雨宿り
《市川》
「本当なの!?アキラくんが本気で打ったのに、負けたって言うのは。
だって相手は、女の子なのよ?」
アキラに事情を問い質した市川は、対局の勝敗を聞いて驚いた。
将棋ほどではないが、囲碁にははっきりと男女差がある。女流棋士
で三大タイトルのリーグ戦に入った者は、まだ一人としていない。
他の大きなタイトルの本戦入りも、まだ数えるほどしかない。
《アキラ》
「海外には、男性のトップ棋士と互角に渡り合える女流棋士がいます。
日本には、それほど強い女流棋士はまだ現れませんが、もし藤崎さん
がプロになったら、囲碁界に革命が起きますよ。」
《市川》
「アキラくんにそこまで言わせるなんてすごい娘ね。でも、それなら
どうして急に出ていっちゃったの?」
《アキラ》
「それが、よく判らないんです。ボクは彼女に、プロを目指してほしいと、
それで父の研究会に参加するように誘ったんですが・・・」
《市川》
「ちょっとアキラくん、彼女にいきなりプロになるように勧めたの?」
《アキラ》
「ええ、そうです。いけなかったんでしょうか?」
《市川》
「当り前よ!!人には、人それぞれの事情があるの!アキラくんは、
決心がついてるから普通に感じるでしょうけど、碁の素質のある子
が、みんな必ずプロになるわけではないの。」
《アキラ》
「彼女の素質は特別なんです。ボクが言うんだから、間違いありません!
藤崎さんほどの才能の持ち主が、プロにならないなんて、そんなことは
考えられません!!」
アキラの彼女への思い入れを聞いた市川は、深くため息をついた。
《市川》
「とにかく、もう一度彼女に会って、話を聞いてみるしかないわね。
プロの世界のことをよく説明して、家の都合とか事情を尋ねて、プロに
誘うのは、それからよ。彼女の住所とか連絡先は聞いてないの?」
《アキラ》
「ええ、聞きませんでした。」
《市川》
「駄目ねえ、アキラくん。人と末永く付き合う基本でしょう?」
一方、碁会所を飛び出したあかりは、地下鉄の駅の通路で雨宿りして
いた。碁会所に傘を置き忘れたことに気がついたが、戻るわけには
いかなかったからだ。
《あかり》
「なんて勝ち方したのよ、ヒカル!前は、上手に2目差で勝ったのに!
これじゃ当分、塔矢くんに会えないじゃない。」
《ヒカル》
「ごめんな、でも、お前だって悪いんだぜ。塔矢に何も言わずに
逃げたりしてさ。」
《あかり》
「だって、プロにならないか、なんて簡単に言われても困っちゃうわよ。
あたし、ヒカルにいろいろ教えてもらったけど、そんな才能ないし。」
《ヒカル》
「お前、意外と素質は悪くないと思うぜ。」
《あかり》
「今さら、おだてないでよ。木に登っちゃうから。」
ヒカルは、○ロンボー一味を思い出した。
しばらく待ってみたが、雨は一向に止みそうになかった。家に電話
して姉のかおりに迎えに来てもらうことになった。
高校受験を控えるかおりは、今が書き入れどきだが、ずっと缶詰に
なるのは性に合わず煮詰まっていた。あかりは、外出するいい口実
が出来たと、電話口でお礼を言われた。
迎えを待つ間、あかりは対局の素直な感想をヒカルにぶつけた。
《あかり》
「中押しって言うの?この間の対局の半分くらいしか打ってないのに
随分あっさりと勝っちゃったわね。」
《ヒカル》
「俺も不思議なんだ。塔矢の手が面白いように読めてさ。こんな
一方的に、アイツに勝ったことって今までないんだけどな。」
《あかり》
「ヒカルってそんなに強いの?塔矢くんは、プロ並なんでしょう?」
ヒカルにとって、塔矢アキラは常に雲の彼方の遠い目標であった。
ヒカルは知らなかった。小学生のアキラは、父と緒方さんの後を漫然と
追いかけていたが、明確な目標を見出せず、芦原三段に負け越すような
レベルに留まり、プロ試験の受験を躊躇していた。
アキラが強くなったのは、ヒカルと言うはじめてのライバルに出会い、
父とは違う新しい道を、自力で切り開く覚悟ができたからだ。
《ヒカル》
「結果は俺の中押し勝ちだけど、塔矢の反撃だって厳しかったんだぜ。
下辺で俺がツケた手、すごくいい手だっただろう?あれで塔矢の石が
ツブレたんだ。小学生であれが読めたら化け物だぜ。」
《あかり》
「じゃあ塔矢くん、あたしのことをお化けみたいに思ってるの?あたし
