「なんや、変な夢やったなあ」
夢ですか、そうですか。偶然ですね、僕も変な夢を見てしまいましたよ?
そう、なんか少年が切実に助けを求めてくる。魔法の力を貸せとかいう電波な感じなの。
「あ、そうそう。そんなんやった。二人してけったいな夢見るもんやなあ」
はやてはベッド上で体だけ起こして頭を捻らせた。寝癖頭がなかなかに面白いことになっており、はやてが身じろぐと飛んだ髪がふわふわ揺れて面白い。
「こないな夢になるようなこと昨日あったかなあ」
「どうだろ。フロイトおじさんだったら適当に理由付けてくれるかもだけど、まあ偶然じゃない?」
「むぅ~、そやなぁ。でもせっかく一緒の夢見たんやからもっとおもろいのでもええのに」
はやてが甘えた仕草で抱きついてくる。僕はそれを当然のものとして受け入れ、彼女の体を背中に誘導した。
「ま、ええわ。それよりも、おはよアイリ」
「ん、おはよーさん」
細っこい腕が両の肩ごしに絡みつく。クセのない絹布のようにもたれかかる体を背負って僕は立ち上がる。
いつもどおり僕の朝はお姫さまを車イスに乗せることからはじまった。
今日も、いい天気だ。
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アホウ少年 死出から なのは
第9話 種
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さて、僕だけだったら幻聴か夢とするのも現実的な判断ではあったが、はやてまで同じものを聞いたとなれば無視は出来まい。昨日聞こえた声はやっぱりと言うべきかユーノと考えてよいだろう。
僕はこの世界とリリカルなのはの関係に思い至った時点でこそ原作の展開なんてあいまいになっていたが、それからひたすら記憶をスコップし続けたかいあって、今ではちゃんと話の流れは把握している。
昨日の眠る直前に聞いた声、アレはアニメ・リリカルなのはの開幕を告げる声。あの声を主人公であるなのはが聞いて、それを切片に彼女は激動の物語へと巻き込まれてゆくのだ。
いやはや、バタフライ効果とか考えていたのがバカみたいである。物語は僕の知るとおりに進行しているらしい。それとも僕の存在という微小な変化では他の次元世界での動向には影響を与えないのだろうか。それもありうる。まあ、なんにせよコトの真偽はこの地球で物語が進行していくうちに判明するだろう。
それよりも僕としては、本当に魔法なるものが存在するっぽいことに驚きだった。
というのも、超常現象なんて転生以来、昨日が始めてなのだ。いや、あえてあげるとすれば闇の書が銃弾を受けても傷一つ付かず、水洗いをしてもたわまないなんて不思議もあったが、それはあの本が防弾チョッキのような超高強度ポリマー繊維で構成されていたとすれば納得できないこともない。
一緒にすごした時間が増えるにしたがって、アニメのキャラクターとしての物珍しさではなく、一個の人格として僕の中におけるはやての存在感が増し、それにつれて魔法なんて本当にあるのかという疑問が改めて高まってきた矢先のテレパシーである。
正直なところ、はやてと同じ夢を見ておきながら、まだ僕にはこれがただの偶然ではないかと疑うところがある。
だが、仮にこれが偶然だとしても、魔法があるとした仮定の下で行動して損があるわけでもない。空振ったら、空振ったで魔法なんてなかったと判断を収束させることができて、これはこれで有益だ。僕は期限付きで魔法の存在に対し肯定的であろうと思う。
その上で僕はいったいどう行動したもんだろう。
ちなみに僕、魔法すごく使いたいです。
だいたい魔法なんてそんな面白そうなモノ、気にならないわけがない。基本的に俺Tueeeeeとか大好きな人間である。前世からそういうのが好きだった。その存在こそ信じるはずもなかったが、それ自体にはすごく憧れていたもんだ。現実にそれがあるとすれば学術的な興味もある。
この際強くなくたってかまわない。指先でライターの代わりがかろうじて出来る程度の魔導師適性だとしても万々歳だ。
や、もちろん強いほうがうれしいけど。ホントはSSSSSランクだけどめんどくさいからBとか、そういうのかっこいいし、やりたいし。まあ、今だってホントは30才台の精神経過年数のくせに、めんどくさいから9才児とか犯罪臭いことやってるのだけど。
そんなわけで、僕はヴォルケンリッターの皆さんが現界したら土下座してでも魔法を教えてもらおうと思っている。そこには、闇の書の問題を穏便に解決させるという目的もあるが、それがなくたって僕は自分の願望で魔法を学ぼうとするだろう。
もちろん魔法を教えてくれるならユーノでもかまわない。というか、本音を言えば彼のほうがうれしいかもだ。というのも、ヴォルケンズの皆さんに教えてもらうとなるとベルカ式の魔法になるだろう。僕としてはベルカ式のどことなく戦闘を偏重していて脳筋なイメージ付きまとう魔法体系より、ユーノが使う汎用性の大きそうなミッドチルダ式の魔法のほうが好みなのだ。
その点から考えると、助けを呼んでいるユーノのもとへ駆けつけるのは悪くない。彼を助ければセットで高性能熱血インテリジェントデバイス、レイジングハートさんもついてくる大変お得なお買い物なんだけど――
でもなあ、無印の事件で僕が出来ることってなによ?
