パァン!
朝の坂井家に、乾いた音が響く。
「痛っ〜!」
「これで私の40勝目ね」
手を押さえて痛がる悠二を得意そうに見下すのは、長い黒髪の少女、シャナである。
この40勝というのは朝の鍛練に行う仕合いの戦績の事だ。
「‥‥‥‥‥‥‥」
悠二としては、事実である以上、反論しても分が悪い事はわかっている。
しかし、言われっぱなしも癪なので同じく事実で抵抗する。
「40勝"2敗"だろ。ちゃんと数え痛っ!」
「うるさいうるさいうるさい」
そんな少年の指摘は少女のさらなる追撃で黙らせられる。
理不尽な話だ。
「‥‥‥‥‥‥」
それを不愉快そうに眺めるヘカテー。
悠二への扱いもそうだし、あまり『危険分子』を悠二に近付けるのも気に入らない(ちなみに、この危険というのは身命に関するものではない)。
そして、もう一つ気掛かりな事。
「‥‥‥‥‥‥」
手に持った戦績表を眺める。
悠二はシャナに2勝、メリヒムに1勝、自分とヴィルヘルミナには一度も勝てていない。
それを腑甲斐ない、と思うわけではない。
むしろ逆だ。
(‥‥‥成長が、早すぎる?)
初めて出会った時のシャナと同じ疑問を、ヘカテーも感じていた。
悠二が自分と出会ってから‥‥『こっち側』に関わりだしてからまだ半年と経っていない。
だというのに、『炎髪灼眼の討ち手』、"虹の翼"という異常な相手に一、二回とはいえ勝ち星をあげている‥‥どちらかといえば苦手な体術で、だ。
それも、棒っきれの仕合いでの話。
実戦で、もし悠二の持っているのが『吸血鬼(ブルートザオガー)』なら、勝率はさらに上がるだろう。
「‥‥‥‥‥‥」
確かに、強くなる要素はあった。
元々、悠二に秘められた才能は感じていたし、自分の『器』の共有や、おそらくは『零時迷子』、あるいは『大命詩編』による鋭敏な感知能力。
通常の人間はもちろん、フレイムヘイズでさえありえないほどに濃密な戦いを短期間に経験もしてきた。
それら、強くなる要素は十分にある。
強くなっても不思議ではない。だが‥‥‥何か引っ掛かる。
何か‥‥才能や経験以外の"自分の知らない要因"。
ゾクッ
あるかどうかもわからない"それ"に、何故か強い怖気を感じる。
(確か‥‥悠二が劇的に成長したのは、『弔詞の詠み手』との戦い‥‥)
自分は最後の方しか知らない戦いの様子を、『弔詞の詠み手』かヴィルヘルミナ・カルメルに訊いてみようか、と考えるヘカテー。
その目の前に悠二の顔。
「ふ‥‥ふぇっ!」
「? どうかした?。はい、冷たいお茶」
「っ〜〜!」
熱くなった顔を冷ますようにお茶を奪いとり、ぐいっと飲み干す。
嬉しいのは嬉しいのだが、いきなり顔が近くなると動揺してしまう。
そんな少女達をリビングから眺めるヴィルヘルミナと坂井千草。
「‥‥大分、扱いが手慣れてきたようでありますな」
「無意識」
「あらあら」
もう一人の少女の表情の変化には気付かず、呑気に喋っていた。
その日の夕方、吉田一美は愛犬の散歩に出かけていた。
坂井悠二へのアプローチは「何か空回ってる?」とか最近思い始めたが無論きのせいだろう。
きっとそうだ。
まあ、それはそれとして、最近は転校生のシャナ・サントメールまで不穏な空気を醸し出している。
ただでさえあの近衛史菜が牽制するように坂井悠二の傍にいるというのにまったくもって厄介だ。
そんな風に考え事をしながら愛犬に急かされて散歩する吉田一美の前に‥‥
(?)
道の真ん中、吉田の行く手を遮るように、一人の少年が立っていた。
十にも満たないと見える小さな姿に、夏も盛りというこの時期に長袖のパーカーに太いスラックス。そのうえフードを頭からスッポリとかぶり、極め付けにその少年の身の丈の倍はあろうかという巻き布でぐるぐる巻きにした太い棒を右肩に担いでいた。
それが、異様な存在感をもって立ちふさがっている。
「君、どうかした? この暑い中、厚着して、変な物担いで(道の真ん中につっ立ってんじゃねえよこのガキ)」
その言葉には反応せず、少年は口を開く。
「あなたは、"知っている"のですか?」
何かが、変わろうとしていた。
「‥‥‥この気配、徒かな? かなりでかいけど」
「‥‥いえ、周囲に力の乱れもありませんし、気配も穏やかです。フレイムヘイズでしょう」
その頃、悠二達も一つの気配を掴んでいた。
ちなみに、今はヘカテーがこの前見つけた鳥の親子の住む木に鳥小屋をくくりつけている最中である。
悠二が鳥小屋を設置している間、鳥達はピピッと鳴きながら、ヘカテーの肩に頭にとまっている。
「第八支部に、そんな情報、入ってなかったけど、ね」
そんなヘカテーにとまる小鳥に触るべく、そ〜、と近寄りながら言う平井。
何故か知らないがヘカテーは鳥、というか動物に好かれるのだが、それが平井や悠二に適応されるかは別の話だ。
「‥‥大丈夫です」
"小鳥"に言い、指先にとまらせ、平井に近づける。
そして、小鳥はおとなしく平井に撫でられる。
ヘカテーの平井に対する信頼が小鳥に伝わったかのような光景。不思議である。
「やっ‥‥たー! 見た? 見た? 野生の小鳥触った!」
「はしゃぐと逃げるよ?」
