ゆっくりと開いた瞼を、何度か瞬きしたのをシエスタは見る。
僅かに顔を傾け、シエスタの顔を見たルイズは上体を捻って肘を支えに起き上がろうとする。
すかさずシエスタは傍に寄り、右手を肩から背中に、流れるように当ててルイズを支え起こした。
はぁっ、っと搾り出したような溜息を吐いた後、右手を顔に当てたルイズは口を開いた。
「……ここは」
少し掠れた声、それにシエスタは返す。
「ルイズ様の御父上がお見えになって、今はルイズ様の家に向かっている途中です」
「………」
散漫とした動作で足を動かし、下ろそうとするも上手く動かせない。
シエスタはルイズのふくらはぎの下に左手を差込み、僅かに持ち上げてルイズの左足を下ろす。
右足も同じように左手を差し込んで下ろし、寝台に座った状態に。
「……どのくらい気を失ってたかしら」
「一週間ほどになります……、一体ルイズ様は何をしてらっしゃるんですか……?」
シエスタは素朴な疑問を問う、純粋に心配しての声。
「色々よ」
「嘘です! いえ、本当でしょうけど……。 私、魔法の事はよく知りませんが、魔法を使い過ぎたら気絶するって言うのは知っています」
「だったらシエスタも知ってるでしょう? 私が何て呼ばれているか」
「知っています、だからこそ信じられないんです!」
シエスタが語尾を荒げる、それを聞きながらルイズはゆっくろと瞬きして息を吐く。
「それで?」
「それでって……、何をしているのか分かりませんがもうやめて下さい! こんな事がこれからも続いたらルイズ様のお体が持ちません!」
今回で二度目、ルイズが倒れ学院に戻ってきたのは。
そのたびにシエスタはルイズの世話をし、着替えなどをこなしてきた。
その過程、体を拭いたり着替えさせたりする際ルイズの肌を直接見たのだが、一度目より二度目の方が明らかにルイズが細くなっていた。
ルイズは体質か小柄なためか、元より肉付きが良くなく、脂肪もあまり付いてはいない。
細いルイズが今ではさらに細くなり、ただ横になっているだけで肋骨が浮き上がるほど細くなっていた。
一度目に倒れてから二ヶ月ほど、それだけの時間で元から華奢なルイズがさらに痩せれるのかと言う不安感。
ダイエットとかそういうレベルではない、ただでさえ少ない肉や脂肪をそのまま削ぎ落としているような気さえした。
シエスタだって女の子、体重や肌、髪を気にする。
太ってくれば体重を減らそうとダイエットに励むが、その成果が出るのは当分先。
少なくとも二ヶ月で体重が減ったと実感出来るほどの変化は一度たりともなかった、だがルイズは実感できるほどに細くなっていた。
太っているなら減らせる脂肪があるのだが、細くなったルイズには減るだけの脂肪がかなり少ない。
なのにもとから軽いルイズが、どうしたらさらに細くなるのかと。
この二ヶ月でさらに軽くなったルイズが、また同じように数ヵ月後に倒れたりしたらどうなるのか。
その時は頬は痩け、骨と皮だけのような姿になるんじゃないだろうかとシエスタは心配していた。
だがその心配をよそに、ルイズは自分の意思を話す。
「……シエスタのためでもあるのよ、残念だけど止められないわ」
「……私の?」
何のために、と言う事を気にしていたシエスタは、まさか自分の名前が出るとは露にも思わず一言。
「広義の、もっと大きく見ればお国の為なのよ。 やっておかなければ街が火に包まれるかもしれないの、シエスタはタルブの町が燃えた時の光景をまた見たいと思う?」
「そんな!」
「……押し付けがましかったわね。 他にも理由は有るのだけど、シエスタたちにはそれが一番納得しやすい事だと思うわ」
一度馬車内を見渡してそう言ったルイズは、目線の高さを合わせてしゃがむシエスタの肩に手を置いた。
「でも!」
「静かに、あの子が起きるわ。 ……もう寝なさい、私の世話で夜更かしなんかする事ないわ」
