「ルシファーか……」
私は、呟いた。
「夜明けの星ルシファーよ、何ゆえ天より堕ちしや。
汝、心の中に思いて曰く、我天に昇り、いと高きものの如くならんと。
されど汝は敗れ 穴の最下へ落とされん」
私の呟きに反応して、芝居がかって詠うように言ったのはクアットロだった。いつものように、にんまりと笑う。
「けっきょく、最後は負けて墜ちるんですのよ~。自分の分際に自覚があるのかしらねぇ~」
「クアットロ姉様、それは?」
「高町なのはのコールサインの由来ですわ。くっだらない、古典的な伝承v」
「おや、それでは私の名乗った二つ名も、くだらないということになってしまうかな」
「ドクター!」
私達は振り向いた。いつものようにウーノを従えたドクターが部屋に入ってくる。
「いやですわ、そんなことはありませんわ。サタンは敵を意味する言葉、伝承とは関係なく、世界を変革するドクターには相応しいと思いますわよ」
すりよるクアットロに苦笑するドクター。私は焦り気味に問い掛けた。
「ドクター、トーレ達の状態はどうですか?」
答えたのは、ウーノだった。
「トーレ、ノーヴェはともに全身の神経回路に重大な損傷があり、稼動に耐えないわ。両機とも、機体そのものの損傷はさほどひどくないけど、神経系は総取替えが必要でしょう。精密作業なだけに、数日は戦力外ね」
「……やはりそうか」
私達のボディは強靭だが、機械技術が併用されているだけに、電気系統のトラブルには弱い。無論、対策はしてあるが、それを超えるだけの莫大な電気量を浴びたり、神経回路内に直接電気を流し込まれたりしては、機体は無事でも、それを動かすための各種回路や神経系統に重大な影響を受ける。
「セインには応急的な義足をつけた。彼女用の精密調整をおこなっていないから、機動には多少、支障が出るが、ISを使っての支援行動には差し支えないだろう。今回の襲撃でも活躍してくれたしね。いま、トレーニングルームで、慣らしをしているよ」
ドクターが言い添えた。
「そうですか……」
私は返しながら、頭の中で、計算をしていた。
これで残るは支援型のウーノ、クアットロ、中近距離陸戦の私、オットー、近距離陸戦のディード、偵察・奇襲に専念せざるをえないセイン。潜入作戦中のドゥ―エ。12名の姉妹が半分になってしまった。しかも、直接戦力になるのは、私と、稼動したばかりで経験値のないディード、オットーのみ。クアットロの能力もセインの能力も、完全にではないが対策を打たれていた。今の状態で管理局と戦闘になった場合、不利は否めない。特に……。
私は高町なのはの目を思い出して、思わず身震いした。
やがて、セインが姿を見せ、潜入工作中のドゥ―エを除いた、現在稼動している姉妹達全てが部屋に揃った。ルーテシアお嬢様は部屋で休んでいる。彼女にも今日の戦闘は負担がかかったし、ゼストとアギトが墜とされたことのショックも大きいだろう。あとで、時間があれば、様子を見に行ってやりたいが……。
ドクターが私達を見回して、口を開く。
「さて、今回の襲撃は被害を出しながらも、最低限の成果は挙げられたわけだが……」
ドクターが中途半端に言葉を切った。珍しい。ドクターはその優れた頭脳で全てを計算し、予測する。言葉を濁すところなど、長く稼動している私も初めて見た。ウーノも同様に思ったのか、ドクターに問い掛けた。
「どうかなさいましたか? なにか不備がありましたでしょうか?」
