玄関にはスロープ、ドアでも段差なし、トイレや風呂には手すりがある。そんなバリアフリーが行き届いたとある一軒家。いわずもがなはやての家にて、いつもならばすでに帰って棲み家で採取した野草を焚き火で煮込んでいる時間にあって僕は帰り支度をすることもなくソファーに深く腰を下ろしてぼんやかと天井の明かりを見つめている。
アリサはすでにいない。僕ももう一度デビット氏と話しておく必要があったから、一緒にバニングス家までいった流れで彼女も自宅へ帰てっいった。
バニングス家では、昨日のこともあってか早くに帰ってきていたデビット氏によって、今回の事件の落としどころを聞かされた。
まず、僕が生産した3体の死体については外部に漏れることなく、うまく片付けることができたので事件になる心配はないらしい。それと今回、裏で手ぐすね引いていた連中にも早速わたりをつけたので、今後このようなことはないだろうから安心していいとのこと。喜ばしい限りだ。
僕がこれからはやてのところに世話になると伝えたら、そこでの世話賃にするようにと300万円を渡された。今回の件の謝礼らしいが、手切れ金のつもりでもあるかもしれない。まあ実際問題、はやてのもとで世話になるにあたって何から何まではやてにたかるわけには行かない。これで定期的な収入でもあれば、当然のことをしたまでとカッコ良さげに断る選択肢もあったが、現状では背に腹は変えられない。ありがた~く頂いた。
帰り道で周囲をやたらと気にしてしまったのは僕の小物さゆえだろう。
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アホウ少年 死出から なのは
第7話 すごくあったかいなりぃ
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はあー、まったりまったり。はやてがはりきって作ってくれた晩ご飯は実においしかった。使用人としてこの家に世話になるはずだったのに、いきなり宿主に晩飯作らせてどうよ、ってところもあるが実際に僕が作るよりもおいしいのだから反論なんてできない。しっかし、洗い物まで自分でやろうとするのはいかがなものか。もちろん強奪したが。
「むう」
「ん、アイリ食器洗い終わったん。どしたんや、難しい顔して?」
「うん。どうしたらはやてにご主人様としての自覚を持ってもらえるか考えていて」
「ごごごごごごご主人様ぁ。な、なんやなんやそのいかがわしい呼び方わぁ」
ぶんぶん指差しで慌てるはやて。やっぱり自覚が足りない。
「僕は君の使用人だろう? 変なんかじゃないよ。アリサの家でも執事さんはアリサのお父さんに旦那さまとか言ってたしね。でもはやては女の子だからご主人様の分類」
「にゃ! ないわぁ。ご主人様て、そらなんか」
「どうしましたご主人様。あ、お嬢様のほうが良かったか」
あ、なんかはやての顔の赤さが危険域だ。言葉も出ない様子でわなわな口を震わせてるし。なんかツボに入ったのだろうか。怒っているようすでもないが、なんか僕にパンチを繰り出してきた。
いや、しっかし我ながらソファーで足組みながら『ご主人様』はないと思う。
「ああ! わらったぁ。ひどい。からかったんや!」
「いやいや、からかってなんていないさ。ただあまりにもご主人様が微笑ましくて」
「むぅ~~。ええよ、わかったもん。やったらアイリには徹底的に働いてもらうからな」
ほっぺたを膨らませていかにも拗ねてますと主張するはやて。ちょっと静止してやわらかそうなほっぺたに指先を当てながら考えること数秒。こちらに指を突きつけて尊大に命令を下した。
「う、わたしをソファーに移すんや」
「はいはい、ただいま」
よいしょと掛け声とともにはやて小さな体を持ち上げる。小さな体といっても僕も十分に小さな体だったりするからちょっとした重労働だ。はやての脇の下に両手を通して抱き寄せるように持ち上げる。必然、はやての胸の辺りに僕の顔がうもれて柔らかい。
「わっわっアホぉなんで正面から」
いや、車椅子の向き的にこうするのが一番でしょうに。前に話しながら眠ってしまったはやてをお姫様抱っこでソファーに移したことがあるがかなり難儀したし。
「ちゃう、車椅子の肘掛は立てるようにできるからそうやって」
おお、なるほど。素晴らしい気遣いだ。
はやてはソファーにおろされるとふにゃと崩れたアイスクリームみたいになった。僕も隣に腰掛ける。深くすわると僕らの小さな体はソファーに埋まるようになる。