寝台馬車の後部、世話係用の小さめのベッドに横になっている、明るい栗毛の髪をベッドに流すマリーを一度見る。
視線を戻すルイズはシエスタの肩に置いていた手を、シエスタの首元に移動させて一度その黒髪を撫でた。
「そういえば、あの子の名前を聞くのをすっかり忘れていたわ」
「……マリーです」
「そう、マリーね」
「名前を呼んであげてください、それだけでマリーは喜びます」
「大げさね」
そう言ってルイズは手を下ろす、シエスタは下げられた手に一度視線をやってから頭を横に振る。
「大げさじゃありません、ルイズ様はどれだけ皆に思われているのかご存じないからそう言えるんです」
その黒く真摯な瞳はルイズを捕らえて離さない、それは信用と信頼に溢れた瞳。
それを見てルイズは目を丸くする、あまりに真剣すぎる表情だったからだ。
「大体ルイズ様が入学なされてから、何度平民を気に掛けたと思ってるんですか!」
シエスタはルイズがやった事を指折りで数え始めた。
「まずは学院の設備や機材の新調、貴族様方の環境が良くなるって言ってましたけど、実際は私たちのほうが大変助かっています!」
料理に使う鍋やかまど、水を汲むための桶など貴族の世話をする為の必需品の新調。
修繕を必要とする物は全部交換し、重たい物の運搬に便利なリアカーも導入された。
つまり作業効率の上昇、仕事に掛かる時間が短くなり負担が減る。
「他には何度もメイドさんたちを助けてましたね、無体を振るう貴族様の間に割って入って! マリーの事だってそうですよね!」
気にする事でもない事に気をやり、ほんの僅かなミスで平民に怪我をさせる。
そのやり取りが行われる前に、声を上げて遮る。
見苦しいとルイズが言えば、ゼロのくせにでしゃばるなと言い返され、だったらこっちに迷惑をかけるなと反論した。
怪我をさせた平民は働けずに学院を去ることになる、そうすれば減った分だけ仕事が他の平民へと行く事になる。
平民の補充にもそれなりの時間が掛かる、補充したとしてもすぐに満足できる仕事を出来るわけでもないと。
その穴を埋める為に前から居る平民が頑張ったとして、ずっと頑張れるわけではない。
無理をした分だけ疲れ、酷ければ倒れるかもしれない。
そうなれば満足に働ける者が減り、その分さらに仕事の分担が増える。
もしこんな悪循環に陥れば奉仕の質が下がり、怪我をさせた貴族だけではなく全体が迷惑をこうむる事になると。
それを声を大きくして語り、その貴族のせいで平民のミスが増えて、関係ない自分が被害をこうむるのを許せるのかと。
『ミスタ、貴族なら相応しい品性を身に付けたらいかが? 些細な事など寛大な心で許してやると言うのが素晴らしい人物だと思うのだけど、これでは器の小さい男と言われても否定は出来ませんわよ?』
そう真っ向から啖呵を切ったルイズ、周囲の観客と相まって体面を気にする貴族は明らかに無理して許してやったと言う。
勿論気が収まらない貴族は嫌がらせを行うが、ラ・ヴァリエールと言う名が行き過ぎた嫌がらせを抑制させる。
そもそも程度の知れた嫌がらせなど全く持って眼中にない、いまさら嫌がらせが一つ二つ増えたところで気にする事でもなかったからだ。
「お買い物に付き合わせたメイドたちに色々買ってあげたそうじゃないですか!」
欲しい物があってトリスタニアに繰り出す際、一人で行くのもさびしく通り掛かったメイドに同行を頼んだ。
勿論貴族の言葉に逆らえない平民のメイドは一言で頷き、学院の馬車でトリスタニアに向かったのだが。
道中の馬車でやたらと話しかけられるし、トリスタニアに着いて買った物を持っってもらった際に重くないかと心配されたり。
最後は付き合わせたお詫びに何か好きなものを買っても良いと、一人ずつ10エキュー渡されてとても驚いたと。
平然と一月の給金に届きそうな金額を渡されて好きに使って良い等と、これが他の貴族であったら間違いなくやらない事。
「それに、それに!」
「もう良い、もう良いから……」