無印なんて、事件自体はアースラ組に任せておけば解決するんだから、問題は人の心だ。
金髪美少女と殴り愛を育むなんて器用な真似僕にはできません。子を失った母の心を人形に向けさせるなんてもっとムリ。僕には利害調整はできても人の心を変えさせるなんてできやしない。そういうことができるのは、それができると信じる人だけだ。
なんというか、僕がいて原作以上に良くなる展開が想像できない。
己が野望のために他者を犠牲にするというのも状況次第ではありだが、少し待てば別の先生が現れるはずなのだから余計な真似をすることはなかろう。
ミッドだのベルカだのの好みは、あくまで欲を言えばにすぎず、僕の主目的はとにかく魔法を学ぶことだ。そしてそれだって、その過程ではやてに著しい悪影響を与える公算が高いのなら、闇の書ごと焼き捨てるつもりの――所詮はただの憧れだ。
ああ、闇の書といえば、そのことを考えると今はまだ管理局とは接触しないほうがいいか。レイジングハートもなのはに渡ったほうが決戦時の戦力面からみても好都合だろう。
うん、やめやめ。
ほうっておこう。
まあ、なんかの間違いでなのはがユーノと接触しなかったらダメだから、今日の夕方にでも槙原動物病院に行って、適当な言い訳でもでっち上げてフェレットが連れられてきていないか聞いてみよう。
きていないようだったら、その時こそ僕がユーノの捜索をしてみるってことで一つ。やっぱレイジングハートには心惹かれるものがあるし。
だいたいここでなのはがユーノに出会わなかったら、フェイトがこの世界にやってくるまでに街が廃墟になりかねん。木とか、原作を鑑みるに。
後に僕はこのときの楽観を強く後悔することになる。
そんなわけでやってきました海鳴大学病院。
昨日あれから考えたところ僕は見事に石田医師との接触を回避する方法を見つけていた。それすなわち僕もケガ人だということ。前に撃たれた傷の経過を診てもらいたい。バニングス邸で見てもらったときの医者というのがこの大学病院の医師なのだ。
普通の診療時間中によびだされてのこのこ現れるくらいだから、なんとなく小じんまりとした病院の先生かと思っていたのだけど、そうでもないらしい。いや、しかし、僕が言えた義理でもないが銃創って当局への報告義務があるんじゃないのかなあ。
彼の医師を名指ししたバニングス家からの紹介状を提出すると、受付のお姉さんはいぶかしげに受話器を持ち上げた。内線でなんらかのやりとりをしたあと、やたらと丁重な態度で『少々お待ちください』。おいおい、直前にはやてが診察券を出したときは、普通に気のいいお姉さんな対応だったのに、なんなんだこの落差。
「……ずるっこや」
「奇遇だね。ものすごく同感だよ」
人ごみを避けながら車イスを押して適当なところまでやってくるとはやてが唇を尖らせていった。
なんというか恐るべしバニングス。ただちょっと金とでかい家を持っているだけじゃなかったのね。それ相応の権力もお持ちのようで。
「まあバニングスさんとしても自分チの娘に関連して怪我人がでたのはやっぱ気が咎めたってことだろうさ」
「せやけどやっぱアイリはずるっこや。せっかく途中でカメラもかってきたのに」
膝に乗せたカメラに手を添えて拗ねた声を上げるはやて。そうは言うけど一枚目は来る途中にもうとったんだけどなあ。
「ほら、僕もケガがあるしさ。ちゃんと治したいじゃないか。いやあ残念だな。僕だって石田先生と一緒の写真に撮りたいんだよ?」
「だったらアイリの診察はわたしのが終わったあとでええやん」
「いやあ、残念。時間は有限かつ希少でさ。二人が別々でコトを進められるのに引っ付いてちゃあタイムイズマネーだよ。貧乏暇なし残念無念」
「アイリ、石田先生キライなん?」
「んなこたぁない。はやてがお世話になってる先生だよ? 熱心でいい先生だし、キライなはずないじゃないか。むしろ好きな部類さ」
ただ苦手なだけです。会ったら学校に行けとお説教されるのが、はやてが風呂で左手から洗い出すのと同じくらい確実だから会いたくないだけで。
はやての恨みがましい視線を白々しく避けていると、そこで声が上がった。
「望月さーん。望月愛天使さーん」
『ぶっ』
このとき噴き出したのは誰だかわからない。いや、そのなかの一人が僕の目の前で急に腹筋を引く付かせたはやてであることは間違いないが。だが彼女以外にもゲフゲフとわざとらしい咳払いを立てる人が複数いた。その他にもわざわざ読んでいた本から顔を上げる患者さんとかならその数倍はいる。
「アイリ、お呼びやで。でも、くく、やっぱ他の人から改めて聞くとおもろいなあ。その名前」
「うっさいやい」
待合席を立つ。微妙にへばりつく視線を引き連れて、僕を呼ぶ看護士さんのもとへ。
「すみません。それアイテンシじゃなくてアイリエルです。や、漢字は間違ってないんですが読みはそうなんです。すみません」
ゲフン、ゲフン。僕の声を拾える位置にいた見知らぬ兄ちゃんが一人喘息の発作を起こしたようだった。いやだなあ、彼は腕を吊っているあたり病気ではなさそうなのに、病人ではなかろうに。院内感染だろうかファック。
看護士さんは非常にしょっぱい顔をしたまま読み間違えを詫び、自分についてくるよう言った。
医師のところまで連れて行ってくれるらしい。この病院、ふつうだったら放送でそれぞれの診察室まで呼び出されるのだが、待ち順すらすっとばしか。いやはや、まっこと至れり尽くせりだ。今度来るのに躊躇してしまうくらい。
んで、そんな至れり尽くせりは僕にとってなーんもいいことなんてなかった。
簡単に言えば本日の診察の目的なんて経過観察なわけである。僕自身ごっついかさぶたをみては、これを剥がす日を楽しみにしている傷なんて、いまさら医者が診たってすべきコメントなんてない。『化膿もしてないし良好だな、前にあげた化膿止めは残ってる? そ、じゃあもう来なくていいですよ』とまあ、ものの5分もかけずに診察は終了。