それはそうといつも車椅子に座っていることの多いはやてが、こう隣にているとなんだか新鮮だ。あと温かい、それに良いにおいがする。
「えへへへへ」
両手ではやてが組み付いてきた。僕の片手をぎゅっと抱きしめて満足そうに笑っている。あれか、僕ははやて的にペットみたいなものなのか。はやてが僕に抱きつくのは、前世で友達の飼い猫のおなかに顔をうずめて首を振っていた僕に似ている気がする。そのときはおこった猫にムチャクチャに顔面をかきむしられたが、僕が同じことをするわけにもいくまい。
「あったかいなあ、アイリは」
目を細めて僕の胸元にほお擦りしてくる。あったかいものと軟らかいものは基本的に好きだ。
とろけた表情でじゃれてくるはやては抵抗されないのをいいことに僕の背中にのしかかったりとやりたい放題だ。
「そうやアイリ。一緒にお風呂はいろ」
「ブぼっ!」
何いってやがります。僕は吹いた。聞き間違えだろうか、そうあるべきだ。そうに違いない。なぜかにわかに増えたまばたきを抑えて、調律の外れた声でなんとか言った。
「ふはは、あんまり上手なジョークじゃないな。知っているかい、冬なんかに震えが出るのは筋肉に熱を生産させて寒さに耐えるための機構なんだ。オジサン一寸驚いてしまったヨ」
「ほぇ? そんなことより早くお風呂入ろ。ゴーやゴー」
「いやいやいやいや? レディーたるもの常に恥じらいを持たなければならないと思うのですヨ。男女七歳にして席を同じうせず。節度を持った付き合いをだな」
はやては僕の膝の上にねっころがって仰向けに見上げると、チッチッチと指を振ってニンマリ不敵に笑う。形のいい薄桃色の唇を滑らかに開いた。
「アイリ? わたしはアイリのなんや」
「…………ご主人様」
「んー、わたしとしては『お嬢様』のほうが好みやなあ」
「……おぜうさま」
後悔先に立たずとはいったもの。いつだってそうだ、泡に滑ってコップを割るのだってガラスのかけらを見てからもっと気をつけていればよかったと思うもの。先にしていたら、それは定義からして後悔ではない。覚悟だ。
とかなんとか、僕は気が遠くなりながらも思う。
「さて使用人さん。一人でお風呂に入るのが大変なわたしをお風呂場まで連れてってくださいな」
はやては信頼のこもった微笑を浮かべた。
――助けてくれるんやろ。
なんと悪しきブルジョワ。革命が起きれば真っ先に狙われるに違いない。しかし貧弱極まりないプロレタリアートはその万金の価値ある微笑みとともに下された命令に逆らうことができないのだ。
おあつらえ向きに僕の膝の上で膝枕というわけでもなく背中を反らしながら仰向けにねっころがっているはやてをお姫様抱っこで抱えて車椅子にのせる。ドナドナを口ずさみながら風呂場に向かった。
風呂には入るつもりだった。ひさしぶりだし、実はかなり楽しみにしていた。そのためにバニングス邸から戻ってくる途中ででっかい防水絆創膏を買って、風呂を洗うときから傷には直接着かないようにガーゼをかませて貼っていた。だから昨日の怪我もたぶん問題ない(ということにしている)のだが、いやはや、この展開は想定の範囲外だわ。
「やっぱ問題じゃないかな。お嬢様」
「ん? なーんも問題あらへんやろ、アイリはわたしを助けてくれるんやから。あ、もうお嬢様はええで」
洗面所に着くなりさっさと服を脱いでいくはやて。それでいて少し恥らっている様子なのは気のせいか。
つーかこれ犯罪じゃね? あーでも今の僕も同い年だし、スーパー銭湯でも一けたの年齢だったら性別とか気にせず入れるよなあ。しかもこの場合は足の悪いはやての補助をすると言う理由まである。なるほど、はやてが気にしていないことだし、こんなふうに躊躇するほうがよっぽどイヤらしい。そうだ、そうに違いない。
「ま、いっか。それじゃ入ろ」
決まったことを悩む繊細さは僕にない。
とは言えタオルを腰に巻いておくのが紳士のたしなみ。服を脱ぎ終えたら、はやてをさっき習ったように車椅子の肘掛を持ち上げてから抱っこする。はやてもバスタオルを体に巻いていた。銭湯や温泉で見かけたらぶん殴りたくなる所業だが今はいい。でなければ僕は逃げていたかもしれない。
しかし実際に抱き上げてみると生身で接する肩と肩がなまめかしい。つるりとうまく剥いたゆで卵みたいな肌が体温をもって僕につながってくる。ちょっと開いて見える唇の隙間の暗闇が僕の平静を吸い取った。
