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No.4733の一覧
[0] アホウ少年 死出から なのは  (現実→なのは)[コルコルク](2008/11/08 02:06)
[1] 第1話 我思う故に我在り[コルコルク](2008/11/29 23:34)
[2] 第2話 名前で呼ばないで[コルコルク](2008/11/29 23:36)
[3] 第3話 こんな日がふつう[コルコルク](2008/11/29 23:37)
[4] 第4話 闇の書ゲットだぜ[コルコルク](2008/11/29 23:37)
[5] 第5話 案ずるより生むが易し、対極もまた然り[コルコルク](2008/11/29 23:41)
[6] 第6話 アキラメロン[コルコルク](2008/12/13 23:35)
[7] 第7話 すごくあったかいなりぃ[コルコルク](2008/12/27 23:22)
[8] 第8話 無印開始[コルコルク](2008/12/27 23:24)
[9] 第9話 種[コルコルク](2009/01/31 06:37)
[10] 第10話 運命[コルコルク](2009/01/31 06:46)
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[4733] 第5話 案ずるより生むが易し、対極もまた然り
Name: コルコルク◆8f84f3de ID:efa95347 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/11/29 23:41
 今日ははやての家に行かない。

6枚重ねの布団をつらぬいて鳴り響く職務に忠実な目覚まし時計によって目が覚めた。

昨日使い切らずに残っていた水を焼酎の4ℓペットボトルから直接口付けて飲み下し、空になったボトルを二つ抱えて廃ビルの一階へ。

このビルの玄関は冷たいシャッターで閉ざされていて、一階部分にはガラス窓もない。そのおかげで不良少年なんかの溜まり場にはもってこいの立地で、実際にお隣にある別の廃ビルにはたまにならず者が出入りしているにもかかわらず、このビルは僕が見つけるまで人の手が入っていなかった。ただ僕だけがふたの外れた換気口から入ることができた。以来、ここは僕の城だ。棟内の移動にたいまつが必要なあたり、城というよりダンジョンといったほうが適切な気もするけど。

 ビルの中から鍵を開けて裏口を出た。

早朝の散歩として僕は自動販売機のお釣り口を漁ってまわる。今朝の収入は40円だった。多くはないが、たまに100円玉をお釣り口に忘れていく神がおられるので平均収入は50円を超える。ちなみに500円玉が手に入ったときは銭湯に行くことにしている。そんな幸運まだ2回しかないけど。

帰り道に公園のトイレで用を足した。それと、もってきた二本のペットボトルに水を満杯にしたら、後は野草を摘みながら帰るだけだ。合計8kgは小学3年生の身にはこたえるがそこはガンバリどころ。それに今日はたくさん水を使うから、もう2回は来なくてはならない。

 今日は燃えるゴミの回収もないのでここらで朝食とする。
おからとパンの耳が主食です。それから採取してある野草を各種湯通ししてから飲み込んだ。なんかビタミンやら必須アミノ酸やら絶対的に足りていないものがある気がするが、まあ生きているということは大丈夫ということだろう。たぶんはやてのおかげ。南無。この恩は体で返そう。ごちそうさま。




―――――――――――――――――――――
アホウ少年 死出から なのは

第5話 案ずるより生むが易し、対極もまた然り
―――――――――――――――――――――




 さて食べ終わったら本日のメーンイベントその1、お洗濯だ。たくさん汲んできた水はここで活かされる。廃ビルのもともと水場であったらしいところにステンレスの流し台が設置されている。そこに栓をして水を溜めてジャブジャブと洗濯板(プラスチック製、燃えないゴミの日に回収)で洗う。洗剤の量も心もとないのでできるだけケチる。

「あーあ、どっかに落ちてないもんかね、洗剤」

液体洗剤しか使わない家が御歳暮かなにかで粉洗剤をもらったら、使わないままゴミに出すということもありえると思うのだけど。

む? 1時間近くかけて洗い終えるところだったが、最後のすすぎの途中で問題が表れた。これですすぎは終わりだと思って水を使い切ったのだけど、服に全体的なぬるぬる感が残っている気がする。洗剤が落ちきっていない。やれやれ、僕は調理・飲料用に取っておいた水を使った。そしてもう一度水を汲みにいった。

洗い物を室内物干し(粗大ゴミからゲット)にかけて僕は出かけた。
本日のメーンイベントその2、ジャンボタニシの捕獲である。ジャンボタニシはドブ臭いし、オマケにしっかり熱を通さないと寄生虫がヤバイのだが、はやてに振舞ってもらう食事を除けば僕にとって一番無難な動物性タンパク質の摂取源だ。ただ当然、冷蔵庫なんてないので長期保存はきかない。定期的にちょっと遠出をして用水路まで取りに行く必要がある。

それにしても今日という日に取りに出かけたのは成功だったようだ。いい陽気なのは天気予報のとおりだから特筆に値しないが、帰還途中にビッグなカエルを捕獲したのだ。きっとウシガエル。いずれ世話になるかもと図書館でチェックしておいたから間違いないだろう。むろん可食性である。ジャンボタニシと一緒にランドセルに突っ込んだ。それにしてもランドセルは外側からはもちろん内側からの耐水性にも優れている便利品だ。お母様、今どの空の下にいるとも知れないお母様、あなたはせっかく買ったランドセルを僕がぜんぜん活用しないことを嘆いておられましたね。今はすごく役に立っています、ありがとうございます。タニシとか突っ込んでるせいですごく臭くなってしまったけど許してくださいね。

 野草も採取しながら帰った。途中、警官を遠目に見かけたので遠回りをした以外は問題は起こらなかった。

 廃ビルに帰ると出て行ったときのように裏口から入るのだが、そのまえにドアの開閉部にまいた砂を確認。

よしよし、僕が出ている間の侵入者はいないようだ。

棲み家の安全性は重要な課題である。当然ながら僕としてはこの廃ビルに僕以外の人に入っては欲しくない。基本的に出入り口は全て鍵が閉められているが、所詮は不法占拠者で外からかけられる鍵なんかもっているはずもなく、僕自身が内側から鍵を開いて出かけている間はだれでも出入り可能だ。