軽い興奮状態の平井とそれを見て苦笑する悠二。
珍しくお姉さん(?)な所を見せる事が出来て嬉しそうなヘカテー。
「それで、そのフレイムヘイズほっといていいのか?」
木から下りながら話を戻す悠二。
「‥‥悠二、これ以上厄介事に首を突っ込むつもりですか?」
「‥‥やめとく」
そろそろ祭りがあるのだ。妙なのと関わりたくないし、今まで会ったフレイムヘイズは虞軒を除いて全員と出会い頭に戦いになってしまっている。
向こうからどうこうしない限りは極力関わらないようにしよう。
「それじゃ、鳥小屋もつけたし、そろそろ帰ろうか」
「はい。また‥‥」
「今度は私単体でも懐いてよね!」
鳥達に別れを告げ、帰路につく。
嬉しそうに鳴いて見送る鳥達。
そんな、何気ない日常。
(こんな時間が、いつまで続くか‥‥)
大切な日常を、悠二は噛み締める。
我が家を目指し、街を歩く悠二達。
つらつらと他愛無い話をしながら歩く三人の前に、下校時には珍しい人物が現れる。
(‥‥む)
その人物を目にし、過剰に警戒を働かせるヘカテー。
吉田一美である。
「あっ☆、坂井君。こんにちは。こんな所で出会うなんて奇遇ですね☆」
「はは‥‥そうだね」
「おー、久しぶり! エカテリーナ!」
吉田の連れている豆芝の犬の頭を撫でる平井、そして‥‥
「エカテリーナ?」
その名前らしきものを訊ねるヘカテー。
「うん。うちの愛犬、吉田・ドルゴルスレン・ダグワドルジ。
愛称はエカテリーナって言うんだよ☆ ヘカテリーナ?」
それに飼い主の吉田が答える。
ヒュヒュヒュヒュ!
パパパパァン!
「私はヘカテリーナではありません」
「あら、違った?」
侮辱への返礼としてチョークの投擲を吉田に放つヘカテリーナ‥‥ではなくてヘカテーと、それを黒板消しで寸分の狂いもなく叩き落とす吉田一美。
この二人はいつもこんな物を持ち歩いているのだろうか?
「ふふ、それじゃ、また明日学校で、さ・か・い・君☆」
「う‥‥うん。また明日‥‥」
行ってエカテリーナと共に歩きだす。
それを見送る悠二。
(吉田さんって‥‥あれ、本気なの、かな?)
吉田一美が自分に仕掛けてくるアプローチ(?)が露骨‥‥というか何か変なため、ただ単にからかわれているような気しかしてなかったりする。
そんな、さりげなくひどい坂井悠二を、吉田一美は振り返って見つめていた。
その手には、一つの片眼鏡(モノクル)がある。
「‥‥佐藤?、今日はトレーニングやらないのか?」
いつもの佐藤邸の庭で、田中栄太が佐藤啓作に心配そうに声をかける。
(やっても意味無いんだよ!)
声をかけられた佐藤の方はといえば、"あれ"を目にしなかった親友に、そのどうしようもない苛立ちを心中だけでぶつける。
実際には無反応でしかなかったが、それでも佐藤の様子がおかしいのはすぐにわかる。
「‥‥‥悪い」
佐藤も、今の自分の様子が他人から見てどうなのかわからないわけではない。
だが、"だったら自分はどうすればいいのか?"
そんな無力感が体を支配する。
平気なふりをする事ができない。
(見なかった田中の方が‥‥正解だったのか?)
どうしようもない現実に、少年はまだ答えを出せない。
その日の夜。
新しい気配と関わりあいになりたくないため、今日の夜の鍛練はお休みである。位置を知らせたくはない。
さっさと寝る坂井悠二とヘカテー。
悠二としてはヘカテーが自分に恋心を抱いていると気付いてからはさすがにまずいとは思ったのだが、それを伝えようとした時のヘカテーの表情に勝てなかった。
要するに、また同じベッドで寝ているのである。
「すぅ‥‥すぅ‥‥」
傍らで眠る水色の少女の髪を撫でる。
男の人の隣で寝ているというのに、その寝顔にはたとえようのないほどの安心感と幸福感が見てとれる。
可愛い。
一度知ってしまうと、『ヘカテーが自分を好き』という『事実』は、とてもわかりやすい。
行動の端々に、時には露骨に、自分に対する好意が見てとれる。
何故今まで気付かなかったのかと思うほどだ。
そして、それに気付けばさらに可愛い、可愛い少女。
(僕なんかの、どこを好きになったんだろう?)
はっきり言って、そこは全くといっていいほどわからなかった。
まあ、理由自体あるのかないのかわからないし、ヘカテーの感性はあまり普通とは言い難いので考えるだけ無駄だろう。
「‥‥‥‥ん‥」
小さく寝言らしき呟きが聞こえる。
髪を撫でるのをやめ、その顔に手を添える。
その手の暖かさに、少女は手に頬をすり寄せる。
「‥‥‥‥‥‥‥」
未だこの少女への想いが恋や愛だと断言できない自分。
もし告白という形を取られたとしても言うべき言葉が見つからない。
こんなにひたむきに自分を求めてくれる少女に、『"好き"かどうかわからない』などという状態で答えを出すような不誠実な真似は絶対にできない。
だからこそ、自分の気持ちさえはっきりしない自分に、心底むかっ腹がたった。
(ちゃんと考え‥‥いや、感じよう)
少年は悩む、自分の心と、目の前の少女のために。
(あとがき)
七、八章と内容が濃くなる予定だから長さ調整しないとダラダラな感じになりそう。
その辺気をつけて行こうかと思います。