「ごふっ」
「どないした。また変なってもうた?」
「いや、鼻血か吐血でも出ないかとおもって。この際こういった状況におけるアーキタイプに従うしかやれることが思いつかないんだ。虚構とはいえ先達がいるのはありがたいことでね。そういう場ではそうするものとしての認識が、自力では抗いがたい停滞を打破する唯一の楔となりえる。全ては条件反射さ。状況に対して学習した内容で応答する。それは時に感情さえ反射によって作り上げる。たとえ物語であろうとあまりにも形が合致する特定条件下においては、読者はその主人公の感情を追体験しこの場において読み返る。ところで、『また』って失礼だな」
「――んーー、つまり沈黙に耐えられなかったと?」
「……うん」
「いるんやね。動揺すると多弁になる人。でも、なんかいろいろ上塗りしてるで」
僕という条件において躊躇はむしろ自制であるかもしれない。
なんというか、あれだ。なぜなら僕は前世においてロリコンの気があったから。
先に言っておくがロリだけにしかその気になれないガチなホンモノさまではなかった。ただ、数多あるエレクチオン対象にロリっ娘も含まれていただけだ。たわわなおっぱいも大好きである。でもAカップだって素晴らしいと思うのだ。
チラリズムというものがある。これはスカートやなにかからたまーに見える下着の影にしみじみ萌へるという日本人らしいわびとさびの精神だ。僕は前世では反抗期の息子をなだめる触媒をえる手段として主にインターネットを用いていた。ウェブスペースにおいて、需要と供給とリスク管理の関係から、そこに立つ女性は20代が圧倒的に多い。30代以上も探せばいくらでも見つかるが、その一方で20才を切る女性の画像となるとなかなかそうはいかない。そこで僕は立ち上がった。チラリズムだ。わびとさびだ。多くの人が持つレアリティへの憧憬がここで活きてくる。珍しいものへの憧れと好奇心が性欲と単純明快に絡み合って僕の検索力は少女の裸体へと向いたのだ。僕は探した。そして、見つけたのなら本来の用途を果たすべきだろう。僕はそれらの希少な画像や動画で、致した。告白しよう、僕ははやてよりも年下の女の子のエロで果てたことがある。ソゥデンジャー。いっつくれいじー
ムリヤリ泣いている女の子を……といった写真や動画のお世話にはならなかったが、この際それは自慢にならないだろう。というかそんなの、女性の泣き顔を見てると、それまで元気だった息子がしょんぼりしたからそうなっただけだ。
だがこれだけは強調しておく。僕ははやてに対してそういう気持ちで接したことはない。
これ重要。テストに出る。
そもそも僕は前世からして顔見知りはオカズにしない性質であった。いやホントに。
それに第二次性徴にも達していない現在の体では性欲が非常に弱い。好奇心から今の状態でもできることは確かめたが、あんまりそういう気分にはならない。よほど暇でなければセルフバーニンはしない。
あと繰り返しになるが僕はロリもいけるだけでロリオンリーというわけでは決して決してないのです。
ここでエレクチオンなぞしようものなら僕は終わりだ。まあ、少女の裸といっても僕はそこまでのホンモノさまではないので、エロ目的で探したものでなければそういう対象にはならないと思う。
はやてを風呂イスに座らせて努めて冷静に背中を流した。
「具合はどうだい」
「もちょっと強くしてやー」
「りょーかい」
泡立てたスポンジで無心にこする。それにしてもあったかい風呂場はいいなあ。心が洗われる。癒される。
「よーし流すよ」
はやての背中へ湯桶をひっくり返す。
「わぷ」
「うむ、んじゃ、つぎ頭」
「あ、ちょいまち」
はやてが振り向いた。腰にタオルをかけておいてよかった。ひまわりのように太陽に向いてはいないが、小さいのは小さいので見られるのが恥ずかしい。男の子とはつくづく難儀な生き物である。
「アイリも。ほら」
「うん?」
「だからアイリも向こうむいてや。今度はわたしが背ぇ流したるから」
「あ、ああ」
クリーム色の壁を向く。スポンジを渡すとはやては僕の背をこすり始めた。
「あれ、アイリここ?」
「痛っ痛っ突付くなっつーの。昨日アリサを助けたっていっただろ。そのときちょっと引っかいちゃってさ。そこまでひどくないけど、その絆創膏は防水用だからあんま触んないでくれ」
場所が胴体の横側だからあんまり気にしないですむが、左手を思いっきり上げると痛いし、石鹸水なぞ入ろうものなら多分もだえる。