なんかにコテンパンにやられて、ショック受けてないかしら?」
《ヒカル》
「大丈夫じゃねーの?お前のこと、名人の研究会に誘うくらいだから。
大体さ、負けるのイヤがってたら、碁なんて打てねーじゃん。俺なんか
毎晩、イヤっちゅーほど佐為のヤツにやられて強くなったんだぜ。」
《あかり》
「ねえ、今『さい』って言った?誰なの?ヒカルの師匠?」
ヒカルはギクっとしたきり、押し黙ってしまった。
《あかり》
「ヒカルったら、隠し事してるの見え見えなんだから。進歩ないわね。
ヒカルがどうやって碁の勉強したのか、そろそろ白状しなさいよ!」
《ヒカル》
「白状って、何だよ?」
《あかり》
「思うんだけど、ひかるはあの通りジっとしてられない性格でしょう。
今のままじゃ、碁に興味を持つなんて永久にありえないわ。絶対変よ。
何があったの?洗いざらい全部喋りなさいよ。ひかるをプロにする気
なんでしょう?2人で考えようよ、きっといいこと思いつくから。」
ヒカルは逡巡したが、あかりに全てを打ち明ける覚悟を決めた。
《ヒカル》
「・・・そうだよな。判った、お前には全部話す。長くなるけどな。」
さて、佐為自身が知らず、ヒカルにも伝えられなかった平安当時の
状況を説明しよう。
平安時代中期の天皇、一条帝は広く文芸、音楽、技芸に理解を示した。
帝の2人の正妻の一方である中宮の定子には清少納言が仕え、もう1人
の皇后である彰子には紫式部が仕え、文芸サロンの様相を呈していた。
雅な王朝文学が花開いたのだ。
彰子の父であり一条帝の摂政となった藤原道長も同様で、紫式部の元に
押しかけては、宮廷で絶賛大ヒット中の長編恋愛歌物語『源氏物語』の
新しい原稿を催促するほどであった。
当時の宮廷人の間では、和歌と並び囲碁も持つべき素養の1つであった。
既に先任の『碁師』として菅原顕忠があったが、藤原佐為の碁の腕前を
一条帝が聞き及び、2人目の囲碁指南役とした。
帝のお墨付きを得た佐為は、喜び勇んで貴族の家を次々と訪れ、
新しく出会った人々と、囲碁三昧の楽しい日々を送った。
碁が強いだけでなく、見目麗しく優しく和歌がうまく教養に溢れ、
笛や琵琶の演奏も上手い『佐為の君』はモテモテ。貴族の姫たちが、
佐為を家に呼ぶよう父にねだる有り様だった。
当時は通い婚の時代だった。佐為とて生身の身体をもつ健全な男性、
碁の指導に訪れた家で父娘に強く引き止められ、美しい姫君と囲碁
とは別の楽しいことをして一夜を過ごしたことも、しばしばであった。
佐為は、摂関家である藤原北家に連なる高貴な血筋の持ち主だった。
もし、佐為に娘が生まれ、一条帝の皇子に嫁いで男児を産み、次代の
天皇として即位することにでもなれば、『佐為の君』が『関白太政大臣』
に出世する可能性さえあった。貴族達が佐為を家に呼んで娘に会わせ、
佐為を婿に取ろうとする背景には、そんな事情があったのだ。
佐為のそんな振る舞いを、快く思わない者があった。内大臣である。
囲碁バカの佐為には、出世や栄達の関心は全くなく、碁を教えたり、
強い人と競うのが、楽しくて仕方なかった。だが、内大臣の目には、
有力貴族の間を渡り歩いて人脈を広げる、佐為の政界工作と映った。
一条帝と佐為と、時の摂政道長の弟である内大臣には血縁関係がある。
当時の権力闘争というのは、親戚とか兄弟同士のドロドロした醜い
派閥争いなのだ。佐為には、到底理解のできないことである。
やがて有力貴族の姫が佐為の娘を産み、美しくて賢いと評判が立った。
一刻の猶予もない。内大臣は先任の囲碁指南役、菅原顕忠を呼んだ。
《菅原》
「大君、囲碁指南役は1人で十分、対局にて雌雄を決し、勝者のみを
お召しくだされ。」
内大臣から直々の密命を受け、一条帝から御前対局の許しを得たものの、
菅原は大きな不安を持っていた。腕をあげた今の佐為と、まともに勝負
したら、上手で後番の菅原は、返り討ちに遭う危険性がある。内大臣と
相談して佐為の動揺を誘う手はずを整えることにした。
対局当日、佐為は屋敷でくつろいでいた。有利な先番であり、負ける
怖れなど万に一つも考えていない。どんな手を打つか、どんな手で
応えるか、ウキウキしながら考えていた。
そこに内大臣の配下の者が押しかけてきた。対局の始まる時間はとっく