はやてのところに行くときなんかは全部の鍵を閉めて、ふたの外れた換気扇から出て行くのだが、今みたいに荷物を持っているとそれもできない。いや、一度ドアから出て荷物を外に置き、僕自身はドアからビル内に戻って鍵をかけて換気扇から外出するという手段もあるにはあるが、時間と手間がかかってめんどくさいし、それに僕はビルのから出入りするところをできるだけ人に見られたくないのだ。

南京錠とチェーンは百円ショップにもあるから、そういうので外出ごとに鍵をかけるというのも考えたが、さすがにそれはやりすぎだ。あくまで僕は不法かつ勝手に住んでいるだけで、本物の鍵を持つ本来の権利者の侵入まで拒むような真似はいかんと思う。廃ビルの持ち主があらわれたら浮浪者は素直に浮浪するつもりだ。

 そんなわけで今日も僕は目立たない裏口で侵入者を警戒しながらこっそり出入りしている。

まあぶっちゃけた話、僕はうら若き乙女というわけではなく金もない。反抗期の少年少女がむやみに敵視する大人でもない。基本的にはだれの得にも損にもならない存在なので、誰かに見つかってもそんなにひどい目にあわないだろうとタカを括っていたりする。

相手がショタコンでなければせいぜい棲み家を取られるくらい。ショタコンだったら後ろの処女をとられる。あと警官だったら僕の自由がとられそうだ。あ、そうだ。だけれど、いまははやてから借りている闇の書があるので、これだけは死守しなければなるまいか。

廃ビルにはいって荷物をおろした。

手製のブロックを組み合わせて作ったかまどにライターで火を入れた。焚き木もそろそろ心もとなくなってきている。引っ越しで持って来た灯油ストーブの燃料はまだあるがあまり使いたくない。後で拾いに行ったほうがいいだろう。

ナベに湯を沸かし、拾ってきたジャンボタニシをまとめて突っ込んだ。並行して取ってきたウシガエルをさばきにかかる。とりあえず息の根を止めて内蔵を取り出した。次に皮をはがす。こんなものだろう。食べられそうな場所を切り分けて干しておく。食べたくなったら煮るか焼くかして食べよう。いや、やっぱり先に熱を通して殺菌しておくか。火にかけておいたナベからジャンボタニシを取り出して鉄串で貝から中身を抜き出す。ナベの水を取り替えて再びゆでた。ジャンボタニシは死に至る寄生虫をもっているのでしっかりゆでておく。十分に火を通したところでナベをザルにあけて回収。

 時間的にもちょうどいい。昼ごはんにしよう。
 水とパンの耳と野草に加えてジャンボタニシをいくつかつまんだ。残ったジャンボタニシは干しておいてまた今度。干しアワビだってあるんだから干しジャンボタニシだっていいと思う。

 さて、本日のメーンイベントその3、図書館に行こう。このごろは図書館にもはやてと行くことが多い。はやてと一緒に本を選ぶのも楽しいし癒されるのだが、今日行きたいのは海鳴大学の図書館で、車椅子に対するバリアフリーも市の図書館と比べて整っていないし見ようとする本のジャンルも違いすぎる。と、思っていたのだけど、しまった。

 図書館に行く服がない。

全ての洋服をさっき洗濯してまだ乾いていない。現在、着ているのはヨゴレ作業用で、まかりまちがっても公共施設にいっていい格好ではなかった。まるでストリートチルドレン――って、そういえば僕は思いっきりストリートチルドレンだった。

 洗濯ですすいだ後に服の水を絞るので、かなり手を抜いて横着し、まだ水がしたたっている状態で干したものだから今日中には乾かないかもしれない。図書館に行くのはムリかな。

 メーンイベントその3をとばしてその4に移る。ちなみにメインでなくメーンなのはそのほうがカッコいい気がしたからだ。

 僕は昨日はやてから借りてきた闇の書をリュックから取り出した。

ビルの中に打ち捨てられていたソファにすわって闇の書をしげしげと見つめた。鎖が相変わらず本を開くのを邪魔する。かろうじて覗ける部分は白紙ばっか。鎖は硬い。相変わらずそれだけちょっと豪奢な本である。飛びも光りもしせず、その中身を見せようとせずに本としてのあり方を否定しているそれは、ただの鈍器か置物だ。

 早速することもなくなって、書を抱えながら背中からソファに沈み込んだ。

「早く芽を出せ、早く芽を出せ、出さんとはさみでちょん切るぞ――なんて」

 実際のところ網で火にかけてみたらどうなるだろう。耐火性はあるのかないのか。なければそれでどこぞに転生でもするのか、それともお手軽に僕を殺すか。まあ借り物で試すわけにもいかないか。

 そういえばこの闇の書およびにその主であるはやては闇の書の完全封印を目指す御方に監視されているはずだが、彼ら的に僕はどういう扱いなのだろう。最近、その御方にあててはやてが手紙を書いた際に、友達ができましたってことで僕のことも一緒の写真つきで紹介されたからご存知のはずなんだけど。

まあうざがっていることは間違いあるまい。彼らはいずれはやてを闇の書ごと封印するつもりなのだ。せっかくうまく身寄りのないガキを飼い殺して、いつでも消せる状態にあったのに、ここにきて友達を名乗るうさんくさいヤツが一匹。しかも勝手なことに闇の書を借りたりしている。

 あれ? もしかしたら僕が消されるかもしれない。

 まあ、ネコさんたちだってニートじゃない。気安くこんな所に来れないし、現時点で闇の書が僕の手の中にあることにだって気が付いているかどうかだ。

 ところではやての両親って彼らに消されたんじゃあるまいな? もし、だとしたら、


 ガンっ


 ! なんだ? 僕は飛び上がった。唐突な音、板金を蹴りつけたような。廃ビル内ではないようだ。僕は窓にとりついてそっと外を見た。

 男が2人、いや、もう1人後ろから来るから計3人。それと、袋?

