僕がはやての家に住み着いてから少しばかりの時間が流れた。少しばかり、というのは具体的に何日かあんまりよく覚えてないからだ。というのも学校を始めとした義務らしいものが存在しないダメ人間臭のただよう僕には曜日感覚が非常にあいまいで、あれからもう何週間とかそういう時間の測り方を忘れてしまうのだ。
はやてとの日々は平穏そのものだった。リリカルなのは原作中でヴォルケンリッターの皆さんがずっと静かに暮らしていければそれでよかった的な発言をしていたのも納得だ。朝起きて、まったり遊び、適度に学んで、メシ食って寝る。なんて温かな毎日。それはあまりにもささやかな幸せで、僕までもがガラでもないのに、このまま穏やかに腐っていく結末を夢想してしまう。
つまる話がニート万歳。
働きたくないでござる。絶対に働きたくないでござる。
とはいえ、僕らが止まっていても、周りは止まらない。永遠を立ち止まろうにも、常に進み流れてゆく世間様の中ではいつだって摩擦され続けるのだ。そんな中で留まり続けることは、流れに身を任せるよりもよほど難しい。擦れて削れ、いつかは割れる。
人は社会的動物だと誰かが言った。
社会を捨てることのできない僕らは、結局、人とともに歩まざるを得ないのだろう。
めんどくさいなあ。人、やめてえ。
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アホウ少年 死出から なのは
第8話 無印開始
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はやての家に移ってきて必要なものはいろいろあった。
廃墟に置いたまま回収できなかった靴や洋服をまず買い揃えなければいけなかった。それにバスタオルや歯ブラシなんかもそうだ。ごっちゃになりやすいこのあたりの物は、ちゃんと相談して、僕が青や緑の寒色系のもの、はやてがピンクや黄色なんかの暖色系のものを使うということで決定した。僕に割り当てられた部屋には始めからベッドはあったので、ちゃぶ台と棚を追加して買った。洗濯物のたぐいはちゃんとたたんでベッドの脇にでも積んでおけばいいや。それから必要そうなその他の小物と、さらには奮発してノートパソコンも購入した。あとは必要に思ったら適宜買い揃えていけばいい。
僕の八神家移住計画はこのあたりで一段落して、残っているお金を確認した。
まだある。
銀行口座もないからデビット氏にもらったお金は全部現金のまま手提げ金庫に入れてあるのだけど、そこには依然として生前の僕は手にしたことのない金銭単位――札束が2つ収まっている。
「どうしたんや、むつかしい顔して」
僕がベッドに転がって考え事をしていたらはやてがあらわれた。
「そんな顔してた?」
「そやな、まゆ寄せてう~ん唸っとった。眉間にシワつくからやめといたほうがええで」
僕のおでこに指をあてて言うのは、昨日一緒に借りてきて見た映画のDVDからの受け売りだ。微笑ましいものを感じながら、それまで眺めていたノートの表紙を示した。そこには私的収支表と書かれている。
「小金持ちだなあって」
「なんやそれ?」
普通逆やん、といった感じのニュアンスで聞き返してくる。もっともなことだと僕は苦笑いを浮かべた。
「なんていうんだろうねえ、中途半端に余裕が出てきたもんだから逆に考えるべきことが増えてしまったというか。衣食足りて礼節を知るというか」
悩めるのはブルジョワの証ってトコかな。まあいいことだが。
「僕の母がアパートを出て行って、僕はしばらく廃墟のビルで寝泊りしてたのはいったろ」
言ったっけ? 言ったはずだ。うん、言った言った。