「なに、随分と簡単にいったと思ってね。あらためて疑問を感じただけさ」
「……お言葉ですが、随分苦戦したと聞いておりますが。セインがうまく立ち回らなければ、全面敗北もありえたとか。そのセインも、六課隊舎戦では、ルーテシアお嬢様の起こされた地震がなければ、隙をつけたかどうかわからない、と言っております。“器”の奪還こそ成功しましたが、戦闘としては引き分け、あるいは敗退と見てよろしいのではないかと」
「そういう意味ではないよ。
あちらが、我々の襲撃を予測していたことは、予想外の戦力配置からも明らかだ。なぜ、襲撃を予測していた? “器”の重要性を理解していたからに他ならない。だが、その割には、防衛体制は不十分。目標の確保が順調に行き過ぎているのだよ。彼女なら、十分に予測できた襲撃方法のはずだ、今回のこれは」
「……ディエチ、セッテ、ウェンディが囚われ、トーレ、ノーヴェが行動不能。チンク、セインも基幹部は無事でしたが軽くない損傷を受けました。高町なのはが指揮していた戦線での被害です。彼女が予測し準備し、指揮していたからこその被害ではないのですか? 機動六課隊舎は、手強い相手がいたとはいえ、高町なのはの指揮下にはありませんでした。それが差を分けたのでは?」
「彼女がその場にいるかいないかで、結果に差が出たと? 予測した事態に彼女が対処し切れなかったと? いいや。いいや、そんなことはない、ウーノ。君はまだ、彼女のことを甘く見ている。彼女はそんなに甘くない。
予測した事態のなかで、彼女が“器”の奪取を許したのなら、それが彼女にとって許容できることだったということだ。聖王教会から教会騎士を呼び寄せながら、タイプ・ゼロのうちの一体を残留させながら、それでも、彼らが“器”を護りきれないならば、それでも構わない、そういうことだったのだよ、ウーノ。
襲撃を彼女が予測し。その上で、「夜天の王」を駒に持つ彼女がこの事態を許容したならば。当然、この結果には、彼女の意向が反映されている。“器”を我々に渡すことで、何かを手に入れることになっている。そうあるべきなのだよ」
「ですが……」
「考えすぎですわ」
ウーノの言葉にクアットロが割り込んだ。声にも表情には嫉妬がにじみ出ている。
「所詮、無能なニンゲンですわぁ。あっさり出し抜かれて「器」を失ったんですものぉ。わたしたちの能力を侮りすぎていたんですわ」
だが、それに対するドクターの反応はわたしのーいや、わたしたちの想像外のものだった。
なめらかに動かしていた舌をピタリと止めて、すっとクアットロを見つめる。
その瞳に感情はなく、その眼差しに温度はなく、ただ底のない深い暗渠が姿を見せていた。
わたしたちは、誰もが、クアットロでさえ、口をきけなかった。わたしは、自分の身体が小刻みに震えているのを感じた。ドクターがいわゆる「普通」と違っているのは知っている。ときに、わたしたちには理解できない思考と行動をとることは知っている。だが、これは「ナニ」だ?
あの高町なのはに初めて出会った日、ドクターは私達の胎のなかに自分の分身を収める計画を取りやめた。
全てか無か。
「賭けをよりスリリングにするためのスパイスだよ」とドクターは笑い、負けることなど考えてもいなかった私達はそれを受け入れたが……。
本当にそうだったのだろうか? ドクターの見せた雰囲気に、いまさらながら思う。奈落のような目を見て、今更、疑問が湧く。私達を生み出し、私達を導いてきた彼は、いったい「ナニ」なんだ?