待合所にもどった僕を迎えたのははやてのニンマリとした笑みだった。
「お早いお帰りやな」
「いや、まったく」
もとが不正規な診察だからってあの先生手抜きが過ぎないか。それともこれでバニングスへの筋は通したってところか。
「ちなみに聞いとくけど、もうはやての診察も終わってたりなんか」
「せんなあ」
「ですよねー」
石田医師とのご対面が決定したっぽい。あからさまに頬を緩ませるはやては、別に僕が怒られるからうれしそうなわけではあるまいが、その内情まではわからない。提案しておいてなんだけど写真なんてそんなに重要なのかねえ。幼さゆえのこだわりか。昔は僕にもそんなところがあった気もするが、きっと今の僕には理解しがたい情緒である。いやはや、どんなに頭の中で愚痴じみた思考を垂れてみても結果は変わらないんだろうなあ。
「そうは言いますけど、学校に行くとなると朝8時には出かけて帰りには15時を過ぎる。これだけで週5日として毎週30時間消費するのに、もろもろの準備時間とかを足せばさらに増えるんですよ。それだけの時間を使っていまさら忘れようもない情報のおさらいにいくなんてムダが過ぎます」
このセリフを吐くのももう何度目だろうか。対象は様々、相手によっては何度も語った答弁だが、僕の説得を理によって認めてくれた人なんて今まで母しかいなかった。そういう意味では我が母は稀有なお人だったなあ。認めたのは理ではなく利によるものかもしれないが。
今回このセリフを受けた人物――石田医師はこれまでの多くの人と同様にコメカミのあたりをヒクヒクとさせて言い返した。
「君が同年代の子達よりも多少賢いのはわかってるわ。でもだからって学校に行かなくていいわけじゃないのよ。学校は勉強を教わりに行くだけじゃないんだから」
はやての原因不明の足の麻痺の診察ですること、というか出来ることはいえばいまのところ定期的な経過観察くらいだ。診察を終えてはやてが一緒に写真をとってくれるように頼むと、『なるほど、だから珍しく望月君が逃げてないのね』となにやら含みのある笑みを浮かべて快く了承してくれた。
はやてを中心にすえて、三人ならんだところを看護士さんに撮ってもらう。うれしそうに微笑むはやてに僕と石田医師は満足に目をあわせた。
時刻は折り良くというべきか悪くと言うべきか、ちょうどお昼時になっていた。
「おっと、もういい時間じゃないか。道理でお腹減ったと思ったよ、そろそろ帰ってお昼にしないか」
「ん、もうそんな時間かいな?」
そわそわと棒読みな声を上げる僕の心の内に気づいているのだろう、はやてはしょうがなさそうに笑うと石田医師に『ほな――』と言い掛けて、
「そうね。お腹もすいたことだしご飯にしましょうか。私も休憩時間だしご馳走するわ」
見事に出鼻をくじかれた次第であった。
そして病院の食堂にて、薄味のスパゲッティをフォークで巻きながらお説教を食うわけである。
「いや~、おっしゃられることはわかるんですけどね~」
「だったら学校にいきなさいよ」
「いえいえ、論旨をつかめたからこそですよ。やっぱ僕は学校に行く気にはなりません」
ちなみに石田医師が認識する僕の設定は、親に育児放棄くらって友人であるはやての家に入り浸る学力の高い少年といったところだ。育児放棄のレベルが子捨てに達したこととか、既に家はないこととかは伝えていない。
あ、なるほど。だから、だれもいない自分の家ではなくはやての元に居つく僕をなんだかんだで人恋しがっていると医師は思っているのかもしれない。
「今まで僕を学校に行くよう促した人、みんな同じことをいうのですよ。別にこの手の問題にオリジナリティを交える必要はないからそれでいいのですけど、その上でここまで学校にいっていないのですから、今更同じことを言われても変わりませんよ」
そう、変えることができるとすればそこに求められるのは説得力ではなく、強制力だ。その強制力に近いものをはやてが若干持っていたりするけれど、はやてはこの問題に対して中立を保っている。それを石田医師がヘンに自陣へ引きずり込もうとしないあたり、僕は医師に好感をもっていた。
「ああ言えばこう言う」
「だからもう入力に対する出力のパターンができてるんですってば。打てば響きますよ?」
はあ、とため息をついて石田医師は首を振った。まだ今日の仕事は半分以上残っているだろうにご苦労様だ。そんななら僕のことなんて見逃せばいいのにとも思うのだが、それをしないのが彼女の美点なのだろう。ちょっと申し訳ない。
「ね、アイリ。それ一口くれん?」
「ん」
話が一段落したところではやてが言ってきた。僕はスパゲティの皿を差し出した。
「んー、こっちもおいしいなあ。アイリも一口ええで」
「ちなみにそのニンジンは?」
「これはダメー」
はやてが行儀悪くフォークでニンジンの一切れを隠す。ちなみにはやてのメニューはハンバーグ。そうだよなあ、どうしてこういうやつの付け合せの野菜は妙においしいんだろ。
フォークで切ったハンバーグの切れ端を口に運ぶとはやてがどこか心配そうに言う。
「んとな、アイリ。言っとくけど、アイリはわたしのこと気にせんでもええんやからな」
「んあ? なにをさ」
「ん……アイリがわたしのこと気にして学校いかへんのやったら、そんなこと気にせんでええんよ、って」
上目遣いに僕を見やってたどたどしく語るはやての様子は、その言が心からのものではなく義務感に突き動かされて出たことは明らかだった。
その横で石田医師が今度は『これであっさり学校に行くなんていったらブッ千切る』みたいな険しい目つきで僕を見る。どないせーちゅーねん。
まあいずれにせよ答えは明快だ。