「僕までアパートを出たのは、僕じゃアパートの家賃を払っていけないからなワケだけど、それでも僕はしばらくアパートに住んでたし、アパートを出たのは家賃の支払期日をすでに超過してたころなんだよね。それに残した家財の処理にもお金使わせちゃっただろうし」
「ようは今からでもお家賃を払ってこようかゆうこと?」
「うん。まあ、踏み倒した家賃を云々いえば電気ガス水道の料金だってそうなんだけど、アパートの大家さんは特別僕を気にかけてくれたし。さすがに恩を仇で返すのもなどうかなって」
とはいえ、よ~く考えよ~お金は大事だよ~♪ というのもやっぱり本音。また、捨てられっ子の僕がそんなこと考える必要もなくね? なんて思ってしまうところもあるのだ。都合のいいときだけ子供を良しとするのもアレだけど。
そんなわけで僕はここ5分ほど考え込んでいたわけだが、我が主はやてお嬢さまはすっぱりと僕の迷いを両断なされた。
「いったほうがええよ」
「そっかー」
「うん。だってその大家さんアイリのこと気にかけてくれてたんやろ。だったらきっといなくなったアイリのことを心配しとるよ。なんにせよ元気な顔は見せてあげたほうがええ」
「そっかぁ」
いいとこを言う。今度の相づち自然と真摯なものになった。
さらにはやてはふにゃっと相好を崩して冗談めかして続けた。
「それでお家賃請求されて、アイリのお金がのうなっても、安心しとき。ちゃーんとわたしが養ったるから」
「おいおい」
乾いた笑いがもれる。小さな唇から発されたそれはひどく甘美な提案だったが、はやてはこれに結構マジな節があるからちょっと恐ろしい。
そういえばはやては、この家に僕が越してくるにあたって必要な家財道具を購入するさいには『アイリはうちの執事さんなんやから、必要なもんはわたしが買うたるよ』なんてお金を出そうと太っ腹なところを見せる反面、個人的なパソコンの購入などで僕がデビット氏からもらったお金を散財してしまうことにはむしろ肯定的なところがあった。
ものすごーく失礼な想像なのだけど、もしかしたらはやては、僕のお金がなくなればそれだけ僕がはやてから離れられなくなると思っているのかもしれない。献身的というか、支配的というか、いつかダメな男にはまったりしないか心配だ。いや、ぜんぶ僕の想像に過ぎないわけですが。
そっと表情を盗み見る。はやての無邪気なほほえみの奥底には油断ならない仔ダヌキが隠れているような気がした。
「でも、まあ、そうだな。はやての言うことも一理あるか」
よし決めた。どうせ揺れていたのだ、ならばはやての甘言に流されるも一興か。
腹筋にえいやと力を入れて起き上がる。手ぶらでお邪魔するのもなんだし、途中でなんか手土産でも買って行くかな。そうだ、この際だしうわさの翠屋にでもいってみよう。
「ありがと、参考になった。それじゃちょいと行ってくるよ。帰りはそんなに遅くならないと思うから」
「ほんなら車に気ぃつけてな。いってらっしゃい」
とは言いつつもはやては玄関までついてきた。そこでもう一度いってくれる。
「いってらっしゃい」
「ん、いってきます」
ポケットにいれた財布の小銭入れの中にある鍵の感触が妙に鮮やかだった。はやての髪を一撫でして僕は家をでた。
さてと、急な来訪だけど大家さんがちゃんと家にいてくれればいいなあ。
「お久しぶりです」
なんて捻りのないのが第一声。
それなりに緊張して押したインターホンは、恰幅のよい、いかにも優しげなオバサマを呼び出してくれた。この人こそ(元)我がアパートの大家さんだ。
とりあえず手土産として途中で買ってきたケーキをお渡しして、書置きを残して急に消えてしまったことを謝罪した。まあ、立ち話もなんだからと上げていただいた大家さんの部屋の中で近況報告。