私は戦闘機人だが、それでもあれよりは、世間一般でいう普通に近いと思う。クアットロも大概ゆがんだタチだが、あれと比べればまだ「普通」だ。
いままで気づかなかったが、「あの」高町なのはを見た後ならわかる。
私は、魂の芯から凍えるのを感じた。これはアレとおなじものだ。ヒトが目を背けてきた、ヒトの本質。紛れもない、ヒトの根源の一部にして、忌まれ畏れられ封じられて隠されてきたもの。ただただ恐ろしい、力とか発想とかそんなものじゃない、その存在自体が恐ろしくもおぞましい、アレと同じ存在だ。
やがて、ドクターは平然と異様な空気を無視して、ついと視線をクアットロから外して雰囲気も普段に戻し、ウーノに声を掛けた。
「ウーノ、“器”やその所持品からなんらかの信号がでていないか、確認してくれないか。あらためて、詳細に、慎重に、ね」
「……は、い」
ウーノがぎこちなく頷く。ドクターはそれを気にもせず、まるでなにもなかったかのように、平然といつものように振舞う。
「それでは結果が出たら知らせてくれたまえ。私はデータの処理をしている。ほかの皆も、ここを放棄するつもりで荷物をまとめておくように」
白衣がひるがえり、その存在は私達の前から去っていった。
そして。
およそ一時間後、ウーノから全員に招集がかかり、“器”から信号が発信されていたことが知らされた。
「“器”の靴裏から約30分の間隔をおいて、定期的に信号が発信されていました。信号自体は、どこにでも偏在している魔力素にすぎませんが、“器”のもつ魔力の影響を受けて、ほんの僅かに変質しています。
魔力や魔法の使用は常時監視していますし、ラボ外壁には外部からの魔力干渉を無効化させる処置をほどこしてありますが、内部で発生する魔力については、その漏れを防ぐだけの処置しかしていません。そもそも魔力素単体は、特にその通過に対して手を打っておりません。制限をかければ却って不自然になり、目立つことになりますので。
魔力素の特定の1粒子をうまく受信してその発信地点を解析するなど、不可能に思えますが、磐長媛と月読の組み合わせであればあるいは……」
ウーノは言葉を濁した。当然だろう。魔力素はどこにでもあるし、阻む方法は実質ないに等しいが、だからといって、魔力素はあくまで魔力に変換することで初めてエネルギーになるのが常識で、魔力素単体になにかさせる、などというのは次元世界の誰も考えたことがなかったと思う。
実際に信号として使用することが可能かどうかすら、私達にはわからない。あるいはドクターなら、と視線を向けて……ぞっ、とした。
ドクターは自分の身体を抱きしめるようにして、痙攣していた。大きく吊り上った口元、見開かれ剥き出しになった眼球に宿る悦楽、全身から立ち昇る禍禍しい空気。
ドクターは笑っていた。声も出さず、だが全身で笑っていた。爆発しようとするなにかを押さえ込むように、身体を抱きしめて。それでも、やがて、ドクターの顔に開いた赤い裂け目から、不気味な音が零れ始めた。
「……くっくくくくくくははっはっははははっはははは! そうだ! そうでなくては! それでこそ! それでこそだ!! はははっははははははははははは、っひっひひひっひい、ひひいひいひっ、ひっひひ………!」
私達はたた、呆然とドクターの狂態を眺めていた。時折、理解のできない奇行をする方だが、これほどの感情の爆発は、誰も見たことはなかった。
その口から笑いを吐き出しつづけ、笑いを響かせつづけてついには苦しげな呼吸になりながらも、笑いつづけていたドクターの声が、不意にピタリと止まった。すっと、背筋を伸ばし、乱れた髪をさっと手櫛で整えると、ドクターはいつもの表情で私達を振り返り、いつもの声で、私達に指示を下した。
「クアットロ、すぐにゆりかごに向かい、起動準備を始めなさい。私もすぐに“器”への施術を始める。終わり次第「聖王」をゆりかごにお招きし、クライマックス・シーンをはじめよう」
咄嗟に誰も反応できなかった。ドクターはそんな私達を無視して、続けざまに指示を下していく。
