2度目の対局(後編)
アキラは、右上隅の黒石に両掛かりして、右辺を荒らしにかかった。
黒に眼を作る根拠を与えず浮き石にするためだ。アキラの攻めで、
序盤からはげしい攻めあいが始まった。
《ヒカル》
「さすがに小学生でプロ並って、言われるだけのことはあるよな。」
未来の世界のヒカルは、アキラとは碁会所でよく打ち合う間柄である。
研究の成果を披露しようと、三連星で何度も挑んだが、ことごとく
返り討ちに遭い一度も勝てなかった。成長したアキラは、囲碁界に
おける「連邦の白い悪魔」と化していたのである
ヒカルが北斗杯の予選と本戦を通じて得意の三連星を封印し、一度も
使わなかったのは、アキラに通用しない完成度では、韓国と中国の
若手棋士たちに通じないと思ったためだった。
小学生のアキラにリターンマッチを挑むのは、いささか小ズルい
と思ったが、対局の経験が多いだけにアキラの手が読みやすい
作戦であった。加えてヒカルは囲碁歴が短く、十分な打ち込みを
して実戦レベルまで練り上げた布石の種類が、少なかったのだ。
あかりたちが碁会所に来る前に降り始めた雨は、一層勢いを増した。
風雨が窓を叩き、雨水が窓ガラスに流れを作っている。
アキラが打ち込んだ白石は、ヒカルの反撃で2線に追いやられ、
黒地を大きく荒らすことは出来なかった。黒は十分な厚みを築き、
白は中央に顔を出すのがやっとである。
《アキラ》
「つ、強い、これほどとは・・・まさかと思ったけど、前の時、
30手先まで読みきったのは、マグレじゃなかったんだ。」
一方ヒカルには、アキラの攻め手が面白いように読めていた。
《ヒカル》
「塔矢の打つ手は、小学生の頃からそんなに変わってないんだ。
じゃあ、俺が塔矢に勝てなかったのは、経験の差だったのか。」
毎朝一局、塔矢名人と置き碁で打つのがアキラの日課だった。置き碁
では黒石を星の場所に打つため、名人の三連星への攻めを受けた
経験がアキラには豊富にあり、三連星の打ち方には自信を持っていた。
しかしアキラの攻めは巧みにしのがれ、逆に黒模様を広げられた。
塔矢アキラは、佐為をして「彼は、ただの子どもではありません。
未熟ながらも輝くような一手を放ってくるのです。成長したら
獅子に化けるか、龍に化けるか。」と言わしめたほどの俊英である。
このまま、簡単に終わるわけにはいかなかった。
アキラの顔つきが変わった。口を真一文字に結び、鋭い眼光を放ち
神経を集中し、一手一手に決意と気迫を込め、反撃のチャンスを
狙って感覚を研ぎ澄ましている。アキラが、牙を剥いているのだ。
北島たちは、そんなアキラの様子を横目で窺っていた。
《北島》
「いけないなあ、若先生。女の子に、あんなに怖い顔しちゃ。」
《広瀬》
「加減が難しいんですかね?勝ち過ぎたらいけないと思って・・・」
そこに、気持ちを落ち着かせた市川が、北島と広瀬にコーヒーの
お代わりを運んで来た。
《市川》
「さっきアキラくんたちが始める時に見たら、互い先だったわよ。」
《北島》
「若先生相手に置き石なし?とんでもない娘っ子だな・・・」
《広瀬》
「アキラ先生も大変ですねえ。」
市川は、女の子が相手でも真剣に打つアキラの様子を見て、どこか
ホっとしていた。2人が対局そっちのけで談笑していたら、さぞ
イライラが募っただろう。アキラくんは、やっぱり囲碁バカがいい。
一方あかりは、アキラの気迫に満ちた真剣な表情を、怖がるどころか
うっとりとして眺めていた。
《あかり》
「白くて長い指で石を打つ塔矢くんって格好いいな・・・澄んだ瞳が
とってもきれい。あんな眼で見られたらあたし、ゾクゾク来ちゃうわ。
あたしのことも、もっと見つめてくれたらいいのに・・・」
《ヒカル》
「あかり!塔矢の顔ばっかり見てんじゃねーよ。怪しまれるだろう!