「気にするも何も、僕ははやてと知り合う前から学校に行ってないんだけどね」
「あ」
苦笑いをたたえて言う僕にはやてが間の抜けた表情でポカンと口を開いた。
「あれは小学校はいって二日目くらいだったかなあ。ひらがなの書き取りで、ノート1ページを『あ』で埋めているときにこりゃムリだって確信したんだよね。その日、家に帰って即行で母に明日から学校行きたくないって言ったよ」
わりとダメもとだったんだが、意外にも説得は通った。実は、母からは却下されることが前提で、次善策として授業をろくすっぽ聞かずに本を読みふける問題児になる覚悟も完了していたのに肩透かしを食った形だった。登校拒否児とどっちが問題なのかは知らんが、先生には申し訳ない限りである。
「その頃からそんな調子だったのね」
「すみませんね。その前から成長してないもんで」
精神の変化がなくなり、良さも悪さもひっくるめてあり方が磐石になったとき、その精神は成長を止めている。すなわち大人なんだと言外に匂わせてみる。
「じゃあそれ以来学校にいってないんか?」
「そだね」
「まさか、これまで学校に行っていないから、いまさら行き辛いとか思ってるんじゃないでしょうね」
「まあ、そういう思いもないわけでもないですけどね。今となっては自分のクラスや自分の席どころか、籍さえあるかどうかわからないわけですし。でも、それによる行きたくないっていうのは、先に説明した部分と比べればほんの瑣末なものですよ」
「でも、せやったら友達とか……」
はやてが僕の学校事情に口を出すのは珍しい。この件に関してはいつもどことなく遠慮しているようだし、僕も取り立てて話す必要はないとしていた。
「友達とかねえ、僕はいなくても大丈夫みたいだよ。もちろんいるならいるでうれしいけど、必須と言うわけでもない」
これは前世でもそうだった。学校に行けばしゃべる人は何人かいたし、たまに誘い誘われて連れ立って遊びに行ったりもしたけど、長期休暇なんかは平気で一月以上誰にも会わなくても苦にはならなかった。それは今生でも変わらずだ。
「まあ悪くないものだとは思うけど、そのために学校にいくほどの美点は見出せないかなあ」
というか行っても友達作る自信なんてないね、僕は。前世での自分を振り返るに、小学生男子なんて『うんこ~!』なんて叫んではゲラゲラ笑うノリだ。さすがについていけません。
あ、ふと気づいた。
「そうだ。良く考えたら、僕がこの世に生まれ落ちて始めての友人がはやてだった」
「ん~、そこ喜ぶとこ?」
「……おそらく」
はやてはなんともいい辛そうに愛想笑いを浮かべた。まあこんなしょうもないこと言われてもこまるよな。
僕は医師に向き直る。時間も頃合、そろそろ休憩時間も終わるだろう。
「そう言うわけで学校に行こうとは思いません」
「そう」
石田医師からの反論の声はない。
ふう、つかれた。新たな発見のない議論は疲れる。それでも、こんなガキの意見をちゃんと聞いてくれるあたりいいひとだとは思う。だからこそ僕も聞き流せばいいお説教に対して熱心に反論してしまうのだけど、会うたびに同じ会話と言うのも不毛なものだ。それともこれが重なると一種のコミニケーションになっていくのか、いや過ぎる。
時間も限界になったようで、僕らはなんとなく席を立った。代金は予告どおり医師のおごり。はやてと並びぺこりと頭を下げてごちそうさまを言うと、医師は微笑ましいものでも見たようにちょっと表情を緩ませた。
「それじゃあね、はやてちゃん。また次の診察日にね。それと望月くん、ちゃんとはやてちゃんを守ってあげるのよ。それと、たまにでいいからちゃんと学校に行きなさい」
じつはちょっぴり時間がやばいらしい、女医は『じゃあね』と片手だけあげると返事を待たずに白衣をひるがえす。僕らを視界から外したその横顔は、おせっかいで気苦労の多いおばさ――もとい、おねえさんから、凛々しく厳しい医者のそれへと変わっていた。張りのある足音を立て、颯爽と肩で風を切りながら石田医師は医局へと去っていった。
ざわめく喧騒。病院の中では何割かがパジャマを着たままで堂々と闊歩していたりと、ほかの場所にはない独特の雰囲気が感じられる。薬品臭く、エレベーターにはちょっとした腰掛まで備え付けられている。清潔ではあるがどこか空疎。人間はたくさんいながらも、そこに線としてのつながりはなく、点が散らばっているような印象を受ける。
「要するにアイリは病院嫌いっちゅうことやな」
「端的にいうとね。小さい病院はいいんだけど、どうも大きくなるとどうも」
はやての車イスを押しながら受けこたえる。病院にいるとこんな何気ない動作まで不健康じみて感じてしまうからダメだ。
とっとと出て行こう、そう思ったときのことである。個別の波が平均化されたざわめきの調和を打ち破る館内放送が流された。
『お呼び出し致します。望月愛天使くん、望月愛天使くん。いらっしゃいましたら――』
ぶっと吹き出す音がなる。逆に雑談をやめる者が出る。新聞が不規則に折りたたまれて、スピーカが見上げられた。ちなみに愛天使はちゃんとアイリエルの読みになっていた。
「? なんやろ」
「わかんね」
というか何故いまさら? 僕に用事でも、今はたまたま石田医師と食事をしたからここに残っているだけで、本来だったらもう帰っているはずなのだ。
「まあ、いいや。いってくる」
「うん」
車イスから手をはなしてカウンターへとむかう。
カウンターで名を告げると一枚のカードを渡された。
「診察券?」
「うん」
はやてのところに戻り、再度車イスを押し始めた。はやては進む車イスに座りながらカードをもの珍しそうに見つめていた。いっちゃ悪いが見飽きてるだろうに。
「いちおう作ってくれたらしい。診察料はバニングスさんから出るんだけどね」
