2度目の対局(前編)
《アキラ》
「奥の空いてるところ借りるね。」
アキラに続いて、あかりがにこやかな笑顔で碁会所に入ってきた。
《あかり》
「こんにちは、また来ちゃいました。」
《市川》
「いらっしゃい、よく来てくれたわね。アキラくん、あなたのことを
ずっと待っていたのよ。」
市川は、あかりに少し引きつった笑顔で挨拶した。アキラくんを応援
しているとは言え、恋敵の出現には複雑な心境である。碁会所の奥に
向かう2人の背中を、少し寂しそうに見送った。
《市川》
「今までアキラくんの友達が来た事だってなかったのに・・・
女の子を連れて来るなんて・・・」
《広瀬》
「アキラ先生、久しぶりに活き活きした顔してますよ。」
《北島》
「ちゃんと見つけてくるとは、さすが若先生。やっぱりこうでなくちゃ
いけねえ。若先生の沈んでるところなんざ、見たくないもないからな。」
古参の常連である北島は、アキラがいない間に碁会所に姿を現し、
広瀬と市川から事情を聞いていた、そして、いつもどおり碁仇の
広瀬と打ち始めたところだった。
一番奥の席にアキラが座り、碁盤をはさんだ手前のイスにあかりが
座った。奥の席の同じ並びには、3面離れた場所に北島と広瀬が
陣取っている。奥が広瀬で、手前が北島だ。他の席は空いている。
席についたアキラは、にこやかな笑顔で呼びかけた。
《アキラ》
「互い先でいいよね、ボクが握ろう。」
《あかり》
「えっ!?こんなところで・・・?」
あかりは真っ赤になりながら、もじもじと手を差し出した。そして
アキラの手を取りギュっと握ったのである。不意にあかりに手を
握られ、アキラは困った顔をした。
《アキラ》
「ふ、藤崎さん!?ちょっと、手を離してもらえないだろうか?」
《ヒカル》
「バカっ!あかり、何考えてんだ。塔矢の手を握るんじゃねーよ。
対局を始める時のやり方、ちゃんと教えただろう!塔矢が白石を
握ったら、お前は黒石を一つか二つ出すんだよ!」
《あかり》
「なーんだ、そうなの。そう言えば、聞いたような気がするわ。」
あかりは、ちょっと残念そうにアキラの手を離した。
《ヒカル》
「対局する前に、相手の手を握るヤツがどこにいるんだよ?」
将棋では『振りゴマ』で先番を決めるが、囲碁の場合は『握り』で
ある。白石を持つプレイヤーが石を握り、黒石を持つプレイヤーが
奇数か偶数かを当てるのである。アキラは気を取り直し、右手を
碁笥に入れて白石を握りこんだ。
握った石が少ないと、自分がいくつ石を握ったのか大体判るので
公平を期すため、多めの石を握るのがマナーである。といっても、
石をたくさん握り過ぎて、碁笥から手が抜けないと間抜けである。
みっともないし、第一に相手からなめられる。絶対やめよう。
あかりは、碁笥から黒石を一つ取り出した。それからアキラは、
握った石を碁盤の上に広げ、相手に判りやすく二個ずつ組にして
ずらして数えた。碁石は1子2子と数える。全部で15子あった。
《あかり》
「当たった!あたしが黒ね。」
握った白石の数と、出した黒石がどちらも奇数だから、この場合は
そのままあかりが黒を持つ。もし奇偶が合わない時は、お互いの
碁笥をそっくり交換する。近代囲碁の決まりでは、黒石が先手になる。
《アキラ》
「コミは5目半」
《あかり》
「ごもく御飯!?」
《ヒカル》
「あかり!お前、判っててわざとボケてるだろう?」
《あかり》
「えへ、バレちゃった。」
囲碁は先手の黒番が有利である。コミ5目半というのは、勝負を
公平にするため、白番にあらかじめ与えられる計算上の有利である。
たとえば、盤面で50目対50目なら、白の5目半勝ちになる。
《あかり》
「塔矢くん、ごめんなさい。緊張をほぐそうと思って。」
あかりは、にこやかなに謝罪した。意表を突かれたアキラも笑顔で
返した。アキラは、彼女が前に一度も対局したことがないと市川に
言ったことを思い出した。そんなことがありうるのだろうか。
《アキラ》
「ちょっとビックリしただけだよ、藤崎さん。もう始めていいの?