盤面をしっかり見ろよ。お前が打ち間違いしたら、せっかくの対局が
台無しになるんだぜ。」
《あかり》
「ヒカルのけちんぼ、少しぐらいいいじゃない。判ったわよ。気を
つけて打つから大丈夫よ。」
《ヒカル》
「けちじゃねーよ。それよりホラ、俺が教えた形が出てきただろう?」
《あかり》
「へー、こんな形本当にあるんだ?」
《ヒカル》
「石の形が風車に似てるから『弥七』って言うんだぜ。面白いだろう。
たまにしか出ないけどな。」
ただヒカルの指示どおりに石を置くだけでは、面白いはずがない。
あかりが盤面よりも、アキラの表情に夢中になるのも当然だった。
ヒカルは、あかりに実地の囲碁教室をしながら打たせることにした。
《ヒカル》
「塔矢が今ツケを打ったよな。その場合はどうするんだっけ?」
《あかり》
「囲碁の格言ね。『ツケにはハネよ。』でしょう?」
《ヒカル》
「正解。端っこに追い立てるには、こっちからハネる一手だぜ。」
《あかり》
「塔矢くんの石がノビたわ。格言の『ハネにはノビよ』ね。」
《ヒカル》
「また正解。ハネにハネる場合もあるけどな。今度教えてやるよ。」
ヒカルから習った知識が、実戦に出てくることが判ったあかりは、
アキラの顔ばかりでなく、盤面にも注目し始めた。
《あかり》
「黒石の斜めの場所に掛かって来たわ。たしかこれ、『肩ツキ』って
言うんでしょう?」
《ヒカル》
「あかりも判ってきたじゃん。こういう時は『スベリ』って言って、
低いほうにケイマで逃げるのが普通だけど、俺はもっと大きな手を
考えたんだぜ。見てろよ、あかり。」
ヒカルの次の一手は、肩ツキに手抜きをして、天元に打つものだった。
天元とは碁盤のちょうどド真ん中、座標で言えば10の十にあたる。
まったく想定していなかった意外な手を打たれたアキラは、衝撃を
隠せずクチビルをグっと噛みしめ、あかりの顔をジっと見つめた。
あかりは笑顔を絶やさず、楽しそうに碁盤の中央を見つめている。
《アキラ》
「これは!!ボクがどう打ってくるか、試している一手なのか?
キミには、ボクの力量を測るほど余裕があると言うのか!?」
雷鳴が鳴り響き、窓ガラスを伝う雨水の影が碁盤の上に差した。
2人の対局を、横目でチラチラと窺う北島と広瀬の手は、ほとんど
進んでいなかった。盤面がよく見えない2人は、正反対のまるで
見当違いの心配をしていた。
《広瀬》
「とっても楽しそうですよ、彼女。アキラ先生よかったですねえ。
でも、心配ですよ。女の子を一刀両断にしたりしないかと・・・」
《北島》
「若先生の性格なら、そりゃありうることだな。そいつはまずい。」
《広瀬》
「手加減してうまくやるように伝えられませんかね。負けてあげても、
いいのになあ。」
よもやあの塔矢アキラが、同い年の女の子に互い先で苦戦している
などとは、北島たちには思いもよらなかった。アキラをよく知る
碁会所の他のお客さんたちも、同じ意見である。
アキラは反撃の隙を狙うどころか、一瞬の緩みも見せないヒカルの
手厚い打ち回しに、すっかり翻弄されていた。上辺を荒らされ、
固めようとした左辺にも侵入された。アキラは、冷たい汗を流した。
ヒカルはあかりに初心者指導をしながら、小学生のアキラの手を
読みきってしまった。未来の世界でアキラと数多くの対局をこなした
ことに加え、佐為に頼ることが出来ない北斗杯の経験を通じて、
ヒカルがまた一段と成長していからだった。
《アキラ》
「ボクの手を完璧に読んで先回りしてくる。研究会に来た女流棋士
なんて問題にならない。まるで緒方さんに匹敵する手応えだ!」
アキラは右上隅の三三に打ち込む勝負手を放った。しかしヒカルの
受けは完璧で、アキラが打ち込んだ9子は、ほとんど死に石となった。
後は、コウ争いの材料として使うぐらいしか役に立たないだろう。
《あかり》
「この9子は、後でアゲハマになるのよね。じゃあ、もう楽勝?」
《ヒカル》
「そうだな、ここまで来たら俺の有利な形勢は動かない。でも・・・
少し勝ちすぎたかな?」
《あかり》
「え、勝ちすぎた?」
《ヒカル》
「俺この布石で塔矢に勝ったことってないからさ、小学生の塔矢にも
負けるかもしれないと思って、手加減なんか全然しなかったんだ。」
《あかり》
「手数が進んじゃったもん、今から手加減なんて無理よね?」
《ヒカル》
「そんなことしたら塔矢のヤツ、きっと怒るぜ。」
《あかり》
「ヒカル、どうしたらいいの?」
あかりの横顔を注視していた広瀬は、その変化を見逃さなかった。
《広瀬》
「あっ、女の子の表情が、急に変わりましたよ!」
《北島》
「どうした!?」
《広瀬》
「今まで楽しそうに打ってたのに、何だか悲しそうな表情に・・・」
《北島》
「言わんこっちゃない。だから若先生、やりすぎちゃ駄目だって、
こっちは心配してるっていうのに・・・こういうときは市ちゃんだ。
コーヒーを運んで、その間に若先生に助け舟を出すんだ!」
北島は立ち上がり、あわただしく受付に小走りした。
逆転勝ちを狙うアキラは、下辺中央の黒石を攻め反撃を試みた。
しかし、ヒカルは3子を捨て石にして、アキラの大石から眼を
奪ったのである。
アキラはこのまま攻めあえば、下辺の白21子が丸ごと召し取られる
と悟り、北島が市川と相談する間に投了していた。ヒカルが天元に
配置した石が見事に働き、白の大石から逃げ道を遮断していたのだ。
真剣勝負を終えたアキラはいつもの笑顔に戻り、晴れ晴れとした
表情で、熱い口調であかりちゃんに語りかけた。
《アキラ》
「すごかったよ、藤崎さん。同年代でボクに勝てる子なんている
わけがないって思っていたけど、それはボクの思い上がりだった。
絶対に女の子に負けるはずがないと思い込んでいた。それも間違い
だった。済まない、藤崎さん。キミを侮ったことを謝るよ。」
《あかり》
「あたし・・・本当は・・・」
実際に手を考えたのはヒカルである。あかりは、アキラを騙して
いるようで心苦しくなった。しかし、アキラは下を向いたあかりの
顔を真剣な表情で覗き込んだ。あかりは、ドキンとした。
《アキラ》
「藤崎さん、キミには是非、ボクと一緒にプロになってほしいんだ。
キミのことを父に紹介させてくれないか?父のことを知ってるかい?
