街を早足で歩いていると、冬の気配を色濃く残す風が、火照る頬を冷やしてくれて心地いい。
あたし、アリサ・バニングスは、もうすぐ高校三年生になる。
自分で言うのもなんだけど、あたしはとても恵まれてると思う。優れた容姿とセンス(勿論、日々磨く努力も怠ってない)。パパは世界的な事業を手がける資産家。そのパパの庇護の下、私は勉強にスポーツに打ち込んできた。生来の負けず嫌いに、環境と才能も加わって、同年代であたし並みの能力の持ち主はほとんどいないと思う。あたしの知る範囲では、親友のすずかくらいだ、立場も能力も、あたしについてこれるのは。周りは、そんなあたしを特別視するようになり、そして、あたしは向けられる無言の期待に応え、ますます周囲の視線はあたしを特別視して。
気づいたら、友達と言えるのはすずか一人になっていた。
そんなとき、ふと思い出した眼差しがある。
「親友が生涯で一人得られたら、それは十分幸運なことだよ」とパパは言う。あたしもその通りだと思って、変わらず何事にも懸命に取り組んできた。そして、来年度には高校卒業。次は、大学に入って、そこも卒業したら。あたしは、パパの仕事を手伝うようになるんだろう。すずかの実家も事業をしている。大学はお互い違う国に行く予定だし、仕事についたら、なおさら、会える機会は少なくなるだろう。
そう思うとき、ふと脳裏をよぎる面影がある。
高校を卒業したら、ステイツに渡り、あちらの大学に入学する予定だ。授業がはじまるまで、半年くらい時間があるので、先の話だけど、同じく海外の大学-彼女はドイツだけど-に進学する予定のすずかと、あちこち旅行でもしようかと話してる。
そうして、海外にいくことを決めたとき、胸に浮かぶ名前があった。
……高町なのは。小学校6年間のうちの3年間と数ヶ月、一緒に過ごしたクラスメイト。ほとんど険悪といっていいような関係だった。今、思えば、あたしが一方的に突っかかるだけで、彼女には相手にされてなかったけれど。それでも、あるいはそれだからこそ、彼女のことは鮮やかに記憶に焼きついて、あたしの心の表面にふとした拍子で浮かび上がる。
例えば、それは。機嫌の悪いときに癇に触れた相手を、感情的に罵ろうとしたとき。
例えば、それは。努力して届かなかった目標を、あきらめようとして、自分で自分をごまかそうとしたとき。
そんなとき、彼女の記憶が蘇る。そして、彼女はあの静かで暗い、底の見えない瞳で、あのときのようにあたしに問い掛けるのだ。「それでいいのか」と。
彼女と初めて会話したのは、小学校1年生のときだ。あまり、というより明らかに友好的な会話じゃなかった。
当時、あたしはクラスメートだったすずかをいじめていて。彼女は、ある日、いつものようにすずかに絡もうとした私に言ったのだ。
「毎日、精がでることだ。だが、気の毒だが、いくらそんなことを繰り返しても、お前が彼女のように成れるわけじゃない。無意味な行動だな」
言われてあたしの頭は沸騰した。正論を言われて、素直に自分の行動を改められるほど、あたしは大人じゃなかった。
反射的に、彼女の頬をはたいてた。はっきり覚えてないけど、、相当な罵詈雑言を浴びせたと思う。
その間、彼女は、赤くなった頬を押さえもせずに、じっと、私の前に立っていて。そして、あたしが言葉が続かなくなって、息を荒げて、少し冷えた頭で改めて、彼女を睨みつけた時。彼女は言った。さっきと変わらない、静かな声で。
「それでいいのか」
そのときの彼女の目を覚えている。あたしはあれ以来、あの瞳に囚われている。時折、思い出す。なにか、きっかけがあるわけじゃない。なんでもないときに、ふっ、と思い出すのだ。そして思う。彼女は今どうしているのか、と。
だから、今、思わず目をこすって、見間違いじゃないかと疑ってから、慌てて走り出したあたしの行動は、誰にも馬鹿にできないと思う。だって、こんなに都合よく、彼女とばったり会うなんて! 何度か、そんな夢は見たけど、これは現実だった。
いらいらしながら信号が変わるのを待ち、ダッシュで車道を越えて―ああ、ドレスにハイヒールだと走りにくい!―、身体能力にモノを言わせて、さっき見た茶色い髪に追いついたとき、あたしは周囲を憚らない大声をあげていた。
「高町さん! 高町さんでしょ! ちょっと待って!」
振り向いた彼女は、表情一つ変えずにその場で立ち止まって。荒く息を吐きながら、彼女の面前に立つ私を見て、動揺の欠片もない、静かな声で言った。
「バニングス、だったな。久しぶり」
あたしが想像していたより遥かに穏やかな声だった。