とはいっても母親が消えたこと、現在は親切な人のところでお世話になっていることくらいだが、さらっと話すと大家さんは目にハンカチを当ててしまわれた。しみじみと曰く『なんで早く言わなかったんだい、バカだねぇ』とのこと。
これには困った。僕の身の上が大家さんの心中にいかなる機微を与えたのかは計り知れないが、僕はといえば大家さんがあけてくれた手土産をパクつきながら『翠屋ケーキうめぇ』とはやてのお土産に帰りもよって行こうなんて心算してたところだった。
何とか落ち着いてもらって、踏み倒してしまった分の家賃と部屋の整理費を払いたいと申し出るととんでもないと首を振られた。
「なんのために敷金と礼金をもらってると思うんだい」
いや、敷金はともかく礼金に関してはこんなことのためではないと思いますが。
「だいたい払うとしたらあんたのお母さんだろ。アンタみたいな子供が気にしなくていいの」
それはごもっとも。悪いのは基本的に我が母上です。
ともかく大家さんは社交辞令や儀礼的なものではなく、本当にお金を受け取る気はないようだった。大家さんマジいい人。でもそれだったら手土産のケーキ、もっと増量してくればよかったかなあ、なんて思っていると大家さんは迷うような素振りを見せつつも僕にあるものを手渡した。
「それが、これ?」
「ん」
大家さんのお宅を丁重に辞して八神家。僕ははやての確認にたいしてイチゴをふんだんにつかったケーキを口に入れながら首肯した。うむ、甘い、しかしその中に感じられるほのかな酸味が素晴らしい。
「うわぁ、アイリちいちゃいなあ」
はやてが捲りながら一枚ずつに感想を述べるそれは僕のアルバムである。僕ら親子がいなくなって部屋に残されていたものを処理した大家さんだったが、これだけは捨てがたくとっておいたとのことだった。
「せやけど、なんか破れたりしてるの多いなあ」
「ああそれ? 母さんが父さんの写ってる部分切り捨てちゃってさ」
「アハハハ――ゴメン」
やっちまった感を漂わせる空疎な作り笑いをするはやて。こうも地雷原を駆け抜ける彼女に僕は敬意を表したい。地雷まみれの僕の人生にも乾杯。
まあ、はやてとていまさらコレくらいではへこたれない。すぐさま新たな興味の対象を見つけ出した。
「あー、けどちっちゃい頃のアイリかわいいなあ。アイリにもこんなころあったんやねえ」
「失礼な」
つーか、今だって十分に小さいわい。かわいいかはともかく。
「うわ、赤ちゃんのころの写真全然泣いるのないんやな、逆に引くわあ」
「ひどいな、僕は赤子の頃からカメラが前に来るとちゃんと作り笑いをしてくれる子だって評判だったんだから」
よくよく考えるとそらへんが母に捨てられた遠因のような気もするけど果敢にスルー。それよりも僕は最後のイチゴケーキの欠片をほうじ茶で流し込んで、アルバムに釘付けなはやての隣に移った。
「うーん。思うんだけど、生まれたての赤ちゃん見てかわいいなんてやっぱ嘘だよね」
「それは言ったらあかんよ、みんなわかっててお約束でゆうとるんやから。でも……アイリのお母さん、綺麗な人やねえ」
「まあねえ」
モンキーな僕を抱いて微笑む我が母はたしかにちょっとみないレベルの美人さん。こんな優しそうな人が子供ほっぽって男漁りに狂うなんて、いやはや人間わからないもんだ。
おめでとう! 母はビッチに進化した! Bボタン連射していればこうはならなかったかも。それともやっぱ離婚直後に『大丈夫。母さんならもっといいひとを見つけられるよ』なんて励ましたのがまずかったか。