まだまだあると少し興奮したシエスタを前に、ルイズは眉間を右手で揉みながら遮る。
「やった事はそれが当然だと思ったからよ、聖人君子じゃないんだから益の無い事はしないわ」
「せいじんくんし……? その言葉の意味は分かりませんが、ルイズ様は他の貴族様とは全然違います」
「当たり前よ、私は誰とも違う。 貴女が考える貴族とは掛け離れているわ、変人奇人と言っても良いわね」
「その変人奇人のルイズ様が私たちにとって、とっても好きなんです!」
「は、アハハ。 正面切って言われると変な気分になるわね」
「す、すみません」
シエスタは自分が言った事に気が付き、申し訳無さそうな表情を作る。
ルイズは顔は俯かせたままそれを見ずに顔から手を下ろす。
「良いのよ、本当の事だし。 私は貴族だけど貴族じゃないわ、私は私だけど私じゃない」
「……それはどういう」
「浅ましい人間だと言う事よ。 ……さて、外に誰か居るでしょうから呼んでくれる?」
「浅ましいだなんて!」
「シエスタ」
ここで終わりだと、そう強めて名前を呼ぶルイズ。
それを前にしてシエスタは折れなかった。
「いやです! ルイズ様が止めると約束してくれるまで誰も呼びません!」
酷い事になる前に止めて欲しいと、シエスタは真剣に願った。
シエスタの剣幕に、ルイズは一つ溜息。
「……ねぇ、シエスタ。 私のお小遣いって今どれだけ貯まってるか分かる?」
唐突に出た、全く関係の無い話にシエスタは眉を顰める。
「……ルイズ様、今お小遣いの話をしてるんじゃ──」
「予想くらいは出来るでしょ?」
シエスタの声を遮って、ルイズは答えを強要する。
「……1000エキューくらいですか?」
渋々、話が進まないと思ったシエスタは予想を口にするが。
その答えにルイズは首を横に振る。
「……2000ですか?」
二倍、そう答えてみるもやはり首を横に振られる。
「じゃあじゃあ、5000!」
今度は二.五倍、ここまでくれば平民にとって夢のような額。
成人した平民一人が一年間生きていく為に必要な金額は120エキュー、質素な生活を心掛ければ100エキューでも問題ないだろう。
つまりは5000エキューという金額は数十年間何もせずとも暮らしていける金額、少し節約すれば一生暮らしていける。
そんな夢のような金額にも、ルイズは首を横に振る。
「……い、1万エキューですか?」
そのさらに倍、もう一生何もせずとも暮らしていける金額。
近代日本で例えれば数千万から億にも届くだろう、その金額をしてルイズはこう答える。
「正確には覚えていないけどね、今は5万エキュー以上は持ってるわ」
「ごっ!?」
シエスタは言葉を詰まらせる、それは予想だにしない途轍もない金額だった。
「この私が、汗水流して田畑を耕したり、どこかの店で一生懸命仕事をしたりした事がないこの私が、5万エキューという金額を持っているの」
ルイズの声の質が変わった、真剣みを帯びてシエスタに問いかける様に語りだす。
「ヴァリエール公爵家の三女と言う理由で、平民が一生働き詰めでも得られない金額を、たった17の子供が手に入れているのよ」
貴族と平民、絶対に埋まらない溝。
ルイズは貴族で、シエスタは平民、本来ならば絶対に近づく事はない距離。
天と地、そう言っても過言ではないほどの距離がこの二人にはある。
「この5万エキューと言うお金、これは父さまが与えてくれたもの。 そう、これは領地に住む領民から得た税金から賄われているの」
鳶色の瞳がシエスタの黒い瞳を捉える。
「父さまが領地の経営して得られたお金、これが父さまのものなら何の問題も無い。 領民の安全を保証し、働きやすくして、その代価に支払われた税金。 だけど私は違う、父さまの娘と言うだけで、ヴァリエールの領民に何かをしてあげたわけでもないのに得たお金」
田畑を耕す苦労を、何かを作り売る事を、その日を懸命に生きることを知らない小娘が得て良いお金?