高町さんは随分表情豊かになっていた。昔は、他人を拒絶するようなところが態度にも表情にも表れてて、あまり、感情の変化を見せることはなかったんだけど。
用事がある、という彼女を、半ば無理やりに喫茶店にひきずりこんで、向かい合わせに座りながら、あたしはそんなことを考えていた。すずかのお姉さんの忍さんの結婚披露パーティーに出席した帰りのあたしはドレス姿で、けっこう店の中で浮いていたけど、あたしはそんなことは気にとめず、久しぶりに会う元クラスメートの顔をじっと見た。
彼女はいま、あたしの前で、砂糖も入れずにコーヒーを飲んでいる。あたしの視線に気づいて、「ブラックが好きでな」と彼女は笑った。その笑顔に、またあたしは動揺する。同じクラスだったころとは、随分違う彼女の雰囲気。8年もたってるんだから、当たり前なんだけど、あたしの中の彼女は、別れたときのまま、成長を止めていたから。
落ち着け、あたし。あたしだって、無駄にこの8年を過ごしてきたわけじゃない。それに後悔は散々したのだ。もう、同じ失敗は繰り返さない。
あたしは、落ち着くために、一つ息を吸い込んでから、質問を口にした。
「その、あんたは海外に引っ越したのよね。あたしも大学はステイツ……アメリカに行くつもりなの。あんたは、いま、どこに住んでるの? なにやってるの?」
高町さんは、皮肉気に頬をゆがめて、でも声は無造作に。なんでもないように言った。
「軍人みたいなことしてる」
あたしは声を無くした。軍人? あたしと同い年のあんたが? 混乱する頭から搾り出せた言葉は、ほとんど悲鳴だった。
「なっ、なんでっ!」
「残念ながら、才能があったらしくてな。スカウトされた」
高町さんは肩を竦めた。その瓢げた態度が、混乱していたあたしに怒りという感情を呼び起こした。
「才能って何よ! 断ればいいじゃない!」
「そうだな」
高町さんは苦笑した。そのなにかを諦めたような笑顔に、あたしの頭は、瞬間沸騰した。
「なによ! なに諦めたような顔してるのよ?! 嫌なんでしょ?! だったら抵抗しなさいよ!」
あたしの怒鳴り声に、店内の視線が集中したが、気にならなかった。
8年ぶりに会った彼女が、そんな理不尽な状況に甘んじて ー しかも、当人は諦めてしまっているようなのが、許せなかった。
そんなあたしの態度に、高町さんは、苦笑を深めて。それから、穏やかな表情に戻って、なんの関係もなさそうなことを話し出した。
「俺が、この街を離れた年の春。妙な事件が続いたのを覚えてるか?」
「話を逸らさないで!」
声を荒げたあたしに、高町さんは視線を向けた。静かで落ち着いた光を宿した瞳。あたしは、急に頭が冷えるのを感じた。高町さんは、あたしに視線を向けたまま、淡々と続けた。
「廃ビルが崩壊したりとか、道がひどく壊されていたりとか」
「え、ええと……」
あたしは記憶を辿った。結構昔のことだ。
「……ほとんど覚えてないわ。なにか、物騒なことが立て続けにあって、学校でも注意を促されたんだっけ? それくらい」
そうか、高町さんは言って、呟くように続けた。
「アレは実は、ある組織と別の組織の抗争でな。当時、この街で何回か戦闘が行なわれてた」
「うそ……」
意識しないで、言葉が漏れた。だって、そんな映画みたいなことが本当に……。ッ!
唐突に意識が飛躍して、結論をたたき出した。彼女はさっき、自分の今をなんと言った? どうして、そのあとに、この話題を持ち出した?
「まさか……?」
あたしの声は震えていた。だが、高町さんは気にせず、感心したような表情を浮かべた。
「相変わらず、頭の回転が速いな。
そう、俺はその抗争に巻き込まれた。運の無いことに、俺自身の顔も、住所も、おそらくは家族のことも、その組織に把握されてた」
「で、でも! そんなの! 警察がいるじゃない!」
「警察でも、戦闘のプロ相手に、家族全員の安全を保証できるものじゃない。それに家族の生活を俺のせいで壊したくなかった」
それは、家族の為に自分を犠牲にしたということ。
「馬鹿言ってんじゃないわよ! 家族でしょ! 頼ったり迷惑掛けたり、当たり前にするのが家族じゃないの! 馬鹿なこと言ってんじゃないわよ!」
「そうだな」
高町さんはまた、笑った。嬉しそうな笑顔なのに、なぜかひどく儚げに感じる笑顔だった。
その笑顔に、興奮していた気持ちが冷やされ、頭の熱も治まっていく。あたしは言葉を失って、うつむいた。もう取り返しはつかないのだ。彼女の選択は8年前になされ、そして、おそらくはそれ以来ずっと、その組織にいるんだろう。あたしは歯を食いしばった。
「そんなに気にするな。慣れれば、どうということはない」
それが、ひどく悲しい言葉だということに彼女は気づいてるのだろうか?