保険証はちゃんと診察前に提出していたけど。そういや照会とかされたら大丈夫かな。
「ふーん。あ、やっぱ名前が愛天使になっとる」
「そりゃそうだ。そうじゃなきゃ逆に困る」
「ルビもアイリエルやな~」
「だから当たり前だといっとろうに」
はやては何が面白いのかひっくり返したり、光に透かしてみたり、僕の出来立ての診察券をいじくった。しかし、怖くないのかねえ。僕が押しているとはいえ、車イスで前を見ないのって。
病院の出口。口の広い自動ドアを出て、玄関スロープを下っているとはやてが叫び出だした。
「あーーーーーっ」
「うん、どうした? 実は名前が海鳴太郎にでもなってたかい。そりゃあいい、今日から僕はその名前で生きていこう」
「アイリ、これなんやっ」
シカトかい、まあいいけど。それはそうと僕ははやてが差すものを見つめた。
「――診察券だけど」
いや、それをいいたいんじゃないのはわかってるけど。
「ここや、ここっ」
「ここじゃほかの人に邪魔だし危ないからスロープ下りてからね」
ひとたび手をはなそうものならはやては車体ごとまっ逆さ――なんてことはないが。今は僕が信頼されてグリップを任されている以上、僕は安全を守らなければなるまい。
「そういえば診察券って、神を殺す拳ないし剣ですごく強そうだよね。名付けて神殺拳(剣)」
「――これ」
ないすスルー。
スロープを下り終えて車イスを近くのベンチにつけると、なにか湧き上がるものを抑えるふうのはやては邪気眼でもうずくのだろうか、プルプルと震わせながら腕を伸ばして僕に向けた。そして突きつけられた診察券の、指が添えられているところを確認した。
「なに、生年月日? 5月の――――ああ、今日じゃん」
「アホーっ。なんで言ってくれなかったんや!」
ガーっとはやてが叫びを上げる。なんか最近一日に一回は怒られてる気がするなあ。
「いやあ、忘れてた」
「あほぉ、忘れてたやないよ。教えといてくれたってたらちゃんと準備しとったのに。だいたい自分の誕生日忘れるのがあるかい」
怒りから急転、はあ~と深いため息をつくはやて。
そういえば僕もこれくらいの頃は誕生日は本当に重大なイベントだったっけなあ、一週間前からその日を楽しみにしたりしていたもんだ。
そんな誕生日だけど十何回も経験している内に、いずれどうでも良くなった。特に前世の我が家では誕生日プレゼントをもらわなくなるのが早かったからなおさらだった。
今生では言わずもがな。まじどうでもいいです。
「そういえば三日ぐらい前に一度思い出したんだけどね。言おうかとも思ったんだけど、いや、なんとなく忘れてた」
「な・ん・で、忘れるんや。アイリが生まれた日なんやろ、もっと大切にしてやらなあかんよ」
「生まれた日つってもねえ、たかが太陽と地軸の相対位置が同じになっただけでしょうに。火星にでも行けば公転周期も変わるし、そもそもだからどうしたってわけでもなし」
誕生日になると一齢を重ねて脱皮でもするんだったらそりゃ忘れないけどね。
と、はやてがしらーっとした眼で僕を見ている。
「アイリ、わたしの誕生日おぼえてる?」
「6月4日だろ」
忘れるはずがない。
「そろそろだよね、どうしよっか。ケーキとか、翠屋で買う? それとも一から作ってみるのもいいかな。そうすると味は保証できないけど。あ、プレゼントはまだ秘密だよ。それともはやてほしいものとかある? 近頃の子の好みはいまいちわからないし僕が勝手に考えるよりも一緒に見て回って決めたほうがいいかもしれない」
加えてはやての誕生日はヴォルケンリッター――はやてに新しい家族があらわれる日でもあるはずだ。それだけでも期待は大きくなるというものだけど、さらに彼女らは僕の魔法の先生(予定)でもあるのだ。
それにしても誕生日プレゼントは何がいいだろうか。今言ったとおり、基本ははやての意向に沿うことにしても、それならばもう一品くらい小物を用意してサプライズしたいところだ。写真立てなんてどうだろう。
「ねえアイリ、たのしそうやね」
「え、そうかい?」
言われて、ぺたぺたと顔に触れてみる。若干いつもより口角の位置が上がっているかもしれない。思い返せば声は少し弾んだ調子だったか。
はやてを見る。彼女は真面目くさった表情でうなづいた。その取るに足らない動作は、言葉にならない説得力をもって真夏の霧雨のように僕にしみこんだ。
なるほど、僕ははやての誕生日を思った以上に楽しみにしているらしい。
「ちょっとこっち来て」
もはや僕もはやての言わんとすることが薄々と感じ取れていた。その言葉に諾々と従う。ちょいちょいと手招きされるとおりに近寄ると、同じ顔の高さ、吐息さえ感じ取れる距離になる。はやての瞳の奥に映った僕の間抜けそうな面が見えた。
はやては一瞬呆けたようになるが、一転、怒り顔で僕の両頬をむんずと掴み、外側に引っ張った
「だ・か・ら、わたしだってアイリのお誕生日をちゃあんとお祝いしたいに――決まってるやろがー!」
「いひゃい、いひゃい、いひゃあ」
学級文庫、学級文庫、学級文庫。
細い指が僕の頬をつまみあげては上へ下へ左へ右へ。いや、大して痛くないんだがね。むしろうにょんうにょんと適度な刺激が心地よいくらい――じゃなくて深く反省して僕はその罰を厳粛に受け入れた。
病院帰りのオバちゃんがなにやってんだコイツラ的に僕らを見ていた。
「1ペナやからな」
ひとしきり僕の頬をもてあそんで満足したのか、指を離すとはやては言った。
「ごめんよ。誕生日ってことでまけといて」
「だ~め」
「ケチ」
「ケチやあらへんもん」
勝ち誇った表情でツンとそっぽむく。するとその目線の先になにかを思いついたらしい。くるりと顔を戻してご機嫌に僕を見た。
「ええよ。許したげる」
「それは僥倖。はやてお嬢様の御慈悲与れるなら、この望月め、火の中水の中笑ってゆくつもりで御座い」