そう聞かれて、シエスタは何も反応を返せない。
「何十何百エキューもする料理を毎日朝昼晩と食べ、何百エキューもする衣服を身にまとい、何千エキューもする宝石で着飾り、何万何十万エキューもする豪華な屋敷で過ごす」
誰かの為に何かをしてやった事が無い人間が、他人の努力だけで生きていけるなんてシエスタは許せる?
「………」
「そんな人間は許せないわ、でも現実はそんな貴族ばっかり。 平民を家畜程度にしか見えていない者ばかり、土地に住ませてやっているから税を納めるのは当然と、やるべき事をやらず搾取だけを行う貴族ばかり」
シエスタは許せる? 懸命に働けど税金として殆ど取られ、その日を必死に生きる平民たちを尻目に、贅の限りを尽くして笑う貴族を。
「……許せません」
「でしょう? 村や町を襲う亜人が現れれば討伐に人を動かし、日照りや雨ばかりで作物が枯れ果てれば税を軽くし、食べる物が無く飢餓に喘げば食料を配布する、そこまでして始めて税金を納めてもらえると私は思うの」
勿論これは理想論よ、そこまで出来る財を持ち得て初めて実現できる類の理想。
ここまで出来る貴族はごく僅か、でも襲ってくる亜人を討伐に向かわせる貴族も居れば、作物の収穫が期待できない時は税を軽くする貴族もいる。
例え出来たとしてもわざとやらない貴族も居る、毎月パーティを開いて他の貴族と関係を作ろうと、ただ財を築こうとをするだけ。
私はそんな貴族になりたくないわ、でも今は親のすねを齧って高い入学費や授業料を払ってもらい、高額のお小遣いを毎月貰っている。
「……でも、ルイズ様は」
「そのままの体勢はきついでしょ、座って」
ポンポンと手で自分の右隣を叩くルイズ、シエスタは促されて隣に座る。
「働かずとも暮らしていける身分ってのはとても恵まれているわ、ちょっと気を抜いてだらければあっという間に堕ちて行く」
「それは、とても羨ましい事です」
「でもそれは違うわ、貴族じゃない。 いえ、貴族だけど、そう言う風に生きていくのはずっとずっと後のこと」
若い頃は学業を学んで、祖父や父の教えのもと試行錯誤し、やがて一人前となって当主になれば学んだ経験を生かして領地を経営する。
三十台、四十台、五十台となって、そこまで領民の事を考え行動して年老いて、初めて働かずに暮らしていくの。
「そんな人間になりたいけど私は女だし跡を継ぐことは無い、ヴァリエールの領民に何かしてあげるって言うのもあまり機会はなさそうなの。 だから今やっているのは地方だけじゃなくて、国全体の為になるようなことをしているのよ」
もうすぐ戦争が起きるからね、とルイズは言う。
その少しだけ浮かべた笑みに、シエスタは追撃の手が一気に緩む。
この世にたった一つ、たった一人しか知らない『貴族の義務』。
シエスタは自分たちの為を思ってと言う、その高潔な建前に感動を覚える。
「……だからねシエスタ、一つ約束して欲しいことがあるの」
だからこそ裏に潜む本音を見抜く事は出来なかった。
タイトル「諦めたらそこで終了ですよ」
夜の帳を上げる朝日が、地平線の向こう側から顔を覗かせる。
だがその朝日が顔を見せる前から馬車の一団は動き出していた。
正確にはラ・ヴァリエールの城で奉仕するメイドたち、その中にはシエスタとマリーの姿もある。
食事に身支度などを、仕える貴族、ラ・ヴァリエールの名を持つ者の為に用意する。
それを寝台馬車の中から窓越しに眺めながら、ルイズは用意された紅茶を飲む。
そしてその隣に才人、起きて五分ほど経つが未だ眠気眼で目を擦っている。
「よく眠れた?」
「……いや、あんまり」
寝よう寝ようと思っても、ベッドにした座席が硬かったり、今どこに向かっているのかとか。