楽しげにページを捲っていったが、アルバムの半分以上の厚みを残したところで写真はなくなり何も挟まっていないページが続くようになった。はやてが物足りなさそうに聞いてくる。
「これで終わりなん?」
「これだけ。最近は写真なんて撮ってなかったしねえ」
僕の写真は生まれたてのころをピークに減っていって、最後で最新の写真は幼稚園の運動会だろうか。写真特有のテラテラした紙の中の僕は、園児みんなが踊る出し物でネズミの格好をしていた。それ以降の写真は皆無である。
なお、これについては母は関係ない。僕が学校に行っていないものだからイベントやなにかで撮る機会がなかったのだ。そもそも前世からして、僕は写真に興味がうすく、修学旅行なんかでは27枚撮りのインスタントカメラのフィルムさえ余らせて、あまつさえめんどくさがって現像すらしないことがあった。
いやはやしかし、小学校からが空白なアルバムには『え、コイツ死んだの?』と思わせるような寂しさがある。しぶとく生きてるわけですが。
はやても同じように感じたのか、ケーキをほおばりながらも、本来写真が入っているべき空のビニールのポケットをじぃと見つめていた。
「ちょっとまっててな」
言って、はやては車イスを転がしていった。どうしたのかなとその背中を見つめる僕。
テーブルにははやての桃のタルトが残ったままだった。食べないのだろうか、こんなにおいしそうなのに。
しばらくしてはやては膝に木製で上品な感じのする小箱を乗せて戻ってきた。目的のモノはそれか。満足そうな表情でやってきたのだが、席に戻るなりどこか迫力のある笑顔を浮かべた。
「なんかわたしのタルトから桃が一枚消えとる気がするんやけど」
「そんなことあるはずないだろ、もっと良く探すんだ」
「そうやね、とりあえずアイリのお腹かっさばいてええ?」
はやては口だけで笑いながら、僕のお腹に指を食い込ませてくる。ちょ、痛いっす。体重かけないでください。さらに唇が触れるほどに近づいてくると、おぞ気のする、それでいてどこか色気のある抑揚を殺した声を僕の耳孔へ直に注ぎ込んできた。
「アイリ、なんかわたしにゆうことない?」
金玉がキュンとした。
「麦飯おいしゅうございましたったイタイイタイイタイってば」
ヘソをグリグリすな。ヘソのゴマでも掘削しとるんですか、止めてください。結構ホンキに痛い。
「いえば一枚くらいちゃんと分けたるんやから、勝手に取ったりしちゃあかんよ」
「サーセン」
つまみ食いだからおいしいんじゃないか、とは言わない。腰に両手をあててプンスカ怒るはやてに微笑ましいものを感じてしまったがこれも言わぬが吉。ヘコヘコすることで保たれる和もあることを僕は知っている。
「もう、しゃあないなあ」
嘆息してはやてはタルトと僕の口元のあいだでチラチラと視線を往復させた。それからちょっとためらいながらフォークでタルトを切ると、恥らうように頬を染めて言った。
「ほら、あ~ん」
「え、あ、ああ」
これは――アレだろうか。
『あ~ん』ってやつ。つーかはやて自身がそういってるんだからそれ以外ないか。フォークの下でノドの高さに添えられた手のひらも決して地獄突きを狙っているのではない。
ゆらゆらと揺れるフォークに乗っかったタルトの切れ端に一寸戸惑っていると、はやては不安げに僕を呼んだ。
「アイリ?」
「あ、うん」
たまの茶目っ気を発揮した結果がごらんの有様だよ!! なんというハズカシ返し。はやて怖い子。
おずおずと口をあけて顔を出し、フォークからタルトを受け取ると不意にはやてと目があった。うむ、甘い。そしておいしいに違いない。しかし今の僕に味覚の存在感は弱く、不自然にならない程度の最高速で出した顔を引き戻すだけだった。