キミの本当の力が知りたいんだ。今日は真剣に打ってほしい。」
《あかり》
「ヒカル、どうするの?」
《ヒカル》
「望むところだぜ!あの時オレは、石を置くだけで精一杯だった。」
未来の世界のヒカルは、囲碁と棋士のことをほとんど知らぬまま
佐為に取り憑かれ、行きがかりからアキラを怒らせる発言をして、
対局する破目になった。
囲碁初心者だったヒカルは、佐為の示す通りにただ石を置くしかなく、
対局を味わう余裕はなかった。だから小学生時代のアキラと真剣勝負
できることに、ヒカルはワクワクする気持ちが隠せなかった。
《あかり》
「いいわ、じゃ・・・お願いします。」
《アキラ》
「お願いします。」
2人は、対局前の挨拶を交わした。
《あかり》
「ねえヒカル、どんな作戦で行くつもり?」
《ヒカル》
「三連星で行く。」
三連星は、初手右上隅星、3手目右下隅星、5手目右辺星と星に
三連打して黒が右辺に陣を張る布石である。この作戦の別名を
『ジェットストリームアタック』と言って、この布石を打ち破るには、
ニュータイプ的な囲碁センスが要求される。
真面目な話をすると、現代の布石を取り入れたとは言え、佐為は
初手を小目から打ち始めることが多かった。プロになったヒカルは、
師匠である佐為と異なる打ち方を模索した。
棋士が超一流になるには師匠の単なる模倣ではなく、ひたむきな
研究によって、自分独自の戦法を完成しなければならない。
三連星は、ヒカルのそうした地道な努力の一つの現れであった。
ヒカルはプライベートな対局とは言え、ヒカルの翌年プロになった
学生三冠の門脇を、三連星の布石で負かしている。一色碁だったので、
盤面が白石ばかりで判りにくいが、ヒカルが倉田六段を苦戦させた
布石が、同じく三連星であった。2度目の対局が始まった。
《ヒカル》
「おっかしいな、俺たちの対局を誰も覗きに来ないぜ。さっき
市川さんが、ケーキとコーヒーを運んできただけだ。」
未来の歴史では、アキラが強引にヒカルを連れて来て対局した時、
2人の周りを大勢のギャラリーが取り囲み、厚い人垣ができたが、
今回は、そんなことにならなかった。人の恋路を邪魔する奴は、
馬に蹴られて何とやらである。
《あかり》
「判らないの?気を利かせたつもりなのよ。」
アキラがどんな碁を打つのか、興味津々で近づこうとする者は、
振り向いて後ろを見張っている北島さんが睨みつけ、シッシっと
手で追い払うしぐさをして、みんな追い返していたのだ。
《北島》
「若先生の様子はどうなんだ?」
《広瀬》
「とってもいい雰囲気ですよ。さっきなんか、2人で手を取り合って
見つめあってました。微笑ましくていいですねえ。」
《北島》
「うーん、そこまでやるとは。さすが若先生、足が速い。でも、
市ちゃんには見られなかっただろうな?」
《広瀬》
「市川さんですか?ちょうどコーヒーを運んで来ましたからね。
しっかりと見てたんじゃないですか?」
北島たちが受付のほうを眺めると、コーヒーカップを黙々と並べる
市川のうつむきがちな姿に、どこか哀愁が漂っていた。
《北島、広瀬》
「・・・・・・・・・」
15Note
コミ5目半の条件では黒が若干有利ということで、ヒカ碁の連載が
終わる2003年から、6目半に増やすことになりました。ヒカ碁の
作中では5目半で統一されています。
この変更によって理論上は、白がわずかに有利になります。歴史上
囲碁は今まで長い間、黒番に有利な条件で打たれてきましたが、
はじめて白番が有利な時代が来ました。これはきっと囲碁に新たな
進化をもたらすでしょう。ちなみに中国は、もっと過激で、コミを
7目半に増やしてしまいました。
江戸時代はコミがなかったので、両者の実力を見定めるため、白番と
黒番を交代して何度も戦わせました。ハンデなしの対局を『互い先』と
呼ぶのは、お互いに、先手で、繰り返し対局したことから来ています。
しかし多忙な現代では、一回の対局で勝負の決着をつける必要があり、
コミをつけて公平にした対局を『互い先』と呼ぶようになりました。
江戸時代、『棋聖』あるいは『碁聖』と呼ばれた人物が2人います。
『後聖』と呼ばれた幕末の『本因坊秀策』と、その130年前の
『前聖』と呼ばれた『本因坊道策』は「黒番で負けたことがない」と
言われるほど強く、道策に至っては、黒番で負けた棋譜が一枚も
残っていません。コミのない江戸時代、黒番は6目ほど有利ですから、
先手のハンデをそれだけもらえば、もう負けなかったということです。
もっとも、本因坊家を継いだ道策の弟子『本因坊道知』が、道策が
黒番で負けた棋譜を残らず廃棄させた可能性があります。ただし
道策が、死ぬほど強かったのは間違いありません。
道策が御城碁で敗れたのは、相手に石を置かせた最後の2局だけで、
それも僅差でした。道策は碁が強かっただけでなく、段位と置き石、
定石と布石など、近代囲碁の基本を作りあげた偉大な功労者なのです。