「‥‥‥‥‥‥」
歩く、祭りの喧騒も収まる街を、ゆっくりと歩く。
自分が今、何をしているのかわからない。
今のこの状態を、現実だと思えないような感覚。
見つけた時、すでにその着物は赤く染まり、その肌は蒼白だった。
最初のサブラクの不意打ち、それが流れて当たった、ただそれだけ。
ほとんど当たっていないような、薄く皮が裂けた程度の傷、しかしその傷に宿る『スティグマ』は、人間であり、抵抗力の無い彼女を深く、深く蝕んだ。
「‥‥‥‥‥‥」
怒鳴りつけるように、フレイムヘイズ達に叫んだ。
わかっていた。もうどうにもならない事をわかってなお、叫んでいた。
そんな自分の手を、他でもない彼女が止めた。
聡明な彼女だ。わかっていたのだろう。
『二人にして欲しい』、最期の時が迫るその時に、そう言った彼女に、誰も何も言えなかった。
ヘカテーが気を失っていなければ、無理にでもついて来ただろうか。
彼女は、それを許しただろうか。
考えても、意味は無い。
今、彼女を腕に抱えて歩いている現実が全てだろう。だが、それを現実だと思えない。
「‥‥平井さん。ここでいいの?」
『‥‥連れてって欲しい所、あるんだ』
平井がそう言い、悠二が平井を運んだのが、ここ。
「‥‥‥うん」
御崎大橋のあるごく普通の河川敷、そこの石階段のある一画。
「‥‥ここ、何かあるの?」
何故平井がここに来たがったのか、知りたかった。
「‥‥‥‥‥‥‥」
平井は少しの間黙る。
「‥‥この景色、好きだから」
その声に、僅かに残念そうな余韻が残る。
「‥‥綺麗でしょ?」
話すのもつらいのだろう。平井はゆっくりと語りだす。
悠二も、止めない。
「‥‥夕焼けがさ、よく見えるし、川にも映ってて‥‥」
(平井‥‥さん?)
夕焼けなど、見えるわけがない。
もう日などとっくに落ちている。
意識が混濁している。
そして、もう‥‥
(目が‥‥見えてない)
その事実に気づき、しかし、悠二はそれを口には出さない。
「‥‥うん。綺麗だ」
平井は、その景色を見たかった。あるいは見せたかったのだ。
そう、綺麗なはずだ。
しかし、認めたくない現実感は少しずつ輪郭を帯びていく。
「平井さんの、秘密の場所?」
「‥‥ふふ、私にだって、秘密くらいあるよ?」
穏やかな会話、事実そうだろう。
だが、心は千々に乱れていく。
「‥‥私ね、後悔はしてない、よ。自分でも、間抜けな終わり方だと思うけど、『こうしたい』って、思ったよう、に生きられたから」
体からどんどん力が抜けていく感覚に、平井は本当に話すべき事を語りだす。
『席、お隣さんだね。私は平井ゆかり、これからよろしく!』
『あの、池君ってさ、彼女いないのかな、って思って』
(な‥‥んで‥‥)
『‥‥私ね、フラれちゃった』
『あー、思い出したら腹立ってきた! 坂井君、今日はとことん付き合ってもらうからね!』
『近衛さんは転校してきたばっかりだから知り合いが隣の方がいいと思うんです!』
『説明してくれるかな? 坂井悠二君』
昔の事が、思い出されてしまうんだろう?