 2人の男が麻袋のようなものを抱えて小走りにやってくる。もう1人の男はしきりに後ろを確かめながら――なんとなく碌な人間ではない気がする。

 抱えられた麻袋が暴れている。恐らく、いや間違いなく中に入れられているのは生き物だ。さて、その生き物がワシントン条約の指定生物程度ならいいのだが。

「いやあっ。だれか助けっ」

 か細い声がなった。男たちではない。あのようなコワモテどもにどうしてそんな声が出せよう。麻袋の中の人の叫びに違いなかった。

 男の1人が袋を地面にたたきつけた。叫び声がつまる。それから男はあわてた様子で袋を開いた。

 袋の中から少女が現れた。手足は縛られているようだ。口元に帯のようなモノが付いている。ガムテープか何かに見える。もとは口全体をおおっていたのが、袋の中でこすれてはがれかけたのだろう。

「アンタたちなんなのよ、どういうつもり」

「黙ってろっ」

 男たちは少女を取り押さえて口にガムテープを張りなおした。少女は鼻を鳴らすが声はもうでない。

 ここは繁華街から一歩奥まったところにあるちょっとした廃墟区画だ。先ほどまでの叫び声はその場に誰も呼ばないようだった。

 全霊の抵抗もむなしく少女は男たちの力にかなわない。抱えられて連れられていく。

 行き先は――ほっ、このビルじゃない。

このビルではない。このビルではないが。はぁ、いやなものを見てしまった。

ところで浚われていた少女だが、だいたい僕と同年代だろう。んで、金髪。ぶっちゃけ僕はあの少女に見覚えがある。バニングスさん家のアリサちゃん。僕がこの世界について知るためバニングス邸を確認しに行ったときに見かけたことがある。存在の始まりからしてちょっとした被レイプフラグをかかえた難儀な女の子だ。

 ほんとうにいやな現場を目撃してしまった。知らぬが仏とは、僕が血液型性格診断に並んで最も嫌う言葉の一つだが、それでもやはり見なければ気が楽だっただろう。

 やれやれ、僕は窓から身を引いた。




 ワケわかんない!

 アリサ・バニングスはがんじがらめの拘束の中で去来する思いはそればかりだった。

 何故? どうして!? 

 彼女は悪いことなんて何もしていないはずだった。今日も学校で友達に会った。授業はすでにわかっている内容ばかりだけれども真面目に受けていた。積極的に発言をして、うるさい男子には注意してやった。放課後にすこしおしゃべりをしてから家に帰る。

 ことが起きたのはその途中だ。友達と話しながら帰り道を行き、分かれ道で手を振り合った。今日はいつも迎えに来る使用人に用があるだとかでそこからは一人の帰宅だった。べつにかまわない。このごろアリサはいつも家人がついてくることにわずらわしさをおぼえ始めていたから、別の者をよこしてまで送迎を希望することはなかった。

誰にも歩調を合わせない帰路にちょっとした新鮮さを感じていると、向かいから男が近づいて来た。背後からワゴンもやって来た。とくに気にかけることもない。だが、すれ違おうとした瞬間に男に捕まえられ、すぐそばに止まったワゴンのドアが開き車内に押し込められた。

 ワゴンの中でアリサはすぐさま手足を結束バンドで縛られた。さらに口にガムテープで封をされ、大きな袋に詰められた。抵抗の二文字が意思と接続したのは袋の中に入れられてからのこと。事実として聡明であり、本人もそれを自覚しているはずだったアリサは、しかし抵抗らしい抵抗もできぬまま暗く汚らしいビルの中へと連れられていった。

「それにしてもこの娘もついてない」

 ビルに入ったからにはもう安全と判断したのだろう。男たちはあきらかに緊張を緩めていた。

「はっ、優秀すぎる父親を持ったがゆえの悲哀ってやつか。もっともそれで娘をこんな目に合わせてちゃそれも疑問だがな」

「いや、まったく。日本にきたらそこでのやり方に従ってりゃいいものをなあ、機微っちゅうもんがわかってない。ったく馬鹿なヤツだよ。だっから娘がひどい目にあう。かわいそうによ」

「何いってやがる。お前、この話が上がったときに真っ先に立候補したって聞いてるぜ」

「うるせえな。どうせ俺じゃなくとも結果が変わらんのなら楽しめるヤツは楽しむもんだろうよ。だいたいお前はどうよ。何でこんな所にいやがる?」

「そら決まってる、俺とお前が同志だからよ」
「がはははは、ひっでえな、お前らろくな死に方しねえぞ」

「お前もな、兄弟」

 下品な笑い声が響いた。

 フゥフゥとうなるアリサの抵抗などモノともしない。男たちはカツカツとコンクリートの床を響かせて確実にビルを上って行った。

「ここらへんだな」

 先行していた男が言った。何もない、ところどこのに空き缶やタバコの吸殻が散在している広いだけのフロア。窓ガラスは何枚かが欠け、ドアの一枚もなく外へとつながる非常階段が見えた。入り込んだ風がアリサを不気味になでた。

 アリサの口にはられたガムテープが乱暴にはがされた。ヒリヒリと痛む。キッと男の一人をにらみつけた。怖くない、怖いはずなんてない。渦巻く理不尽への怒りが恐怖を押し隠した。きっと、そうしなければならないとアリサは知っていた。

