全国子ども囲碁大会
一方、塔矢名人の経営する碁会所の一角では、塔矢アキラの周囲に
異質な空間が出現していた。連日碁会所に来ては、あかりちゃんと
打った碁を、何度も並べ直しているのだ。もしかしたら、藤崎さんが
再び姿を現すかもしれないと、淡い期待を抱いていたのである。
心なしか青ざめた表情でブツブツと何事か呟きながら、同じ棋譜を
並べ続けるアキラの姿は、近寄りがたい陰鬱な雰囲気を漂わせていた。
アキラ「この一手も、この一手も、読みきった上で緩めている・・・
まるで指導碁だ。これが本当に彼女の実力だとしたら・・・
いや、そんなはずがない。そんな女の子いるわけがない。」
アキラの脳裏に、柔らかい笑みを浮かべて、拙い手つきで碁石を運ぶ
あかりちゃんの姿が浮かんだ。
市川「変わったわね、アキラくん。」
広瀬「そう言う市川さんも、変わりましたねえ。」
市川「え?私が?」
広瀬「アキラ先生に、ついに恋人候補が現れたんだから、そりゃあ
変わりもしますよ。今まで市川さんに、恋敵(ライバル)
らしい恋敵なんかいなかったんだもの。」
市川「広瀬さんっ!!」
言われてみればこの一週間というもの、市川の化粧は丁寧になり、
髪の手入れにも時間をかけるようになっていた。碁会所に、いつ
あかりちゃんが現れても、簡単には引きたくない女の意地がある。
しかし、アキラくんとの年の差を、少しは考えてほしい。
広瀬「それにしてもアキラ先生、気の毒ですなあ。いつまでも
ここで待つしかないなんて。『○みん』じゃあるまいし。」
市川「あ、そうだ!私あの娘の帰りぎわに、今日棋院でやってる
『全国子ども囲碁大会』のチラシをあげたんだわ。」
アキラ「市川さん、それは本当ですか!!」
いつの間にか受付の近くに来ていたアキラは、強い口調をぶつけた。
市川「さして興味もないようだったけど、もしかしたら彼女、見に
行ってるかもしれないわ。」
アキラ「市川さんお願い、ボクのいない間に彼女が来たら
引き止めておいて!」
市川から情報を聞いたアキラは、いつもの目の輝きが戻り、鉄砲玉の
ように勢いよく碁会所を飛び出して行った。
その頃あかりは、日本棋院を訪れ『全国子ども囲碁大会』の会場を
覗いていた。一つのフロアの数百席あるテーブルの上には、整然と
碁盤が並んでいて実に壮観である。季節は初冬と言うのに、会場は
碁を打つ子供たちの熱気で溢れていた。
あかり「へー、こんなにいっぱい、碁を打つ子どもたちがいるんだ。」
ヒカル「驚いたか。俺もこんな世界があるなんて知らなかったんだぜ。」
あかりは会場の奥のほうへ歩いていった。
ヒカル「あ、これ打ち間違えると黒が死ぬぜ。」
あかり「え、どこどこ?」
ヒカル「ほら、左上隅の攻め合い、複雑だろう。1の二が急所だぜ。」
囲碁の格言では「2の一に急所あり。」と言って、隅の攻め合いで
1の二、あるいは2の一が急所になることは、時々起こるのだ。
あかり「よく一目見ただけで判るわね。」
ヒカル「なんたって俺はプロだからな、うん。」
黒の対局者は、しばらく考えて2の二に石を置いた。ヒカルは、
佐為が死活の急所を教えたことを懐かしく思い出していて、
あかりに注意することを忘れていた。
あかり「あーっ!惜しい。その横なのに。」
ヒカル「あっ、あかりのバカっ!声に出すな。」
すぐに係員が飛んできた。あかりは別室に連行され、柿本九段から
ありがたいお小言を頂戴する羽目になってしまった。会場では
立ち会いの緒方九段が、あかりに打ち手の間違いを指摘された
子ども達に、対局をはじめからやり直すように指示を出した。
柿本先生に平謝りして開放されたあかりが、事務室を出ると通路で
和装に身をまとった塔矢名人とすれ違った。
ヒカル「あかり、頭を下げろって。」
しかしあかりは通り過ぎて、そのまま棋院を出た。
あかり「誰だったの?」
ヒカル「塔矢名人だよ。『神の一手』に一番近いって言われてる人。」
あかり「えーっ、塔矢くんのお父さん!?なんで早く教えないのよ?
渋いわ!なんて格好いいの。」
ヒカルは呆れた。「今度は親父趣味かよっ!」
あかり「何よ、格好いい人を格好いいって言って、何が悪いのよ!」
アキラ「藤崎・・・藤崎あかりさん?」
そこに声を掛けたのは、地下鉄で駆けつけてきた塔矢アキラだった。
あかり「すごいわ!ヒカルの予言した通りだわ。」
ヒカル「やっぱり来たか。」
あかり「こんにちは塔矢くん、あたしは子ども囲碁大会を、ちょっと
覗いた所なの。塔矢くんは棋院にご用件でも・・・?」
アキラ「違うんだ藤崎さん、ボクが用があるのは、キミになんだ。」
あかり「え、あたしに!?」
ヒカル「どういうことだよ!塔矢!?」
アキラ「ボクとの対局、キミは、本気を出してないんじゃないかと
思ってね。藤崎さん、キミはプロに興味はないの?ボクは
囲碁のプロになるつもりなんだ。いや、きっとなるよ。」
あかり「え、あたしがプロなんて・・・?考えたことないけど。」
アキラ「手を見せてくれないか?」
あかり「手?」
アキラはあかりの手を取り、爪が磨り減っていないことを確かめた。
ヒカル「バカ!塔矢、手を離せ!!あかりに何てことするんだよ!」
「あたしは・・・」あかりは真っ赤になった。
アキラは、あかりの手を取ったまま続けた。
アキラ「爪がちっとも磨り減ってないんだね。それなのにキミは
あれだけ打てるんだ。キミには碁の才能がある。今から
ボクと打ってほしい。ボクは、キミの才能を確かめたい。」
あかり「あたしとまた打ってくれるのね。いいわ、喜んで。」
ヒカル「塔矢、いい加減あかりの手を離せ!いつまで握ってんだよ!」
いくらヒカルがわめいても、アキラには全然聞こえていない。
しかも良く見ると、あかりがアキラの手を握りかえして、離さない
ようにしているのだった。あかりとアキラの2人は手をつないだまま
碁会所に向かった。さすがのアキラも、ちょっと照れている。
ヒカル「おい、あかり、いい加減にしろよ!」
あかり「相互協定でしょう。ひかるが、碁を打てるようにする前に、
あたしが碁を打てるように、協力する約束だったわよね。」
未来の世界で佐為を消してしまったヒカルが、この世界のプロ棋士
ひかるくんまで消してしまうわけにはいかない。今は、あかりの
言う通りにするしかないようだ。
ヒカルは、泣き笑いの表情だ。「こいつー。」
間もなく雷鳴が轟き、碁会所に向かう2人の上に激しい雨粒が
落ち始めた。あかりは一本しか用意して来なかった傘を開いて、
アキラの腕を取った。いわゆる相合傘の体勢である。
ヒカル「おいあかり!そんなに塔矢とくっつくなよ!」
あかり「もっと寄らないと濡れちゃうわ。」
アキラ「ありがとう、藤崎さん。」
ヒカルの抗議は、あかりに完全に無視されてしまった。アキラは
照れながらも笑顔を返して、ピッタリとあかりに身体を寄せた。
ヒカル「・・・俺、失着しちゃったのかな。」