ちょっと痛い肩を擦りながら、サイトは隣に座るルイズを見る。
一世一代の告白をした才人としては話しかけづらいが、どこに向かっているのかとか聞いておきたいと話しかける。
「寝難かったんじゃないの? サイトもこっちで寝れば良かったのに」
一方、ルイズは何事も無くいつも通りに返してきた。
「ルイズのお父さんとお姉さんが、なんと言うかすげー怖かったから無理じゃないかなー……」
険しい顔つきで杖を向けてきたルイズのお父さん、それとルイズを金髪にして成長させたような感じのお姉さん。
毎晩一緒の部屋で寝てますよ、なんて言ったらまじで襲われそうな気がする。
「……何かされた?」
「何もされてないけど、ルイズをすっげー心配してた」
話し方とか、顔見てたら家族の事を心配している父親と姉にしか見えなかった。
……そしたらルイズが倒れた原因の俺は、間違いなく悪い男にしか見えない。
そう考えて、才人は悪寒でブルッと震えた。
それを振り払うように頭を振って、この馬車の列がどこに向かっているのかを聞いてみた。
「……そういや、どこに向かってるんだ?」
「私の家よ、帰省ってやつね」
「ルイズの家ってどこらへんにあるんだ?」
一口、紅茶を飲んでルイズが答えた。
「……トリステインの東端、北東って言ったほうがいいかしら。 とりあえずはゲルマニアとの国境に接した領地で、国境の向こう側はツェルプストー、キュルケの家がある領地と国境を隔てた場所よ」
「あー、なんかキュルケが言ってたような気がする」
「昔は小競り合いやってて、色々有ったようだけどね」
「小競り合いって?」
「そのままよ、派手に魔法を撃ち合ったり、彼氏彼女を取られたとか」
「なるほど」
貴族ってのは全員メイジだし、魔法の打ち合いってのも納得できる。
キュルケを見ていれば、彼氏彼女取られたってのも分かる。
「仲悪いの?」
「少なくとも、私はキュルケの事嫌いじゃないわよ。 キュルケの方はどう思ってるか分からないけど、家で見ると結構確執あるもの」
人間関係で色々問題があるように、貴族間での交友も色々有るって。
貴族のイメージなんてなんか毎日パーティでも開いて、美味しい物食べながら話しているような、そんな感じしかしなかったけど。
「……起きたようね」
「へ?」
「父さまと姉さま、挨拶してこなくちゃ」
窓の外に視線を向けていたルイズがそう言って、右手を才人の左腕の前に差し出す。
「手を貸してくれない?」
「ああ」
才人はその右手を左手で取り、ルイズより先に立ち上がる。
腕に掛かる力もそれなりに、グっと力を込めてルイズが立ち上がる。
「……大丈夫か?」
「ええ、やっぱり食べてないと落ちちゃうわね」
「その、ごめん」
「そうね、とても困ったわ。 返事、今欲しいの?」
そう聞かれて、才人はうっと呻いた。
これは聞きたい、絶対に聞いておきたい。
だが告白の答えがごめんなさいだったら、そう思うと怖い。
でも、その怖さよりも返事を聞きたいと思う気持ちの方が強かった。
「欲しい、聞きたい」
開き直りもあった、断られてもまだ何とかなると言う考えもあった。
真っ直ぐに才人はルイズを見つめ、ルイズも真っ直ぐ才人を見つめる。
ほんの僅か、数秒も無い間の後。
「ごめんなさい」
「………」
振られた、振られた、振られた、振られた、振られた、何度も頭の中で反芻する才人は泣きたくなった。
涙がぶわっと出てきそうになった、でもそれを必死に飲み込んで平静を装う。
「い、いやぁ、しょうがないよ。 さ、最初にそう言ってたもんな」
無理だった、声が震えていた。
好きな女の子に振られると言うのはこんなに辛いものだったのかと、そうして才人はまた一歩大人に近づいた。
才人は顔をそらして、袖で目元を擦った。