に過ぎ、帝がしびれを切らしているというのだ。佐為には、誤まった
開始時刻が伝えられていたのだ。
内大臣の手のものにより無理やり牛車に押し込まれ、着替える間もなく
内裏に連行された佐為は、咎人のように対局場に引きずり出された。
《内大臣》
「くっくっく、かようないでたちで御前の対局に臨まれるとは笑止な。」
佐為の衣装は狩衣(かりぎぬ)といって、普段着である。宮中に参内
する時には相応しくない。居並ぶ他の貴族からも失笑が聞こえてきた。
いたたまれなくなった佐為は、恥ずかしさの余り顔色を失った。
そこに、佐為を救う言葉を投げ掛けたのは、御簾の影に隠れた一条帝
であった。帝は、碁をたしなむ時いつもしているように、今日も愛猫
の『命婦殿』を膝に抱えていた。猫を抱いていれば、対局が長時間に
なっても冷えずに済む。『湯たんぽ』ならぬ『猫たんぽ』である。
《一条帝》
「よい、世と佐為殿の仲である。気楽にするが良い。対局を始めよ。」
帝に声をかけられ、対局を始めた佐為であったが、心の動揺は納まら
なかった。屋敷で考えておいた作戦は、どこかへ飛んでしまった。
先番でありながら中盤まで形勢は互角、いつもと違って足取りの重い
碁を打つ佐為の苦戦である。
その時、秋風に吹かれた紅葉が二葉、ひらりと碁盤の上に舞い落ちた。
佐為は手前の一葉を取り除け、菅原は自分の側の葉を取りあげた。
佐為は見逃さなかった。黒の陣地で働きを失い、無駄になっていた黒石
1子を菅原が紅葉と一緒に取り上げ、とっさに口の中に入れるのを。
佐為は、声をあげようとした。
《佐為》
「そなた、今・・・」
しかし佐為が声を出すより先に、菅原が荒げた声を発した。
《菅原》
「おいキサマ!今、盤上にあった石を取り上げ、口に入れたな!!」
《佐為》
「何を言う!それは今、そなたがやったことではないか!」
《菅原》
「ハっ!これはなんとつまらぬ言い訳、さあ、飲み込んだ石を早く
吐き出すのだ。」
立ち上がった菅原は、碁盤を回り込んで佐為に掴みかかり、口の中に
手を突っ込もうとした。
《佐為》
「何をする!そなたこそ。」
佐為も菅原の身体を掴み返し、口をこじ開けようとした。いかんせん、
佐為は体格で劣る上、日頃碁笥より重いものは持ったためしがなかった。
菅原にのしかかられて首元を押さえつけられ、息がつまりそうになり、
完全に抵抗する力を失ってしまったのだ。
佐為の細い腕が、がくりと力なく下がった。こうなっては、菅原の
なすがまま、やりたい放題である。強く首をしめつけられた佐為の
意識は混濁して、走馬灯のように景色が浮かんできた。
《菅原》
「さあ、吐け!吐くんだ。お前がやったんだな!ネタは上がってるんだ。
正直にゲロ(白状)したらどうだ。」
《佐為容疑者》
「・・・それでも、私は・・・やってません。」
《菅原刑事》
「お前には家族はいないのか。いるんだろう。早く楽になりたいよな。
なあ、すっかり白状したら、カツ丼を食わせてやるぞ。脂が乗って
ジュ-ジュ-いってる分厚いカツが乗ってるんだ。美味いぞお。」
佐為は、あふれそうな涙をこらえきれなくなった。
《菅原刑事》
「お前がやったんだな?そうだな?さあ、吐いてしまえ。楽になり
たいだろう。早く白状した方が罪が軽くなるんだぞ。」
《佐為容疑者》
「刑事さん、私が・・・私が・・・やりま・・・し・・・」
冤罪事件は、このように作られるものらしい。
陥落寸前の佐為を救ったのは、又しても一条帝の一声であった。
《一条帝》
「見苦しい!静まれ!!」
佐為の首をガッチリとしめつけていた、菅原の腕の力が緩んだ。
意識が戻った佐為は、ここが御前対局の場であることを思い出した。
《一条帝》
「世の前で、そのような下卑た行為が行われるなど、考えたくもないわ。
そのまま対局を続けるが良い。」
しかし、首を強くしめられた直後である。佐為は口がカラカラに乾き、
呼吸は乱れ、精神的にも動揺して、正しく打ち続けるのは無理だった。
御前対局に敗れた佐為は、さかしい誤魔化しをしたと汚名を着せられ、
内大臣一派によって都を追われてしまった。佐為の追放を知り、女御、
更衣、女房衆一千人の嘆き悲しむ声が都に響いた。
佐為は、屋敷に立ち寄ることさえ許されなかった。半ば咎人のように