「ウーノ、ドゥーエに連絡を。プランDを即実行に移すよう伝えてくれたまえ。ほかのものたちは、ラボ内での戦闘班と、ゆりかご乗組み班とに分かれる。そうだな……ウーノにラボ防衛の指揮を任せる。セイン、オットーはその指揮下に入るように。各種迎撃装置とガジェットを使って時間稼ぎに徹しなさい。無理に排除する必要はない。ある程度時間を稼いだら、脱出するように。
チンクとディードは、私と共にゆりかごへ。偶然たどり着く邪魔者を処分してくれ。私はゆりかごから、全体の指揮を執る。なにか質問は?」
「……ドクター、よろしければ、セインとオットーも共にお連れ下さい。時間稼ぎだけでしたら、ラボの機構とガジェットの運用のみで十分ではないかと。ドクターに皆を同行させるべきかと考えますが」
ウーノが進言したが、ドクターは首を横に振った。
「いいんだよ。わたしはわたしの全てをもって「世界」に挑む。進むことを忘れた老人や異なる存在に怯える有象無象など、はなから考えにない。気概はあっても力や知恵の足りない者たちも、羽虫と変わらない。
敵となりうるのは彼女だ。彼女だけなんだ。
わたしを止められるのも、わたしの想いを理解できるのも、彼女だけなんだ。
ウーノ、いいかい。わたしを生み出し縛り付け利用してきた愚物どもに制裁を加えたら、あとはいいんだよ。わたしは死んでもいいんだ。わたしがいなくても彼女がいる。彼女がわたしとは違う形で、新しい世界を創ってくれるだろう。無論、彼女を倒してわたしが生き残ってもいい。私はやるべきことをやりとげる。だが、彼女でもやりとげられるのだよ。
ヒトは自分の意志で「人」になるんだ。全てはその意思次第。そう教えてくれたのは彼女で、それに気づいてみれば、老人達や喚く狗どものことなど、気にかけるほどの価値はない。これは彼女と競い合うためのステージで、彼らを端役としてでも出演させたのは、ちょっとした意趣返し程度のことさ。
大切なのは私の意思。私の為そうとする理想。
だが、競い合った果てに彼女が私を超えるなら、それはそれで構わない。彼女が彼女の理想を叶えるだろう。それは至極当然のことで、生命が昔から新しい可能性に挑んできたときに、いつも繰り返されてきただろう争いだ。
私は“器”をもって彼女に挑む。戦闘機人は既に彼女の敵とはなりえないことが証明された。ならば、残る私の作品はそれだけだからね。
お前達は私の珠玉の作品、だが同時に愛しい娘たち。そしてお前達では彼女に届かなかった」
「偶然ですわ! 次は必ず倒します!!」
「不可能だ」
クアットロらしからぬ感情を露わにした叫びを、ドクターは一言で切り捨てた。
「……ド、クタ……」
「わたしは既に私にしか出来ない、為すべきことを為した。わたしの人生は完成された。
とはいえ、それだけでは面白くない。それだけでは、楽しくない。
私の命が、新世界の創造のきっかけで終わるか、新世界の創造をおこなって終わるかは、問題じゃない。それはどうでもいいんだ。クリアされた問題、予定調和になった出来事などどうでもいい。だが、このまま静かに終わるのは楽しみが足りないと思わないか?
美しくもおぞましい華を咲かせてみたい。狂気に満ちた遊戯を楽しみたい。そのパートナーは、彼女以外にはありえないんだよ。私の生を、最高の輝きを以って、共に彩ってくれるのは、その力量と気概があるのは彼女だけなんだ」
「……私共はドクターとともにあります。いかなるときも、ドクターのご意志に従います。ですが……」
「いいんだよ、ウーノ」
ドクターは微笑んだ。私達への愛情に溢れ、けれども決定的に「外れた」目。高町なのはと相対していなければ、私にもわからなかっただろう。
そこに満ちる狂気と歓喜、暴走し目まぐるしく移り変わる感情の色に、私はめまいがした。ドクターの私達への愛情を疑ったことはない。今も、それは疑わない。けれど、ドクターは、ドクターの感情は……。
私は、ドクターの顔と声に、噴き上がる寸前で抑えこまれ脈動している瘴気の気配を感じた。高町なのはから溢れ出していたアレとよく似たものの気配を。