よし、涙は出ていない。
「本当にごめんなさい、その……サイトとは付き合えないわ」
僅かに顔を背けられ、そう言われた。
駄目押しだった、トンカチで叩かれたガラスのように才人の心は砕け散った。
まさに涙目である。
「そうだよな、俺なんか……」
目から汗が流れていた、これは汗なんだ、間違っても涙なんかじゃないと言い聞かせた。
「違うの! サイトが嫌いとかじゃないのよ!」
そんな才人の様子に慌てたのか、乗せていた手を握り、一歩才人に近づく。
「嫌いじゃないわ、でも当人たちの好き嫌いで決めれる簡単な話じゃないの」
「いや、いいよ。 慰めてくれなくたって……」
惨めになるだけだと、このままルイズの前から走り去りたいほど悲しかった。
才人はもう一度袖で目元を擦る、袖を離すと目の汗で少し濡れていた。
「……好きよ」
「え?」
そう自然に声が出てしまうほどに、才人は驚いた。
「サイトの事は嫌いじゃない、むしろ好きな方よ。 だからと言って彼氏彼女として交際する事は出来ないの」
サイトが顔をルイズの方へと向ければ、真剣な表情が見えた。
長い睫毛の下にある艶やかな鳶色の瞳の中心に、才人の顔を捉えていた。
「色々問題があるの、サイトが駄目と言うわけじゃないの。 難しい問題が幾つもあるのよ、だからそういう関係になる事は出来ないの……」
ルイズは手を離す、そして馬車を降り始め。
「言い訳がましいけど、それだけは忘れないで」
馬車を降りて歩き出していった。
「……なんだよそれ、訳わかんねぇよ」
好きなのに付き合えない、武器屋の親父が言ってた意味なのかと才人は苦悶する。
そう考えて。
「……まだチャンスはあるってことか?」
一人馬車に残る才人は、そんな有るかも分からない機会に賭けたくなっていた。
ルイズが目を覚まし、シエスタと話した後で護衛のメイジを呼び、目を覚ましたのを知らせるのは二人が起きてからで良いと言い。
そう伝えてから、今の時間までラ・ヴァリエール公爵ことピエールとエレオノールはルイズが目を覚ましたことを知らなかった。
「父さま、おはようございます」
だからこそ、眠っているはずの娘が出迎えてくるその光景に驚いた。
「ああ、ルイズ。 目を覚ましたか」
ピエールが馬車から降り、娘のルイズに抱擁と頬にキスを交わす。
「心配したぞ、ルイズ」
「ご心配を掛けて申し訳ありません」
「皆心配していた、家族全員だ」
険しい声、それでも愛が感じられる声。
「……それとルイズ、お前は私に黙っていた事があるな? 陛下からお前が倒れたと聞いたその後だ、お前は陛下からの命令でアルビオンへと行ったな?」
そうしてスッとピエールの視線が鋭くなる。
「その時、あのワルドが裏切ったそうだな」
黙っていた事、ピエールが聞いて居たらなんとしても妨害したであろう手紙奪還の任務。
責める声を前にしてルイズは。
「はい、子爵の事は問題ありませんでしたし、しっかりと任務を果たしてまいりました」
あっさりと認めた、それを聞いてピエールの表情が歪む。
「お前なら分かっていただろう? アルビオンはとても危険な状態だと」
「それでも行かねばなりませんでした、女王陛下の命でしたが自分で選んだ事です」
「その理由は一体なんなのだ? ルイズがそうせねばならない理由は」
「私だからです」
はっきりと言った。
「私が『そう』だから行かねばなりませんでした、恐らくこれからも私が『そう』だから動かねばなりません」
「……どうしても必要なことかな?」
責める口調から一転して、優しく語り掛けるようにピエールは聞いた。
「父さま、これから色んな事が起きます。 正直に言えば私が中心になるやも知れません」