「なんなのよアンタたち、こんなことしてタダですむと思ってるの」

「あ~、うるせ、うるせ」

 口元に何かが当てられた。硬い、丸い。歯を食いしばって拒む。球体が唇に歯にと押し付けられた。舌の先に感じた鉄臭い不愉快はきっと歯茎を切ったのだろう。痛かったが口は決して開いてはならない。
 だが、頬の横から指を押された。ほんの少し口を開いた瞬間に球体は口へ詰め込まれる。そして球体から伸びる紐をアリサの後頭にかけて固定された。

「うるさいのはごめんだが、まったく叫べないってのも、なあ」

「んんっ! んウーッ」

 しゃべれない。身動きがとれず取ることもできない。唸ることしかできない。アリサに球体をはめた男は下品に笑ってうなづいた。

 アリサが知る由もないがその器具の名はボールギャグという。だが名こそ知らぬものの、それが猿ぐつわと同じ用をなすものだとアリサは感じ取ることができた。

「そっちは用意できたか」

「お~――――。おう、画質良し音声良しだ。このガキの親父がないて喜ぶ名作で確定だな」

「っバカやろう。こっちに向けんな俺の顔が映るだろうが」

「安心しろちゃんと編集でカットしてやるからよ」

 アリサは縛られたままの手足を精一杯動かす。1mでも1cmでも逃げようとほこりっぽい地面を這いずった、が、男は一瞥だけしてアリサの背に足を落とした。声も出ない。けふけふとしまりのない咳込みが小さな体を揺らした。

「うし、んじゃいくかね。カメラ回しとけ。へっへっへ、まずは自己紹介からだぜ、アリサちゃんよう。ってそれじゃあしゃべれねえか、じゃああとでいれっか」

 男が二人ニヤニヤと生理的な嫌悪を覚えさせる脂ぎったにやけ顔を浮かべてアリサににじり寄る。そしてその姿をカメラが無機質な輝きにもと見守っていた。

 アリサはこのとき間違いなく恐怖した。

 アリサは幼いながらも聡明で、その耳年増といってもよい知識の集合はこの後何が起こるかをおぼろげながらに理解させざるを得なかった。一歩、一歩ずつ男たちはやってくる。永遠にも引き伸ばされた認識は絶望的だ。彼女の天才はそのバンドで縛られた肉体を自由のかなたへ羽ばたかせてくれない。

 足に触れられる。大きな、暖かい、汚らわしい手はそれだけでアリサの体をすくませた。何で、何で、何で? 賢いアリサ、時に天才とたたえられたその明晰な頭脳は理解している。私は悪くない。私は悪くないのだ。コイツラが悪者で、わたしのお父さまが邪魔で、だからいうことを聞かせるために私を使って弱みを握ろうとしている。私は悪くない。その事実は彼女にとって何の救いにもなりはしなかった。

 イヤだ、イヤだ。汚らしい、怖い。おぞましい。お家に帰りたい。許して。

 アリサは自分が泣いていることにすら気づいていない。太ももと太ももを合わせて足が開かれるのを拒絶する。カメラから顔を隠す。服が引き裂かれようとするのに小さな体を丸めた。頬に触れる他人の気持ち悪さに吐き気すらする。汚い。まだ地面に顔をこすりつけたほうがいい。今の彼女はどうしようもなく惨めだった。

 父、母、友人、使用人、ペットあらゆるものが脳裏に走りそのどれもが手を差し伸べてはくれずに消え去った。


 ――――――――――――――――――――タスケテ。


「英亭ビルです。廃墟の英亭ビル、2条4丁目。ライオンビル向かいの小路を入ったとこの英亭ビル。レイプです、女の子が襲われています。急いで!」

 だからその声は間違いなく希望であった。

 涙が少し引いた。





 僕はアリサが襲われようとしている現場で叫ぶだけ叫ぶと早々に階段に逃げ戻った。


 僕はアリサを追ってきていた。それはもちろん彼女を助けるためである。

 階段を極力足音を殺しながら上る。防御を意識してアホみたいな厚着をして動きづらいのがたたったか、それとも緊張によるものか、いつもより早く訪れた息の乱れをやっとの思いで飲み殺す。階を一つ移動し、そこで待機した。

 さあて、逃げてはくれんもんかねえ。あーあ、くれないものですか。

「おい! 今のは」

「バカやろう、さっさと追え。今のクソガキをとっ捕まえろ」

「あ、ああ。行くぞ」

 隠さない怒号は階を越して響き渡ってきた。3人の内、2人は僕を追い、1人はアリサを見張るらしかった。

「階段っ。クソ、お前は下を探せ。俺は上に行く。いいか、絶対に逃がすんじゃねえぞ」

「おう」

 逃がしてもいいと思うんだけどなあ。彼らからするとすでに警察に連絡はされてしまっているはずなのだからとっとと逃げるのが最善手だ。逃げるのに際してアリサを連れて行くか放置するかはおいといて。

そうすれば僕だって楽なのに。彼らが逃走に使うだろうワゴン車はすでに確認してある。というか、このちょっとした廃ビル区画から繁華街に出入りする唯一の小路をワゴンが通せんぼするようにして見張っていたから、そのワゴンのナンバーでも警察に伝えるだけですんだはずだった。

 まあ、希望と現実がそわないなら、それはそれでそれなりの対応をするべきだ。

 僕は握っていた暗い画面の携帯電話を床に置く。

 代わりに空いた手で棒をぎゅっと握った。階段を上る音が大きくなってきた。まだ出ない、隠れる。来る男は足音なんて隠しもしていない。

もう少し、もう少し。足音がこの階にやってきて、隠れていたダンボールの穴から男の姿が見えた。でもあとちょっと引き付ける。

鼓動が高鳴る。息が荒ぐ。酸素は足りている。いるのはちょっと初めての山を越える覚悟だ。そう。考えれば考えるほど大したことじゃない。

「どこだ、クソガキぃ!」

 今だっ!!