「君達は既に生まれた。だが、まだ道を見出していないものも多い。
ついてこない者を咎める気はないが、ついてくる者を追い返したりもしない。けれど、君達に、生み出された生命としての誇りと新世界を築こうという気概があるのなら、ともに、かの魔王に挑もうじゃないか。
高町なのは。
彼女こそが、自然の生み出した生命の可能性。生命のもつ根源的な力の発露。生命の到達点のひとつの形。
そして、私たちが世界を凌駕し、新しい世界を創造する力があることを示すためには、私たちが彼女を倒さなければならない。人に生み出され、人に造られた生命が、自然によって生まれた生命を上回ることを示さねばならない」
ドクターはうっとりと、夢見るように微笑んだ。その瞳はここではないどこか、いまではないいつかを見つめ、私には理解できない、なにか寒気と怖気を感じさせる光に煌いていた。
「彼女は私の同類だ。全てから捨てられ、全てを捨て去って、己が道を歩むもの。これは私達2人の。どちらが未来を創るかの賭博であり、私達のどちらが相手を上回るかのゲームだ。かかるチップは人の可能性、その証明。なんとも心躍る、素晴らしいステージだと思わないかね」
「思いません」
誰がその言葉を言ったのか、わたしは咄嗟に判らなかった。姉妹達とドクターの視線が集中して、はじめて、自分が吐き出した言葉だと気づいた。気づいたら止まらなかった。
「戦いは戦いです。勝ちと負けしかありません。賭博でもゲームでもありません。強いほうが勝つ、ただそれだけです」
それを、わたしはあの悪夢の化身との対峙で思い知らされた。
「負ければそれで終わりです。勝てばまだ先がある。それだけのことです。戦うというのは、全てを賭けて争うというのは、そういうものではないでしょうか。ディエチもセッテもウェンディもこの場にいない。トーレとノーヴェも決戦には間に合わない。私達の抱いていた誇りも、性能から来る優位も、ただそれだけでは勝利の要因足りえなかった。勝つための準備も覚悟も不十分だった。
わたしたちは一度負けた。一度負ければもう十分だ。戦うなら、争うなら、勝つために全力を尽くしてこそではないですか!」
さきほどからのドクターの話は、わたしには受け入れられないものだったのだ。ドクターは歪んでいる。どうしようもないほどに。わたしも、今日の戦いを経験する前なら、ドクターの娘として、いかなる状況であろうとも、喜んで戦いに赴いただろう。
だが、いまのわたしにそれはできない。クアットロはわたしたちがドクターのために身を捧げるのは当然だと言った。わたしもそれは否定しない。だが、初めから、負けることを良しとするような戦いに妹達を駆り出したくはない。戦うのは勝つためだ。勝って、生き残るためだ。生き残った先になにがあるか、まだわからない。だが、生と死を弄ぶための戦いなど御免だ。そんなものにわたしは自分を、妹達を、ドクターを、生贄のように捧げたくはない。
「わたしはドクターのように頭が良くありません。ですが、ドクターがなにか大事なものを積み残したまま、仮定に仮定を積み上げて、築き上げた幻想に溺れているのはわかります。頭がいい人ほど陥りやすい、幻想の海に。
論理が正しいことが、すべてに正しいとは思えません。戦うなら、勝つことを前提にすべきです。負けることを想定するとしても、それは再起のためで、そこで諦めるためじゃない。
戦うなら、自分という存在を、自分の大事な存在たちを賭けなければならないなら、必ず勝つ、勝たなければならないはずだ!」
静寂の中に、わたしの荒い息遣いが響いていた。
言ってしまった。ドクターに造られた身でありながら、ドクターに仕える身でありながら、真正面からドクターに異を唱え、ドクターの意向に逆らった。即廃棄処分となって当然の行為だ。だが、わたしはむしろ爽やかな気持ちでいた。檻のようにわたしを囲んでいた何かが消え、広く高い空がどこまでも続いていることを初めて目にした、そんな気持ちだった。
そんな静寂の中で、くつくつと笑い声が聞こえた。
