「ふっ!」
「やっ!」
繰り出される右の拳を左手で止め、さらに右の掌底を繰り出す。
「むっ!」
眼前の少女はバックステップでこれを躱し、右のハイキックを仕掛けてくる。
僅かにかがみ、その一撃を躱し、さらに蹴りによって体が泳いだ隙を狙って、
「っは!」
拳を、少女の顎の先端に"かすらせる"。
「あ‥‥あれ?」
その一撃で少女はカクンとへたりこむ。
顎の先端を打たれると、脳からの信号を一時的に断たれるのだ。
「あー、悔しい! ヘカテーとかカルメルさんならともかく坂井君にやられるの何か悔しい!」
「そんな簡単に追い付かせないよ。っていうか何で僕だけ?」
平井と悠二、朝の鍛練。
シャナ、メリヒム、ヴィルヘルミナは本日は虹野邸にて鍛練である。
ヘカテーは‥‥
「で、出来た‥‥」
千草と一緒に朝ごはんの支度である。
「やったじゃない、ヘカテーちゃん!」
初めての、黒くない玉子焼きの完成である。
「しばらく見ない間に、随分と坂井家も賑やかになったね」
悠二の父、貫太郎が以前にはなかった光景、庭で少女とトレーニングをする息子と、息子のために料理を頑張る居候の少女に、感嘆の声を漏らす。
何か、別の家に帰ってきたみたいだ。
「悠二」
平井がトイレに行き、ヘカテーがパンを焼いている隙を見て、訊いてみる。
「ヘカテーさんと平井さん。どっちが本命なんだ」
「っぶ! ごほっ、げほっ、な‥‥な!?」
貫太郎の脈絡の無い突然の問いに麦茶を吹き出す悠二。
(ふむ)
「決めてないようだな」
「き‥‥決める?」
貫太郎の言葉に狼狽する。
ヘカテーの事は訊かれても仕方ないような気はしていたが、まさか平井までとは。
「‥‥‥‥‥‥」
まず、前提として自分はどうにも、『好きがわからない』。
ヘカテーが自分に好意を抱いてくれている事は気づいているが、『自分が』好きかどうかは今一つよくわからない。
平井に至っては異性として好かれていると考えた事も‥‥‥
『‥‥二人に、してもらえませんか』
‥‥多分ない。
大体、以前、自分に池との仲を取り持つ役を頼んだのは平井である(最近は池の事を忘れている事も多いが)。
思考が逸れたが、本命も何も、今や立場上、心情上、ヘカテーとも平井ともこの先ずっと一緒だろう。
それは、二人の在り様を変えてしまった自分の責任、そして望みである。
『‥‥貴方次第だと、言いましたから』
『‥‥私、楽しかった』
「‥‥‥‥‥‥‥」
悠二の思考はいつの間にか逸れていた。
これから歩む道、もう二度と味わいたくない、大切な二人を失いかけた絶望。
足手まといになるのが嫌で、強くなろうとして、戦ってきて、それなのに‥‥結局平井は人間を失った、いや、自分が奪った。
あれから、少しは強くなった。‥‥と思う。
それなのに、守れなかった。
この、『どうしようもない事』だらけの世界を‥‥
(これから‥‥どう進む?)
軽い会話のつもりで始めた問い。
そこから連想し、悩む悠二。
そんな悩みを持つ悠二の顔は、貫太郎が以前に見た顔とは全くの別物だった。
(‥‥変わったな)
そう、父、貫太郎が内心で感銘を受けるほど。
ヘカテーの黄色い玉子焼きを皆で食べ、褒められ、撫でられたヘカテーが大喜びではしゃぎ、食後に三人で人生ゲームをして、坂井夫婦が談笑して、そんな休日。
ピンポーン
来訪者来たる。
「お邪魔するわね」
黄緑色の長い髪の女、線の細い見るからに優男然とした少年。
そして涼しそうな薄手のポロシャツとジーンズ、の、完全無欠のペアルック。
『約束の二人(エンゲージ・リンク)』である。
「えっと、家の悠二のお知り合いの方でしょうか?」
初めて見る二人を、玄関先で応対する千草。
奇妙な容姿の人物が訪れたら息子の関係者、と決めつけてしまっているあたりはどうなのだろう。
いやまあ、実際そうなのだが。
「!」
トントントン
聞き覚えのある声に、ヘカテーが玄関に出てくる。
「フィレス」
いきなりの、"真名ではない"通称。
ヘカテーは、フィレスには以前の事で敬意を持っている。
「こんにちは。今日はちょっと、相談、かな」
「聞いてくれる?」
コクコクと頷くヘカテーを見て、千草は二人が不審者ではないと判断し、また綺麗な娘と知り合いになれると喜ぶ。
対して貫太郎、どんどん見せつけられる変容した坂井家に、流石に軽く嘆息した。
「メリヒムをどうにかしろ?」
フィレスの話をまとめると、ヴィルヘルミナの想い人であるメリヒムを『品定め』に行った際、合格ラインを著しく下回る結果を出したメリヒムとフィレスは大喧嘩までやらかしたらしい。
結局ヨーハンが割って入って水入りになったようだが。
とにかく、それでヴィルヘルミナを泣かせる非道な骨を何とかしたい。しかしヴィルヘルミナは一途すぎる。