「……では約束してくれ、せめて私たちには知らせて欲しい。 カリーヌもエレオノールもカトレアも、そして私もお前のことを心配しているのだ」
「はい、約束します」
それを聞いてもう一度抱擁を交わす。
「エレオノールの所へ行ってきなさい、あの子も心配していたぞ」
「はい、ではまた後で」
二人は離れ、ルイズは一つ後ろの馬車へと歩いていった。
その後姿を見ながら、ピエールは素早く寄ってきたメイドに衣服の乱れを直させる。
「出発するまで護衛の半数を休ませろ」
「かしこまりました」
命じて仰仰しくメイドが頭を下げ、設置されたテーブルへとピエールは歩き出した。
「姉さま」
「ルイズ」
起きてから身嗜みを整えたエレオノールが馬車から降りると、末の妹が待っていた。
目が覚めたという報告もなく、ついさっき目を覚ましたのでしょうと一歩ルイズの前に足を進め。
「いひゃいでひゅ」
ぐいーっとルイズの頬を引っ張った。
「まったく、このちびルイズ! 倒れただなんて皆に心配を掛けて! それも二度! 陛下が仰らなければ黙っていたつもりでしょう!?」
金髪をなびかせ、エレオノールは激しく叱咤する。
「家族だからと言って秘密を全て打ち明けろとは言わないけど、これは秘密でもなんでもなく知らせるべきことでしょう!」
そう言って左手も頬をつねり上げて引っ張る。
「あひゅほ、いひゃひゅぎ、あだ」
痛い痛いと言いつつも、抵抗せずにそれを受け入れているルイズ。
自覚があると判断したエレオノールは、もう一度強く引っ張った後手を離す。
「帰ったら母さまとカトレアに謝りなさい、良いわね!?」
ルイズは頬を擦りながら頷き。
「姉さま、心配を掛けてごめんなさい」
そう言って頭を下げる。
「……はぁ、あなたって子は」
「あだっ」
エレオノールは溜息を吐き、右手の人差し指でルイズの額にデコピン。
「もうこんな心配を掛けるんじゃないわよ?」
「それは約束できません」
その切り返しで、エレオノールの片眉が僅かにつりあがる。
「それはどう言う意味? まさかこれからも何か危ないことするんじゃないでしょうね?」
「それは家に帰ってから、皆の前で話します」
「今言いなさい!」
その剣幕の前に、ルイズは首を横に振る。
「二度手間です、姉さまも一度聞いたのをもう一度聞くのは煩わしいでしょう?」
「そ・れ・で・も! 今話しなさい!!」
怒髪天を衝くが如く、怒りの形相でエレオノールはルイズを見る。
埒が明かないと判断したルイズは、簡潔に説明した。
「此度の戦に参加します」
その言葉を聞いて、エレオノールを支配したのは怒りではなく驚愕。
「あなた……何言ってるの!? この事は父さまには……」
「ですから、家に帰っ──」
ルイズが言い切る前に、エレオノールはルイズの腕を掴んで無理やり引っ張り歩き出す。
「てから話します」
ぐっと踵に力を込めて、無理やり足を止めさせる。
引っかかったことに対して、エレオノールは振り返りルイズの顔を見る。
「その時、父さまや母さまに話します」
「自分が何を言ってるのか──」
「分かっています、姉さまが言いたい事はその時にお願いします」
譲らぬルイズに、エレオノールは一つ溜息を吐く。
「……その時に、父さまと母さまにこってりと絞られなさい」
「ありがとう、姉さま」
エレオノールは両親が認めるわけが無いと確信していた。
魔法が使えぬルイズが戦場に出て何が出来るのかと、間違いなく足手まといになって危険に身を晒すことになるとわかっているから。
全く思いがけない事を平然と言って、とエレオノールが呆れていれば。
「ところで姉さま、式はいつ挙げるので?」
ビシッと空気が凍った。
エレオノールの表情が凍りつき、見下ろす末の妹の表情も変化していく。
「………」