「だから公園いこ」
「公園? いいけど、なんで」
「写真、撮りいくんや」
はやてはうれしそうにそう言って、一歩分車イスを転がした。さわやかな風の中にショートカットの髪が揺れる。その頬はほんのりと紅潮していて、湧きあがる楽しみを抑えきれないといったふうだった。
「アイリ~、いくでー」
ちょっと振り返った元気の良い声は僕がついてこないような不安はまるでないように思われた。そのとおり、僕ははやての専属使用人である。はやてが行くのなら僕が行かないはずがない。
僕はヨッコイと一歩を踏み出した。飼いならされたかな、なんて微妙な危機感を抱きながら。これだからM気質は困る。
公園に向かう道すがら、どうしてはやては公園なんていいだしたのか、瑞々しい緑をたたえた木々を目にしてやっと思いついた。
「早いもんだ。もう二月がたつ」
車イスに座ったはやてが振り返り、しっとりと微笑んだ。
「覚えててくれたんや」
「そりゃ、ね」
かゆくもない頬を指先で軽く触れ、頭上を塞ぐ緑の天井を見上げた。
そう。この公園ははじめてはやてと会った日にやってきた場所である。僕ははやての車イスを慣れない手つきで押し、どこかお互いに探るように会話を続けていた。屋台で買ったタイヤキをほお張りながら、一緒に満開の桜の花を見上げた。強い風が吹くとザァと花びらが舞い散り、二人してその壮観な出来事に目を奪われたものである。
この季節の木々は風が通るたびにまだ柔らかい葉を鳴らす。周囲に他の人気は少なく、穏やかな雰囲気が僕らを包み込んだ。
「けど二月はちょう早すぎやな。まだ一月と半分くらいしかたってないで」
「四捨五入ってことで。――ああ、でも当たり前だけどもう花は散っちゃったね」
「けど今は葉がついとる。わたしはこの時期の桜もええと思うよ」
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは――ってやつだろうか。あれって花が散りきって葉がたくましい時分もカバーしてるのかね。
「ちょう押していってくれん?」
はやてが指を伸ばす。その先には一本、他と比べて一際大きな木が立っていた。そのあたりはちょっとした芝生の広場になっていて、舗装された道が通っていなかった。
そうだ、たしか前にもあの木まで行った。あの木がこの公園で一番大きな桜で、その下から見える景色が気になった僕ははやてを誘い、車イスを押して芝生の上を行ったのだ。
そこで僕はまた明日も会わないかとはやてに持ちかけたんだったけか。打算はなく、その時ばかりは頭を埋めていた記憶のアニメに対する考察さえ忘れていた。僕といて楽しそうにすればするほど、その一方どこかで別れのあとを思ってか、悲風をにじませて微笑みの中に淡く儚いものを浮かべようとする少女の寂しさを埋めてあげたかった。また、一緒に桜を見たいと思ってしまったのだ。
なるほど。ならばあの場所は僕らにとって何番目かの始まりの場所だ。そこで写真を撮っておくのは悪くない。
芝生のゆがんだ地面を間違えても車イスを倒したりしないように慎重に歩く。
「ここでええかな」
木の幹にはまだあるところではやてが言った。
今日、病院に行く前に電気屋によって、はやてはデジタルカメラを買っていた。前のインスタントカメラとは違って、セルフタイマーの機能が備わっている。さすがに三脚なんかはもってきていないが、カメラは車イスにでも置いて、はやてと僕は木の根元にでも座っていればちょうどよく写るだろう。
「よし、それじゃあ」
車イスのひじ掛けをあげて、はやてを持ち上げる。僕はもちろん、はやてもなれたもので自然に体重を移動させて、僕の首に腕を巻きつけた。
「――っしょっと」
小さな掛け声とともはやてのお尻を地面に軟着陸させて、絡めていた腕を抜き取った。離れる間際に頬にほぅと息がかかる。
「あんがと」
「どーいたしまして」
カメラははやてがもっている。彼女は違和感があるのかもそもそと木の根元ですわりを整えながら、ほいとだけ言って僕に受け渡した。
「セルフタイマーの使い方、わかる?」
「んーん」
首を振られる。
まあ適当にいじっていれば、向こうだって使いやすさには気を使って作っているだろうし、セルフタイマーの使い方くらいはわかるだろうが、ここは素直に先生に頼ることにしよう。
僕が車イスからデジカメの取扱説明書を取りに行くと、はやてはいまだになにやら地面をまさぐっていた。
「アリでも潰してるの? 一説によるとアリにも人の20分の1ほどの魂があるそうだから、あんまり潰したら祟られるかもよ」
「ちゃう。もうなんちゅうかいろんな意味でぜんぜんちゃうよ。五分は五分でも、五分五分のやし五分やし」
「昔は分が10分の1だったらしいね。この場合の五分ってのも数的な指定よりも、『それなり』って意味合いでの数にまつわるイメージ的なもののほうが強いらしいよ。んで、どうしたの」
「えへへ、ひみつー。アリはイジメておらんよ」
そうか、僕の小さいころはイジメまくったけどな、アリ。今の若い子はそんなことしないのか。いいことではあるが、ジェネレーションギャップが激しいなあ。ああ、いかんいかん、この思考こそオジンへの第一歩だ。
説明書の索引で撮影の項からセルフタイマー撮影のページを引く。ほうほう、こうやるのか。指示のとおりピコピコとボタンを操作。うむ、出来そうだ。
無人の車イスを位置調整して、カメラを載せてやる。角度良し、高さ良し。デジカメの液晶画面の中でははやてが手遊びしている。とりあえずその姿を何も言わずに一枚撮ってから、撮影メニューからセルフタイマーを選択する。
「はやてー、いくよー」
「あ、もうかいな。うん、いつでもええよ」
ボタンを押して素早くはやてのところへ移動する。肩が触れ合うほどに近づいて座れば見切れることはあるまい。