「あん?」

 男がその生の最後に出した声はそんな間抜けなものだった。

 僕は機会と見るや、隠れていたダンボールを弾いて身を突き出した。

 手に持つはモップの柄。ただし先端には料理用のナイフが括りつけてあった。

 狙ったのは男の首、しいてはその命。

 下から上へ、足を意識して突き上げた。振り下ろしは体重に依存する。筋力を常にかけられる突き上げのほうがより強い。かつて山人はこうして槍で熊を射殺していたと聞く。僕と大人の身体能力差も人と熊ほどか。ならば僕とて、

 深々と突き刺さる刃。男から声は出ない。更に一歩踏み込んだ。男も僕に手を伸ばそうとした。だが近づけない。棒を――槍を捻る。男は始めて苦しそうに。でも声は出ない。

 槍を抜く。できるだけ切り裂くように横に押しながら引き抜いた。

 血が噴き出す。

 殺ることができた。

 ごろんと横たわる男はいまだ僕を見つめていた。彼はきっと死んだことにも気づかないままに死んだことだろう。それが良いことなのか悪いことなのか僕にはわからない。

 まあ瑣末な問題であるからして置いておく。さっさと次にいこう。

 僕は完全に死んでいることを確認してから男の懐を漁った。なにかイイモノでもないものか。

 そこで声が聞こえた。殺した男の物では当然ない。階下からの声だ。二人が話し合うといった感じではないのでおそらく携帯電話だろう。おそらく不測の事態が生じたことを誰かに伝えているのだ。急がなくてはなるまい。僕はコンクリートの床に倒れたままの死体を目に焼き付けて、そっと動き出した。

 靴を脱いで階段を下りる。今使っているのは通常の階段ではなくビルの外壁に走っている金属製の非常階段だ。この廃ビルは僕が住んでいるものの隣にあるとあって、それなりに構造は熟知している。この非常階段は足音は気をつけていれば響かない。怖いのは下に行ったはずの男もこの非常階段を使っていてバッタリ顔をあわせることだが、階下からは上の様子は気づきづらいし、連中はまだ一方的な捕縛者でいるつもりだし急いでもいるから足音は隠さないだろうから僕が先に気づけるだろう。

 そろりそろりと階段を下りた。そっと入口から覗くと電話は男はもう終えて、ロープで縛られて寝転がされたアリサの傍らに立っていた。通常階段のほうを見据えておりまだこちらには気づいていない。

 手に持っていた靴をそっと置き、モップの槍を構えて歩き出す。男はまだこちらに気づかない。アリサも僕に気づいていなかった。そっと、そおっと。十分に距離を詰めて、

 えいっ。

 槍を突き出した。

「っち」

 問題が生じた。原因はこの男がこちらに気づかず僕に背を向けていて、しかも猫背気味でもあったため首を狙えなかったことだ。代わりに心臓を狙ってさしたのだが、この槍はしょせん急造のモノ。モップの柄の先端にガムテープで括りつけただけのナイフは途中で耐え切れずに外れてしまった。

 クソっ、だから首を狙いたかったんだ。

 だがこの事態を想定していなかったわけじゃない。僕は槍の損壊を感触で理解した瞬間に、べつにもっていた果物ナイフを手に駆け出した。

 仰天した男が振り返る。いや、振り返ろうとする、が、僕のほうが早い。

 振り返りかけた体のわき腹から持ち上げるように刺した。肝臓。男は何が起こったのかもわからない、それこそ一人目の男と同じ顔をして叫ぶぼうとして血の泡を吹く。一歩、二歩だけどこへともなく進むとドぅと倒れた。受身もなく倒れたその体はコンクリートの床に激突して頭からもどろりと血を流した。

「うぁ、あああうあああああああ!!!!」

 アリサが叫ぶ。

 まあ、いくら気丈な子とはいえしょうがないよな。というか、槍での初撃では彼女の上をまたいで突いたのだ。成功第一でしょうがないこととはいえ申し訳なくもある。もしかしたらトラウマもんかなあ、PTSDとかいわれても賠償金は払えませんが。

「失礼、少しばかり静かにしてもらえないかな」

「いあっ、あああいううううあ」

「僕は君に危害を加えない。縛りも切れないからまず落ち着いて」

「ああ、ああ、いああっ」

 みぞおち殴れば気絶させられるかな。ムリか。もとよりそんな技術あれば男連中を相手取ってももう少し穏便にやれている。

 いまアリサを落ち着かせるのは諦めた。

とりあえず彼女の言葉を制限する口の戒めを取り外す。その際にも彼女は暴れた強引に押さえつけてボールギャグの紐を開放した。

 アリサが言葉を取り戻した。その間に多少の冷静さは取り戻しているようだった。

「アンタ、アンタ一体なんなのよ!」

「とりあえず君をこの場から助けるつもりだよ」

「人殺し、近寄らないで」

「それは了解。でもまずは静かにしてくれるかな」

「ふざけな……」

 僕は駆け出した。アリサの要望に応えてじゃない、足音が下から聞こえてきたからだ。
 間違いなく三人目の男。目を白黒させるアリサを捨て置いて僕はフロアの入口から見えない壁の陰に隠れた。

「おーい、そっちはガキ見つかったか。なんにせよサツが来る前にまずはズラからっってなんじゃおいっ!?」

 気づかれた。

「遠藤どうしたっ」

 僕は壁の陰で男がやってくるのを音だけを頼りにじっと待った。槍はもう壊れている。ナイフでの接近戦は万全の体調の男が相手では不意をつけても危険が大きい。
でも僕には更に強力な武器があった。一人目の男から手に入れた、銃。来たれり銃社会。日本の治安は崩壊だ。

