大和中納言・豊臣秀秋。
豊臣秀長の養子という立場であり、秀長から領地を受け継いだ。
本人は知らなかったが、かつて小早川家に養子に出す話が挙がったことがある。
この話は挙がってきた時点で秀次が潰した。
「わざわざ他家に養子に出さずとも、豊臣の分家として所領を与えたほうが良いでしょう」
豊臣家はそもそもが武家の出ではない。秀吉に兄弟縁者が少ないので、豊臣家の名を持つ者を減らすことはないだろう、と進言したのだ。
最も、秀次は史実で小早川秀秋のことを知っていたので、止めただけだが・・・。
小早川家は隠れもなき名門である。そこに氏素性の知れぬ豊臣の者を後継ぎにするのは抵抗が大きいだろう、との配慮でもある。
秀秋は秀次によって英才教育を施された。
秀秋の相談役とも言える存在、宮部継潤によって。
宮部継潤から武将としての心得、大名としての心得、人を率いる立場としての心得、天下人の弟としての心得。
様々な教育を受けて、彼はしっかりと秀次を補佐する立場としての地位を確立した。
秀長から大和中納言を受け継ぎ、寺社・朝廷との調整や交流を主な仕事としている。
それ以外に重要な仕事として、秀秋は士官学校の運営を行っている。
講師や軍制、軍の編成などは大きくは秀次が行うが、金銭的な管理や資材の調達、士官学校以外の町民たちの学校経営でも責任者なのだ。
秀秋は今、士官学校の講師たちから意見を貰っているところであった。
今日、この場にいる講師は3人。
一人は直江兼続。上杉家の天才軍略家。
一人は大谷吉継。盲目の軍師。
一人は黒田官兵衛。『百万石あれば天下を取った』と言われる男。
「陸軍は順調です」
直江が茶を飲みながら穏やかに言う。
「秀次様のお考えのとおり、小部隊を4つで中部隊、中部隊を4つで大部隊、大部隊を4つで師団という形に持っていけそうです。
最も、秀次様の懸念どおり、小部隊長と中部隊長がなかなか・・・大部隊や師団を率いる人材にはことかかないのですが」
大大名クラスになると、采を取れる名将を何人かは抱えているものである。
それらを大部隊長、師団長とすればよいのだが、小部隊長や中部隊長は士官学校で教育が終わるのを待つしかなかった。
「現在、日本国軍の最初の師団の編成が始まっております。大部隊長には真田信之、真田信繁、明石全登、それに私、直江が勤めます。
師団長ですが、我が主君、上杉景勝が勤めることとなります」
この第1軍の主力兵は信濃・関東・北陸・東北から集められた者であり、総数は3万8千。
旧来の大名―家臣というつながりではなく、日本国の軍隊としての形。
「必要に応じて大名たちを招集する」のではなく、「大名たちから戦闘司令官を常時軍に配備し、兵は各地方から選抜する」という方式である。
小部隊を率いるのは士官学校卒の者達。そこで才を認められるか武功があったものは順次出世していく。
俸給は給料制。大部隊長以上は領地が与えられる。ようは貴族となる。
「後方支援部隊のほうも、訓練は進んでおります」
顔を白い布で隠している大谷が発言する。
「補給・後方支援専門の部隊を設立せよ、と言われた時は驚きましたが、確かに必要ですな。
大きな規模の行動には、まさにこの部隊が命運を握っていると言っても言い過ぎではありますまい」
現代の知識を持つ秀次には「補給=勝利」という考え方があったため、大谷に命じて後方支援専門部隊を作られていたのだ。
「わしのほうは、なかなか進んでおらぬでな。申し訳ないことじゃが・・・」
黒田が秀秋を見ながら言った。
「黒田様のほうは、やはり人がいませんか?」
「うむ、竹中半兵衛殿やわしのような考え方を持った人間を集め、戦略を決定し戦局を動かす・・・そのような部署を考えたこともなかったしの」
基本、軍師は軍に一人である。優秀な軍師はそれだけで全軍を勝利に導ける。
秀吉に竹中半兵衛がいたように。
今川義元にかの黒衣の宰相がいたように。
それらの才を集め、師団を効率的に動かす部署を作れ、といわれたとき、黒田は思った。
(俺一人で十分だろうに)
が、確かに史上空前の規模で動かす時・・・大坂の陣の時のように・・・全軍の頭脳は必要かとも思う。
(が、それほどの才を持つものはそうはおらん・・・直江殿は大部隊長になってしまったからのう)
ようは彼の仕事は自分の後継者を多く育てよ、ということだ。
育てるにしても、まずは才ある人間を見極めることから始めなければいけない。
士官学校内の生徒から、軍略・戦略において才を発揮する者を。
「・・・ま、気長にやらせて頂く。わしのほうは講義をしながら人を見ているだけじゃ。予算は別にいらんですわ」
「私のほうは、これより本格的な訓練に入ります。馬、鉄砲、大筒、槍に火薬などをよろしくお願いします」
直江が秀秋に頭を下げる。
秀秋はそれを書き取っていき、手配していくのが仕事である。
「こちらのほうはより大量に、より迅速に兵糧や武具を運べるように様々な手段を講じているところであります。
願わくば、海軍と合同で資材の輸送訓練を致したく」
大谷からの提案も書き留めていき、必要な資材や海軍との調整を検討する。
「わかりました。ではそのように」
そう言って秀秋はまとめる。
基本的に秀秋は事務処理能力は高いので、これくらいなら円滑に届けることが可能である。
豊臣秀秋。豊臣四兄弟の三男。
優れた事務処理能力と穏やかな口調と雰囲気で様々な調停や問題ごとの解決にあたった男。
彼が日本軍の開設に深く関わっていたのは、少し不思議である。
豊臣秀秋(とよとみの ひであき/とよとみ ひであき)は戦国時代(室町時代後期)から安土・豊臣時代にかけての武将・戦国大名。「豊臣秀秋」の読み方についての議論に関しては「豊臣氏」を参照。
概要
兄である豊臣秀次に引き立てられ、国政に関わっていく。
豊臣秀長の所領を継承し、「大和中納言」と呼ばれた。
朝廷や寺社との交渉や接待、対応などを主に行っていたとされる。
半生
朝廷や寺社との交渉以外に、仕官学校や全国学校に関する事務のトップでもあった。
「国軍創設の陰の立役者」と呼ばれる。
本人は戦場に出た事はなく、あくまで事務方として一生を過ごした。
人物
・誰からも好かれる穏やかで穏和な人柄だったという。
・幼少時代より宮部継潤に学び、多くのことを吸収した。
・中々結婚しなかったが、結婚後は妻のみを側に置き、側室などは持たなかった。
辞世の句
伝わっていない。
最期を看取った重臣の書に「下手な歌しか作れぬし、それが後世に残るのは気恥ずかしい」と病床で答えたとの記録が残っている。
あとがき
Q.クリスマスに何やってんの?
どうせ仕事なんだよ。息抜きだよ。
えー、あと豊臣家模様は3~7まであります。
更新は気が向いたらw