河内二万石。
れっきとした大名である。
名を羽柴孫七郎秀次、と改め、秀吉の甥として正式にその傘下に加わった、と言えなくもない。
賤ヶ岳の戦いの時点では、まだ彼は三好孫七郎秀次だったのである。
本来、史実では来年以降に羽柴秀次になるはずであったが、秀長の褒め言葉と、秀吉の親類を取り立てて周囲を固めたい事情が、彼を羽柴姓にした。
史実より、少しだけ早く。
彼は今、大阪にいる。本来なら領地である河内にいって藩政をしきらねばならないが、今の彼には優秀な能吏も役人もいない。
舞兵庫に武略はまかせっきりだが、彼に藩政まで仕切らせるのは無理がある。
それに、どうせ長くいる場所ではない。そう、賤ヶ岳の戦いの後、やはり歴史通りの事があった。
徳川家康配下、石川数正が『初花』を携えて祝勝を延べに来たのである。
秀吉は喜んだ。秀次は緊張した。
歴史は史実とほぼ同じく流れている。つまり、来年には小牧・長久手の戦いが起こる可能性が非常に高い。
小牧・長久手の戦い。
徳川家康と豊臣秀吉。
”戦国時代”を代表する英雄二人がただ一度、戦った著名な戦いである。
そして、歴史上においては秀次の名が大きく登場する。不名誉な記録として。
徳川家康。東海の覇王。海道一の弓取り。江戸幕府を開いた男。
忍耐の人。権謀術数に長けた策謀家。あるいは、ただ長生きによって天下を取ったという人もいる。
俺はこのまま行けば、来年には小牧・長久手の戦いに行くことになる。秀吉の縁者として、一手の大将となるだろう。
あの戦いで、俺は別働隊の指揮官となり、三河を攻める役目になるはずだ。
そして、家康に看破されて負ける・・・というのが秀次の大まかな役目だ。
後の研究家においては、ここで秀吉が家康を屈服させることに失敗したため、秀吉は生涯家康に遠慮せねばならず、征夷大将軍の座も掴めなかった、とさえ
言われている戦いである。
さて、どーっすかなぁ・・・。
秀次は大阪にある自分の屋敷で横になりながら考えていた。
まず、河内二万石。いくら一年しかいないと言っても、内政をほっとくわけにはいかん。
自分の家臣の中で誰か・・・能吏として優秀そうな奴に、方針だけ言い渡してやらせるのがよさそうだ。
そう考えた彼は、田中吉政にとりあえず丸投げを決めた。
優秀だし、16歳の俺が頑張るより領民も言うこと聞くだろう、との判断である。
彼は、現代日本から戦国時代に来て変えたほうがいいと思ったこと、逆に変えないほうがいいと思ったことを纏めて田中吉政に言いつけた。
・治安を良くするように心がけてくれ
・罪を犯した者は勝手に裁くのではなく、取調べを行ってから裁くこと
・親の罪は子には及ばないようにすること
・検地を行って台帳を作ること
・楽市・楽座を作ったほうがいいと思う
・領地に新たに城を作る必要はない。よって領民に労働を科してはいけない
・税率は下げるように
主に、人気取りが目的だったが、検地を行って台帳を作るのはいずれ大きな領土を持った時の予行演習を能吏にさせるつもりであり、城を作らないでいいと
の項はどうせ一年しかいないから作っても無駄、と割り切ったからである。
税率を下げると軍費が不安だが、小牧・長久手の戦いに行くなら複数の大名をまとめる大将になるのだから、自分の軍費はさほど必要ない、とこれも割り切った。
今、考えなければいけないのは小牧・長久手の戦いだ・・・たぶん、奇襲されることがわかってるんだから、その回避はなんとかなる。
舞兵庫にまかせればなんとかしてくれる。「奇襲あるよ」と言っておけば奇襲にならんからな。
しかし・・・奇襲が失敗したら、たぶん秀吉が勝つよな。
小牧・長久手で勝ったら・・・家康は秀吉に屈服し、数ある大名の一人に落とされるだろう。
そうなったら、北条征伐の後に関東を与えるなんてことはしないだろう。関東八州がなければ・・・たとえば家康が50万石くらいなら、秀吉亡き後に何もできない。
それがほんとにいいのか、俺には判断つかん。
秀吉の後半生はなんというか・・・酷いしな。
死んだ後、絶対に俺が生きてれば俺が苦労するのは目に見えてるし・・・秀頼はガキだし。
じゃあ、やっぱ史実通りに家康が秀吉の後の天下を・・・だめだ、俺を生かしておく未来がみえません。
まあ、わからんし! 実際にやってみないと!
奇襲は避けれるなら避けよう。下手したら俺が死ぬ可能性まであるし。
なるようにしかならん! 今の俺は16歳だし!
小牧・長久手までに俺ができることも少ないし! 秀長さんに「雑賀と根来と長宗我部と佐々成政の抑えを今から置いておきましょう」とか言えないし!
「なぜ?」と問われたら「家康と来年戦う時に邪魔するから」とは答えられん!
今、俺がやることは一つ! 家臣の数を増やすことだ!
舞兵庫と田中吉政だけじゃ不安だからな。
よし、宮部の父ちゃんと三好の爺さんのとこでも挨拶に行ってくるか・・・。