かないといけない日が来る)
いわば二百年以上先の為に今からその土台を作っているのだ。
(定期的に欧州へ使節団を派遣することも続けてるし。この慣習を残せばたぶん産業革命に乗り遅れないと思う。
たぶんだけど。まあ、明治から昭和にかけて苦労しないように今から出来る事はやっておいてあげよう。
たまに忘れそうになるが、俺元々は平成から来たんだし)
そこまで考えて、秀次はふとあることを思いついた。
周囲に高く積まれた金塊を見て、ふっと笑った。
「兄上? 何か悪巧みでも思いつきましたか?」
「うっせぇぞ、秀勝。悪巧みじゃねぇよ。
何、この金塊って全部余剰金・・・なら好きに使って構わないわけだ」
何を企んでいるのやら・・・と秀勝がため息をついた。
「・・・ふむ。一部の金塊は別の部屋、そうだな、新しく小さめの金蔵建ててそこに移す。
俺が死んでから、二百年後まで開けないようにと遺書を残そう」
「何のつもりですか?」
訳がわからないといった顔の秀勝。
「そうだな、その蔵にはここにある金塊の三分の一程度を入れておこう。
後の金塊は隠す」
「・・・隠す??」
きょとんとして聞き返す秀秋。秀頼も分けがわからないようだ。
「そう、隠す。隠し場所は後で考えよう。問題はただ隠すだけじゃ意味がないってことだ。
黄金ってのは、どんなに年月が過ぎても価値は衰えない。時を越えて未来の日本に贈り物としよう」
明治維新後か、あるいは第二次世界大戦前くらいに発見されるように仕込んでおけば・・・と考える秀次。
これだけの金塊だ。かなり助かるに違いない。
(昭和に大恐慌があったな。確か・・・1970年。それだ、それにしよう!)
悪戯を思いついた子供のように笑う秀次。
それを見て秀勝はまたため息をついた。
(この兄は・・・また何を考えついたのやら)
1870年。秀次の不思議な遺言に従って、天皇陛下立会いの下、大坂の金蔵の錠が外された。
中には多くの黄金が積み上げてあり人々を驚かせたが、その黄金を運びだした後に、作業員が妙な事に気がついた。
床に文字が書かれていたのである。
年月が経っても消えないように、床に彫刻のように文字が彫られていたのだ。
「この金塊を運び出して後、60年後に我が墓所の地下を探れ 豊臣秀次」
そこには遺言の数倍のおびただしい金塊が埋蔵されていた。
これが豊臣埋蔵金伝説の真実である・・・。
作者あとがき
一発ネタ的なものです。
徳川埋蔵金伝説があるなら、豊臣埋蔵金伝説もあるだろう、とw