もくもくと咀嚼。二人の間にこそばゆい空気が流れる。あたたかなほほえみをたたえてはやては問うた。
「おいしい?」
「麦飯おいしゅ――」
「それはもうええっちゅうねん」
するどいツッコミが僕の胸元に決まった。
「それで、その小箱は?」
なんとなく急ぐような雰囲気でもなくなった。僕ははやてがタルトを食べ終わるのをまって問いかけた。するとはやては、空いた皿をわきにどけ、うれしそうに小箱を正面に置いた。
「ふっふ~ん。これはやなあ」
オーバーアクションでふたを開ける。そして中から数十枚の紙切れを取り出して僕に見せ付けた。
「写真やっ」
「ああ、そういやそんなのもあったっけか」
その写真に写るのは僕とはやて。ソファにすわっていたり、僕がはやての隣で中腰になっていたりと構図はさまざまだ。
はやてが後見人のグレアムおじさんに僕を紹介したいだとかで一緒にとった写真だった。
そうだ、二人しかいないもんだから、一緒の写真がひどく撮りづらかったのを覚えている。結局、現像した写真の出来にはやては満足せず、外まで行って親切そうな人にお願いして撮ってもらったのを送ったんだったけか。
はやてはごきげんに鼻を鳴らして写真を仕分けていった。
「これと、これと。ん~、アイリ写真うつり悪いなあ」
「失敬な。とゆうかこれははやてが不意打ちで撮ったんじゃないか」
「え~でもアイリ仏頂面ばっかやん」
「地顔です。ほっといてください」
とは言いつつ、たしかに写真の中の僕ときたら微妙な顔をしていることが多い。セルフタイマーがないもんだから、カメラを持った手を前に伸ばしながら撮ったりしたのだが、そのとき二人で必要以上にひっつくのが正直恥ずかしかったのだ。はやてとほお擦りするみたいにして撮ったヤツなんて、満面の笑みを浮かべるはやてに対して僕の顔は真っ赤だ。
「で、これを入れていく。アイリ、ええ?」
ここまでくればいくらなんでもわかる。「もちろん」と僕は迷いなくうなずいた。
はやては僕の写った写真から比較的見栄えの良いモノを選んでアルバムに挿していく。手の中が空になるとはやてはふぃーとわざとらしい息をついて僕に差し出した。
「ん。こんなもんやな」
パチパチと拍手で返す。
これで空白期はあるものの小3までの生存証明ができた、めでたい。しっかし、厚みを増したアルバムだが、新規ページのほとんどがはやてと一緒の写真ばかりだなあ。食器を洗っている後ろ姿なんかもあるけれど、いつのまに撮られたんだろう。
「ところではやてのアルバムはないの?」
「え、わたしの?」
「そう、はやての」
僕の幼少期ばかりをさらし者にしていたら不公平だ。
はやてはちょっと困ったふうに笑んで首を傾けた。
「うちはアルバムないかんなあ」
「んじゃあその箱の中のは?」
小箱の中では、はやてと僕が写ったのとはまた別の写真が厚みを作っている。
もしかしたら地雷かなあ。はやてもまた僕と同じようにデンジャラスワードの多い子だ。しかも踏んでも偽爆弾の僕と違って、彼女の場合ホンモノの地雷だからやっかいだった。
でも、まあ、一緒に暮らしていくんだから、いちいちそんなこと気にしないのはもはや暗黙の了解である。地雷だったらマッピングでもして、もうそこを踏まなきゃいいだけのお話。あからさまなモノでもないかぎり、むしろバンバン足で踏み固めていく所存だ。
つーか今回に関しては、聞かれたくないモノなら、そもそもココまで持ってこないでしょと推測していた。
はやては小箱から新たな写真を取り出すとはにかんだふうにそれで口元を隠した。
「――笑わん?」
「それはわからんなあ。そも、僕だって散々バカにされたんだから」