「どうや?」
「ん、もちょっと強くできる?」
ああ、気持ちいいなあ。風呂は心の洗濯とはよく言ったものだ。これだけでもはやてのところに来てよかったと思えてくる。やっぱり絞りタオルで体を拭くだけじゃ足りないよ。ビバ文明。ぬくい、じつにぬくい。
換気扇の音が風呂場に響くなか、僕の背中に向けてポツリとはやてが言った。
「わたしな、お父さんもお母さんもいないやろ」
「うん」
「後見人ちゅう人はよくしてくれるけど会ったことないし」
「うん」
はやてが持つスポンジの動きが止まる。僕ははやての声に耳を傾けた。
「足も、こんなやから友達もあんまできへん」
「はやてはいい子だよ」
「ありがと」
後ろで微笑む気配がする。それからはやては少しためらうように黙ると、僕の背に手の平をあててその心の内を打ち明けた。
「ほんまにうれしいんや。アイリがうちに来るようなったのはアイリのお母さんとのこともあるし、ホントはよろこんだらあかんのかも知れんけど。それでもな、アイリが来てくれてな、うれしいんや。病院の先生も図書館の司書さんも気にかけてくれるし、ほんまによくしてくれるけど、やっぱ一人の部屋はイヤやねん。さびしくって。冷たくって。ねぇ、だから、出て行かんでなぁ」
したたる水滴のように途切れ途切れで語るはやての声は悲哀でもなく言葉のとおりにすがるようでもない。ただ見上げる者を不安にする動きのない曇天のごとき薄暗い情念が感じられた。
あるいは八神はやてという少女はそうだったのかもしれない。ときたま捕らえきれなくなった水滴をポツリと落とすだけの鉛色をした曇り空のような心で毎日の孤独を過ごしてきたのかもしれなかった。
「はやて、向こうむいて。髪洗ってあげる」
「え、うん」
おどろいたなあ。ただのいい子かと思えばいろいろ読まれすぎている。
シャンプーボトルを一回と半分プッシュして手に取り、はやての髪を洗い始める。そういえば人の髪なんて洗うのは初めてのことだった。
はやての白くて小さな背中を見下ろしながらぼんやりと髪を揉む。
「かゆいとこない?」
「ぅん」
床屋でこう聞かれてあるって答えたことがない。
髪をごしごし、頭皮をワシワシ。ついでに耳の裏もキュっキュとやる。
僕は言った。
「だいじょうぶだよ。はやてに家族ができるか、一人でも平気になるか――とにかく僕がいなくてもだいじょうぶになるまでは世話になるからさ」
なんていうか住まわせてもらう側が言うセリフでもないよなあ。あれか、僕は世話をするだけでもその家の名誉か幸福にでもなる座敷童子型自宅警備員かなにかだろうか。んなこたぁない。
しかし、それでもはやては「ほんと?」と振り返ってうれしそうに微笑んだ。
って、バカ、いま目開けたら。
「いた、いたた染みるぅ、染みる、うれしいけど。あぁ口んなか泡入ってニガ。うやぁぺっぺ」
「はあ。流すよ」
「あぁっ、いまアイリバカにした。ひどぉわぷっ、ちょ湯かけるならちゃんといっわひゃぁ」
聞く耳は持たないことにしてシャワーを頭にぶちあてる。水ではないけど湯に流す。指先を軽く立ててムチャクチャに髪をかき混ぜれば出来上がり。ついでにしみじみとした空気も流れて行った。
それからはやては仕返しとばかりに僕の髪を泡まみれにして好き勝手に遊び、洗い終わって僕らは湯船に入ることにした。
このとき当然の流れとして僕ははやてを抱き上げて湯船に入れたのだが、湯船の中でまでバスタオルを巻くはずはないので、素肌と素肌をくっつけて抱っこする。背中から脇の下のおっぱい(予定地)のふもとにかけてと、お尻にほど近い太ももの付け根に手を回して持ち上げたさいの肌触りはなんというか危険域。そして、
――ヤバ、乳首見えた。
やばいぞ、いままで変に見まい見まいとしていたせいか、いまちょっと見えたおっぱいがすごく不意打ち的にチラリズム。
いかん。いかんぞ。萌えるのはいい、しかし目の前の9才の女の子相手に性欲をもてあますのはあかんです。モニターの向こう側ならともかく。
「どうしたんや。むつかしい顔して」
「い、いやっ。これはもともとの顔のつくりだぁよ」
そうだ、真面目なことを考えよう。元素でも数えよう。
H,He,Li,Be,B,C,N,O,F,Ne,Na,Mg,Al,Si,P,S,Cl,Ar,K,Ca,Sc,Ti……Ti,Ti,Ti…………ティクヴィ! Ti☆Ku☆Vi! ちくび!!!!