どうしようか、という事らしい。
「あなたが"あれ"拾ってきたんでしょ? 協力して」
「"あれ"に迷惑してるのはこっちも同じだって。食い逃げするし、厄介事(メイド)押しつけて逃げるし、腕試しとかふざけた事言い出すし」
揃って辛辣な評価を下すフィレスと悠二。
「けど、カルメルさんが好きだって言うなら仕方ないだろ? 口出しする事じゃないし」
「それで納得出来るなら最初から相談に来やしないわよ!」
そんな事を言われても、こればかりはどうしようもない。
惚れた相手が悪かったと思うしか‥‥‥
「振り向かせるのです」
悠二の諦め全開の思考を、予想外の人物がぶった切る。
ヘカテーである。
「"虹の翼"が今、ヴィルヘルミナ・カルメルに冷たいのは、ヴィルヘルミナ・カルメルを見ていないからです」
『同じ立場』として、ヴィルヘルミナ救済に燃えるヘカテー。
「ま、全然見込み無しってわけでもないみたいだしね」
「「「そうなの!?」」」
平井の言葉に驚く悠二、フィレス、ヨーハン。
全く叶う目の無い恋に見えていたのだ。
「もう、よく見たらわかるっしょ?」
軽く呆れる平井。
お互い、呼び方が少し変わっているし、メリヒムのヴィルヘルミナに対するぞんざいな発言も、実は最近は本人には言ってなかったりするのだ。
まあ、ヴィルヘルミナも気づいてなかったりするのだが。
「よっし、んじゃちょっと一肌脱ぎますか。坂井君、ヘカテー、ファンパー、ちょっとだけ遅らせるよ?」
ここに、ヴィルヘルミナ恋愛推進委員会が結成された。
その頃‥‥‥
「はあ」
ため息を吐き、道を歩く少年一人。
夏休みの宿題もすでに終わり、やる事もないのでうろついている。
去年までは坂井悠二と遊ぶ事も多かったが、今悠二を誘うとかなりの確率で近衛史菜と平井ゆかりも一緒だ。
何か、自分だけ浮いてしまう。
いや、浮く=ちょっと目立つ、に惹かれないではないが。
「はぁ」
もう一度ため息。
(吉田さんは、坂井の事が好きみたいだし、頑張ってミサゴ祭りに誘ったのに気づいてももらえなかった」
「どうせ、僕なんて‥‥」
「女々しいのであります」
「脆弱」
いきなり、声を掛けられる。
(こ、この人‥‥)
いつかのプールの時に見た、確か平井家のメイド。
「相手から明確な拒絶も受けないうちから音を上げるなど、男子にあるまじき貧弱さであります」
「蒟蒻」
「な!?」
どうやらいつの間にか口に出していたらしい。
いや、そんな事より、今まで誰も気にも留めなかった自分の悩みを、聞いてくれている?
「ど、どうすればいいんでしょうか!?」
つい訊いてしまう。
「他者に多くを求めすぎなのであります」
「依存過多」
一蹴。
「け、けど僕、元々あんまり積極的な方じゃないんです。それでも二人で祭りに行こうって言っ‥‥」
「全く、芯の弱い、腑抜け腰抜けな男なのであります」
ひどい。っていうかこの人‥‥酔ってる?
「雲行きに怯んで怖じけづき、相手の出方ばかり伺って何も出来ない。まるで、自分の想いの先さえ定められない愚鈍な少年を見るが如し」
「だ、誰の事ですか?」
「坂井悠二」
「ちょっとそこに座るのであります」
言って、思いっきりアスファルトな地面を指差す眼前のメイド。
確実に酔っている。
「正座」
‥‥‥しかし、何故か逆らえないオーラが漂っている。
大人しく座る。
「男子たるもの、一度決めた事はどんな逆境にあろうと最後までやり通すもの。
でありながら、気づいてもらえないだの、他に想い人がいるだのと言い訳をして投げ出すとは‥‥そんな事で、愛の戦士たる七色に輝く男になれると思っているのでありましゅか!?」
「空気以下」
「そ、それは‥‥」
「戦うのであります」
「は?」
「吉田一美の前に堂々と正面から現れ、文字通り裸で想いの全てをぶつける。そこまでやってこそ‥‥」
「漢」
酔っぱらいの妄言とも取れる。
しかし、胸に響いた。
今の、情けない自分に一番必要なのは‥‥『漢』。
「や‥‥やります! 僕、漢になります!」
少年は走りだす。
いつまでも、弱いままではいられないから。
「あ、いたいたヴィルヘルミナ。ちょっと作戦があるからついてきなさい」
「しかし、そんな漢に対しても、諦めない女性こそが、『女』、でありましゅ」
「絶対一途」
「何ぶつぶつ言ってるの。ゆかりと悠二が作戦立ててくれたから、とりあえずボンクラを振り向かせてからね、品定めは」
妄言を撒き散らした給仕は、風の女に連れられて行く。
「この、変態メガネがぁー!!」
少年はその日、飛んだ。
空に向かって、高く、高く。
(あとがき)
最初は池はアニメ版みたくファンパーに出す予定でしたが、何を間違ったか路線変更。
まあ、ヴィルヘルミナサイド以外もちらほらと出‥‥せたらいいな。