都落ちする途上、失意の余り、自ら宇治川に入っていった。
《佐為》
「この世に囲碁の神と言う者があるのなら、どうか私の嘆きをお聞き
ください。『神の一手』を極めんと日々精進していた私に、いったい
どんな罪があるというのでしょう。この若さで死ぬのは、あまりに
御無体。私は、もっと碁が打ちたい!まだ死ぬわけには参りません。」
一度は死を覚悟した佐為だったが、水から上がろうと、もがき始めた。
しかし、季節は晩秋である。水温は冷たく、冷え切った佐為の身体は
たちまち身動きが取れなくなってしまった。平安時代最強の天才棋士、
藤原佐為は、はかなくも悲しい最期を迎えたのだった。
当時、自ら命を絶つことは大罪とされた。佐為の屋敷では、なきがら
もないまま病死と偽り、葬儀が執り行われた。佐為を死に追いやった
張本人の内大臣は、タタリを怖れて怯え、屋敷中に香をたき込めた。
内大臣は、佐為の地位を奪い、失脚させるつもりであっても、まさか
入水するとは考えもしなかったのだ。もし佐為が、本当に権力のために
碁を打っていたのなら都落ちの屈辱に耐え、捲土重来を期したであろう。
内大臣の摂政になる野望は叶わなかった。佐為のタタリに怯え、道長
より10年も早く病死したのだ。道長は、一条帝崩御の後も政治の
中心に留まり、娘の妍子(きよこ)を三条帝の皇后として嫁がせ、
さらに威子(たけこ)を後一条帝の皇后にして権勢を誇った。
菅原は、内大臣の狼狽振りを見て頼りにならないと見限り、指南役の
職を辞して出家してしまった。
一条帝は、タタリや物の怪の存在など信じない現実派であった。入水
という当時の大罪を犯した佐為の存在を、記録から全て抹消させた。
佐為の残した和歌の数々も、詠み人知らずとされた。
佐為のなきがらは、川べりの榧(かや)の大樹の根元に引っかかり
朽ち果て、樹木の滋養となった。その大樹から生まれた榧の若木が、
数百年の後に大樹となって切り出され、碁盤に姿を変えた。
数世代に渡って打ち込まれ、幾多の人の間を渡って使い古された碁盤
は瀬戸内に伝わり、因島の桑原家のカメという女性の嫁入り道具となる。
やがてカメは長男、虎次郎を産んだ。後の本因坊秀策である。
尚、佐為の娘は成長して中級貴族に嫁ぎ、子を産んで後世に天才棋士
の血脈を伝えた。カメは、その末裔の1人である。
15Note
平安時代の囲碁は、白と黒が対角線上の星に2子ずつ置いて、白番から
打ち始めます。佐為が白を持ったのは、相手より若輩の下手だったから
です。佐為が先番なのに盤上互角ですから、菅原は相当な打ち手です。
原作で行われた不正は、自分の碁笥に相手の石を1子隠しておき、それを
アゲハマの石に混ぜて、終局したとき相手の陣地を1目減らす『寝浜』と
呼ばれる手口でした。(三谷も使ってます)先番が6目ほど有利ですから、
1目程度の不正では、佐為の断然有利は変わらないはずなんですが。
精神的な動揺が、よほど激しかったんでしょうか。
石を飲み込む不正は、天平奈良時代の学者政治家、吉備真備を主人公に
した平安末期の説話集『江談抄』の『吉備入唐の間の事』にあります。
遣唐使として唐に渡った真備は、次々と無理難題を吹っかけられますが、
物語では超人的な天才ですから、必ず解決します。囲碁を知らない
真備は、唐の名人と対局して勝たないと殺される勝負を挑まれます。
真備が幽閉された部屋は、鬼が出るという噂でしたが、現れたのは
唐で亡くなった阿倍仲麻呂の霊でした。仲麻呂は、桝目に区切られた
天井を碁盤に見立て、真備に即席で囲碁を教えます。天井には碁石が
置けませんから、ほとんど目隠し碁のようなものです。
唐の名人と互角の勝負をする真備ですが、どうしても勝てません。
ここで負けたら殺されてしまうのです。そこで使った最期の手段が、
自陣の石を飲み込んで、陣地を1目広げる不正手段でした。
『初心者』に『幽霊』が『目隠し碁』で、碁を教えて、『名人』と『命がけ』
の勝負、決め手は『碁石を飲む』。平安人の想像力には驚かされますね。
(ほった先生が、ヒカ碁の構想を練る参考にされた一冊でしょう。)
原作の佐為が狩衣姿で御前対局したのは、小畑先生が知らずに描いたの
でしょうけど、それも内大臣の陰謀だったことにしました。