ボクの父は、名人を4連覇しているトッププロなんだ。キミには、
父の、名人の研究会に参加してほしい。」
《ヒカル》
「塔矢名人の研究会だって!!一度は行ってみたいよなあ。」
未来のヒカルは、塔矢門下の出世頭である緒方九段の誘いを、
アキラへの対抗心から断わってしまったが、本心では第一人者で
ある塔矢名人の、生の意見を聞いてみたかったのである。
《あかり》
「あたしは・・・・・・行きませんっ!!」
《ヒカル》
「あっ、あかりー!?」
《アキラ》
「なぜだっ!?キミの実力は本物だ。このボクが言うんだから、
間違いはない!キミの才能を、一緒に活かしてほしいんだ。」
あかりは目に涙を溢れさせた。
《あかり》
「あ、あたしは、本物じゃないから・・・ごめんなさい。」
あかりはイスを蹴飛ばすように立ち上がり、駆け出した。受付の
近くにいた北島を押しのけ、碁会所を飛び出して帰ってしまった。
一番奥の席にいたアキラは、立ち上がったもののテーブルが邪魔に
なり、あかりを追い駆けることが出来なかった。
《アキラ》
「キミのどこが・・・本物じゃないと言うんだ・・・?」
立ち尽くすアキラを残して、広瀬は受付に向かった。
《広瀬》
「やっぱりアキラ先生、やり過ぎちゃったのかなあ?」
《市川》
「どうしてこうなったのか、アキラくんに事情を聞いてみるわね。
相談にも乗ってあげたいし。」
《広瀬》
「女の子の気持ちは、正直我々には難しい所がありますからね。」
《北島》
「市ちゃん、相談なんて本当は乗りたくないんじゃないのかい?」
《市川》
「北島さんっ!!」
アキラが女の子に逃げられたという噂は、塔矢門下の芦原三段から
同期の冴木三段経由で森下門下に伝わり、院生の和谷くんがアキラの
ことをプレイボーイと誤解するのは、また後日の話である。
15Note
互い先の初手は、どこに打つのが有利なのでしょう。囲碁格言で
『左右同型中央に手あり』とあります。対象性から考えれば、
初手は天元打ちが有利なはずですが、実際はほとんど打たれません。
現在のプロの対局では7割以上が小目、残りが星で、合わせると
ほぼ100%になります。天元、五の五、三三、目はずしに
打たれることは、極めて稀です。他の手は、まずありません。
江戸時代は、たまに目はずしに打たれましたが、大半が小目から
打たれ、星から打ち始めることはありませんでした。
江戸時代の家元の1人である、7世安井仙知の棋譜を研究した
木谷実と呉清源は長野県の地獄谷温泉にこもり、昭和8年に
『新布石』を発表しました。2人はすぐ大手合の1位と2位を
独占し、その威力を見せ付けました。
木谷は新進打ちきり戦で10連勝するなど、低段者に容赦なく勝ち
まくり、五の五や天元打ちを見せた呉も、時事新報主催の勝ち抜き
戦で18人抜きを果たしました。
ちなみに、ヒカ碁を監修された梅沢由香里先生は、木谷実の孫弟子に
あたります。
Wikipediaによると、『新布石』とは「それまでの小目を中心とした
位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への
展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。」
作戦です。
近年最もよく打たれるのが、小目と星を組み合わせた布石です。初手は
絶対に小目しか打たない先生も、結構いらっしゃいます。初手星打ちは、
三三に打ち込まれる弱点があり、最近は減少傾向にあります。小目の
人気が復活すると佐為が喜びそうですね。