 撃鉄を引いた。リボルバーだから仕組みは簡単だ。

 三人目が倒れている二人目に駆け寄っていく。僕のいるところになんか気にもかけない。僕は男をしっかりと見据え、ゆっくりと引き金に指をかけて、

撃った。

 パァンと盛大に火薬がなった。

 ――まったく、だから銃は使いたくなかったんだ。

 本当は二発連続して撃つつもりだったが思ったよりも反動が強い。両手で打ったにもかかわらず僕の両手はいま上に。

 しかも、外した。僕の弾丸はコンクリートの壁を穿っただけだった。

 男はびくりと固まるがすぐさま振り返り、爆発の音源――僕の手にある銃をみた。粗野な闘争心が本能的に事情を察知させると憤激の表情を浮かべ素早く懐に手を入れる。

 うわっ、コイツまで銃を持っているのか。日本オワタ。

「てぇめええええぇえぇぇぇぇ」

 パァン、パァン

 僕の小さな体は確実に宙に浮き、壁に叩きつけられた。撃たれた。二発。一発は脇の下を掠め、そして一発は直撃。僕の胸元に。

「きゃああああああああ」

 肋骨がきしむ、背中が痛い。気が遠くなる。

 アリサは叫ぶ。男はゼェと肩で息をし、僕はというと――笑った。

パァン。

 銃を取り落とさなかったのが幸いだ。素早く狙いをつけ、撃った。

 とにかく当てるつもりで撃った銃弾の狙いは男の腹だったのだが、今度は良い具合に弾はそれてくれた。

 ヘッドショット。男の頭に真っ赤な花開く。僕の銃弾は花を咲かせすると同時に男の命を確実に刈り取った。屈強な肉体が虚脱し、地面にヒモを下ろしたように至極自然にその場に崩れていった。死してなおその手には銃が握られて、その銃口は奇しくもコンクリートの床に落ちながらも僕に向いていた。

 また人死にを間近で見る羽目になったアリサにはご愁傷様である。


 ふぅ~~。なんとか生き残れたらしい。

僕は銃弾の食いこんな左胸をなでた。もってて良かった闇の書。僕はイケメンが恋人と別れ話をするのとき服の中にジャンプ(マガジン、サンデーも可)を仕込むように、闇の書を胸元にガムテープで固定しておいたのだ。腹にはジャンプ(拾い物)を開いてはってある。その上から生乾きの服を厚めに着込んでからこの廃ビルまでやって来ていたのだ。おかげですごく動きづらいが。

しかし、うん。女の子からの借り物で銃弾をガードするなんて実にロマンチックですばらしいじゃないか。

 まだ少しくらくらする頭を気合でねじ伏せ立ち上がる。僕は銃をズボンに差し込み――あだっ、あっつい。撃ったばかりの銃身が熱くなっている。片手に持ったままにしてアリサに近づいた。

「いやっ、こないで人殺し」

 絶好調取り乱し中。こっちもあんま余裕ないんだけどな。

「だから落ち着けというに」

「やぁ、やだぁ来ないでよお」

 手足は拘束されているのに這ってでも逃げようとする彼女に僕は頭を痛めた。

僕はアリサの近くに腰掛け、パンと彼女の目前で両手を叩いてみる。

アリサの体が一瞬、引き付けを起こしたように硬直した。よし、うまくいくか。このひとまずの凪に言葉を流し込む。

「僕に従え。事態は切迫しているんだ。いつ新手が現れるともしれないし、さっきの銃声を聞いたなら始めから警戒してくることだろう。そしたら僕は今度こそやられる。連鎖的に君もヤられるだろう。だからその前に早く移動したいんだ。そのためには君にまず落ち着いてもらわないと困る。僕は君を助けたい。思うことはあるだろうが、今は僕を信じてついてきて欲しい。声には出さなくてもいい。わかったら、うなずいてくれ」

「……ん」

 アリサの瞳はまだ戸惑いに濡れていたが、小さくうなずいた。

「いい子だ。バンドを切るから動かないで。そう、気をつけて」

 赤く濡れた果物ナイフをアリサに見えないようにしながら縛られている両手の間に通してプラスチックの結束バンドを切った。同様に足のバンドも切った。

「さ、いこうか」

 手を差し伸べたが、アリサは華麗にスルー。自分で立ち上がった。

「……行くなら行くわよ」

「あ、ああ」

 気丈でいいことだ。僕は微妙に傷ついたがそこはグッと我慢の男の子。

 僕はアリサを先導して歩き出す。っと、そうだまずは聞いておくべきことがあった。

「ときに質問、さっき電話をされちゃってたけど内容はわかるかな。それによってこれから取るルートも変わりえるのだけど」

 とはいえさっきまでのアリサの置かれていた状況を考えると、電話内容を盗み聞いておけというのも酷な話かもしれない。少しの沈黙。僕がやっぱいいやと言おうとしたところでアリサは口を開いた。

「警察に通報された。アンタを探しているけど、見つからなくても撤収する、って」

「そうか。相手の人数とかはわかるかな」

「3人で全部」

「その他にも。君を浚った車とかには他に人はいた?」

 アリサは顎に指先をあてた。

「多分、いえきっと運転手がもう一人」

 実に良し。それなら増援が来るのはまだ時間があるだろう。

僕はアリサにちょっとまってと声かけて、ぬいだ靴や折れたモップの槍にくくりつけてあったナイフなどフロアから通常階段にかけてすばやくアイテムを回収した。

「行こう。非常階段からだ。急ぐけど、できるだけ足音は消して」

「うん」

 金属音を響かせながら階段を下る。非常階段は正面玄関の側からは死角になっているので誰かがこの廃ビルに来たとしてもうまくやればすれ違うことができるだろう。足音を気にして、走るでもなく歩くでもない微妙な速度で進んでいるとアリサが聞いてきた。

「ねえ、そのペットボトルはなんなの?」
「これかい?」

 透明な液体の入った2ℓボトルをあげて見せるとアリサはうなずいた。これはもしかしたら役に立つかもと思いもってきて、連中に姿を見せる前に隠しておいたものだ。結局、使わなかったが。