僕がいやらしく笑ってやると、はやてはほっぺを膨らせた。
「ならええよ。ふんだ、アイリには見せてやらん」
「おいおい、なんつう不公平な」
胸に隠すようにしてかき抱かれた写真を折ったりしないように気をつけながら手を伸ばす。抵抗はなく、あっさりと写真の束は僕の手の中に納まった。
どうやら一番下から時系列順に並んでるようだ。
「うん。やっぱ新生児なんておサルみたいなもんだよね」
「一言目がそれかいっ」
「あ、いや、でも毛が生えそろってからは美人さんじゃないか」
もう見せてやらんとでも言い出しそうなはやてに、手早くフォロー。ジト目で見つめるはやてを極力スルーして僕は写真をめくっていった。
実際、なかなか興味深い。
赤ちゃんを中心に微笑むご両親は、なるほどはやてのご両親だというのが納得させてくれる。幸せいっぱいで穏やかな表情を浮かべていた。
「優しそうな人たちだね。目元なんかはお父さん似なんだ」
「え? そうかな、えへへ」
どことなく照れたようにはやてが問い返すのに、僕は自信たっぷりにうなづいた。
まあ目元が似てるとかは、さしたる共通点を見つけられないときの常套句だったりもするけど――いや、はやてたちの場合、ちょっと垂れて柔らかい印象を与えるところとか本当に似通っていた。
ちなみに耳も似ている。耳は遺伝しやすく、DNAや血液型による鑑定が広まる前は、親子鑑定に用いられていたらしい。だがここで、おめでとう君は不義の子じゃなさそうだ、なんていっても仕方がないので、黙って写真を捲った。
あ、昔はちゃんと歩けたんだ。
2才ほどだろうか、はやてが畳の上を歩く姿を母親らしき人がはらはらと見守っていた。このころにはまだ闇の書は憑いていなかったのか、それともまだ悪影響がでていなかったのかもしれない。
健やかな日々が続いて行くにつれ、親御さんの記録熱も冷めていったのか、写真の枚数が減少するのはお約束。
それでも保育園の入学式、運動会と要所ごとの成長の記録が続いていき――そして写真にご両親が写ることはなくなり、いつしかはやては車いすに乗って儚い笑みを浮かべるようになっていた。
ところどころ感想を交えながら一枚ずつ見ていったが、ほどなくして僕の手にある写真はほとんどなくなってしまった。あと残っているのは、僕とはやてが一緒に写っているヤツで、僕のアルバムに収められなかった分だけだ。
「おしまいやな」
困ったようにはやてが笑む。
「なんとゆうか、お互い負けず劣らず少ないね、写真」
僕もはやても客観的不幸選手権U-15日本選抜でちょっとしたところまでいける境遇なのはわかっていたけど、こんな形で見せ付けられると苦笑いしかわいてこない。
「これでもアイリと一緒に撮ってだいぶ増えたんやで」
「でも、こんなにいっぱい僕のアルバムに分けてくれなくてもいいのに」
好意の行いに対してなんだが、僕は写真とかあんま興味がないんだから、もっとはやてがもっていてもいいと思うのだ。
「これなんか、すごく――なんだ、そう、すごくかわいく写ってるじゃないか。僕よりもはやてがもっていたほうがいいよ」
アルバムから抜いて渡そうとする僕の手をはやてはそっと押さえつけた。
「これはええんや。アイリがもっててな」
「良く写ってるのに」
「えへ、ありがとな。でも、だからこそや」
う~ん、わからん。とりあえずはやてに受け取る気がなさそうなのは確かのようだ。
「じゃあ、これなんかは? 僕にしては比較的真っ当に写ってると思うんだけど、お返しに」
「ううん。せっかく良い出来なんやから、これはアイリが自分でもっとったほうがええ」
いや、だったらさっきのヤツははやてがもってたほうがいいってことにならんの?