日に焼けていない白いまっさらな肌のなかにつつましくぽつんと桜の花びらを落としたようなTi☆Ku☆Vi! 目に焼きついて離れない。つるりとした平原に指を落とせば、なめらかさをほんのわずかに否定するその微小な隆起の感触とはいかなるものか。
かつてモニターの向こうに見て、(妄想の中で)ハァハァとよだれをたらしながらむさぼりついた日の感慨がいまっ、ここに黄泉返るっ……!
……よし、僕死のう。どう考えてもそのほうが良さげだ。
「どうしたん、もうのぼせてもうた?」
つーかさ、何で僕はこんなどぎまぎせにゃならんのかね。情動を理性で制御しての生き方こそ僕の歩みだったはずだ。何にも揺るがされずつねに感情にはリソースを残して。
たかが視覚情報。たかがタンパク質。たかが電気信号。なにも揺り動かされるモノなんてない。
「アイリ~?」
僕は自分で自分を見る。心が遠のく。瞳の奥が冷たくなる。この僕の一つ上にもう一人の僕を置いて、そこから肉体を操作するイメージ――――――よし。世界は所詮情報。なんにも慌てることはない。あるがまま。ただそれだけの形だ。
「えいっ」
「ぬっふぉい!」
はやてが組みついてきた。素肌がぁ。素肌が僕の腕に合わさるっ、こすれるぅっ……!
これはっ、触れているモノはB地区ッ……! あと太ももに腰もだっ。
「ざわ‥ざわ‥」
「ムシせんといてやー」
「あ、ああ。わかった。でもちょっと近すぎるんじゃないかな」
はやてはきょとんと目を丸めて僕の顔と触れ合っている肌の間で視線を上下させる。それから本当にわからないという様子で聞き返してきた。
「なんで?」
「なんでもだよっ」
ああ、まて。おちつけ。
頭の中に野党系の某大物悪人面政治家を召喚した。そして国会でつまらなそうに質問をするときの目で僕のミラクル・サンを見つめさせた。
ふぅ…まったく、そんないきり立ったらせっかくの風呂の心地よさが逃げちまうぜ。
「女の子は恥じらいをもって魅力的になるのさ。はやては将来有望なつぼみだがだからこそ慎みを忘れちゃいけないよ」
「ふーん」
ぎゅっ。
「くぁwせdrftgyふじこlp☆!$%!!!!」
「あっ、もしかして恥ずかしいん?」
手を口元に当てて小悪魔的ににやける。
わかってるなら、するなや。こんクソガキゃあ。
などとケタケタ笑う彼女にこのへたれがいえるはずもなく。
くそう、復讐してやる。明日の洗濯ではやての下着も洗ったる。しかもホームレス中に鍛え上げた丁寧で丁寧な手もみ洗いでしっかりヨゴレを落としてやる。乾かしてたたんだ洗い物の上に自分の下着が綺麗に折りたたまれているのを見て、はやてが顔を真っ赤にして怒る姿が目に浮かぶってもんだ。フハハハハハハハ。
楽しそうに声を上げるはやてを僕はがちがちに筋肉を硬直させ体育座りにて不動を貫く。ときおりうりうりとわき腹をつついてくるのを耐えて天井の水滴の数を数える作業はプロジェクトX級に難航した。
だれか、僕をたたえて欲しい。いや、やっぱ見ない振りをして欲しい。
その茹だるようなプチ地獄ははやてがのぼせるまで続いたのだった。
風呂からあがってリビングに戻った。防水絆創膏はあんまり長時間つけているとよろしくないらしく四苦八苦しながらはがして捨てた。傷の上から新しいガーゼを張って固定する。なおこの怪我については、バニングス家のかかりつけ医が勤める病院で僕の名を出せばちゃんと彼に診てもらえる手はずになっている。診察料はバニングス持ちだ。ありがたい。
くいくい。
着替えはないからしょうがない。昨日バニングス邸で洗ってもらえたから一日くらいはこのままで余裕だろう。お金はもらえたことだし明日にでも買いに行こう。一応決着らしきものがついたとはいえ、廃ビルの区画には当面の間できるだけ近づかないほうがいいとデビット氏も言っていた。それに僕からもお願いして、あの区画から望月愛天使という少年がいた痕跡は死体と一緒に消してもらって何にも残っていないし、しばらくは放置がいいだろう。
つんつん。
ああ、そうだ。それと、そろそろ髪でも切ったほうがいいかもしれない。これは自分で切れば良いか。
今後の身の振り方はどうしよう。さすがに金が減る一方なのはよろしくない。居候の身分だからなおさらだ。でもこの年で僕にできる仕事は非常に限定される。小説かマンガでも書くか?