「これは灯油だよ」

「はあ? アンタ放火でもするつもりだったわけ」

「失礼だな。そんなわけないじゃないか。でも陽動につかえるかもって思っただけだよ。火事になったとしても、それは結果で、目的とは程遠い。まあ、実際に火事にでもすれば消防もこっちに来て、連中もひとまずは手を引くだろうから、わりといい手法なんだけどね」

 でも、それはもうちょっと切羽詰ってからの手段だろう。

 そう最後に良識家らしく付け加えたのだがアリサの目はどうにも醒めている。

「わかったわ。アンタ、バカなのね」

 まったく失礼なものだ。むしろ僕の周到さをほめてほしい。わざわざ生乾きの服を着てきたのもコレを想定して耐火能力をあげるためでもあるのだ。というかさっきまであれほど怯えていたのに、よくもこうはっきり言えるものだ。この金髪ツン娘にちょっと感嘆する。デレ期でもこないかな。

 誰にも遭遇することなく地上に降りられた。そのままこっそり移動して僕の住処の廃ビルの裏口へ到着。

なんとか帰ってこれた。

 扉を開けてアリサを連れ込んだ。あとは鍵を閉めて……これで一安心。

「ちょっと、ここどこよ」

「とりあえずはここで待機だよ。少し移動しよう、暗いから足元に気をつけて」

 手を差し出すと、今度は握り返してくれた。始めて猫が手ずからエサを食べてくれたときみたいな、小さな手の暖かさにちょっと感動だ。

 三階に移動した。僕の主な生活空間である。アリサにソファーを勧めて一段落。

 僕もここにきてようやく落ち着くことができそうだ。

「ってなんで服を脱ぐのよ。まさかアンタも、アンタもなのね。このケダモノっ」

「違うって」

 いったいなにを勘違いしているんだ。
 僕はさっさと上着を脱ぎ捨てた。

「あ、アンタ撃たれてるんだったわね。そっか、その本で」

 ご理解いただけたようでけっこう。ページを開いて腹にガムテープで止めていたジャンプを取り外した。心臓を守ってくれた闇の書も取り外して、

「うっわ、なんじゃこらぁ」

「っ!」

 闇の書には血がべったり。返り血ではなく僕の血だ。いや、血が出ているのはわかっていた。僕が撃たれたのは2発で、一発は闇の書で受け止め、もう一発は脇の下を掠めた。この血は後者に由来するのだろう。痒みのようなものは感じていたが大した傷ではないと思っていたのだけど、案外深かったらしい。服のシミなどから考えるにかれこれ50mlは出血しているだろう。まだ止まってはいないようだった。

 おそるおそる傷口に指を伸ばしてみる。

「qぁwせdrftgyふじこlp!!!!」

「ちょっと、アンタだいじょうぶ?! ねえったら」

僕はコクコクと涙眼でうなずいた。

でもダメかもしんね。銃弾の軌跡に沿って刻まれた肉の凹痕に指が触れたとたん電流が走った。気づいたとたんに痛くなるというやつだろうか、それともアドレナリンの異常分泌で痛みが緩和されていたのだろうか。いずれにせよスーパー愛天使タイムは終了のようだ。

僕は立ち上がるのも億劫で膝立ちになってタオルを取った。できれば熱湯消毒をしておきたかったが、洗いたてなだけでもよしとしよう。さらに転がしてあったガムテープをとって、傷口に当てたタオルを固定

「あたっ」

 できない。そもそも場所が悪い。左脇の下、より正しくは4番肋骨の横あたりの傷は両手での処置ができなかった。しようがないので一度きったガムテープを床に敷き、その上にタオルを乗せてから大きな絆創膏のように貼り付けようとする。だが今度は左手を動かすだけで傷が引きつって痛くなってきた。

「ああっ、もう。見てらんないわねっ」

 アリサがおこった。

 ソファーをおりてズンズンやってくる。不機嫌な形相だ。もしかしてアレか、ここで傷口にトゥーキックでもえぐりこんでくるのか。今までの仕返しか。アリサ、怖い子。

 そう思っていた時期が僕にもありました。
 アリサはやっぱり不機嫌そうにタオルを拾うと僕にいった。

「ほら。傷、見せなさい」

「え?」

「え、じゃないわよ。手伝ってあげるって言ってるの。さっさとだす!」

 ツンデレ入りました? プイとそっぽを向き、頬を赤くしている。ふむぅ、愛い奴よのう、などといいながらわっしゃわっしゃと撫で回したくなる姿だ。もしかするとこの子は電車で老人に席を譲るときも、声には出さず(出せず)すまし顔でいかにももう降りますから的な格好をつけて無言で席を立つのかもしれない。

 僕的好感度急上昇。やっぱりがんばって助けてよかった。

「……アンタ、何なの」

 タオルを傷口に当てながらアリサはポツリと問うた。

「あんな急に現れて、それでいなくなったと思ったらまた現れて…………人を、殺して」

「なに、か」

 それはなかなかに難しい質問だった。

「べつにただの隣人だよ。ちょっとワケあり――でもないか。見てわかるかもしれないけど僕はここに住んでいる。それだけでさ、たまたまそこの窓から君が拉致られて来るのに気づいたから、まぁ輪姦されるのを無視するのも後味が悪いし、助けようかと思っただけだよ。とくに妖しげな組織に所属しているわけでもないし、カッコよさげな何でも屋さんとかでもない」