なんかはやての論理には致命的な矛盾がある。
「アイリはわかっとらんなあ」
しようがないんだから、そんな呆れとも諦めともつかないため息をつかれた。それでいてはやては不機嫌そうでもないあたり、小さな子に対するお姉さんの仕草のようで、なんとなくくやしい。
「よし、きめた。はやて、写真いっぱいとろう」
「うん?」
「明日は病院の日だったよね。帰りにアルバムでも買ってさ」
「なんや、唐突やなあ」
唐突なもんかい。たくさん写真があれば、焼き増すまでもなく、一枚や二枚の分け方なんかで悩まないですむんだ。
それにしばらくすればヴォルケンリッターが現れる。闇の書もさくっと解決して足を治してしまえばはやても学校に行くだろう。だったら写真を撮る機会くらいいくらでもできて、小箱なんかではすぐあふれてしまうはずだ。今のうちにアルバムを買っておくのはいいことのはずだ。
「石田医師や司書さんなんかにもいっしょに写ってもらってさ」
「あはは、ええなあ。でもアイリが石田先生に会ったらまた学校に行けゆうて怒られてまうよ?」
「う゛っ。まあ、そこは何とか」
石田医師――はやての主治医だが、あの人、図書館の司書さん以上に僕が学校に行かないことにきびしいのだ。しかも、司書さんと学生時代の先輩後輩関係らしく、僕が平日の図書館を利用する限り嘘も通じない。
はやては僕の苦手意識がおかしいのかくすくすと笑っていた。
「でも――そやな。先生に頼んでみよ。きっと一緒に写ってくれる」
「そりゃ一緒に写ってはくれるだろうさ。でも、そのあと僕はまたお説教かなあ。ね、やっぱ僕はいつもどおり病院のロビーで待ってるから、はやてだけでいってこない?」
「ダ~メ。明日は先生のとこまでアイリも一緒やで」
「うへぇ」
まあ、いいか。明日はせいぜい写真映えのよさそうな服を選んでいくとしよう。
あ、そうだ、しまった。写真はともかくアルバムについてはまだ言わなけりゃ良かった。黙っていれば、だんだん近づいてきたはやての誕生日プレゼントの有望案になったのに。
小さなため息を隠れて一つ。しょうがない。また別の案が出ることを期待しよう。
楽しそうに明日へ想像を膨らませるはやてを視界において、僕は明日の石田医師への対策を立て始めた。
その夜のことである。
風呂、食事と一日のイベントを順調にこなして僕らは床についた。大人用のベッドは幼少の身にはまだ広い。はやてと並んで布団をかぶっても、余裕とはいえないまでも窮屈な思いをせずに寝ることができていた。
いや、しかし、なんで僕ははやてと当たり前のように一緒に寝ているか? 初日や次の日のようなドギマギとした感情はさすがに落ち着いたが、慣れてくると慣れてきたで今度はしみじみとした疑問が湧いてくる。
なんかやばくね、と。
そういえば僕ってば、この家に越してきてからまだ僕の部屋のベッドで夜を過ごしたことがないんだよね。昼寝につかったことはあるけど。
ところで僕は寝ていると抱きつきグセがあるらしい。はやてに指摘されてからは自己暗示を使って抑えているが。
なお自己暗示は学生時代、授業中なんかに居眠りするとき事前に『寝言は要らない寝言は要らない寝言は……』『歯軋り立てない歯軋り立てない歯……』なんて唱えている内に習得した技術だ。
んで、昼寝だし一人で寝るつもりだったから暗示はかけていなかった。目が覚めたら腕の中ではやてが寝息を立てているもんだからホント驚嘆したっけ。思いっきり抱きついて、僕はコアラかっつーの。
あ、ちなみに風呂も一緒に入ってます。こちらもやっぱり慣れてくると心臓さんだって慌てない。一緒の湯船につかりつつ、手で水鉄砲を飛ばして遊んだりしているわけだけど不意打ちで顔射された。
いやあ、やばいでしょ。
うん? でもこれこそ良いのかも。風呂やら布団やらべたべたしててももう心はざわめかない。性的な衝動なんて感じるはずもなく、それを感じてしまうのではないかという危惧すらなくなった。それこそ紳士が小さな女の子に対してもつ慈しみだ。兄が年の離れた妹に持つべき純粋なるいとしさだ。やっぱ慣れは重要。余計は削げて僕は真人間になっている。フハハハ―ハハ――ハぁ――――
取り留めのない思考になってきた。これはうたた寝、真に眠る前の意識が散逸していく過程である。すでに明日の記憶には残るかも曖昧な領域だ。
すでに寝むっているはやてにつないだ左手から伝わる体温に淡く溶け去ってしまいそうな。
その時、僕は聞いた。
(誰か、僕の声を聞いて。力を貸して。魔法の、力を……)
「――うっさい。……ぐぅ」
僕が改めてその声の重要性に思い至るのは次の日のことだった。