「それに」
不意に彼女の言葉の調子が変わり、あたしは思わず顔を上げて彼女の顔を見た。
彼女は不敵な笑顔を浮かべていた。その笑顔に、あたしはなぜか、ジョンーうちの飼い犬達のボス格だーの悠然とした堂々たる態度を思いだした。
「いつまでも、檻にいる気は、今はもうない。奴らに一杯食わせる手筈をすすめているところだ」
そのときの彼女の表情をどう表現したらいいのだろう。あたしは漠然と、おとぎ話で竜退治に挑む英雄達は、こんな表情をしているのかもしれない、そう思って。すぐに慌てて、頭を振った。あたしはアリサ・バニングスなのだ。同性の表情に見とれるなんて、そんなことはありえない。
突然、奇妙な行動をしたあたしに、高町さんは不思議そうな顔で瞬きをしたが、突っ込まれる前に、あたしは彼女に質問した。べ、別にかっこよかったとか思っちゃいないわよっ。
「そ、それは良かったわね。そ、それで、その仕返しはいつ頃になりそうなの? あ、部外者に言えないようなら、別に構わないわ」
彼女のしようとしていることは、その組織への反乱になるだろう。そうそう簡単に話していいものとも思えない。
そう思った私に、彼女は軽く笑った。
「さて、いつになることやら」
「……言えないなら、そう言ってくれればいいわよ。そんなホイホイ口にしていいことじゃないってことくらい、あたしにも判るわ」
「ごまかしてるわけじゃない」
笑いが苦笑に変わる。高町さんは座りなおすと、机の上で両手を組んだ。
「本当にわからないんだ。チャンスがいつ来るのか。本当に来るのかさえも。
だが、俺たちは準備を進めている。いつか、必ず、そのときが来ると信じて」
いつ来るか判らないという反攻のときのために、準備をしているという高町さんの、その目。かつての、暗さだけを宿した目とは違う、奥底に静かで固い意思を秘めた目だった。
すずかへのいじめを止められて。もともとあたしが悪いって頭ではわかってたし、彼女のあのときの瞳を思い出すと不思議に感情の暴走を抑えられたから、あたしはすずかに謝って、友達になることが出来た。でも、高町さんには、図星を指されたことへの恥ずかしさと、彼女のまるで変わらない態度に、あたしのことなんか眼中にないって言われてるみたいで。素直になれずに、ツンケンした態度でいつも突っかかるような態度で接し続けていた。あとで、いつも落ち込んでいたのだけれど。
あたしは彼女に謝りたかった。謝って、止めてくれてありがとうって伝えて。それから、友達になりたかった、無表情で無愛想で一人を好む態度から、クラスでも腫れ物扱いされていた彼女だけれど。不思議とあたしは、いい友達になれるような気がしていた。
でも、一度そんな態度で接してしまうと、なかなかそれを直すことができず、すずかに手伝ってもらったりもしたんだけれど、上手くいかず、内心では悶々としながら、でも、態度はツンケンとしたままで。変わらない関係のまま、時間が過ぎていった。そして、同じクラスでいる幸運に内心感謝した2年目と3年目を過ごして。4年目の初夏、彼女は突然、なんの前触れもなく転校していった。
朝の先生からの話でそれを聞いたあたしは呆然とした。次こそは、この次こそは。そうやって先送りにしてきた言葉は、結局、口に出せないまま、聞かせたい相手を失った。
その夜は一晩泣き明かした。後悔で胸がいっぱいだった。すずかは、何も言わず、そっと私の後悔の言葉を受け止めてくれた。
それ以来、わたしは自分に素直に、思ったことを素直に口にするように努力している。……なかなかうまくいかないけれど。でも、あのときのような後悔をするのは、もう嫌なのだ。
だから、あたしは口を開いた。自分の気持ちを伝えようと。
いつ来るのか、本当に来るのかもわからない、そんな未来のために準備をしていると、強い瞳で言った彼女への励ましの気持ちを。
「あたしのことはアリサでいいわ。そ、そのかわり、あんたのことも、な、な、なのはって呼ばせなさいっ」
言ってから耐え切れなくなってあたしはソッポを向いた。ああ~、また誤解される! で、でもダメ、恥ずかしくって彼女の顔をまともに見れないっ。そ、それに、いま気づいたけど、これってかなり唐突な申し出じゃない! ワケ判んない奴とか思われたら、どうしよ?!