「うそ。だったら警察に連絡した時点でもういいじゃない。だから、あんなに人を、殺さなくたって。ううん、あんただって殺されるかもしれなかったのに」

 しかしその殺人によって助けられた身としては強く責められないと見える。アリサはいまにも折れてしまいそうにうつむいていた。

「ああ、あれ僕の演技。僕みたいなストリートチルドレンが携帯なんかもっているはずないだろう。向こうで叫んだときにもっていたのは、前になんかに使えないかと思ってリサイクルボックスからパクった契約の切れたヤツ。なかなか充電もできないから放置してたけどね。オマケに直接警察に行こうにもこの一画から出るための小路は、あからさまに妖しいワゴン車に見張られていたからね。警察なんていくら待っても来なかったんだ。なにせ今だってまだ事件が起きていることすら知らないだろうからね。だから、だよ。僕にあんな連中に正面からかかって勝てるはずがない。分散させて、一人ずつ確実に行動を封じる必要があった」

 殺したのはあくまでその手段であり結果だ。

 ただ、ついでにいうと連中は僕にとって死んでも心が痛まない類の人間ではあった。例えばニュースか何かで彼らの死を知っても僕は何の感慨も得なかったことだろう。思うことがあるとしたら、これで少しは世界がすごしやすくなるとかそんな感じに違いない。

それでも人を殺したのは前を含めても初めてだった。だからコトを終えて僕自身どう思うのかちょっと興味があったのだが、あっけないほど何も感じていなかった。そりゃ、まったくの平常心というわけでもないが、その揺れ幅は想定の範囲内だ。穢れている気がしてひたすら手を洗いたくなる衝動とか、素敵なフラッシュバックとか、そういう心理状態もちょっと体験してみたかったのだけど、僕にはその手の繊細さとは縁がないみたいだ。

 治療が終わるとアリサはソファーに戻った。僕は近くにしいてある布団の上であぐらをかく。

「やっぱりアンタ、バカだわ」

「環境が環境だ。多少変わっているのは自覚するがね、でも実を言うとそんな変でもないと思うんだけどなあ。みんなそれを前面に出す機会がないだけで、多かれ少なかれその属性はあると思うんだけど」

「種をもっているのと実際に花を咲かせるのは違うわよ。わざわざ危ないトコに乗り込んで、人殺しなんて、正気の沙汰じゃないわ。――でも、まあ、たしかに助けられは、したけど。あなたがいなかったら、きっと、いまごろこうしてはいられなかったし?」

「や、そこで恥ずかしがらないでくれ。僕まで照れくさい」

 アリサの顔がぼっと赤くなる。

指先で服の端をつまんでいたのが振り下ろされた。

「っ、うるさいわねっ」

 太陽が雲に隠れたようだ。照明のないビルの中はそれだけで薄暗さを増した。

「ねえ、これからどうするの。というかまっても警察こないんだったら、なんでこんな所にいるのよ」

「僕が疲れたから」

「殴るわよ」

「わりと本当。そういう要素もあるって程度にはね。でも一番大きな理由は正直なところ動きかねているからだ。先にもいったとおり、この区画から抜ける小路は監視があって抜けられない。一度頭を休ませつつじっくりと情報を整理してみようかなと」


 ただ、いまごろは三人の男たちが戻らないのをいぶかしんだワゴンの運転手が、隣の廃ビルまで覗きに行って死体を発見していると見ていいころだろう。そろそろ行動しなくてはならない。ここだって本当に安全だとうわけではない。

「さっきの灯油だけど本気で使っちゃおうか。屋上あたりで盛大にものを燃やせば煙に気づいただれかが消防に通報してくれるかもしれない」

 そうすれば僕らは消防に保護してもらえるだろう。アリサがヤクザに捕まることはなくなる。

「そんな火を起こして周りに燃え移ったらどうするのよ。いくらなんでも危なすぎでしょ!」

「それが問題だ。江戸時代じゃここで助かっても死罪だしね」

「だからそれは最後の手段よ」

 あ、最後だったらやるんですか。

「ねえ、君は携帯電話持っていないか。要するに外部に連絡さえ取れれば万事解決なんだけど」

「あるわけないじゃない。そんなものあいつらが取り上げないと思う? わたしの持ち物なんて全部あいつらの車の中で……あーーーーっ、そうよ、そうだったわ。あれがあったじゃない」

「わっ、えーと、いいことかグハッ」

 叫びだしたアリサが感極まったのか僕に抱きついてきた。痛い、痛い、傷口が焼ける。

「あ、ごめんなさい」

「い、いや、それより内容は?」

 照れくさそうにしていそいそと僕から離れる。それでも興奮は冷めやらぬといった様子でアリサはまぶしい笑顔を浮かべて話し出す。

「いいことよ。これ以上なく……ってほどでもないけど、確実にいいことだわ!」

「シーっ、シーっ。ちょっとトーンダウン、外に漏れる」

「あ、ごめんなさい。でも思い出したの」

「……何をかな」

「連中に取られた荷物。わたしの通学カバンだけど発信機がついてたのよ。いまごろわたしが帰らないのを心配した家の者が発信機を頼りにきっとわたしを探しているはずなの。だから」

ガンっという音。

それは奇しくも僕が始めにアリサが浚われてきたのを気づいたときの音に似ていた。僕とアリサは弾かれたように窓の近くに張り付いた。

そっと外をのぞき見る。そこには遠目からわかるほどにボコボコにされた柄の悪い男が、一人の紳士によってまるで朝のゴミだしのようにして引きずられていた。紳士は男を引きずりながらも隣の廃ビルへ急ぐ。紳士も憔悴していた。

「鮫島っ!」

 アリサが窓からありったけの声でその人の名を叫んだ。アリサのその晴れ晴れとした様子と、階下から見上げる紳士の安堵に満ちた表情は彼が何者なのかも知らない僕にでも、危機は過ぎ去ったことを理解させるに足る。

 雲間から太陽が顔を出した。
 事件は一応これで終息したとみてよいだろう。僕は手をぶんぶんと振るアリサを横目にほっと息をつきつつ、今後のことを考えた。

この廃ビルにゃあもう住めんよなあ。
はあ、笑顔でため息なんて器用な真似をしてしまった。


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