「まさか姉さま……、婚約を解消されたんじゃ」
笑顔を浮かべていたルイズから、見る間に笑みが消えていった。
「されて無いわよ!」
反射的に、エレオノールは事実を持って反論する。
「……それは良かった、姉さまも伯爵さまの事は嫌いじゃないんでしょうし」
一言呟いて、追い討ちの如くさらに言葉を紡ぐ。
「では何故未だ、もう4年近くも式を挙げないのですか?」
「それは……」
くぅっとエレオノールがうめく、彼女の婚約者、バーガンディ伯爵とはルイズが入学する二年と半年ほど前から婚約をしている。
彼女が23歳の頃にお見合いとして出会い、お互い惹かれあった、とルイズは認識していた。
事実、9対1以上の割合でツンデレであるエレオノールだったが、伯爵の話題を出せば慌てるほどに気にしている。
『は、伯爵さまは別に、そ、そんなに好きじゃ……、き、嫌いでもないけど……』
それをカトレアとルイズは笑みを作って聞いていたこともある、顔を赤くして一生懸命好きじゃない嫌いじゃないと言い続ける。
褒めれば喜ぶし、貶せば怒る、結婚は時間の問題ねとそう考えていた。
だと言うのに4年、式も挙げず婚約状態のまま4年もの月日が経っていた。
「何故?」
「………」
顔が見る間に赤くなるエレオノール、それを見て、ああなるほどと合点がいく。
「姉さま、人には忍耐と言うものがあります。 貴族でも平民でも、それは変わりません」
単純に恥ずかしいのだ、一世一代の結婚式でもあるし、愛しい人と一緒になると思うと怖いのだろうと。
ツンを極めかかったエレオノールだからこそ、デレの部分、素直になる事が出来ないで居た。
要するに恋愛事に関して不器用なのだ、声を大きくして嫌いだと簡単に言えるのに、たった一言の好きが言えない。
「わかってる、わかってるわよ。 ちびルイズに言われる事じゃ──」
「父さまや母さまも、何も言っておられないので?」
またエレオノールが呻く、エレオノールも27と言う年齢。
ハルケギニアの結婚適齢を疾うの昔に過ぎている、父さまも母さまも早く結婚して欲しいと思っているはずとルイズは考える。
だから姉の為、家の為に背中を押す。
「姉さま、伯爵さまは人気があると聞いたことがありますが」
それを聞いて、バッと体ごと向けてエレオノールはルイズを見た。
「もし姉さまと婚約解消となれば、すぐにでも他の婦人方からお付き合いの申し出が来るんじゃないでしょうか?」
実際バーガンディ伯爵は人気が出る要素を幾つも持っている、切れ長の瞳から整った顔、地位もそれなりにあるし人当たりも悪くない。
結婚するなら妥当、ではなく上等の部類の相手。
でなければエレオノールとの婚約も、ラ・ヴァリエール公爵家の当主のピエールとその夫人、カリーヌが認めるわけがない。
「……姉さま」
ルイズは手のひらをエレオノールに見せ。
「良いのですか? 他の女に取られても」
「………」
エレオノールの強張った表情が解け、一歩ルイズに近づく。
ルイズに向かってゆっくりと伸ばされた手が頬へと迫り。
「いひゃあ、はんへぇ」
頬をつねり上げた。
「何度も言ったでしょう! ちびルイズに言われる事じゃないと!」
エレオノールは頬をつねる手を離し、ルイズから顔を背けるように振り返る。
「……ええ、言われるまでもないわ」
背を向け少し震えた声で、もう一度呟く。
「帰ったらすぐに伯爵さまに手紙を出しましょう、勿論姉さま直筆で」
そう笑いながらルイズは言った、素直になれないタイプは危機感を煽ってやらなければ後一歩を踏み出せないもの。
ルイズとしてもお互い好意を持つ者が結ばれると言うのは祝福する、そうであるべきと思ってさえ居る。
だからこそ本音を言った。
「幸せになってくださいね、姉さま」