ドクターが嬉しそうに笑っていた。
「そうだ、それでいい、チンク。それでこそ、それでこそ生命。例え造物主であろうとも、服従を刷り込まれていようとも、己が経験と意思で獲得した自我が、それらの制約を跳ね除けて反発する。それこそが、道具ではない、ヒトとしての最初の一歩。造られた生命から自ら生きる生命への、大いなる一歩。
チンク、お前は、姉妹達のなかで、最初にその地平に立ったようだね」
戸惑うわたしたちをよそに、ドクターはいつものように、ドクターにしかわからない、ドクター自身のための言葉を紡いだ。ただ、今回は、すこしだけ、その内容はわたしたちにも向けられていた。
「私が戦いの勝敗にこだわらないのが不満かい? そうだろうね。お前はそのように在るのだろう。
だが、私は違うのだよ。私は勝敗にこだわらないのが当然なのさ、お前が勝敗にこだわるのが当然なように。
なぜなら、私は科学者だからだ。私が戦う相手は世界、私が挑むのは限界。そしてその証明を刻むのは私の作品。
私が戦うのではない。私の作品が戦うのだ。そうでなければならないのだよ。戦士が己が技で戦うように、科学者の戦いはその作品で行なわれるべきなのだ。
私は挙げた成果でもって戦いに臨む。たとえ敗れようとも、誇りは守られる。証は残される。だから、わたしは死んでもいいんだ。
すでに、私は私にしか出来ない、為すべきことを為した。わたしの人生は完成された。だが、かといって、このまま終わるのは楽しみが足りない。
これは私の我侭だ。結果がどうなろうと、未来はさほど変わらない。ならば、この上ないステージでタンゴを披露してみてもいいじゃないか。誰の指示でも何かへの反発でもなく、純粋に楽しみを追及してみてもいいじゃないか。
私は待ち望んでいたのだ。彼女との戦いを。恐怖と狂気と悦楽に塗れた、たとえようもなく甘美な刻を。楽しみにしていたのだ。
私は孤独だった。だが、彼女が現れた。彼女が私と全力で競い合い渡り合うと約束してくれた。そして、そのフィナーレにしてクライマックスが近づいている」
「……ですが、わたしはこれ以上、姉妹もドクターも失いたくないのです」
戸惑いながらも、わたしは言った。ドクターの論理も思考もよくわからなかったが、滅びを許容しているようだということは、なんとか理解できた。
「そのために全力を尽くし、策をめぐらし、必要ならば撤退をも視野に入れることはいけないのでしょうか?」
「まさか。それでいい。いや、むしろそうでなくてはならない」
ドクターは普段の狂熱を忘れたように、静かな声で答えた。
「それでいい。ほんの僅かでも事態を好転させるための努力、あるいは口先だけの分析や作戦、決意でもいい。それすらやらないで、何を為そうというのかね?
そして全ては一撃のために。ただ最後の一撃のために。私が世界に打ち勝つための一瞬。私の全てを賭けて生み出す勝機。お前達にもいずれ訪れる、全てを賭けたその一撃」
いつの間にか論旨をすりかえつつ、そして、ドクターは、まるで怯える自分に言い聞かせているように言った。
「その時のための私の生、その時のための私の忍従の日々。彼女は来る。必ず、私の前まで、最後の勝負までやってくる。
私たちが世界を凌駕し、新しい世界を創造する力があることを示すためには、私たちが彼女を倒さなければならない。人に生み出され、人に造られた生命が、自然によって生まれた生命を上回ることを示さねばならない」
そこでドクターは、また話を飛躍させた。
「わたしがいなくても彼女がいる。彼女がわたしとは違う形で、新しい世界を創ってくれるだろう。無論、彼女を倒してわたしが生き残ってもいい。私はやるべきことをやりとげる。だが、彼女でもやりとげられるのだよ。
この戦いで大切なのは私の意思。私の為そうとする理想。
私の命の価値を決めるのは私自身なのだよ。私だけが、私の価値を決定できる。有象無象がなにを言おうが知ったことではない。何の屈辱も抑圧も知らず、好き放題に自分の倫理だけで他者を裁く輩の評価に、なんの意味がある?
