■ALTERED FABLE⇒幕間のプロローグ
この日、天下の御剣本家は非常に騒がしかった。
警報こそ鳴らないものの、廊下を行き交う多くの者たちの足音が騒然と響き渡る。
怒号こそ上がらないものの、人々の間を飛び交う幾重もの報告が混然と入り乱れる。
『クソッ! こちらD小隊。一体どうなってるんだ! 全然見つからないぞ!』
『こちらB小隊。対象の姿は発見できず。どうぞ』
『こちらN小隊。影も形も見当たらず。本当にまだ内部にいるのか? 既に脱出されている可能性の再検討を進言する』
各所からひっきりなしに飛び込んでくる報告は、しかし一つとして違う内容のものがなかった。
誰もが思う。そんな馬鹿な、と。
だが、厳しい訓練を受け、数多の実戦を経験してきた者たちが見事なまでに手玉に取られているのが現実だ。
敷地、邸宅の内外に星の数ほど散りばめられた各種センサーは、絶望的なまでに無反応。猫一匹でも出入り可能であると思われるあらゆる経路を監視するカメラは、常時と変わらぬ平穏だけを捉え続けている。
これは非常に拙い事態である。
平静を常に心がけている月詠真那は、湧き上がる焦燥を力ずくで押さえつけながら口を開く。
「こちらCP。偶数番区域が充てられている小隊は一度帰還。装備を整えてから敷地外部の探索の任に就きなさい。奇数番区域が充てられている小隊は分隊に分かれ、任されている区域と、一つ小さい番号の区域の探索を命じます」
『A小隊、了解』
『B小隊、了解』
『C小隊、了解』
各小隊の応答。
音がマイクに入らないようスイッチを切って、それから真那は敗北のため息をついた。
薄く眼を閉じ、何度も繰り返した確認を心の中で再度行う。
暗い視界に浮かんだのは、変わらぬ結果だった。
「武様はいつも私どもを驚かせて下さいますが、まさかこれほどまでとは……。まだまだ認識が甘かったようですね」
思い出すのは、脱出しようとする彼と、決して逃がすまいとする警護部隊や警備部隊との熱き戦いの日々。
毎回毎回、誰もがまさかと思う手段により脱出を可能にしてきた彼であるが、ここのところは勝率が右肩下がりとなってきていたはずだった。それは、一度突かれた盲点は二度と狙われぬようにしてきた御剣の力の成果である。しかし、今回は脱走の発覚から一時間たった現在、未だに経路すら明らかになっていない。
決して侵入を許さず。
決して脱出を許さず。
二段構えの防犯体制は、子供の遊びとはわけが違う。本物のプロフェッショナルが考え抜いた末に、一つの芸術といっていい域にすら達している。
それが、武が御剣の家に入ってからは幾度となく破られているのだ。
警備部隊の懐柔に始まり、どこぞの刑務所のように少しずつ地を掘り進めた隠し通路まで。ときにはカタパルトで戦闘機さながらに発射され、対空防衛のシステムに撃墜されかけたことすらあった。
外に出たいという欲求ではなく、飽くなき探求心による防壁破り。
いわく、こういうのが好きじゃない男はいない、とか。
振り返ってみれば、たしかに御剣に身を委ねた彼が特に喜んだのは豊富な財力や広い屋敷ではなく、日常の裏に潜む無骨な防衛システムなどであった。なるほど、一般人では見られないものではある。しかし、真那にしてみれば興味から見ようとはまず思わないものである。
しかし彼女の価値観などには関係なく、彼は今日も敷地外への脱出という難題に挑み、そしてどうやら成し遂げてしまったらしい。しかもいままでにないほど静かに、まるで空に溶ける煙のように忽然と姿を消した。机の上に『探してくださいさないでください』とだけ書かれた手紙を残して。
この情熱を勉学にも向けてほしいと願うのは、間違っているのだろうか。
こんなことをして喜ぶのは彼本人と、彼の大胆にして奔放な様を楽しんでいる節がある双子の姉妹と、既に良きライバル関係が築き上げられているらしい防衛主任だけだ。
「私たちも出ます。ついてきなさい、3バカ1号、2号、3号!」
本来ならば武の傍についているはずだった三人のバカもとい部下を引き連れて、月詠真那は自身も雪の降り出しそうな空の下に探索に出ることにした。
一時間後。
敷地内すべての探索部隊が外の探索に回されたとき、武の部屋に放り出されていた一つの段ボール箱(特別製)が蠢いた。
段ボール箱(特別製)は進む。まるで生きているかのように廊下を這い、その様子は監視カメラにしっかりと捉えられた。しかし悲しいかなその映像を見る者はいなかった。
「―――大佐、屋内すべての探索部隊の撤収を確認した。これより配達される荷物を装い、トラックを使い敷地内からの脱出を敢行する」
彼の名はチョビット・ハブ―――になりきった白銀武。
潜入工作を得意とする諜報員では、当然ない。
本日の教訓。
灯台下暗し。