あたしが心の中でじたばたしていると、高町さんが、ぷっ、と吹き出す声が聞こえた。顔が一層熱くなる。
あたしはソッポを向いたまま、早口に言った。
「べべ、別に無理に頼んでるわけじゃないんだからっ。今まで通りだって、私は、ぜ、全っ然っ、構わないんだからねっ!」
い、言ってしまった! あたしってばどうしてこうなんだろう?! もはやパニックの領域に足を踏み込んでいるあたしの耳に、高町さんの声がするりと滑りこんできた。
「いや、俺のほうが構う。是非、なのはと呼んで欲しい。……ありがとう、アリサ」
言葉の最初のほうこそ、笑いを含んでいたが、それは決して嘲笑うような響きはなく、暖かさを感じさせるものだった。そして、そのあとの、感謝の言葉とあたしの名を呼んだ声の響き。
まるで、大切な宝物をそっと拾って差し出すような、そんな丁寧で柔らかな声色だった。
あたしの頭は一層熱くなって、彼女の顔も見ずに、
「そ、そう?! なら、いいわ! よ、よろしくねっ、なのはっ」
そう言うのが精一杯だった。それでも、あたしは、頭の片隅で、彼女がきっと微笑んでいるだろうことを確信していた。
そのあと、またしばらく雑談をして。(あたしはまだ舞い上がっていて、たぶん、相当挙動不審だったと思う。高町さん、って違う、なのはは、そんなこと一言も言わずに、柔らかい眼差しであたしをみていたけれど) そろそろ行かないと、用事に間に合わなくなる、というなのはの言葉で、あたし達はお開きにすることにした。
「ここはあたしが払うわ」
席を立ちながら、素早くあたしは伝票を手にした。たかま…なのはは、ちょっと眉をよせて、「だが……」と言い掛ける。その言葉に被せるようにして、あたしは言葉を続けた。
「いいから払わせなさい! そ、それから……」
わたしは落ち着こうと息を吸い込む。耳がとても熱い。きっと顔中真っ赤になってるんだろう。
「次のときはアンタが払うのよ! 奢られておいて、はいサヨナラなんて、許さないんだから!」
高町さんは、ううん、なのはは、きょとんとして。それから。とても、とても柔らかく微笑った。
「ああ。約束しよう。次に会うときは俺のおごりだ」
「そう。判ればいいのよ。約束やぶったら、ひどいんだからね!」
「ああ。……ありがとう、アリサ」
「べ、別にお礼を言われるようなことじゃないわ」
「俺が言いたいんだ。うけとってくれないか」
「そ、そう。なら、しかたないわね。受けといてあげる」
「うん」
そうして、あたし達は喫茶店を出て。お互いの連絡先を交換して(なのはの連絡先は実家だそうだ。すぐに連絡がつくわけじゃない、すまない、なんて謝るから、そんなことで謝るな、と叱っておいた)、別れた。
街を歩くあたしの心は弾んでいた。ずっと気になっていた彼女と再会できたこと。彼女と名前で呼びあう関係になれたこと。そう頻繁に会うことはできないだろうし、彼女はやがて危険な賭けに打って出ることになるのだけれど、そんなことは気にならなかった。彼女は、なのはは、約束を破るような子じゃないって、心のどこかが断言してたから。
機嫌よく歩きながら、ふと思いついて、あたしは携帯をとりだした。慣れた番号を呼び出す。数回のコール音のあと、相手の声がした。
「……あ、もしもしすずか? あんた今どこ? ……ならいいわ、これから行くから。……ふふ、いいことがあったのよ。とっても。……ダ~メ。すぐなんだから、楽しみにとっときなさい。……うん……うん……」
■■後書き■■
今回のなのはさんの海鳴登場は、恭也と忍の結婚式を遠くから一目見るため、という設定です。(この2人の結婚の年って、公式では設定されてないですよね?)
※1/14、ご指摘により、恭也と忍の結婚式と披露宴(パーティー)に、アリサが出席していないのは不自然なのに気づき、パーティー後に出会ったという描写を入れました。すずかの居場所も、パーティー解散後なので不明という解釈です。