ふにふに。
前世では僕は絵が壊滅的に下手だった。しかし生まれ変わって脳が換装されたことで空間認識能力あたりが向上したのだろうか。絵がなんかうまくなっていたのだ。このあたりには更なる考察の価値があるが、ともかく練習すれば伸びることが見込める程度には絵が描けるようになった。幼稚園のお絵かきのとき、これに気づいたとき僕は感動のあまりに一晩中絵を描き明かしたものだ。たくさん練習して、うまく将来性を感じさせることができればどこか拾ってくれるかもしれない。
むいむい。
また、小説ではケータイ小説という手もある。まだこっちの世界でははやっていないようだから、極限まで読者の想像力にゆだねた新たな表現形態として前世と同じように若い世代にウケるかもしれない。儲かるぞ、そしたら。ガッシ、ボカって感じで。なんにせよ時間はあるのだからやる価値はありそうだ。いや、べつにケータイ小説じゃなくてもいいのだけど。小説の執筆なんかは元から興味あったし。
ぎゅっ。
でもどちらにせよ僕はまだ表に出れないからムリか。やっぱ素直に勉強でもしてるかな。3年くらい待って、はやてと同居生活を送ってきたという実績を積んでからなら、役所に戸籍関係の相談をしていろいろバレてもムリに施設へ連行されることもあるまい。それから新聞配達のバイトなり、奨学金をとるなりすればいい。まあ、これはその時もはやてがこの家に住まわせてくれるようだったらに限られるが。
ぎゅう~。
なんにせよ僕にはパソコンがいる。でもこれは買う前に、はやてに僕が300万をもっていることは教えておいたほうがいいか。彼女のお人よしからするといらぬ心配かもだけど、急に大きな買い物なんかして僕がはやてのお金をちょっぱったなんて少しでも疑われたら悲しすぎる。
「無視せんといてや~」
「ああ、居たんだ」
「ずっといたもん」
はやてはことさら存在を主張するように僕を抱きしめる手を強めた。ふふん、だが僕は動じない。聖闘士に同じ技は二度と通用しない。というか今はちゃんとお互い服を着ている。こんなのちょっと柔らかくて温かくていい匂いがして、総じて気持ちいいだけだ。
「そんな拗ねんでもいいやんか」
「拗ねる? いったい何のことさ。それともはやては僕に拗ねさせるようなことでもしたのかい」
すっごくしましたね。この恨みはらさでおくべきか。はやてのほっぺたに手を伸ばして引っ張った。うむ、もち肌。やわらかくてよく伸びる。
「にゅわぁ」
首をプルプルと振って脱出される。逃げられた。
はやてはソファーの隣に止めていた車椅子に乗るとゴロゴロ走らせていった。トイレか、と思ったらすぐに戻ってきた。手にはドライヤー。コンセントを挿して鼻でメロディーを奏で、ヨイショなんていいながらまたソファーに帰還した。
スイッチオン。ドライヤーがはやての柔らかい髪を踊らせ始めた。つーか温風と毛先が僕にかかってます。あったかくすぐったいです。そのしてやったりって感じの笑みはわざとですか、わざとですね。そうですか。
はやては自分の髪を乾かし終えると今度は僕の頭を引っ張った。
「ぬお」
床屋とかで店員に髪とかグィーって引っ張られると、どの程度抵抗するか悩むよね。というわけであえて僕はまったくはやてに抵抗しない。はやての膝の上にころんと転がった。
「髪長いなあ」
「ん~、そろそろ切りどきかね」
「そろそろ、ちゃう。切りごろはだいぶ前やな。今切っても遅すぎや」
はやてが僕の湿った髪を梳る。ドライヤーを当てながら指先で髪をぐるぐると巻いてもてあそぶ。クシで髪の流れとは逆向きに持ち上げてみたり、前髪を僕の唇にまで引っ張ってきたり。後ろ髪をポニーテールみたく指で束ねてピコピコとふった。
「こんどわたしが切ったろか」
「だね、お願いしようかな」
転がったまま手を伸ばして、はやてが束ねた尻尾髪を触ってみると確かに長い。僕は実はポニテ萌えでもあったりするから少し名残惜しい。だが、ヤロウのポニテなんざ執着しても意味があるまい。
「でもはやて、任せてだいじょうぶだろうね。終わったら髪と一緒に耳までなくなってるとかごめんだよ」
「あ、ひっどいなあ。だいじょうぶや。ちゃぁんと片耳は残しといたる」
「それって違くない。ねえ、違くない」
「なぁに、法一さんよりも100人以上や。安心してまかせぇ。ほら反対側」
「むぅ」