笑顔は――大丈夫、自然と浮かんでくる。そういえばポーズはどうしたもんだろう。何もなしでは味気ないが、あと4秒弱。迷っている時間はない。思いつくのはピースだけ。日本人コレしかポーズ知らんのかってくらい個性はないが、まあいいか。
と、そのとき、ぬくもりが僕を包み込んだ。
なにがどうしたと反射的に振り返る、その途中ではやてしかいないことに気がついた。
そしてカシャと電子音がなる。情けなくカメラに向き直ると撮影は終了していた。
「はやて~」
「んふふー。驚いた?」
なにがそんなにうれしいのかニコニコ笑いながらはやては僕に絡めていた両手を解く。
んにゃろうめ、僕はご満悦なはやてに軽いチョップを入れてからカメラを回収してきて、二人で液晶を覗き込む。ちゃんと撮れていた、撮れてはいるけど。
「あはは、アイリすっごいおどろいとる」
「君が驚かしたんだろうが。――もう一枚だ。いいね」
「ええよ。でも、あはは、けったいな顔してたなあ」
再度、セルフタイマーをセットしてからはやてのもとへ。今度のはやては最初から僕に抱きついてきていた。負けてなるものか、いや、勝つ必要はないんだけどなめられたままではいられない。僕もはやての細い肩に手を置いて時を待つ。
3、2、1――カシャ。
「うん。今度はまずまずかな」
回収したカメラの液晶画面を覗いて僕は満足にうなずいた。画面の僕は若干顔が変な気もするが、そんなの僕的にいつものことだ。はやてもかわいく写っているし、これで十分だろう。
「こんなもんでしょ」
僕がカメラを手渡すとはやても首肯した。
「ええね。うん、きれいにうつっとる。ちょっとアイリの顔が固いけど。ん~そういう意味では、さっきのヤツのほうが良かったかもなあ」
「いや、それはない」
だいたいなにがいいというのだ。あんな目ん玉ひんむいて、背をそらしている絵。おまけにピースサインは出しかけのまま固まって、みっともないったらないもんだ。いま撮った写真のほうがあらゆる面でいい。
このまま地べたに座っていたら腰を冷す。僕ははやてを抱けあげて車イスに移した。
「それじゃそろそろ帰ろうか。それとも、もう少し見てまわる?」
「ううん。はよ帰ってご馳走とケーキ作らなあかんから。それと途中で材料も買わな」
「そか」
ケーキか。作ってくれるのだろうか、まいった、恥ずかしいぞ。これはありがとうと言うべきなのだろうけど、気管の裏側がくすぐったくって出てこない。さらりと礼を言えなかった時点で、タイミングを逸してしまった。
それでも再度機会がないか計りつつ車イスを押し出したところではやては叫びを上げた。
「そや! ちょっとまって」
「どしたん?」
はやてはポケットをまさぐると、見とれるような笑みを浮かべてそれを差し出した。
「さっきそこの木で落ちてるの見つけたんやけどね。綺麗な石やろ。今日、誕生日やし、これアイリにあげよう思って」
そう言ってはやてが手のひらに載せて差し出したのは菱形をした青の宝石。
ジュエルシード――単語が僕の中で明瞭な形をとったとき、
それはまばゆく輝きだした。
「え?」
「手を離せっ!」
はやての手を打ち払う。輝きを放つ宝石は少女の手のひらから放物線を描いて地に落ちた。
ジュエルシード。暴走がちの願望器。願いをかなえるというふれこみだが、実際のところは勝手に触れた者の願いを受け取っては斜め上の回答を押し付けてくる危険物である。
どうしてこんなところにという疑問とともに、どこにあってもおかしくないという納得があった。
はやてが僕の暴挙を信じられないように見るが、芝生に落ちた宝石の輝きを目にして僕を責めることはしなかった。
「なんや、あれ――光って?」
「わからん。わからないけど」
判断は早かった。僕ははやての車イスのグリップに飛びつくと素早く反転。
「ちょう、アイリ?」
「しっかり捕まって」
なにがなんだかというはやての調子。たしかに落ちてた宝石が光っただけにしては僕の反応は過剰だろう。はやての視点からは現状、あんなの光る宝石のおもちゃと見るのが妥当だ。だがそんなものあとでチェレンコフ光だと思ったとでも言えばいい。ビビリの汚名など安いものだ。
とにかく光り輝く宝石から離れようと全速力で駆け出した。
「ひゃっ、ちょ、アイリ危なっ」
はやての抗議など知らない。とにかくここを離れなければならない。芝生で揺れる車イスを強引に制動する。
よし、もう少しで舗装路に入る。
これで逃げ足も上がるだろう。とにかく人のいるところへ行かなければ。
その時のことである。
僕とはやては薄闇に飲み込まれた。背筋に冷たいものが走ったかと思うと視界が暗くなる。愚かにも足すら止めて認めた世界は、まるで急速に風船が膨らむよう暗いものに飲み込まれていった。
芝が暗い。空気がよどみ、太陽が重々しく歪められる。青々としていた桜の木々がまるで落葉寸前のように生気のない色に染められていた。
なにが起きたか理解する間もなく、驚愕に止まった息を再開するときには僕の景色の全てがその『闇』に包まれていた。
「……封鎖領域」
ようやくたどり着いた解が口を割る。
それは対象を選択的に領域内に閉じ込める魔法だ。もちろんこれが僕の記憶にある封鎖領域の魔法とまったく同じであるかは知りようもないが、その効果が僕とはやてを元の世界から隔離するものであることだけは本能的に悟らされた。
やっとの思いで車イスの車輪を舗装路に戻す。逃げなければならない。なにがなんだかわからないけれど、ここにいてはならないことだけは絶対的な真理として明らかだった。
「アイリ、うしろ。アレ、なんなんやアレ」
同時にギシャァァァと爬虫類がするような細い口から風が抜ける鳴き声に寒気のするダミ声を重ねた音がなった。
いやな予感をヒシヒシと感じながら振り返る。