私だけが私の生に責任を持つことができ、私だけが私の価値を定めうるのだ。造られた命であろうと、仕組まれた存在であろうと、私が私の意思をもったその時から、私の命は、私の生は、私だけのものなのだ。
お前達もそれは同じなのだよ。
お前達は、まだ自分自身を知らず、自分の意志を知らない。だが、自然に生まれた命とて、20年を越えてさえ、自分を知る者は少ない。なんら、恥じることはない。お前達が自分の意志の在り処を見出したとき、お前達は自分の命の価値を知るだろう。
わかるね? わが愛しい娘たち」
そして、ドクターが、両手を鳴らし、いつもの狂熱をはらんだ口調で言う。
「さあ、祭りをはじめよう! 次元世界と未来の全てが注目する一大劇だ! お前達も存分に楽しむがいい!」
そして、白衣は翻り。わたしも、想いはあれど、言葉を語ることができず。誰もが無言のまま、各自の役割を果たすために動き始めた。
「……楽しい夢のはじまりだ」
部屋を出て行く間際のドクターの呟きが、やけに耳に残った。。
“ゆりかご”への登場口を見つめながら、わたしは、地上本部襲撃前に、ディエチと交わした会話を思い出していた。
「……チンク姉」
「どうした、ディエチ?」
「……これで……いいのかな……」
「ん?」
ディエチは、いつも通りにあまり表情を変えず、それでも、とつとつと続けた。
「あんな小さな子供を使って……あんな大きな船を動かして……」
その声には、親しい者にしかわからないだろう、哀傷と不安が色濃い。クアットロは失敗作と呼ぶが、私は、ディエチのこういう柔らかな感性を長所と思っていた。
「あたしたちの夢のためだからって……そんなことをして…いいのかな……?」
だが、そのために、自分達の行為にためらいを感じてしまったら、傷つくのはディエチだ。管理局はこちらの内心など考慮しないだろう。
本来なら、ディエチのその気持ちを打ち消し、意欲を掻き立てる言葉をかけるべき姉は、しかし、言葉を失ってしまった。ディエチのそれは、彼女の性情から出たごく素直な気持ちで……その感性を好ましく思っていた私は、とっさにそれを否定する言葉をつむぐことができなかった。
「……ごめん、忘れて。行こう、チンク姉」
そんな姉の葛藤に気づいたのか、ディエチは、ぎごちなく微笑み、……そして、還らなかった。
あるいは、報いというやつなのだろうか。私は唇を噛み締めた。
管理局に戦いを仕掛ける以上、犠牲がでる可能性は当然理解していた。妹達は私がなんとしても守るつもりだったが、力及ばないこともありうる。その覚悟もしていたつもりだ。だが、現実になってみるとどうだ。
だが、いまさら逃げることもできない。私は姉なのだ。残った妹達を、力及ばずとも守らなければならない。
高町なのはと戦うことを思うと、心と身体が萎縮する。魂の芯から、私はあの存在に怯えている。あのとき、漏れ出した狂気と瘴気。戦いの中での機能停止など、いつかこの身に返る宿業だと静かに受け止めていたつもりだが、あれは違う。あんなものに破壊されたくはない。理屈ではなく、そう感じる。私のなかの何かが、そう泣き叫ぶ。あれは嫌だ、あれは嫌だ、と。
だが、逃げるわけにはいかない。
それに。
恐怖が深まれば深まるほど、絶望が濃くなれば濃くなるほど、心の中から沸き上がる想いがある。
身体が震える度、心が萎縮する度、魂が泣き叫ぶ度、一層固く強くなっていく決意がある。
恐れても、叶わないと感じても、生き残れないと思っても。それでもなお、立ち向かえ、と叫ぶ声が聞こえる。義務を果たせ、という声が聞こえる。私の中の深い深い、一番深いところから、聞こえる声。私自身の声。私の生命の鼓動。
私は、静かに息を吸って吐くと、胸を張って視線を前に据え、背後に控えていた妹に告げた。
「いくぞ、ディード。高町なのはを……倒す」
「はい、チンク姉様」
バケモノどものおもちゃにされて終わってたまるか。私たちだって、生きてるんだ。生きたいんだ。
■■後書き■■
ちょっとうんちく。
このSSは、魔力素=素粒子説をとっています。魔力素が多数集まり、なんらかの変換をかけられて魔力というエネルギーになり、そのエネルギーに式で方向性を持たせることで魔法が発現するという解釈です。
今回スカさんたちは、魔力素での信号発信に気づけなかったわけですが、電気で考えると、電磁波や電力値の大きな変動はチェックしても、電子ひとつひとつの動きまではチェックしないだろ―と。大体60%だかの濃度でそこら中に存在してるものを全てチェックとか無理があるし、ましてや遮断なんかしたら、逆に目立っちゃうでしょ、という話です。
素粒子1つが網にうまくかかって情報を伝えられるのかと言われると、その辺は、磐長媛と月読の性能に賭ける事になりますが;。ま、全部拾えなくても、ある程度の数を拾えば、地形ほかのデータと併せて絞り込めるんじゃないか、とか;。
チンクの口調がとても難しかった。さて、次話で戦闘までいけるかな?