いま僕の体勢ははやての膝の上で耳かきをされるみたいに寝転んでいるからドライヤーを当てようにも温風は頭の片側にしか届かない。だからもう半分を乾かすには180°ほど回転する必要がある。ちなみに今は膝から外を見ている感じの向き。
半回転すると僕の顔ははやてのおなか側に向いた。
「もう夜おそいなぁ」
僕にもドライヤーをかけ終えると、はやてはそのまま膝に乗っている僕の頭をなでながら少し緊張したような声で言った。
「そうだね。もう寝たらどうだい?」
「アイリはまだ起きてるん?」
「いや、そろそろ寝るつもり」
太陽にあわせた生活をしている内に僕はめっきり朝型になっていた。もう眠い。正直なところこのまま寝てしまいたいという願望さえわずかながら存在した。
はやても目がとろんとして眠そうだ。
「だったらな――」
横目でちらりと見上げたはやての顔はわずかに上気しながら幼い母性をにじませている。それと恥じらいにも似た戸惑いの感情が見え隠れしていた。
「一緒に寝えへん?」
はあ? またか。これは僕に甘えているのかからかっているのか。膝枕の体勢にいながら何だけど、それはさすがにいけないと思います。
はやては慌てて両手をふった。
「ち、違うんよ。ただ、な。最近、夜なかなか寝られなくて。だからアイリと一緒ならよく寝られるかな、思うて」
釈明の声は先に行くにしたがってだんだん小さくなっていった。
「――だめ?」
そういえばと思い当たる。最近一緒にいるとき眠そうにしていることが多かったっけか。
無理もないか。10にも満たない女の子で、両親が亡くなっていて足まで悪く、ただでさえ手厚いケアが必要なところなのに。冷たい家の中に一人置かれてどれだけ不安なことだろう。
生育環境の異常は発育の異常を呼ぶ。
不眠だといわれて信じられないことなんてなかった。
あえて理屈付ければ、常に強いストレスにさらされていた中に、お気に入りの友達(つまり僕)を見つけたことで、それまで低い位置でフラットだった精神状態が相対化された。これによってはじめてはやては自分が抑圧されていることに気づき、孤独のストレスは不眠という形で顕在化した。んで、最近眠そうだったのは友達と一緒にいる気分良好のときに寝不足のツケがやってくるようになった、といったところか。
「わかったよ、一緒に寝よう」
「うん!」
鬼畜道に足を踏み入れてしまった気がするのは気のせいか。欲情なんてしてない。下心なんてない。そもそもそんな可能性を考えること事態が間違いである。ゆえに断らない。うん、まったくもって理屈だっている。けどなぜか心臓の裏側にざわめきのようなものを覚えた。
それでもはやてのうれしそうな顔を見ていると何もいえなくなってしまうあたり我がことながら度し難い。
洗面所で未使用の歯ブラシを一本もらって一緒に歯を磨いた。流石に僕のパジャマになるものはないから今着ているので我慢する。
「ほらほら、はいりい」
はやては先に布団に入ると、ベッドの横で居心地悪く立ち尽くしていた僕に布団の端をあげてくれた。なんだかいまさらだかすごくマズイ気がする。
やましいことはない、けど、なんとなく。持ち上げられて開いた布団の端から覗く空洞はまるで禁忌の洞窟のようだった。
ここにきて圧倒的なリアルに僕は気おされるが、いまさら怖気づくわけにもいかない。
「それじゃ、失礼して」
ひそかに唾を飲んだ。
片足からゆっくり布団の中に入っていった。暖かい。重ねられた布の中ははやての体温がこもっていてまるで抱きしめられているようだった。
これがはやてが毎日寝ている……。染み付いたはやての柔らかで幼い香りが全身を包み込む。
「電気消してな」
それだけのセリフをいやらしいイメージに結び付けてしまったのはやっぱ僕の脳が腐っているからだろう。僕の脳内IMEさんはうんこです。ほんと自重しろ。僕はなんとか言われたとおりにすると、あとは座布団を折った枕に頭を乗せ、油の切れた機械のようにガチガチに固まって暗い天井を見ている。
くそう、顔が近い。はやてが僕を見ているのだろう、湿った息遣いが頬に当たるのが気になってしょうがなかった。
不意に震える。何のことはない、はやてが僕の手を握っただけだった。
「寝よか」
「うん、おやすみ。はやて」
「ん、おやすみな。明日も天気なるといいなあ」
軽く握り返す。
はやてが微笑むのが気配で伝わった。