果たしてそこ――ジュエルシードがあるはずの芝生には異形が存在した。
それは漆黒。おぞましく毛玉のごとき凹凸のない体型は知りうるあらゆる生物にも似るところがなく、その生存の成り立ちは生命に対して冒涜的なものすら感じさせた。気色の悪い、直径1.5mを超えるまあるい肉塊の全体から、光の恩恵を否定する醜悪な暗黒色の体毛を生やしている。そのくせ、汚らわしい体毛以外に認められるたった二種の器官である目と口は、鳥肌の立つようなぬめりてかった赤色をしていた。浜辺で腐った海草と魚類の臭いがする。ドロドロとした、いかにも不健康そうな空気が暗い空間に蔓延して吐き気を催した。
『ギシ…キシシしぃぃぎギギグァ』
いかなる仕組みか、目と口の刻まれた漆黒の肉塊は動き出す。音波を介して脳髄を汚染するかの鳴き声を立てて、踏んだ芝生を無残に枯らしながら進むその直線は明らかに僕らに向いていた。
これは、良くない。
「行くよ」
車イスを押すのに今まで出したことのない安全度外視の全力を発揮して駆け出した。
だが、おぞましい存在に追われて、おぞましい世界のどこへ行こうというのだろう。
カラカラと音を立てる車輪。駆ける足は50歩も行く前に遮られた。
「ぐぁっ!」
「アイリ!?」
なにが、起こったというのか。
背に受けた衝撃とわずかな浮遊感の後に僕は地面に叩きつけられた。
「アイリ、アイリッ。大丈夫かいな、なあ」
はやての声がとおい。なにがなんなんだ。かろうじて僕は地面に倒れていることを認識し、アゴを地面に擦り付けながら前を見ると、垂直に立ったゴムとアルミの車輪が見えた。
ああ、ということは、車イスは倒れていないらしい。
それは僥倖。立ち上がり、振り返る。後方には変わらず漆黒の肉塊がこちらへと進み寄り、大きな血色の瞳で僕を強く見つめていた。ただ、まだ距離はあり、僕が転ばされたのは遠隔的な何かによるらしい。
「アイリ、大丈夫?」
「ああ、大事無い」
不安そうなはやての髪をそっと撫で付ける。
実は、かなり痛い。ただ立つだけにも痛みのない姿勢を気遣う必要があって涙ちょちょ切れそうだ。衝撃こそ痛みにはつながらなかったが、転倒のさいに強く体を打ったようで、右足からは血が流れていた。
『ギギギギギッギ、ィギキキシャアッァァァァ』
見れば周囲の木々のところどころが、重油でもぶちまけられたかのように黒く濡れていた。そして肉塊の咆哮に呼応するように、それらの黒色がうごめき、意思を持つかのごとく肉塊へと吸い寄せられた。
それは僕の背からも起こり、服が引かれるような感じを覚えると同時に黒いものが肉塊へと飛んでいった。なるほど、先ほどの衝撃はヤツがあの黒色を飛ばしてきたと考えるのが妥当だ。
肉塊はズリズリとゆっくり寄ってくる。その様子は急ぐでもなく、焦るでもない。ただひたすらに僕を見つめる真紅の瞳から感情を見出すことはかなわないが――――――嗚呼、なんというか、むかつくなあ。
「アイリ、はよう逃げな」
「悪いけど、はやてちょっと一人で行って人を呼んできてくれるか」
「なに言って。一緒に行かんでどうす――」
はやては途中で言葉を詰まらせ、やっとのことで「まさか」と言った。
「その足、怪我、走れないんか」
僕はにじり寄る肉塊から視線を外さないままに苦笑した。
「違うよ。痛みはあるけど走るくらいは出来ると思う。そうじゃなくてアイツ、僕が目当てみたいでさ」
言って、僕は数歩横へ移動した。
やっぱりだ、ヤツの赤い目の焦点は僕にのみ合わせられている。進路も微妙に修正されて僕に向いていた。
「そういうことだからさ。僕は僕でなんとかするから、はやては人を探してきて」
「でも――」
震える声で反意を示すはやての言いたいことはわかっていた。
こんな世界のどこに助けてくれる人などいるというのか。ここはさっきと同じ公園でありながら、同時にどんな外国よりも遠く離れた土地であるように思える。事実、先ほどまでちらほらと見かけた通行人は、世界がほの暗いものに包まれてからまったく存在しなくなっていた。
「それだったら、でも、アイリも一緒に」
「だめだよ。あれの対象はあくまで僕のようだ。一緒には行けない」
今でこそその接近は巨躯を引きずる鈍重なものだが、また僕が走り出すとなるとどうでるかはわからない。先ほどのように背を撃たれるかもしれない。
「せやけど!」
「足手まといなんだ」
切なげに訴えるはやてを僕は言ってはならない言葉で切り捨てた。
「僕はいざというとき君を守ることはできない」
それは真実だ。だが――いや、だからこそ慰めにはなるまい。
足の障害ゆえだろうか、はやてが誰かに迷惑をかける極度に恐れることを僕は知っている。
はやては一瞬傷ついたような表情を浮かべるが、すぐに諦めるような感情を押し殺した顔でうなづいた。
「そやな。わかっとる。わたしはアイリの足はひっぱらん」
「ごめんな」
「ええんよ」
はやてが浮かべたほほ笑みはまさしく自嘲というに相応しい。このほの暗い封鎖された世界においてなお深い闇をひそませていた。
はやてのこの暗黒じみた懐の広さ。深い諦念に基づいたそれこそ僕が偉そうにも振り払ってあげたいと思っている彼女の闇の一端であった。
「さあ」
「――うん。アイリも気をつけてな」
「ああ、帰ったらケーキを作ってくれるんだろう。だから大丈夫だよ」
「あは、そやね。ほなら、また、な?」
言ってはやてが操作レバーを入れると車イスは動き出す。
僕ははやてが行った向きと90°別向きに軽く移動してヤツがちゃんと僕を向いていることを確認した。
よかった。これではやてのほうへ向かおうものなら嫉妬してしまうところだった。
じわじわと迫ろうとする黒い肉塊との距離を後ずさりで後退し維持する。感情の見通せない赤い瞳を負けてなるものかとにらみつける。
そういえばはやて、なにを願ったのだろう。