『人間だから特別扱い?』
『はいよー、シルバー!』
『ナレーション♪』
『だから、ヘカテーが起きてる時にブチュッと』
『ゆカテー・コンビネィション!』
(‥‥‥‥嫌だ)
冗談じゃない。縁起でもないではないか。
「‥‥ホントはね、ずっと、皆一緒にいたいって、思ってたの。人間とか、徒とか関係無く、皆でずっと‥‥‥」
平井が、あの平井ゆかりが、“力なく”笑っている。弱々しい声で話している。
「‥‥馬鹿だよね。そんなの無理だって、わかってたはずなのに」
土手に腰かける悠二に、平井が背を預け、悠二が支える今、悠二の頬に手を添える。
「‥‥ヘカテー、泣かせたらダメだからね。“私がいなくても”、坂井君が支えてあげれば大丈夫」
その言葉に、怒鳴りつけたくなった。いなくてもなんて言うなと、怒鳴りつけたくなった。
でも、そうする力が、無い。
目の前の、血に濡れた、もう目も見えていない平井の姿が、全ての行動を起こせなくさせる絶望感を悠二に与えていた。
「‥‥‥ありがとね」
平井は本当の最期を自覚して、微笑む。
いつものように楽しそうで、いつもより穏やかで、綺麗な笑顔。
でも‥‥
「‥‥‥後悔してない」
泣いている。
泣いているのだ。あの平井が、笑顔で別れようとしている平井が、湧きあがる悲しさに、淋しさに、泣いているのだ。
「私‥‥楽しかった」
隠せないほどに、笑顔で隠せないほどに悲しいはずなのだ。
今まで、一度として泣いた姿を見せた事の無い、平井ゆかりが。
「でも‥‥‥」
悠二の頬に添えた手を動かし、優しく撫でる。
(あ、ぁあ、ああ‥‥)
「‥‥もう、ちょっと‥‥だけ‥‥皆と‥‥一緒に、いたかっ、た‥な‥‥」
その添えた手が、
落ち‥‥‥‥
「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああぁ!!」
目が、覚める。
胸が、痛い。
隣にいるヘカテーは、もう起きている。
うなされていたのか。
心配させてしまったのか。
「‥‥‥ごめん」
短く、謝る。
自分がこんな状態では、心配されて当たり前だ。
「‥‥‥悠二は、悪くありません。ゆかりも、許します」
そう言って、手を握って安心させようとしてくれる。
いや、許されるような事では、ない。
「‥‥‥ごめん」
もう一度、謝る。
謝って、下に降りて顔を洗う。
少し、頭を冷やした方がいい。
無闇に周りに心配をかけるような態度しかとれないようでは、ダメだ。
(‥‥僕は‥‥‥)
「うりゃ!」
パチン!
自虐的な思考に陥る悠二の頬に、後ろから挟み込むようにビンタが食らわせられる。
「ったく、どーせこんな事になってると思ったよ。
いつまでやっとるか少年♪」
明るい、明るい声。
確かに、それが耳に届く。
そこに、一片のわだかまりさえ見てとれない。
許されるはずがない。
そう思い、事実この罪が消える事はないだろうと考える一方で、その声に、全て救われたような気がした。
「‥‥‥‥‥‥‥」
嫌われても、呪われても仕方ないというのに。
それだけで、許してくれたとわかる、そんな声だった。
ふ、と笑みが零れる。
いつまでもウジウジとするのはやめよう。
大切なのはきっと、これからどうするかなのだ。
少しは、彼女の前向きな強さを見習おう。
とりあえず今は、
「おはよう、“平井さん”」
目の前の親友に、微笑んでおはようを言おう。
少年は拒絶した、少女の死を。
少年は奪った、少女から人間としての死と生を。
少年は喰らった。人間の、親友の存在の一端を。
真っ直ぐに歩いた少女は一つの終わりを迎える。
しかしそれは、形を変えてまた立ち上がる。
かけがえのないものを失って、少女はそれを奪った友を憎まない。
そして少女は、また歩きだす。
その胸に一つ、灯りを宿して。
(あとがき)
悩みました。今までで一番悩みました。
ここで平井は死なせた方がきっと作品全体の深みが出る。
平井は人間でこそだ、と思う人も多いはず。
大体、最初は死ぬ案の方が有力だったじゃないか。
でも愛着湧いちゃったしな。
原作やアニメでも死んでるし二次くらい。
いやいやいやいや
という葛藤があったんです。
結局甘さに打ち勝てなかった私をどうか許して下さい。
この作品の中で一番悩んだ分岐点でした。
死なせるか否か。すっごい悩んだのですが結局こうなりました。
余談ですが、私の『トーチ』の解釈は、
トーチは人間だった頃の記憶も意識も持っていて、その存在の力も、正真正銘本人の残りかす。
しかし、体は代替物として作られた物。
という事から、トーチは『別人や紛い物』ではなく、『本人の幽霊』みたいなものだと捉えております。
少なくともこのSSではそんな感じで行きます。
余余談ですが、エピローグタイトル『赤い涙』は、劇場版の平井ゆかり消滅の際の曲名。すごく好きな曲です。
他の面子の話は九章持ち越し。
ちなみに九章は完全無欠の日常話。鍛練はあってもバトルは一切無しです。
別名ヘカテーの夏休み。