なるほど、それでいいのか。僕は体から力を抜いて今度こそベッドに沈み込んだ。
まぶたの裏に焼きついた照明の残滓もやがて掻き消える。それと同じように僕の意識は世界に拡散してやがて溶け落ちた。
あしたは庭掃除でもするか。
やっぱり、あったかいなあ。
未明
闇夜を謳歌し天頂に至った月も落ち始めたころ、はやては目を覚ました。
(しまった。ぜんぜん眠れんやないか)
ふと目が覚めてからもうどれくらい経過しただろうか。10分? 20分? 時計の数字を見てしまえばさらに眠気は遠ざかるとわかっていたから確認はしていないが、おそらく30分くらいはたっただろうか。はやての眠りはいまだ帰ってこない。それどころかさっきから思考がしっちゃかめっちゃかグルグルあっとこっちに回っていて、まどろみをぶっちぎって、頭の中はなかば覚醒状態になりつつある。
ありていにいえばアイリに抱き締められていた。
なんという予想外。一緒に寝るのだから蹴飛ばされることくらい考えていたはやてだったが、これはどうしよう。
力は強くない。だが両手がしっかり絡み付いて起こさずに脱出するのは難しい。
自然と寄せられたはやての頭はアイリの胸元へ。自分とは対照的に落ち着き払った心臓の鼓動がひどく憎らしい。
(あ~ん、不公平やぁ)
だいたいこの男、布団に入るまで散々ぐずっていたくせに横になったとたん速攻で寝息を立て始めた。そのとき自分はすぐそばの横顔とつながった手のぬくもりにどぎまぎして眠れそうにないなあ、なんて思っていたのに、その全てを置き去りにしてだ。
そして、やっと眠れたと思ったらこうやってまた起こされて眠れない。何事かむずかって彼が手指を動かすたびにはやてはピクリと震えた。小さな体をさらに小さくしてアイリの中に埋没する。そうして伝わってくる体温、呼吸のたびの胸のふくらみと収縮にひどく懐かしい感情が去来して彼の服を濡らしてしまわないのに精一杯だった。
一人だと眠れないからアイリを誘ったのに、返って睡眠時間が減りそうな気がする。
(わかっとるんか。眠れないのはアイリのせいなんやで)
だというのにこんなあどけない寝顔をさらして。いっつもどこか張り詰めた表情でいるのが嘘みたいだ。
はやては彼をわからない。
はじめは必ずしもいい印象を持っていなかった。図書館の新任司書から学校にいっていない子がいる、会ってみてほしいと言われたとき、自分は行きたくても行けないのにと少なからず反感を抱いたものだ。また、自分から学校に行かない子というのに人格面で不安も感じていた。だが実際に会って、はやての不安は消え去る。どこか気難しそうながら時折見せる笑顔は驚くほど柔和だった。壁を作っているようで、その人となりは暖かい。司書が彼の行動について苦言を呈しながらも、決して嫌な顔はしなかったことがうなづける。彼はこんなめんどくさい自分の友達になってくれた。
一緒にいる時間が長くなってわかった。なるほど確かに彼は頭が良い。はやてが足が悪くて学校に行けないように、彼は頭がいいので学校に行かない。はやてとて嫉妬することはある。それは必ずしも心を波立たせずには受け入れがたい理屈ではあったが、そのおかげで自分と長い時間一緒にいてくれるならそれでよいとも思えた。
そして知ることとなったアイリの事情。はじめは突然現れたアリサという自分の知らないアイリを知る少女にアイリを取られやしまいかとも思ったが、そんなつまらない不安はアリサの口から出た言葉に掻き消えた。
アイリに家族がいない。
自分と同じ。そういったらアイリは違うという。いや、アイリの家族はまだ生きている。だから自分よりもましとも言えるし、だがそれで捨てられたというのはより厳しいかもしれない。しかしアイリはそれにも違うといった。
彼は悲しそうな顔を見せない。ただ皮肉げに笑いながら淡々と事実の羅列を口にしていた。
はやてにはそれが理解できなかった。改めてもう一度問うても、違う人間だからそりゃそうだとアイリは言った。やはりわからない。
ただ彼を一人にしてはいけないと感じていた。
一緒にいて欲しいと思った。
だから、きっとこれは必然である。
明日も一緒に寝よう。
あと、これから寝てもきっと朝起きれないと思うけど、今度は自分が抱きついて逃がさない。はやてはアイリの服の端をしっかり握ると、胸元に頬をこすり付けて再び目を閉じた。一つだけ心の中で呟いて、
(だいすきや)